村医者 地域に寄り添って
 
佐久総合病院医師 色 平(いろひら)  哲 郎(てつろう)
一九六○年横浜生まれ。東京大学に入学。工学部進学コースに在学中、シベリアからヨーロッパ、インドを巡る旅に出たことがきっかけとなり、自らを見つめ直して一年間「失踪」、中退。医師を目指し京都大学医学部に入学。九○年に卒業後、長野県厚生連佐久総合病院で研修医として勤務するかたわら、「不法」滞在の外国人労働者女性の医療支援に取り組み、外国人HIV感染者・発症者への生活相談・帰国支援を行う。「アイザック」は九五年、タイ政府より表彰を受ける。京都大学医学部付属病院などを経て、長野県南佐久郡南牧村野辺山へき地診療所長として「僻地」医療に従事し、九八年からは、長く無医村であった隣村の南相木に入る。現在、長野県東南部、群馬県境の人口千三百人の南相木村で、家族五人で暮らしている。佐久総合病院内科医。長野県南佐久郡南相木村国保直営診療所長、NPO「佐久地域国際連帯市民の会(アイザック)」事務局長。
 
ナレーター:  看護師と一緒に訪問診療にやってきた医師・色平哲郎さん。自宅での診察、看護を望む患者に二十四時間体制で寄り添います。
 

 
色平:  おはようございます。病院です。入ります。
 
ナレーター:  この日患者は九十八歳の節さん。住み慣れた我が家で天寿を全うすることを望んでいます。長野県佐久市(さくし)の佐久総合病院。「農民とともに」を合言葉に創られた病院です。創設以来、休むことなく二十四時間体制で患者を受け入れてきました。二百人の医師と八百人の看護師が、外来だけでも一日およそ千八百人を診察しています。この病院で地域医療を担う地域ケア課。色平さんは医長を務めています。地域ケア課では、十六人の医師が近くに住む三百十五人の患者の訪問診療をしています。
 

 
色平:  「地域医療」という言葉は、いろんな意味がある言葉で、地域のあり方を知るということですけど、「住民の生活を知る」ということは、もの凄く難しいことなんですね。「私にはわからないんです」と言った方がいいと思います。わかるのは保健婦さんで、保健婦さんは内輪の人ですから、その保健婦さんに教えて貰う。翻訳して貰う、というのが精々ですね。十年いたからと言って、今日も久しぶりに村内を歩いてみて、看護婦さんと一緒に噂話をしちゃったんです。「あの家、往診したことあるよ」とか、「あの家の婆ちゃん、どうしているかな」とか、いろんな出会いがありました。こう節目の時ですよね。何かこう物事が起こって、動いている時に、医者との付き合いってできるものですから、よく覚えているんですよ。日本人が村的な良さと悪さを一旦失ってしまっている、ということは、自分自身の体験でわかりました。僕は都会で育ったので、村がこんなに濃くて、こんなに濃密な人間関係で、身内と余所者を分けているんだ、ということを知っていましたけども、こういうもんだ、ということが、これが当たり前だ、ということがわからなかったですね。その深みが、十年は一昔じゃなくて、十年は一瞬なんですね。悪い意味でなくて、私たちはそこで生まれ育った人間ではない、ということは、余所者だということでしょうね。余所者は全然違う人たちなので、十年居ても余所者なんですよ。それはしょうがないことですね。ただ余所者であるが故に、「参与観察(さんよかんさつ)」と言って、参加して観察することができるということがあるんです。
 
 
ナレーター:  サラリーマンの家庭に生まれた色平さんは、何不自由なく育ち、東京大学に進みました。転機がおとずれたのは、二十一歳の時、家族に相談もせずに大学を中退し、家出をしました。
 

 
色平:  恥ずかしい体験なんですね、今思うと。それ以前に山を越えて歩くような旅をしていましたので、この辺りの信州まで歩くようなことがありまして、新潟の方まで歩いて行ったりしているうちに、大学でのあり方がよくわからなくなりまして、普段だと常磐線は上りに乗るわけですね、東大だったから、上野の方なんですけど。下りに乗ってやろうと思って、下りに乗って行ってみた、と。行ってみて、結果としてそれが家出になったんですけど、日立の駅前で降りたんですね。夕方だったんですが、洋食屋があって、そこへ入って、お金ほとんど持っていなかったんですね。千円札を持っていたんで、それを使って、「この辺りでどっか働けるところがありませんか」というふうに、マスターかおじさんか誰かに聞きました。流れ者は、どっかで働きたいんだろうと見たのか、「そこにキャバレーがあるから行ってごらん」と言われたわけですね。歩いて行ったら、映画館みたいな建物があって―キャバレーなんですけど、そこでちょうどシャッターを上げている時間帯だったので、「働けるんでしょうか」と言ったら、「いいよ」と言われて、住み込みになったんですね。そこで四ヶ月働きました。「おはようございます」と言って、仕事が始まるのは、水商売だから夕方なんですよ、今の時間帯なんですよ。その頃一番に行って、床を綺麗に、フロアをグルグル回る機械でピカピカにしたりするような準備があるんですよ。キャバレーの三階かどこかに寮があったんですね。ボーイ仲間の先輩の人と、同世代の人と、バンドの人が二人いました。ベースギターの人と―僕がピアノを弾いたから、彼はピアノではなかった。女の子たちは沖縄の女の子がいました。五人ぐらい居たんですけど、内側で喋っているんで、僕はわからない。フィリピン人が日本に来る前の時代だったので、女性たちはいて、音楽があって、ボーイ仲間がいて、そういう十人ぐらいのところの共同生活で、見えていなかった人たちの人生と触れ合うことは、私にとって大きな出会いになったんですね。この一年がなかったら、確かに自分の道を見出そうというふうにならなかったんですね。僕は、家出をした一年後、もう東京にいました。その頃は、路上生活とか、橋の下とかというようなことは止めて、かなり真っ当に勉強し続けていましたね。私、大学に通わなくなって、もの凄く勉強しちゃったんですよ。キャバレーでもそうなんですけど、飲食店で働くと便利なんです。働いて御飯食べさせて貰うので、時間的に勉強する時間が浮くということがわかったんですね。だから駒沢に戻って偽学生をやっていたんですよ。自分で偽学生で通って講義を受けていたわけです。朝六時に起きて、パン屋に行って、朝のパンをみんなに出して、高校生たちが買いに来ていたんだな、その後十時になったら駒澤キャンパスに行って、無届けでいろんな講義を聞いていたんです。今でも講義ノート残っていますけど。で、家族からの期待がありました。東大に入ったんだから、ちゃんと就職するだろうと思ったんだけど、そういう人ではどうもなさそうだ、ということがだんだん自分の中でも煮詰まってきていて、いろいろ歩いてみると、世間は決して捨てたものじゃない。人もドッコリ生きているし、みんなプライド持って、世界と世間がこれだけ広いんだったら、そういうものに出会わないで一生送るのは損だ、と。まだだから医者になると繋がっていないんですけど。いろいろ行って見た。橋の下、路上と言っても、私の身体が頑健なので、病気したことがない人間というのは、路上で暮らすとヘロヘロいなるけど、別にどうということはないんですよ。あ、こういうこともあるな、というぐらいですけど。現場と勉強とを往復しながら、自分の参加していくというかな、参与していくというかな、書斎の中だけの記述でもなく、現場でどっぷり、そこで人生を送るのでもない。両方を往復することができる私は、この豊かで平和な日本に生まれた、ということの豊かさの象徴として、良い何処取りしたい、と。路上生活も橋の下もそうなんです。昔の旅人はそうしていた筈なんです。『東鏡』(鎌倉幕府の事績を記した編年体の史書)とか『土佐日記』とか、貴族が旅するのは別ですけど、それ以外の庶民というのは、死ぬか生きるかのところで、ずっと歩いて行って、野垂れ死にする覚悟で行くしかなかったんで、追い剥ぎに遭ったかもしれないし、そういうことなので、なんて人なんだろう?と思うかも知れないけど、女房が私に会った時に、「この人三百歳ぐらい」と思ったんですけど、つまり「医者になる気もないのに医学部に入ったというのは、どういうことなの?」と言われると、私は、医療というものはどういうものかわからなかった。頑健だからわからなかった。でも自分と違った人たちの現場に入った時に、この人たちとやり取りする時に、医療が一つの入口になることは明らかだったですよ。
 

 
ナレーター:  一年四ヶ月ぶりに家に帰った色平さんは、京都大学の医学部に再入学しました。大学で医学を修める傍ら、色平さんの目は世界に向かいました。アジアの村々を巡り歩いた色平さん。フィリピンのレイテ島で、運命的な出会いをすることになります。フィリピン国立大学医学部レイテ分校。地域医療を学んでいたバングラデシュ出身のスマナ・バルア(医師、医学博士。1955年バングラデシュ生まれ。76年来日。79年フィリピン国立大学医学部レイテ分校入学、助産師、看護師、医師の資格を取得。89年バングラデシュに戻り、地域医療に従事しつつ医科大学で教鞭をとる。地元NGOの保健医療コーディネーターとしても活動。93年から東京大学医学部大学院で国際保健計画学を学び、96年修士号、99年博士号を取得。WHO(世界保健機関)のコンサルタント、JICAのPHC研修コースアドバイザー、WHO西太平洋地域事務所(マニラ)医務官を経て、現在、WHO南東アジア地域事務所(ニューデリー)医務官)さんです。色平さんはバルアさんと意気投合し親好を結ぶようになります。ここで医師の資格を取ったバルアさんは、その後東京大学に留学、フィリピン、日本、そしてバングラデシュの医療を見つめ、色平さんに問い掛け続けました。
 

 
色平:  バルアさんというのは、バングラデシュ人ですね。バングラデシュ人だとイスラエル教徒が多いんですが、バルアさんはバングラデシュの少数の仏教の家柄の人です。名前が、「スマナ・バルア」ですけど、ニックネームで「バブさん」というふうに呼ばれるのは、日本語が堪能だからです。水道と電気のないところがバブさんの故郷です、バングラデシュの。私も何度か行きましたけど、田舎ですよ―今こそ電気があるけど、というところですね。あれだけ日本人の友だちがいて、日本語が上手くて、あれだけ日本のことを理解してくれているバブさんが、「日本の医学がダメだ」と考えたからここにいる、ということでビックリしましたね。私も同感だったんだけど、どこがどうダメなのか、というのは、彼と喋ってよくわかりましたけど。のちにフィリピン人は随分日本に来るようになりましたけれども、そういう人たちの故郷の村の事情。日本に外国人労働者が来て、女性が酷使されていて、その人たちを見る医者はいなくて、バブは、自分が日本の医学大学を出ても、故郷でもそういう出稼ぎ労働者の医療もわからない医者にならざるを得ないということを見抜いたので、どさ回りしながら村の中で診療して役に立つことをプライドと思いながら、仲間と一緒に勉強しているというのは、これは何なのか、ということでビックリするわけですね。故郷が奨学金を出してくれたが故に、その恩に報いるために、自分の島や山に帰って医者をやろうという、強い動機付けになっていることがある、ということを聞いて、私の頭の中で、ああ、これはフィールドとライブラリーが繋がっている、と。日本ではこういうレイテ校みたいな学校は、残念ながらないんだ、と。バブさんは、十年掛けて医者になっています。医者になるまで看護師さんの資格を取る。そして医者になるというふうに、看護師の後医者になるというカリキュラムですね。年間百人ぐらいが入って来て、最初は助産師みたいなお産の介助ができるレベルの資格もあるんですけど、それが終わって大体看護師までなります。二年半ぐらいかかるのかな。お金もある程度かかる。でもここで故郷の仲間たちというか、故郷が、お金がそこまで続かなければ、それで戻って看護師をし続けるわけですよね。戻って、「この人は」というふうに見込まれたら、あるいは勉強し続けたいという思いと、予算的な要素があると、そのまま勉強し続けて、同期百人のうちの十人ぐらいが医師になるんです。ちょっと話が変わってしまいますけど、僕が二十一歳で家出した時に、行き当たりばったりでしたけど、何らかのぶっつかりの体験のもとに、こういうことがあるんじゃないか、ということで、図書室に行ったり、先生に聞いたりしたようなことを、彼らは毎日やっているんです。毎日「自分のキャバレーの職場ではこういう病気が多いから」ということがわかったら、戻って―キャバレーという譬えがちょっと問題がありますが―工場でもいいです。工場で三日間働いて、仲間がこういう怪我をするから、だからこういう怪我に対して予防するためにはどうしたらいいか、ということを、医学校へ来て、保健学校に来て、仲間と討論し、先生に教えてもらって、その知識を持ち帰って職場改善をしちゃうわけですよね。毎週それをやっているわけです。これは凄いと思いましたね。山や島が多いフィリピンで、自分も農家で、農家の人たちの辛さがわかっている人を選んでやる。村の地図の中で悪い家がどういう家族構成になっているかとか、避妊がどうなっているとか、出稼ぎ関係がどうなって、仕送りがどうなってという、外には言えにくいような村人の秘密も聞き出して。だからここは結核患者が出てもちゃんと薬を飲み続けることができないだろうというような洞察をもつ。日本でいうと、戦前の村に入って、地主がどこで、どこが小作で、どこが何人家族で、誰が座敷牢に入って、というようなことを調べるわけですよね。それは村人にとっては一種秘密な訳だから、そういうことは個別訪問して調べていること自体があんまり歓迎されているわけではないんです。でも、「これは準備として自分の村でやるためなので是非やらせて欲しい」って、学生が熱意を持って頼むんですよ。「私の島は、レイテ島の、あの・・・」と田舎の名前を言えば、フィリピンではもっとも貧しいところですよ。「そこから来たんだ、と。レイテの医学部なので、ここのフィールドでホームステイしながら、自分の村で何が必要なのかを学びたいので」というと、「村人も協力してくれるんだ」と言っていましたよ。労働奉仕でもなく、一緒に働きながら地図を作って、その地図には財政状況も入るんですよね。ほんとは触れられたくないところ、もっと言えば日本に娘が行っている、という話しまで入るわけですよ。そういうことを前提に、井戸を掘ったり、薬草を使ったり、赤ちゃんを取り上げたりして、一つひとつ信用を積み上げていく。バブさんは十年間で二百十五人の赤ちゃんを取り上げた、という話を、僕は後で聞いたんですけど、彼の本音でいうと、凄く怖かったそうです。というのは、彼は男性なので、外国人なので、如何にワライ語(ワライ語はオーストロネシア語族の言語。フィリピンのレイテ島、サマール島、ビリラン州で話されている)が―日本語と同じように、現地語ですよ―ワライ語が上手くても、お母さんたちの信頼を得るまでが大変だった、ということ。それからお産がどうなるのか、というのは、産科医にもわからないわけですよね。となると、助産師にわかるわけがなくて、見習いの助産師にとってみると、教科書的には頭がこう回って出てくるんだ、というところで、一回も事故なく二百人を取り上げられるかどうか、実にこれは単なるラッキーにしか過ぎないわけです。それを最前線でやり続けることのストレスは恐ろしかった、と言っていましたね。股から落ちちゃったら「墜落産(ついらくさん)」ですよ、「落ちちゃっている赤ちゃんとお母さんをどうやって、学生たちで車が通れるところまでやっと運んで、そこでジプニー(jeepney:ジープを改造した簡易乗合バス)を止めて、そのジプニーの下が血だらけになっちゃうところで病院まで運んで、上の外科医の人にお願いした」というエピソードも聞きましたけど、我々が救急隊を電話で呼んで「よろしく」というのでは全然レベルが違う話なので、じゃなんで自宅でお産するのか、と言えば、それは病院がないわけですから。というようなことを、フィリピンのレイテ島ではバブさんという人間に託して、私は伺いましたけども、フィリピンのその後は大分よくなりましたけど、今もって、バングラデシュの田舎は同じ状態ですので、彼の苦闘は今も続いていて、私にとってのアジアの医療までいかないな、「大変なところ、というのが今もある」というのは、今もリアリティはあるんですよ。
 

 
ナレーター:  色平さんに、バルアさんが伝えたのは、佐久総合病院と若月院長のことでした。現在WHOの医務官を務めるバルアさんにとって、若月さんはもっとも尊敬する地域医療の先達でした。色平さんは、若月さんを訪ね、佐久総合病院の医師となりました。八ヶ岳と浅間山の麓に開けた佐久盆地。佐久総合病院は、戦争中の一九四四年に設立されました。若月医師は、終戦の四ヶ月前、三十五歳で東大病院から佐久へ赴任します。当時農村の人たちは、医者に掛かるのは贅沢として病院に来ようとはしませんでした。下肥を使い、家畜と同居する不衛生な暮らし。食生活も塩分を摂りすぎる偏ったものでした。医者に掛かるのは、生涯一度、死ぬ間際に病院に担ぎ込まれる時だけというのが普通でした。「出張診療」と書かれて張り紙を見る村人たち。「待っていても来ないなら、こちらから出掛けよう」と、若月院長は行動を起こしたのです。医療の行き届かない山奥の村まで、出張診療が始まりました。初めての診察と健康診断を受けに、村の人たちは集まってきました。健康を犠牲にして働くことが美徳とされた農村。重労働と劣悪な生活環境に、人々の健康は蝕まれていました。治療だけでなく、生活そのものの改善の必要を痛感した若月さん。「予防は治療に勝る」という考えを村の人たちに訴えました。若月さんは、自ら脚本を書き、医者と看護師が演ずる芝居で、村人を啓蒙しようとしました。「農村とともに」を合言葉に、村々を巡回し、ユニークな地域医療の試みを続けたのです。
 

 
色平:  若月先生については、日本で伝えられているのは、「大きな病院を造った」とか、「農村医学の父」とか、偉い人だという意味なんですよね。僕は、「偉い人か」と言えば、孫弟子としては、「偉い人だ」と言わざるを得ませんけど、東大医学部の噂話でも、東大医学部の生んだ三人の天才の中に若月が入っているわけですから、どうして医学部教授にならなかったの、と、誰もが思うんですが、そうしていないですね。経営者として優秀だとか、文学的才能があるとか、いろんな誉め言葉があるんだけど、それを全部武器にして、それで佐久病院を建てたし、日本の農村のために、皆保健制度を作り上げるために、一番難しい農民を含む包摂する制度を作る上で努力したんですね。その恩はアジアに伝わっているんです。何故若月がアジア人にとって凄いのかと言えば、日本の中でまだ農民たちが貧しかった、山の中で辛かった、皆保健がなかったような時代。今のフィリピンみたいな感じ―バングラディッシュはそこまでいかない。そういうとんでもない敗戦国の日本の農民たちの中に入って、しかも一人で始めて、病院を創り、学校を創り、困難な中で道途上にして亡くなるわけですけど。それだからこそ、マグサイサイ賞をフィリピンは贈っているんですね。後でわかることに、若月の果たせなかった夢が、農村医学大学を創ることでした。この農村医学大学は、日本ではできなかったんだけれども、ほぼこのアイディアを、彼がマニラで喋ったことで、レイテ島で結実したんだ、と、僕は後でわかりましたよ。
 

 
ナレーター:  佐久総合病院では、これまで地域医療を志す医学生の支援を独自に行ってきました。八月、四泊五日の研修を受けにやって来たのは、首都圏の大学に学ぶ医学生です。学生の指導には、色平さん自身が当たります。到着早々、色平さんは学生たちに事前に与えていた課題の発表を求めました。この病院の伝統寸劇です。村の老人の暮らしぶりを自ら演じてみて、地域の生活実態を体感するというのが狙いです。
 
学生@:  おや、じいさんじゃねえかい。えらいぼくらぼくら歩いてるけんど、どうしただい。
 
学生A:  おらぁ、車の運転止めただよ。子どもに隠れて乗らうと思ったら、正月に来た時、鍵隠されてしまっただよ。
 
学生@:  じゃ、買い物はどうしてんだい。
 
学生A:  おらちのおばや買い物が大好きだったのも、どこもでかけられなくなってなぁ。しょうがねえから生協頼んだだが。注文の方がひけねえだよ。第一量が多くてダメだ。次になぁ、農協の食材にしただけど、農協が決めたものがくるだよ。俺が肉が食いたくても魚が届くだ。
 
学生@:  そうかい。女衆は品物見て買いてぇしなぁ。ストレス解消にもならぁ。難しいところだいねぇ。
 
学生A:  これはきっとおらちの問題だけじゃねぇよ。佐久病院に診察に行くのだってこまるぇなぁ。葬式だって、人に頼まなきゃ行かれねぇわ。義理を欠くようになれば、つれぇ(辛い)なぁ。福祉バスは日に一本切り出し、朝出掛けりゃ、夕方まで帰って来れねぇや。
 
色平:  老人の方らしいところというのは、義理を欠くようになれば辛いなあ、という感じね。葬式はお互い様、お陰様で、自分家の葬式出てもらったら、隣の家の葬式にも行くということがあって、誰を招かねばいけない。これは村の義理立てのあり方なんだけど、共同体では義理を欠くようになれば辛いなぁ、というのは、足がないからだよね。おじさん、おばさんたち、いつも気にしていながら、買い物だけじゃなくて、葬式に行くのも人に頼まねば行かれねぇや、というふうに、こういうところね。
 

ナレーター:  色平さんと学生たちが、次に向かったのは、山奥の村でした。三年前まで色平さんが暮らしていた南相木村(みなみあいきむら)(南佐久郡)です。
 

 
色平:  この下に一人暮らしのお婆さんがいて、そのお婆さんは向こうの、あのお寺の上の団地の娘さんのところに引き取られて、もう亡くなったと聞いているけど、あそこにお寺あるのわかるかな。公民館があって、図書館もある、橙のね、新しい建物の向こうにお寺の伽藍があるでしょう。お寺の上に七軒長屋みたいに家があるんだよ。ここで一人暮らしていく時期も、僕行き会ってたんだけど、ちょっと一人で暮らすのが不安になってきたんだな。で、娘は引き取りで向こうに行って、だいぶ長く通ったことがありますね。十年もいると、夜呼ばれたり、雪の日に呼ばれたり、いろんなこう―ちょっと劇的な時に呼ばれるんだよね。二回ぐらいしか呼ばれてなくても、覚えているんだよ。明治十七年の十一月というから、今から百何十年も前だけど、秩父事件(明治17年10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた)があって、破れた人たちが十国峠を越えて、この山二つ向こう側の佐久の方に下りて行った、と言われているんだよ。その参謀長が隣の村の菊池貫平―菊池貫平さんの実家は北相木村にあって、私、何度か往診に行ったけど、村の中の指導層というのは、地主だったり、神主だったりして、上の方の階層。そうじゃない人たちが「困民党」になっていく。格差が開くことによって、「困民党」が秩父で蜂起するけど、一旦山を越えて向こうまで行って、蜂起に失敗してこっちへ逃げて来て、その時に地主とか酒屋を焼き討ちにしたということもあって、攻撃対象になったわけだよ―お金を持っている側は。一種の世直しというか、革命運動だったわけで、焼いた側の暴徒の子孫も残っているし、焼かれた側の地主の子孫もいるという、そういうことだね。隣同士で暮らしているから、なかなか―特に自分のお世話になった人、自分の縁のある人、みんなお互い知っているのが、村の特徴なんだよね。
 
ナレーター:  色平さんは、三十六歳から十年間、診療所長として家族とともにこの村で暮らしました。赴任する前、三十年以上この村には医者がいませんでした。この村を実践の場として、色平さんは地域医療を学びました。
 

 
色平:  住民の生活を知るということは、もの凄く難しいことなんですね。私にはわからないんです。私が付き合ったあるお爺さんの話をしますと、このお爺さんはもう亡くなっっちゃいましたけど、「先生と信頼関係を持ちたい」というような表現をしました。そういう言葉じゃないですよ。「気に入った」とかと言ってくれたわけですよ、お酒の席で。どういう付き合い方というのか、というのは、僕、のけぞりましたけど。残念ながら、村では、俺の爺さん、父さん、俺、俺の子ども、孫と五代なんだ、と。村の付き合いは五世代で、爺さん同士が付き合って、父さん同士が付き合って、俺とあんたが付き合って、子と孫の付き合いがある。先生は余所からきた人間だからしょうがない、と。父さん、爺さんは無しにしてやるから、子どもと孫は俺の子どもと孫と付き合い、という意味なんです。聞いた時、僕はのけぞった。おおぉ!凄い。中国人でそういう感覚の人いました。韓国人もいました。アジア的ですね、長い付き合い。国家なんか信用していない。ポンユー(朋友)を信用する。若月先生は、そういう濃いくて厚くて語らない。そんな本音を簡単に言葉にしない村の人の中に入って、その人たちの心の中に住み込んで、心を―おっしゃる意味では、信頼関係を結びながら、佐久病院を「酒病院だ」というふうに言わせながら、お酒を注いで廻りながら、しかし言っていることと、やっていることと、書いていることと、考えていることは、全部平行して違うような広いことをやり続けて、六十年やって、「できたのは、二、三割」とおっしゃれば、あの天才が二、三割だったら、私ができるのは、十年居て、「一パーセントできました」と言ったら、それは怒られますよね。そのぐらい地域といのは奥が深い。僕が思っている地域というのは、一種排他的なところもある。根の生えたような、古代氏族みたいなところなんですよ。お互いの結婚さえなかったような、裏道だけが残っているところなんでね。地域なんて、まだ成立していない。村祭りさえないんです。氏祭りのやっているぐらい、まだまだ恐ろしいところなんですよ。蘇我入鹿(そがのいるか)みたいな、そういう話なんですよ。それぞれ別の氏で、違う神話を持っていて、ということが、僕にはわかりました。「もののけ姫」の世界があるんです。こういう山の中の見えない空間の闇の中に。僕は、今、人気取りだったのかな。後任が困ると思って、慮(おもんばか)った節もあんまりはっきりしていないですけど、自宅の電話番号を、「いいですよ」と、村の人に公開しちゃったんですよね。普段使っている―当時は固定電話でしたが―固定電話が、村人は全員知っている。それをやったから夜でも電話をしてくれる人がいた、ということですね。信頼してくれているという意味なのか、緊急だったというのか、いろんなエピソードを、僕、思い出しますけど。本当は夜呼べる状態ではない筈なんですよね。診療所が開いていない以上。これやると村の人は安易になりすぎますよね。いつでも呼べるんだから呼ばないでいいというレベルを越えて、もうそれは医療じゃないですよ。保健医療じゃない。御殿医の世界ですよね。貴族に抱えられているような、なんか特殊な関係になっちゃって、ちょっとやりすぎだ、と、僕思っているんですけど。でも夜中に呼ばれて、雪の中、必死になって行った思いでなんか覚えている。〈ここ、雪の日も来たよな。雨の日も来たよな。あれ誰だったんだろう、と思って、さっきも思い出せないよ〉。そうしたら看護婦さんが、「十年いたからいろいろありましたよね」なんていうわけですよね。村に十年いる時は、「いつまでいるのかな」と、女房と語っていましたけど、女房は、「いや、たとい十年いても、我々は外へいずれ戻るのよね」と思っていたみたいですよ。その辺は冷めていますよね。私は一時期、休日も夜間も電話がくるかも知れないと思っていた時期さえあるんですよ。村の人は、僕がそんなに思い詰めているなんて知らないと思いますよ。出会いと別れの中で、いろんな老人たちの人生から学ぶところがあったので、死亡診断書を書く時に、凄く思い出深いので、なかなか何枚書いたとも言えないよね。ある程度書いたけど。地に這うような村の医者とやったわけではないんです。村に住み込んで、いろいろ学ばせて貰ったら、自分に見えていないところがたくさんあることがわかって勉強になった。それは若い人たちにお裾分けしないといけない、と思っているんですよ。
 

 
ナレーター:  この日、色平さんは二人の学生を診察現場に立ち会わせました。九十年の人生を送ってきた老人の身体に手を触れる学生。「医療とは、病気ではなく、人を見ること」、色平さんの熱心な指導が続きます。南相木村は、六十五歳以上の人口が四十パーセントを占めています。村での暮らしは、長い間見つめてきた老人たちは、「今も教わることの多い、人生の先輩である」と、色平さんは言います。そんな一人、九十一歳の倉根ちづさんのところは、研修にやってきた学生を必ず連れていきます。十年間に夫に先立たれてから一人暮らしをするちづさんは、畑仕事の後、機織りをするのが習慣です。ちづさんは、戦争中に婚約者をニューギニアで失いました。その後、シベリア抑留から引き揚げてきた夫と結婚。子どもを生み育て、親と夫を介護し看取りました。医学生たちが訪ねて来る度、ちづさんは、自分が歩んできた道や、村が辿った歴史を語り聞かせてくれます。
 

 
色平:  ちづさんは、機織りをやったり、畑仕事をやったり、いろんな家畜を飼ったりして、田圃もやって家族を支えてきた。そして彼女が、十代だった若かった頃は、戦争時代だったので、彼女の気持ちの中に、それは今も残っています。彼女は仏教徒ですけども、敬虔な仏教徒として日蓮宗の教えの中に多分あるんだと思うんだけれども、何か人のためにやってみなさい、というようなことを考えているだけではなくて、やろうとしている気分があるんです。彼女が若い頃、満州に行って働きたい、というふうに思った。しかしそれは果たせなくて、いろんなところで修行して、当時の村の女性としては、かなり遠方まで、県外まで行って修行して、その修行をどこかで役に立てたいと思いながら、結婚して、ずっと普通に暮らすという。しかし旦那さんが亡くなったことをきっかけに、五十年前の自分の思いを思い出して、機織りをやったり、拘りのソバ作りをしたり、拘りの畑を作ったりするということをやり続けていますよね。非常に熱意ある前向きの明るい方。日本の女性たちにとっての戦後史。日本の女性たちにとっての戦前。戦前と戦後はどういうふうに変わったのか。ちづさんから見た戦後も大きく変わった。日本のイメージというのは、海外から見れば戦争国家なんですよ。日露戦争でデビューして、「なにあの国は」というイメージで始まっているんだから、日本の戦争がどういうものだったか、というのは、ちゃんと総括した方がいいんですよ。そうじゃなかったら、いつまでも説明しない。自分のことを語らない。どういう意図で、何をやろうとしたのかも言わない。何だったか総括しない。だから僕たちも何だったかわからない。だからそうだな、日本がちゃんと教育しなかったから。でも戦後に育った女の人は、ちづさんのことを知らないから一種憧れるんだけど、ちづさんは言語化しないけど、あの当時女性たちは、選挙権どころか、農村の女性は人間扱いされていなかったですよね。アジアの農村は、女性を人間扱いしなかったんですよ。それを日本は農地解放で大きく変わった。如何に我々が、アジア人としての根っ子を失ってしまって、技術信仰に陥って、金と技術があれば何でもできる、というふうに思い込んでしまっているのか、ということが、医学部においても僕は感じたし、その前は工学部においても感じたし、今も違和感は続いているし、今の医療界が、科学とか、技術とか、金とかで解決できるというふうに信じているところがおかしいですよ。原子力が危ないのは当たり前じゃないですか。今の日本の堕ちている危ないところだ、と僕は思うんですよ。勉強すればいい大学へ入れる。いい大学け入ればいいところへ入れる。こういう人間観を、私はもって欲しくないですね。直線的な人間観をもって欲しくない。人間というのは、努力すればなんとかなる、というふうに思うところに罠がある。そして自分たちはどこから来たのか。どこを目指したのか。そこで何をしようと思っていたのか。誰と共にそこへ行って何をするのか、というような、どこからきたのか、どこを目指しているのか、誰と共にどこへ歩んでいくのかという、こういう当たり前のアイデンティティについての問いを、日本人はしていないんですよ。だから目の前の良さそうな大学へ入って、企業へ入って、何か、であればいいと思っているんですけど、これは僕はこんな人生観を嫌だと思った。
 
ナレーター:  三月十一日の東日本大震災は、色平さんにとっても大きな意味を持つものとなりました。被災した南相馬市は、以前から医療の体制作りの助言をしてきたところでした。桜井(桜井勝延)市長は、地域医療のあり方などについて議論してきた十年来の親友です。
 

 
色平:  地震の翌日、女房と一緒に心配していたのは、「桜井市長さん生きているかしらね」というとこですよね、先ずね。翌日の夕方メールがきまして、「百年に一回の出来事だから、私は死に物ぐらいでやります」という文面だったですよ。僕は、昨日もその文面をコンピュータの中で見直して、それから彼に返事を打ちましたけど。人間は自分の知っている人を通じてしか想像が及ばないので、私は桜井市長から入りましたけども、あの凄い信じられない津波、そして手を合わせ度に思い起こす死者、破壊。でもあれは日常ですよ。日本という国はああいう国だった筈なんです。驕りがあるんですよ、どっかに。技術で押し込めることができると思っていたんですよ。それは我々も同じだ。技術を使えば寿命が伸びるどころか、人の寿命をならす。「人の死亡率は何パーセントですか」と聞いて、医学生が詰まりますよね。百パーセントに決まっているのに、そうじゃない教育を受けている。そういう医者たちが、あの現場に行って、僕もそうでしたけど、もうのけぞりましたよね。やるべきことないですよ。お坊さんの仕事ですよね。原発がああなってくると、もうなんかわかりませんね。どうしたらいいかわからない。
 

 
ナレーター:  原発事故後、一時は全国七百カ所に三万人が避難した南相馬市に、色平さんの診療先に近い群馬県東吾妻町(ひがしあがつまちょう)に八十五人が避難所生活を送っているのを知り訪ねました。
 

 
色平:  日本が、今まで皆保健で、どこでもお医者さんがいる前提で、保険料を納めればなんとか受けることができた筈なんだけど、残念ながら南相馬市は、例外的に保険料を納めても医療を受けられないようになってきている。それどころか、みんなが全部に散っちゃったから、何百カ所に散っちゃったから保険料の徴収もできなくなってきている。これが今私が気を悩ませている大きな原因で、南相馬市の市長さんと十年来の友人だからやり取りしている内容。こういうふうなことというのは、まるで戦争変わりしたみたいに見えるんだけど、昔もあったことです。
 

 
ナレーター:  避難所は、山の中のリゾートホテルでした。津波は免れたものの、原発事故で着の身着のまま家を捨てて逃げてきた人たちです。南相馬市での住まいが決まり、この二日後八十五人は避難所を後にしました。
 

 
色平:  福島にもみなさんそれぞれに友だちがいるんです。生き残った人も、亡くなった人もいるんです。そういう人間の繋がりがあれば、メディアが報道しているところを越えて、どうしているだろうか、という想像力を及ぼすことができる筈ですね。僕にとっては、バブさんがバングラデシュはいつも気になっている。レイテがあるからフィリピンのことがいつも気になっている。大土地所有とか、イスラム教徒に圧迫されかねない少数派の仏教徒とか、あるいは桜井市長がいるからいつも気になっている。いつも気になっている人たちを何人持てるのか、というのは、これまたチャレンジですよね。医者は理屈で考える。理屈で考えるために訓練を受けているし、そのためにわれわれ養成されたんだからしょうがない。でも理屈でない感性のところで汲み取ることができる人たちと一緒にチーム医療をやると、満足度が上がるのは、デクノボーの医者にも通じるような何かがあれば、その医者の処方がちょっと変わる可能性が出てくる。だからお医者さんは、一回ぐらい患者さんの家に行った方が良いって、私が烏滸がましくいうのはそうなんですよね。生活って、一回行ってわかるもんじゃないよ。ましてや死んだ後、婆ちゃんのこの腐った畳の下に百万円置いてあるというのは、想像も付かないわけですよ。というような話が多いんですよ。みんな知っているけど、誰も知らないことになっている。公然の秘密というので、私が十年居ても絶対わからないことって、もの凄く多くて、そういうことを越えるために訓練を受けたけど、それでも越えられないものがたくさんあるのが人間の人生だから、旅をして、時には橋の下で過ごし、自分がそうなるかどうかは別に、「歴史を学ばない者に未来を語れない」というようなことを、追体験することは、日本の若者にこそ必要だ、と、僕は思っている。だから不幸なことは、自分のルーツについて関心を持てなくなっている、ということです。昔はどうだったのかというと、語りで、私よりもずっと味のある語りを、お爺さんお婆さんはしていますし、今でもそうなんですよ。それを聞きながら孫たちは育ったのに、今はテレビなるものがあるので、このテレビができてから、日本の田舎の子どもと都会の子どもは変わらなくなっちゃったわけですね。そういうふうに近代が村に押し寄せることによって、宮本常一(みやもとつねいち)(民族学者:1907-1981)が描こうとしていた日本は、語りから消えて―文明に残ったのもあるけど、なかなか残りきらずに、肝心な子孫たちが焼き畑とか、炭焼きとか―私調べましたいろいろ―そういうことについてわからなくなっちゃったんですね。亡くなったお爺さんたちは縄文時代から伝わるような狩りの話とか、いろんな話を僕に教えてくれましたけども、それでエキサイトしているのは私だけで、ほんとに申し訳ないけど、どうしちゃったんだろうと思うぐらいみな無関心ですよ。私は五十一歳になりましたけども、いつまでたっても二十一の家出の感覚でいます。心の中にもっと語り合いたいような人たちが何人かいるとなれば、彼らのことを考え続けていきたい。
 

 
ナレーター:  村の医者色平哲郎さん、地域医療の現場で村の人たちに寄り添う日々を続けます。
 
     これは、平成二十三年十月二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである