ただ、ありのままに生きる
 
                     誕生寺住職 板 橋(いたばし)  興 宗(こうしゅう)
一九二七(昭和二)年宮城県生まれ。海軍兵学校七六期。東北大学卒業。一九五三(昭和二十八)年、渡辺玄宗禅師について禅門に入る。その後八年間、井上義衍老師に参禅し、修行する。福井県武生市・瑞洞院住職、石川県金沢市・大乗寺住職などを歴任し、一九九八(平成一○)年、神奈川県横浜市・大本山總持寺貫首、曹洞宗管長に就任。二○○二(平成一四)年、貫首、管長の公職を辞し、石川県輪島市・總持寺祖院住職を経て、現在、福井県越前市御誕生寺住職。著書に「坐りませんか」「〈いのち〉をほほ笑む」「〈いのち〉の呼吸」ほか。
                     き き て 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  青く晴れ渡った冬空の下に広がる福井県越前市(えちぜんし)。市の中心部を日野川(ひのかわ)がゆっくりと流れていくのが見えます。今日はこの越前市の庄田(しょうでん)というところに立つ御誕生寺(ごたんじょうじ)に、住職の板橋興宗さんをお訪ね致します。御誕生寺は、鎌倉時代に永平寺を開かれた道元禅師から四代目に当たる瑩山(けいざん)禅師(1268-1325)が誕生されたこの地に、板橋さんの発願で新しく建てられたお寺です。板橋さんは、昭和二年(1927年)の生まれ、海軍兵学校在学中に終戦を迎え、その後東北大学を卒業されますが、禅の道に進み、金沢市の大乗寺(だいじょうじ)住職、鶴見の総持寺(そうじじ)貫首、曹洞宗(そうとうしゅう)管長などを歴任された後、何もなかったこの地に御誕生寺を創建された方です。
 

 
金光:  この前、私がお邪魔した時は、まだここの本堂の場所は、「この辺だ」ということを伺った程度で何もできていなかったのが、随分立派なものができましたですね。
 
板橋:  山がこの辺まであったのですよ。それを高速道路などの土取り場だったのですね。それをごちゃごちゃなっているのを、宇野さんという方が寄付をされて、「大本山總持寺ご開山の瑩山禅師の御誕生寺を建てたらどうか」と言われた。それが十二、三年前ですね。本堂などいろいろできて、もう二年ほど前に落慶法要を致しました。
 
金光:  そうすると、発願されてから十数年経つ?
 
板橋:  いやいや、そんなになりません。まだ十年そこそこです。
 
金光:  そうですか。それにしたら随分立派にできて。
 
板橋:  檀家一軒もないんです。
 
金光:  そうですか。
 
板橋:  あそこにあるお地蔵さんなんかが、寄付された方々のしるしにあそこにお地蔵さんを飾ってあるんです。
 
金光:  お地蔵さんとか仏像とか、中にはいろいろあるようでございますが。
 
板橋:  そうですね。みな寄付なさったのです。
 
金光:  じゃ、その瑩山禅師のお生まれになった土地での専門道場で、みなさんがご修行なさっていらっしゃる。
 
板橋:  ええ。檀家一軒もないけれども、修行僧がもう二十何人集まって、猫三十匹まで(笑い)。
 
金光:  そうですか。じゃ、そのへんのこと猫と一緒のご修行の中で、どういうことをお考えになっているか、ちょっと中で伺わさせて頂きたいと思うんです。一緒にお願い致します。
 

 
ナレーター:  今日は「ありのままに生きる」というテーマで、ありのままに何もしないのではなく、何もない土地に新しく寺を建て、病気になれば治療し、その日のなすべき仕事を片付ける。そういうありのままの生き方を伺います。
 

 
金光:  板橋禅師さんは、お若い頃、海軍兵学校にいらっしゃっていて、戦争が終わって、それで郷里の仙台の方にお帰りになって、大学へ行かれたそうですが、その頃ちょっと戦後自由になって何をしてもいい時代だと思うんですけれども、むしろ自由な時代になって多少ノイローゼ気味になられた、というお話を聞いたんですが、その辺はどういう事情で、そこからどういうふうに脱出されたんでございますか。
 
板橋:  海軍にいる時に、ほとんどの生徒は一種の栄養失調状態でしたですね。
金光:  海兵でもそうでしたか。
 
板橋:  それは酷いもんです。運動量が激しいのに、キャラメル一粒だって食べられませんからね。運動量に間に合わないですね。私も肋膜を悪くしておったのが、なんだかヒューヒューと胸が痛いんで、おトイレの中へ行って休んだり、あとベッドの上が濡れているんですね。寝小便だと思ったら、それが後から見たら寝汗だったんですね。それで敗戦が一ヶ月遅かったら、我々半分ぐらい死んじゃったかもわからんですね。それで帰って来て、病気で入院中に、父親が四十三歳で亡くなって、今度は人間はすぐぐうたらになります。病院に入ってぐうたらになって、なんだかグチグチ言って、それと同時に旧制中学の同級生や、海軍から帰って来た人たちが、一流の学校へ入るのを耳に聞くわけですね。自分がぐうたらで、そして病院生活をしているから、一種のノイローゼみたいになり、もうどうにもならなくなってしまいましたね。
 
金光:  それで病気がよくなられて、大学へ入られて、
 
板橋:  それでも東北大学の―旧制と新制がありましたが―新制大学の第一期目なんですね。それもまた大変な屈辱だったのですね。中学の同級生から四年も遅れて、ということは四年後輩の者と一緒になって、しかも新制大学という、なんか前の大学よりもレベルは下がったような印象をもったわけですね。それで尚更ノイローゼやら一種の劣等感に苛(さえな)まれました。たまたま東北大に衣を着ている学生がいたんですね。「あんた、何だ。坊主か?」と聞いたら、「いや、夕べ寝ている時に―仙台の輪王寺(りんおうじ)で寝ておって、そこから通って来ているんだが―夜中に洋服を盗まれて、衣を借りてきたんだ」と言うんですね。
 
金光:  戦後の時代でしょうからね。
 
板橋:  「坐禅すると、どうなるのや?」と訊くと、「足がふらつかなくなるよ」と、そう言われて、「俺も行ってもいいか?」と言って、それで入ったんですね。その片野(かたの)(達郎)君というのが、東北大の今では名誉教授になっています。
 
金光:  そうですか。そういう生活で禅寺に入られると、これはちょっと様子が違いますでしょう、入ってご覧になると。
 
板橋:  入ってから一週間以内に、今度はぐっすり寝ちゃって、「一番寝ている」と言われました。教室にいても、もうよだれ流して、朝四時に起きますから。ノートもよだれだらけになっていて、一番寝る人間になりました。
 
金光:  朝はちゃんと起きられるわけですね。
 
板橋:  それは起きます。いわゆる人間は、規則正しい生活をして、やる気さえあれば、人間ノイローゼとか、精神的なノイローゼなんていうのは、一ヶ月でどんな人間でも治ります。脳の細胞が冒されているような病気は別ですけどね。
 
金光:  「自由」というのは、「自らに由る」と書くわけですけれども、その板橋禅師さんの場合は、そういう規則正しい生活をなさるのが「自らに由る」ことになるわけですか。
 
板橋:  そうですね。私の人生哲学は、傍目(はため)を目にして生きることですね(笑い)。
 
金光:  そうですか。
 
板橋:  非常に非民主的な考え方ですが、傍目を気にしているから、私はここにおるのです。傍目を気にするほど、修行僧がいるから私もやるので、誰もいなかったらぐうたらになりますね、まだ。
 
金光:  人間の思いというのは、「あれをしたい、これをしたい」とか、そういう思いがあって、しかも思いを完成させるためには、強い意思と言いますか、意欲がなければいけないわけですけれども、「こういうことをしたい」というのと、それから自分本位の―最近でいうと、「エゴ」と言いますか、自分の都合だけ考える「我欲」という、その区別はどの辺にあるんでございましょうか。
 
板橋:  自分の都合だけの意欲というのと、もっと大局的な意味での大きな志をもっている者とでは、やっぱりどこかに意欲に違いがある、ファイトの辛抱のしどころが違うような気が致しますね。
 
金光:  先ほど本堂を拝見した時に、十年ほどの間にこれだけ立派な本堂をお建てになったという、その場合の板橋禅師さんのお気持ちというのは、これはかなり強い意欲がおありだったから、ということでございましょうか。
 
板橋:  私自身でも不思議なのですね。檀家一軒もないのに、こうやってお寺がどんどん建ち、また人も寄ってくるのですね。私は特別人気者でもないし、能力のある者でもないのだけれども、どっかに支援してくださる人がいるのですね。だから世間の人で、修行というか、そういうものを比較的に純粋にやっていると、賛同してくれる人が多いんじゃないですか。
 
金光:  それでここは正式に専門僧堂ということになったわけですね。
 
板橋:  許可して貰いましたね。
 
金光:  それで専門僧堂でのご修行というのは、坐禅ということになると、いわば「お悟り」というような言葉が、すぐ頭に浮かんでくるわけですけれども、こちらの場合はとにかく坐れ、と。「只管打坐(しかんだざ)」という教えがおありなんだそうですが、坐るということはどういう?
 
板橋:  姿勢も、足を組むことが必ずしも坐禅ではないのです。それで坐禅したという人が大概「足が痛かった、窮屈だった」というような訴えをするもんですから、私は、「足を組むものは、坐禅じゃないんだから」と。背骨を真っ直ぐにして、腹がこちらに出るような形の真っ直ぐにして腹式呼吸―我々では、「丹田(たんでん)呼吸」と言うんです―丹田呼吸が自然にやれると、セロトニン(セロトニンとは、ノルアドレナリンやドーパミンと並んで、体内で特に重要な役割を果たしている三大神経伝達物質の一つ)という神経伝達物質が、脳内にシュッシュッと出るのだそうです。それで坐禅をやると自然に心が落ち着いちゃうんですね。
 
金光:  よく僧堂の入口なんかには、「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」足下を見なさいとか、それからお寺さんによっては「己事究明(こじきゅうめい)」己のことを究めなさい、と。「己のこと」というのは、これはなかなか面倒なようでございますが、「己」というのは、僧堂ではどういうふうに追求なさるんでしょうか。
 
板橋:  余所の僧堂のことはわかりません。他の人のことも、私はあまりわかりませんが、例えば「わがいのち」「私のいのちだ」と言いますが、「〈いのち〉って、何や」と私は反問するのですね。こうして(机をトントンと叩く)音が聞こえる。見える。(膝を叩く)叩くとこういう感じがする。この出合い、この事実ですね。「この実感が〈いのち〉そのものであり」、それがまた敢えて言うなら「私」なのですね。私というのは、他人ではないという意味でこういうふうな纏まりとして「私」と言いますけども、「いのちそのもの」というのは、直に見える「その時その時の縁」触れ合いですね。それ以外に〈いのち〉はございませんね。それを自覚している。それ以外に修行も生き方もございませんね。
 
金光:  坐って坐禅なさっていらっしゃる時の、頭の中というのは、どういうふうになるもんでございますか。
 
板橋:  それはクルクルといろんなことが巡り合わせもある。ちょうど夢を見ているようなもんで、脳が死んではいないのですから、いろんなことが動くじゃないですか。それを取り継いで、「これやろう。こうやって」といろんなことを考えるようになると、それは坐禅中の妄想(もうぞう)になるわけですね。それに取り憑かない方がいいんですね。
 
金光:  これはやっぱり訓練(トレーニング)と言いますか、ずっとそういう方向で坐っていらっしゃると、そういう妄想に取り憑くことが少なくて済むようになる。
 
板橋:  少なくなるのですが、私も学生時代からもう六十年近く坐禅をしていることになりましたが、やっぱり出てくるのは同じですね。取り憑きますね。それで現在では自分の息を数えています。それを「数息観(すそくかん)」と言います。坐禅のもっとも初歩的な段階の修行の方法の一つなんですが、私自身にとっては「数息観(すそくかん)」が最高の拠り所だとみています。
 
金光:  で、そういうふうに数に集中していると、頭の中に湧いてくる思いもだんだん静まって、
 
板橋:  静まるというよりも、それにあんまり取り憑かないようになる。また忘れた頃にまた次々に出てきますから。数に関心をおけ、ということです。観息法ですね。「ひとつふたつ」というふうにするわけですね。
 
金光:  そうしますと、坐っている時の状況というのは、坐をお立ちになって、他の生活の方に移られても、坐られる前のざわざわしたような心の状態とは、大分変わってくるもんでございますか。
 
板橋:  自然に変わるんじゃないでしょうかね。ここにセロトニンが溢れていますからね。ただ自分では、「坐禅と同じ心境でやるんだ」というようなことを、初め思ったでしょうけども、もうそんなことまったくありませんね。
 
金光:  ただ先ほどおっしゃった、「目で見えること、耳で聞こえること」というのは、それこそ今、手を叩かれましたけど、叩いたそのままそこに、そういうことがあるわけでございますね。
 
板橋:  そこへ絶えず目をおく、ということは相当な人ですね。みな誰でもがそうなんですけども、つい頭の中で次々と考えます。明日のこと、昨日のこと、いろんなことを考える。それが人間の習性でしょうね。
 
金光:  それで「いのち」という言葉を、先ほどお使いになりましたけれども、「見える」「聞こえる」、あるいは熱さ、寒さを「感じる」、それがそのまんま〈いのち〉である。
 
板橋:  そうですね。
 
金光:  〈いのち〉という塊がある、ということじゃなくて、
 
板橋:  実感ですね。
 
金光:  そうしますと、例えば本堂なら本堂をお建てになるというのには、土台からだんだん上に建物を建てるわけですし、それから人間の健康にしましても、いつも同じじゃなくて、次から次に変化してくる。継続しているというふうに見えるわけですけれども、「今ここ」というのと、「計画を立てる」というのは?
 
板橋:  人間は実に微妙にそういうことできますね。私は猫を飼っている。お猿さんでも同じですが、人間と、あるいは類人猿のチンパンジーの差は何かと言ったら、人間は言葉を覚えたことと思いますね。彼らにはお互いのコミニュケーション程度の通じるものはありますが、猫やお猿さんに「明日」ということないと思います。「昨日」もない。「今日も食事が当たるだろうか」ということもない。いわんや死んでからのことも考えない。ただ身体でしっかり感じます、行き先の不安さはね。ですが、人間だけは言葉を覚えたもので、明日、昨日、計画も立てられるようになりました。だが、「悩む」ということを覚えまして、自殺ができる。だから、「猫やらお猿さんが自殺したのはあるか」と、私はいうわけですね。彼らには考えることがないから自殺がない。ただ文明もないんですね。ただ経験上知り得たことで巣を作ったり、面白いと思うのは、熊なんか冬眠までしますからね。それらも身体から覚えた知恵というか、生物的な知恵なんでしょう。人間は頭脳で考えて文明が発達しましたが、そのために自殺、集団を組む、国家というものをつくる、文化も進んだが、また殺し合いもする。ノイローゼやら自殺というのもできましたね。それで文明が進めば進むほど、その比率が多くなったというのが、私の実感です。何故ならば、「ノイローゼ」「ストレス」という言葉が新聞紙上に出たのは、敗戦後六年目か七年目です。私が二十六の年です、まだ学生だったもんですからよく知っているのですね。今ではノイローゼやら精神科のお医者さんなんかはいっぱいおる。自殺や犯罪も多いですね。このまま進むと、人類は文明を覚えたために衰亡の道を―長い目ですよ―辿るんじゃないのかというのが、私の危惧の念です。但し、どうしたらいいかと言ったらば、あんまり言葉を使わない生活をすることですね。言葉というのは、言いたいことも黙っていてムツッとしているんじゃないんですね、我慢じゃなくてね。あらゆる芸道でも何でも、その道に至った人というのは言葉を使わないですね。陶芸でも書でも、身体でわかっている。身体が実感している。身体がわかっている。やはり言葉を使わないで、身体で動いて、身体で感じ取っているのが極意ですね。
 
金光:  だから職人の方の技術を伝えるその仕事も、最初はともかく最後のところは伝えようがないから、「盗みなさい」という言葉を使うようですね。
 
板橋:  良い言葉ですね。感じ取るんですね。
 
金光:  これは坐禅なんかの場合も、口で教えようと思っても教えられないところを、やっぱり身体で感じるということがあるんでしょうね。
 
板橋:  そうですね。あともう一つ、私は今問題にしているんですが、奈良時代のお仏像を見たり、あるいは正倉院の宝物を見ましてね、あの当時の人たちは何でこんな手を合わさるような素晴らしい仏像などを作ったのだろうか、と。千二、三百年前の日本人の生活といったら、電気もなければ―菜種油があったでしょうけども―瀬戸物もガラスあるわけじゃありませんから。だから生活水準の深さと人間の精神的な深さ・純粋さというのは、私は別なものだとみています。かえって反比例するんじゃないか、と。その分だけノイローゼやら自殺や他殺が多いですからね。私は、「奈良時代に思いを寄せるべきだ」ということを、最近私は思っており、人にも言うているんですね。修行道場の一番の特色と言ったら、言葉を使わないことですね。鳴らし物はありますよ。みんな行動を一緒にしますので、それの号令を掛ける鳴らし物はあります。食事するのでも、お経はあげますけれども、喋らない。「美味しかった」と、そんなこと言わないですね。だから修行道場というのは何かといったら、言葉を使わないで、身体で実感する、体得する道場だなあ、ということだと思いますね。
 
金光:  そういう修行というのは、人間も刻々と歳をとると変わっていくわけですけれども、修行して、「よし、今日はわかった」と、感じたという、ある状況があると、そこで「よしこれだ」と思って、そこからもう一段上に上がるとか、そういうことがあるもんでございますかね。
 
板橋:  それはその人によって、まだ上にあがるというからには、上がるでしょうね。それが向上していくことでしょうが、もし至り得た人というのは、もう向上とか、もっと上にとかというようなことがなくなることですね。その時その時のごく当たり前に生きていることで、まだ何か上の方に素晴らしい心境があるような思いをして、もっともっと何か磨こうというような思いもなくなって、ごく当たり前のことに本当にそこにおれる、そこに喜んでおれる立場というのが、私はあり得ると思うのですね。
 
金光:  理想像を描く、例えばスポーツならスポーツで、イチロウならイチロウの様な選手になりたいとか、昔だと長島とか王とか、ああいう人になりたいという理想像を描いて、それに近づきたいという形でスポーツを始める人はけっこういるだろうと思うんですが、例えば仏教なら仏教の場合、あるいは坐禅なら坐禅の場合に、頭でそういう理想像を描いて、そこへ行きたいと思うというのは?
 
板橋:  あっていいでしょうね。私などは、良寛さんなんかを素晴らしいと思いますね。ただ「良寛さんが素晴らしい」と言ったって、良寛さんのようにと思って行動しちゃうと、無理というか、ちょっと不自然が出るのでね、自然にごく当たり前の人間になることでしょうね。
 
金光:  良寛さんという方が、戒めの言葉―「戒語」というのを書いていらっしゃいますね。
 
板橋:  ありますね。
 
金光:  随分この戒の言葉を書いていやっしゃるんですが、良寛さんもこういうことに気を付けていらっしゃったのか、と。
 
板橋:  やっぱり一面にそういうものをもっておられるからでしょうね。良寛さんだってぐうたらになるでしょう(笑い)。何にもしなくて、寝放題寝てね、美味しいものを食べておったらぐうたらになるので、それで自分で、「これはあかんな、ダメだな」と言いながら、自分を律する、自分を戒める言葉が当然出るのでしょうね。そういう意味で私らと違わないんじゃないですかね(笑い)。
 
金光:  仏教の理想とする―真宗の浄土系の考え方だと、「御浄土へ行きたい」というようなことが出てくるわけですが、そういう極楽浄土みたいな、あるいはこの頃はいつの間にか極楽が消えちゃって天国になりましたけれども、「天国に行く」みたいなことがよく言葉として出てくるようですが、ああいう考えはどうお考えでございますか。
 
板橋:  それは多くの人には、理想を求め、理想に近づこうと努力するのは良いことだと思いますね。ですが、私自身に「天国はどこにある? 極楽はどこにある?」と訊かれたら、こうして(胸を叩いて)「現実それ以外に天国も地獄もないよ」と、私は言いますね。実感しています。人が極楽や天国を求めて、いろいろご信心を深めて、そのために一生懸命やっている。それは私は尊敬しますけれども、「極楽や地獄はどこにある?」と言われたら、私は、「ここにしかない」と言いますね。
 
金光:  ということは、言い換えると、「今生きている」ということが、間違いなく一番安定した?
 
板橋:  「生きている」というのを、観念で、「俺は今生きているんだよ」というような生き方も大事ですが、身体に直に触れている感触・実感。身体で感じているすべてが、「俺のすべてだなあ」というのに目を向けることですね。そこにいつでも目を向けていることを、私ならば、それが「参究する、努力する」という。禅用語では「工夫する」というんですね、「工夫」というのは、あれやこれやじゃなくて自分自身の〈いのち〉をずっと見つめておって、そこから目をそらさないというか、そういう意味での工夫ですね。それは大事だと思いますね。
 
金光:  先ほどから〈いのち〉の話が出ていまして、〈いのち〉というのは、頭で考えて掴まえるようなことはできないけれども、とにかく今ここに私たちがいる。しかも見たり聞いたりできる、その働きそのものが〈いのち〉である。それを如何に実感するかという、そこにあると思うんですが、ただ毎日の日常生活だと、「今日は何をするか、明日は何をするか」という計画を立てるというようなことも、現代の人間の生活には必要なわけですが、その場合に禅の言葉でよく「非思量(ひしりょう)」思量しないというか、「非思量」とか、あるいは「無心」という言葉があるんですが、そういう今ここに生かされている〈いのち〉が、次にどうするかというのを考えたりするのと、「無心」だとか「非思量」なんていうのは、どういう関係になるのかなと思うんですが、どうでしょうか?
 
板橋:  「あれやこれや」と考えることでもないし、考えまいとしてグッと力んでいる様子でもない。それを祖師は、「非思量」―「思量」とは考えることですが、「思量にも非ず」と言われる。それを私の言葉でいうと、「身体で実感していること」ですね。「身体で直にわかっていること」ですね。
 
金光:  なるほど。頭じゃなくて、身体で直にわかる。
 
板橋:  「直にわかっていること」ですね。
 
金光:  道元禅師の言葉に、「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉がありますね。
 
板橋:  「身心脱落」と同じことですね。
 
金光:  そうすると、夢中になって、何か「よし!」と一生懸命打ち込んでいるのも、これは「無心」と言っていいわけですね。
 
板橋:  そうですね。
金光:  いつもそういうふうに打ち込んでできるかというと、そうではないのが普通の人だと思うんですが、もとに返りたい場合に、坐禅をなさる方は、やっぱり身体を調え、心を調え、呼吸を調えるということですが、例えばコンピューターだと、一度具合が悪くなると電源消して、もう一回スイッチ入れ直すと、最初の設定に返るようなことがあるわけですけれども、人間の場合の坐禅の状況で呼吸を調えて落ち着くというのは、人間を一度セットし直す、ということにもなるわけでしょうか。
 
板橋:  私は、最近坐禅は、「呼吸法だ」と思っている。「呼吸法」というのは、やり方ではなくて、呼吸に自分が親しんでいることですね。読経すらも呼吸のように思うのです。「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時(かんじざいぼさぎょうじんはんにゃはらみったじ)」スーと吸って、その分だけ息を長く吐く方にいっていると、心が自然に静まるのですね。それもまたリズミカルにやると、東邦(とうほう)大学の有田秀穂(ありたひでほ)先生は、セロトニンという神経伝達物質というのが活発になると言っております。
 
金光:  あれは大脳の働きがあんまり働きすぎるのを抑制する働きもあるようですね。
 
板橋:  調和するんでしょうね。ドーパミンとかノルアドレナリンとかの神経伝達物質があって、快感にさせたり、ストレスに反応したり、それを程よくバランスを取って心を安定させる働きをしているのがセロトニンで、シュッシュッと活性化させると静かにおさまるらしいですね。
 
金光:  それは意識しないで坐って呼吸を調えていると、セロトニンが出てくる、ということが現代の科学でわかっているわけですね。
 
板橋:  証明しています。有田先生と対談したのですけども、なんかリズミカルにやっているのもいいというんですね。
 
金光:  そういう意味では、この頃板橋禅師さんは、「ありがと、ありがと、ありがとさん」とか、そういう調子のいい言葉を使われることがおありだそうですが、これはどういうことで?
 
板橋:  それは、人間はいろいろグチグチ考えていますね。考えまいとすると、また意識する。そこで思いを断ち切るために、私は、「なんまんだ」が良いと言ったのです。その「なんまんだ」が良いというのは、私の母親が亡くなるちょっと前に、金沢から私はお見舞いに行きましたら、私の顔を見たら、「わぁっ! ありがたや、ありがたや、ナンマンダー、ナンマンダー」という。今まで「ナンマンダー」という言葉を一つも聞いたこともない母親から、「ナンマンダー」の声を聞いたのですね。それで私は、「ああ、ナンマンダー≠アそは、日本人の身体のリズムにまで浸透しているな」と思ったのですね。それで私は、お坊さんの講演会に、「ナンマンダー、ナンマンダー≠ニいうと、一種の坐禅と同じような心境になられるのですよ」と言ったら、直ちに電話が入りまして、「いつから真宗の坊主になった」、こういうような追求があったのですね。それに対して、どうこうは言いませんけど。だから人に私は「なんまんだ」をお勧めしますが、自分が「なんまんだ」というと、やっぱり禅宗の坊主ということがあるから、「ワンツースリー、ワンツースリー」でもいいんですが、「ありがとさん、ありがと、ありがとさん」と自分で調子よく称えていると、いろいろグチグチがスーッとそこで解消するのですね。それを私はこういうふうな説明するのですね、「みなさんいいですか。暗算してください。1+5+7x2、ナンマンダー、言ってください、ナンマンダー、はい、プラス3」と言っても、もう続かないですね。だから人間の思いがグチグチ考えているのを、「ナンマンダー」という言葉を発すると、そこで途絶えるような感じがするのですね。それをいつでも「ナンマンダー」と言っていればいい。それを「ナンマンダー」と宗派根性で批判する人が多い。私は「ありがとさん、ありがと、ありがとさん」とかね、「ワンツースリー、ワンツースリー」とかね、人には宗派の意識を抜きにして勧めています。
 
金光:  でもいつでも「ありがとう」とはなかなか言えない状況があるんですけれども、これが言えたら素晴らしことですね。
 
板橋:  そうですね。私は、だから「ありがとう」という時の「ありがたし」は、今ここにいることの存在の大変なこと、地球始まって以来の、宇宙始まって以来四十億年の今の生命体です。そういう意味で「あること難し」なんですね。「ある」というのは「存在」の「在」なんですね。「在ること難し」の「私がここにいる」だけでも大変な存在なんだなという在り難さ―「在ること難し」なんです。「サンキュー」ではないのですが、やっぱり「サンキュー」に通ずるわけですね。「ありがとさん、ありがとさん」と感謝の念とも、「在ること難し」ということとは、心の中で通じてしまいますね。
 
金光:  私の頭なんていうのは、できが悪いもんですから、生まれることなんていうのはまったく考えたこともないし、死んだ先のことを考えたって、まったく見当も付きませんし、と言って不思議なことに生まれる前の心配は少しもしないんですね。
 
板橋:  「生まれる前の心配ね」、それはそうですね。
 
金光:  「死んだ先、どうなるか」というのは、心配しようと思えばできますけれども、生まれる前の心配は、何でしないのかな、と変なことを考えたりするんですけれども、そういうふうなことを思いながら、「在ること難し」と。「サンキュー」の「ありがとう」という意味での「ありがとう」はなかなか思い難くても、そういう生まれる先にどこにいたか。まったくわからない自分という考えはあるわけですね。その自分と考えている人間が、今ここに、こういう形でいる、というのは、在ること難しだなあ、という気がするんですね。
 
板橋:  「ここにおる」ということが本当に不思議だなあという意味ですね。そういう意味での不思議さが「在り難さ」が、「サンキュー」にまで通じますね。日本語の素晴らしさかも知れませんが。
 
金光:  そういう意味では、お礼をいう意味で、いつも「ありがとう」と思えというのは私なんか無理ですけけども、さっきおっしゃった「在ること難し」の「ありがとう」というのは、これはすんなりわかるな、という気がしますね。
 
板橋:  そのうちに、「サンキュー」の有り難さになります。
 
金光:  まだなかなか(笑い)。それで変なことを、また続けてお尋ねしますけれども、板橋禅師さんは、十年ほど前ですか、癌が見つかって、癌の治療をなさっているとか。
 
板橋:  もう二十年ぐらい前じゃないですか。
 
金光:  そんなになりますか。
 
板橋:  今でも肋骨(ろっこつ)に転移しています。だから三週間に一遍点滴を打ちに行きます。それで今日などはあまり良い症状が出てこないですが、口内炎やら、いろいろ症状が出てきますけども、でも別に生活に事欠くほどではないですね。
 
金光:  でも、そういう時にも、「在ること難し」ということは言えるわけですか。
 
板橋:  それは、「在ること難し、ありがとさん」いうのは少しも問題ではありません。坐禅して、セロトニンが出るとそうなります(笑い)。
 
金光:  そうですか。じゃ、私はセロトニンが足りないんですね(笑い)。病気も別に特別なものではない、と。
 
板橋:  病気ですか。これが痛かったらちょっと気になりますね。痛さが毎日痛かったら、「痛え! 痛え!」と攻めてきますからね。これはもう在り難さも出てこないかも知れませんね。でも私は別に、今こうしている限りは、そう身に沁みた痛さ・苦しさというのを感じませんから、一応「ありがとさん」を平生普通の言葉で言いますね。
 
金光:  よく癌の宣告を受けた人は―最近そうでもなくなったようですけれども、割に癌というと、すぐ死んでしまうというふうに思って、悩む人が多いとか、昔よく聞いていたんですけれども、まあ仏教というのは、生死の問題を考えるものだと、それに直面するものだという話を聞いておりますが、死ぬということはどうお考えですか。
 
板橋:  死んだことないからわかりませんけど(笑い)。「死んだらば、どうなるか」は、死んだ人を随分見ていますからわかりますけれども、私も死んだら、骨になって、こうなって、こうなって、考えれば考えただけ嫌になってきますから、あまり考えないことですね。それよりも、今のところに目を向けていることでしょうね。
 
金光:  「今与えられている自分というのが、坐禅をなさっていると、宇宙と自分が一体に感じる」とおっしゃるのを拝見したんですけれども、そうなってくると、自分というのが、喜怒哀楽のある自分と違ってきますね。
 
板橋:  私の場合だと、普通の仏教の坐禅に関する経典には一つもないんですが、息を吸ったら、ハァ〜と吐く時に、目を瞑ると本当に大宇宙と同じ存在になるんですね。また吸ってハァ〜と吐く。それを「ひとつふたつみ〜つ」と呼吸していると、大宇宙と一つになっている実感ですね。目を開けていると、いろいろ映りますから、一体感というまでの実感は乏しいですね。だから私は坐禅の呼吸の時の吐く息は、目を瞑った方がいい。これは未だ嘗て道元禅師、瑩山禅師初め祖師方は一つも言っておられません。だが私はそれを実行しています。
 
金光:  で、身体で実感していらっしゃる。
 
板橋:  そうですね。
 
金光:  そうなってくると、あんまり先のことの心配は出てこないで済みますね。
 
板橋:  あんまりないんですけどもね。でも「どうしようかな?」と考えることはいっぱいありますけど(笑い)。
 
金光:  そうすると、日々そういう意味では、毎日目の前に出てくる為すべきことと言いますか、自分はこれをしなければいかんのだな、というような問題を片付けていらっしゃる。
 
板橋:  その仕事はいっぱいありますね。ここは修行僧との生活ですからね。あんまり利益に関することは何もありませんしね。あとこれ以上偉くなるとか、ということもありませんから、そういう意味では何もなくなりましたね。ただ日常生活で、あそこに手紙出さねばならない、ここはこうと思うことは、それはいっぱいありますね(笑い)。
 
金光:  でも退屈なさることはないですね。
 
板橋:  退屈ということはないですね。汽車の中に乗っていても、景色は目に映るし、いわば自分の息していることが楽しくなりますからね。
 
金光:  「足(た)るを知る」ということをおっしゃっていますね。日本だとつくばいに、「吾唯知足(われ、ただ足るを知る)」という文字があったりしますけれども、今のお話を伺っていると、「足るを知る」というところにいらっしゃるのかな、という気がしますね。
 
板橋:  その「足(た)るを知る」―「知足(ちそく)」ということなんですが、ちょっとそこに意味合いがあると思います。「俺はこれで足りているんだ、足りているんだ」とこう意識的に足りていることに感謝しようとする意識が動いて、これが有り難いんだと認識する。そうではなくて、ただ在ることが意識しないでも、息していると同じような、当たり前なのが本当の「足る」だろうと思いますね。
 
金光:  思い込んで、「足ると知る」というのではない、という。
 
板橋:  思い込むことも大事なことです。人はいろいろグチグチ探しますからね。
 
金光:  でもちょっと無理がどっかにあるみたいな、
 
板橋:  ありますね。でも同じ無理でもまだ良い方の無理で、大人しい無理です。
 
金光:  「足るを知る」のが続いてきますと、〈いのち〉の実感というのは、「今ここに生きている。生かされている」それだけで、という感じでいいということになるんでしょうか。
 
板橋:  「いいということに感じていいでしょうか」という質問する必要がないんですね(笑い)。
 
金光:  なるほど。質問するのはまだ足りないわけだから。
 
板橋:  いや、足りないんじゃない。
 
金光:  考えているわけだ。
 
板橋:  そうですね。そういうことの状況を考えているんですね。
 
金光:  今のお話を伺っていますと、自分もそういうふうになりたいな、というふうに思うんですが、「そのための修行は、どういうふうにすればいいのか?」と言われたら、どういうふうにお答えになりますですか。
 
板橋:  私は、「坐禅」という言葉は使いたくないんです。宗教的な禅というふうに思われますからね。やっぱり姿勢を正して、ごく自然な息づかいをするということですね。あと何か一つのことに熱中する、夢中になれるようなものを一つ持たれる、というのが一番いいと思いますね。
 
金光:  そうなると、別に修行をしていくということではなくて、自然に息を吐き出して、それを見る、そういう身体になっていらっしゃるということでしょうか。
 
板橋:  そうなりますね。私は今更修行道場に居なくてもいい、引退もした人間ですから。もっと楽な生活をしていいはずですが、やっぱりここから離れられませんね。今朝でも、朝三時頃目が覚めちゃって、早く起きて顔を洗って、余分なテレビなんかを見ておりますけれども、どっかに緊張感があるからでしょうね。それが自分の家やら、またホテルに泊まったりしていれば、いつまで寝てもいいんですから緊張感がないでしょうね。ここでは四時に早く起きて、準備をしておこうというような、どっかに緊張感が走っているのでしょうね。私にとって、それがいいと思っています。
 
金光:  ということは、私たちはそういう専門道場なんかに居ない人間でも、そういう息をスッと吐き出すのを数えるとか、そういう、「ワンツースリー」でも良いですし、「ありがと、ありがと」でもよろしいですし、そういう形で集中する。リズムにのって生活をするということによって、いわば妄想と言いますか、余計なことを次から次へと考えるのを断ち切ると、それこそ大自然と一体の世界に自分がいるんだという、そういう境地に少しでも近づくことができる、と。
 
板橋:  そう思いますね。例えば、私は入院生活を何遍もしましたが、その時に、不満、不平何一ついうことありませんよ。もしそれに対して、文章を書けと言われれば、一人前のことを書きますけどね。入院生活の状況の自分と、ここにいる時の自分は、同じ自分ですけども、どちらが良いかというんですね。ちょうど雑踏のゴチャゴチャしているところを歩くのと、富士山眺めながらとスーッと歩くのと、どちらが良いかというのとの差は、自ずからどちらも同じ風景で、同じ生き方で一歩一歩でしょうけども、やっぱり雑踏のゴチャゴチャしている中を歩くのと、静かなところで散歩しているのとでは、同じ歩くのでも違いますね。入院生活のようなぐうたらな生活をしているよりは、こういう修行道場で緊張しながら生きている方が自分にとってやっぱり良さそうに思うのですね。だからここから未だに離れません。修行僧と一緒に生活できなくなれば別ですがね。
 
金光:  そういう生活をずっとお続けになっていらっしゃるということは、それが一番ご自分にとって快適と言いますか、
 
板橋:  快適というほどの楽しみではないですけれども(笑い)。
 
金光:  一番ぴったりくるという。
 
板橋:  ぴったりではないが、快いんでしょうかね、適度な緊張感ですね。
 
金光:  そういう意味での適度な緊張感を持ちながら、自分の生活の中でそれこそ工夫をしていきたいと思いながら、お話を聞かせて頂きました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十四年一月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである