安らぎの生活へ
 
                  くだかけ生活舎主宰 和 田(わだ)  重 良(しげよし)
一九四八年、神奈川県生まれ。東京教育大卒。生活実践家。くだかけ生活舎(神奈川県山北町)を足場に、子ども達の生活教育運動を展開。生活舎での共同生活(人生科や農作業中心)の実践をとおして、青少年や家庭の生活にさまざまなメッセージを送っている。ボランティアのお母さん達と共に活動する『くだかけ会』(1978年発足)の代表を務める。著書に「両手で生きる」「悩める14歳 そこから出発」「心いっぱいに育て」「子ども版 人生タネの本」ほか。
                  き き て     金 光  寿 郎
 
ナレーター:  神奈川県足柄上郡(あしがらかみぐん)山北町(やまきたまち)。丹沢山系に連なる山々が、夏雲の下に静かに横たわっています。今回お訪ねするのは、JR御殿場線山北駅から北へ皆瀬川(みなせがわ)に沿って山道を上ることおよそ六キロ、標高四六○メートルの所にある「くだかけ生活舎」です。山北駅から徒歩で九十分、車でも二十分かかる不便なところにある「くだかけ生活舎」は、現在の主宰舎和田重良さんの父重正(しげまさ)さんによって、若い人々のための生活道場として建てられたものです。和田重良さんは、一九四八年(昭和二三年)生まれの六十三歳。東京教育大学で学ばれ、父の志を継いで、私たちの心が安らげるよい生き方を人々に伝える活動を続けている方です。生活道場「くだかけ生活舎」の「くだかけ」とは、鶏のことで、夜明けを告げる鶏のように人生の夜明けを自覚してほしい、という願いが込められています。創立者なき今もその志は引き継がれています。
 

 
金光:  ここでは今どんなことをなさっていらっしゃるんですか。
 
和田:  ほとんど毎日農作業。若者が畑をやったり、田圃をしたり、主に養鶏ですね―自然養鶏なんですけれども。そんなことをして、とにかく手足を動かすという、そういうことをやっていますけれども。
 
金光:  田圃というと、下の方に水田もあるんですか。
 
和田:  ええ。水田もありまして、それも一生懸命無農薬で作っていますから安心して食べられるという。
 
金光:  そうすると、かなり自活的な要素があるわけですね。
 
和田:  僕はほとんど何にもしないんですけれども、若い人たちが自給自足に近い―この山ですから猪や鹿も獲れますので、もうほとんど自給自足です。
 
金光:  そうやって自然を相手に農業をやっていると、若い人たちがどういうふうに変わってくるんですか。
 
和田:  それは先ず顔付きも変わりますし、逞しさというのも―おそらく身体じゃなくて心の方の変化だろうなと思うんですが。
 
金光:  顔付きまで変わってきます?
 
和田:  ええ。もう変わりますね。ほんとに初めはしょぼっとしたような顔で来るんですけれども、それがだんだん安心してくるのか、〈あ、ここに居ていいんだ〉と思うのか、もの凄く生き生きとしてきて、もうシャキッとしてきますね。
 
金光:  時間割なんかが決まっているわけじゃないんですね。
 
和田:  もうまったく決まってません。で、自分で気付くということが中心のテーマですから、それこそ朝起きて、すぐ何をするというのを自分で行動していくという。言われてやる―初めはそうなんですけども―言われてやるというよりも、気付いていくということ、そっちの方が大事だな、と思っていますけど。
 
金光:  もう少しそのお話をゆっくり聞かせて頂きたいと思います。
 

 
金光:  和田さんは、ここで暮らしていらっしゃらない時に、下の方へ下りて、例えば去年ですと、横浜で月一回「安心」についての講座を十何回続けていらっしゃった、ということを伺ったんですが、安心についてどんな話をされてきたんですか。
 
和田:  そうですね。もともともの凄く不安が強いものですから―自分自身が不安が強くて、安心するということがどんなことなのかな、ということをずっと求めてきていまして、ただここに来る子どもや若い人たちも、凄く不安が強い。世の中全部が不安な状態なんですけれども、そこで安心というものは、なかなか掴まえどころのないものでして、形もないものですから、これがあったら安心だというのはなかなかないんですね。これは人間のこういう意識の世界というのは複雑にできていますから、知的にものがわかるという。ここが最優先するわけですね。知的にものがわかるという、そういうことが大事に大事にするわけですけれども、そこから奥というのは、どうもまた別の領域でありそうだぞ、という、そんなことがありますね。ですから「知」と「情」というふうに分けられるのか、分けられないのかわかりませんけども、それをちょっと開けてみると、今の子どもや若い人たちが置かれている状況というのは、「知で囲う」と言いますかね、そんなふうなところでもの凄く窮屈な、そんなことになっているのかな、と思うんですよね。
 
金光:  今具体的に学校へ行っている子どもたちがいると、中学校なら中学校で、序列があって、成績の良い子は良い学校へ行って、良い大学へ行って、また大きな会社に入るとかね、そういう段階は知的にわかるわけですけれども、で、自分もそれには着いていけないということはわかるわけですけれども、そういうところで、いわば不安いっぱいになった人がここへ来る。それで自然の中で農業なんかしていると、そういう世界から一応切り離されるわけですね。そうすると、そこをもう切り離した中での生活ですと、そういう今までの不安のとことは別の世界で暮らす生活スタイルというのができてくるわけでしょう。
 
和田:  そうですね。そういうことを「安心」というふうに言えるのかなと思うんですが、その安心を掴まえようとしてもまだまだ不安がいっぱい出てきますけども、余分なことを取り去っていける。例えば成績評価―人から見てやっぱりいろんな子が来ますけれども、「お前はもうダメじゃないか」と言われて、ほんとに苦しんできたりしますよね。そういう人たちが、自分の居場所と言いますか、〈あ、ここはそんなふうに人を見ていないんだ〉という、そんなことだって。ですから最近もちょっと面白いことを考えまして、人間の生活というのはやっぱり創造的であるという。ものを創っていく、ものを創りだしていく。これは畑や田圃やなんか鶏の世話とかしているんですけども、そういうものも作るんですけれども、生活全体は創造的になっていくという、そういうところで一つ不安が解消していくんだな、というふうに思いますね。それは別の言葉でいうと、「自分ということをはっきり掴まえていくことができる」ということだと思うんですね。この間もちょっと面白い質問を書いてきた子がいましてね―女性ですけど、「ここは重労働ばっかりなんだけども、重労働は嫌いじゃないけど、その重労働してどうなるんですか?」という、そういう質問なんですね。凄く面白い質問だな、と思ったんですね。確かに朝から晩まで―これは多分お家に居たら、暢気にそこら辺でゴロゴロしてゲームでもやっていればという、楽な道と言いますか、そんなふうなことだろうな、と思うんですけれども、ただ僕としては、それは重労働しているのではなくて、「精一杯・力一杯やってみよう」という、そういうところ、そこを体験していないわけですよね、今の子たちは。だからその辺のところは、例えば知的に頭の中だけで、例えば成績評価とかされて、そこでもの凄く気持が焦って、どうしても落ち着けないという、そんなふうになりますね。だから、一度ほんとにちょっと大変なことなんですけれども、「力一杯・精一杯やってみよう」という。精一杯やってみるという、そこを味わってみたら、そこで初めて自分というものが見えてくるのかな、というふうに思うんですね。ですから気が付いたら、世間評価みたいなものではなくって、「自分で自分のことを気が付いていく」という、そういうところにいって、落ち着いた顔になってくるんですね。それからまあ面白いのは、お家にいると引き籠もって部屋から出て来れなかったような人も、たまにはそういう人が来て、やっていくうちに、「自分で何したらいいのか」というのに気が付いていくという。そういうことで、「あれしなさい、これしなさい」ではなくて、気が付いていくことによって、それを精一杯やっていくというと、学校的なところだと、「こうしなさい」と言われたものをやらなきゃならない、という感じなんですけど、そうじゃなくて、ここを精一杯―意味はわからなくてもいいんですね。意味はわからなくても精一杯やってみるという。大変ですから薪割り一つにしても、そんな経験一つもないわけですから、それをやってみるということで、力一杯やってみる。そこで必ず行き着くところがありまして、それは、「俺って何だろう。私って何だろう」という。「自分って何なんだろうか」という、そこですよね。そこが少しでも―それは答えがあるわけではないんですけども―少しでもそういうものを受け取れた時に、初めてホッとする、と言いますか、それを教育と言ったら―ほんとはそれが「意欲」という分野なんだと思うんですね。僕らはあまり意欲を奨励するわけではないんですけれども、「さあやろう」という、気になるという、そういうことが上手く引き出せたら、これはおそらく「情の分野」へいくんだろうと思いますね。
 
金光:  現在非常に知的に先ず理解して、わかったら、自分にとって良いことだとわかったら実行しようというか、先ず頭でわかりたいというのが、先ずどうも前面に出るみたいですけれども、「重労働って何のためになるんですか?」みたいなのに、「それはこうこうこうよ」と言っても、それは知的に理解できる次元とちょっと違うんじゃないかと気がしますし、そういう場合、ここの場合は、「それはこうだからこうしなさい」とか、なんか別に「こうすればいいんだよ」とか、「朝からこれとこれをすればいいんだよ」とか、そういう指図的なことはあんまり、そういう問題についてはお答えにならないんですか。
 
和田:  そうですね。ですけど、ちょっと慣れてくると、例えば朝起きられなかった人が―起こしませんから―ところがですね、「これは自分というテーマなんだ」ということを気が付いてくると―この間面白かったんですけど、僕は早く目が覚めちゃうんですが、みんなは六時頃活動を始めるんですけど、五時頃に二人の若い者が草刈りとかやっていましてね、「何でそんなに早く起きたの?」と聞いたら―後で聞いたんですけど―そういうことをしてしまって、自分の時間を作る、という。その余った時間で遊ぶんだ、という。生活というのは、それが創造的なんだね、創っていくという、そういうことなんだよな、と。そうするとほんとに気持も何も落ち着いてきて、良いこと以外思い付かないですね。ですからお互いに情をもって接していくという、そういうことですね。安心というそういうテーマでお話をしている時に、どうしても引っ掛かってくるのが、「孤立分断の生活」バラバラという。
 
金光:  生存競争の負けたらお終いみたいなところがありますからね。
 
和田:  ですからほんとにバラバラで孤立分断の生活をしていく。ただ得だけで、そういうこう心のケチなものを出してくるような、そんなものなんですけれども、そういうところに雁字搦めになっているという。そのバラバラの孤立分断じゃないお互いが情をもって接していくという、そういうことが見えてくると、これは面白いですね。ほんとになんか面白いんですけど、「今時の若い人はダメだ」というけど、ここに来る人たちはみんな良い人ばっかりでして、年寄りの世話、
 
金光:  和田さんのお母さんの、
 
和田:  世話とかですね、これは年寄りの面倒を見るなんていうのを、あれほど情をもって接することができるのか、ということを年中目にします。小さい人は小さいなりに、大きい人は大きいなりに、お互いがあまりバラバラではないという、そういうふうなお互いの関係を作っていくことができていく。これはやっぱり安心の道なんだろうな、と思うんですが。
 
金光:  昔からよく「一つ釜の飯を食う」というような言葉があるようですけれども、ここへ外から来た人に、「よく来たね」とか、それから「よかったね」とか、先ずそういう言葉をお掛けになるそうですね。どんな人が来ても。
 
和田:  そうですね。僕はちょっと口癖になっていまして、いろんなことが、どんなことが起きても、どういう理由かわかないんですが、「よかったね」とつい言ってしまうという癖がありまして、で、それを言っているうちに、だんだんわかってくることは、「よかったね」って言えるということは、「お互いが深く肯定しあう」という。「肯定できる」ということが、小さい頃からの体験としてあまりないというとこがありますね。それは教育という分野の「幸せ感」はちょっと間違えたんだと思います。幸せ感が否定から入ってくる「お前、これができないじゃない。あれができないじゃない」という、いつもそういうものに脅かされているという、そんな感じですね。で、僕はここは変な話ですけども、不良っぽい子も来れば、引き籠もりの人もいれば、学校へ行っていない人もいれば、大人でも四十代、五十代でもほんとに悩んだり苦しんだりしている人たちが来ますよね。そこで何事にも「よかったね」という肯定の言葉から、こっからまた引き出されていくものがいっぱいあるんだという。もう一つは、「よく来たね」というのは、「受容する」ということですけど、常に拒否されているというか、居場所がないみたいな人たちもいるだろうな、と思うんですけど、僕はこの山の中ですから、一緒に生活できる人もあんまりいないんですけれども、でも基本的に「よく来たね」とか、「よかったね」という、それを合言葉―愛の言葉だというふうに、僕は何でもできるわけじゃないんですけれども、そういうことがもっといろんな人が、〈ああ、そうか。よかったね〉と言えばいいのか、と思ってくれたらいいなと思っているんですけどね。
 
金光:  みんな個々バラバラで、ほんとに連帯感というか、心の通じ合うようなところは割にそういうところから隔たっている世界で苦労している人が、苦しんでいる人が見えるようですけれども、その個々バラバラではない世界に気が付いて貰うというか、それはどういうふうに工夫なさっていらっしゃるんですか。
 
和田:  例えば子どもが学校へ行かれなくって困っている状態、そんなことを悩み事としてもっているお母さんたちがいますよね。そういう人を見ていると、例えば、「見ていない」「聞いていない」という、そういうことがちょっと感じられるわけですね。子どもの話を最後まできちんと聞いてあげていない、という。これは聞いてもらっていない側の人にしてみると、もの凄く不満が残るものですよ。それが小さい頃の体験だとすると、思春期になって、いろんな悩み事に―悩みはいいんですけれども、正しく悩めばいいんですが―それが不満の塊みたいなもので、いろんな症状を起こしてきているという、そんなことを思うんですね。ですから「いのちは一つだ」ということをわかっていくのに、一つの具体的な指針として、「よく見る」「よく聞く」という、こういうことが大事だなと思って、子どもたちが、初めて来た人たちのいる時には必ず言うことなんですけど、「人の話はよく聞く」という、そういうことをいうわけですよね。それは「言うことを聞く」ということではなくって、「聞いてあげる」というか、「最後まで聞いてあげる。この人は何を言おうとしているんだろう」ということを思うとかね。それからその辺の花を見たりするんですけれども、それもただ見るだけではなくて、一生懸命見てみるという、そういうふうなことをやってみるということは凄く重要なことだと思うんですね。で、家(うち)は鶏飼ったり犬飼ったりしていますから、犬や鶏は言葉をもってませんので、その犬や鶏が、何を言っているのか、何を伝えようとしているのか、ということを受け取っていく、という。これは言葉のない世界で体験していく、ということが凄く大事だと思いますね。「言葉のないのに聞いてあげようがないだろう」と思うかも知れませんけど、でも僕らは、例えば一つは、「いのちの世界にいるんだ」というふうになったら、これは言葉を越えてお互いに受け取りあっていくという、そういうことがあると思いますね。僕はそれを最近は、「いのちの満足」と言っているんですね。いのちの満足ということを経験していくことは大事なことだな、と思うんですね。
 
金光:  普通は「満足」というと、何か欲しいと、こうしたい、と。それが手に入る。その通り自分がしたいと思ったことができると満足ですけれども、これは「いのちの満足」とは違うわけですね。
 
和田:  それは「欲望の満足」と僕は思っていまして、そしていのちの満足をしてこなかった子たちが、大きくなって、その欲望の満足に取り憑かれて、そしてそれを追い掛けていく、というような混乱状態が起きていくのかな、と思うんですね。ですからもう一度、例えばここへ来た人は重労働と思うかも知れないけども、力一杯やってみるというと、そこに妙に満足があるわけですね。何だろうと思うぐらい満足があるわけですね。力一杯畑作業をして、そして夕方ほんとに息とつくみたいなところで、ホッとした時に凄く深い満足があるという。
 
金光:  達成感みたいな。自分の、ああしたい、こうしたいというのとは違う意味での達成感みたいな、
 
和田:  あれは勉強にもあると思うんですよ。今の子どもたちは勉強嫌いですから、あれもいつもやらされている。本当のいのちの満足の方にいっていないんだろうな、と思うんですね。ですからちょっとしたことなんですけれども、そこが越えられたら、そうしたら深い満足というか、それは「いのちの満足」という分野なんだろうな、と思っているんですけどね。
 
金光:  さっきおっしゃっていた和田さんのお母さまは、今九十六歳だそうですけれども、若い子どもや小さい子が、そういう九十歳越えたおばあさんの世話をする。「世話をしなさい」というんじゃなくても仲よくする。これはしかし、これはなんかしたい欲望と違いますね。
 
和田:  そうだと思いますね。こうしてやったらいくら得だとか、そういうものではないですね。ほんとに情の分野で働いていくんだと思いますね。そして自分が、深い満足がいくということを体験しているんじゃないかな、と思うんですね。そこは凄く温かい世界だと思うんです。ですから、小さい頃にいのちの満足を体験できなかった人たちの様子を見ていると、何かといったら先ず一つは、さっき言ったような、「話を最後まで聞いて貰えなかった。自分を丸ごと受け止めて貰っていない」という、そういう不満がありますね。それは、もう一つの言い方をすると、自分でやりたかったものを、自分でできなかった。それを常に奪われていた、という、その不満がずっと残っていきますよね。それは今の子どもたちはゲームとかそういうので一生懸命なんか欲望の満足の溝を埋めようとしていますけれども、ここに来る人たちはそこから解放されて、畑やなんかやって、それこそ携帯電話とか持って来る人もいるけど、ほとんどそれをどっかへ置いてあって、何も使わずにいたりするわけですから、そこにやっぱり深い満足に到るということはできることだ、と思うんですね。それは、「みんな一つのいのちを生きているんだ」という、そういう安心感だと思いますね。
 
金光:  人間の心というのは、まあ一言で「心」と言いますけれども、一重ではなくて多重構造かも知れませんけども、大きく分けると、そういう一部の個人的な欲望の世界と欲望の心と、もう一つは、私たちが生きているというか、あるいはもう一ついうと、生かされている世界。その生かされている世界のことを「いのちの世界」というか、そういう言葉で表現されているのかな、と思うんですが、そういう理解でよろしいんでしょうか。
 
和田:  これはまったく難しい話なんですけれども、やっぱりそこのところは、二重にできていて、もう一つ奥を探ってみると、その奥にこの「いのちの世界」というものがなんかあるような、それは何とも理屈で説明ができないものですから、最近はちょっとふとこのお母さんの物語を書きましてね、その主人公が何年も何年も子どものことで苦しむわけですね。で、苦しんだあげくの果てに、一つも答えが見つかってこない、という、そんな経験をするわけですね。まあ大変な人がほとんどそうなんですよ。みなさん、子どものことで悩んだり苦しんだりすると、「解決しよう、解決しよう」として来るわけですから、僕の話を聞いても、それじゃ遠回りしているだけで、解決の一つのヒントになりません、みたいになってきますね。ところがある人は、そこを繰り返し繰り返し相談に来てまして、そしていろんなところにも相談に行ってみるわけですけど、それでもなかなか上手い手が見つからないんですね。子どもはどんどん深みにはまってしまうという状況になるわけですけど、ところがある日ですね、そこの柿の木の葉っぱについた朝日を見て、「あ、綺麗!」って、感動した人がいましてね。
 
金光:  柿の葉が朝日に照らされているわけですね。
 
和田:  柿の葉の朝露に光が当たって、それを見た途端に、〈あ、綺麗!〉と思った途端になんかホッとした、という話が、それをちょっと小さな物語(『「母の時代」の幕開け-ある家族の物語- 朝露』)にして、みなさんにお配りしたんですね。もう何年も前に書いたものなんですけど、ある人がですね、「先生、あれは、主人公は一体何に気が付いたんですか?」という質問をしてきまして、それで、「その気が付いたことを教えてください」という。これがまたここで知ろうとするわけですね。それで、「じゃこれなかなか難しいんで、二日続きで、その講座をやらせて」って。「それに二日間付き合ってくれる人だけ来てください」と言ったら、八畳間ぐらいの部屋にぎっしり来ちゃったんですよ。それで二日続けて、息苦しくなるぐらい、ほとんに隙間がないぐらいお母さんが詰めかけて来て、それで面白いんですよ。その話が実は智慧の世界の話なんですが、「直覚(ちょっかく)」って―じかに知るという世界ですね。頭を通して、「これは美しいんだ。これは綺麗だ」という話ではなくて、それを見た途端に、〈あ、綺麗!〉って。
 
金光:  直(じき)に知るという、
 
和田:  そうそう。「直覚の世界」という。これをそれ解説するのに大変なんですけど、解説ではどうにもならないので、で、でもそんなお話を二回に分けて、というのはこっちも作戦がありまして、一晩温めて貰わなければいかん、という。そして温めて貰って、次の日の―面白いんですね。ちょうど十時から十二時までの間、僕が喋ったんですけど、ある引き籠もりの子を持ったお母さんが、十一時まで苦しくって苦しくってしょうがなかったのが、十一時を過ぎた途端に、「上半身が楽になった」と、そう言った。これは面白いのはですね、頭が楽になったと思いますね。人間の頭というのは、どっかでそういう仕組みになっていると思います。ですから二重構造で、もう一つは、「智慧の世界」。それに気づかせるための苦しみというのは必ずあるんだろう、と思います。「そういうことだ」ということを、誰も解説してくれないので、で、学校へ行かない子は行かせよう。不良は不良を直そう。引き籠もっている人は引っ張り出さなきゃ、という、そういうことを解決とするわけですね。そうじゃなくて、あの人たちは「智慧の世界」という、それを一つの大きな答えとして待っている、ということだと思いますね。もの凄く重要なことなんですけれども、言葉でなんとも伝えがたいという、そこが「直覚」という、じかに知る、という世界かな、と思うんですが。
 
金光:  そこのところに気付かれた言葉だろうと思うんですが、ここの壁に掛かっていた額に、
いのちの世界では
たのしみの中にも
苦しみのなかにも
悦びがある
    重正
 
という和田重正様―お父さまの言葉がありますけれども、今の「直覚の世界」というのは、「知的な世界」というよりも「いのちの世界」。その「いのちの世界」の悦びというのは、楽しみだけが悦びではなくて、苦しみの中にも悦びがある、という。
 
和田:  これもわかりにくい話です。一体何を言っているんだろう、と。楽しみも苦しみも悦びがあるというのは、これは何だろう、って。長年僕も、最近ちょっと、〈あ、そうかな〉と思うような。有り難いことに、毎日毎日あまりいい条件の生活をしていませんので、そういうことを繰り返しているうちに、〈あ、そうかな〉と。子どもたちは案外知っているんですよ。子どもは知っているんですよ。ただ知的な教育で否定されているだけなんですね。どういうことを知っているのか、と言ったら、僕は上手い言葉はないんですが、「苦楽一元」または「苦楽一如」という。こんな言葉あるかどうか―絶対ないと思うんですが―自分でそういう思っているんですね。「苦も楽も元は一つだ」と。これは、例えば子どもが駅からここまで、暑い真夏でも、寒い真冬でも歩いて来るわけですね。そうすると、九十分かかる。今時山道を九十分歩いて行かなきゃ到達しないようなところへは行かない、となるわけですよ。ところがこれやって見ると、その大変さが凄く楽しいっていう。その楽しさというのは、苦も含めて、元は一つで。で、一つの意味なんだ、ということがわかったら、それは悦びなんだという、そんなふうなことは、子どもたちは知っているんだ、という。大人はダメですね。特にこの科学文明というものを創ってきて、そして楽をしよう、楽をしよう、として、途中省略していくという。そういうことによって、心が一つも満足できなかった。それは悦びに到らない、ということですね。科学文明というのは、何でも思い通りにしてやろう、というところにもから出発しているんじゃないかと思うんですが、その思い通りという、理想的には思い通りにしてやろう、といっても、車だって便利ですよね。とにかく乗ってしまえば、どっかへ到着できる。あっちこっち行きますけど、新幹線に乗ってしまうと、アッという間に神戸とか行っちゃうんですね。そうすると、途中省略できて何の苦もなく行けるんですけど、そういうものが、心にはあまり悦びにならないぞ、という。それは、「思い通りにならない世界」というのは、どうしたらいいのかな、と言ったら、これはもう一方で、「お委せするしかない」という。そこに「安心がある」と。じゃ、お委せするにはどうしたらいいの、という。そしてまたそこが、一大テーマになるわけですけれども、人間の頭はなかなかお委せということができなくて、やっぱり思い通り、思い通りの世界で、なるべく楽して、途中を省略して、で、結果だけ得よう、という。これが教育にまでそういう考えが蔓延(はびこ)っていますから、そうするとほんとに窮屈なものになってしまうんですね。
 
金光:  かえって苦しみのところへ到達するという。
 
和田:  悦びというところに至らないような。もう一つだからお委せできるということが、これが大事なことになってくるのかな、と思うんですね。
 
金光:  今おっしゃっているような世界へ、お話を聞いていると、どうすればそういう広い世界というか、楽しみ苦しみ、どっちにしたって悦びがある、というような世界には、それは誰だって行きたいと思うでしょうけれども、さあそこでどうすれば、という疑問が起こるんですが、実は私、和田さんのおお父さまの重正先生のところに、最初にお邪魔した時、何十年も昔ですけれども、その部屋の鴨居の前に、半紙に言葉が書いてあって、「三つのかぎ」という言葉が書いてあって、
 
ケチな根性はいけない
イヤなことはさけないで
ヨイことはする
 
という言葉がありましたよね。それで今度お邪魔しましたら、大きな額になって、この書が掛かっているのを見て懐かしいなと思ったんですが、これは意外に深い意味がある。最初は何かと思ったんですが、これはどういうふうに受け止めればいいでしょうね。
 
和田:  僕らも子どもの頃から、「ケチな根性はいけないんだ」ということを言われましてね。これ一回掴まってしまいますと大変なんです。どこまで行ったってケチなんか無くなりませんから。「ケチな根性はいけない」と言われているのが、こうなんか辛くて、〈あ、自分はケチなんだな〉と思っていまして、それで「嫌なことは避けないで」と言われると、嫌なことだらけですから、嫌なことなんかしたくない、と思いますよね。嫌なことはしない方がいいんだ、みたいにいう人たちもいっぱいいるし、きっと別の意味だろうな、と。三つ目に、「よいことはする」と。「よいことを」なら聞いたことがあるんですよ。ところが「よいことは」と書いてあるんです。「よいこと」ということを自分の中で決めなければならないのか、と。これは難問でして、一体どうなっているんだ、と。おそらく父はこれを書いた頃は、まだ五十代だったんじゃないかと思うんですが、僕はその歳を越えちゃいまして、なんかこのケチな根性というのは凄く難しいな、と。きっと何かあるだろうな、と思ったんですね。最近になって、ふと思ったんですが、これは引き籠もりの人たちからたくさんヒントを貰うんですね。で、この「三つのかぎ」は、おそらく「いのちの満足」に呼び掛けている言葉だ、というふうに、こう思ったんです。引き籠もりの人たちというのは、僕はその専門家じゃないんで知りませんけど、でもいろんな相談に来る人がいますので、聞きかじっているんですが、あの人たちはこう狭い空間で、そこでジッとしているわけですね。何が悲しいのか、そこでずっといて、周辺の人にこう当たったりなんかしながら、自分も困っている。人も困っている、という。このことが凄くヒントになると思うんですね。ちょっと「いのちの満足」という、そっちに目を向けた時に、〈あ、ケチな根性はいけないのか〉ということが受け取れた時に、スッと出てくるという。その自分が発揮されていく、ということを経験していく人たちが、ポツポツ出てきたんです。これは凄い長い期間かかるわけですけども、そういうテーマなんだよ、と。自分ということは、こんなふうにケチで、そして自分と他を分け隔てしていく。守ろう守ろうとしている、という。その部分を直接解説しても通じませんので、まあほんとに長い時間かけて、そういう人たちと―なかなか直接は聞いてくれませんので、でもこのところ急に何人かの人がそういうちょっと殻を破ってきたという。何件か出てきたもんですから、ですからやっぱりここが重要な鍵だったんだ、と。「いのちの満足」というところに呼び掛けていくことが凄く重要なんだな、と思うんですね。
 
金光:  そこの呼び掛けというのは、本人―引き籠もっている人にとっては、具体的には嫌だと思うことを今しているわけですね。自分は周りに外へ出るのは嫌だ、と。でもそういう嫌なことは避けないで、ということでもあり、それから自分で閉じ籠もっているんじゃなくて、もう一つ自分なりに、これができることをしよう、と。よいことはする、と。その辺の言葉は連関している、ということになるわけでしょうか。
 
和田:  そうですね。ひとつながりだと思うんですね。そこのどの部分からでもいいんですが、「嫌なことは避けないで」という、そういうことが一つでも、ちゃんと〈あ、そこを実行した時に、後が凄く満足できた。気持良かったんだ、と。それが悦びなんだ〉という。そんなことを実感して貰うという、そんなふうなことですね。それはまた一歩奥へ踏み込んでいくと、どういうことになるのかと言ったら、「自分自分と思ってしがみついていたものを手放して捨てていく」という、そういうところにいくのかなというふうに思うんですね。ですから「自分自分」と思ってギュッとしがみついているものが、パッと手放せた時に―引き籠もりの子を持った親御さんたちの講座で、一度「捨てる」という講座をやったんですよ。で、「捨てていく」という。捨てられないものを残して、捨てやすいものから順番に捨てていく、という講座をやったらですね、面白い人が一人いましてね、「どうしてもお金捨てられません」という人がいました。これはもうほんとに面白い人だなと思って、正直なのか、考えが足りないのかよくわかりませんけど、そんな人がいて、もうそれから三年ぐらい経っていますけどまだ来ているんですね。そして変わってきたんですよ。凄く面白いなと思ったんですが、そうすると、親の方がそういうふうに変わってくると、子どもの方も変わってくるという不思議な仕組みがありまして。で、しがみついていた自分というものを一つでも手放していけたら、そこはホッとできるという、そういう世界になっていくのかな、と思いますね。この七、八年引き籠もっていた人が、つい最近出て来るようになりまして、その人の場合は、親の方がまだ同じところにいるというか、闇の中にまだいるんですが、ご本人の方がそれを越えてしまって、それこそ今まで気分や感情に振り回されていた自分を一つずつひとつずつ越えていくんですよ。これは顔付きから変わってきまして、とうとうこの間は引き籠もるとは言えない状況になってきたぞ、というぐらい電車を乗り継いで来ましたね。それも今までは僕一人にしか会わなかったのが、他の人がいるところにも来るようになった。これはもうそれまでは恐いという、そういう気分や感情に振り回されていましたから、そこへしがみついていて、自分はもうこれなんだ、となっていましたから、そこはなかなか安心できなかったわけですね。そこをハッと、〈あ、そうか。自分ではないんだ〉という。これがもう繰り返し繰り返しですけれども、例えば「三つのかぎ」みたいなものが、これは大きなヒントになっていまして、そしてそれは例えばケチな根性というものを、一つでも―完全に捨てるわけにいかないんですが―一つでも越えてみたら、それは自分というものの「いのちの満足なんだ」という。これは奥が深いですけども、そういうことがちゃんと受け取れるようにできているな、と思うんですね。
 
金光:  言葉を書いて頂いているんですけれども、そういう「捨てて和やか」という言葉がありますけれども、そういう自分に関係がないわけじゃないけれども、自分そのものではない感覚とか感情とか気分を捨てて、そうすると余計な自分の取り囲んでいた変なものはなくなれば無くなるほど和やかな生活が、いのちの悦びに繋がるということですね。
 
和田:  なかなか「捨てていく」ということができませんけれども、一つでも捨てられたら、それはもう和やかになってくる。もう一つ別な言い方をすれば、「素朴な幸せ感」だと思うんです。今までは取り込もう取り込もうとしていた。あれも欲しい、これも欲しい、あれが足りないから、これで不幸なんだ、とずっと思っていたものを、一つひとつ手放していくというか、それができたらですね。捨てる順番ですけど、これ面白いんですね、取り戻せるものは捨てやすいんですよ。
 
金光:  なるほど。
 
和田:  一覧表を作ってみるとよくわかるんですよ。地位、名声、肩書き、財産とか、名前とか、自分とかといろいろいろんなことを項目にして出して、チェックとしていくんですね。そうすると取り戻しやすいやつは捨てやすいぞ、となるんですけれども、まあなかなかそういうことで自分というものを手放せないという。これはやっぱり一番最初の話になりますが、「知」と「情」の分野―知の分野、情の分野の複雑な仕組みなんだと思うんですね。「もっと大きなものに生かされているという、そこにホッとする何かを見付けていけたら、ほんとに安心していけるんだろうな」と思うんですね。
 
金光:  やっぱり変な話ですけれども、自分にくっついている余計な捨てられるものを捨てることができればできるほど安心の世界に近づく、ということも言いそうですね。よく先ほどにもありましたけれども、「重労働して何の意味があるのか」という、そういう意味。この頃生きていても意味がないことを感じる人もけっこういらっしゃるようですけれども、その「意味」というのはどういうふうに受け取ったらよろしいんでしょう。
 
和田:  これもまた凄く難しい話で、みな「意味」を、子どもは教育の中で、「理由」という形で教わっているわけですね。毎朝坐るということをやるわけですけど、これして何になる。なんか結果を求めたいというかね。そういうことではないことというので、じゃ、意味をどういうふうに受け止めていくのか、という。それはもうほんとに難しい話ですけども、これこそ「いのちというのはすべて意味が充満している」ということなんですけれども、その説明というのはなかなか難しくって、ここにこういうものがあるから、それはちゃんとこういう理由があって、こういう意味なんだよ、という、そういう解説が欲しいわけですね。ところがそういうふうにできていなくて、「意味はこのいのちの世界に充満しているんだ」という。そこがなかなか頭の世界で受け取れませんけれども、存在そのもの、僕らはこの宇宙と言ってもなんかよくわからないんですが、そういうものを認識して、そして存在という意味ということを頭の中で科学的に理解して、これで解ったんだと思っても、わからない世界がまだ九十八パーセントぐらいありそうだ、という、そういう解説がありますけれども、ほんとにわからないことだらけですよね。ただ意味ということを受け取っていくとすれば、これは「いのちの世界では、意味が充満している」という。だから「僕らが生きていること、そのものが意味なんだ」ということが受け取られるのかな、というふうに思うんですね。
 
金光:  そこのところは知的にどうこうというよりも、生きていると思っている自分が、生かされる力によって生きている、という、その自分の意識で掴まえられない世界、それを「いのちの世界」という言葉を使うと、そこと直結している自分だ、ということに気が付くことができると、それこそさっきおっしゃった「直接感じる世界」と、
 
和田:  「直覚」という、そういうことだろうと思います。ちょっと変な譬えなんですが、僕ら自然観察会というのを、早稲田の露木和男(つゆきかずお)(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)先生という指導者に来て頂いて、自然観察会というのをやっているんですね。これは凄く楽しいんですよ。何が楽しいかの?。人間って、知的にわかるということも悦びの一部なんですね。ただそれだけではそれこそいのちの世界とか、意味の世界とかということを受け取れない、ということがありますね。この自然観察会は、蝶々の名前とか、花の名前とか、どうだっていいんです。どうだっていいんですよ。先生がすぐ忘れちゃうぐらいですから。覚えるということが大事じゃない、という。ほんとに直に触れ合っていくという。そうすると、この蝶々はスジグロシロチョウなのか、モンシロチョウなのか、って凄く楽しいんです。もっと楽しいのは、〈あ、こんなに花や蝶やそういう世界の中で僕らは生きているのだ〉という、そういうことの悦びというか、それを満喫するんですね。だから自然観察会は凄く楽しいなと思って。頭の世界と、もう一つ別の、もう一つ奥の方の世界というのを、人間やっぱり頭の知的な悦びも間違いなくありますから、それがダメだというわけじゃないと思います。そこを悦びの軸として、そしてもっと奥の方の悦びという、そういうものを味わいていけたらいいなというふうに思いますね。
 
金光:  そこのところを文字にしてくださっているわけですね。
 
雲を見よう
花を眺めよう
いのちを
いのちを味わうんだ
 
これはただとにかく見ると。
 
和田:  これは僕が創ったんじゃないんですよ。父が子どもたちに節付けて歌わせたんです。雲を見ようという節が付いておりまして、やっぱり僕らは子どもの頃は何だかわからなかったですね。でも変な父親ですからね、いろんなことを子どもたちに伝えるのに、ただ見るんだ、という。いのちを丸ごと見るんだ、という。そうすると、そこは「生命という意味のいのち」もあるし、「存在というそれこそ意味の世界のいのちも味わえるんだ」という、そんなことを言ってね。ついでに言いますと、それは僕らは行き詰まって困った時に、それこそ「お委せになる」という。力が抜けますね、お委せになると。お委せができるというと、ふっと力が抜けますね。そのお委せになる術みたいなのを教わっているんですよ。緊張しますから。緊張して、僕らはほんとに乗り物に乗るんでも、新しいことを言って人に会うとか、それこそ毎日のようにどっかへ行って喋っているんですけど、でもそうやって人にお話しなければいけないとかとなると凄く緊張しますね。子どもの頃に、それはちょっと称え事をすれば簡単に楽になるんだ、みたいなことを教わったですね。それはお呪いで、本に書いてあるんですよ。そのお呪いが、「こういうことをするといいんだぞ、解決するぞ」みたいな。だからそれを読んだ人から、「あれは一体どんなお呪いでしょうか」と聞かれるんですけど、答えが書いてないんです。
 
金光:  どういうお呪いですか。
 
和田:  それが宿題です。
 
金光:  そうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十三年八月二十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである