ブッダの最期のことば@ブッダは生きている
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
一九三五年、ペルー・リマ市生まれ。一九五八年、駒澤大学仏教学部卒業。一九六二年、東京大学大学院人文科学研究科課程・博士課程修了。駒澤大学仏教学部教授、駒澤大学禅研究所所長など歴任。文学博士。専門分野はインド仏教学、禅思想。著書に「迷いから悟りへの十二章」「ブッダ臨終の説法―完訳大涅槃経」「「涅槃経」を読む―ブッダ臨終の説法」など多数。
                  き き て    草 柳  隆 三
 
ナレーター:  紀元前五世紀半ば、インド北部に釈尊(ブッダ)は、釈迦族の王子として生まれました。不自由のない生活を送っていた少年時代。しかしブッダは、多くの人たちが生を受け、老い、病み、そして死んでいく様を見て、思い悩むようになりました。やがて結婚し、子どもをもうけました。二十九歳の時、すべてを捨てて出家をします。六年に及ぶ厳しい修行の末、苦行では真理に至り得ないことを知り、瞑想の道を選びます。そして三十五歳の時、ブッダガヤーの菩提樹の元で、ブッダは初めて真理に到達し悟りを開きます。その後ブッダは、広く教えを説き、悲しみや苦しみに生きる人々を導きました。八十歳になった時、ブッダは弟子達を連れ、最期の伝道の旅にでました。病に苦しみながら旅を続けたブッダは、ついに力尽き、故郷に近いクシナガラで息を引き取ります。ブッダは、死を前に、最期の説法を行いました。それを弟子たちが纏めたものが、「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」です。ブッダが至った境地とはどのようなものであったのか。ブッダが最期に伝えようとしたのは何だったのか。このシリーズでは、『涅槃経』の言葉を手掛かりに紐解いていきます。
 

 
草柳:  この番組では、これから一年間、毎月一回、十二回のシリーズとして「ブッダの最期のことば」と題して、ブッダが晩年に言った言葉。ブッダはそれを通して何を伝えようとしていたのか、ということを取り上げて、二千五百年生き続けているブッダの言葉を、駒澤大学名誉教授の田上太秀さんにいろいろとお話を伺っていくことに致します。どうぞよろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
草柳:  田上先生は、ご専門がインド仏教学、それから禅の思想の研究をご専門にしていらっしゃる。その立場から一年間、どうかできるだけ分かり易くブッダを、特に晩年の言葉を伺っていきたいと思っているんですけれども、一回目は、「ブッダは生きている」というタイトルなんですけれども、今回このシリーズを通して、特に主に取り上げるお経は『涅槃経』だったですね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  『涅槃経』というのは?
 
田上:  『涅槃経』というお経は、たくさんお経がある中で、大変ユニークなお経なんですけれども、特にこの『涅槃経』というのは、題名そのものが、「涅槃」、つまり意味はいっぱいあるわけなんですが、いっぱいある意味を原語で表しますと、「ニルバーナ」とか「ニッバーナ」というんです。それを音で訳しましたのは、意味でとりますと一概にこうだという意味ではなかなか表現できないので、音で訳して「涅槃」というふうにしたんですね。どうしてかというと、涅槃というのは、「解脱(げだつ)」―お悟りの完全な悟りを意味するのと、それから「死ぬ」ということを表す意味もあるんですね。ですから『涅槃経』というのは、ブッダが亡くなるという、そういうイメージをもって書かれたようなお経のように普通は考えられますけれども、例えば日本で「涅槃会(ねはんえ)」と言いますと、お釈迦様が亡くなった日と、そういう法要というふに考えますから、「亡くなった、死んだ」というふうに考えます。ところが、お経そのものの中には、先ほどおっしゃったように、「ブッダは生きている」という内容になっているんです。つまり悟りを開いて、完全な悟りの境地に至った、ということを説明している内容でもあるんです。ですから『涅槃経』というのは、他の経典にない、ブッダの最期の、いわゆる晩年における教えを纏めたものですから、お経の中でも非常にユニークなものだ、ということで、今回のシリーズのテーマにあります「ブッダの最期のことば」がここの中にびっしり込められてあるので、それを取り上げてみなさんにお伝えしようかなと思います。
 
草柳:  いわばブッダ晩年の言葉のエッセンスがここに集約されているというか、
 
田上:  他のお経もいっぱいいろんな仏教の基本的な教えというものが書かれてあります。ですけども、ここはブッダが、本当に最期に何を言い残して、我々にこうして生きなさい、ということを教えたかという、それをお話するという。
 
草柳:  その『涅槃経』に二通りあるんだそうですね。
 
田上:  はい。中身をこれからお話しすることになるわけですけれども、紀元前に、つまりブッダが八十歳で亡くなる、その数ヶ月前―場合によっては三ヶ月前と言ったりしますけども―まあ数ヶ月前から説法の旅をしてずっと北の方へ、ガンジス河を渡って、自分の生まれた里の方に上って行く。いわゆる説法の旅をしているものを纏めたお経があるんです。それが古い『涅槃経』として伝えられております。で、今度は紀元後の四世紀くらいになりまして、その古い『涅槃経』というものを読んで、それを特に最期のクシナガラのところで亡くなるわけですけれども、その臨終の時に当たって、最期の説法をする場面をいっぱい長々と書いてあるお経が、つまり後の新しい『涅槃経』というのがあるんです。つまりそれは創作された『涅槃経』、つまり旅日記のような、いわゆる説法の旅ではなくて、もうまさに死ぬ間際に、弟子の者、あるいは質問した人に説法する場面のところが、ほんとにそこに凝縮されて書かれている。ですから古い『涅槃経』と、新しい『涅槃経』というのは、ドキュメンタリー的な『涅槃経』が古いもので、創作されたものが新しい『涅槃経』がある。これから何回かに分けて話の中で、その違いがはっきり出てくるんです。ですからそれを頭において頂いて、今回のシリーズを聞いて頂くと大変面白いんじゃないかと思います。
 
草柳:  もう少しお聞きしたいんですが、「涅槃」の意味をもうちょっと説明して頂くと、どういう意味がさらにあるわけですか。
 
田上:  「涅槃」というのは、インドの古代語であうパーリ語という俗語では、「ニッバーナ」ですけれども、梵語では「ニルバーナ」、どちらも「火が消えた状態」ということなんです。「火」というのは、燃えている時は熱があってさまざまなものを焼き尽くす火なんですけれども、その火がある間は、いろんなものが破壊されたり、あるいは焼かれたりして非常に周りをダメにしてしまうので、それを煩悩に喩えるんですね。ですから「火が消えた状態」というのは、「煩悩が消えた状態」という意味で、それを「涅槃」という言葉で、漢字で翻訳したものなんです。ですからブッダが亡くなったという、涅槃というのは、「一切の煩悩が亡くなった状態になる」という意味に普通考えますけれども、「もう二度と煩悩が起こらなくなった状態」という意味です。それからもう一つ大事なことは、最期に亡くなって涅槃に入るというんですけど、「完全な煩悩の無くなった綺麗な心境、状況に入った」というのを「涅槃に入る」というんです。それは同時に「もう二度とこの世の中に生まれ変わってこない」という意味でもあるんです。つまり普通凡人の死は、輪廻思想からいうと、また生まれ変わる。再生をする、という意味があるんですけれども、ブッダの場合の涅槃というのは、「もう二度とこの世の中に戻ってこない」という意味なんです。ですからそこにブッダの涅槃というのは、普通の死に方とは違う、という意味がそこに込められている。
 
草柳:  釈尊(ブッダ)が、出家をしたというのは、つまりそれを求めて、というふうに考えればいいわけですか。
 
田上:  結果的にはそういうことですけれども、釈尊、いわゆるブッダになった人ですけども、つまり「釈尊」というのは、よくいう「お釈迦様」の別名で、普通お坊さんやら学者の人たちの使う言葉ですけれども、そういう釈尊であったがブッダが、出家をした時は、いったい何が動機だったか、というのは、八十歳の時に亡くなる直前に、最期のお弟子としてなったスッパダという―他の修行団体の修行者だったんですが―そのスッパダという修行者が、今釈尊が亡くなろうとしている、というので、「釈尊に是非会って教えをききたい」というふうに頼むわけですね。その時に、釈尊が説法してくれた教えの中に、「私は二十九歳の時に、何かしら善なるものを求めて出家をした」と。「私はその善なるものを求めて」という「善」という言葉が非常に重要な意味をもっているわけで、それがいわゆる「二十九歳の時に善なるものを求めて出家したんですよ」という、後もいくつか言葉が続くんですけども、その時の八十歳の最期に亡くなろうという時に、「善なるものを求めて」と言ったその言葉は、他のいろんな、例えば「生老病死」とよく言いますけれども、生まれることとか、あるいは老いることとか、病気になるとか、死ぬこと、こういう四つの苦しみがあるけれども、「この苦しみを克服する、あるいはこれを無くすために、私は出家したんだ」というふうに書かれている、そういう伝記の文献もあるんですけれども、実際はそういうものは、後の人が創ったものです。古い『涅槃経』の最期のところに、「私が二十九歳の時に出家したのは善なるものを求めて出家した」という言葉の「善なるもの」というのが、何かというと、基本的に善悪の善という以上に、「自分のためになる」こと、それから、必ずしも人間だけでなく、いろんな草木に至るまで、他の動物に至るまで、「他のもののためになる」こと、それから「そういう生き物たちがこれから生まれてくるもののためになる」ことを考えて、「そういうものが何か」ということを求めて出家した、ということです。それがつまり最初の出家の動機です。ですからそれをずっと追求していって、修行して最後に「わかった」と言って、つまり「悟った」という時に、何を悟ったか、ということになるし、それで何を我々は実践したらいいのか、ということを、そこで最初に説法するのが、いわゆるブッダが私どもに説いてくれた「善なるもの、善いことだ」という意味ですね。
 
草柳:  その「善いことなるもの」に到達するために、ブッダは一体何が大事なんだ、何が必要なんだ、ということを言ったわけですか。
 
田上:  「無理のない生き方」というのが、最終的には出てくるわけですが、つまりそこでは、「人間がバランスの取れた生き方」というものが、ブッダが説いた最初の説法の時の内容ですね。それは「八正道(はっしょうどう)(正見(しょうけん)・正思(しょうし)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう))」というものなんです。「八つの正しい道」と書いてありますけれども、それは「八つのバランスの取れた歩み」という意味です。ですから、「道」でもいいんですけれども、その「道」というのは、言うなれば「獣道」のことを言うんです。意外ですけども、それは動物が最初に通ったものが匂い付けしていったものを辿りながら行くうちに、何十匹という動物が行くと道ができる、という。そういうのが、この場合の「道」なんです。ですから「八正道」というのは、八つの正しい獣道、と言っちゃおかしいですけども、これまでの「私の前にブッダになった人たちの歩いた道です」ということで、この八つがありますけれども、みんなこれはバランスの取れた見方、考え、生き方なんです。
「正見(しょうけん)」というのは、正しいものの見方、つまり世の中は因果の道理をもって正しくものを見なさいということ。
「正思(しょうし)」というのは、生き物を殺さないとか、怒りとか、それから貪(むさぼ)りとかの心を起こらないように常に心掛けていく、ということ。
「正語(しょうご)」というのは、正しい言葉使い。つまり嘘を言わない。二枚舌を使わないとか、そういう人間の言葉の上で、人を傷つけるような、そういう言葉を使わないということ。
「正業(しょうごう)」というのは、正しい行い。つまり生き物を無闇に殺したりしない。それから仏教の修行者でしたら酒を飲まない。盗みをしない。不倫をしない、という。
「正命(しょうみょう)」というのは、正しい命と書きてありますけども、生活のことです。規則正しい生活をすること。つまり守らなければいけないものをちゃんと規則正しく行う。行儀作法なんかはそれですよね。いわゆるマナーをちゃんと踏むという。
「正精進(しょうしょうじん)」というのは、バランスの取れた努力をしなさい。正しいものでなければいけない。つまり善いことをしようとしていたならば、それをどんどん進みなさい。しようという気持があったら、それを実践しなさい。悪いことをしていたらそれを止めなさい。しようという気持があったら、それをしないように心を抑えなさい、ということ。
「正念(しょうねん)」というのは、気づかいのこと。正しい気づかい。自分の身体とか、心に対して、いろんなものを注意深くそれを観察して気づかいをすること。
「正定(しょうじょう)」というのは、三昧、瞑想のことですけども、注意です。よく注意をしなさい、と言いますね。注意というのは心あるものに注ぐ、という意味です。つまり歩いている時でも、立ち止まっている時でも、寝ている時でも、いつでもそういう注意をしなさい、ということです。
 
草柳:  今お聞きしていると、決して中身はそんなに難しいことを言っているわけではありませんよね。
 
田上:  家庭の中で、親が子どもに言っていること、また親が普通やらなければいけないこと、それがみんなそれだけです。何の難しいことは一つも説いていないんですね。つまり忘れていたものを、あるいは気付いていなかったものを、八つに纏めて、こういうものですよね、という。これをやったら、あなたはちゃんとブッダになれるし、最高の涅槃に入ることができますよ、ということを教えたんです。
 
草柳:  ところが、人間にはさまざまな欲望がありますから、なかなかこれが正しい道だとわかっていても、すぐそれが実行できるかというと、なかなか難しいですよね。
 
田上:  そこが、第二回目になってくる、一つのことをやろうとすると、何かそこで挫けてしまったりしますから、「怠けちゃいけないよ」とか、あるいは「自由に何だかんだを好き勝手にやってはいけないよ」ということになるわけですが、結局はバランスの取れた生き方というものをやる。だから無理をしてはいけないんですね。「無理をしないようにしなさい」という、そういう生き方を説くんですね。別な言い方をすれば、「過ぎないように、偏らないように、物事はほどほどにする」という、そういうこと。固定的な考え方をしない。これでなければいけないという、拘りをもたないという、そういうものですね。
 
草柳:  逆に言えば、そういう「拘り」とか、「貪り」みたいなものが、強くあるうちはなかなかこれは難しい問題ですね。
 
田上:  そうですね。貪りがあるといけないし、そこから貪りから怒りが起こってくる。上手くいかないと怒る。上手くいったって今度は驕りの気持が出てくる。
 
草柳:  そういうものをちゃんと静めていかないと、言っている涅槃には至りませんよ、ということですか。
 
田上:  涅槃にいくには、「貪り、怒り、驕りの心を無くすよう努力しなさい」ということですね。
 
草柳:  その辺のところを、実は「スッタニパータ」というお経がありますね。そこからこの部分を読ませて頂きたいんですが、そこにはこんなふに書いてあるんですが、
 
外界への欲望や貪りやいかりが、どれほど人を苦しめているかをよく知り、それらの煩悩を起こさないようにし、一切の煩わしいことにかかわりをもたなくなった人は涅槃の境地に達する。
 
田上:  そうです。ここにそのまま分かり易い、特に説明は要らないんで、我々の感覚器官を通して外に欲望がある。「あれしたい、これしたい、見たり、聞いたりしたい」という気持がある。それにとらわれていくといけないんですね。それを得たいというふうに貪ります。貪ってもいいんですけども、それにとらわれます。とらわれて上手くいかないと怒る。うまくいったって今度は驕りの気持がある。つまりそういうように、いろいろやっていると、自分の思うようにいかないと、それが煩悩、つまり煩わしくて悩ますような状態に自分を陥れること。だからそういうような煩悩がないように努力していきさえすれば、つまり欲望を起こすのはいいんですよ、欲望を起こすにはいいんだけれども、そこにほどほどに、つまり「足ること」ですね。どこかで「足ること」を心掛けなさい。つまり貪り、怒り、驕りの気持があるのは、どこかに、「これでいい、このくらいにしておかないといけない」という「足る」という、その心掛けを、心持ちをもたないといけないよ、ということを教えているんですね。
 
草柳:  ということを『涅槃経』の中で、ブッダは説いているわけですか。
 
田上:  そうですね。
 
草柳:  古い方の『涅槃経』には、最初におっしゃったように、記録風にといいますか、ドキュメンタリー風に、ブッダが最期に何を言ったか。その言葉と同時に、ブッダの最後はどうであったのか、ということのリアルな描写があるんだそうですね。
 
田上:  そうですね。貪りを捨てるという、涅槃の境地を得るとか、いわゆる完全な悟りの境地を得る、とかという時には、さっき申しましたように、貪りを捨てるんですけれども、貪りを捨てるという時には、「足る」ということが一番大事なことです。仏教では、欲望というのは否定していないんですね。欲を持つことは決して否定していないんです。欲がものに執着する。つまりそれにべたっとくっついて、それでなければいけないというんで、そこを追求していって、満足することを知らないというのが一番いけないんです。欲がたくさんあってもいいんですよ。ですけども、足ることを知ることが大事。一番悪いのは、欲が多くて足ること、満足することを知らないものが一番悪い。少欲で足ることを知らないのもよくないです。「あの人は欲が少ない」と言ったって、ちまちまと求めていくような人は、足ることを知らないから、「少欲不知足」と言ってこれもよくない。少欲で足ることを知るから「少欲知足」というんですけど、欲が少ないからいいというわけじゃない。欲が多くてもいいんですよ。ですけども、足ることが必要だ、と。その心が必要だというので、仏教では「足る」ということを強調する。「貪りをもたない」ということ。「執着する心を捨てなさい」という。そういうところに帰着することになるんですね。それが修行の基本なんです。もういろんな修行の項目がいっぱい説かれていますけども、根底は「貪りを捨てること、足ることを知る」ということ、そのことです。
 
草柳:  その辺のところが古い『涅槃経』の中には?
 
田上:  ありまして、新しい『涅槃経』にもあるんですよ。古い『涅槃経』であろうと、新しい『涅槃経』であろうと、「足ることを知る。貪りを捨てる」ということにおいては、それは共通してあるんです。これは仏教の心の持ち方、あるいは実践倫理の基本なんです。
 
草柳:  じゃ、むしろ一番根っ子にある考え方、教えなんですか。
 
田上:  どの経典でもあります。ただそれを涅槃に入るには、このような心構えで毎日生活することが大事ですよ、と。自分が涅槃に入るのをきっかけにして、そういう説き方を強調しているだけであって、他の経典にもそれは書いてあります。
 
草柳:  出家した以降の釈尊というのは、もの凄く難行苦行をしながら、つまり「八正道」を実践をしてきて、そして最後には亡くなられるわけですね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  古い『涅槃経』では、ブッダ・釈尊は実際に亡くなるわけですか。
 
田上:  はい。肉体は滅びるわけです。ですけど、古い『涅槃経』の中に書かれてあるのが、今回のシリーズのテーマである「ブッダは生きている」という、そのものを意味するものが出てくるんです。つまりもう亡くなる寸前にですね、瞑想の世界に入っているわけですけれども、その三昧ですね。普通私どもやら、あるいは禅寺とかでいろいろ坐禅をしたりして瞑想の境地に入る、と言います。ですけども、そんな段階のものじゃないんですね。ブッダの瞑想の世界は、ずっと深くて高いそういう境地に入る。つまり完全な煩悩が消え去ってしまっている。つまり無くなってしまっている。肉体に対する執着さえも一切無くなって、心の中の意識の中の、そういう蠢きの煩悩でさえ無くなってしまって、高い境地にいって―そこが最高のところですけれども―そこから一遍にいってしまうと、生きているというものにはならない。そこから普通のところに、近いところにまで下りてきて、それを二、三回やるわけですね。つまり向こうの岸に渡って行っただけじゃなくて、向こうの岸からまたこちらの岸に戻って来て、そしてみんなを導こうとする、そういう状況を示そうとするわけですね。それが仏教的な考え方ですけれども、仏教で向こう浄土へ行くのを「往相(おうそう)」、この世に還ってくるのを「還相(げんそう)」と申しますが、つまり行って、こういう境地があるんだよ。その途中の道筋を教えてくれるために戻って来るんです、そこから。そういうようなもので意味づけしていくようなものが説かれてあるんです、古い『涅槃経』に。そこのところの瞑想で、第四善(だいよんぜん)という瞑想の境地があるんですが、そこからスッと涅槃に入った、というふうに書いてある。つまりその時には、ブッダは、肉体は確かにその後荼毘(だび)に付されます。荼毘に付されますけれども、弟子やら在家の信者たちの者たちにとっては、ブッダはあの三昧の境地のそのままで涅槃に入られた、というので、普通の人間の死の意味とは全然違うんですよ。つまり普通の死に方ではない。あれはもう瞑想の世界に生き続けておられる。それを具体的に、どういうふうにみんなが感じたか、というと、我々の周りにいっぱい、あるいは我々の記憶の中に、例えば出家者は教えを記憶しますから、つまり教えを記憶しているから、その記憶した教えというものは我々の血となり肉となっている。あるいは信者たちは、教えられたものの断片ではあるけれども、それをちゃんと聞いて忘れないようにして日常生活をしている。そうすると、そういう教えが、我々の中に生きていらっしゃるんだ、ということになる。それでそういう目に見えないものであるけれども、生きた人間、残された人間たちの中に生き続けているという、そういう信仰がその後出てくるわけですね。つまりそれを「法身(ほっしん)」という。教えの身と書いてある。「法身」という言葉で表すんです。分けて考えまして、生きておられる時に、肉体のある身体を「色身(しきしん)」と言い、それから教えとして、亡くなった後のお姿というものを「法身(ほっしん)」という姿で表して、つまり「色身」というのは、これは物質的な集まり、要素の集まったものという。つまり肉体のことです。生きている時は、肉体があって、そうしておられるけれども、亡くなると、それは荼毘に付されて、灰になってしまうんですけども、だけども立派に生き残っているのは「教えだ」と。それが「法身」として「教えの集まり」として、塊として、我々はそれをもっているというので、ブッダは生きている。つまりその三昧の中に入っていかれたことが、それを証明する。
 
草柳:  ブッダは生き続けている。生きているということは、古い『涅槃経』の中にもそのことは書いてあって、さらにそれを今度は新しい『涅槃経』では、創作も含めて、その繋がりからいうと、さらに深めていっている、という感じなんですか。
 
田上:  そうです。つまり生きているということで、新しい『涅槃経』の中では、ブッダは亡くなっていない。亡くなる時に、「病気で亡くなった」というのが古い『涅槃経』にあります。「病死した」という。ですけども、新しい『涅槃経』の中では、「病死した」ということは、どこにも書いてないんですね。病気したように見せているだけであって、私はそんな身体ではないんだよ、ということで書かれてある。そして大事なことは、新しい『涅槃経』の中では、「私は君たち普通の死に方のように思ってはいけない。私は死んでいないんだよ。三昧の洞窟の中に私は生きているんですよ」ということで書いてあるんです。つまり病死したように見せているのは、こんな私のように修行して、立派に修行を完成した者でさえも死ぬんですよ。病気もして見せるんですよ」というふうに書いてある。つまり方便的に。みんなにこんなにブッダになったような人は、もう病気もしないだろう。死ぬこともないだろう、というふうに思うかも知らんが、世の中はそういうものではない。無常―形作られたものは変化して、必ず生じたものは滅びるという、これが道理だ、と。だから私でさえも、そういうふうに死ぬということを意味するんだけども、それは方便として、世の中にこういうふうにして、死ぬというのは当たり前だよ、と。だけども、本当に完成したものは、ブッダになったものは、瞑想の中でずっと生き続けることができるよ、ということが示されている。
 
草柳:  そうすると、ブッダが病気で亡くなられた、というのは、言ってみれば仮病というか、方便としてですね。つまりそのことによって、もう一つ真実、つまり無常なのだ、と。千変万化する無常な存在なんだ、ということを解らせるため、ということがあるわけですか。
 
田上:  そうです。そういう肉体をもっている者は必ず滅びるけれども、修行を完成すると、そういう永遠なるいのちというものとして生き延びることができる、と。だからブッダは死んでいない。
 
草柳:  その辺の事情を、迦葉(かしょう)菩薩に向かって言っているところを、『涅槃経』の中から、ここを取り上げて読んでみたいと思うんですが、
 
迦葉菩薩よ、私の身体は生類の身体のように、脆く、壊れるものだと考えてはならない。よく知っておくべきだ。
私の身体は無量千万年の年月を超えている存在である。堅固で破壊することがない。人間界や神々の世界の身体ではない。おそれを知らない身体である。雑食する身体ではない。
私の身体はいわゆる身体とはいえない身体である。生ずるでもなく、滅するでもない身体である。何かを積み重ねたり、学習して出来上がった身体ではない。無量無辺の身体である。
(「大般涅槃経」)
 
これのポイントはなんですか。
 
田上:  これは、先ほどから出ております、瞑想の中でずっといく法身を表しているだけで、いわゆる色身、いわゆる肉体の意味ではない。普通私が生きている間の八十年間の姿は、肉体として見せたけれども、私がここに今、君たちの目の前でブッダとして現れて―これは新しい『涅槃経』のところですから―私が教えの塊としてのブッダとして、みんなの前に現れているのは、そんなふうに見せているだけのは肉体だけれども、本当のところをいうと、私はそんな身体のものではない、ということを、このように表現しているんです。だから、「私の身体は無量千万年の年月を超えている存在である」というのは、永遠なんですよ。これ無量ということ、計り知れないんですから。で、普通の人間の食べているような食べ物を食べて、私は生きながらえているのでもなければ、壊れるものでもない。どっかで新しく生じたもの、あるいは無くなっているような、いうものでもない、ということを、ここで言おうとしているところですね。ですからまさしくこれは法身、つまり教えの塊として、ブッダは見なければいけないよ、ということを示しているところです。
 
草柳:  お終いのところに『大般涅槃経』とありましたけれども、これが正式な『涅槃経』の名前なんですか。
 
田上:  そうです。インドの古代語であるパーリ語では「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」といい、現代語に訳しますと「すぐれたる完全な死についての教え」となります。これが漢訳されて「大般涅槃経」となりました。これを略して「涅槃経」と呼んでいます。パーリ語の「マハー」は意訳して「大」と、「パリ」は意訳して「般」と、「ニッバーナ」は意訳して「涅槃」と、そして「スッタンタ」は「経」と、それぞれ漢訳されています。完全な死という意味は、最初に申しましたように、もう二度と煩悩がまったく起きなくなった状態。同時にそれは、もう二度とこの世の中にどんな形にしろ生まれ変わってこない、そういう境地に至ったもの。それが類い希なる完全な死である。「死」という表現をするけれども、その死は今回きりですよ、と、そういう意味です。
 
草柳:  続けて『涅槃経』の中から、それをまたご紹介したいと思うんですけれども、
 
よく知っておくべきである。私の身体はどんなことにも侵(おか)されることがないダイヤモンドのような堅固な身体である。このことをいつも心にかけて考えなくてはならない。普通の飲食する身体と考えてはならない。人々には私の身体は教えの集まり(法身(ほっしん))と説明しなくてはならない。
(「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」)
 
田上:  これがもう一番大事なところです。病気をしているように見せているのは、これは世間的な常識的なものとして見せているだけであって、私の本当のところは、そんなものではないんだよ、ということをいうんですね。ですから、永遠不滅なものというのは、人々が存在する限り、その教えというものを通して伝えられるならば、これは不滅なものである。そして世の中の道理というものは、こういうものである、ということを伝えているものが法身ですから、これはもう人々が存在しようと、存在しまいと、その教えというのは世間の道理ですから、世界の道理ですから、それは不滅ですから決してなくなることがない。それを普通の食べたり飲んだりするような身体というふうに、私を見てはいけないよ。私のは法身なんですよ、と。教えの塊、教えというものの中には、世の中の真理というものを意味しているわけですから、その真理は決して君たち、動植物やら、あるいは人間が死んでいくような、そんなものと簡単に考えてはいけないよ、ということを言おうとしているところです。
 
草柳:  確かに肉体としての釈尊は滅びたけれども、だけどそれは仮のことであって、つまり現世限りのいのちではない、と。つまり法身になって人々を導く。
 
田上:  その教えは、あらゆる生き物たちの生き方の指針になるものですから、あるいは当然それは、例えば人間で言えば、人が人として生きていく正しい道を伝えているものだから、これはなくなることはない。これはちゃんと踏み行えば、みんな立派な涅槃というものを得ることができる、ということを説いている。だからそれを私は三昧の中に入ってズーッとそれは見せているんだよ、ということを教えているところです。
 
草柳:  つまり究極の境地というのはいったい何なのか、ということを、こういう立場でブッダは示している、教えている、というふうに考えればいいわけですか。
 
田上:  そうです。要は、私は教えそのもので存在している、と。それを瞑想の世界で存在して、いつでも諸君みんなを見守っている。同時に私はみんなとの間にかけ離れて存在しているわけでないんで、それは諸君のそういう生き物たちの中にも私はいるんだよ、ということ。つまり瞑想の洞窟の中から見ている、というのは、何も向こうの方に洞窟があって、そういうわけではなくて、君たちみんな、人間なら人間、動物たちのそういうものの中にいる、ということを、それを洞窟として考えているわけですから、その洞窟の中にいる、ということは、みんなの中にいるんだよ、と。そこからいつでもみんなの一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)を見ているよ、ということを言っている。だからそこら辺で、生きているという意味が、三昧の世界に入っていると言いながらも、それは向こうではなくて、君たちのこっちにいつでも生きているよ、ということを最終的に言おうとしている。「洞窟」という表現は、一番古い経典の中に、『法句経(ほっくきょう)』というのがあるんですけども、「心」ということを説明する時に、「心はもう掴み所のないもので、どうしようもないものだ」というのが、最初のところに出てくるんですけれども、「この我々の身体の洞窟の中にそれ潜んでいる」と書いてあるんですね。つまりそこで人間のこの身体の中に、洞窟として見て、そこになんか知らんけれども、異体の知れない心がいる、という表現をされています。
 
草柳:  もう一つ『涅槃経』から見ていきたいんですが、
 
サラ樹林にはつねに花が咲き乱れ、果実がたわわに実り、多くの人々に恩恵を与えている。そのようにいつも未熟な修行者に私は教えを与えつづけている。ここでいう花とは私のことで、果実とは安楽のことである。このようにして私はサラ樹林で深奥(しんおう)な三昧(さんまい)に入る。深奥な三昧とは大いなる涅槃である。
(「大般涅槃経」)
 
田上:  「サラ樹林」というのは、結局「沙羅双樹(さらそうじゅ)」の「沙羅(さら)」です。原語では、パーリ語というのでは「サーラ」と長く伸ばすんです。梵語では「シャーラ」というんですけども、馴染みの日本人の読み方で、沙羅双樹ですから敢えてここでは「サラ」というふうにして表現しましたけれども、そのサラ樹林というのは、たくさん葉が生い茂っている木ですけれども、高さが非常に高く三十六メートルにもなるような高い木になるものもあるんです。一種の香木なんですね。これを燃やすと、その香りが辺りを浄化するとか、いろいろして、なかなか葉っぱでも立派なもので、料理を載せるお皿としても使われているような、そういう木なんですけれども、そこで最期に亡くなる。サラ樹というものを自分の喩えにして、花が自分で、果実は安楽と。君たちはこの果実を食べると甘くて、君たちの身体のためになるよ、ということを言って、そういうことで私は敢えてサラ樹林に来たんだよ、ということを言わんとしているところですね。次に出てくるところに、「自分が三昧に入った」というのは、こういうことを衆生一般の人々に伝えよう。あるいはそういうものを見て、いつでも見守っているよ、ということを意味しようとしているんですね。ですから「涅槃に入った」というのは、「永遠なるいのちを私はもっているんだよ」というので、後の時代になると「阿弥陀さん」というのが出てきたり、あるいは私はいつまでも君たちを照らし見ているよ、というのは、「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)(大日如来)」という形で表現したりして、信仰されるわけですよ。だからそういうようにして「大日如来」という、後に言葉でもって、釈尊(ブッダ)を太陽をモデルにして生き続けている。「阿弥陀」という表現は、これは「永遠なるいのち」という意味ですから、「アミターユス」というんですが、無量寿(むりょうじゅ)―いのちですね。だから阿弥陀さんという方は、いわゆる生き続けているブッダが、永遠なるいのちという形で、今でもいらっしゃるよ、というので、「阿弥陀如来」とか、「阿弥陀仏」といって信仰されているわけです。そういうようにして、『涅槃経』は、いつでも生きている、ということ。つまり古いのでも新しいのでも、みんなそのように、「ブッダは生きていて、いつでも衆生を見ている」というのが、『涅槃経』の結論ですね。
 
草柳:  その「法身」ということなんですけれども、「私の法身は不可思議だ」ということも、『涅槃経』の中で言っていますよね。「私の法身は不可思議なんだ」というのは、一体どういう意味なのか。ちょっと後でお伺い致しますけれども、例えばブッダが人々を幸せにしたい、そのために私はいるんだ、という。そのためにいろいろなことをやって、普く目には見えない。当然目にも見えない、だけどいつでもみんなを見守っている、ということを。
 
田上:  そうです。ですから「不可思議」というのは、我々の常識的には考えられないかも知れない、と。だけども考えられないんだけども、それをわかることだよ、という。決して神秘的な意味で言っているんじゃないんですね。だからいつでも手に取って見れるような形であるんだよ、というので、瞑想の中に入っているんですが、
 
一、人々を彼岸に渡したい。今の状態からもっと安楽な状態に、あるいは人として生きるべき道をもっと示して安楽な境地に導きたいという気持を、まず考えておられる。
二、人の善行を全うさせたい。人の善い行いというものをしていたならば、それを全うさせてあげたい。悪いことをしているものには善いことをさせるようにしてあげたい。
三、ブッダと同じ悟りを得させたい。私だけではない。みんなも私と同じような悟りを得させたい。
四、ブッダの瑞相(ずいそう)を見せたい。つまり「ブッダって何ですか?」といった時に、どんなものかわからない。だけどもそれを見せて貰うと、ああいう姿に自分もなりたいという、そういう気持を起こさせたい。
五、怠惰な弟子を励ましたい。怠けている弟子たちがもしいたとすれば、もっとそれを怠けずにやりなさい、と言って、励ますように、私はいるんだよ、生きているんだよ、ということが、生きているという瞑想の中でいるブッダの願いであるんですね。
 
草柳:  最後の「怠けてはいけない」というのは、次回のテーマでありますね。
 
田上:  そうです。それが最後の言葉です。
 
草柳:  そうやってブッダになって、「ブッダ」というのは、つまり「そういう境涯に達した人」ということですから、先ほどのお話のように大日如来だって、阿弥陀様にしても、つまり言ってみれば、ブッダ、ある境地に達した人なんですね。
 
田上:  そうですね。「ブッダ」という言葉は、普通名詞ですので、仏教の中ではいわゆる釈尊だけ、お釈迦様だけに与えられている言葉のように言いますけれども、原語の意味からいうと、「世の中の道理をちゃんとわかって、それに目覚めて立派に修行を完成した人」がブッダなんです。ですから何も宗教界だけでもないんですね。宗教界でも当時釈尊の生きておられた時代のジャイナ教の教祖、あるいはそこの聖者たちもブッダと呼ばれていたんですよ。あるいは文学書の中でも、そういうように立派な人物はブッダと呼ばれたんです。ですからブッダというのはいっぱいいるんです。同時に仏教のお経の中には、「諸仏」と書かれてある。「仏教」というのは、「もろもろの仏たちの教え」という意味なんです。先ほど「八正道」の時に、「道」というのを、原語から「獣道」という意味ですよ、と言ったのは、釈尊が作り出したものじゃないんですね。過去に多くの仏たちがいて、その人たちの歩いた道を私は辿って行って、ああ、こういう生き方がある、こういうのが人の道だ、ということを知った、というので、それを私は紹介しているだけだ、という意味なんです。ですからブッダというのは、釈尊だけではないんです。いっぱいいるんです。だから紀元後に書かれたお経なんかには、みんな「諸仏」と書いてある。その中で一人代表として、いわゆる釈尊、お釈迦様というのだけを取り上げて、そういっているわけですけれども、みんな阿弥陀さんも、あるいは大日如来であろうと、薬師如来であろうと、みんな釈尊のお姿を現し、あるいはまたその教えに従って悟った人たちは、みんなブッダで、いっぱいいるわけです。当時も十大弟子と言われた人たちは、みんなブッダとなるわけですから。
 
草柳:  先ほどの「法身」ということなんですけれども、この法身とは一体どういうことか、ということで、次に用意してくださったお経は『華厳経』ですが、そこから取り上げて読んでみたいんですが、
 
仏の法身は不可思議である。色もなく、形もなく、比べられるものがない。しかし衆生(しゅじょう)のために種々の形を現し、衆生の心に応じて姿を見せる。(中略)あるいは一本の毛穴から仏の化身(けしん)が雲のようにわきでて、十方(じっぽう)世界に充満し、計り知れない方便(ほうべん)の力によって衆生を導いている。
(「華厳経」毘盧舎那品(びるしゃなぼん)
 
田上:  『華厳経』というのは、つまりブッダの悟りの心境を説いたお経なんです。そこに法身というのは、不可思議です。つまり考えられないものなんだよ、という。普通の常識的なものでは理解できないものなんですよ、というんですね。「色もない、形もない」というのは、色とか、形があったら、いろんなものに自分の身体を変えて、人々のところに行って救うことができないんですよ。色がなく形もないからこそいろんな変化ができるんです。その意味なんですね。比べるものがない。しかし多くの生き物のためにさまざまな形を現して、その生き物たちの心に応じて私は姿を見せる。それは出だしの、こういう形もない、色もないという、決まったものを持たないからこそ、うまくいくんである。だからこそ一本の毛穴から多くの仏の化身が雲のように湧き出てくる。十方世界に東西南北上下四維(しい)に充満し、数え切れないほどの方便の力によって生き物たちを導いている。それは自由に―融通無碍(ゆうずうむげ)という言葉がありますが、それは色もなく、形もないという。決まったものがないから自由にできる、という意味です。法身というのは、そのようにしていつでも見守っているよ、ということですね。
 
草柳:  そしてこの最後の方にありましたけれども、「十方世界に充満し」ということは、つまりどこにでもいる、ということ。
 
田上:  そうです。塵の一つの中にでもいますよ、と。今の、例えば携帯でもパソコンでもなんでもそうですけれども、ちょっとした小さなカードがありますね、あれに何十万と昔では考えられないような本とか、新聞とか、凄い情報が入っている。みんな込められているでしょう。あれを頭において頂くとわかるんです。こんなものがこんな小さなカードに、という。つまりそれを言っているんです。「一切即一」「一即一切」というのは、みんなそういうものを言っている。今そういうものを現実に実現して見せてくれているわけですね。そういうことをいうんです。そういうのは拘りを持たないから、そういうことができるんですね。自由に世の中はそういうふうにして、大いなるものがちっちゃなものを、そこから宇宙のものを全部取り出すことができる。
 
草柳:  そして、「十方世界に充満し」ということを、もうちょっと考えると、それぞれみんなこう繋がりあっている、ということなんですか。
 
田上:  は。「衆縁和合(しゅえんわごう)」と言って、すべてのものは寄り合い寄り合いです。寄り合いの最初の「寄り」というのは寄せ集まり。その次の寄り合いは依存している。最後は繋がっているという。そういうようなみんな寄り合い、寄り合い、寄り合いの関わりをもって存在しているんですよ、ということを言おうとしていることですね。
 
草柳:  最後に『涅槃経』からこの部分を取り上げてご紹介したいと思うんですが、
 
如来そのものは満月のようだと考えたまえ。すなわち教えの集まりであり、誕生することがない身であり、衆生を教化するための方便のみである、と。世間のあり方にしたがって現れ、計り知れない過去に積んだ善業の因縁を示して、いたるところに姿を現している。それはあの月がいたるところでさまざまな形に見られるように。だから如来は常住不変である。
(「大般涅槃経」)
 
田上:  これも「如来」というのは「法身」のことで、どこでも円満にしますよ。見るところによって形は違うように見えるけれども、本体は真ん丸ですよ、ということ。だから衆生は自分のあり場所にいって物事を見たりしているけれども、それはあんたの勝手な見方である。本物は真ん丸ですよ。そういうことを言っているんですね。
 
草柳:  「教化(きょうか)」というのは、「きょうけ」とも言うらしいんですけれども、要するに教える、ということだと思うんですけれども、『涅槃経』には、古い『涅槃経』と、新しい『涅槃経』があって、その対比でブッダの最後の教えがどういうふうに、例えば新しい『涅槃経』の中では創作されていったのか、という流れで、今日『涅槃経』を伺ったんですけれども、纏めて頂くと今日のお話はどういうことになりますか。
 
田上:  もう貪りを持たないこと、つまり貪りを捨てること。あるいは妄執というものを捨てること。そういうことを通していけば、生きておられるブッダに巡り会うことができますよ、ということを、教えようとしている。何故なら、ブッダはいつも生きて、我々の周りにいらっしゃるから、そういうことです。だから仏教の信仰はそこに尽きるわけです。それで最後に何を教えられたかな、遺言は何を残されたかな、というので、次回がそれに繋がっていくんだろうと思います。
 
草柳:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成二十三年四月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである