『法句経』に学ぶFさびは鉄より生ず
 
                   大正大学教授 石 上(いしがみ)  善 応(ぜんおう)
                   き き て  草 柳  隆 三
 
草柳:  生きるための知恵「『法句経』に学ぶ」の七回目です。今日は「さびは鉄より生ず」、これまでも度々出てまいりましたけれども、『法句経』ではこうした譬喩をとても巧みに使って、人間の生き方を説いていきます。今日はどういうふうなお話の展開になるんでしょうか。いつものように大正大学教授の石上善応さんに伺ってまいります。よろしくお願い致します。
 
石上:  よろしくお願いします。
 
草柳:  確か前回もこうした譬喩が出てきましたけれども、今日の「さびは鉄より生ず」という譬喩もなかなか面白いですね。
 
石上:  そうですね。私どもよくわかっているわけですが、鉄錆というのは、水分の作用で鉄の表面に変化が生じて酸化物が起きると言いますか、だけどそれだけではなくて、それがさらに内面に向かって腐食していくというところが鉄錆の一つの特色と言っていいんだろうと思います。それを巧みに使いながら、要するに「身から出たさび」という言葉が使われるように、私どもの、言うなら行為の報いとていろいろな禍が起きてくる。もっと言うなら、自分の悪い行いの結果として、自分が苦しむことになるんだ、ということを、ここでは示している言葉として使っているということになるだろうと思いますですね。それに合わせまして、『ダンマパダ』の詩がございますから見て頂ければと思います。
 
草柳: 
鉄からさびが生じ
それが生じたために
鉄そのものを破壊するように
罪を犯したものを
自己の行為が
悪処にみちびく
(『ダンマパダ』二四○)
 
石上:  これまさに当時のインドでもう既に鉄がよく使われていたわけでしょうし、
 
草柳:  紀元前四世紀か五世紀ぐらい?
 
石上:  紀元前三世紀か四世紀ぐらいには、もう完全に使われていたようで、農具の鋤、鍬―向こうではむしろ鋤と言った方がいいかも知れませんが、文明の利器であることは間違いないんですけれども、それが日常の社会で当たり前に使われているわけですから。そればかりじゃない、鉄であるものはいろいろ使われていたわけですから、手入れをしなければすぐに悪くなっていってしまいますし、それをここで取り上げている。私どもも鉄というのは方々に転がっているわけですけれども、子ども心にもいろんな思い出がありますね。特にここでいう鋤、鍬みたいなものですと、あるいは刀みたいなものですと、それにあったように、ちょっと放っとけばすぐ錆び付いてしまう。それは十二分に見てきたと思いますから、当時のインドの人たちも、鉄そのものが錆を生じていくことをもとにしながら、だんだん釈尊の言葉が、それがどうなんだ、ということを問題にして、人間の行動のあり方を掘り下げている、ということになるかと思います。だから自己を厳しく見詰めよ、という意味で、ここは諭している文章であろうかと思いますが、特に「罪を犯したものを自己の行為が悪処に導く」というようなところは、そういう行為を繰り返していけば、自分自身が怠ける行為を繰り返していれば、やがて死んだ後には悪いところに堕ちるかも知れませんし、またそういうことも含めて問題にしている、と。だから「今が大事だよ」ということを何遍も言っているように思います。確かに私どもは、身体を鍛えればいいんですけれども、怠ければ体力も衰えていくし、それから仕事が溜まっていけば、整理が付かなくなってしまうしという、そういうことにも関わる。それを精神面にみれば、その人の言動にどう現れるか。そしてそれを思いやり一つにしても、いつも自分自身に厳しくしていかなければいけないよ、と。人に温かい目をもっていなければいけないよ、という意味も込めているかも知れないというようなことが言えるのではないだろうか。ですからこういう気持の訓練も、毎日毎日の心の持ちようといいますか、あり方にあるということを、まさにここで言っていて、そしてそれがないと自業自得だよ、と。身から出た錆なんだよ、というふうに教え示しているように思いますですね。そういう意味で、ここの言葉がさらに漢文の訳の方が非常にきつく出てくるかと思いますが。
 
草柳: 
悪は心に生じて
(かえ)って自ら形を壊(やぶ)
鉄の垢(あか)を生じて
返ってその身を食(しょく)するが如し
(『法句経』)
 
石上:  「返ってその身を食(しょく)するが如し」というようなところと、「鉄の垢」という言葉を「錆」に掛けているところが、なかなか面白いとは思いますが。
 
草柳:  ここでは「返って」という言葉の使い方がとても面白いですね。
 
石上:  そうですね。前の方の「還(かえ)って」は「また」という意味にも取れますけれども、後ろの「返って」はそれこそ反転して、それがそのままずばりと、と言ってしまうというふうにとれるところですから、大分苦労してこの翻訳もできているんじゃないかという気がします。自分自身の行動、そしてそれが自分自身をどのように滅ぼしてしまうことになるのか。鉄の垢が生じて、鉄そのものも冒してしまう。この辺はこの通りで、「人間にとって錆は何か」。「怠慢」であり、「煩悩」であり、いろんな意味合いをもって、ここの「垢」という言葉が―「垢」と言えば、普通「煩悩」と解釈するんですけれども、特にこの漢文の意味は、ズバリ言っているところが厳しく聞こえてくるように思いますね。それをさらに「食する」という言葉の使い方の中では、痛烈な言い方として見えてまいりますが、それと同時に友松さんの訳が大変我々にはピタッときているかも知れませんので、ご覧頂きたいと思うんですが。
 
草柳:  友松圓諦(ともまつえんたい)さんの訳は、この番組で度々こういうふうにして引用しておりますが、
 
錆は
鉄より生ずれど
その鉄を
きずつくるがごとく
不浄ある行者は
おのれの
業により
悪処(あしき)にみちびかれん
(友松圓諦訳)
 
石上:  「おのれの業により悪処(あしき)にみちびかれん」というこの言葉も、人間の行為には違いないんですけれども、どうしても人間というのは怠けるというか、怠けたくなるという、そういう習性をもっております。そしてそれを悪を思わないで、悪をしないで生きられたら、ということも言いそうに思いますが、それが大変生きにくい人間を、ここでは示しているような、含んでいると思いますが、今日一日充実した人生というか、生き甲斐をもつことが大事だよ、と逆に教えているようにも思われてまいります。ですからこの『法句経』には、その後に今申し上げた意味で、人生が如何に生き難いか、ということを示しているところがございますので、そこを見ていきたいなと思います。
 
草柳: 
良心に恥じることなく
(からす)のように厚顔無恥で
無遠慮で大胆で
傲慢であり
心汚れた状態で暮らすものは
生活しやすいものである
(『ダンマパダ』二四四
 
石上:  この言葉ですが、人生私どもがいうように生活できたらほんとに楽なんですけれども、世の中って、その逆なんですね。それに烏が譬えに出てくるのも、ちょっと可哀想な気がしないわけではありませんが、インドを旅しておりましても―日本でも、今、都会には大分烏が出てまいりましたが、ほんとに烏をよく見かけますが、烏が厚顔無恥という形で説かれておりますけれども、しかし一面烏は頭が良いんですけどね、その良さはありませんが、人間にとっては厚顔無恥に見えてくるところが逆にあると。烏のように、良心に恥じることのない、恥を感じる気持を持っていないという、そういう図々しいものが割とこの世の中では生活し易いというふうに説いているところは、単に仏教が理想論的に説いているんではなくて、現実はそうだよ、ということも踏まえているところがございましてね、この辺は『ダンマパダ』はなかなか味がある、と。
 
草柳:  この当時もそうだったんでしょうけれども、今の世の中を見ていても、こんなふうにして、厚顔無恥で、傲慢で、そして良心に恥じることがなければ、ほんとにそれは生活し易いかもわかりませんですね。
 
石上:  言うなら、その逆の言葉もまた『ダンマパダ』に出てまいりますから、ちょっとそれもご覧頂ければと思いますけれども。
 
草柳: 
良心に恥じ
つねに清きを求め
愛着をはなれ
つつしみ深く
真実をみて清く暮らすものは
生活しにくいものである
(『ダンマパダ』二四五)
 
さっきのものと対になっている。
 
石上:  そうなんですね。ですからほんとにいつでも真面目に清らかに謙虚に生活しいようとしている人間というのは、実はこの世では生活し難いんだ、ということの現実を凝視しているというか、見詰めていて、二つ並べながら、その「愛着をはなれ、つつしみ深く真実をみて清く暮らすもの」、そういうものでありたいんだけど、そうはいかない。そして善いことをしている人は、必ずしも報われていない。これがこの世の中なんだけれども、それでいいのか、ということをもう一回確認している、というところだろうと思います。二つの言葉は、逆に言いながら同じことを言っている、ということになるかと思います。そういう意味で申しますと、慎み深く正しく生きよ、との願いが込められていながら、なかなか人生の難しさを喩えて言っている。しかしそれでいいのか、と。人間というものは、そんな惰性で生きるような社会生活を送っていたら、この世の本当の楽しみなんていうのは出てこないじゃないか。ですから向上すべき社会生活というものが、おかしくなってしまうだろう、ということも含めながら、それだけに正しく生きることは、いつの時代でも易しいことではないんだけれども、それをしていく努力というものは、人間は重ねていかなければいけない、ということをつくづく何遍も語って聞かせているように思いますね。
 
草柳:  今の句は、二つ並べて見てみますと、ちょっとなんか皮肉っぽいところもありますけれども、まあ言わんとしていることは、結局同じことだと思うんです。今先生がおっしゃるように、そういうふうにして正しく生きていくということが、如何に至難のことなのか。だけどそれはやっぱりそこへ向かって生きていく努力をしなければ、人間というのはダメなんだよ、という、そういう教えなんでしょうね。
 
石上:  そうですね。現代社会が大変なんじゃなくて、古代社会でも大変だった、ということになりましょうし、人間の生活の中でいうと、悪いことをする人もいれば、やっぱり善いこともする。しかし善い人が報われない社会はどうなんだ、ということを、いつでも今如何にあるべきか、ということを問い掛けてきたのが、お釈迦様のしゃべり方ではなかったか、と。ですからお釈迦様というのは、そういう点を見据えながら、人生のあり方、厳しさ、そしてその中で自分の向上性というものを追求しておられた。それが求道というのはそういうことであった、というふうに申し上げてもよろしいのではないかなと思います。
 
草柳:  今のこういう譬喩を使った説法の仕方というのは、これは釈尊がその当時一般の人たちに向かって説いた内容なんですか。
 
石上:  当然そうですね。ですから別に修行者だけの問題じゃなくて、一般の人々もそれを聞いたら、「ウン、そうだね」というふうにわかるような努力というものを、何遍もしておられる。それでなければ譬えというものは生きてこないと思います。やはり時代時代に生きた譬えというのがありますし、それが捨て去られていくものもあるでしょうけれども、大体これで説かれている言葉の譬えというのは、時代を越えて共通性をもっていると思いますね。そういう使い方で、厚顔無恥が蔓延る世の常を問題視しながら、私どもは一歩一歩進んでいくべきであるという。特別に飛び越えていけ、というんじゃなくて、一つずつ努力をしていけ、ということを語っているように思われますので、じゃ、どうしたらいいのか。
 
草柳:  そうやって慎み深く暮らしていくためには、そして己を律していくためには、どういうふうにしたらいいか、ということについては、釈尊はどんなふうに?
 
石上:  そこで、この後に続けて出てくる言葉は、仏教の「戒め」ということを言おうとしておりますから、それが正しい生き方なんだよ、という具体的な例をあげてまいります。当たり前のことと言えば、当たり前のことですけれども、同じように『ダンマパダ』は、その辺を追求してまいります。その詩を見てまいりたいと思います。
 
草柳: 
生きているものを殺し
偽りを語り
世の中で与えられていないものを取り、
他人の妻と交わり
穀酒や果実酒を飲みふける人は
この世において
自分の根本を堀りくずす人である
(『ダンマパダ』二四六・二四七)
 
石上:  これを仏教の言葉で言えば、「五戒」という言葉になりますね。五つの戒め。ですから、最初に「生きているものを殺す」というのは、「殺生戒」を犯した、ということになりますし、「偽りを語る」というのは、「妄語戒」を犯した形になります。「妄語」というのは、偽り、嘘の偽りの言葉ですし、「世の中で与えられていないものを取る」ということは、盗みをしてはいけない。「偸盗戒」というんですけれども、盗みをしてはいけない。「他人の妻と交わる」ということは、「邪淫の戒め」ですから、それを犯してはいけない。最後の「穀酒や果実酒」―インドでは具体的なお酒の名前が出てきます。「スラー酒、マイレーヤ酒」という言葉を使っておりますが、そういうお酒類を飲むということはいけないというのは、まあよくいう「不飲酒戒(ふおんじゅかい)を犯している」というように、お酒を飲むことは、結局は人生なりたちませんから、特にインドのような暑いところでお酒を飲んだら、どうにもならんだろう、ということになりましょうし、だから、そういう「五つの戒め」を仏教徒に、お釈迦様は与えました。特に在家信者に対して、「五つの戒」というものをもとにして、「それらを犯したらいけないよ」というふうに、仏教の信者であるなら、「これを守りなさい」と。これは基本的な形ですから、当時の倫理観ですからね、何も変わっているわけじゃありませんけど、それが基本なんだ、と。それを犯したものは自分の根本を堀りくずすことになる。根もとというか、自分の立っている、それを全部打つ崩すことになる、というふうに言っているわけでございます。
 
草柳:  今挙げた「五つの戒」というのは、一つずつとってみると、それほど際だって、これはという、むしろ人間が社会生活を営んでいく上では、当たり前の話ではないか、と。
 
石上:  そうなんですが、例えば「殺生戒」と。生き物を殺すな、と言いますけど、私どもは殺さなければ―殺さないで生きていられるでしょうか。変な話ですが、蚊が飛んできた。そして自分の血を吸った、と言っても、インドの人は、聖者はこうやって払って逃がしてやるけど、それがたくさんだと、パチンとやってしまって蚊を殺す。知らない間に蟻を踏みつけている。そういうことはやたらと多いわけですから、何も人の命を取るというだけの問題ではなくて、動物、生き物の命を粗末にというか、殺さないで生活するということは不可能だと思いますね。そのうえ私どもは、現代人は特にいろんなものを食べております。
 
草柳:  肉を食べ、魚を食べてね、
 
石上:  ええ。食べています。そういうことから考えれば、それは私どもが、昔は魚を食べて、動物の肉は食べなかったかも知れません。そして明治以降、動物、いろんなものを食べるようになるまでは、外国人というのは野蛮人だ、という受け取り方。向こうからみると、なんであんな魚を食べるんだ、というようなところがありまして、お互いに生活環境が違うと、慣習から違うものもありますが、結局は魚を頂き、肉を頂いて、普通は生活している。じゃ、そういうものを食べないならば、どうなんだ、というと、植物はどうなんでしょう? 植物だって生きているんですよね。いくら私ども「精進料理」とこういうけれども、その精進料理のもとは、と言えば、やはり生きている植物を頂いているわけですから。それは私どもが畑を作って、自分たちのために作っているとは言いながらも、結果は同じだろうと思います。そうすると、そういうものを頂いているというのは、私どもはある意味で、いろんなものを頂く。どうにもならない中で生活しているんですから。それこそ一々「ごめんなさい」と言いながら食べるわけにもいかないし、蚊やなんか殺しても、子どもの時なら「ごめんなさい」と言いながら、殺す場合もあるでしょうが、あんまり蚊に刺されたりすると、「こんちくしょう」と思ってやってしまう場合も出てまいりますし、この辺は一概に言えない。ほんとに難しい。だから動物、植物とともに生きるということも、これはまた難しい問題ですが、「ある意味で感謝しながら、私というものがそういうものを頂いて、この世にいるんだ」ということを理解していかなければいけない。だから「不殺生戒を犯すな」なんて言ったって大変犯しているんですね。犯さざるを得ないんですね。そういうことも一つ出てくるんではないか。そうすると当然その後に出てくる「嘘、偽り」という言葉も問題になるんですけれども、「嘘をつく」という言葉はいけないことはわかっていますが、仏教はそれを分けまして、「二枚舌を使ってはいけない」「悪口を言ってはいけない」「真実でない言葉を言ってはいけない」「飾って、真実そう思っていないのに、飾って相手を立てておだてるみたいな言い方、それに近いようなこと」そういう四つのことを含めて、実はここでいう「嘘」という言葉の中に含めているんですね。そういうものがあってはいけない。ところが一方において、仏教の言葉から出たというんで、「嘘も方便」という言葉がよく言われるんですよ。ところが「嘘も方便」というのは、どうでしょう? ほんとに嘘を使ったものは方便と言えるか、ということになるんですね。「方便」という言葉は、「方法、手段、手立て」ということですが、仏教で使う場合は、「優れた教化の方法を意味している」と同時に、「真実の教えに導くための実は仮の手段」それが「方便」という言葉でした。特に『法華経』で有名になった「方便」という言葉ですが、あれは嘘ついているのか、というと、そうじゃなくて、実は後ろに真実が隠されている。そして相手のためを考えて使った方便なんであって、「嘘も方便」というのは、純粋の嘘じゃないんですね。真実が裏にあっての話で、どうしてもそう言わなければならない。喩えていうなら、病人がいて、そしてもう死にそうなのに、「いや、大丈夫だよ。元気を出しなさい」と、こういう。で、その人がもう死ぬのがわかっていても、ある意味の力を与える、という時には、言わざるを得ない。逆に知らせる必要もあるだろうと思いますね。けれども、そういう人さまざまですから、知らせて良かった、という場合と、やっぱり知らせないで良かった、という場合も出てくるだろう。その辺を上手に使いながら、「必ず治るよ、元気を出せ」と言って、それで実際に、これはそんな病気じゃない場合には、それによって勇気付けられて回復に向かう、という場合も出てくる。その時には、結果的には嘘も方便も見事に生きているわけですね。そういうこともありますので、嘘ということは、私どもが使っている嘘の使い方なんですね、問題は。特にこれが修行僧みたいなのだったら、「俺は偉い坊主だ。もう出来過ぎて、この世で一番偉いんだ」というようなことの嘘は、とんでもない、と言って、これは逆にいうと、教団追放みたいな形にすらなる、そういうことも起こってまいります。
 
草柳:  今の「戒め」ということで言えば、「嘘も方便」ということも引っくるめて、確かにこれはそれがきちんと守られていけば、そしてまたそれを守ろうというふうに努力していくということはもの凄く大切だと思うんですけれども、だけど「戒め」というのは、これは必ず破られるものであるというか、なかなか守ることが難しいですね。
 
石上:  そうなんです。だからちょっと前にもお話したかと思いますが、「戒」というものが破られる可能性があるから「戒めなんだ」と申しました。それは私自身の例を言うと、この中で「お酒を飲んではいけない」という戒がある。私は飲めないんですね。飲めない人間というのは、あってもなくてもなんら痛痒を感じません。ところが後の四つはどうかというと、これはわからないわけです。ですから破る可能性があるから、破る可能性をもつているのを、自分に言い聞かせて、そしてそれを自分で律しながらやっていくところに「戒め」という意味が生きてくるんだろうと思いますね。私自身が何にもそういうものに痛痒を感じなかったら、破る可能性はまったくありませんから、そのままですけれども、しかし人生というのは、どうしてもそっちへ流れやすい。たまたま私は飲めなかったというだけで、飲まないためには努力しなければいけないでしょうね。だからそういう点でいうと、戒めというもののあり方は大変難しいですよ。
 
草柳:  私などは随分この戒めをしょっちゅう破っているので、
 
石上:  お酒だってそうですが、百薬の長としての意味は一面においてあると思いますし、それは薬になる場合は確かにあると思いますけれども、概して止められないから身体を毀すほど飲んでしまう。そうあってはいけないよ、ということを示しているように思いますね。
 
草柳:  当時の人たちは、釈尊のこういう教えを聞いてどんなふうに受け止めていたんでしょうか。
 
石上:  これは事実だ、と思っていますから、その通り、「ウン、そうだ」と思いながら、またやった、という繰り返していたと思います。その中でちょっと変わった経典がございまして、それをご紹介申し上げていきたいと思います。それはお釈迦様の弟子にアングリマーラというお弟子さんがおられまして、このアングリマーラの「アングリ」というのは、指という意味で、「マーラ」というのは、指を花飾りみたいする。それがアングリマーラという名前になって今日伝えられております。アングリマーラというのは、どうしてそういうふうに言われたかというと、実はお釈迦様の弟子になる前に、ある人に唆(そそのか)されて―いろいろエピソードがございまして―唆されて「百人の人間の命を奪って、その指を花飾りにして付ければ、お前はほんとの一つの境地に入れるからやれ」と言われて、訳もわからずにアングリマーラが、一人ずつ殺すまでもいかないにしても、殺(あや)めて、ともかく指を取っていった、と。それで最後に後一つ供えれば完成という時に、お釈迦様に出会うことになります。もう人々はアングリマーラの通るところは行かない。行かないのに、お釈迦様が行こうとするので、「危ないからお止めなさい。そこには強賊のアングリマーラがいるんだから」と。それをお釈迦様は意に帰さず歩いて行く。歩いていくと、アングリマーラが、釈尊が今日やって来た、と。それで後を付いて行く。ところがお釈迦様の足が速くて、いくら行こうとしても付いて行かれない。それでアングリマーラが、「釈尊よ、立ち止まれ」ということをいうんですね。そうすると、後ろを振り向いて、釈尊が、「アングリマーラ、お前こそ立ち止まれ」というと、「私はむしろ立ち止まっているようなもので、先に進んでいるお前は立ち止まっていないのに、なんでそういうことを言うか」というところから―実はこれはお釈迦様の機先を制する一つの論法なんですね。「私は初めより立ち止まっている。それでお前は立ち止まっていない」「そんな言い方あるだろうか」というと、「私は立ち止まっている、と言ったのは、何故かというと、私は常にすべて生き物に対して害を捨て去っている。一切そういうものを捨て去っている。それなのに、お前はなんの慎みもなく、毎日毎日人の命を奪っているではないか。そういう傷つき奪っているからこそ、お前は走り回っているようなもので、私はそういうことがないから立ち止まっているんだ」という。実に面白い譬喩でそこを説明致します。すると、「あれっ」と機先を制しられたアングリマーラは、「何でそういうことをいうのだ」というところから、話を聞いていきます。聞いていくうちに、話が問答に入っていって、そして「お前は人の命を奪っていいのか」というところまでいってしまうわけですね。ハッとそこで自分のやってきたどこかいくらか忸怩たるところがあったかも知れませんが、そういうどこか良心の呵責(かしゃく)に堪えかねる面もあったのか、それがもとで話にのって、そしてついにそうだ、と。やっぱり人の命を奪ってもいけないんだ、ということを、釈尊から滾々(こんこん)と諭されて、それでアングリマーラは弟子になります。その弟子になった、そして今までのあの凶暴なアングリマーラが頭を剃って、今までとまるで変わる。ほんとに変わったお坊さんとして、かつてのあのような厳しいおかしな目つきしていたかも知れませんが、それがなくなって、温和な顔付きをしていたんだろうと思いますね。それからどれくらいか経った時に、これはコーサラ国という国でありまして、王様がやってまいります。それがたくさんの軍隊を連れてやって来た。その時に釈尊が、「あなた、どこへ行くんですか。こんなものものしく大勢の兵隊を連れて、どこへ行くんですか」とこう聞きます。「いや、実はアングリマーラというとんでもない強賊がいて、人殺しをしている。あれを捕らえないことには、みんな安らかに生活できないんだ」と。「じゃ、もしもアングリマーラという人物が、お坊さんになって、修行者として、今までと打って変わって素晴らしい生活に入っていた場合には、あなたはどうするんだ」と聞くんですね。そうすると、「そうだったら、私は恭しくその人間に礼拝する」という言い方を釈尊との問答でしてしまうわけです。そうすると、「いや、実はここにいるこの男がアングリマーラだよ」と、釈尊に言われてビックリするわけですね。目の前にいる、実に清々しい顔をしているアングリマーラを見て、これがあの凶暴な男とは思えない。しかしそれを聞いた途端にギクッとして近寄ることもできない、躊躇いたします。しかし釈尊は、「いや、今までのアングリマーラとは違うんだよ」と言われて、王様はアングリマーラに礼拝しなければならなくなってしまいます。その結果軍隊を引き連れて王様は帰って行ってしまう。こういう話があるんですね。ここはまだいいんです、序の口ですが、そしてある時に今度はアングリマーラが町へまいります。町へ行きましたら、お産で苦しんでいる一人の女性を見るんですね。何とかしてやりたいけど、どうにもならなくて、戻ってまいります。もどって来た時に、釈尊に向かって、「こういうことがありました。何とかしてあげたいんだけど」と言ったら、「お前はもう一回行って、これから赤ちゃんを産もうとしている女性に言いなさい。私は未だ嘗て人を殺したことがない、と、こう言いなさい」と言うんです。「そんなこと言えません。私は何人も人を殺してきている。その人間がまた嘘をつくことはとてもできない」というと、「お前は、私の弟子となって一人でも命を殺めたことがあるのか」というとことを聞かれると、「いや、それはありません」。「だったら自信をもって行って来い」とこういうふうに言われるんですね。それで躊躇したんですが、そのうちに意を決して、「私は修行僧となってから一度も人を殺したことがない。あなたは安らかに子を産みなさい」と、こう言ったら、それがもとで母親は勇気づけられて赤ちゃんを産んだ。これは当時の赤ちゃんを産むという、いろんな問題も含まれていると思いますけれども、そういうことをいうわけです。
 
草柳:  アングリマーラという人物は、この話の中では実に悪逆非道の限りを尽くした強賊・盗賊という形で登場してくるわけですよね。それが釈尊の教えを受けるようになってから、今のエピソードのお終いの方にあった「女性を勇気づけてきなさい」と。その時に「私は人を殺したことがないと言いなさい」。これはちょっと考えさせられる話ですね。
 
石上:  これは非常に典型的な言い方をしていると思います。私たちはみんなある意味で、人の命までいかないにしても、いろんなものを殺めてきていることは間違いないんですから、特に現代人なんて特にそういう面をもっていると思います。いろんなもののお陰で生活してきている。さっきの話じゃございませんけれども、そういうものがございますね。そういう中で、だけれども今度はお坊さんになってからおそらく植物は頂いているかも知れませんけれども、しかしそういう言い方をしながら、「今、私は人の命を殺めるようなことをしていない」ということを言おうとするところには、結果的に今までと違った生き方をしている私。生まれ変わった私、ということは、その後ろに含まれていたと思うんですね。
 
草柳:  生まれ変われば、つまり今正しく生きている、とすれば、それは、例えばアングリマーラの喩えで言えば、その前の罪は消えるんですか。
 
石上:  いや、消えてはいない、と思います。それは残っていると思います。だけども「私は今までと打って変わった人間であるから、という勇気づけとして相手に言え」という意味は、非常に辛いことを、釈尊はアングリマーラに言っているわけですね。だけども「お前は少なくとも今殺していない。それをもって相手に勇気付けるために行ってお出で」というふうに言われて、アングリマーラは、自分がともかく今まであるものを後ろに追いやって、今の私はそうなんだよ、という意味で、真実の吐露としたというか、そういうところがあったように思いますね。それに勇気づけられて、非常に易々と赤ちゃんを産むことができた、という話になるわけです。しかしこれはまたさらに尾ひれがつくことになります。そこがここでいう大変難しい二重の言い方になりますけれども、この話というのは、私はアングリマーラのあり方を、釈尊がいろんな角度から見詰めながら、「お前はそれによって一つの償(つぐな)いみたいなものをしなさい」と言っているようにも聞こえてきますし、しかし今のお前はそうなんだよ、と。それをお前はもっと自信を持ちなさい、とも言えるようにも思います。しかし過去のいろんな犯した業(ごう)というものが、消えているわけではないですね。それがその後にくる話に繋がってまいります。アングリマーラは、結果的にその時は易々と赤ちゃんを産ませることができたので、今の南方仏教徒はアングリマーラの経典を安産の時に拝む。そういうふうに使われているんですね。ですけれども、やがてまたアングリマーラが托鉢に出掛けると、泥や石を投げられたり、棒で打たれたりして傷を受けます。で、傷ついてやっとのことで戻って来る。それはどうしようもなかったわけですけれども、その時に釈尊がアングリマーラに言う言葉がございます。この言葉が今の繋がりを上手に説明していると思いますので、その経典を見て頂きたいと思います。
 
草柳: 
聖者は忍受(にんじゅ)しなければならぬ。
アングリマーラよ、
忍受しなければならぬ。
なんじは、いまかつておかした罪業を
つぐなっているのだよ。
(『中部経典』増谷文雄抄訳)
 
石上:  結局人間の犯した行為というものは消えるわけじゃありませんから、そこは「忍受せよ」という言い方です。「忍受する」という言葉は、どうかと考えますと、私という人間が、いろんな生物を殺してきていますからね。まったく殺していないなんて言えない。ですから殺生戒をある意味で犯しています。人間の命はどうか知らないけれども、犯していることになります。そういういろんな行動が過去―私の後ろにあるわけですが、そういうことを見ながら、しかし今日もまた一日正しくなんとかしていきたいという。しかしその報いは、それとは別に現れてくるのはどうしようもない。この人間の行為のあり方、それをここでは「業」という言葉で使いますけれども、「業」というものは消えることがない。それを自分でなんとか努力する中で、解決はできないにしても、そのためには忍受する以外にはない。だから「忍受する」ということは、さっき申し上げた「戒」の逆の言い方になるんですね。裏表の関係なんですね。「戒」というものには、いろんな意味の忍受する、堪え忍ばなければければならないような人間の過去の業というものもある。それを繰り返し繰り返しながら生活していかなければいけないよ。これは大変難しいことですけれども、それを教えていると思いますので、「戒」というものは守りたい。しかしそれでもやっぱりどうしても破らなければならない。そういう人間のあり方、それこそ人間の実存のあり方と言っていいだろうと思いますが、その辺を仏教は、そんな簡単にはできないけれども、しかしさっきのある意味で「嘘も方便」と言っちゃおかしいですけれども、アングリマーラのその言葉は、ある意味の嘘も方便ですが、相手の難産を安産に変えるための方便ですから、これはやっぱりそれなりに生きていることにもなりましょうし、そして自分が犯した行動の殺生というものは、あったものをまたそれによって綺麗にはならないけれども、そういう業をまたどこかで受けながら進んでいかなければいけない。
 
草柳:  つまり自分が今あるのは、自分の今のありようというのは、過去の悪業の結果としてこう主体的に受け止めなければいけないよ、という。
 
石上:  それは当然ですね。そうしなければいけない。だから他人様ことのように戒があったら、そんな戒なんて不要ですよ。やっぱり自分の問題ですから。ところが「五戒を守れ」と言ったら、「守れません」と、人がいうのも困るんですね。それを私どもは、破らざるを得ない人間だ、ということを、自分に自分に言い聞かせながら、また一つずつやり直していくというところに、生涯に関わる人生の学びがあるんだろうと思いますね。そこが大事だろうと思います。
 
草柳:  この辺のところは、私はとっても大切な釈尊の教えの中でも、なんか一つの大きなポイントになるところだという気がするんですけれども、その聖者になるためには、堪え忍ばなければならない、と、今の冒頭にありましたですね。聖者ということは、つまり別の言葉で言えば、「悟り」というふうに言っていいのかも知れませんけれども、そのために堪え忍ばなければならない。何を堪え忍ばなければならないんですか、もう一度そこのところを。
 
石上:  自分の犯した業ですね。犯してきた業のために、それらを一つ解決していかなければならない。ですからとにかく今自分がやった業の報いが出てくる。そしてそれが非難の対象にもなってくる。しかしそれは甘んじて受けなければいけない。自分に勝手な理屈を付けてはいけない。その通り受け取らなければいけない。それなのに私どもは自分流儀に自分の方に身近にもってきて都合良く解釈していく。これが一番恐いことになってくるだろうというふうに思われますから、「悟り」とおっしゃったけれども、私どもはそう簡単に悟りを得るわけにはいかないでしょうし、それは人間の業というものがある限りは、人からみたら悟っているということはとても言えないかも知れませんし、そんな思い上がりがあってはいけない。どうしても人間というのは、なんか一つやると、その思い上がりが出てくる。その思い上がりをまた捨てていかなければいけない。そうしなければ、私なんていうものはほんとなちっぽけな人間だろうと思います。その辺をお釈迦様は、何遍も強調しながら、真っ直ぐ前に向かって進む努力をその中でしていくべきだ、というふうに教えられていると思いますね。
 
草柳:  ただパッと目の前が開けたな、というふうに感じられる一瞬というのは?
 
石上:  ありますね。だけどあった、と思って、俺は得た、なんていうと、もう元の木阿弥。やはり本物は謙虚でしょう、おそらく。本当の一つの謙虚な、そして自分の忸怩(じくじ)たるいろんな問題を抱えていますから、これでいいのか、という気持もありながら、真実の人というのは、そんな偉ぶるところはない筈ですよ。ほんとに片隅で静かに偉ぶることなくやっている人の方が、遙かに素晴らしい人ではないんでしょうか。そういうふうに思うと、人間の行動は傲慢ですね。その傲慢さを無くさなければ、共同生活なんてとてもできるものではないだろう、という気もしてくるところで、非常にこの辺の人生の綾と言いますか、求道の綾というのは大事なことを教えているように思います。そこでもう一つ『ダンマパダ』の教えがございます。
 
草柳: 
人よ
汝はこのように知れ
「自制(つつしみ)がないことは
悪いことである」と、
むさぼりと不正とが
汝を長く苦しみに
陥らせることがないように。
(『ダンマパダ』二四八)
 
石上:  ここでいう「自制(つつしみ)がないことは悪いことである」と言い切っておられます。そのように知りなさい、と。これですね。慎みの仕方とうのは、確かに自制ですけれども、自制であると同時に、自制であるということは、偉ぶるところはまったくないわけですから、どう見てもそんな偉い人とは見えないような謙虚さを身に付けているような、そうすると、「むさぼりと不正とが汝を長く苦しみに陥らせることがないようになる」という言い方を、ここでしておられます。そこで一つちょっと形変わったお話をさして頂きたいと思うんですが、実は漫才をなさっていた獅子(しし)てんや・瀬戸(せと)わんやさんという方がおられます。ところがあの獅子てんやさんとお話をしたことがあるんですけどね。
 
草柳:  てんやさんは身体の大きな、
 
石上:  大きいというか、ちょっと大柄の方ですが、瀬戸わんやさんの方が身体を毀(こわ)して、大変酷い糖尿かなんかに罹られたようですが、それである時それを後で見て、顔付きが変わってきたというので、これ以上やっていたら、彼自身のためにならないというので、「もう療養しなさい」と言って、漫才止める恰好になりますね。相手もいなくなった獅子てんやさんは、生活が―両方ともそうでしょうけれども―大変なことになってきた、と。その中で彼は、一生懸命自分をなんとかもう一回どうしたらいいだろうか、と煩悶する中で、自分のお父さんが大変仏教に信心深かった方だ、というので、自分の菩提寺へ行って坐禅をしてみたり、仏教の勉強してみたり、話も聞きにいく。そうすると、「お前さんはてんやさんじゃないか。今まで自分が歩いてきた道をもとにしながら、少しは仏教の話をしろ」というふうに言われるようになっていって、だんだんと仏教の方へ身が入り込んでいった。ところがその中で自分が、今までの人生を振り返ってみて、それを仏教の教えというのを頂いて合わせてみると、なんという自分はおかしなことをしてきたんだろうか、と。ところがそれが自分の過去を振り返って、合わせてみて、あ、これが仏教でいうこの言葉の教えに繋がっている、ということを一つずつわかるようになってきた。獅子てんやさんがいうのには、「五戒というのは、私にとってはただ一つの戒めだ。一戒にすぎない」というんですね。五戒が全部バラバラでない。一つになっている。何故かと言えば、芸能生活をしている時には、当然たくさん人たちと一緒にどっかへお酒を飲みに行く。食事をする。そうすると夜更かしもする。それから時にはどこかへみんなと寄る場合もあるでしょうし、そういう生活で、ある意味でいうと少し野放図なところもあった。ところが、これを機会にお酒を止めた、というんですよ。お酒を止めたら、私は真っ直ぐ家へ帰るようになった。そうすると嘘を付かなくて済む。そしてまたいろんなそれに関わることがなくなってきちゃった。そういうふうになった時に、初めて自分は、「五戒というのは、一戒に過ぎない。みんな繋がっているんだ」ということを知ったというんですね。この受け取り方は、私にとってみると非常に面白いし、また素晴らしい受け取り方をしておられるな、と思いましたね。「五つの戒め」なんて考えるから、なんかどれも面倒くさくなるけれども、たった一つに繋がるということは、これは大変な受け取り方ですね。仏教というものが、いろんな言葉があるけれども、その言葉の「あ、あれが私に教えているこういう教えであったのか」というふうに、そういう受け取り方に全部変えられてきた、というんです。これ人生生活を送って、そして自分が反省した時に、そういう受け取り方ができるというのは、仏者として大事なことじゃないかと思うんですね。私どもは、それをしていないでバラバラいしているんですよ。そうすると仏教は生きていないということになりそうで、この辺は獅子てんやさんは、素晴らしいことをされてきたように思っているんです。
 
草柳:  戒めを守らない私もですね、多分いくつかというか、相当破っているんじゃないか、と。戒を守れなかったら、どうすればいいんでしょうか。
 
石上:  守れなかったら。しかしその前に一つ申し上げたいのは、お釈迦様の受け取り方の中に、自分自身を特別扱いされていなかった、ということをまず申し上げておきたいと思うんです。そうするとお釈迦様は月二回ですが、十五日に一回ずつ、反省のための「布薩(ふさつ)」というのを致します。そういう言葉があるんですが、これはお釈迦様がいうんですね。「私に間違いがあったら、みんなが私にどういう間違いがあったかを言ってくれ。そうすると、私は懺悔(さんげ)をする」。「懺悔をする」とこうおっしゃる。「またみんなも、あったらみんなもそれは懺悔しなければいけない。その懺悔しただけでゆるされない行動もある。
 
草柳:  『懺悔(さんげ)』というのは反省?
 
石上:  反省より、もう一つ厳しいと思いますけどね。
 
草柳:  自分自身で、自分にやった行動をそこで投げ出して、こういうことをしないように、という、そういう反省ですから、単なる反省とはもう一つ違っていると思いますが、そういう懺悔をする。仏教では「ざんげ」と言いませんで、「さんげ」と言いますけれども。それをご自身に言っておられる。ですから私どもはこの「懺悔」という言葉をもっともっと大事にしなければいけないんじゃないか。今日はこうやったけど、やっぱりこういう点で拙かった、申し訳ない。そういう気持の懺悔というものがなければいけないんじゃないか。私ども仏教徒になりますと、「懺悔文(さんげもん)」を毎日のように称えるんですね。私は、昔からやってきたいろんな行動の中にある罪、そういうものを懺悔します、ということをいうんですが、毎日普通のお経のように称えていますと、ただ称えているんですね。それで本当に私は懺悔する、という気持なんか、どっか薄くなってしまうんですね。何気なくただ称えている、お経みたいに。お経というのはそういうところがあるみたいだ、と。しかしそれではいけない。やっぱり私は懺悔している、それを実際懺悔できるか、というと、これまたできないんですね。私はいつも思うんです。なんと情けないことよ。懺悔文を読んでいるんです。ところが懺悔できなかった自分を、ふと気が付いた時に、あ、できなかったのか、ということで、できない自分を懺悔しているんですね。ほんとの懺悔じゃないんですよ。そういうところが私なんかにもあるわけで、しかしやはり仏教徒は、もっと真剣に懺悔するということをしながら、毎日の生活のあり方を求めていくことが、非常に大事にしなければいけない点だろうとつくづく思っております。懺悔はそう簡単にはできませんけれども、しかし在家の信者に与えたものの中には、「毎日毎日できないんだから、月三十日のうち六日間だけは、そういう気持を持ちなさい」という、懺悔の信者には言いますね。それは「六斎日(ろくさいにち)」と言いまして、「六斎日(ろくさいにち)」という言葉は、日本でも大分残っておりますけれども、特にそれを在家の信者には言います。何かというと、前から生き物を害してはならない、与えられないものを取ってはならない。嘘を付いてはならない。酒を飲んではならない。勿論その時は奥さんとも交わってはいけない、ということも含めておりますけれども。それ以外に八つばかり付けるんですね。いろんな装身具なんか身体に飾らずに、それを全部取り外して、そしてどこかへ行って踊りや歌などを聞いてもいけない。一日きちんと真面目にしなさい、なんていう日まで設けるようになるんですね。それで立派なベッドに寝てもいけない。あるいは食事も昼以後は慎みなさいというぐらいに、少なくとも仏教徒なら六日間はそうしなさい。そういうことをいうのがどうも廃れてしまいました。
 
草柳:  それはそういうふうにやっていかないと、錆というのは鉄についてどんどん膨れ上がってしまう、ということなんでしょうね。
 
石上:  そうだと思います。仏教の言葉の中に、これは日本語になってしまいましたが、「獅子身中(しししんちゅう)の虫」という言葉がありますね。これはお聞きになった方はおられると思いますが、この「獅子」は、ライオンのことですが、ライオンという百獣の王が、そういう強き動物であっても、身体の中から湧いてくる虫によって滅ぼされてしまう。死んでしまうということを、経典の中で説いております。自己の中にいる虫、それは我々にすれば、「煩悩」ということになりますが、それを自制していかなかったら、自分自身というものは、安らかな気持に到達することができずに、逆にそれが自分自身を滅ぼす。結局は自分自身の問題なんですね。自分で自分に言い聞かせていかなければいけない。「獅子身中の虫」というと、ちょっと今、意味合いは別の意味に取られていますけれども、本来の意味は、私自身の中にある錆になるものを取り除く努力をしていくべきだ、ということを教えているのが、この言葉ではないかな、と、そんなふうに思われてくるんです。しかしこの「錆は鉄より生ず」という言葉の譬喩は大きいですね。誰でもわかることですが、それをまた「錆は鉄より生ず」と、こういかないようにしなければならないんじゃないかな。その辺は如何(いかが)なものかと思います。
 
草柳:  今自分を振り返ってみても、そういうふうに思うんですけれども、自分自身と真剣に向き合っているんだろうか。なんかその辺のところが少し流されているな、という今気がしてしょうがないんですね。ですからその辺のところをもう少しきちんとしないといけないな、と。
 
石上:  大事なことでしょうね。やはりそれが仏教徒の歩みであるということにもなるだろうと思います。
 
草柳:  今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成六年十月十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである