心を開くときー仏教カウンセリングに教えられてー
 
                         茨城カウンセリングセンター
                         理 事 長   大須賀(おおすが)  発 蔵(はつぞう)
                         き き て   金 光  寿 郎
 
金光:  今日は茨城カウンセリングセンター理事長の大須賀発蔵さんに、スタジオにお越 し頂いております。仏教とカウンセリングの立場から、閉ざされた人間の心が、 どういう時に開くのか、ということをお話して頂きたいと思います。大須賀さん は、大学時代には仏教学を専攻された方でございますが、家業の茨城木材会社の 社長さんをなさっております。茨城木材相互市場の社長さんであると同時に、茨 城の「いのちの電話」の理事長さんもなさっております。その他いろいろのお仕 事をなさっていらっしゃっているわけでございますが、昭和三十年会社を始めら れた後、暫くして、社員の方が挫折しかけた時に、カウンセリングによって立ち 直られた。そのカウンセリングの威力に感心されまして、ご自分でもカウンセリ ングの研究をされ、カウンセラーとして、現在もいろんな相談を受けていらっし ゃる方でございます。どうぞよろしくお願い致します。
 
大須賀:  よろしくお願い致します。
 
金光:  仏教にも随分いろいろな教え方があるわけでございますが、長年、カウンセリン グをなさって、いろいろな悩みを聞いてこられた立場から、仏教の、どういう点 に共通点と言いますか、大事なところがあるとお考えでございましょうか。
 
大須賀:  そうですね。仏教の基本的な思想をはっきりと示されたものに、「三法印(さんぼういん)」とか、 「四法印」というのがございますね。
 
金光:  「三法印」「四法印」ということで、用意しておりますので、これをご覧頂きなが ら説明して頂きましょう。
 
大須賀:  ええ。普通は、「三法印」ということで、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 「諸法無我(しょほうむが)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」ということでよく言わ れております。
 
金光:  普通は縦書きなんですが、今回は横書きにしており ますので。
 
大須賀:  意味として、簡単に申し上げれば、総てのことは無 常である、ということですから、止(とど)まっていない。 常に流れて変化している、ということ。それから、総てのそういった現象は、そ れ自体によって動くのではなく、我と言うか、それ自体があるか、というと、そ ういう実体性はないんだ、と。みんな縁によって結ばれながら、常に変化してい るんだ。そういう一つの考え方、洞察が出来た時には、「涅槃」というのは、「悟 りの世界」と言っていいんでしょうが、そういう静かな悟りの世界に、我々は届 くことが出来ますよ、ということで、「三法印」ということがよく言われるんです ね。ところが、「四法印」と言いまして、もう一つ、「一切皆苦」、空ではないん です。苦しみの。よくこの二番目に入る書き方が多いですね。でも、それを取り 除いて、一切皆苦だけわけてあるのが多いんですが、実はカウンセリングをやっ てみて、こちらの上の方の、三つの深い心境の世界と、それから我々が日常ほん とに苦しんで、総てのことに苦しんでいるという、ある意味では、全く相(あい)対した ようなものが、実は共に働きあっていて、むしろ、私たちは、「一切皆苦」の苦し みを通して、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」というような、高い次元に洞 察が進むように思うんです。そうしますと、何かカウンセリングということは、 「一切皆苦」というところを、ほんとに大事にして、そして、そこからいささか でも、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」という、そういうような深いところ までのことに、いけるか、いけないかは別としても、そこへ循環しながら、心を 深めていく。そういうプロセスと考えたっていいんではないだろうか、というふ うに考えました。
 
金光:  むしろ、それをオーバーに、言い過ぎになるかも知りませんけれども、「一切皆 苦」があるから、「諸行無常」も、「諸法無我」のところへも、近付くきっかけが あるといううふうに考えている。
 
大須賀:  全くそれは大事なことです。そうすると、何か四つの言葉ということだけれども、 「一切皆苦」を、これは勝手な私の捉え方なんですが、むしろ、分母(ぶんぼ)として、大 きく置いて、分母があって、分子(ぶんし)というところに、一つの悟りの世界が浮かんで 来るんだ、というような捉え方をしてはどうだろう、と思っています。
 
金光:  もう一度、この図で説明して頂くと、下の一切皆苦というのが、これが分母であ りますと。
 
大須賀:  分母と考えて、その働きがあって、こちらが意味をもった洞察が生まれてくると いうふうに捉えてみると、この二つが一つというか、よく仏教では、「煩悩即菩 提」と言いますね。「迷いが悟りですよ」と。迷い、悟りは、非常に違ったものな んだけれども、実は深いところで、働きあっているものだ、ということをいいま す。どうもカウンセリングも、その辺のところを辿っていくことのような感じを もっております。
 
金光:  そうしますと、「涅槃寂静」なんというと、遙か彼方の別世界に、なんとかして入 らなければいけないものだ、というふうなイメージが、なきにしもあらずですけ れども、そうではなくて、カウンセリングを実施している中で、そういうことを お感じになることがあるわけでございますね。
 
大須賀:  それは非常に多いことですね。
 
金光:  例えば、一、二の例をご紹介頂けますでしょうか。
 
大須賀:  そうですね。ずうっと前のことでありますけれども、私のところに一人のお母様 が訪ねて来られました。それで、よく家庭内暴力ということがありますね。
 
金光:  聞きますね、この頃。
 
大須賀:  男のお子さんが、高校に入ったんですけれども、不本意入学だったんです。自分 がそこへほんとに入りたい、というところじゃないんですね。そういうこともあ ったせいか、非常に大きな暴力が起きまして、それで心配されたんですね。お母 さんにしてみますと、病院の方に相談したり、いろいろなさりながら、「病気だっ たら困るなあ」「病気でなければいいなあ」と、それがいつも頭にありまして、相 談に来られましても、母親というのは、こんなに涙があるんだろうか、と思うほ ど、いらっしゃる度に三ヶ月近かったでしょうねまあ一週間、十日、間をお いて来るわけですけれど、それで泣かれておりました。だんだん涙が涸れてきて、 つまり、心がそれだけ表現出来てきたことによって、ほんのちょっとでも、心に ゆとりが出たんじゃないでしょうか。だから、カウンセリングは、むしろそのゆ とりが生まれることがとても大事だ、と思います。こうおっしゃったんですよ。 私のことを、「先生」なんて言うんですが、「先生、世界中には、人間が何十億人 とか、いるそうですけれども、仮に、あの子が病気であっても、或いは、病気で なくても、あの子と一緒に、一生歩く人は、この母親の私だけだったんですよ」。 いや、私もすごいことだ、と思いました。そういうふうな深い、仏教では、そこ を一番大事にしておりますね。「有無の二辺」と言いますが、そこを超えていくと いう。そうしましたら、これはほんとに不思議なことに、お子さんに変化が出て 来られた。それはお話ししていいことになっておりますので立て籠もってい るわけですよ。二階の部屋に。引きこもっているわけですね。毛布を窓に釘付け にして、光が入らないぐらいにしているわけです。そうすると、お母さんはご飯 を運んで行かなければならない。お母さんが二階のお部屋までお膳をもっていく わけですね。そうしますと、常時ではないんでしょうが、時として、「何だ!」と 言って、足でもって、パッとご飯のお膳を蹴られてしまうことがしばしばあった、 というんですね。まあ折角ご飯を持ってあげているのに、蹴られて、その始末を して帰って来るお母さんのお気持ちを思うと、ほんとに涙が出てきますよね。そ ういうことがあったのが、「病気であっても、病気でなくても、この子と歩いて行 くのは、私一人だったんだ」。つまり命丸ごと受け止めて、自分ごと丸ごとで、向 かいあったわけですよ。そうしたら、蹴るようなことがなくなった。それで、お 母さんが気付いたんですね。私は、ご飯を持っていってあげている、というつも りでいました。だけど、勿論、それはそうなんだけれども。その前にですね、襖 を開ける時は、「何か変なことやっていないか」「困ったことやっていないかな あ」と、パッと射竦(いすく)めるような眼差(まなざ)しで窺っていた、というんです。どっちかと いえば、それが心配だから、様子を見に行くというようなことの方が、むしろ気 持の上では先になっていたんだ。ご飯を持って行くつもりがね。そのことに気付 かれて、それで、「病気であろうと、なかろうと」というところで、「はい。ご飯 だよ」と、ほんとに素直に持って行けるようになりました。そうしたら、ある時、 間もなくなんですが、ドカドカと二階から下りて来られまして、「お母さん、ご 飯!」と言って、家族と食べるようになった。それから立ち上がってきました。 そういうふうに、良い悪い。良ければいいけれども、悪ければ駄目というのでは なく、命の全体を、自分の母親としての命に、全部受け止めよう、ということに、 誰から言われたわけじゃありません。自分の洞察で、そうなった、ということが、 そういう変化を生みました。今、そのお子さんは、一所懸命お父さんのお仕事を、 跡取って働いていてくれますよ。
 
金光:  その時に、お母さんが、「私は、あなたがどういうことになっても、あなたと一緒 にいくよ」なんて言われたわけじゃないんでしょうね。
 
大須賀:  全然、言っていません。
 
金光:  そんなこと言ったら、おかしなことになるかも知れませんね。
 
大須賀:  自分でそう思って。そうしたら、そういうことがなくなった。後で気が付いたら、 自分が、ご飯を持って行く前に、そういう気持でやっていた、と。
 
金光:  無意識のうちに、何かそういうものが伝わっておった、ということですね。
 
大須賀:  そうです。そういうことがよくありますね。もう一つの例ですが、
この方は、高校に入って、不登校になられた。でも、元気のある方で、東京の大 検予備校というのがありますね、大検予備校に、部屋を借りて、勉強に行ってい ました。それで、大検の試験を受ける日のことなんですよ。前の晩に、お母さん のところへ、「朝、寝坊しちゃうと困るから、電話頂戴」と。分かりますよね。お 母さんが電話したら、出ないんです。ご主人がちょうど出張で居ない時で、「い や、困った」と思って、「今、車で行けば、起こせば間に合うかも知れない」とい う思いで、今までは、お父さんと行ったけれど、自分で運転して、東京まで行っ たことがないお母さんが、高速道路を百二十キロも出して、駆けつけて行きまし た。トントンとやったら、お子さんが出て来て、ビックリして、「お母さん、どう したの」と。そうしたら、お母さんはヘナヘナになってね。その時には、「もう試 験に遅れたら大変だ」というんじゃなくなっていた、と。「生きていてくれればい い」「もしかして、試験を受けることに、負担を感じて、とんでもないことがあっ たんじゃないか」ということすら思って、「生きて居てくれればいい」。その一点 に立って、やったわけですから、そのお子さんには、そのお母さんの気持が伝わ ったでしょうね。それで、社会に元気に出ていかれた方でした。そういうことが ありましたね。
 
金光:  無意識のうちに、「こうなってくれればいい」「これはちょっと困るとか」という のは、考え方としては出来ているようですけれども、そこに留まっているだけで は、苦しみがどうしても続く、ということになるんでしょうね。
 
大須賀:  お母さんも辛かっただろうし、お子さんもそういう眼差しで見られていることは、 やっぱり辛かったでしょうね。そんなようなこともありまして、今のどんな状況 でも、「愛の眼差しが届くか、届かないか」「慈悲の眼差しが届くか、届かないか」 ということが、結局、カウンセリングでも、ほんとに大事なところだなあ、と思 っておりましたら、『華厳経』という経典がありますね。『華厳経』の中に、地球 に、太陽が出るところが、書いてあるのがありました。
 
金光:  そこのところを、ご紹介頂いたのを用意しておりますので、ちょっとそれを読ま して頂きましょう。
 
たとえば日の閻浮提出(えんぶだいい)づるに、まず一切の須弥山(しゅみせん)等(とう)の諸大山王(しょだいせんのう)を照らし、 次に黒山(こくせん)を照らし、次に高原を照らし、然して後に普(あまね)く一切の大地を照 らし、日は念を作さず、我れ先に此を照らし、後に彼を照らすと。
(『華厳経』如来出現品第三十七の一)
 
日は順番に、こういう順序で照らす、というようなことを思わないで、「我、先に これを照らし、これを後に照らす」というようなことを思わないで、それで、「高 い山から、黒い山、それから高原を照らし、それから後、一切の大地を照らす、 というふうに、順序立てて照らそう、と思っているわけではない」ということを、 言っているわけですね。これからちょっと後に、次の言葉が、如来の智慧に譬え てあるわけですけれども、
 
如来応等正覚(おうとうしょうがく)も亦(また)また是の如く、常に無碍(むげ)の智慧の光明(こうみょう)を放(はな)ち、普く一 切の衆生、乃至(ないし)邪定(じゃじょう)を照らし、・・・
 
これは、日の照らすところと同じように、智慧を譬えているわけですね。その後 ですが、
 
而も彼の如来の大地の日光は是の念を作(な)さず。
 
「是の念を作さず」。「是の念」というのは、これから後にくるところですね。
 
我れ、当にまず菩薩の大行(たいぎょう)を照らし、乃至、後に邪定の衆生を照らすべ しと、ただ光明を放つことを平等にして、普く照らし、無礙(むげ)無障(むしょう)にして 分別する所無し。
(『華厳経』如来出現品第三十七の一)
 
「邪定の衆生」というのは、これはどういう衆生なんでしょう。
 
大須賀:  そうですね。仏教で、「正定聚(しょうじょうじゅ)」という言葉がありますから、救われる。定まっ た人、ということでしょうけれども。
 
金光:  迷いがない、という人という。
 
大須賀:  そうですね。「邪定」ということは、まだそういうことの定まらないところで、苦 悩している、というふうに、捉えてもいいんじゃないでしょうか。
 
金光:  そうすると、これは菩薩だから照らしてやる。邪定だから、後に照らす、という ようなことは考えないで、さっきの日光と同じように、菩薩の智慧が、常にみん なに届いている、と。
 
大須賀:  ええ。同時なんですね。
 
金光:  同時に届いている、と。
 
大須賀:  差が出来ているのは、こちらの状況によって、出来ているだけですね。菩薩様の 慈悲のあり方ではない、ということです。
それに引き続いて、ちょっとお話したい、と思ったことがあるんですが、
この方も、お子さまが不登校の状態でして、動けない状態でもありました。カウ ンセリングに通われておりますと、今、動ける、動けない、を越えて、まさに、 高い低いを超えて、お母さんの愛情も、どういう状況も、そのままスポンと受け 止めていく、ということが、大切なわけですね。しかし、これは難しいですよ。 これはカウンセラーの人、そのものが、なかなか出来ないのですから。お母さん もそういうふうにして、何とかあるがままのお子さんを引き受けていこうとして いるわけですね。そうすると、お父さんは違うわけですよ。一般社会の論理とい うか。「家族の中に、現状を認めて、甘やかすものがいると、子供は立ち上がれな い」と、お父さんは言われるわけです。
 
金光:  成る程。厳しくやらないと、ダメだ、と。
 
大須賀:  そういうことです。
 
金光:  それは分かりますね。
 
大須賀:  「親が毅然とした態度をとった時に、問題は解決するんだ」と信じて、絶対、お 母さんのいうことを受け入れない。
 
金光:  兎に角、「受け入れてやりなさい」というよりも、お父さんの方は、「いや、それ では社会に出て困る」とか、そういう姿勢なんですね。
 
大須賀:  お父さんはね。しかし、お母さんの気持ちは、「そんな考えではダメだ」と。だか ら、「お父さんを変えなければいけない」と。
 
金光:  自分と同じように向けよう、と。
 
大須賀:  同じようにしなければならない、ということで、必死になるけれども、どうしよ うもないんですね。そんな時に、そういう違った二つの価値を、同時に受け入れ る、ということは、自分で出来ないんですね。それで、私は、先程ありました『華 厳経』の話をさせて頂きました。
 
金光:  あの日光が、どういうふうに照らすか、という。
 
大須賀:  ええ。ですから、その違いはあっても仕方がないことで。しかし、それはみんな 同じ仏様の命に照らされている姿だ、ということを、お母様も了解してきたんで すね。
 
金光:  今、ここのところですね。
 
日の閻浮提出づるに、まず一切の須弥山等という高い山を照らし、それ から、黒い山を照らし、高原を照らし、そして、後に普く一切の大地を 照らす
 
と。「照らしているけれども、我先にこれを照らす。後に彼を照らす」ということ ではない、ということが、ちゃんと『華厳経』というお経にありますよ」という 話をされたわけですね。
 
大須賀:  そうです。そういうことを、お話したんです。ですから、「それはお互いに違って いるようだけれども、そこに届いている宇宙からの慈悲というか、愛というか、 それは変わらないんではないでしょうか」ということを、お話申し上げたことが あるんですね。
 
金光:  それはお母さんに、ですね。
 
大須賀:  お母さんに。そうしたら分かったんですよ。どんな形で分かったか、というと、 「私は、自分で人を、主人のことも、子供のことも、私は変えられるんだ、とい うような、非常に傲慢な自分として、存在していたなあ」ということが分かった んですね。
 
金光:  「念をなす」という、自分が念をなしていたわけですね。「こうしよう」という念 をなし、「子供もこうして欲しい」という念をなしていたわけですね。
 
大須賀:  そうして、そういうことが分かってみると、お父さんは、お父さんの角度から子 供をなんとかしよう、と思って、一生懸命やっているんだ。子供は、子供の角度 から、自分でなんとかしようと思っているんだ、と。私は、私の角度でやってい ることで、みんなそれで、全体として大きな愛情の中にあるんだ、ということが、 分かって、気にならなくなっちゃった。そうしたら、ちゃんと立ち上がってきま したね。
 
金光:  それも自然にですか。
 
大須賀:  自然に。
 
金光:  「私が、今まで、お父さんの向きをこちらに向けようと思っていました」なんて いうことを、おっしゃったわけじゃないですね。
 
大須賀:  ないです。もう眼差しが違ってくるんです。そういうことがありましたね。です から、私たちが、やっぱり宇宙の根源からの働きを受けて、生きているわけです から。その根源なる働きが、「あと、先」なんていうことを考えないで、初めから、 平等に照らしていることは、平等な命だよ、ということを言っているわけですか らね。
 
金光:  今のお話で、例えば、お父さんはお父さんの立場で、ということが分かると、お 父さんは前の姿勢をそのまま続けられる。
 
大須賀:  それが変わってきます。
 
金光:  変わってくるんですか。
 
大須賀:  それはそうですね。否定されていると思えば、さっきの、初めの話で、お膳を蹴 飛ばした子じゃないけれど。否定されない眼差しで、「お父さんはお父さんで一生 懸命やっていてくれたんですね」ということを言って頂けたら、お父さんも、「そ うだよ」ということになって、「お母さんはお母さんらしくやっていたんだね」と いうことで、お互いに理解し合ってくるんじゃないでしょうか。
 
金光:  そうすると、それぞれの、お父さんも、お母さんも、子供さんも、自分のそれぞ れの立場で、自分の良いと、こういう状態だ、というところで、生きていた時の 心というのは、多少閉ざされているか、
 
大須賀:  構えていた、
 
金光:  防御の姿勢、固い姿勢であったのが、みんな平等な命の上だ、ということになる と、それが開かれて、それも開かれてきている、と言えるわけでしょうね。
 
大須賀:  そうです。今、もう一つ思い付いたんだけれど、あるグループをやった時に、学 卒の引きこもりの方ですけれども、社会に出れない男のお子さんがおられました。 お子さんというか、そういう青年ですよ。
 
金光:  グループの中に、一緒に入っていらっしゃったわけですか。
 
大須賀:  カウンセラーの人が、「一緒にいこう」というので、連れて来られたんです。そう したら、その中のメンバーの、あるお母さんが、「心の落ち込んでいるような時 に、頑張って!なんて言ってはいけないんだ」と。これは常識として、そう いうことを言われますね。
 
金光:  よく言われますね。
 
大須賀:  そうしたら、私は教えられました。黙っていた子が、突然、「頑張って≠ニいう 言葉が悪いんじゃないんですよ」なんて言い出したものですから、みんなビック リして喜んだ。彼が話してくれたから。「A君、それ、どんなこと」と聞いたら、 「頑張って、で終わっちゃうから、ダメなんですよ。僕は今朝(けさ)からカウンセラー の先生に、一緒に行こう、と言われて来て、一生懸命頑張っているんです」とい うんですよ。だから、「頑張って≠カゃなくて、A君は頑張っていたんだね と言ってくれたら、涙が出るほど、嬉しくて元気が出ます」と。
 
金光:  ほう。頑張っていたんだ。ちゃんと頑張っているわけですね。
 
大須賀:  頑張っているんですよ。今の、そこの命はですね、「頑張っていたんだね」とか、 「頑張っているんだね」と理解されると、そこから違ってきます。だから、今の お話と同じようなことだと思います。
 
金光:  そうすると、そういう人間の苦しみというのは、今の青年の場合は、要するに、 頑張っているのに、「もっと頑張って」といわれると、それは辛い、と。
 
大須賀:  これ以上どうしたらいいんだ、と思いますよ。
 
金光:  そういう苦しみがあるわけですけれども。でも、いろんなお母さんの苦しみ、い ろんなケースがあるわけでしょうね。
 
大須賀:  そうです。ですから、私たちがカウンセリングで、お父さんやお母さんが多いで すけれど、お子さんのことで、ご相談を受ける場合も、やっぱり、今、確かにい ろいろな考え方からすれば、そこまでいっていなくても、そこを、今のところを、 しっかり一生懸命になって生きているあなただなあ、ということを、心からやっ ぱり受け止める。そこが一番大事じゃないでしょうか。
 
金光:  そうすると、最初の「一切皆苦」の、そこという言葉でいくと、「あんたも今苦し んでいるんだね」という、そこのところでしょうか。
 
大須賀:  そうです。「それを越えれば、こうなりますよ」じゃなくてね。「苦しんでいるん だね」ということが、フッと理解された時に、心が流れて、新しい洞察が生まれ てくる、と思いますね。
 
金光:  そうですね。「諸行無常なんだから、これが分かれば、涅槃寂静へ行けるんだよ」 なんていうことでは、ダメなんですね。
 
大須賀:  そうです。
 
金光:  いろんなケースを、ご経験になっていらっしゃいますでしょうね。
 
大須賀:  私のことを言いましょうか、私は木材屋なんです。今、不況だ、何だと、大変で すよ。
 
金光:  それは大変だと思いますね。
 
大須賀:  そうすると、いろんな会社の問題なんかを、夜、考えていると、だんだん眠れな くなってしまう時があるんですよ。困ったなあ、と思ってね。ところが、まあ寝 ているんですよ、朝方はね。ハッと眼を覚ましたら、「あれこんな綺麗な朝になっ ていた」。
 
金光:  ああ、成る程。
 
大須賀:  それを、もし自分の力で、私がまあ悩みながらですよ、自分の命を、次の日まで、 自分が時間を作って、運ぶんだったらば、そんなことは全然出来ません。しかし、 ちゃんと宇宙の「仏様」と言っていいんじゃないでしょうか仏様の慈悲とい うか、その働きによって、運ばれていることに気付いて、「ああ、総て諸行無常と いうけど、総てが流れているんだなあ」ということを、実感します。それから、 夜、こんなことで、何やら困っていたことも、「ああ、みんな実体じゃないんだ」 と。「ただ、自分が、そういうものを作り込んで、悩んでいたんだなあ」と。そう すると、グッと静かな気持になってきますね。高いレベルではないんですけれど、 まさに、「三法印」のところを、味合わされることも多いですね。
 
金光:  ただ、苦しみの真っ直中にいる時は、なかなかそういうところまで、抜け出ると いいますか、目が届かないですね。やっぱり苦しい苦しい、ということでしょう ね。
 
大須賀:  ええ。ほんとにそれは大変です。
 
金光:  カウンセリングだと、一対一で、お話を聞かれる場合と、それから大須賀さんの なんかの場合、エンカウンターグループの時は、みなさんで一緒に集まられるこ とが、おありなんだそうですね。
 
大須賀:  そうです。それで、今、思い出させて頂いたんですけれども、私が長野県の生ま れで、赤石岳という山の麓で生まれたんです。そのご縁で、赤石岳の麓で、グル ープをやるようになりました。毎年やっているんです。その時に、集まった人た ちと、夕方、千六百メートル位登っていくんですが、鳥倉林道というところへ登 ってきましたら、三千メートルクラスの、南アルプスが、ほんとにこちらから、 下からだんだん影が深くなってきますね。さっきの『華厳経』は、朝日だけれど。
 
金光:  上からですけど。
 
大須賀:  今度は下から、影が。それで、その稜線が非常にハッキリと見えたことがあるん です。それで、みんなと話していて、フッと、「仏教に、無明(むみょう)≠ニいう言葉があ ってね、ああいうふうに真っ暗になってきてね、それ以上遡(さかのぼ)ることが出来ない。 そういうきりぎりのところから、人間の生命というものが働きを始めるんだ、と いうような言葉があるんだよ」なんて、私がひょっと話したんです。そうしたら、 それで、なんかハッと気がついて、「自分は一生懸命子供をこうしよう、あれをこ うしよう。どうしたらいいだろう。これ以上登れないところを、ひたすら足掻(あが)い ていていたなあ」ということに、気付いたお母様がいて、それで初めて、自分の 内面に思いを運ぶようになった方がおられました。その方から、私はわりと長い お手紙を頂いたりしました。
 
金光:  その時は、みなさん一緒にいらっしゃる時に話されたわけですね。
 
大須賀:  みんなと共に、私はお話したんですよ。
 
金光:  なんかその時の絵を、その時一緒にいたお仲間の一人の方が送って下さっている んだそうですね。
 
大須賀:  何かビックリするほど素晴らしい、全部植物の押し花の絵を送って下さいました。 こういうことを書いておりますよ。残暑の日没後の風景だったですね。
お地蔵さんは横向きですが、空や山や一切の、この一(ひと) 時(とき)を見ています。肩を寄せ合い、お喋りをしているの かも知れません。でも、手は合わさってしまうのです。
 
六地蔵は、私たちメンバーの象徴なんですよ。
 
金光:  成る程。横向き地蔵さんがね。
 
大須賀:  そうです。ですから、心の中では、みんな手を合わせるような 思いで話を聞いていまして、それをこういうふうに書いてあり ます。
 
手前の丘の土はまだ少し明るい。お地蔵さんは、手も 蓮華座もすべて薄紫の紫陽花(あじさい)の花弁(はなびら)で、よだれかけは、 マリンゴールドの花弁です。
 
と書いてあって、その下に、私は、有り難いなあ、と思ったんですが、
 
みんなみんな同じ命だから、草花をほぐしてもほぐしても、一つの命と なって生きた姿を表し、風景を飾ってくれました。そして、これが私の 無明の世界でした。
 
と、お話を聞いて、そういうふうに書いてくれた方がいます。ほんとに、私はこ れには感動しました。それで、「これどうやって作ったの」と電話で聞いたら、後 ろは紙でしょう。和紙です。京都や名古屋やいろんなとこの専門店に行って求め たそうです。
 
金光:  そうですか。和紙なんか染まっているんですね。
 
大須賀:  ですから、和紙はミツマタやなんかの木ですよね。だから、あの押花の絵は全部 植物ですね。だから、華厳思想の、宇宙の一切は、花によって荘厳されている、 という宇宙観で、こういうことも、こういうのも、みんな宇宙の花だ、というふ うな捉え方です。そういう非常に豊かな生命観を華厳思想の中から、その方は一 緒になって、学んできているわけです。
 
金光:  最初に話された方は、家庭的には、どういう事情だったんですか。今のはがきの 方ではなくて。
 
大須賀:  その方は、例えば、「Mさん」とこうしますと、五十歳半ばなんですが、お子さん が二人おられて、関西の方におられるんです。お嬢さんがちょうど高校二年生の 頃に、ちょっと苦しまれて、非常にお母さんは心配なさったわけです。手紙を書 いてくれたのを、整理したのがありますので、ちょっと読んでみます。
退行現象なんか起きて、小さい頃に戻って、また育ちなおしをしてみたり、そう いう時、お母さんが一生懸命背中をなぜて、お母さんが、「最後まで一緒だよ、一 緒だよ」と言って、その愛情を届けた、というんですね。それが届いていたんで す。それで元気になっていったわけですが、そういうことで、悩んでいる時に、 お母さんは近所に観音様があったんですね。そこへお詣りに毎日行っていました。 書いてくれた手紙によると、
 
そんな日々、私は近くにある観音様にお詣りをするのが日課となり、薄 暗い洞窟の中の観音様のお顔をじっと眺めて、三、四十分、心の苦しみ を、声を出さずに、観音様に聞いて頂きました。すると、「今はただ待つ ことだよ」とか、「大丈夫、大丈夫」とか、「もう少しだよ、もう少しだ よ」などと、観音様の声無き声が、毎日一つずつ聞こえてくるのです。 ある日、
 
私は、次のことに非常に感動したんですが、
 
ある日、八十歳の過ぎた見知らぬ老人(男性)から、
 
そこにおられたらしくて、
 
明日も来るのかね」と。「時間は今頃かね」と、声をかけられ、翌日行 ってみますと、数珠を片手に、観音様の前で待っていて下さった。
 
八十歳位のお爺さんが。そして、この言葉がいいなあと思いました。
 
「あなたに何があったのかはわからんけど、私も一緒に祈り添えをする よ」。
 
金光:  一緒に添えて、お祈りしてあげる、というわけですか。
 
大須賀:  「どういうことがあったんだ」と言うんじゃなく、そっくりそのままでしょう。
 
「あなたに何があったかは、分からないけれど、一緒に祈り添えをする よ」と、その老人は長い時間共に祈って下さいました。どこのどなたか も知らず、再びお会いできませんでしたが、私は、あの老人は観音様の 化身と心に深く思っております。
 
金光:  そうでしょうね。まさに観音様の化身と言っていいでしょうね。
 
大須賀:  そういうことがありました。そういうことがいろいろありましたんですが、その 後、先程の赤石岳の、あそこに行った仲間やその他の私どもの仲間とも一緒にな りまして、グループをやったり、勉強したり、ということをしてきました。
 
金光:  その時はまだ観音様の時は、まだお一人だった。
 
大須賀:  そうです。
 
金光:  成る程。その後、大須賀さんのグループの中へ一緒に入られた、ということです ね。
 
大須賀:  そうなんです。今、申し上げると、ここのテレビがご縁だったんです。
 
金光:  ああ、そうですか。
 
大須賀:  テレビを見て、お電話を下さったご縁でした。とてもいい感性を持った方でした。 そういうことですが、ちょっと、跳ばしますね。
そんな時、先程の伊那の友だちから、「赤石岳の麓で、エンカウンターグループを やるからお出で」ということになって、それで、ご自分でちょっと遠いところか らですが、参加したんです。その方たちの前では、何でも受け入れて貰える、と いう安心感で、二泊三日、涙ばっかり流していた、と言うんですね。そういうこ とが出来て、また、宇宙がほんとに関わっていると思うんですが、何とも言えな い自由な自然の時間の中で、友だちとも話することが出来て、胸の塊(かたまり)のことも 話してみたら、友だちも、「私だってあるよ」というふうなことで、やはり自分だ けじゃない、というところで、随分救われたんじゃないでしょうか。そのことの 翌日なんです。さっき赤石の見える高いところへ行きましたのはね。そして、私 が、「仏教で、無明という言葉があってね」というような話をしました。「まあ、 これ以上遡れない究極のところをいうらしいよ」と言って。だから、そんなこと を話して、「そこから登る、ということは出来ないんだよ」みたいなことを、みん なで話し合ったわけですね。
 
金光:  その時は、みなさん、夕日の山の方をご覧になりながら。
 
大須賀:  さっきの、横地蔵じゃないけど、そうしたら、ほんとに塊がすーっと取れたそう です。
 
金光:  その話を聞かれて。
 
大須賀:  ええ。みんなと、そうやって眺めながらですね。
 
金光:  ということは、塊がまさに無明だ、と。それは、人間の力ではどうにもならない。
 
大須賀:  どうにもならない、ということが、自分で了解出来た途端に、すーっと。そうい うことなんでしょうね。それから、大鹿村というところなんですが、そこから帰 って、今度は、自分を振り返ってみた、というんです。今までは、「子供をどうし よう、何をどうしよう」でしたが、今度は、そうじゃなくて、影の方ですね。そ っちをほんとに振り返ってみたら、なんか自分の見たくない面だとか、弱い面や、 汚い面が吹き出すように出てきた、と言うんです。
 
金光:  ああ、今までは、そういうものは抑えていたわけですね。無意識のうちに。
 
大須賀:  自分との取り組みじゃないです。相手をどうしようか、と。
 
金光:  今までは、子供の方とか、相手の方ばかりを見ていた。
 
大須賀:  そういうことです。それで、足元の床が抜け落ちて、真っ逆様に落ちていくよう な、恐ろしいほどの思いがした、と言うんです。
 
金光:  自分とは、こういう人間だったか、ということに気付かれた、ということですね。
 
大須賀:  そうです。その通りです。そして、地獄へ行っちゃうような気がした。ところが、 フッと足が地に着いたんです。怖い怖いと、まあ逃げ出したい、と思っていた地 の底に、ふと、自分の足が二本で、立っている自分がいた。あんなに怖い、と思 っていた底が、静かで、一番安心出来る感じだ、と思った、と言うんです。その 辺が、これは深いことですね。
 
金光:  それは大変なことですね。
 
大須賀:  ほんとに寂静の世界です。そして、今度、ひよっと、どうして地獄なのに、安心 出来るのか、と思って、周りをみたら、その時は、前の女のお子さんではなく、 お兄さんが困っていた時でしたが、そのお兄さんが、二本の足ですうっと立って いた、というんです。
 
金光:  一緒に、隣に。
 
大須賀:  ええ。それで、気が付いたのは、手紙の書き方ですが、
 
ああ、そうなんだ。今まで、私は親だから、子供の上に立って導かなけ ればと思って、一生懸命やってきた。それが間違っていた。いのちとい うところでみれば、息子と横並びのいのちだった。
 
いのちの平等性を、まさに感じてきた、ということでしょうね。
 
それなら、人は、年齢でもないし、性別で分けてみることもない。命と いうところでは、みんな平等なんだ。小さな小さな草も、みんな共なる いのちなんだ、というふうに、いのちを感じ取ることが出来るようにな った。そうしたら、数日たったら、自分の心の中に、朝顔の芽みたいな ものが出てきた。
 
というんですね。新しい自分の象徴だったでしょうね。兎に角、そういうことで もって、自分がどう生きたらいいか、という。立ち位置が定まった、というんで すね。
 
心配でたまらなかった子供のことが、あの子も同じ命を頂いているんだ、 と思えたことで、信頼感、安心感が生まれてきて、そのまま待っていい という気持に変わってきた。そうしたら、今まで、小さく思えていた子 供の存在が、一人の人格として、大きく感じられるようになりました。
 
ということが書いてあるんですね。私も、大変感動しました。それで、今度は、「相 手をどうしよう、こうしよう」じゃなくて、「自分として、自分らしく大事な、頂 いた命を生きてみよう」という気持になられ、アルバイトを始めたというんです。 お子さん二人とも、東京の方にいますから、それで、「そういうことになったよ」 ということを、電話をかけたら面白いですね妹さんが出て、「お兄ちゃん、な んとかという会社へ、面接に行ってね、働きに出ることになったよ」と言った。 ちょうどお母さんが、自分が働くことを始めた日と、一日違いです。こういうこ ともあるんですね。
 
金光:  面白いというと、語弊があるかも知れませんが、自分の悪い点、欠点みたいなも のが見えて、見えて、これではどうなるのか、と思ったら、その底に、大地があ った、と言いますか、二本の足で立っている自分がそこにいた、という。
 
大須賀:  そういうことなんですね。
 
金光:  親として、「何とかしなければ」と思っている時は、そういう気持にならなくて、 「自分がダメで、これじゃどうなるか」と思った時に、そういう世界が開かれる、 というのは、これは奇妙、不思議なご縁ですね。
 
大須賀:  その方がいうのには、「地獄の底にも、仏様の手がちゃんとあったんだ」と。そう いうふうに言われていますね。
 
金光:  仏様の手の上に、自分が立っている、という、そういう実感なんでしょうかね。
 
大須賀:  自分が、「地獄」と思ったところに、私らが共に教えられる深いことが開けるんで すね。
 
金光:  そういう目で、今度は仏像だとか、そういうものを見直すと、また違った見方、 感じ方というものが、生まれてきますでしょうね。
 
大須賀:  そうだと思います。それで、これはちょっと話が違って来ますけれど、
彼女が地獄だ、と思った。その下にも、仏様の手が見えないところで、ちゃんと あったんだ、ということを聞いた時に、数年前に、水戸のとても有名な古美術の 収集家で、今はもういらっしゃらないんですけれども、九十歳を越えて亡くなら れました。その方が、私に十年以上前でしょうね、いろいろ古美術を収集してい る中で、天平時代の仏像の残欠(ざんけつ)、「残欠」というのは、
 
金光:  「残った、欠けた」と書く、「残欠」ですね。
 
大須賀:  それを手に入れた、と。蓮の花弁(はなびら)です。
 
金光:  蓮華座の、仏様がその上に坐っていらっしゃる。
 
大須賀:  自分でも掘ってみたい、という衝動にかられてみたものの、九十歳のご高齢です から、危ないから、そういうこと出来ない。それで、手練りで、大きさから何か らそっくりにね。
 
金光:  木彫じゃなくて、土を捏ねて。
 
大須賀:  粘土を捏ねて、焼き物にして、色もいろいろ工夫されまして。 それをある日、私のところへ送ってきたんです。私は何だろう、 と思って、こんな大きな箱がきたから、開けたら、何か新聞紙 に幾重にも包まれて入っているんですよ。それで、何だろう、 と思ったら、中からこれが出てきたんです。よく見たら、蓮の 花弁。これをこう持って見ましたら、「ああー」と思った。蓮 の花は慈悲の象徴ですよね。掌(てのひら)にのせると何とも言えない温 かい感触なんですよ、ここが。そして、弁の先のところがくる りと下に曲げられている。
 
金光:  ああ、成る程。溜まった水が落ちるみたいな。
 
大須賀:  落ちるようになっているんですよね。それで、私はこれを見た 途端に、暫く前に、東大寺に行きました時に、特別にご案内を 受けて、高いところの大仏さんの側まで連れて行って頂いたら、 大仏さんは千葉の蓮弁と言いますね。その上にお坐りになって いる。
 
金光:  千枚、
 
大須賀:  無限の慈悲の蓮の花びら。
 
金光:  象徴なんでしょうね。
 
大須賀:  私たちが苦しみながら、仏様に救われる。この方もそうですね。 二本の足で、地獄だと思って立ったら、そうでないわけです。 そうすると、私みたいな煩悩の深い者は、すぐまた余所へ行き たくなったりするんですよね。
 
金光:  千枚あったら、下にもあります。
大須賀:  そう。仏さまは、お前が苦しくて落ちたかったら、また落ちて もいいんだよ。また落ちてもいいんだよ、という、無量の仏様 の慈悲の働きを、これから感じました。これは私の宝物なんで す。
 
金光:  ちょっと私に持たして下さい。
 
大須賀:  どうですか。この掌の感じ、
 
金光:  ほんとだ。ほんとにしっくりきますね。
 
大須賀:  そうでしょう。だから、今はここへ安心して立てるけれど、
 
金光:  でも、何かの拍子で、流されて、落ちても、また下に蓮弁があるよ。
 
大須賀:  無限にあるよ、ということ。その辺が、仏教の思想の深いところでしょうね。そ ういうことがありました。
 
金光:  そういう意味では、無造作に蓮華座だとか、何とか言っているだけでは、その辺 の意味がなかなか感じ取れない、ということですね。
 
大須賀:  そうですね。昔、私はカウンセリングする時に、来談者の方に蓮華座に乗って頂 いて、お話を伺うと、ありのまま深く聞けることに気付きました。今も、そうい うようなつもりでおるんです。それが、自分はどうなんだ、と思った時、思い上 がりでしたよ。やっぱり私もちゃんと仏様から蓮華座を頂いて、蓮華座の上で話 し合いをさせて頂いているんだ、ということがほんとですね。相手だけ乗せて、 なんていうことは、いいことを相手に与えるみたいな、そんな傲慢な思いがあっ たことに気が付きました。今は共に蓮華座の上で、ということでおります。
 
金光:  今のお話を伺っていますと、そういう蓮華座の上に、みんないる、ということに なれば、苦しいことがあっても、それも蓮華座の上での苦しみみたいなことにな るわけでしょうか。
 
大須賀:  そうです。
 
金光:  なんか涅槃寂静なんて、どこか別世界に行くような、カウンセリングで、心の凝 りが取れたら、どっか別の世界に行くようなことになるのか、と思ったら、そう じゃないわけですね。
 
大須賀:  華厳思想の中で、私が非常に教えられましたことは、我々が困るのは、「浄相(じょうそう)」、 清らかな姿に執着し、「穢相(えそう)」という穢(けが)れた相を廃除したくなる。我々はなんか浄 相に拘っている。
 
金光:  そうですね。なんか綺麗なところへ行きたい。いいようになりたいとか。
 
大須賀:  その時に、あるがままの世界に触れる智慧が壊れるんでしょうね。はやり同じ『華 厳経』の中で、私は大好きな言葉なんですが、本当の世界は、「正円(しょうえん)にして浄穢(じょうえ) 合成(ごうじょう)せり」と言いますから、まん丸で、
 
金光:  「正しい円」ということですか。
 
大須賀:  「正しい円」と言うんだから、完成されたその世界は「浄」、
 
金光:  清らかな、ですね。
 
大須賀:  浄穢(じょうえ)、
 
金光:  穢れの、
 
大須賀:  浄と穢が合わさって、成り立っている。合成(ごうせい)、合成(ごうじょう)。
 
金光:  合うという字に、
 
大須賀:  成るという、
 
金光:  合体して成っているということですね。
 
大須賀:  ともに働き合って、初めて正円なんだ、という。成る程なあ、と思ってね。
 
金光:  やっぱり汚いものより、綺麗なもへ、というのがありますね。ところが、浄と穢 が合わさって出来上がっている。
 
大須賀:  穢の働きから浄があるんだ。浄の働きから、また穢へ循環して、さっきの三(四) 法印の一切皆苦と、上の三つということの関係と同じじゃないでしょうかね。
 
金光:  先程のお話で、「子供さんが病気であるか、病気でないか」とか、「こうなればい い、これじゃ困る」というのも、それを全部、兎に角、一緒に生きていく。並ん でいく、ということになると、変わってきた、という。それが、やっぱり浄穢、 一緒になった世界ということなんでしょうか。
 
大須賀:  そうだと思います。親鸞の和讃の中にも、
 
金光:  浄土和讃ですね。
 
解脱(げだつ)の光輪(こうりん)きわもなし
光触(こうそく)かぶるものはみな
有無(うむ)をはなるとのべたまう
平等覚(かく)に帰命(きみょう)せよ
(親鸞・浄土和讃)
 
大須賀:  「解脱」というと、なんか自分での解脱のように思いますけれども、仏様が私た ちの心の柵(しがらみ)を解きほぐして下さる意味の無量の解脱の光だ、と思うんですね。 それが、絶対無限なわけです。「きわもなし」ですからね。それを、私たちはさっ きの『華厳経』の話のように、みんな受けているわけですよ。だから、私たちは みんな本当に、「ある」とか、「無い」、「善い」とか、「悪い」、「大きい」とか、 「小さい」、「どうだ」とか、「こうだ」、というのを、分けて、自分の気にいると ころに、ついとらわれてしまうけれども、そういうことを、ほんとに仏様の絶対 の慈悲の光に触れた時に、有無という分別(ふんべつ)から離れさせて頂けるんだ、というこ とを示されているのを、私は大事にしているんです。
 
金光:  「平等覚」というのは、「平等な命に目覚める」という、そんな意味に受け取って よろしいでしょうか。
 
大須賀:  そうですね。それを、仏様が、如来様がほんとに光とともに、届けて下さってい るんでしょうね。
 
金光:  ただ、実際は、そういうふうに、如来の智慧、仏様の光が満ちていても、善い、 悪いにとらわれていると、気が付かない。そこに苦しみが生まれているのが、現 実ということでしょうね。
 
大須賀:  華厳経に、「三(四)法印」の、悟っては迷い、悟っては迷い。グルグルグルグル 回って生きていく、そのことが悟りだ、というふうに説いているところがあり、 それを「無尽輪(むじんりん)の解脱(げだつ)」と言っていますね。
 
金光:  尽きない、無尽に、
 
大須賀:  迷っては悟りの世界に行く、とすると、悟りなんていうことは別として、私は、 それにしがみつきたくなる。
 
金光:  ここから先は、悟り。ここから先は、迷いと、思えたがりますけれども、無尽に 尽きず、こう回っている、と。
 
大須賀:  その中に深いものが、ちゃんと届けられてくるんだ、ということのようですね。
 
金光:  そういう「善い悪い」という。そういうことではなくて、兎に角、受けて、平等 な命を頂いているんだ、という世界に気が付くと、また、苦しみも変わってくる、 ということですね。
 
大須賀:  カウンセリングの無条件の受容について、カール・ロジャーズ先生がおらっしゃ っている。その無条件の受容はまさにそこのところじゃないでしょうか。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
大須賀:  有り難うございました。
 
     これは、平成十三年三月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。