私にとっての3・11―命の世話≠ニ向き合う
 
                      哲学者 鷲 田(わしだ)  清 一(きよかず)
一九四九年、京都市生まれ。一九七二年、京都大学文学部哲学科卒業。関西大学文学部哲学科教授、大阪大学文学部教授、文学研究科長・文学部長を経て二○○七年大阪大学総長。総長を退任後、大谷大学文学部教授。現象学・身体論を専門としており、ファッションを研究している。 また、大阪大学の教員とともに臨床哲学の実践のため数多くの社会活動を重ねてきた。著書は『モードの迷宮』『現象学の視線』『じぶん・この不思議な存在』『ちぐはぐな身体』『だれのための仕事』『「聴く」ことの力』『めいわくかけて、ありがとう』など。
                      ききて  品 田  公 明
 
ナレーター:  発生からおよそ半年が経過した東日本大震災。今も大きな爪痕が残る被災地に思いを寄せる一人の哲学者がいます。鷲田清一さん、六十二歳。五月には仙台に赴いて講演を行うなど、さまざまな場で震災からの復興と、人々との関わりについて提言を続けています。鷲田さんは、この八月まで大阪大学の総長を務めていました。総長を退任し、一人の哲学者として新たな道を歩み始めています。哲学者鷲田清一さんに、総長を務めていた大阪大学で東日本大震災に寄せる思いを聞きます。
 

 
品田:  鷲田さんは東日本大震災が起きてから仙台に入られて講演を行うなど、積極的に発言をされていらっしゃいますが、震災から五ヶ月が過ぎて、今何を感じられていらっしゃいますか。
 
鷲田:  やっぱり被災地であれ、あるいは放射能の飛散というのを心配されているかなり広大な地域であれ、被災の形というのが、いろんな形にばらけてきたというか、多様化してきたというようなことがあるような感じがしますね。避難所であっても、もう避難所を後にされた方、仮設住宅に移られた方とか、あるいは別の地域に移住された方とか、そして仮設に残られた方とか、こう人々が散らばっていっているということもあるし、それから被災からの復興、あるいは復旧の作業というのも、土地によって、随分地域によって違いますのでね、いろんな被災の形が凄く多面化してきているという印象が強くありますね。
 
品田:  関西は十六年前に阪神淡路大震災という被災をしているわけですけれども、その関西から東北をご覧になられて、やはり思いが強かったですか。
 
鷲田:  そうですね。ある一点で一致しているのに、ビックリした方があるんですが、それは地震が発生した時刻なんですよね。午後の二時四十六分でしたけれども、阪神淡路大震災が未明の五時四十六分で、最初は報道に触れた時に、「四十六分」という時刻の符合にほんと驚いてしまいました。なんか背筋が凍り付くような感じが最初ありましたけれども、「震災」という共通点はあるにしても、被災の状況というのは随分違うな、というふうに次第に思うようになりましてね。先ず何よりも被災した地域の広さというのが全然違いますので、まあ阪神淡路大震災の場合には、基本的には兵庫を中心とした近隣地域までですけれども、今回の被災地というのは、関西で言えば、大阪からそれこそ山口県ぐらいまでの広大な地域ですし、それから神戸の場合には都会でしたけれども、今回は海岸沿いのいろんな町や村という、都心部とは異なる地域で非常に広い範囲にわたって起こったということも違いますし、勿論震災と津波が、今回被害の中心だったということもあります。いろんな点で実は被災の形が神戸の時とは違うな、という思いはあります。
 
品田:  離れた関西から東北の惨状というものをご覧になって、どのようにしていこうというような思われたんでしょうか。
 
鷲田:  最初はほんとに、とにかく大変だという思いだけで、これは私に限らず、被災地外の人はみな思いにとらわれたと思うんですが、何か私もしなければ、と思うんですけれども、あの時はまずより必要なのは生活物資ですし、食料を初めとする生活物資、それから現金ですよね。だからそういうものを職場を中心にして集めてお送りすること。それからいろんな生活物資が、十分に東北に回るように、我々震災の地域から離れたところでは、できるだけムダな使用をしないように、という。消費を控えるように、というような思いはありましたけれどもね。ほんとどうしていいのかわからないということがありまして。被災した地域と、そこから遠く離れた関西との間というのは、勿論空間的にも隔たっているんですが、心理的な隔たりというものもやっぱり否定し難くあるように思うんですよね。というのは、現代社会というのは、ある意味ではテレビとかインターネットと言った遠隔メディアというのがもの凄く発達しているわけですから、私たちは日本に限らず、世界で今起こっているさまざまなことを映像として目の当たりにしているわけで、そういう意味では情報としてはすぐ災害の間近にいるわけですけれども、実際には空間的には大きく隔たっていてですね、今すぐ、例えば何とか私にもできることがある筈だ、という気持はあっても、とってもそれはすぐに実行に移せないという、そういうもの凄く大きな隔たりというのはありますよね。でも隔たりというのは、些細なように見えて、もの凄く大きくって、例えば私が、介護施設で経験したことなんですけれども、ちょうど昔ユニットケアという、看護師さんと、それから介護スタッフの人と、要介護者の人たちとが、一つの家族のようにしてユニットを形成して、そういう介護の形というのをやろうという運動が起こった頃の話なんですがね。その時に、それまでは個室で、あるいはグループで、非介護者の部屋があって、そして廊下があってという、そういう形だったんですよね。そういう時に、例えば食事の時でも運ばれるスタッフの人は、高齢者の方に向かって、「今日の、美味しいですか?」って聞かれるんですよね。でもユニットケアになると、介護する側もされる側も、同じ食事を同じ場所で食べるんですよね。そうするとそこでは決して「美味しいですか?」という問いは出てこないんですよ、スタッフの方から。そうじゃなくて、同じものを食べているんですから、ウンと一口口にしてフッと目を合わせて、「美味しいね」という発言になるんですよね。だから「美味しいですか?」というのは、凄い隔たりを前提にしている。つまりその食事を食べられる方と、それを提供する側という隔たりがあるんですが、ユニットケアだったら、作る人、食べる人がみんな同じ食べ物を共有しているということで、決して「美味しいですか?」とならない。その隔たり、その違いというのはもの凄く大きくって、だから被災地から離れたところで、自分たちも何かしなければ、あるいはしたいという思いがあっても、どうしてもそのさっきの介護施設というところの「美味しいですか?」というのと同じ調子で、「大丈夫ですか?」という、あるいは「頑張って下さいね」という言葉になってしまう。それ自体がもどかしいというか、あるいは後ろめたいところがあって、自分はその同じ苦しみをしていない、あるいは自分は同じ環境の中にいるわけじゃないという、その隔たりがなんか多くの人の疚(やま)しさというか、後ろめたさみたいなものを、どうしても残してしまうということがありますよね。
 

ナレーター:  四月上旬、関西から東日本大震災で被災した人々に向けて、応援のメッセージが送られました。関西縁(ゆかり)の著名な文化人や経済人が名を連ねたこのメッセージ。呼び掛けたのは鷲田さんでした。そこには被災地の人々との心の隔たりを、少しでも埋めようという思いがあったと言います。
 

 
品田:  中には、「居ても立ってもいられずおせっかい≠フうえで」という言葉も入っていましたけれども。
 
鷲田:  お節介なんですよね。こういうメッセージ届けても、それでどうなるという思いもあって、凄くその言葉使いには迷ったんですけれども、ただ遠く離れたここにも心配している者がいるよという、それを届けることというのは、ある人にはわずかながらでも支えになるかも知れないという。自分が心の支え、生きる支えにしてきたこの文章、あるいはこの本を書いてきた人が、見てよ、という声を届けてくれるということは、その作品を愛読された方にとっては力になるんじゃないかな、というふうに思いましたね。
 
品田:  自分たちを見守っている人たちがいるよという、このメッセージを伝えることというのは、非常に地元の方は喜ばれたんでしょうか。
 
鷲田:  勿論避難所の方から、あるいは自治体の方からいくつもご返事頂戴しました。人間というのは、いくつになっても誰かに見守られていることで初めてできることってあると思うんですよね。例えば幼い子どもが初めて集団生活する時、例えば保育園へ行く時とか、初めて幼稚園に行く時って、最初はみんな物怖じして、親の手を握りしめたり、スカート握りしめたりしているものですけれども、「みなさん、集まりましょう」と言われた時に、絶えず後ろを向いてね、〈お母さん、ちょっとまだ見てくれているかな〉〈お父さん、まだいるかな〉というふうに、ちらちら後ろ見ながら見守ってくれている目を感じることで、逆に一人になれる。一人で行動できるというところがあって。だから人間って、この震災に限らず、どんな苦しい時でも、誰か見てくれている人がいるという、その眼差しというか、視線を感じるということが、頑張れる力になるということはあるんじゃないかと思いますけどね。でもお節介はお節介、こう思います。
 
ナレーター:  応援メッセージから一ヶ月後の五月、鷲田さんは、仙台で開かれた被災地の復興を考える集まりで講演を行いました。その時鷲田さんは意外な光景を目にしたと言います。
 

 
鷲田:  私は、五月の連休、仙台の方にお伺いしたんですけれども、ちょうど「せんだいメディアテーク」という文化情報センター、そこの図書館が再開する日だったんですが、その前に私は海岸沿いの被災地のところを見ていましたから、ほんとに図書館なんか人がお出でになる余裕なんかあるだろうか、って。こんな大災害の直中(ただなか)で、と思ったんですが、図書館がオープンする前から行列ができているんですよね。その人たちにとっては、被災地での、ある意味で共有している被災の時間ですよね。それとは違う時間の中に自分を置いてみたいという、あるいはまた職場でも避難所でも常に他人と一緒ですから、そういう中で片時でも一人の中に閉じ籠もれるというか、自分の時間の中に浸ってみたいとか、そんな思いもあったと思うんですね。だからほんとにまだ電気も完全に復旧していない仙台の街で、図書館の前で行列ができたというのは、私にとってはそれは凄く驚きでした。だからそういう被災の最中にあっても、人は求めるものというのは、人によってやっぱりさまざまだなという思いをその図書館でしましたね。
 
 
ナレーター:  鷲田さんは、これまで顔やファッション、国家など、ユニークな切り口で哲学の可能性を探ってきました。その中で提唱を始めたのが臨床哲学。さまざまな現場に出向いて当事者の声を聞き、物事の本質を掴もうとする研究方法です。臨床哲学を提唱するきっかけとなったのは、阪神淡路大震災でした。
 

 
鷲田:  哲学というのは、人に話すこととか、あるいは人に向けて書くこと。「話す・書く」というのが、私たち哲学をやっている者の仕事の大半だったんですけれども、哲学者のイメージがありますね―一人切りになって、頭をグッと抱えて深く考え込むという、それが哲学の仕事の姿だと、多くの人が思っていらっしゃったと思うんですけど、「臨床哲学」という、これはある意味で、先ほど言った一人で書斎で、あるいは研修室で考え込む哲学じゃなしに、むしろ人々の間へ―それは学校現場でもいいし、企業の仕事の現場でもいいし、いろんな集会の現場でも、あるいは病院でいいんですが―そういうさまざまな社会の場所に出掛けて行って、人々との語らいの中から、あるいは対話の中から、そこに生きている社会の、いろんなところに生きている哲学を、むしろ引き出す、汲み取る、発見する、という、そういう哲学もあり得るんじゃないか、というのを痛切に思うようになりまして、それを私の同僚と共にそういう運動を起こして、それを「臨床哲学」というふうに名付けたんですね。少し前から臨床哲学という、哲学の新しいプロジェクトについては、いろいろ構想していたんですけれども、グッと前に一歩踏み出すのは、阪神淡路大震災のことがきっかけではあります。私は震災の時に、こんなことを耳にしたんですね。これは私の知り合いの話なんですが、私の知り合いで西宮市の避難所の方に炊き出しに毎日ボランティアで通っていた方がいらっしゃって、その人が避難している人と時々空いた時間にお喋りしたりされていたんですけれども、で、ある人が普段全然話し合いということもし難かった寡黙な人なんですが、その人がある時フッと口を開いてくださって、聞かれた話が、受験前の高校生を持っているお母さんだったんですけれども、その人は子ども部屋が上にあって、息子は二階で生活していた―勉強して寝ていたんですけど、その日に限って、一階のおこた(炬燵のこと)のところで勉強していて―一月の寒い時ですから、そのまま居眠りしていたんですよね。で、普段なら風邪引くから二階にあがって、というところを、あまりにも深く眠っていたので、途中で起こすのが可哀想になって、それで毛布かなんかを掛けてあげて、そしてご自身は二階に上がられたんですよね。そして未明に震災がきて、家が倒壊して、坊ちゃんが亡くなってしまったんですよね。その方は、自分があの時ちゃんと起こして二階に連れて上がればこんなことにならなかったのに、というので、まるで自分が息子を殺したかのように、自分を問い詰めるというか、責め苛(さいな)むというか、そういう状態にいらっしゃったんですよね。その時にその話を聞きながら、あまりにも重い話に私の友人は返す言葉がなかった。ほんとにどう言ってあげたらいいのか、どう慰めたらいいのか、全然そういう言葉が出てこれずに、ただこれしかできなかった、と言ったんですよね。で、私はその時に、「聴くことしかできなかったんじゃないに、聴くことができたんじゃないか」と思って、「聴く」というのは、何もしないで受身行為のように見えますが、その人の語り、その寡黙なその人にそういう話をその人から引き出し、そしてその人の語りを最後まで聴けたというのは、もの凄く大きな実は意味を持つ行為なんじゃないだろうか、と思って、その時に私は、そのことから「聴くこと」ということの大事さということについて考えるようになっていったんですね。
 
ナレーター:  臨床哲学を提唱するようになった鷲田さんは、哲学者として活動するなか、二○○七年からこの八月まで四年に亘り大阪大学の総長を務めました。総長在任中は、臨床哲学の手法を他の学問にも応用しようと、大学を一般市民に開放することに力を入れていました。
 

 
鷲田:  研究者が、あるいは学生が自分の専門の中に閉じ籠もって、そして専門の仲間とだけで議論しているという、そういう学問のこれまでのあり方というのをなんとかもっと開けたものに変えたかったんですね。研究者同士で議論するんじゃなくて、哲学となんの関わりもない、つまり社会のいろんな問題発生の場所に出掛けて行って、哲学者じゃない、普通の一般の市民の人といろんな問題について議論するというのが臨床哲学だったわけですね。例えば大阪の中心部にある中之島の私鉄の駅の構内で、誰でも入れるし、誰が途中で出て行ってもいいという、そういうカフェとか、コミュニケーションワークショップというのをやったり、それから豊中市にある地元の商店街に学生が入って行ってですね、いろんなディスカッション(discussion:討議)とか、あるいは共通のイベントをやったり、要するに大学の外部の人との接触というのをできるだけもって頂くようなスタイル―社会連携のスタイル、あるいはインターシップ(一般的に自分の勉強している分野に関した職業を実際に企業で経験を目的として働くということ)のスタイルというようなものに力をずっと入れてきました。何故そういうことに力を入れたかというと、現代社会が抱え込んでいるいろんな問題というのは、一つの専門領域で解ける問題というのは、むしろ珍しくなっているんですよ。例えば一昔前BSE(牛海綿状脳病(うしかいめんじょうのうしょう):牛の脳の中に空洞ができ、スポンジ(海綿)状になる病気である。一般的には狂牛病として知られている)という牛の病気が発生し、肉の輸入の制限などありましたけど、このことについて大学院で専門関係なしに多くの院生集まって貰ってディスカッションしたことあるんです―授業の一環として。その時に最初に発言したのは、医学とか薬学の人たちで、要するにBSEというのが、どういう感染病であり、どういう仕組みでそういうことが起こるのか、どういう症状があるのか、人間への身体への影響はどうだとかという、いわゆる疫学的というんですかね、専門の病理学的なことの説明を得々とやったわけですよ。そうした時に経済学部の学生らしいんですが、〈なんか君たちの言っていることって幼稚だな〉というような顔をして、「これの根幹にあるのは日米摩擦の問題だよ」と言って。そうすると、それに続いて政治学部の専攻の学生なんかが、「これは外交問題という背景それなしに、この問題に解はないよね」と言っていたら、今度は文学部で文化人類学をやっている大学院生が、〈ああ、やれやれ〉と言った顔で、「みんな視点が狭いね」と言って、「これは人類の牧畜文明というもののあり方そのものから考え直さないことには、この問題というのは解けないんだ」と。みんな専門領域をもっている大学院生なんですが、「あ、そういう視点もあるのか」とか、「そういう問題もあるのか。そういうところからも見ないといけないのか」と。みんなそれぞれが、それまでは自分の専門のことで、その問題を考え語ってきたんです。目をフッと開かれるわけですね。専門研究者というのは、ちょっと視点を変えれば、ある特殊な素人に過ぎない、ということをこのゼミの中でみんな思い知らされるんですよね。で、そのことによって、要するに言いたいことというのは、いわゆる一人の専門家が自分のプロフェッショナル(professional:専門的、職業的)としての仕事を全うするためには、自分の専門以外の専門家の意見を、あるいは視点をいろいろ聞いてみる。そしてそれと摺り合わせる。そのいろんな専門の人と、それから更には専門外の人、つまり一般市民の視点ですよね―人々が一体この科学とか技術の何に不安をもっているかとか、何を知りたがっていらっしゃるかとか、そういったことも含めて、専門家が自分の専門の中に留まっているんじゃなしに、他の専門、それから非専門の人たちの考え、そういうものとみんなと議論をする中で、いろんな立場の人と議論する中で方針を決め、そしてみんなで方針を決めれば、その方針のもとに今度は自分の専門に戻って、この自分の専門の立場から、この方針の下でできる最大限のことはなんなのか、ということをまた考え、それに取り組むという。専門家にはそういう振る舞い方というのが、現代社会では求められる。それができて本当のプロフェッショナルだということなんですよね。「臨終」ってそういうことなんです。臨床医、あるいは臨床現場のスタッフの人って、理論が先にあってはダメなんですよね。プロとして理論はもっていらっしゃるんだけど、一旦それを棚上げにして、一人ひとりの人に向き合って、この方にはどういうケアがいいのか、どういう治療がいいのか、というのを考えるというのが、臨床医の仕事で、患者さんの前では一旦自分の専門的な知識すら棚上げにすることが求められる。それが「臨床的」ということだと思うんですが、どうしてそういうことをするのか、ということになりますけれども、私は、今の市民って、名前は「市民(シチズン:citizen)」なんですけれども、ほんとにシチズンとしての能力というのをみんなきっちり持てているだろうか、というのがもの凄く疑問なんですね。だんだんシチズンとしての自分のあり方というのを、むしろ失ってきたんじゃないか、という思いがあるんです。で、どういうことかと言いますと、社会にとって、あるいは人々にとって最低限大事なこと、どうしても人として、社会として、やり続けないといけないということってありますよね。どんな国家になろうが、どんな時代であろうが、それは私は、「命の世話」ということだと思うんですよね。例えば子どもの出産に立ち会う。子どもを取り上げる、ということもそうですし、みんなに御飯を作るというのもそうだし、病気になればそれを治す、看病することもそうだし、人が亡くなられれば看取る、見送るということもそうです。それから近所でもめ事が発生すれば誰かが間に入って調停する、仲裁する。こういうようなことは、生き物としての人間が、どんな時代であっても、どんな政治体制のもとであっても、絶対にこれだけはしなければいけないことですよね。まさに「命の安心・安全」の根幹に関わることですから。ところが近代社会というのは、その安心・安全のクオリティ(quality:質、品質、性質)を上げるために、その一番人間としてしなければならない大事なことを、行政が引き受けるようになったんです。行政とか企業ですね―サービス企業が。それのクオリティを上げる。つまりどういうことかというと、出産にしろ、病気の治療にしろ、これは民間の判断でやるよりも、医師という、あるいは介護士というプロフェッショナルを国家で養成して、その資格のある人に委せる、と。教育も親に委せておくと、親以上にならないから、ちゃんと国家が教員教師を養成して、その免許を持った人に委せる。近代社会はその命をお互いにケアしあう最低限の人としての営みを、そういう行政、あるいはサービス企業が肩代わり、そのことによって専門家集団がそれを担ってくれるので、クオリティはもの凄く上がったわけですね。寿命は一気に延びたし、いろんなそれまで治療が難しかった病気も克服できましたし、世の中全体は安心・安全になったわけですが、ふと気付いた時に、私たちはそういう行政によるサービス、あるいはサービス企業のサービスに税金とかサービス料を払ってサービスを受ける顧客ですよね。クライアント(顧客:client)であって、コンシューマー(消費者:consumer)になってしまって、シチズン(citizen)としてではなしに、コンシューマー、あるいはクライアントになっている。提供サービスをお金で買うという仕組みになった。だから震災の時というのは、いわゆる公共的のライフラインが全部ダウンしてしまう、ストップしてしまいますから、水は出ない、電気はこない、病院は機能していない時に、最低限、例えば雨水を飲める水に変えるとか、あるいは家族のメンバーが腹痛で苦しんでいたら救急措置をするなりということが最低限できる、その能力を持っていないと、この非常時には大変なことになるというのを、震災の時には思い知らされるわけですよね。だからみんな今回気付いたのは、「いざとなった時に、自分たちで自分たちの命の世話をする、ケアをする。このシチズンとしての最低限の能力を、私たちはこういうお委せ構造、プロへのお委せ構造の中で、如何に失ってきていたか」ということを知ったと思うんですよね。そんな中で我々は、自分たちのことは、いざとなったら自分たちでできる用意ができていて、本当のシチズン(市民)なんだ、と。そのためには、いざという時には、誰彼なしに、忙しい人がいれば別の人が、いわゆる住民が互いにケアをしあう、命の世話をしあうシステムというのをきっちり動かせているという、そういう能力が必要になる。お互いがそれぞれのお思いをきちんと主張し、そして発言し、その間で異なる意見の中である程度しっかりと議論して、そのうえでみんな全員を満足させる回答は出ないかも知れないけれども、取り敢えずこういうふうにやっていきましょう、という方針を立てるという。そこまでみんなできっちり話し合うということが、いわゆる良きシチズンシップの成熟には、つまり市民社会の成熟の為には必要だと思うんですね。そういう意味で、私は、大学でやっているカフェとかコミュニケーションワークショップというのは、良きシチズンであるためのレッスン、そういうものを街のいたるところでやりたい、と。
 
品田:  シチズンシップというものには、やはり責任というものも出てくるわけですね。
 
鷲田:  勿論です。お金を払って全部委せる、そういうお委せの構造ではなしに、自分たちである程度それを自分たちのことだから引き受けるという責任が必ず伴いますよね。「責任」という言葉は、どこか、なんか「強いられる」とか、「責任を取らされる」とかという、どこかまだ私はお委せみたいなところがあるような気がして、受身な感じがあって、でもこれを英語になおすと、「責任」というのは「レスポンシビリティ(responsibility)」と言いますが、このレスポンシビリティという言葉は、どういうもともとの意味かというと、「レスポンス(response)」と「アビリティ(ability)」という言葉がくっついた言葉なんですね。つまり「レスポンス」というのは、レスポンド(respond)する、応じるとか、反応する。「反応」の「応」と書いて、応(こた)えるという意味なんです。「アビリティ(ability)」はできること、能力という意味です。だから「責任」というのは、英語で元の意味に分解すると、「何かに応ずる用意がある」という。この「レスポンシビリティ」という言葉と日本語の「責任」という言葉は随分語感に差があって、例えばそれこそ被災地にボランティアで行く人に向かって、「あなたは、責任感でここへ来たんですか?」と言われたら、多くのボランティアの人は、「ノー(No)」と言うと思うんですね。来なければならないから来たんじゃない。来たいから来たんだ、と。責任感で来たんじゃない、というふうに答えると思うんです。ところが「あなたは、レスポンシビリティを感じて来たんですか? あるいはレスポンドするために来たんですか?」と言われると抵抗ないんですよ。何か自分が必要とされているように思って。あるいは何か自分が呼び掛けられているように思って、「こんな僕でも何かできるんだったら言ってください」という感覚で、「何かレスポンドしに―求めに、あるいは促しに応じようとして、ここに来ました、と。私はその用意があるから、いつでも言ってくださいね、という感覚ですか」と言われたら、つまり「レスポンシビリティという感じで来たんですか?」と言ったら、多くのボランティアの人は、「ノー(No)」と言わないと思うんですよね。責任が伴うというのも、何か「責任」というと、「ああ、これもしなければならない。また義務が増える」という、なんかみんな縮こまってしまうので、なんかこの「レスポンシビリティ」という言葉の膨らみのようなもので、「責任」ということが言えたらな、というふうに思うんですね。公共の事柄、つまりさっき言いました、私たちはお互いにみんなで協力して子どもたちを育て、街を安心にし、あるいは亡くなった人を送りという、命の世話をみんなでコミュニティー(community:地域社会)の中でやり合ってきたわけですよね。そのコミュニティーの事柄というのは、今よくいう言葉で言えば、パブリック(public)な事柄、一人ひとりの個人生活、家族生活というプライベートな事柄ではなしに、この地域、あるいはこの社会のパブリックな事柄ですよね。で、そういうパブリックな事柄をもう一度引き受けなおすというのが、「レスポンシビリティ」ということ、シチズンとしてのレスポンシビリティということだと思うんですね。
 

 
ナレーター:  東日本大震災では、多くの人が、容易には言えない心の痛みを抱えています。その痛みを少しでも和らげる手立てはあるのか。臨床哲学を通して、多様な人々との関わりを築いてきた鷲田さんの考えを聞きました。
 

 
品田:  鷲田さんは、先ほどの震災の起きた時刻のこともおっしゃっていらっしゃいましたけれども、昼間のこの時刻に起きたということで、家族が離れている時に起きた災害だ、ということを言われていますね。
 
鷲田:  そうですね。就労している人が集中的に被災なさったようなところもあれば、学校によっては、小学校が酷く被災したところもありますし、親を亡くしたお子さんとか、逆に子どもを亡くした親御さんとか、そういう立場の人というのが、勿論神戸の時もありましたけど、それ以上に今回割合として多かったんじゃないかな、と。家族のメンバーのどなたかを亡くすというようなケースがね。これまで、これは当たり前のこと、自明のこととして、その上にいろんなプランを作って活動してきた、頑張ってきたっていうのが、人生の多くの形だと思うんですが、これは前提が、自明の前提だとしてきたことのいくつか例をあげると、例えば高齢者から順番に、世代も順番に欠けていくものだと思っていたのに、先に子どもさんが亡くなったとか、あるいは子どもにとっては、大人になるまで親はいるという前提でいろんなことを、未来の計画を立てていたのに、突然親御さん亡くしたとか、あるいはずっと健康の予定で人生スケジュールを組んでいたのに、交通事故に遇ったり、あるいは病気に冒されて健康を損なった。あるいは入院生活を余儀なくされたとか、こういうことって、今までの自分がこう人生積み重ねでイメージしてきたものが、突然その一番地盤のところがはずされるような経験ですよね。だからその時人というのは、もう一度自分の人生というのを「組み立て直す」、あるいは「語り直す」ということをしなければならないですよね。「語り直し」って変な言い方かも知れませんが、あるイギリスの精神科医のR・D・レインが、
 
アイデンティティーとは自分が何者かを、自分に語って聞かせる説語(ストーリー)である。
 
というふうに言っているんですね。「自分って誰だ。自分という存在、これは自分が自分に語って聞かせるストーリーだ」というんですね。
 
品田:  自分という存在は、自分を自分に語って聞かせる、
 
鷲田:  そういう物語だ、ということを言っていて、これはほんとに私は昔から、「そうだよな」って思ってきたのは、例えば「自分が誰の子か」ということだって、自分は何も確信したわけじゃなくって、人から、周りの者に、子どもの時からそういうものだというふうに語り聞かされてきたことを自分が引き受けて、自分もそういうふうに思うし、それから自分の過去についても思い出という形で自分に語るものだし、これからの未来のことも自分の希望とか予定という形で語るものだし、そしてまた人に自分を紹介する時でも、自分はこういうことが好きなんだとか、あるいはこんな友だちがいるんだとか、こういう性格なんだとか、要するに自分の存在というのは、自分がそれをどう語り出すかという、語っている内容と切り離しがたいんですよね。今回子どもさんが親を亡くす、あるいは親が子どもを亡くすというような、つまり自分にとって、ある意味でもっとも大事な人は―恋人でもいいんですが―そういう人を亡くすというのは、ある意味でこれからの人生、そしてこれまでの人生も含めて、自分でもう一度組み立て直すという、語り直すという。自分の人生について、あるいは自分というのはこういう存在であるということについて語り直す作業を要求すると思うんですよね。だからこれまでは親がいるのが前提で自分を語ってきたのが、親がこの世にいないという前提で、今度は自分の人生を語り出していかないといけない。そういう意味で、多くの人がこういう災害の中では自分自身の存在というもの、あるいは自分の生活人生というものを根本から語り直すことを強いられる、そういう経験だったと思うんです。
 
品田:  その「語り直す」というために必要になってくると言いますのは?
 
鷲田:  「語り直し」というのは、誰かに―勿論自分に対して語るものだけれども、それはやっぱり語りである限りは聞き役というのがいるんですね。人に向けて語り直しをするということが、自分自身に納得できる語りができる条件になっているんじゃないかなと思うんですね。何故かというと、人に語るためには、自分の苦渋、苦難というもの、苦しいこと、悲しいことについて、それの中に溺れていたら語れないですね、人には。つまり例えば自分の今のしんどい状況について語る時に、「しんどい、しんどい」と言っても、相手はわかってくれなくって、だから実は昨日こんなことがあって、その時に昔のこんなことを思い出して、それで今まで忘れているつもりだったのが、なんか自分は忘れてないと気付いて思う。自分でも想像しないようなパニック状態になってしまってとか、それは実はよく考えてみると、子どもの時のああいうことがどうも未だに私に突き刺さったまま癒えていないんだな、傷が癒えていないんだな、と思う。というふうに、こう人に辛いことについて話そうと思うと、こう事柄を整理して、そして時系列に、あの時こんなことがあって、その時自分はこう思って、そして忘れていたつもりなのが、昨日はこんなことがあってというふうに、整理して、時系列で話されないと相手はわかってくれないですよね。
 
品田:  話すための準備というものを自分の中でしないと、話すことってできないですね。
 
鷲田:  そう。だから苦しさの中でアップアップしているんじゃなく、溺れかけているんじゃなしに、それを一遍自分の辛さとか、苦しさ、悲しさというものを、自分からそれこそ皮膚を捲(めく)るようにして、切り離して「対象化」しないと、人には語れないですよね。で、対象化する。自分の苦しさ悲しみというものとの関わりを語るという形で、対象化することによって、苦しみ、自分の苦しみとの関係を変えるということが、凄く大事なんだと思うんですよね。それで初めて「自分の語り直し」というのが始まるんだ、と思うんですよね。だから聞いてくれる人がいる、あるいはその人に向かって話すというその宛先の人がいるわけですね。
 
品田:  「聴く」という言葉の中には、声を掛けて引き出すということもあれば、耳を傾けるということはありますね。その立場の使い分けというのは、どのようにされてきたんでしょうか。
 
鷲田:  人が自分の苦しさ、苦しい出来事、辛い出来事について語る時に、聴く側というのは、先ずは「ひたすら聴く」ということが求められるわけです。語り手の方はしんどい話をするわけですから、自分がどういう思いでいるか、どういうしんどさなのか、そしてどんな気持でいるのか、あれはどうしてこういうことになったのかとか、非常に辛い話が続きますから、話が途切れがちになる。沈黙が挟(はさ)まるというので、聴く方というのはけっこう沈黙の時間がある。一対一で向き合っている時に、沈黙の時間を過ごすというのは凄く辛くて、ついその人が言いたいんだけど、言えずにいることを代わりに語ってあげることが多いんですよね。「あなた、今こういう気持でいるんじゃないの?」とか、でも大事なことは先ほども言ったように、最後まで自分で語りきる、ということが大事なんですよね。だからその介添え役として、聴く方も、ある意味では語る方と同じくらいしんどい思いをして、最後まで聴ききるということが大事だ。そのためには途中で言葉を、何か代わりに語る言葉を挟むんじゃなしに、語りきるまで待ってあげる、ということが大事なんじゃないかなというふうに思います。だから聴くということの核心にあるというは、自分が話のイニシアチブ(主導権:initiative)を取るんじゃなしに、「ひたすら待つ」ということじゃないだろうかな、と思います。
 
品田:  凄く時間が掛かることもあるでしょうね。
 
鷲田:  はい。ただただひたすら言葉が出てくるのを待つ、という段階もあれば、ある程度話されたら、今度は時に突き放すようなことも。最初は「ひたすら待つ」ということが大事でしょうが、ある程度自分で語るということを始められた時には、ちょっと「突き放してみる」ということも大事だと思うんですね。私がね、このひたすら待つ、あるいはちょっと突き放す、そういう呼吸の難しさというのを、聞く時の呼吸の難しさというのをお話した時に、亡くなった河合隼雄(かわいはやお)(心理学者・心理療法家・元文化庁長官。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授:1928-2007)先生がとっても面白いことをおっしゃったんですよ。私が、「聴くってほんとに大変ですね」と言ったら、「どう距離をとっていいのかわからない時には、一つだけいい手はある」とおっしゃって、それは「ほぉ〜ッ!と感心する才能だ」ということをおっしゃいましてね、なるほどと思ったのは、「どんな些細なことでもいいから、その人が何か口を開いた時、ほぉ〜ッ!≠チて、こう感心する。そうしたら絶対次のもう一度口を開いてくれる」というふうにおっしゃって、「あ、この人、自分に関心があるんだ、ということを、そのほぉ〜ッ!≠ニいう一言で感じて貰ったら、言葉が出やすくなるよ」というのを教えて貰ったことがあります。なるほど、と思いましたけどね。一見反対のようでしょう、「ひたすら待つ」ことと、それから「突き放す」ということは。でも根本は一緒なんです。つまり言ってみれば、「この時間はあなたのためにあげます」と。「私の時間、あなたにあげますよ」という、そういうメッセージには共通なんですね。待つにしても「ほぉ〜ッ!」と感心する時も、それから突き放す時も、でも、「あなたに付き合いますよ」という。「徹底して付き合いますよ」と。自分の時間をあなたにあげているという、そのメッセージは共通しているんで、そういう意味で、私は、ケアというものの根本にあるのは「時間をあげる」ということじゃないだろうかなというふうに、この震災の後、いろんなことを考えて、そんなふうに思うようになりましたね。
 
品田:  語る側として、再び心を開いて、自分の人生を語って生きていくというためのヒントになること?
 
鷲田:  他の人との関係の網の目の中で、つまり他の人との関係の中にある自分に何ができるか、できないか。つまり「自分というものを、いつも他人との関係の中で考える必要がある」と思うんです。例えば学生諸君が就職のことで相談に来る時なんかは、ほとんどの人が、「自分がそもそも何をしたいか、ということがよくわからないんです」というふうにいうんですね。その時に私はいつも、「確かに自分が何をしたいかを知って、そしてしたいことができるということは幸福なことだけれども、しかししたいことからだけ職業のことを考えるのはおかしいんじゃないか」。つまりしたいことじゃなしに、自分はなにをすべきか。「すべきか」という言葉が固いとしたら、自分は他の人々から何をするべく期待されているか、という方向からも考えなければならない。自分の存在というのは、そもそもが、先ずは人々の間で編まれてくるものなんですね。例えば大人になった私にとっては、自分の名前というのは、他の人と絶対代わりの効かないものですし、人が自分の名前を噂で出していると、ピクッとしてしまう。それほど自分に固有のものなんだけど、そもそも名前って人に貰ったものですよね。自分が作りだしたものではなくって。それが人にその名前で呼ばれるという経験を何度も繰り返しているうちに、その名前が自分の名前になるわけですよね。同じように人間の感情とか心というのも、実は人から先ずは与えられるものなんですよね。例えば若いお母さんが幼い子どもや自分の子と戯れたり、あるいは話し合ったり、語り掛けをやったりしている時って、横から見ていると、お母さんの顔って凄い恥ずかしいぐらいに単純じゃないですか。喜怒哀楽をはっきりして「うれしい うれしい!」とか、「苦しい 苦しい!」とかやっているのは、今あなたが襲われている感情というものはこういうものですよ。あなたが浸っているあなたの気持ってこういうものなんですよって、お母さんが鏡になって教えてあげているんですよね。あれは人間の感情というのは、自分では今どういう感情なのかって、普通言葉がなかったらわからないんですよね。言葉がなければ、喜怒哀楽とか、怨みとか、恥ずかしさとか、テレとか、そういう感情ってもの凄く複雑にもつれ合っているし、それから一つの感情がいろんな顔をもっていて、人間には今自分がどういう気持になっているかって、もの凄く分かりにくいものなんですね。そういう意味では、人間の存在というのは、最初から人々の間にある、そして互いに会話を通じて、あるいはいろんな共同の行動を通じて、いつも互いに存在を与え合っているというものなんですね。だから人間にとって大事なことは、自分が誰かの思いの宛先になっているということ。裏返して言うと、「自分がここにいることが、他の誰かにとって意味がある」ということを確認できる時なんです。そうすると、まさに「自分を語り直す」という時でも、自分の中で堂々巡りするんじゃなしに、「自分がここにいることが一体他の人にとってどういう意味があるのか」という視点からも、自分を語り直していく必要があるということだと思うんですね。だから決して自分を語り直すという時に、自分の中でその話を完結させない。いつも他人にとっての他人としての自分というものを意識しながら、自分ができること、あるいはすべきことというのを考えていく必要があるんじゃないかな、というふうに思います。
 
品田:  鷲田さんは、大阪大学の総長を離れられたわけですけれども、今後はどういう道を歩まれるんでしょう。
 
鷲田:  道は多分同じだと思うんですが、立場が変わりますから、これまで四年間もの凄く大きな組織の中にいて、組織人として行動していたがために、なかなか行けなかった場所とか、出来なかったこととか、たくさんあるんですね。一つは、やはりもう一度地べたの一哲学者に戻って、もともとが大学から出て、そして専門外の人と、あるいは異なる専門の人と、あるいはプロの人と、それから子どもさんとか、初対面で一同に会して一つの問題について、あれこれ議論するという、そういう場を作ることを臨床哲学の仕事としてきたものですから、そういうかつての仕事、そういうことに戻りたい、ということがありますし、もう一つは、私の友人たちが既にいろんな形で被災者支援、あるいは復興の支援に関わっているんですが、そういう友人たちの活動にも何らかの形で合流できれば、というふうに希望しています。
 
     これは、平成二十三年九月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである