共に生きる街でー神戸・震災から七年ー
 
                       カトリック鷹取教会神父 神 田(かんだ)  裕(ひろし)
上智大学新学部卒。カトリック阿倍野教会、玉造教会を経て、一九九一年に鷹取教会へ。一九九五年に阪神・淡路大震災で被災。株式会社「エフエムわいわい」代表取締役、NPO「たかとりコミュニティセンター」理事長。神戸刑務所宗教教誨師など兼任。
                       き き て       峯 尾  武 男
 
 
ナレーター: 一九九五年一月十七日の早朝、五時四十六分に起きた阪神大 震災。神戸市長田区にある鷹取(たかとり)教会も一部の建物を除いて崩壊。 やがて火が崩れた建物に燃え移り、教会とその周辺の街は、一 面の焼け野原になりました。その時、司祭館で睡眠中であった 当時三十七歳の神田神父も、地震のエネルギーの凄まじさに直 面しました。教会の敷地内には、ボランティアの手により、紙 の柱を使ってまちづくりの為の集会所が建設されました。教会 の本格的な建て直しは、街の復興が終わってから実施される予定です。この鷹取 教会の信者は、およそ六百五十人。その中にはベトナム難民で、この地域に住み 着いている人が、二百五十人います。
まちづくりのボランティア活動、宗教活動の中心になっているのが、今年四十三 歳の神父・神田裕さんです。
 
峯尾:  先程、ミサで拝見した時の神田神父と随分感 じが違うんですが、それが神田さんの普段の 姿ですね。
 
神田:  そうです。震災後ですけれども、いつもこう いう成り立ちで、というか、毎日おくってい るんです。神父は神父の恰好、いわゆるフォ ーマルな恰好があるんですけれども、特に震災の時は、もう教会も潰れましたし、 そこから作業着のような形で毎日が進んでいたわけですね。首にこうタオルを掛 けているんですけれども、震災の時は暫く水も出なかったですし、電気も通って いなかったので、何かとこのタオルが便利だったんですね。寒かったしですね。 冬になるとこう巻けばマフラー代わりにもなるし、朝これで顔をふけるし、そう いうので、普段こういうふうに付けていたんです。ある時、こ の教会が救援基地になって、いろいろ物資とかが送られてきた んです。何ヶ月か経った時に、あるお婆さんが物資を送って下 さったんです。少し小さな箱だったんですけどね。その中に手 紙が入っていたんです。手紙を見てみると、「はじめまして」 と。「ところが、私は初めてではない。あなたは時々新聞とか、 テレビとかで見かける。今回初めてお便りしました。いつも気 になっていたんですが、見るといつも首にタオルを掛けている」 と。
 
峯尾:  どこへ行ってもそういう恰好をしていらっしゃったんですね。
 
神田:  ええ。初めてお便り下さったお婆さんが、そういうふうに書いてあったんです。 その後に、「ちゃんと洗っていますか。たまには洗いなさい」ということで、こう いうタオルを二十位ですが、タオルばっかり送ってきて下さったんですよ。それ が届いた時に、凄く私嬉しくって。それはここでいろいろみんな活動しています けれども、最初の頃は、特に陸の孤島のような感じで、どうしていいか分からな いような状態だったですね。多くの人の協力で、これまで歩んできたんです。遠 くの方からも、おばあちゃんなんかも直接にボランティアには来られないけれど も、でも、そうやってずうっと見守ってくれているんや、というふうな気持が凄 く嬉しかったですね。それ以来、こう便利に使っていたタオルなんです。何か震 災の中から立ち上がっていくためのおばあちゃんから貰った力付け。それともう 一つは、一つの拘りで、神戸は大分綺麗によくなってきましたけれども、一人ひ とりを見て見ると、まだまだ震災から復興したとは言えないですね。神戸がそう である限りは、やっぱり最初の気持、そのままを持ち続けていきたい、という願 いも込めて、ずうっとこの恰好で日々送っているわけなんです。
 
峯尾:  今、私どもがいるこの建物─ミサが行われる場所ですけれども、 いうなれば集会所?
 
神田:  そうですね。教会の中にこういう建物があると、大概、「聖堂」 とか、「礼拝堂」と言われるんですが、私たちはそう呼ばない で、建物の名前は、「ペーパードーム」と言うんです。集会場 ですね。これは案を出して下さったのは、東京のある建築家の 方なんです。震災にあった時に、「自分が建築家として何か役 に立てないか」ということで、最初に来られた時に言われたのが、「紙で建物を建 てる。紙というのはいわゆるリサイクルや。また、組立をして、他の所へ移動も 出来る。そういうものを仮設で此処に教会を建てないか。お宅、教会が壊れたか ら」というふうに言って下さったんですが、その時はお断りしたんです。何故か をいうと、震災で救援活動をしていく中で、教会の建物も必要ですけれども、そ れよりもっと大事なことは、一人ひとりの生活のことですね。そういうことが復 興しない間に、教会の建物を建てることに思いがいくというのは、ナンセンスな 話で、街が復興する迄は、教会は建てなくていい、という思いで、みんなこれま できたんですね。ちゅうど最初の頃も、そういう思いで始まったんです。そうい う理由で、「教会は有り難いけれども、教会はまだ建てないんです」というふうに お断りしたんですね。ところが、建築家の人も困り果てて、「でも、何とか私の気 持を」というふうな感じで、いろいろ工夫していて、地域の人にも相談をしたん です。この地域は全部焼けましたから、「これからまちづくりをしていかなけれ ばいかん。まちづくりをする為には、人が集まる場所が必要だ」ということがだ んだん分かってきて、いろいろ相談をして、「じゃ、建てるんだったら、教会を建 てるんではなくて、まちづくりの為の集まりが出来る建物を建てよう」というこ とで、みんなも合意した。「じゃ、それだったら」ということで、何百人というボ ランティアの人たちもそれの思いで、これを建てる為に協力して下さった。みん なの思いが結集して、この建物が建っていったんです。
 
峯尾:  多分、教会のドームよりは、ここの方が、誰でもパッと中に入ってくることが出 来そうな気がします。そういう意味では親しみ易い建物が此処に出来ていますね。
 
神田:  そうですね。
 
峯尾:  ただ、この時期、暑いですね。
 
神田:  暑いんです。周りはこう柱が建っていますけれども、紙で出来ているんです。上 はテント地のテントなんです。ですから、太陽が照ってくると、もう夏はサウナ のように暑くって、逆に、冬寒いんです。それでもみんな此処の中に入って来る と、落ち着いた気分になりますね、不思議と。
 
峯尾:  さて、震災当時に戻りますが、神田さんはちょうどこの向かい の司祭館で寝起きしていらっしゃった。その時、神田さんご自 身は、お怪我はなかったんですか。
 
神田:  怪我はなかったんです。ベッドごとかなり揺らされましたけれ ども。建物もしっかりしていましたし、ただ、昔の建物で、土 壁だったので、その土壁の壁が布団の上にいっぱい落ちできま したけれども、固いものが落ちてこなかったので、怪我は大丈 夫だったです。
 
峯尾:  ご自身が幸いにして怪我もなんにもなかった。まっさきに神田さんとしてはどん なことから始められたんですか。
 
神田:  何も出来ないですよね。最初、兎に角、部屋から出るのが大変 で、扉も開かなかったんです。何とか工夫して、脱出をしてい くんですが、その時に、二階で寝ていたんですけれども、遠く の方では火の手が上がっていて、最初は夢見心地だったですよ。 本当かなあ、と。ちょっと此処を抓(つね)ってみたりもしていたんで すが。で、下へ下りて行って、何人か此処に共住していたんで すが、みんなの無事も確かめ合って、それこそ地震が起きてか ら、十分、二十分位すると、空も白んできて、周りを見てみる と、もう悉く家が潰れている。大変やなあ、と。兎に角、もう大変やなあという 思いだけが残っていますね。何人かの人がそれこそ寝間着姿のままで、裸足で、 この辺りを夜中ウロウロし始めて。最初の頃は教会の敷地の中に何人か入って来 られたんですね、避難しに。何人かで畳を剥がして、この中庭のところに敷いて、 暫く何十人かそこで休んでいました。赤ちゃんなんかも、怪我して血を流してい る子なんかもいたりしてですね。やっていたんですが、「だんだん火も近付いてく る。此処ではいけない」ということで、他のところへ行って頂いたんです。一日 目はただウロウロして、火の手が迫ってくるから、何とか火が止まらないかなあ ということで、もう殆どこの教会の敷地の中で、ウロウロしていただけですね。 殆ど何も出来なかったんですね。
 
峯尾:  その時点では、まだ地域の人たちのところへ行って励まそう、手伝おう、或いは、 助け出そう、そこまで行ける状態ではなかったわけですね。
 
神田:  そうですね。状態でないというのと、それと、行けるような状況というか、そう いう生活をしていなかった、ということも言えるかも知れないんですね。私以外 の地域の人たちは、仲間になって、いろいろ話をしたりしていたんです。みんな 救出活動をしていたんですね。近くには病院があって、病院の患者さんたちをみ んなで搬出していたんです。そういうふうなことをしていたが、私はしなかった。 出来なかったんですね、正確に言うと。何故出来なかったか、ということなんで すが、震災のショックがあった、と理由ではなくて、それこそ周りに潰れている お家は沢山あって、大変な状況は分かるんですが、ところが、潰れているお家に、 誰が住んでいるのか。どういう名前の、何人家族の人が住んでいるのか、という のが、私自身は知らなかった、ということですね。震災の時はその地域に住んで 四年にもなっていたんですけれども、隣に住んでいる人の顔も名前も知らない。 そのことが、自分が初日の第一日目に何も動けなかった。何も出来なかったこと の一番大きな原因だ、というのが、後で分かりましたね。
 
峯尾:  ということは、「自分は今まで凡そ四年間この地域で何をやってきたんだ」って、 そこまでの思いに?
 
神田:  そうですね。教会ですから、教会に来ておられる方の名前とか、勿論、覚えてい るんですが、でも、教会というのは、いろんな遠いところから来られていますね。 そういう意味では、ご近所じゃないんですよ。此処は教会だから、それでいいと 言えばそうなのかも知れないけれども、やはり地域の中で一緒に暮らしていると いう意味では、隣に住んでいる人の顔も名前も知らなかったというのは、恥ずか しい話ですね。
 
峯尾:  ただ、その後、一時的にまず避難していらっしゃって、「此処も危ないから」とい って、結局、教会の敷地から別のところへ行かれたということですが、ボランテ ィアの人たちが此処へどんどん集まって来たというのは、それからもう少し経っ てからのことですか。
 
神田:  いや、次の日なんです。
峯尾:  そうですか。
 
神田:  一日目は建物が焼けて、夜になって煙も大変だったので、その 日は此処にいることが出来ないで、近くの中学校へ避難したん です。そこで一泊して、次の日に何人かで此処へ戻って来て、 「此処で生活を始めよう」ということで始まったんですね。テ ントを張ったり。教会ですから、何人か知っている人も最初は 来て下さったりした。生活する為に、まず何 をしたかというと、それは自然なことでしょ うけれども、火を焚き始めたんですね。焚き 火を。周りに教会の聖堂の燃え滓とかもいっ ぱいありましたので、それを集めて火を焚く。 寒かったですからね。火を焚くことで、いろ いろ食べ物のこととかを、ずうっとやり始め るんですが、夜中になっても、生じた火を囲 んでずうっといたんです。この辺り建物もな いし、真っ暗闇だし、そこに火の手が上がっ ている。「火の手が上がっている」というの は、変な言い方ですけれども、昼夜問わずに、 ボランティアの人たちは足で被災地の中に入 って下さったんですけれども、その辺りへ入 って来て下さった人が、「あ、あそこに火が ついているぞ」というような感じで駆け付け て下さって、此処で出会いがあって、というのが最初のスタートですね。
 
峯尾:  それはもしかすると、先程のお話の続きでいうと、神田さんにとってもかなり思 い掛けないことだったんじゃないですか。
神田:  「ボランティアの人が」というのは、思い掛けないことですね。 今でこそ、此処は救援基地を経て、一つのNPO(Non-Profit Organization:民間非営利組織)、NGO(Non Government Or- ganization:非政府組織)センターになっております。でも、 当時はそんなことはこれっぽちも思っていなかった。ただ、「ど うやってこの燃えた跡を片付けようか」ということしか頭にな かったんですね。でも、それがボランティアの人たちが来て下 さることによって、いろいろ力付けられて、「じゃ、今、必要なことは何か」「何 をしたらいいんだ」というのを、多くのボランティアの人たちに学ばして貰って、 日々少しずついろんなことが展開されていったんですね。
 
峯尾:  此処へ集まってきたボランティアの方たちというのも、遠くの方もあれば、キリ スト教の信者の方もあれば、初めてそういうことをする方もあれば、まさにさま ざまだったでしょう。
 
神田:  そうですね。教会の人たちも勿論駆け付けて下さいましたけれども、どちらかと いうと、教会とは無関係な若者たち、それこそ北は北海道から、南は沖縄まで、 全国各地からこの被災地の中にやって来て下さって、いろんなところで活動して 下さったんです。此処の教会も、そのうちの何人かが来て下さって、此処で出会 いがあって、いろんなアイデアが形にされていったんですね。
 
峯尾:  かなり大勢の方がこの敷地内でお泊まりになったんですか。
 
神田:  そうです。一番ピークの時は、最初の夏休みだったんですけれども、この敷地に 百八十人のボランティアの人たちが、泊まっていた時がありました。そうなって くると大変で、若い子たちはみんな地べたで毛布一枚で寝ていたような状況だっ たんです。
 
峯尾:  夏だからいいにしても、それにしても、まさにカトリック鷹取教会に今までなか った光景が、そこで見られた、ということですね。
 
神田:  そうです。毎日いろんな人の出入りがある。毎日何か地域に向けて、「何をしてい ったらいいか」と考える場所になっていった。それはいろんな多くの人たちの出 会いの中で、そういうふうにさせてきて貰ったんです。今までの教会のことを考 えると、教会の人たちはミサでお祈りしに来ますけれども、この場所が地域社会 の、何かまちづくりということに、今まで何か関わってきたのか、と考えてみる と、全くと言っていいほど、何もなされてきていなかったんじゃないかなあ、と 思うんですね。普段は閑散としています。日曜日はさすがに人は来ますけれども。 普段は、人が来るか、来ないかというような場所でした。そういうことから考え ると、凄く様変わりしましたね。様変わりしたんですけれども、でも、その時も 思いましたし、今もそう思うんですけれども、これこそ教会じゃないかなあ、と いうふうに思うんです。人々が集まって、出会いがあって、そこにアイデアが生 まれて、そのアイデアを、具体的に地域社会に向かって形にしていく。これこそ の教会の姿じゃないかなあと、私は今でもそういうふうに確信しているんです。
 
峯尾:  当時、私なんかも、被災地からは離れたところですが、報道の仕事をしていて、 いろんな場面を映像で見たり、お話を伺っていたりはしていたんです。ボランテ ィアがこんなに全国各地から集まって来るというのも、ハッキリ言って、意外な 印象がありました。それから被災した人たち同士の交流というのか、助け合いと いったようなものも、離れてはいたけれども、そういう話を聞いて、「ああ、そう いうものが、人間というのはいざとなると生まれてくるんだなあ」と思ったんで す。神田さんは、それを実際に此処でさまざまご覧になっているわけですね。
 
神田:  そうです。特に、最初の大変な時期、三ヶ月位まで、冬を乗り越えるまで、大変 なことは大変だったんですが、それこそ多くの人たちが駆け付けて下さった。全 国の人たちが見守って下さっている。一人ひとりの被災者の人たちも、なんとか 今日生き抜こう、というふうにやっている。そういう姿を見た時に、大変な中に も、何か一つのことに対して、みんなの気持が収斂されて、一つになっていく。 なんかダイナミズムというか、パワーというか、日常見れないような、不思議な ものを感じることが出来ましたね。キリスト教的な言い方なんですが、私たちが 生きるこの世の中の理想的な形を、「神の国」という表現するんです。人が人とし て、一人ひとり尊厳を持って生きれるような社会、もっと簡単に言えば、お互い 声を掛け合えるような、そういう社会。そういうものも、「神の国を造っていく」 というふうに表現するんです。最初の二、三ヶ月の頃というのは、まさにもしか したら、「神の国」というのがあったのではないか、というふうに思いましたです ね。ある意味では、地獄絵のような苦の中にあるんですけども、でも、その中で 見たものというのは何か。それは、私は、「神の国」だったように思うんですね。 いろんな人の出会いがありました。普段なんとなく通り過ぎていく私たち地域社 会の人たちも、本当にすれ違う度毎に、声を掛け合えることが出来る。「あんたと こ、大丈夫だった」「水はちゃんと貰いました」とか、もう知らない人でも声を掛 け合う。そういう時が確かにありましたね。
 
峯尾:  それが六年半経って、私ども、外から見た感覚で、ボランティアの人たちの多く は、自分の場へ戻ってしまったし─此処はまた別かも知れませんけれども─人と 人の心の交流というのが、「今の世の中は何だ。あの時は何だったんだ」というく らい引いてしまったような印象があるんですけれども、そんなに悲観的に考えな いでいいものですか。
 
神田:  震災直後の、大変な中にも垣間見た、不思議な世界というのは、もう今は無い。 それこそ一年も経たないうちになくなってしまっていたんですね。でも、例えば、 最初の頃は被災地の中で、みんな声を合わせて言っていたのは、「もう物は要らな いね。幾ら物を持っていても、こうやって地震があれば全部無くなってしまうし、 物なんて必要ないよね」というふうに、みんな言っていたんですね。ところが、 気が付いて見ると、また、自分の周りには物がいっぱいになっている。そういう 現実に、愕然としたりもするんです。ただ、私たちが震災以後、「やろうとしてい ること、そして、日常生活やろうとしていることは何か」と言ったら、それは、「ま ちづくり」なんです。もっと別な言い方は、「ひとづくり」。「ひとづくり、まち づくり」。それは作っていくということですね。「作り」と書いていますから。震 災直後の、そういう不思議な体験というのは、作ったものではなくて、どちらか というと、与えられたものですね。与えられたものを、私たちは感じてきた。そ れと、全然体験していないよりも、「あ、そういう時期あったね」と。自分たちが 作ったわけではないんだけれども、「ああいう大変な中で、そういうことを感じる 一時(ひととき)を持つことが出来たね」という。実際体験したわけですよ。それがもの凄く 大事だ、と思うんですね。身体で覚えている。確かにあったんだ、と。頭で想像 した空想の出来事じゃなくて、日常生活、実際にこの身体で体験したことだった んだ、と。そういうことが一つの自信になって、体験出来たんだから、今度は作 っていくことが出来るじゃないか、と。今までは、作ることも不可能じゃないか、 というふうなことだったけれども、作っていくことが出来るよ、と言えば、希望 を持つことが出来るようになった。そういう意味では、悲観的な事ばかりではな いと思うんです。
 
峯尾:  被災した人たちも、少しずつ元の暮らしを取り戻そうとしつつあった。いろんな 方たちがいろんな努力なさったと思うんですが、そういう場合、当然のことなが ら、利害の対立というものが生じた─これは報道もしましたし、噂話のような形 でも聞きましたし─いろいろあったと思うんですけれども、その対立を、神田さ んも当然ことながら、いろいろ見ていらっしゃった、と思いますが、そんな場合、 宗教者としての神田裕神父は、基本的にどういう立場で、それを見ていかれたり、 場合によって関わっていたりしたんでしょうか。
 
神田:  あまり「宗教者」というふうに、自分で構えて、これまで見てきていませんので、 「宗教者」と言われると、緊張して言えなくなってしまうんです。一人の住人と してというか、一人の人として、というか─対立は勿論こういう非常時だけでは なくて、日常でもいろんな意味で意見の違いとか、ありますよね。この救援活動 をしていく中で、一番大事なのは何か、と、いろいろ学ばしてきて貰ったのが、 一人ひとり同じ「被災者」という一つの言葉で、全部の被災地の人を引っくるめ て、同じように一つのカテゴリーの中で閉じ込められてしまったりしますけれど も、でも、一人ひとりみんなが違う。救援活動は、「ひとづくりで、まちづくり」 ということなんですけれども、それは一人ひとりがやっぱり違うんだ。一人ひと り個性を持った人が居て、一人ひとり個性を持っている人が、街を構成している んだ、ということに、気が付いていくことが、まちづくりではないかなあ、とい うふうに思ったんですね。宗教というのも、敢えて言うと、一人ひとり命があっ て、一人ひとり尊厳を持った人なんだ、と。誰一人として、上下関係もないし、 力の関係もない。みな同じなんだ、という考えの基の中で、まちづくりをしてい く。それが忘れてはならないこととして、此処でずうっと訴えてきたように思い ますね。
 
峯尾:  例えば、行政の側ですと、一人ひとりの個性を尊重していたら、復興は一向に進 まないんではないか、と。一本の基準線を引いて、これを元に、みな納得せよ、 というような形で、進められた分というのは確かにあったでしょう。
 
神田:  そうですね。「平等」という言葉がありますね。行政で使う「平等」というのは、 「足して二で割ったラインが平等」なんでしょうね、多分。それは、行政は、ど の時代にいっても、どの社会へいっても、多分、そのスタイルをとっていくと思 うんです。一方、宗教とか、市民活動という中で言われている「平等」というの は、決して、「足して二で割って、その真ん中が平等だ」ということではないです ね。常に、一番底辺にいる人に、焦点を当てていく、視点を当てていく。自分た ちの活動方針を向けていく。いつも「谷間というか、底辺の部分に、自分自身の 視点もそこに持っていく、ということが、いわゆる市民活動や宗教者がいう平等 ということだ」と思うんですね。そこに大きなズレがあると思うんです。行政の いう平等と、宗教者たちがいう平等というのは、そこに大きなズレがあると思う んですね。行政では、多分そうでないとやっていけないんでしょう。でも、逆に、 私たちが、行政のいう平等に甘んじて、それに照準を合わせていく、というふう なまちづくりをしていると、街は作れないですね。それぞれの、行政は行政で本 来の、もっと理想を言えば、行政はそういう形でするけれども、でも、宗教者や、 そして、市民NGOやNPOの人たちのまちづくりというのと、それぞれの持ち 場や特性を、何かお互いそこでも分かち合って、一つのまちづくりというのがな されていったらいいと思うんですね。行政だけが形作っていくまちづくりという のは、ひとづくり、まちづくりという意味では、街になっていかない、と思うん ですね。やっぱり市民一人ひとりの草の根的な、底辺に目を向けた活動があって こそ、街も出来るんだし、そこで連携プレーが出来ていけばいいですね。
 
峯尾:  地域の特性という意味で言えば、最初にご紹介したんですが、こちらのカトリッ ク鷹取教会の信者の中に、外国からいらっしゃって、今、こちらに住んでいる方 が、随分信者さんの中にもいらっしゃいますね。これはこの地域の特色の一つと 考えていいんですか。
 
神田:  そうです。神戸は元々、「国際都市神戸」というふうに言われていましたね。実際 には、百カ国近くの人たちが、この地域、神戸に住んでいる。その中でも、此処 は長田区というところにあるんですが、アジアの人たちが、多い街だったですね。 地域的に見てみても、韓国、朝鮮の人たちや、中国の人たち、そして、最近では ベトナムの人たちが、普段の日常生活の中で一緒に暮らしていた。そういう地域 だったですね。
 
峯尾:  その方たちが震災の時に、直面したことというのが、やはり幾つかあるわけです ね。
 
神田:  そうです。勿論、地震など自然災害そのものは、国籍も関係なく、みんな平等に 受けますから、何の差もないんですが、そこからの差ですね。じゃ、地震にあっ た、と。これから復興とか、最初は避難から始まるんですが。この「国際都市神 戸」と言われていた街ですけれども、たくさん外国の人たちが住んでいたんです が、でも、この、いざ、地震になって思ったんですけれども、よく見てみると、 例えば、学校に、「公域避難場」と書かれてあって、普段、私たちはその文字を見 ながら、此処は、「公域避難場」なんか、と。火事とか、何かあった時には、此処 へ逃げたらいいんだ、というふうに思うし、学校でもそういうふうに教わったり もしますね。いざ、よく見てみたら、こんなにたくさんの国の人たちが住んでい るのにも関わらず、日本語でしか書かれていない。震災の時に、「じゃ、避難場は どこや」ということで、捜しにいくんですが、その「避難場」という言葉さえも 分からない外国の人たちがたくさんいた、ということですね。最初の混乱は、そ こから始まったと思うんです。「避難場って、一体何や」「どうしたら、いいんや」 「どこへ行ったらいいんや」というのは、もうみんな分からなかったですね。た だ、みんなが流れていく方へ、何とか付いて、辛うじて、避難場へ行くことが出 来ましたけれども。いわゆる情報、大事な大事な日常生活や緊急時に、大事な情 報というのが、外国の人たちには、日本人の本当に半分もないですね。情報が伝 達されていかない。これが大きな今回の地震の災害の中でのマイナス点の一つだ と思います。
 
峯尾:  先程の話で、市民に一人ひとり個性があるというのと同じように、私どもそれこ そひとまとめで、「外国人の方も」なんて言い方をしますけれども、これも本当 は、一人ひとりなんですよね。
 
神田:  そうなんですね。ついつい私らも、此処にベトナムの人がたくさんいますから、 ちょっと気が付いてみると、「ベトナム人が」と言ってしまうんですよ。全体を表 現する時には、別に構わないですけれども、個人を指さして、「ベトナム人が」と 言ってしまうんですね。でも、日本人の場合は、例えば、日本人同志で、一人ひ とりを指さして、「日本人は」って普通言わないですね。何で外国の人だけ名前で 呼ばないで、その国籍で呼ぶんだと、不思議でならないですね。不思議でならな いんですけれども、私自身もついつい、「ベトナム人が」と言ってしまうんです。 これはやっぱり気をつけなければならないな、というふうに思いましたですね。
 
峯尾:  「まちづくり、ひとづくり」とおっしゃいましたけれども、後半さらに詳しく伺 いたいと思いますけれども、日本人、外国人、取り敢えず纏めて呼んじゃいます けれども、そういう人たちも含めて、たまたま一度壊されてしまったところのま ちづくり、基本的にはどうあるべきだと、神田さん個人としてはお思いになりま すか。
 
神田:  私個人としてはですね─この辺りの特色としては、此処は、「過疎、高齢化の街」 というふうに言われていたんです。一人暮らしのお年寄りのたくさん住んでいる 街、そして、外国籍の人が多い街、というふうに言われていました。実際に住ん でいる人たちが、いろんな国籍の人たちが此処に住んでいる。今度はゼロになっ て、今からまちづくりをする時に、もう日本人だけのまちづくりをしていたんで は、現実にそぐわないですね。こんなに外国の人たちがたくさん住んでいるんだ から、今度、出来上がっていく街は、この辺りはアジアの人たちが多いんだから、 此処は、「アジアタウン」が出来るんじゃないか、というふうなことは、自然に思 いますよね。ところが、まちづくりというのは、自然なことを自然にさせていか ない。どっか大きな力に引っ張られて、一つの方向へ向けられるんですが、私、 個人的に言って、素直な気持ち、自然な気持でいうと、此処はどんな街が出来る か、といったら、アジアタウンのような街が出来るんじゃないか、と。そういう 街を作っていきたい、というふうに思いますね。
 
峯尾:  じゃ、アジアタウンの話も含めて、後ほどまた場所を改めてお話を伺います。
 

ナレーター: 鷹取教会の敷地の中には、いくつもの建物 があり、そこにいろいろなボランティア組織 が入っています。鷹取救援基地としてスター トした組織は、去年の八月、NPOの法人格 が認められ、「たかとりコミュニティセンタ ー」になりました。神田さんはその理事長で す。その組織の一つ、ミニFM放送局「エフ エムわいわい」は、地震の直後から、この地域に住む、外国人住民に、必要な震 災情報と、文化情報を発信し続けてきました。
震災後、一年で、「コミュニティ エフエム」として正式に発足し、今も、日本語、 ベトナム語、ハングル、タガログ語、英語、中国語、スペイン語、ポルトガル語 の八つの言語で、毎日朝八時から夜中午前零時まで、十六時間に亘って、放送を 出しています。
 

 
峯尾:  中庭に出てまいりました。今日、日差しが強 いんで、神田さん、メガネにちょっと色が入 ってきましたね。
 
神田:  ええ。すみません。
 
峯尾:  此処でこう周りを見渡してみますと、実にた くさん建物があって、キリスト像がなければ、 此処が教会の中だ、という感じはしないんですが、此処がいわゆる「たかとりコ ミュニティセンター」に属するさまざまな組織が、それぞれの建物にあるんです か。
神田:  そうです。
 
峯尾:  全部で幾つあるんですか。
 
神田:  全部で九つのNGOの組織が、この中に一緒にいますね。
 
峯尾:  今、ちょっとご紹介した「エフエムわいわい」ですけれども、 先程の話にもありましたように、あの震災の時に、NHKもそうなんですが、日 本語の情報はどんどん出したんだけれども、それが分からない方には、当初、何 も伝わらなかった。
 
神田:  FMも、もとを質(ただ)せば、何をしていたか、というと、いわゆるいろいろな情報を、 最初は翻訳をして、プリントアウトして、それをテントとかに生活している外国 の人たちに配っているというのが、最初の活動の原点です。それはなんでそうい うふうになったか、と言ったら、実際に関わったボランティアの人たちが、「彼ら には情報がいっていないぞ」という現実を見て、「じゃ、どうするんや」というこ とで、プリントアウトして配って行く。その活動が原点であって、「じゃ、今度、 情報伝達するのはプリントだけじゃないだろう」と。「活字だけじゃないだろう」 と。放送を使って出来るというアイデアが、また違った人からアイデアが出てく る、と。だから、その時、その時に、今何が必要なんだ、ということを、みんな 素直な目で見て、それが形になっていった。だから、それだけニーズがあったと いうことと、そのニーズに応えていこうとしている若い人たちが、此処にはたく さん集まって下さった、ということが、大きな大きな要因ですね。
 
峯尾:  お話を伺っていると、何か人間の知恵というのは、素敵だなあ。やる気というの は素晴らしいものだなあ、という気が、私なんかはするんですけれども。
 
神田:  そうですね。なんか普段ではなかなかならないですけれども。でも、先程もお話 したんですけれども、この一つの場所に、多くの人が集まって来る。今までは、 教会は教会の信者さんしか集まって来ない。今は、いろんな人たちがこの教会に 集まって来る。いろんな人が集まるというのが、そもそも大きなエネルギーの原 点だろうなあ、というふうに思うんですね。集まればそこに出会いがあって、出 会いがあれば、アイデアも生まれて、そして、それを形にしていこう。総ては何 かいろんな人との出会いのエネルギーが、これまで作ってきたんだろう、と。と いうことは、今まではあんまり出会いが無かったんだろうなあ、というふうに思 えてきましたね。隣に居ても、出会いがなければ何も生まれない、というふうに、 なんか凄く感じましたね。
 
峯尾:  最初にお話下さった震災の前までは、神田さんもこの近くの人すらも、信者さん 以外はあまりご存じなかった。それがやはりあの不幸な出来事でしたけれども、 神田さんにとっては、非常に大きな転回点に、あの震災がなったということです ね。
 
神田:  そうです。やっぱり何か普段の自分では気が付かなかった。なんでやろう、と。 何故出会いがないんだろう、ということは問いかけるけれども。でも、敢えてそ れを自分で形作っていくこともなかった。でも、震災で、否が応にも、いろんな 出会いがあって、その中でだんだん自分自身が、気が付かされていった、この六 年間だったと思いますね。
 
峯尾:  先程ちょっとお話頂いた「アジアタウン」の話ですけれども、「神戸アジアタウン 推進協議会」というのが、組織としてもあるんですね。
 
神田:  今、ちょっと休会しておりますけれども、組織としてずうっとやって来ました。 この神戸、特に、この長田は、たくさんアジアの人たちがいるので、まちづくり としては、「アジアのまちづくりをしよう」ということで、例えば、街の案内板、 どこへいけば病院があるとか、というような案内板を、多言語で書いていくとか、 そういう活動はしてきました。一つのNGOの組織として、今までやってきたん ですが、でも、その「神戸アジアタウン推進協議会」が目指してきたというのは、 実は、この敷地内全部合わせてのことなんですよ。「FM放送局」にしろ、「NG Oベトナム」にしろ、そして、「パソコンの多言語のいろんな教室」にしろ、全部、 辿ってみれば、もう既にアジアタウンというのを作ろうとする動きなんですね。 だから、一つのNGOとしては、必要なくなってしまった。「まちづくり」という と、一つではなくて、いろんな角度からのまちづくりがある、と思うんですね。 ですから、此処もそれと同じように、いろんな角度での、外国の人たちとの、共 生のまちづくりの活動が、細分化されていった。それを全部引っくるめると、そ れは、「アジアタウンを作ろうよ」というふうな動きになっている。そういうふう にだんだん進化してきましたですね。
 
峯尾:  でも、例えば、長田区なら長田区全体で、多くのそこの住民の方たちが、それに 関心を持って下さる、というところまで、もういっています?
 
神田:  行政的にも、神戸市は、此処の長田を、「アジアタウンに」というふうな動きはあ るんですね。先程も言ったように、行政が作るまちづくりと、我々が目指そうと しているまちづくりは、また別なんです。行政として動いているということは、 そこに住んでいる地域の人たちも、それに関心を寄せているということだろう、 と思うんです。そういう動きの中でも、我々はまた違った角度で、外国の人たち と生活していくということ、いろいろ考えていきたい。住民みんながみんな、そ れに関心を持っているかどうかは分からないけれども、ただ、私は、「アジアタウ ン」という時に、ともすれば、外国のまちづくりをしよう、というふうに受け止 められてしまうんですよ。ところが、私らが言っている「アジアタウン」という のは、「日本もアジアでしょう、というアジアタウン」なんですね。日本を除け物 にするんじゃなくて、日本もありの、そして、その他のアジアの人たちもたくさ んおられる。トータル的な、今住んでいる人たちが、一緒に住めるまちづくりと いうのを、シンボリックに、「アジアタウン」と言っているだけなんで、自分たち の生活のことでもあるんですから、本当はみなさん関心のあることだと思ってい るんですけれども。
 
峯尾:  初めの方で、「宗教者として」などと言って、神田さんをちょっと追い詰めてしま ったのかも知れませんけれども、地域でさまざまな活動をしていらっしゃる中で、 他の宗教との協力関係も、いろいろ作ってこられたんですよね。
 
神田:  そうです。これも、「作ってきた」というよりも、やっぱり出合ったんですね。例 えば、此処はこういう形で救援活動していましたけれども、他に近くの公園とか でも、いろんなNGOの団体が来て、活動していたんです。それはいろんな宗教 の中での活動のグループもあったりして、震災直後ぐらいは、お互い情報交換し ながら、活動していたんですね。そうやっていくうちに、私なんかでも、こうい う恰好でやっていると、端から見ていたら、「お前、神父か」というふうな感じな んですが、だんだん知り合ってくると、「あなたは神父なんやね」というのが、だ んだんお互い分かって来る。向こうを見てみたら、「あ、あなたはお坊さんだった んですね」というふうに、だんだん分かってくる。一緒に活動していく仲間は、 宗教という切り口で見た時に、「あなたはお坊さんなんだ」「あなたは神主さんな んだ」「あなたは牧師さんなんだ」「私は神父」ということが、だんだん分かって くるんですね。そうしたら、暫く経った時に、こうやって出合ったんだ、と。ま た、違う切り口を見てみたら、宗教という切り口で、私たちは友達になったじゃ ないか、ということで、宗教ということで、震災の中で一つ動きをしないか、と いうふうなのが、また自然になったんですが、それに気が付いてから、何人かで 寄って、「じゃ、宗教者として、我々は何が出来るんや」ということを、少し考え 出したんですね。それは震災一年経った時だったんですけれど。
 
峯尾:  考え出して、どんなことをなさったんですか。
 
神田:  兎に角、「集まろう」ということで、最初は出合ったお坊さんのお寺に行って一緒 に食事をする。その次は、その次の人の神社の社務所に行って食事をする。その 次はこの教会へみんな来て食事をする。私は神父なんで、あまりお寺とか、神社 というのは足を踏み入れたことがないんですよ。でも、そこに友達がいるんだ、 ということで、今回、初めて足を踏み入れることが出来た。そこでいろんなこと を学びますよ。お寺というのはそうなんか、と。仏教というのは、そういうふう にものを考えているのか、と。一緒に食事はすることだけでも大きいことですね。 そこでまた出合っていくんです。知らないでいた間の誤解というのも、少しずつ 解けてくる。解けてくると同時に、相手というか、仏教のことや、神道のことや、 他の宗教のことを、少しずつ理解しようという気持にもなってきますね。それは そこに、自分の友だちがいるからなんです。友だちがいて、その人のことを知ろ う、と思ったら、この人はお坊さんなんや、と。どういうことに拘って生きよう としているんや、というのは、自然に興味を持ってきますね。そういう繋がりを 大事にしようということで、月に一遍位ですけれども、いろんなところへ行って、 食事をする、というのが、まず今やっている活動ですね。それで、宗教者として 何が出来るか、というのを、いろいろな具体的な形に現して、これまできたわけ なんですけれども。最初、そういうふうに、宗教の人たちと一緒にやった時に、 だんだん仲良くなっていくじゃないですか。でも、お互いを理解するというのは、 最初はちょっと怖かったことありますね。何が怖かったか、というと、もしかし たら、私は、今、カトリックで、キリスト教の思想で、というか、生き方で歩ん でいるわけなんだけれども、仏教のことを理解した時に、それもいいやないか、 となった時に、だんだん、なんで自分がキリスト教に拘ってやっているか、とい うのが、無くなってしまうんじゃないかなあ、と。もっと何か一般的な、これも いい、これもいい、というふうな、ともすれば、なんかみんなで集まっているう ちに、新しい宗教を創ってしまうんじゃないか、というふうな、ちょっと危惧が あったですよ。だから、最初は自分を守るということが、他を受け入れない、と いうことに繋がっていたように思うんですね。ところが、これまで、一緒に食事 をしたり、語り合っている中で、分かったことは、相手を理解すれば理解するほ ど、相手を知れば知るほど、そして、友だちになっていけばいくほど、自分が逆 に、私は神父ですけれども、神父であるという自覚が、逆に妙にもっと強まって くる。自分が何に拘って─私はキリスト教の生き方に拘って人生を歩んでいるん ですが─自分が何に拘って生きようとしているんや、というのが、もっと明確に なってくる。それが凄く自分にとっては不思議だったですね。
 
峯尾:  それは、例えば、自分がカトリックに拘って、日々生きているということは、相 手が、例えば、仏教のお坊さんだとすると、その方を否定することではないんで すか。
 
神田:  そうですね。私は最初そういうふうに、そういうことでしか、自分のアイデンテ ィティーを保てないだろうな、というふうに思っていたんです。他を否定するこ とで、自分の生き方を表現していく。もしかしたら、宗教というのは、そういう ところがあるのかな、というふうに思って、そういうのが怖くて、逆に出会いも なかったように思うんです。でも、実際、こうやって出会って、友だちとして出 会った時に、確かに、キリスト教もいいこともあるし、ともすれば、歴史的な流 れの中では、あまりいいとは思わないことも多々ありますよね。で、仏教のこと も見てみても、これは凄く繋がるところもある。こういうふうに考えれば、もっ と日本人にとってはピンとくる、というふうに学ぶところもいっぱいありますね。 だから、決して、排斥するだけではなくて、共通点もいっぱいあります。そうい うことによって、もっともっと自分自身がしっかりしてくるし、そうすればする ほど、相手を受け入れて、お互いが受け入れていける。これもなんかある意味で 不思議な体験をしたんです。
 
峯尾:  さて、いろいろお話を伺ってきて、さまざまな人との出会いで、神田さんご自身 も随分変わって来られたんだな、と想像するんですが。そうすると、今、神田さ んは、人と人、或いは、人種と人種、民族と民族、政治、信条の違い、我々はさ まざまな壁を作って、自分を守ったりなんかして生きていると思うんですが、壁 って、やっぱりある意味で取り払うことは可能、或いは、そうあるべきだ、とい うふうに思いますか。
 
神田:  壁ですか? そうですね、震災の時に私、一つ思ったことがありました。それは、 地震でそれこそ建物が壊れて、家の壁壊れましたよね。全部潰れてしまった。そ の家を囲っている壁が壊れただけで、人と出会えたんですよね。それは建物の壁 だけではなくて、例えば、宗教の壁とか、国籍の壁というのも、あの震災直後の しばらくの間というのは、ある意味で無くなってしまっていた。そこにあったの は何か、と言ったら、目の前にいるこの人との関わりだったんですね。違う宗教 の人との関わりではなくて、一人の人として生きている、この人との関わり。で も、その人は、実はいろんな生き方、私よりも違った生き方をしている。今まで は、その壁が大きすぎて、出会うこともなかったんだけれども、地震でその壁も 潰れて、違ったところへ自分が入っていくことが出来た。その体験はやっぱり大 きかったな、と思うんです。その壁が壊れた時に、自分が持とうとしている自分 らしさというか、自分自身というか、それが無くなってしまうんじゃないかな、 というふうに、みんな心配してしまうと思うんです。無くなって、出会いがあっ た時に、決して、そういう自分自身が無くなってしまうということは、なかった ように思うんですね。先程いったように、かえって自分自身を見つめるチャンス になった。そういう意味では、これからまちづくりしていく時─まちづくりは、 下手すると「壁作り」なんですよ。だから、その壁を、今まで無くって来れたじ ゃないか、という思いを、まちづくりの中で反映させていければ、というふうに 思っているんですが。
 
峯尾:  先程同じようなことを言いましたが、たまたま大震災というような不幸な出来事 があって、新しい面が、神田さんだけじゃなくて、多くの人に開けてきた部分は ある。そういうきっかけじゃなくても、人間って、壁を取り払うことは、可能な んでしょうかね。
 
神田:  でも、それは、「壁を取り払う」という思いがなければ、自然には出来ないだろう、 と思うんですね。私は日本人で、神父でもある。その中で、自分自身を考えよう としている。特に、例えば、日本人であるというのは何や、と。日本に住んでい る限りは、あんまり自分が日本人や、ということは意識しないですね。でも、外 国で暫く住んでいると、何をもって自分は日本人や、というふうに考えたりも、 したりするんです。逆に、此処に日本に住んでいる外国の人たちは、やっぱりそ れを凄く考えていると思うんですね。それが、ともすれば、障壁になってしまう 時ありますよね。私は、壁は取っ払ったまちづくり、ひとづくりをしていかなけ ればいけないと思うんですが、壁を取っ払うということが、質的に一つになるこ とではない、と思うんです。簡単な言い方をすると、此処にたくさんのベトナム 人たちがいる。長いこと生活していると、文化の違いや考え方の違いで、ぶつか ったりすることがあるんですね。その時に、「壁が無くなるってどういうことか」 というと、それを頭で考えた中で、彼らを受け入れるとかじゃなくて、「その考え 方は、俺、理解出来へんや」と。「私、理解出来ます」「私は理解出来へんわ」と いうふうに、お互いが言い合える関係が、壁がない関係だ、と思うんです。私は 私を主張する。彼は彼なりに違った宗教の主張をする。そして、違った国籍の文 化の主張する。それを、「語り合える場がある」というのが、「壁がない」という ことだと思うんですね。そういう語り合う場ではなくて、質的に一緒にしようと するのが、壁のないことではない、と思うんです。だから、違ったものを、もっ と自分の言葉で、自分を語れる場づくりを、そういうまちづくりをしていけたら なあ、と思うんです。
 
峯尾:  有り難うございました。
 
 
     これは、平成十三年九月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。