人生の嵐のあとにー尺八と念仏とー
 
                            谷性寺住職 矢 野  司 空(しくう)
昭和二十四年神戸市に生まれ、高校時代から尺八を学ぶ。大学紛争、托鉢、念仏修養会など様々な体験を経て、昭和五十年出家・得度。昭和五十四年、谷性寺住職となる。
                            き き て 白 鳥  元 雄
 
ナレーター:  愛知県知多(ちた)郡阿久比町(あぐいちょう)。知多半島のほぼ中央にあって、北は知 多市、南は半田市に接し、西は常滑(とこなめ)市に続きます。町を貫く阿 久比川の東側に、谷性寺(こくしょうじ)という名の小さなお寺があります。ご 住職・矢野司空さんは高校時代から尺八が得意で、仏門に入っ てからも、尺八の演奏とともに仏法を説き、また尺八の演奏家 としても、国内各地や海外へ出掛けています。しかし、ここに 至るまで、矢野さんの人生には、ざまざまな出来事があり、さ まざまな人との出会いがあったということです。そのお話を伺うため、残暑厳し い九月初め、谷性寺をお訪ね致しました。
 

       (矢野住職が尺八を吹いている場面)
 
白鳥:  いやぁ、尺八でお出迎え頂くなんて有り難う ございます。
 
矢野:  いいえ、こちらこそ。わざわざお出で頂きま して有り難うございます。
 
白鳥:  今の曲は?
 
矢野:  今のは、「山越(やまごえ)」という曲なんですけれども、これは昔虚無僧(こむそう) が修行のために吹 いていた曲なんです。意味的には、修行していく途中でいろんな困難な場面に出 逢っていくわけですね。例えば、人生でもいろいろ苦しみとか、悲しみなんかに 出逢うわけですけれども、それを一つひとつ乗り越えていって、そして最後に悟 りの境地に到達するというものですね。それを表現している曲なんです。
 
白鳥:  矢野さんご自身は、この五十年の間に、嵐の中で、山・谷を歩いていらっしゃっ たから、実はそのお話を伺いに参りました。
 
矢野:  そうですか。宜しくお願い致します。ではあちらの方へどうぞ。
 
白鳥:  有り難うございます。
 

白鳥:  矢野さんは、尺八という楽器に触れられたのはおいくつぐらい ですか。
 
矢野:  私が初めて尺八を吹くようになったのは、高校二年の時なんで すよ。
 
白鳥:  高校二年─。
 
矢野:  ええ。その当時は、ビートルズとか、ジョーン・バエズのようなフォークソング が一世(いっせい)を風靡(ふうび)していたんです。たまたま僕と同じクラスになった友人が、尺八を やっていまして、ちょっと面白いなあと思いまして、それで吹いてみたら、音が 出たんですよね。尺八というのはなかなか初めて吹いて、音が出るということは ないんですけども、僕の場合、たまたま音が出ちゃったもので すから、これは面白いなあと思って、「じゃ、やってみようか」 ということで始めました。もともとは、古いものが好きといい ますか、高校時代から骨董店に行ったり、古本屋を回ったりと いうことが好きだったものですから、割合と自分の中では、違 和感がなく、尺八の世界にスーッと入っていけたんですね。
 
白鳥:  そうですか。そして、広島大学を目指して、ストレートでお入 りになるんですね。
 
矢野:  お陰様でね。私の父親が学校の教師をしていたものですから。そういうことで自 分も教師になろうと思いまして、広島大学を目指したんです。実は高校時代、非 常に成績が悪くて、父親からも叱られていたんですけども、まあとにかく一生懸 命頑張ってなんとか入学させて頂いて。で、もう入ってすぐに、邦楽部と言いま して、琴・尺八のサークル活動の方に入部しまして、それで尺八と同時に琴も一 緒にその当時やっていたんです。
 
白鳥:  そして、そこで矢野さんに襲いかかる嵐、これは昭和四十二年の秋頃から吹き荒 れ始めた大学紛争だったわけですね。
 
矢野:  そうですね。
 
白鳥:  矢野さんにとっては、大学二年生になる頃ですか。
 
矢野:  そうですね。広島大学ではちょうど私が二年生になる少し前で、一年生の後半ぐ らいから、だんだんと高揚してきたんです。最初のうちは、僕自身はそういう学 生運動に対して、非常に批判的な目をもっていたんですが、実際に大学の授業を 受けている間に、自分の気持のうえでの葛藤とか、或いは大学に対する不満だと か、そういうものがズーッと生まれてきまして、これはなんとかしなければいけ ないんじゃないかなあと思って、二年生になった時、ちょうど邦楽部の部長とい う立場に選ばれたのです。そこに文化部会というサークルの集まりのある会議が あるんです。その会議に出ていろいろ話している間に、みんな同じ様な共通の問 題点をもっていて、それで大学の学生運動と呼応していくような形で、だんだん とそれを行動に移すようになって、気が付いたら、デモの先頭に立っていたとい うことですね。
 
白鳥:  椅子や机でこう組み上げたバリケード、覆面とヘルメット、盾。今でも私も状況 を思い出しますけれども、その中に。
 
矢野:  そうなんです。真っ直中におりましてね。ただ、僕自身はそういうセクトと言い ますか、政治的な意図はまったくなかったんです。その時代の大学というものあ り方とか、或いは、もう一つは、ベトナムに平和を─「ベ平連」といわれる運動が ありましたね。ああいうものとかが総合的に動いていく中で、何かしないといけ ないというような、そういう思い生まれて一番身近にあったのが大学ということ で、大学の中からまず変革していきたい、という思いが一番強かったんです。
 
白鳥:  そういった戦列には、かなり主体的に関わっていった?
 
矢野:  そうですね。ほとんどデモの先頭に立っていました。リーダーという形ではない んですけども。要するに、隊列の一番前の方でデモ行進をしていましたですね。 今おっしゃられたヘルメットを被って、覆面してやっておりました。
 
白鳥:  この大学紛争の嵐というのは、昭和四十四年一月に、大学紛争の象徴だった東大 安田講堂の攻防という、あの事件の中で、急速に今度衰弱していきますでしょう。
 
矢野:  そうですね。
 
白鳥:  矢野さんがその時に、広島大学に入られたのに休学届けを出された。挫折ですか?
 
矢野:  まあ半分は挫折なんでしょうけども、むしろ自分のそれまで求めたものを、ここ では求められないんじゃないか、という。もう少し違ったものを自分の中で見出 したいなあという一つの気持がありまして、それで一年間休学をしました。ちょ っと間を置いて、その間に東京へ行ったり、いろいろとあちこち訪ねて行ったん です。一年後に、やっぱりダメということで、それで退学届けに切り換えました。
 
白鳥:  ほおー。
 
矢野:  そのまますぐ上京しまして、実はその当時尺八の世界では世界的に有名な横山勝(かつ) 也(や)という先生のところへいきなり行って、「弟子にして下さい」というふうに、お 願いしたんですね。最初はちょっと戸惑ったふうでしたけれども、でも快く入門 を許して頂きました。それで、自分にとっては、新たな出発を東京でやろうとい うことで始めたわけなんです。実は、その気持に至るまでに、いろいろ経過はあ るんです。例えば、ちょうどその当時、武満徹(たけみつとおる)さんという作曲家が、ニューヨー クフィルの百周年の記念に、作曲した「ノヴェンバーステップス」という有名な 曲を、大学時代に聞きまして、「尺八でこんなことが出来るのか」と。自分自身が、 それまでは普通の琴と尺八の合奏曲のようなことをやっていたわけですけれど も、そうではない。自分が音楽を通して、何かをやりたいと思ったものをこうい う形で実現しているというのは凄い、と思いました。尺八の可能性は、そういう 面ではまだまだあるんじゃないかというふうな気持があったんですね。もう一つ は、海童道祖(わたずみどうそ)という方が、尺八の世界で出られまして、その方は、古典的な尺八 の世界を現代的な捉え方で、さらにもっと精神的なものを含めて、新しい尺八の 境地を開かれたんです。その方の演奏も聞きまして、その二つが一つになった時 に、「ああ、尺八というのは凄い楽器だ」と。これを何とか自分のものにしたいと 思ったんです。たまたま横山先生という方は、海童道祖(わたずみどうそ)さんのお弟子さんだった ものでから、取り敢えず横山先生のところに入って、その片鱗だけでもなんとか 自分のものにしたいという気持が生まれたわけですね。
 
白鳥:  なるほどね。今、三十何年経って、その時を振り返れば今のお言葉になるんでし ょうけども、やはりアカデミズム自分の志した道というものを、一つひとつ否 定して、休学、そして、退学という。その決意までの一日一日というのは、やっ ぱり辛かったでしょうね。
 
矢野:  そうですね。ほんとに一時(いっとき)は、自分が何をしていいか分からない、という状況に なったわけです。いろいろ旅を僕は旅が好きだったものですから旅をして、 一人でいろいろ考えたり。で、結局、自分が何を求めているのかなあ、というふ うに考えた時に、やっぱり「自由だ」ということを、何となく思ったんですね。 というのは、「自由である」ということは、例えば、「社会から自由でありたい」 し、或いはもっと身近なことで言えば、「家族からも自由でありたい」とか、そう いう自由を求めていく時に、自分が進んでいく道の一つの杖のようなものである と、尺八というのを捉えていたような気がするんですね。ですから、「尺八の中 で、自分が自由に生きられたらいいなあ」というふうな憧れです。まだその当時 は、そんなふうな感じで、東京で尺八を本格的に勉強しよう、と。ですから、本 格的に勉強するためには、やっぱりそれなりの、また新たなアカデミズムという ものが必要になってくるものですから、その間のギャップというものを埋めるた めに、僕は、NHKの邦楽技能者育成会という養成所に入ったんです。一週間に 一回ですし、それから尺八の稽古も一週間に一回ですから、その間の時間という のはたくさんあるわけですよ。行かない時間ですね。勿論、尺八の稽古というの は、自分なりに練習は、一日に四時間、五時間、ズーッとやっていたんです。し かし、それにしても時間がある。そうすると、そういう時間を「自由さ」という ものを求めて、今度は新宿の方に出て行きまして、「フーテン族」といいますか、 新宿を徘徊して、自由に生きている人たち。その最初の段階では、僕は彼らはう らやましくてしょうがなかったわけですね。何者にも、誰にも拘束されずに、自 由に生きている・・・・と。ですから、そういう人たちの中に入って、自分もそうい う生き方をしてみたいなあ、と思っていたんですね。ですから、そういう面では、 二面性があったわけです。一つは、アカデミックなNHKというところに入って、 邦楽というものを学問というか、技術的な面も含めて、勉強しつつ、でも実際 の生活においては、フーテンのような自由な生活に憧れているという、相反する ものを同時に生活していたわけです、その当時においては。
 
白鳥:  まああの頃、「ヒッピー」と言われ
 
矢野:  そうですね。
 
白鳥:  そして、また無頼(ぶらい)の、新宿の、特に西口の辺りに、古いギターを掻き鳴らし、そ して時には、少し酔ったふうの、あの自由さというのは、我々サラリーマンから 見ていても、非常にある種の魅力はありましたけれども。
 
矢野:  やっぱり反体制ということに対して、自分なりの一つのプライドというものがあ りましたので、それを実践するために、勿論、今ではそういうことはないんです けれども、マリファナを吸ったり、フーテンの仲間と一緒にシンナーを吸ったり とかね。
 
白鳥:  一種の反体制の、我々の大人たちから見ると、なんかファッション的な、あの無 頼さ、そのものもファッション的に見えたんですけども、その中に入っていて、 その自由というものは、謳歌、或いは、そこの中で満足されました?
 
矢野:  結局、ある時にフッと気が付いたのは、自分がこうやって自由であればあるほど、 自分の中に生まれてくる「心の虚(むな)しさ」というのか、なんかそういうものが耐え 難くなるぐらい強くなっていったんですね。日に日に強くなっていったんです。 ですから、そういう仲間と会うと、お酒飲んだり、マリファナを吸ったりして、 騒いでいる時はいいんですけども、その終わった後の虚脱感というか、虚無感と いうものが、日をふるに従って大きくなっていったんですね。NHKの邦楽技能 者育成会はそうやって一年間何とか頑張って卒業して、プロになろうと思ったん です。で、尺八の世界の方から見ていくと、プロになろうと思っても、仕事はな いし、たまたまあった仕事なんかは、それこそお琴のおさらい会の伴奏の仕事で してね。それは自分が、例えば、「ノヴェンバーステップス」とか、海童道(わたずみどう)祖(そ)さん のような演奏に憧れて、求めたものとまったく違う世界なんですよ。結局、自分 のもっている理想というものと、その現実のギャップがだんだんだんだんと広が っていくよになりました。そうすると、それが「自分の生きる」ということにま で、疑問を感じるようになりましてね。ある時、ほんとに「このまま死にたい」 という気持が起きまして。それでアパートをフラッと飛び出しまして、夜の道を ズーッと歩きながら、どっか死ぬ場所とか、死ぬ方法をどうしたらいいかなあ、 というふうなことを、なんとなく考えながら歩いていたんです。それで、とある 公園に行きまして、そこのブランコに坐って、呆然としながら、フッと空を見上 げたんです。その夜空を見上げた時に、星が光っている。と、思った時に、フッ と閃いたことがあったんです。それが、実は高校時代に読んでいた種田山頭火(たねださんとうか)と いう、自由律俳句の俳人の托鉢の物語だったんです。「そうだ」と思いまして、 「あ、そうか。どうせ死ぬんだったら、どっか誰も知らないところで野垂れ死に するような死に方をしよう」と。「それもやっぱり後ろ向きに死ぬんじゃなくて、 前向きに死ぬんだったら、それはそれで自分の人生としてはいいんじゃないかな」 というふうな気持が、フッと起こりましてね。そういう気持が起きたら、気持が 楽になったものですから、そのまますぐアパートへ帰って、全部引き払いまして、 それで実は大学時代にいろいろと指導頂いていた山本空外(くうがい)(明治三十五年広島市 に生まれる。広島大学哲学科の教授を勤め、東西の哲学・倫理 ・宗教を研究。昭和二十年広島で被爆、同年九月京都知恩院で 出家・得度。平成十三年八月逝去:1902-2001)という方のお家を 訪ねました。で、「托鉢をしたいんですが」というふうに、お 話しましたら、「そうですか」と言って、「頑張って下さい」と いうふうに、言って下さったんですね。
 
白鳥:  この方はどういう方ですか?
 
矢野:  この方は、広島大学の先生をズーッと長くして見えた方なんですけれども。実は、 この方のところに、私が出入りするようになったきっかけというのがありまして。 それは高校時代に、私は尺八をやっていて、ちょっと古武道(こぶどう)もやっていたんです。 ある時、その古武道(こぶどう)の先生のお宅にお邪魔致しまして、進学についてのいろいろ 話をした時に、「僕は広島大学を目指しているんです」と、お話したんです。「広 島大学に行くんだったら、こういう先生がいるから」と言って、一枚のハガキを 出して下さったんですよ。その一枚のハガキには、まあ普通のハガキに、ただ、 「暑中お見舞い申し上げ候」と、墨黒々と書かれてあったんです。今はそういう ものはないですから、私のところに頂いたお手紙で、ちょっと 雰囲気だけ見て頂ければ、と思うんですが。こういう感じです。 ほとんど読めないんですけれども。たった「暑中お見舞い申し 上げ候」という文字だけが、このような形で書かれていたんで す。その書を見まして、これは凄い書だなあと、何となく感じ ました。それで、古武道(こぶどう)の先生は、「広島大学へ行くんだった ら、是非この先生に会いなさい」というふうにおっしゃって下 さったものですから、ほんとにその気になりまして、それで、 私が大学に入って、もうすぐに友人と一緒にそれこそ尺八を最初に私に教えて くれた友人なんですけれども彼と一緒に、この空外上人(しょうにん)のお宅をお訪ねしたん です。
白鳥:  「上人(しょうにん)」と、今お名前を─。
 
矢野:  あ、そうですね。私にとっては師僧になるんです。
 
白鳥:  ああ、なるほど。
 
矢野:  お坊さんなんですね。ですから、大学の教授でありながら、お 坊さんなんです。僕自身は、最初はお坊さんであることは勿論知らなかったんで す。
白鳥:  広島大学教授としての─。
 
矢野:  教授としての。それで教授でありながら、こういう素晴らしい 書を書かれる人だ、と。それも西洋哲学とか、そういう哲学者 でもある、というふうなことをお聞きしたものですから、昔か らそういうものに興味がありましたので、是非行って、お話を 聞きたいということで、それでお邪魔したのが最初のきっかけ なんです。
 
白鳥:  広島大学へ入られて、すぐに。
 
矢野:  そうです、すぐにです。でも、ほんとに親切にいろいろとお話して頂きましてね。 考えてみると、僕らが大学に入る時にもっていたイメージの大学教授そのものな んですね。学問について、しっかりと知っていて、そしてそれを学生に指導する ために、ほんとに真剣に取り組んで下さる。でも、我々が入学した時点では、残 念なことにもう定年で退官してみえたんですけれども。しかし、お宅をお訪ねし ますと、いろんなことをお話して下さるわけですよね。
 
白鳥:  はあー。
 
矢野:  はい。その方が、ある時に、僕が大学を止めてからなんですけども、鉢伏山(はちぶせやま)とい う信州松本市の郊外にある、二千メートルの山があるんです。その山の山頂付近 に、道場があって、そこで、「修養会の指導をしている」という話を友人から聞い たんです。僕のイメージの中では、そういう「修養会」というと、「坐禅会」のよ うなものだ、というイメージがあったんですよ。ですから、それでは行ってみま しょう、と思って、電車に乗りまして、松本で下りて、そこからバスに乗って、 約一時間半か、それくらいかかったと思うんです。山道を、ほんとに道なき道を 上って行って、二千メートルの山頂に着いたんですね。そうすると、そこでやっ ていたのが、実は、「お念仏の会」だったんです。私は、今お話をしましたように、 坐禅というようなものをやっているつもりであったのが、いきなり行ってみると、 若い人たちが四、五十人集まって、木魚叩いて、「なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)、なみあむだぶ つ」とやっているわけですよ。これは、「とんでもないところに来てしまった」と 思いましてね。でも、引き返せないんです。それは何故かというと、そのバスは 一日に二便しかないんですから(笑い)。その二便の二本目のバスに乗ってしまっ たのでね。私が下りたらすぐ帰ってしまいましたから下りられない。まあしょう がないから、とにかく暫く様子を見よう、と思ったんです。それで、そうやって 念仏している人たちの後ろに坐って、暫く様子を見ていたんですね。そうすると、 手元に木魚がありますから、「ああ、木魚なんだ」と思って、唄(ばい)取りまして叩く やつがありまして、それを持ちまして、何となく叩いたんですよ。勿論、声には 出ませんけど、ただ、叩いていたんです。
 
白鳥:  まだ声は出ない?
 
矢野:  まだ声は出なかったんです。そして、暫く叩いていて、聞いていると、みんなが、 「なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)、なみあむだぶつ、・・・」とやっている。「ああ、そうか。 南無阿弥陀仏と言うんだなあ」と思いましてね。で、少しずつ「なむあみだぶ つ、なむあみだぶつ、・・・」と。何となくこんなことをやっていて、何になるの かなあ、と思いながらですね。それで、暫くそうやって一緒に念仏していたんで す。そうすると、いきなりそれがパッと終わりました。そうすると、奥の方から、 山本空外上人が出て来られたんです。道場の正面に、三昧仏が掛けてありまして、 そこで礼拝をされまして、それからおもむろに横にある机の前に立って、お話を 始めたわけですよ。「ああ、山本空外上人だ」と思ってその時点では、「空外先 生だ」と思って、話を聞いていました。そうすると、そういう会ですから、念仏 の大切なこととか、いろいろなことをお話下さるわけですよ。それも、ただ仏教 の話だけではなくて、哲学的なことも、たくさんいろんなことをお話して下さる わけです。聞いていて、「ああ、こういうのが大学の授業なんだ」と。「これがき っと本当の大学の授業なんだろう」と。それくらい感動したんですね。それは自 分が実際に大学で受けていた授業とはまったく違うものでした。で、それは自分 自身が大学へ行く時に求めていたもので、もう大学でもなんでもない、ただの山 荘の道場で、空外上人がお話になっていることが、「これがそうなんだ」というい うふうに、その感動の方がまず最初強かったわけですね。
 
白鳥:  はあー。
 
矢野:  それでお話を聞いているうちに、「お念仏が大事だ」ということを、お話して下さ るものですからね。「ああ、そうか。念仏というのをやって見ようか」と。その時 点で思うわけですよ。で、一時間ほどお話されて、それでサッと念仏が始まるん ですね。「じゃ、今度は一生懸命やりましょう」と思って、木魚叩いて、「なむあ みだぶつ」と、目を瞑って念仏を始めるわけですよ。ところが、十分もすると堪 えられなくなっていくんですね。足は痛くなってきますし、「ほんとに止めよう か、止めようか」というふうな、そういう思いに何度も何度も駆られながら、何 とか一時間やり遂げたわけです。そうすると、一時間やり遂げた後に、その直前 までは、なんか知らないけれど、腹が立ってしょうがないんですね。何に対して、 自分が腹が立ったのか分からないんです。「何でこんなことをやっていなければい けないのか」というふうな思いが強くて、そのことに腹が立っていた。ところが、 一時間念仏して、「パチン!」と言って、終わって、ホッとした時に、その自分の 気持ちというものが、何か今までに味わったことのない「充実感」と言っていい のか、「充足感」と言っていいのか、それは言葉で説明出来ない、今まで経験して きたことのない心のあり方というものを感じたんですよ。それで、「これは何だろ う」と思ったんです。そうすると、今度はまた次お話があります。そうすると、 説明して下さる。「ああ、そうか。これはこういうことなのか」と思って、また納 得して、今度はまた別な時間に、お念仏を始める。ところがまた始めると、やっ ぱり十分、二十分経ってくると、足は痛いし、「もうこんなことをやっていられな い」という、そういう思いをズーッと繰り返しながら、三日間を結局過ごしたん です。結局、その三日の間に、念仏というものは、そういうものなのかな、とい う、朧気なものは分かったんです。結局、「何か」ということは、自分の中では掴 めずじまいに、その時点では終わってしまったんです。
 
白鳥:  そういった一遍経験を経ていらして、その後にまた山本空外先生に、今度は相談 に行かれたわけですね。
 
矢野:  そうなんです。ですから、その時の自分なりの感動とか、それ以外にもいろいろ お話をお伺いしたいものですから。ただ東京で過ごしている間に、私自身の中に 生まれてきたいろんな疑問だとか、絶望感とか、そういうものを、死まで考えた 時に、山頭火というものが頭に浮かんで、そして同時に、山本空外という人が浮 かびまして、取り敢えずそのことを伝えたい、と思って、また東京から広島まで 行ったわけです。
 
白鳥:  山本空外先生は何とおっしゃいました?
 
矢野:  「そうですか」と、「頑張って下さい」という、もうほんとにそれだけですね。
 
白鳥:  そんな寡黙で?
 
矢野:  今こうやって頭を剃って、何にもないですけども、その当時は 髪の毛は伸び放題で、髭は伸び放題、という有り様でした。
 
白鳥:  その頃、いわゆる「ヒッピー族」の─。
 
矢野:  そうです。そのままで、実は私はお訪ねしているんですよ。ところが、他の家な んかに行きますと、「まあ、汚い」とか、「髭、なんとかしろ」ぐらいのことを言 われるのが普通だ、と思うんです。その空外上人という方は、そういうことには 一切触れられなかったんです。でも、ほんとにいつもと同じように、玄関を入っ ていきますと、出て来られて、頭を下げて合掌して、「ようこそおいで下さいまし た」と迎えて下さったんです。私自身の空外上人に対する尊敬の念というのは、 話が前後してしまうんですけれども、そういう学問的な偉さだとか、そういうも の以上に、人間としての素晴らしさ、そして勿論、書は素晴らしいし、そういう ものがすべて備わった人として、我々のような若輩の人間にでも、ほんとに頭を 下げて、「ようこそおいで下さいました」と、こうお迎え下さるような方だったん ですよ。そういう方に、そういう面でお墨付きを頂いたものですから、私は托鉢 に出ることになりました。
 
白鳥:  でも、「托鉢」と言っても、まだその時は僧籍はないんでしょう。
 
矢野:  勿論、そうなんですよね。ですから、それを許して下さったことが、ちょっと不 思議なんですけども。
 
白鳥:  で、出られたんですか?
 
矢野:  ええ。出ました。でもその時はほんとに死を覚悟していましたので、私の懐の中 に、今でも覚えているんですけども二百七十円しかなかったんですよ。それで、 広島から三原に渡りまして、それから三原から最初瀬戸田に渡って、そこでちょ っと話すると長くなるんですけども、ある方にお世話になって、それから四国に 渡って托鉢を始めたんです。最初は托鉢を始めたものの、歩き始めても、一番最 初にどの家に立とうか、ということが、なかなか決意出来ずに、ほんとにウロウ ロしながら、二時間位彷徨(さまよ)っていたんです。まああるところで、思い切って立っ て一曲尺八を吹いていましたら、奥から人が出て来られて、「ご苦労様」と言って 下さって、そして、十円下さったんです。それでホッとしました。その後、約一 ヶ月ほどかけて、四国をズーッと歩いて回ったんです。で、歩いている間に、い ろんなことがありましたね。ほんとに何度も止めよう、と思うぐらい、辛い旅だ ったんです。でも、その辛い旅を支えてくれたのが何か、というと、そうやって 旅の間に出会っていくいろんな人の出会いだったんです。ある時に、僕は門附け しまして、尺八を演奏していても、誰も出て来ないから、「ああ、これはダメだっ たな」と思いながらほんとに頂ければ嬉しいんですけど、頂けないと気持が落 ち込むわけですね。「しょうがないな」と思いながら歩いて、次のところへ向かっ ていましたら、後ろから、お婆さんが、「お大師さん、待って!」と言ってですね、
 
白鳥:  お大師さま─。
 
矢野:  そう呼ばれるんですよ。僕は、最初は、「お大師さん」と、何か分からないもので すから、知らずに歩いていたら、そのお婆さんがダアッと駈けて来まして、「は い、これ!」と言って、百円玉差し出されたんですよ。「へえ!」と思ったんです。 そうしたら、そのお婆さんが、「やあ、さっきは裏の方でちょっと仕事をしていて ね、気が付くのが遅くなって、で、お金持って行こうと思ったら、あなたが行か れたもんで、追っかけて来たんですわ」というふうに言われたんですね。そうい うふうに私のことを支えて下さった方がいるんです。
 
白鳥:  「お大師様」と呼んで下さった。
 
矢野:  ええ。「お大師様」と。やっぱりそれは四国だなあと思いましたね。僕自身は別に 遍路をしているつもりはなかったんですけども、やっぱり四国の人々にとっては、 重なってくるんでしょうね。特に、衣を着ていますから、あそこの人たちにとっ て見ると、そうやって修行している人はお大師さまに繋がっていくんだなあ、と いうことをつくづく感じましたね。だから、その時にほんとに思ったことは、結 局、自分が、例えば大学時代にその当時、「体制に慣らされて、我々は大衆を啓 蒙していく」というような大それたことを言っていたわけですよ。「愚かな大衆 を、私たちは導いていくんだ」というふうな、そういうアジテーションをやって いた。自分というものは、正しいことをして、優れた人間だ、というふうな思い 込みで、それをやっているわけですよ。ところが、そうやって実際に自分が乞食 のような生活をしていますと、そういう人たちがほんとに自分の命を支えて下さ っているんだ、ということに、ほんとに気が付かされましたね。そうすると、不 思議と、その前の御別時(おべつじ)の念仏というのがズーッと浮かんできまして、道を歩き ながら、「なむあみだぶつ、なみあむだぶつ、・・・」というふうに自然と出てく るようになってきたんです。
 
白鳥:  托鉢とか、乞食(こつじき)というのがやっぱり行(ぎょう)であるというのが、今のお話を聞いている と分かりますね。
 
矢野:  そうですね。結局、ほんとにそれは行なんだなあ、ということをですね。特に私 の場合は、命を懸けて、どこで野垂れ死にしてもしょうがない、というくらいの 気持でやっていますから。特に、そういう時に、自分のいのちを支えられている、 ということの感動というのは、「あ、結局、自分は自分一人で生きているんじゃな い」ということが分かるわけですよね。
 
白鳥:  仏教者として生きる、という決意はやはりその時から?
 
矢野:  いや、どうなんでしょうね。僕自身は、仏教とか、そういうことを考える余裕は なかったです。自分自身の中でも、ただ今自分のもっている問題を解決したい、 ということしか、頭になかったんです。ですから、その一ヶ月間、そうやって四 国をずーっと演奏しながら、托鉢して回っていて、得たことというのは、先程お 話した「人の縁」と、そして、「自分自身が自分の力で生きているんではない」と いう。「人によって生かされている自分」というものに気付かされたわけです。そ の時点で、自分としては、もの凄く充実し始めた時期でしたので、まだ仏教者と して生きる、というところまでの決意はなかったんですね。むしろ、その後、四 国をグルッと回りまして、最初は四国を一周するつもりだったんですけども、ふ と気持が動きまして、「あ、ちょっと今度は本州に渡ってみよう」と思いまして、 徳島から和歌山の方に船で渡ったんです。で、和歌山でたまたま泊めて頂いたお 寺のご住職から、「今度、高野山で別時修養会がある。お念仏会がありますよ」と いうふうにお話をして下さったものですから、「ああ、そうか」と思って、じゃ、 一度そうやって道すがら自分の中から自然に出るようになった南無阿弥陀仏 というお念仏を、今度はそのことに取り組んでみよう、という気持になりました。 とにかく真剣に念仏したんです。それで、五日間のお念仏の最後の日に、やっぱ り思うところがあって、じゃ、最後これ結願(けちがん)なんだから、自分の中で一つ切りを 付けようと思って、徹夜念仏を決意しました。みんなが寝静まった後、私一人道 場に入りまして、音を立てちゃいけないものですから、木魚の上に毛布を被せま して、叩きながら、「なむあみだぶ、なみあむだぶ、・・・」とズーッと念仏した んです。その念仏している間に、自分が起きているのか、寝ているのか分からな いような中で、ズーッと念仏していたんですけども、ふと明け方近くになって、 目が開いた時に、道場の奥に安置されている如来様というか、仏さまが光り輝い ているんですね。それはどういう状況なのか自分でも分からない。ただ神々(こうごう)しく 輝いている。その光りに自分がパッと包まれている、というものを感じた時に、 ほんとに言うことの出来ない、言葉では表すことの出来ない喜びというものを感 じました。もうそれから、念仏を真剣に、残りの二時間ほどでしたが一所懸命念 仏して、このお別持を終えることが出来たんです。そういう意味では、宗教的な 回心(えしん)というか、体験みたいなものが、自分の中でその瞬間に起きたんじゃないか なあ、というふうに思うわけです。私が初めて経験した鉢伏山の別時というのが、 その後に時期的に繋がってやっていたものですから、そちらの方に行きました。 それで又五日間ズーッと一緒にお念仏させて頂いて、最後の日の懇親会の席だっ たと思うんです。空外上人が、僕が托鉢をしている間ズーッと尺八を一曲吹いて やっていたお話をしましたら、「矢野君、じゃ、尺八を吹いてみなさい」と言われ るものですから、みなさんが並んで車座になっている真ん中で吹かせて頂いたん です。もうその時は、自分のこれまでの、わずか一ヶ月あまりの経験ですが、そ ういう思いがふっと一挙に上がってきて、自分の中でも感動を覚えながら演奏出 来たんです。それより何より自分自身が嬉しかったのは、その演奏が終わった後 で、側におられた方が、僕に、「空外上人が泣いておられました」とおっしゃった んですよ。その話を聞いた時に、「あ、僕はこの方に一生就いて導いていかれる」 ということをもうほんとに痛切に感じましたですね。
 
白鳥:  じゃ、その時の曲をお願い出来ますでしょうか。
 
矢野:  はい。承知致しました。まあこの曲は、僕自身が托鉢をしている時に、ズーッと この曲だけを吹き続けた、という曲なんです。そういう面でも、非常に僕自身の 中に想い出の深い曲です。「手向(たむけ)」という。
 
白鳥:  たむけ?
 
矢野:  手を向けると書くんです。「手向」という曲ですけれども、じゃ、お聞き下さい。
 
(尺八を吹く)
 
(吹き終わって)どうも失礼致しました。
 
白鳥:  有り難うございました。いやあ、こんな身近で、尺八の音(ね)を聴 くのは、私は初めての経験なんですが。さて、仏教者として、 ついに生きよう、と。
 
矢野:  そうですね。その後、二ヶ月ほど、山陰から能登(のと)の方へも托鉢をしました。で、 結局、合計でまあ三ヶ月、托鉢を終えまして、それで東京に戻ったんです。まあ 流れでいきますと、その後、すぐに結婚しましてしてしまった、というと申し 訳ないんですけども、結婚しましてですね。生活のために、僧侶になるつもりは その当時なかったものですから、サラリーマンというか、会社勤めをしましてね。
 
白鳥:  一度そういう道を通って。
 
矢野:  はい。で、毎日会社に通うという生活をしていたんです。ところが、二年経った 頃から、だんだんまたそのことに疑問を持ち始めました。僕はこうやって托鉢し て、念仏の世界とか、いろんな生きるということを感じて、そして、その過程の 中で、いろんな方にお世話になっている。そういうものに対して、「僕が何か恩返 し出来るのか」というふうに考えた時に、自分はこのままこういう生活を続けて いてはいけないんじゃないか、と思いました。「僧侶になろう」ということを決意 したんですね。それでまた空外上人のところをお訪ねしたんです。「弟子にして下 さい。ついては、僧侶になりたいんです」というふうにお話しましたら、また「は い。分かりました」ということで、弟子にして下さったんです。
 
白鳥:  はあー。すべてをそのまま受け入れて下さる。
 
矢野:  そうですね。それだけ懐の広い方だということは、ほんとに何かにつけて自分自 身が直(じか)に体験しますから人から聞いた話じゃなくて、僕自身が直にその空外上 人と接する中で、そういうことを実感してきましたので、やっぱり凄い方だな、 と思うんですね。
 
白鳥:  矢野さんにとっても、お身内にそういうお寺の方がいらっしゃるわけでなしに、 初めての決断ですよね。
 
矢野:  僕自身は、自分の中で決めたことだから、全然違和感はなかったんですが、父親 とか、母親、それに家内はそういうことをまったく思いもよらずに結婚しており ますから、最初はビックリしたんです。まあ何とか付いてきてくれましたですが ね。山本空外上人は浄土宗の僧侶ですから、私もそのご縁で浄土宗の僧侶にさせ て頂くということで、資格を取るのに二年かかるものですから、とにかく会社を 辞めました。で、辞めた後は、じゃ、どうするか、ということで、あちこちのお 寺へ修行を兼ねて勤めさせて頂いたんです。二年かかって教師の資格を頂いたわ けです。で、実は、私は、山本空外上人からそれまでにもいくつか書を頂いたん ですけれども、その教師の資格を頂いた時に、「私のために」ということでわざわ ざ送ってきて下さった書が、この床の間に掛けております「観自在菩薩」という 掛け軸なんですね。
 
白鳥:  伸びやかな筆ですね。
 
矢野:  僕にとっては、最初の出会いから、ここに至るまでのいろんな 流れがこの中に込められている、という気持がするんですね。 この「観自在菩薩」というのは、「般若心経」に出てきます。 普通には、「観音菩薩」というふうに言われているわけです。 私の師匠が、「観自在菩薩の如くおなり下さい」というふうに、 添え書きに書いて下さったんですね。ですから、「仏のように」 じゃないんですよ。「観自在菩薩のように」ということは、「菩薩」というのは、 常に修行していくということなんですね。ですから、やっぱり人間というのは、 生きている限り修行というものが付いてくるわけです。これで、もう悟ったから 十分ということはきっとないんだと思うんです。そのように、菩薩として生きる。 その生きる時に、「観自在のように」ということは、考えてみると、自分自身が若 い時に、学生運動をやったり、フーテンやったり、そういうところで求めたもの というのは自由だったわけです。ところが、自分が求めているというのは、外に 向かっての自由なんですね。ですから、求めて求めて、それを得ることが出来れ ば出来るほど、自分の心は虚(むな)しく虚(うつ)ろになっていってしまって、最後に死という ことまで考えてしまうようになってしまったんです。そうやって自分が苦しみの 中でズーッと生み出した世界というものが、観自在菩薩だ、ということを、私の 師匠が一言で見抜いた、ということを薄々感じたんですね。要するに、「自由」と いうことと、「自在」ということは、どう違うかと言いますと、「自由」は、自分 が好き勝手なことをする。それは人がどうであれ関係ないわけです。ところが、 「自在」ということは、自分自身がどんな状況になっても自由でおれる、という ことなんですよね。例えば、苦しいこと、辛いことがあったとしても、その中で、 自分自身が自由に、例えば、悪口言われたとしても、その悪口に腹を立てるんで はなくて、その悪口を言われたお陰というものに感謝出来ればいい。そうすると、 それ以上の人間としての対立というものは生まれてこないわけですからね。もう 一つは、尺八を吹く時に、自分と尺八が一つになる。その一つになった時に、ほ んとに自在の境地で一つの音楽と言っていいのか、音というものが生み出されて くるし、その音が自分自身の心をも凄く満足させるし、同時にまたそれを聞いて 下さる人の心も、すべてでないにしても、いろんな形で満足して頂ける、という。 そういうものじゃないかな、と思いました。ですから、僕にとっては、尺八を吹 くという行為と、それからこうやってお念仏の僧侶としての生活をするというこ とがそこできっと結び付いて生きているわけですね。
 
白鳥:  そうですか。先程、冒頭に「山越」という曲から入りました。いま考えれば、も う三十何年前のあの大学紛争というよりも、もう全世界の若者たちの異議申しだ ての時期が、一九六○年代の後半にありましたよね。そう言った嵐の、そして、 その山を越えていらっしゃって、今、どういうふうにお考えですか。
 
矢野:  いや、だから、自分にとっては、その時々の自分の心というのは、苦しみだとか、 悲しみとか、そういうものでいっぱい、或いは、怒りでいっぱいだったわけです。 でも、そういう一つの一つのことを、自分が経験してきたことが、今、自分が僧 侶として、或いは、尺八の演奏家として、生きていく時に、すべてのものが生き ているんですね。「生きている」と言いますか、「生かされている」と言いますか。 ですから、そう思うと、僕は、たとえどんな人生を送ったとしても、それはその 人間にとって、無駄な瞬間というものは、きっと一瞬たりともないんじゃないか、 と思うんですよ。ただ、それを、そのまま流されて生きてしまうと、死ぬ時にな って、もうそのままで、絶望の中で死ぬものかも知れません。しかし、どんなに この瞬間が辛くとも、苦しさというものが、自分にとって、自分の命にとって、 大切だというふうに納得できれば、それはすべて無駄なものはないわけですね。 だから、それを僕自身が身をもって生きることで、そして、それを音楽を通して 例えば、尺八を吹くというのは苦しいんだけれども、僕の表情を見ていると、 見ている人が苦しく思うぐらいの表情なんですけれども、その苦しさの中に自分 の喜びというか、充実感というか、そういうものが表現できれば、その表のもの でなくて、内から出てくるものを、それぞれの人が感じて頂ければ、もうそれが 私にとって、それまで自分自身が生かされているお陰というものを、そういう人 たちに対する御恩返しとしても、大切なことではないかな、と思っているわけで す。
 
白鳥:  最後に、もう一曲所望(しょもう)してよろしいでしょうか。
 
矢野:  分かりました。それじゃもう一曲、「心月調(しんげつちょう)」という。この曲は、喩えてみれば、 人間が迷っている時というのは、夜の闇と同じなんですね。その「迷いというの は何か」と言いますと、自分自身の心の目を閉じている状態な んです。ですから、夜の闇の中を目を閉じたまま歩いていると、 いろんなものにぶつかって、躓(つまず)いたり、蹴躓(けつまず)いたり、柱にぶつ かったりして、痛い思い、悲しい思いをするわけですよ。とこ ろが、それは自分の心さえ開けば、自分の歩むべき道というも のが月の明かりが皓々(こうこう)と照らしてくれている、という。そうす ると、安心して歩いて行ける。人生というものを生きていける というのを、表現している曲だ、というふうに思っております。
(尺八を吹く)
 
  
     これは、平成十四年十月六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである