ブッダの最期のことばA怠けてはならない
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「ブッダの最期のことば」の二回目です。ブッダはインドのクシナガラというところで最期を迎えるわけですが、その臨終の時に、ブッダは一体どのような言葉を残したのでしょうか。古い涅槃経である「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」という経典は、ブッダの最期の旅を記している経典なんですが、まずはその中の一節をご覧頂くことから始めたいと思います。
 
「アーナンダよ、あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない。『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしが制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。
そこで尊師は修行僧たちに告げた。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
(中村元訳『ブッダ最後の旅』)
 
この最後の言葉、「怠るな」というこの言葉が臨終の言葉だったわけで、今日の番組のテーマなんです。この「怠るな」という言葉を中心に、これを巡って駒澤大学名誉教授の田上太秀さんに今日もいろいろとお話を伺ってまいります。どうぞよろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  「怠るな」というのが、今日の番組のまさにキーワードとなるわけですね。
 
田上:  ええ。先ほどパターンに出ておりました中に、「諸行は無常である。つまり世の中のすべてのものは無常であるから、怠ることなく修行に励みなさい」という言葉がありましたが、この言葉はもともとそこに出家者の人たちばかりが集まっていたところ、しかもそれは大人数ではございませんで、四、五人しかいなかったわけですけれども、その人たちにそのようにして説いたわけです。アーナンダという人は、釈尊の従兄弟に当たる人で、二十五年の間、ずっと付き添っていた人でありますが、一番説法を多く聞いた人と言われるんですが、その人が、「釈尊が亡くなったら、何を頼りにすればいいんだろうか」と言った時に、今言った、「私がこれまで君たちに伝えてきた、披露してきたブッダたちの教えとか、あるいは人間の身を制する、そういう戒律の戒を正しく身に付ければ、それが君たちの先生になるのだと。それをちゃんと完成させるためには、要するに怠らずこれから生きていきなさい」ということが、その最初ですね。
 
草柳:  ただ、ブッダの臨終の言葉としては、ただこの「怠るな」という言葉を取り上げると、なんとなく拍子抜けするような感じもしないではないんですが、ただこの言葉の中に、ブッダが四十五年間にわたってずっと教え続けてきた重みみたいなものが勿論当然あるわけですね。
 
田上:  そうですね。確かにおっしゃった通り、釈尊の、つまりブッダの最期の言葉は何ですか?つまり遺言は何ですか?と言ったら、「怠るな≠ニいう一言でした」というと、この放送はこれで終わってしまうわけです。これからシリーズで十二回お話するという中身ももうこれに尽きるのはわかっていることですけれども、実はおっしゃったように、四十五年の間、説法をしてこられた中には、とにかくたくさん教えがいっぱい一般の人に伝えられてきている。その一番最期のところで、みんなに告げられたのは、「怠らず自分の為すべきことを完成しなさいよ」というその一言なんですけども、その「怠けるな」というのが、一体どういうことにおいて怠けるな、というのか。それが非常に重みをもっているものですから、これを簡単に、「あ、そうですか」で終わることはできないんですね。
 
草柳:  その辺をじっくり今日お話を頂きたいと思うんですけれども、ブッダは三十何歳かで菩提樹の元でその悟りを開かれて、そしてそれから説法と言いますか、教えを説き始めるわけですが、ただ最初に教えを説くまでには、随分躊躇(ためら)いがあった、というふうに伝わっておりますが。
 
田上:  そうですね。三十五歳の時によく知られているように、菩提樹の元で悟りを開いた、ということですけれども、その悟りを開いたということが、何だったかというのは、もう決まっているわけですけれども―この世の中の道理というものをわかった、ということですが、それを伝えるには、今までの伝統的なバラモン教のそういう教え、まあ大きく言えばヒンズー教のそういう教えというものとは違っている。簡単に言えば、それまでは絶対なる神がこの世の中を造った、という、そういう宗教的な教えですけれども、釈尊が、つまりブッダが、「わかった」という世の中の道理は、神が造ったのではなくて、「世の中はすべていろんな原因と条件がみんな絡まって、そういうものが集まって世の中はできているんだ」と。つまり絶対なる神を否定した、そういう道理なんです。それはなかなか一般の人たちは、何千年とそう伝えているものに対して、そう言われたって、おいそれとわかる、あるいは納得できるものではないですね。ですからそこでどういうふうに伝えるか、というので悩むわけです。そこでいろんな説法の内容というものがあるんですね。
 
草柳:  ブッダの説法の仕方、特徴というのはどういうものですか?
 
田上:  それはまず大きな特徴の一つは、普通そういう宗教的なものの話をしたり、あるいは深いそういう真理のことについて話をしようとすると、今日でもそうですけれども、それぞれの専門の分野の人が講演に行ったりする時には、行った先々で地方の言葉でお話する人はまずないと思われます。例えば大阪へ行って大阪弁で話す人はいません。東北へ行って東北弁で喋る人はいません。当然九州とか四国に行っても、みんないわゆる標準語でお話しますが、そういうのを俗語で話したというんです。つまりその土地土地に行ってそこの俗語でお話をされた、というのが特徴です。もう一つは、難しい内容ですから、たくさんの譬喩(ひゆ)を使って説法した。喩えを使って日常の身の回りにあるものを使って説法された。もう一つは、相手の能力に応じて説法の中身を変えた。つまり簡単な言い方をすれば、小学生には小学生にわかるような言葉使いをしたり、あるいは内容で話す。あるいは大学生に対しては大学生に対して、あるいは一般の仕事をしている人たちに対してはその人の仕事の専門のところに合うような話で、世の中の道理というものを説法する。
 
草柳:  相手によって言い方を変えていた、ということなんですか。
 
田上:  そうです。つまり対機説法(たいきせっぽう)といわれる。応病与薬という病に応じて薬を与えるというお医者さんのやり方と同じ、そういう説法の仕方をされたという。そういう特徴がございます。もう一つは、特定の人間だけ、あるいはこの人だけがわかるという、そういう限られた人だけではなくて、多くの人たちがわからぬなら聞きに来なさい。誰に対してでも公の場で話をされたという。公開講演会みたいな、そういう特徴があります。ですから以上のようなものをもって、釈尊は多くの人たちに説法をされたというのが、他のそれまでの伝統的な坊さんたちのやり方とは違っていたんですね。
 
草柳:  私が、凄いなと思うのは、つまり誰に対しても、という中には、二千五百年前のあの社会の中で、女性もちゃんと相手にして説法をした、と言われますよね。
 
田上:  そうです。結局仏教のサンガ、いわゆる修行僧の共同体の中には、それまで男だけの共同体であったのに対して、釈尊・ブッダは女性の出家者を認めたという、それは古今東西において釈尊を、つまりブッダをもって初めとするわけですね。ですからそういう意味では、釈尊の、そういう女性に対するそれまでの性差別というものに対して、みんな道理(法)の前には平等というのと同じように、人間の人の道の道理の上においては、みんな平等である、ということを説いた人ですね。
 
草柳:  先ほどご紹介した一節は、あれは古い方の涅槃経なんですが、それを新しい涅槃経の中でどういうふうに言っているのか、ということを、少し見てみたいんですが、
 
「君たち修行者よ、凡夫や神々のように憂い悲しんで泣いてはいけない。怠らず、精進し、心を正しく制御して、教えを忘れてはならない」。(中略)
つねに怠けず、心を律し、
正しく教えを記憶し、
もろもろの悪を離れ、
心を休めて幸せを味わえ。
(「大般涅槃経」)
 
これはもう完全に修行者向けに言っているんですか。
 
田上:  そうですね。修行者が目の前にいたわけですから、そう言っているんですけれども、実はこの「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」という、新しい涅槃経は紀元後に作られたお経であります。ですから、ここのところでは必ずしも出家者だけではないんですけれども、こういう説法する相手というのは、相手が質問するのが大体出家者が、いわゆる修行僧が質問するわけです。ですからそれに対して答えるから、「修行者よ」という言い方をするわけです。ですけども、実際にその周りには、さっき言いましたように公開講演ですから、一般の人たちもそこには聞いているわけですね。ですから必ずしもそうじゃない一般的に説いているものだ、と考えて頂いていいと思うんです。だからここで「心を正しく制御して」という、その心というのは、人間の感覚器官ですね。六官を制御する、という意味です。心というのは、何か塊で、どっかにあるんじゃなくて、人間の六官、例えば眼、耳、鼻、そういう感覚器官を正しく制御するという、その意味です。そして怠らず、それを常に精進して、努力してやりなさい。そして教えを忘れてはならない。私が伝えているもの、私がこれまでの多くのブッダたちが歩んできた、そして伝えてきている教えというものを、伝えているけれども、それを忘れてはいけませんよ、と。私が亡くなることで、泣くようなことがあってはならない、ということをいう。ここに「心を律し」というのは、まさしく六官を制御する、ということ。悪を離れ、心を安めて、つまりここには先ほどのアーナンダに言った「諸行は無常である。すべてのものは移ろいゆくものであるが、そういうものの中で、自らをきちっと制していくことが大事だよ」。
 
草柳:  先ほどの古い涅槃経に比べると、少し言葉を新しく補っているところもありますけれども、今ちょっと気になったんですが、「凡夫や神々」というのは何ですか。
 
田上:  「凡夫」というのは一般の人たちです。つまり仏教的な表現をしていますけれども、衆生でよろしいんですね。もろもろの生きとし生けるものよ。「神々」というのは、神様でさえも、とインドにおける神たちも呼び掛けている。聞いているならば、その人たちも聞きなさいよ、という。インドでは、「神」と言った場合には、特に仏教の文献の中では、お経の中では、「神」と言った場合には、ヨーロッパのように、キリスト教の神とか、イスラム教の神のような、絶対なる神で、永遠不滅の神とは違うんです。仏典の中に出てくる神々というのは、もともとそういう仏教以前からある神々ですけれども、釈尊の教えに帰依をして、それに納得してお弟子になった人たち、お弟子になった神々なんです。ですから、そこに入ってきますと、もういわゆる煩悩が多い、そして生まれ変わり死に変わりをする神々なんです。いわゆる人間よりもちょっといいというだけの生き物として考えられて、ですから凡夫と並んでいる。
 
草柳:  書き方はちょっと違いますけれども、いずれにしても両方とも生き方を説いている、ということには変わりは勿論ないわけですね。
 
田上:  要はここで言わんとしているところは、仏典の中に、「スッタニパータ(法句経)」という古い仏典の中にありますけれども、
 
古いものを喜んではならない
新しいものに魅惑されてはならない
滅びるものを悲しんではならない
そして誘惑するものに妄執してはならない
 
という、こういうブッダの言葉があるんです。これはこういうことに引っ掛かるんですね。
 
草柳:  その新しい「大般涅槃経」の中に、次に紹介したいのは、「怠けない」ということはどういうことなのか。そのことに触れていっているところですね。
 
田上:  そうですね。
 
草柳:  それを読んでみますと、
 
心を慎み、怠けないこと、これを甘露(かんろ)(不死(ふし))という。
怠けて慎みがないこと、これを死という。
もし怠けなければ、不死の理(ことわり)を体得し、もし怠ければ、つねに死への道へ赴(おもむ)く。
(「大般涅槃経」)
 
これは今日のキーワードがたくさん出てきますね。
 
田上:  そうですね。「心を慎み」というのは、六官、自分の感覚器官を制御して、物事を、例えば眼でものを見過ぎない。聞きすぎない。鼻でそういう嗅ぎすぎない。あるいは食べ過ぎない。味わい過ぎない。いろいろ「すぎない」ということを、「慎み」という表現をしているわけです。つまり前回でちょっと触れましたように、欲を否定しているわけではないんですけれども、欲がものに執着すること。「足ることを知る」ことを、これで「慎み」というふうに表現して、「怠けないこと、これを甘露という」、そこに括弧して「不死」と書いてあります。死なないという意味です。ですけどこれは永遠という意味であるし、つまり甘い露ですけれども、これはこのうえもない美味しい飲み物という、そういうものなんですけれども、最高のもの、つまりこれは身の破滅を導かない安楽と言った方がいいです。ですから心を慎み、怠けないことは、これが最高の安楽である、と。幸せである、という意味です。で、「死」というのは、ここは破滅という意味で、苦しみを生み出すことになる。そういうふうにして理解して頂ければ、もし怠けることがなければ、まさしく最高の幸せの理(ことわり)というものを自ら得ることができて、怠けたら常にそれは破滅への道である、というふうに読み取ることができます。
 
草柳:  こうやって見てきますと、ブッダの教えというのは、ただ頭の中で理解すればそれでいい、というだけではなくて、必ずやってみるというか、実践ということが伴った教えである、ということなんでしょうか。
 
田上:  そうですね。結局は、わかったいるんだけれども、それを実行できないという、まあよく我々の日常の言葉で「わかっちゃいるけど」という言葉がございますが、その「わかっちゃいるけど」というところに人間らしさはあるんですよ。ですけども、それをわかっているからと言ってゆるしていると、自分の完成はならない。ですからそこのところで怠けないという、これまでの説明のものを、具体的な内容でどういうことを言おうとしたのか、というのを纏めたものが、仏典の中にございますので、それをご紹介頂ければと思いますが、これは「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」とこういうふうに読むんですが、
草柳:  これは経典の名前ですか?
 
田上:  いや、違います。これは「七仏」というのは、七人のブッダということですね。つまり釈尊を一人含めていまして、大体多くのブッダたちというのが、釈尊の場合出てくる時は、自分の前に六人の仏たちがいた、という意味で、釈尊を加えて七仏。私も含めて七人のブッダたちがズーッとやってきた、これまで戒めというよりも、みんな習慣ですね。
 
草柳:  この仏というのは平たくいうと、つまり悟った人というふうに、
 
田上:  そうです。道理に目覚めた人です。その人たちがみんな自分たちが身に付けてきたものを、次のような詩でもって残しているのを伝えよう、というのがこれです。
 
「七仏通戒偈」
諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい)
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
 
もろもろの悪をしない。してはいけないじゃないんです。しない。もろもろの善いことを行い。そしてこのような心を常に汚さないようにしていく。これが自らその心、「意」は心ですね。その心というのは、そういうようにして、自分の六官も合わせて、このような気持を決して汚すことがないようにする。これが多くの仏たちの教えである、という。これが諸仏の教え、という。これを聞いたら、それは誰でもわかっている、当たり前だろう、と言いますけれども、ここに大事なのは、「莫作」というところが一番大事なんですが、悪いことをしないですよね。漢文で読むと、「為すことなかれ」になっちゃうんですけれども、「為すことなし」なんです。つまり習慣付けなければいけない、という。つまり悪いことをしない、という習慣を付けなさい。命令ではないです。だからキリスト教なんかの、モーゼの十戒のところで、例えば悪いことをしないとか、生き物を殺し、嘘をついてはいけない、というのは命令です、それは神様が言った。これは神様が言ったんではないんですね。仏たちが、みんなそのようにして、人が生きていくうちに、人の道としての当然のことであるから、命令ではないんです。ですから、誰でもこんなものはわかっているんだけれども、なかなかできませんよ、というようなことをよく耳にしますが、善いことをしようというのは、なかなかそれは最初から難しいけれども、ここで言っているのは、悪いことをしない、ということから始まるんです。悪いというものがあったら、それを一つずつしないように習慣付けましょう、ということです。これをやっていったら、みんなブッダになれますよ、という、多くの仏たちが説いてきたものを、君たちに私は伝えよう、と言って、釈尊がこれを残したわけです。
 
草柳:  どれもみなとても大事なことなんでしょうけれども、その中でも取り分けというと、どれになりますでしょうか。
 
田上:  これは「諸悪莫作」。善いことをするのは、なかなか難しいけれども、自分に振り返って悪いことを一つずつ無くしていく、ということを習慣付けようとしたら、それはできるでしょう、ということです。悪いことをしない、という習慣が付いたら、周りから見たら善いことをしていることにも繋がってくる、という。ですから、善いことをしよう、ということを先にもってきていないんですね。悪いことをしない、ということを先にもってきているのは、その意味です。善いことはなかなかできないけれども、悪いことは、一つずつ気付いたらしないように、毎日それを習慣づけていくようにして仕向け、身に付けなさい、ということです。それができると、結局全部行いは善いことをしていることになる。それは諸仏の教えである、と。つまり釈尊一人の教えではないんですね。それまでの七仏ですから、それまでの仏たちがみんな歩いて来た道であるよ、ということを教えている。これが「怠けるな」という、その中身にもなるわけですね。つまりそれをやっていくことを、もっと具体的にいろいろ日常生活に合わせて、今度はいろんな説明が出てくることになる。つまり結局、これは自分の体というものは生身であるから、変化していく。だから習慣をちゃんと身に付けていけば正しい生き方ができる、という。それは自分を浄化していくんですね。
 
草柳:  古い涅槃経と新しい涅槃経と成立年代が違っているので、微妙に言葉使い方や、言葉を補っているというふうなことがあって面白いですけれども、新しい涅槃経の方は、どちらかというと、だんだんブッダが神格化されていくという、そんな感じはあるんですか。
 
田上:  勿論おっしゃる通りです。前回に瞑想の世界に入っていって、瞑想でそのまま亡くなった、と。その後、弟子の人たちやら信徒の人たちはみんな、釈尊は生きているんだ、ということで法身(ほっしん)ということで言いました。つまり法身というのは、教えとして生きているし、みんなの体の中に戒と律で身に付けたら、それがブッダの生き方そのものである、という。ですから、古い涅槃経の中では、「釈尊」という非常に人間臭さというもののある表現をしますけれども、新しい涅槃経は、みんな「ブッダ」という表現をする。つまりそれはもう変な言い方ですけれども、神格化されてしまっている。「永遠なるもの」とかという表現をするのは、そういうことになるんですね。ですけれども、「永遠なるもの」とか、「不滅なるブッダ」と言いましても、「不滅」という言葉の意味が、キリスト教の神の不滅とか、イスラムの神の不滅という、不滅の意味とは違うんです。そこがこれから何回目かに出てくるわけですけれども、その不滅の意味がその時にわかって頂ければ、法身の意味というものがわかると思います。
 
草柳:  この後さらに、怠るな、つまり精進ということと絡めて、さらに深くお聞きしていきたいんですが、その前に、クシナガラの映像がありますので、それをちょっと見てみたいと思うんです。
田上さんは、勿論何回もここにいらっしゃっているでしょうけれども、改めてこうやって映像でご覧になると如何ですか。
 
田上:  最近お撮りになった映像だろうと思いますけれども、街並みもそんなに変わったものではないですけれども、ただ観光バスはなかなか心地よい観光バスになったことは確かですね。ここでみなさんに注意して頂きたいことがございますが、今「涅槃像の長さが六メートルで五世紀ぐらい」と書いてありますけれども、六世紀頃に造られた、という学説もありますから、その辺は適当にお考え頂いてよろしいんですが、もっと大事なことは、涅槃像のお顔の部分を見て頂きたい。これからテレビを見ている方も気付いて貰いたいのは、仏跡に行かれた時に、涅槃像をご覧になると、これはスリランカもそうですけれども、タイやミャンマーや莫高窟(ばっこうくつ)の大仏寺というところもそうですけれども、涅槃像のお顔の眼は瞑(つむ)っていないんですね。半眼に開いているんですよ。つまりそれは第一回にも申しましたように、信仰の上で、「涅槃に入った」というのは、「死んでいない」ということなんです。第一回目に、「ブッダは死んでいない」ということを、文字の上、信仰の上で法身でありますけれども、仏像の上では目を開いているんです。それは坐禅をしている。つまり瞑想の世界に入っている。禅定の「禅」というのは、行住坐臥―歩いている時も、留まっている時も、坐っている時も、寝ている時、横になっている時も、みんな三昧、瞑想の世界にいる、というのが、つまり釈尊の、つまりブッダの禅なんです。ですから、「亡くなった」と言ったんだから、普通でしたら「死んだ」ということですから、日本では涅槃会(ねはんえ)というのがございますが、それは釈尊が亡くなったという、悲しむべき日であるというふうに、法要が行われるんですよ。ですけど、ガイドブックの表紙の写真は、タイ・スコタイのワット・プラケオに安置されているブッダ像ですが、一体は涅槃像は横になっています。後ろに仏像が二つ、二体並んでいます。そこは生きているわけですね、いうならば。それは坐禅しているんですね。目は開いているんです。涅槃像の目も開いているんです。同じ目にしている。つまりブッダは、肉体的には滅びたかもわからないけれども、常に生きている。涅槃像の中に現れている、ということを気付いて頂ければと思います。
 
草柳:  さてそれで、「怠けるな」なんですが、この「怠けるな」という真意は一体どこにあるんですか。
 
田上:  要は「怠けてはいけない」というのは、先ほど映像の出る前に申しましたように、自分の生身は、これは次から次に欲望が起こってくる。そして欲望がものに執着している。つまり心を律しなさい、というのは、自分の感覚器官はさまざまなものに妄執していく。つまり執着して、それにとらわれて、煩悩が次から次に起こる。だからそういうことが起こらないように、というので、「怠けるな」ということを、釈尊・ブッダは教えられたんですが、それを喩えでもって説明するんですね。つまり「怠けるな」という言葉を、別な言葉で表現すると「精進」という。もともとはこれは「努力」という意味です。努力ということは、一生懸命にやらなければいけないことを、それを身に付けるまで繰り返し行いなさい。それが仏教の修行なんですね。繰り返し繰り返し行うことが、修行という意味です。苦しいことをやることが修行ではない。ブッダが教えてくれている教えを、自分の身に付くまで繰り返すこと。それが努力・精進です。それがいうならば、「怠けるな」という、この言葉になるんです。それは昔の譬えで仏典にあるのは、火を起こす時に、錐揉(きりも)みをしますが、その時に、煙が出て火が点きますが、その時にもう点くだろうと思って止めると、火は点きません。最後までそれを努力して錐揉みしないと火は点かない、というのが、まさしく「怠けるな」という意味です。いっぱい譬えがありますが、日常の生活の中で、例えば自転車に乗ります。自転車には、自動発電のペダルを踏んで、そしてフロントのライトに電気が点りますが、その時に暗闇で、自分がペダルを一生懸命踏まないとその明かりはどんどんどんどん大きくなりません。緩くすると暗くなってしまいます。止めるともう真っ暗になって電気は起こりません。つまりそういうことと同じで、我々が一つのことをやらなけれないけない時には、それが完全に為されるまでは、いつまでもペダルを踏んでいなければいけません。そうしないと前に進まないし、暗闇の中で怪我したり、転倒したりします。それと同じなんです。「精進、怠けるな」というのは、「為すべきことを絶えず継続して行う」という。それは生身ですから、ところどころで挫けてしまわないように、励まし励まし、自分でやりなさい。
 
草柳:  しかもそれは我々の日常の暮らしのあらゆるところにあるわけですね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  怠けたら、事が成就しない、という。で、先ほどのお話のように、ブッダという人は、相手によって言い方を変えてみたり、あるいは説法の仕方を変えた、というふうにおっしゃっていましたね。在家、つまり出家者ではない人に向かって言った言葉があるんですね。
 
田上:  ありますけれども、唯一はっきり纏まったものとしてよく知られている仏典があるんです。それは「六方礼経(ろっぽうらいきょう)」という。六つの方角に礼拝をする。つまり方角信仰ですね、そういうものを書いたものがあるんです。これはシンガーラ青年と言いまして、バラモンの青年なんですけども、この人に対して説法したものがあるんです。それをご紹介頂きたいんですが、
 
草柳:  一度通して読んでみますと、
 
一、飲酒は富をなくすはじまり。
二、他人の妻や夫と不倫するのは富をなくすはじまり。
三、祭りや踊りなどの集まりに熱中するのは富をなくすはじまり。
四、賭博(とばく)などの遊びに熱中するのは富をなくすはじまり。
五、悪友と親しく交際するのは富をなくすはじまり。
六、怠けにふけるのは富をなくすはじまり。
 
これを読むと実に世俗的な倫理を教えているのではないか、という感じがあるんですが、「富をなくす」という、この場合の「富」というのは?
 
田上:  財産ですね。大きくいって家までなくしてしまう、そういうことです。ここで「はじまり」というのがあります。「なくすはじまり」、なくすんだ、と言ってはいないんですね。「なくす、そういう入口になるよ」ということです。ですから飲酒であろうと、不倫であろうと、祭りや踊りの集まりに熱中するのも、とかくあなたの遊びに熱中するのも、悪友と親しくするのも、その一つ一つをそれだけ言ったら怠けという意味にはなりませんけれども、これを続けて、それに没頭していくと、結局それは財産も家もなくすことに、最終的になるよ、と。すぐにはならないけれども、そういうなくす入口になるよ、ということを教えている。
 
草柳:  この一から五までは、非常に挙げている例が具体的ですよね。
 
田上:  これはシンガーラ青年が、若い人ですから、おそらくこういうことに熱中して、例えば二番目なんかは、そういうようなことはなかったにしましても、いずれそういうことに心が弛んではしるようなことがあるかも知れない、ということなんかも含めて言っていることで、これはかなり個人的なもので、こういうようなことをするのは、いうなれば怠けに耽るというのは、本業を忘れて、こういうのに没頭するのは、結局は君自身の富をなくすことに繋がるよ、ということを言っているんですよ。今すぐではない。
 
草柳:  こういう言い方というのは、やはりこれも戒めというか、戒なんですか。
 
田上:  これは戒ですね。祭りや踊りのそういう集まりというのに没頭しないということですね。没頭してはいいんですよ、趣味って。ですけども、そのために仕事をおろそかにする。仕事をしなければいけない日中にそういうのに没頭して、そっちの方にはしっていくというようなことをやるのは、これはおかしいわけですね。ですから時間をとって、そういうのに没頭するのはいいです。ですけども、例えば賭博の遊びに没頭するのは、「じゃ、勧めますか」と言ったら、勧めませんでしょう。「どうぞ、やりなさい」というわけにはいきません。これは結局は、ちょっと手を染める程度はいいだろうと思っているのが、だんだんそうやって手を染めていくことになると、それがとんでもないことになるよ、と。そういう怠け心を起こさないようにしなさい、ということですよね。
 
草柳:  そうすると、六つ目にあった「怠けに耽るのは」というのは、それまでの五つの具体的な事柄を、勿論引っくるめて言っているというふうにみてよろしいんですか。
 
田上:  これはあくまでもシンガーラ青年に、個人的にこれ言っているわけです。まあ個人的とは言いながらも、多くの人たちにも、なるほど、と、どっかでわかる。自分にも関係するな、というような人も出てくるかも知れません。そういうことで引っくるめて理解してよろしいと思いますがね。「怠ける」というのは、結局そういう趣味とか、ここに挙げたようなものによって仕事をおろそかにする。そういうのを戒めているところですね。
 
草柳:  当然教えですから、戒め、戒があって、そして律ということもあると思うんですけれども、仏教では一番大事なこととして、これは絶対守らなければいけないことなんだ、ということは、いくつかに纏められて、
 
田上:  五戒(不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふいんしゅ))というのがあります。「五つの戒め」というふうに呼んでいいんですけれども、「五つの習慣」というふうに理解してもいいんです。「戒」という原語は、「シーラ」と言うんです。これは「戒め」というふうにしますと、先ほど申しましたように、「してはいけない」という、そういう意味になってしまいます。ところがここに挙げてある五つは、生き物を殺さない。殺してはいけないじゃないです。殺さない。盗みをしない。不倫をしない。淫らな言葉を、例えば嘘とか、二枚舌を使うとか、そういう妄りな言葉というものを語らない。最後に酒を飲まないと、こう言うんですが、これは五つの中の前の四つは、これは人間が、人の道として絶対に守らなければならないもの、あるいは身に付けなければならないもの、というふうになっている。飲酒というのは、これは時と場所とその状況に応じて、それは必ずしも守らなければならないというものじゃないです。釈尊自身も、そのことについては例外として述べている。ですけども、最初の四つは、これを勧めた宗教も、哲学者も、あるいは政治も国もないですね、これは。絶対に殺しなさい、嘘を付いていいというのはないでしょう。これらの四つは、人間が人の道として、必ず身に付けておかなければならないもの。つまり神が居おうと居まいと関係がない。それを教えているものです。これは個人的なものではなくて、人の道として説いたものです。
 
草柳:  これは洋の東西を問わず、宗教の如何を問わず、人として絶対こうしてはいけない。守らなければいけないことだ、ということですね。
 
田上:  ですから、「怠けるな」という言葉の中身には、身に付けるということです。身に付くまで、それは決してずるけてはいけません。途中で止めてはいけません。自分の身に付くまで、それは継続しなければならない、ということを言っているんです。
 
草柳:  しかも非常に教えの中身というのは、ある面では具体的ですから、例えば同じ「六方礼経」の中で、仕事との関連で触れているところがあるんですね。
 
田上:  そうですね。先ほどのシンガーラ青年に対しても、仕事をするに当たって、こういうのは、やってはいけないよ、というのがありますので、ちょっとご紹介頂きたいと思います。
 
草柳:  ざっと読んでみますと、
 
「六方礼経」
一、「寒すぎる」といって仕事をしない。
二、「熱すぎる」といって仕事をしない。
三、「晩すぎる」といって仕事をしない。
四、「早すぎる」といって仕事をしない。
五、「私はひどく腹が空いている」といって仕事をしない。
六、「私はひどく満腹だ」といって仕事をしない。
 
田上:  これは日常、今の時代で、例えば会社なんかにお勤めの場合とか、あるいは実際に肉体労働をしている方々の場合と、いろいろ違うかも知りませんが、しかし考え方としては同じですよね。仕事をしている時、例えば一番いいのは、肉体労働で工事現場で仕事をしている時に、戸外でございますから、風が吹いたり、雪が降ったりというようなことで、寒いとか、あるいは夏は暑いとかという、そういう時に怠け心が起こると、つい暑いとか、寒いとかで仕事をしない。あるいは早いとか遅いとかって仕事をさぼる場合もあります。またお昼時になって御飯をたくさん食べたとか、あるいは朝御飯をたくさん食べたと言って、満腹していると、今度はお腹いっぱいだからちょっと仕事はできないとか、あるいはお腹が減っては仕事はできないとかと言っていろいろと理屈を付けて仕事をさぼるというのがあります。それを結局は教えているわけで、「怠けない」というこの言葉の中には、こういうところで釈尊が説いているものは、さましくそれを裏付けているものですね。
 
草柳:  この「六方礼経」というのも、涅槃経の中に入っている言葉なんですか。
 
田上:  これは私が、ガイドブッダの中に「怠けるな」という言葉を、一番よく纏めてある、そういうものとして、「六方礼経」を紹介をしたいんですけれども、涅槃経、つまり新しい涅槃経の中に、これがないわけじゃないんですね。つまり纏まってはないんですけれども、それぞれが別個にそういうものは説いてあります。ですからこのようにして、要するに一個人に対して、君はこれからそれぞれの仕事をやっていく。それに当たってもこのような気持を起こして、ずるけたりして、怠けるようなことがあってはいかんよ、ということで言っているわけです。これはもう修行ということは、さっきも申しましたように、インドの原語からの意味からすると、これは「継続して、繰り返していく」という意味ですから、何度も何度も繰り返していく、という、その意味を説いていることですから、このようにして、さぼってはいけない。怠けてはいけない、という、そのことに繋がっていくわけですね。
 
草柳:  ただ怠けないと、自分に言い聞かせたり、怠けてはいけないんだ、というふうに強く思っても、それだけでは勿論なかなかうまく事が運んでいかないのではないか、という気がするんですが、先ほど「諸悪莫作 衆善奉行」という言葉の紹介がありましたですね。その中に三つ目に「自浄其意」という言葉があったと思うんですけれども、つまりあれは、自らの心を浄めていきなさい、ということなんでしょうか。そうすると、その怠けるという言葉との繋がりで考えていくと、つまり自分が積極的に精進をしていく、ということになる。
 
田上:  そうです。決して一心たりとも、という言い方をすると、大袈裟になりますが、とにかく継続をしていくということ、それで心というのは、これは釈尊が一番強く強調しているのは、「法句経」の中に、「心というのものはあやふやなもので、どうしょうもない、と。これは掴み所のないものである」という表現をして、いっぱい書いてあるんですね。そういうのが人間の胸の洞窟の中に潜んでいるという。異体の知れない。だからそういう心というものを、如何にしてコントロール(制御)していくか、ということが大事なんですね。つまりそれが自らの心を浄める。つまり悪いことをしない。善いことをしようという、そういう気持をもっていても、どこかでやっぱり挫ける、揺るぐ。それが心にある。だからそれをどこまでも、そういうふうにしないように、自ら心というものをコントロールしなさい、ということで、自浄其意、
 
草柳:  つまり「怠けるな」ということは、「精進をしろ」というふうに。
 
田上:  おっしゃる通りです。努力することですね。
 
草柳:  しからば、その「精進」というのは、一体どういうことなのか。
 
田上:  「精進」ということは、例えば一滴の水が、雨樋から一滴ずつ落ちていくと、その下にある大きな固い石も、自ずからにして穿って穴ができる、というのと同じことで、これも経典にありますのでご紹介頂ければと思います。
 
草柳:  箇条書きふうなんですが、一度読んでみましょう。
 
精進は前世の福徳を発露(ほつろ)す。雨がたねを潤(うるお)してかならず発芽させるように。
 
これはどんなことを言っているんですか。
 
田上:  これは先ほど言いましたように、雨というものはどんどん降ってきますけれども、種を潤して必ず発芽させる。それが結局は、種に沁みていって、種がもっているいっぱい隔世から受けている能力、性能を発揮するというのと同じで、精進はまさしく雨に喩えられて、そして前世から受けている自分が、親から受けているいろんな能力というものが、努力をすることによって芽生えてくる、ということを教えている。だから怠けてはいけない。つまり火を起こす時に、錐揉みするのと同じですね。
 
草柳:  次は、
 
乳によってヨーグルトがあり、ヨーグルトによってバターがあり、バターによってチーズがあり、チーズによって醍醐(だいご)があり、醍醐の中でも最上の味があるように、精進は無比の心である。
 
その次の、
 
勤めて精進すれば、事をなすうえで困難なものはない。たとえば、わずかな水でもつねに流れていれば、石でもうがつように。
 
これはわかりやすいのですが、その次の、
 
精進は琴の弦(いと)のようで、強くてもゆるくてもいい音は得られない。そのように精進ははげしくてもゆるくしてもいけない。
 
これは?
 
田上:  これが一番大事なところですね。途中は説明しようとすれば、これからの時間ではちょっと説明し尽くすには足りませんが、みなさんに知って頂きたいのは、繰り返し、怠けないでいくということは、大事なことですけれども、バイオリンとか、琴とか、ギターでもそうですけれども、弦(いと)というものは、強く張っても、ゆるく張っても、いい音はでない。あくまでもいい加減というのがありますが―塩加減、塩梅とか―そういうものと同じで、強くしてもいかん、ゆるくしてもいかん。そういうようにして、まさしく中道ということ、バランスのとれている張り方をしないと和音というものはでない、ということですね。生き方の中でも、修行も強くしてもいけない、ゆるくしてもいけない。そこが怠けないという言葉の意味ですね。
 
草柳:  一つ触れておくと、「醍醐(だいご)」というのは、これは乳製品の一番最上級ということですね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  そこで最後に精進の話になってきているわけですが、精進を積み重ねていくと、どういう人格ができていくわけですか。
 
田上:  それは人に尊敬される、敬われる、そういう人格者となるわけですね。それはもう人の道を歩いた人ですから、だからそれが身に付くと、ちょうど香りが自分についているのと同じように、その香りそのものになってしまう。つまりブッダの教えというものは、人のもっとも理想とする生き方でありますから、その教えに従っていけば、ブッダのように、つまり釈尊のような人間になられるわけです。そうすると、釈尊は、ブッダと崇められた人ですよ。つまりそれだけの風格とか、人格者でもあるわけです。ですから、我々はその教えというものを自分の身に付けるというのは、まさしく香水を身に付けると、香水の瓶は家に置いていても、その香水の匂いはずっと一日中でも二日でも自分の身体についてまわる。「薫習(くんじゅう)」という言葉がある。香りが習い性になるという。例えばお魚の入った箱というものは、お魚の匂いがつく。衣裳箱は衣装の中にいろいろ匂いを付けたものを置くと、その箱には香りのものがつく。つまりそのようにして、人間の体にもブッダの教えというものを守って身に付ければ、つまりそれは戒ですね、習慣になれば、自ずからにして香りが身に付くとの同じように、自分はそのものになる。つまりそれが戒そのものに自分がなるから、その時にまさしくブッダと呼ばれるような人格者になる。尊敬される人間になる、ということです。
 
草柳:  「薫習」という言葉もキーワードでしたね。
 
田上:  「怠けるな」はそこに尽きます。
 
草柳:  有り難うございました。
 
     これは、平成二十三年五月十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである