ブッダの最期のことばB無上の道とは
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「ブッダの最期のことば」の三回目です。前回二回目は「怠るな。怠ってはならない」という言葉を残して、ブッダは臨終を迎えた、ということについてお話を伺ってまいりましたが、今回はその「怠るな。怠ってはならない」ということ、その言葉の中にブッダは何を意味しようとしていたのか。さらに詳しくそのことについてお話を伺っていくことに致します。お話は駒澤大学名誉教授の田上太秀さんです。どうぞよろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  今日は最初に、ブッダがどういう最期を迎えたのか、というところからお聞きしていきたいんですが、古い涅槃経の中では、その辺の経緯というのはどんなふうに書かれているんでしょうか。
 
田上:  釈尊は、豚肉の料理を食べて亡くなられたとか、あるいはキノコ料理を食べて亡くなったとかと、よくいろいろ議論されますけれども、わが国ではどちらかというとキノコ料理を食べて亡くなったということで、最期は今日で言うならば、チフスみたいな病気で亡くなるわけです。衰弱した状態のところで、最期に臨終を迎えるわけですが、その時には二十五年付き添った弟子のアーナンダ(阿難(あなん))、それからもう一人アヌルッダ(阿那律(あなりつ))という二人の弟子がおります。その人たちは十大弟子の中の二人なんですが、この二人の弟子の人たちに見守られながら亡くなられたわけですけれども、その最期のところで、最後の弟子になったスパッダという修行者がいるわけです。この人は遍歴をしている行者なんですけれども、文献によると、百二十歳であったなんていう、そういう高齢の修行者だったと言われるんですが、この人が、世に有名なあのブッダとなられた方が亡くなると。最後に自分は聞きたいことがある。それを聞いてもらって、なんか生きる術を教えて貰いたい、ということでやって来る。その時にスバッダに対して、「人の道というのは、こういうものなんだよ」ということで説法される。それが、これまでお話してきました、いわゆる釈尊の最期の言葉というものがそこに説かれてきているわけですね。つまり最期の言葉というのは、スバッダという最後の弟子に対して説かれた言葉でもあるわけです。それをお読み頂いて、そこから話を進めてまいることにしましょう。
 
草柳:  その時にスバッダに向かって、ブッダはこういうふうなことを言っているわけです。
 
スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。
スバッダよ。私は出家してから五十年余となった。
正理(しょうり)と法の領域のみを歩んで来た。
これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。
(中村元訳『ブッダ最後の旅』)
 
田上:  この〈道の人〉という言葉がありますけれども、これは専門の言葉でいうと、「沙門(しゃもん)」という、仏教のお坊さんたちに対して、「僧」という言葉がありますが、「僧」というのは、これは実は仏教の共同体、お坊さんたちの集まりのことをいうものなんですが、本当は一人ひとりのお坊さんの表現は、「沙門」とこういうんです。「沙門」というのは、神とか、あるいはそう絶対なるものに頼って、その教えに従っていくんではなくて、自らを律して、厳しく自分を律して修行をする。そういう自力で修行する人のことをいうわけです。釈尊は、二十九歳で出家をした、と。そこでよく知られるように、三十五歳で菩提樹の下で悟りを開いた。それで四十五年間説法をした、と、こうなりますが、ここ二十九歳で、というところから四十五年間じゃなくて、三十五歳で悟って四十五年間。ここで「五十年余」と書いてありますから、それは悟りを開いてからではないところなんですが、それはいろいろ文献によってありますけれども、ここで大事なのは、これは第一回の時にお話をしたと思うんですけれども、「スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した」と。一般によく釈尊の出家の動機というのは、「生老病死」という、生まれること、病むこと、老いること、死ぬこと、この四つの苦しみを超越するというか、あるいはそれが無くなるために、あるいはそういうものから避ける、あるいは逃れるためにはどうすればいいか、と言って出家をしたというふうに言われますが、ここでは「善を求めて」という、「善いこと」ということですが、これも前にお話をしましたように、「善いこと」というのは、自分のためにも、他のためにも、またこれからこの世に誕生してくるもののためにもなるようなこと、それが善なること、という意味であります。そこでここに書いてありますが、「正理(しょうり)と法の領域を私は歩んで来た」と。この「正理」というのが何かというと、この世の中の道理のことを説明していることで、この世の中の道理というのは、このNHKのシリーズで、私は昔十年ぐらい前の時に「仏典のことば」でもお話しましたが、「衆縁和合(しゅえんわごう)」という、要するに仏教で「縁起(えんぎ)」というんですが、すべてのものは多くの原因と条件、そういうものの絡まりによって、ものは生まれ、そして無くなっていくという、そういう道理なんです。ですけども、これが正しい道理で、この道理というものを常に頭において、この道理に従って私は生きてきた、と。その次の「法」という、「法の領域のみを」と書いてありますが、「法」というのは、原語では、パーリー語で「ダンマ」、サンスクリットでは「ダルマ」とこういう。これを「法」と翻訳していますけれども、これは簡単に言いますと、「人が人として歩むべき道筋、あるいは道理」という意味です。「人が人として歩むべき道理、あるいは道筋」ということです。
 
草柳:  そしてそのことを具体的な実践としてやっていかなければ意味がないわけですが、それを「八正道(はっしょうどう)」という言葉で言った、ということですね。
 
田上:  そういうことです。今日の題名にありますように、「この上も無い道」と、こういった時の、「これ以外にはもう道なるものはないんだよ」ということが、「この上も無い道」という意味でございまして。
 
草柳:  そのことを、今臨終の場で最後のお弟子さんだと言われるスバッダに説いたわけですよね。これはブッダが一番最初の説法の時にも、結局同じようなことを言ったわけですね。
 
田上:  そうです。先ほど申しました三十五歳で菩提樹の下で悟りを開いた。つまり世の中の道理は、衆縁和合のダルマである、ということをわかって、それをかつて一緒に修行した五人の修行仲間に説法された時に、この「八正道」というのは説かれたんですね。その最初に説いたものがズーッと四十五年間の説法の中にも続けておられて、基本でありまして、最後の臨終に当たってのスバッダの、最後の弟子に説かれたものも八正道なんです。そういうことで、今日は最初から最後まで釈尊の説法のバックボーン(背骨)になるもの、それが今日の内容でございます。
 
草柳:  八正道に始まって八正道で締め括ったということになるでしょうか。
 
田上:  おっしゃる通りです。ですから仏教は、この八正道を抜きにしては、いわゆる生き方の指針というものはないわけです。だから人々は、この八正道がいわゆる法の道であり、法の領域であり、それをきちっと行うことが、心の安らぎ、あるいは専門の言葉でいうならば、涅槃に辿る、ということです。あるいはブッダのなられる道である、ということになります。
 
草柳:  そして、何故そうでなければならないのか、ということについて、追い追い伺っていきますが、まずこれをお読みして話を進めていきたいと思うんですが、これは最初の言葉にあるように、修行者に向かって言っているわけですね。
 
修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。その二つとは何であるか?一つはもろもろの欲望において欲楽に耽(ふけ)ることであって、下劣・野卑(やひ)で凡愚(ぼんぐ)の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものである。
他の一つは自ら苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道(ちゅうどう)をさとったのである。
 
修行僧らよ、真理の体現者のさとった中道とは何であるか? それはじつに〈聖なる八支よりなる道〉(八正道)である。すなわち、正しい見解、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。
これがじつに、真理の体現者のさとった中道であり、眼(まなこ)を生じ、認識を生じ、平安・超人知・正しいさとり・やすらぎ(ニルヴァーナ)に向かうものである。
 
またちょっと前に戻りますけれども、最初のところで「中道」という言葉が出てまいりましたですね。要するに極端はダメである、と。
 
田上:  偏った生き方というのは、自らを滅ぼす本になるということで、ここで「二つの極端」というのは、欲望に振り回されて欲望の赴(おもむ)くままに自らを処していくならば、あるいは溺れるならば、それは非常に下劣である、という意味で、それの生き方をすれば、簡単に言えば、日常生活は破滅してしまう、と。逆に今度は、自分を苦しめる。身体を苛(さいな)んで、いわゆる苦行というものに近いような生き方をすれば、それは社会生活もできないし、修行もいつまでも続くわけではない。身体も所詮それは造られたものですから、いつかは衰えていきますから、苦しめていっては本来の目的が達成されませんよ、と。だから欲望に振り回されない。そして逆に今度は自分の身体を痛め付けるようなことをしない。とにかく偏らない。そういう生き方をする。それが中道ということで説かれたわけです。つまりバランスのとれた生き方という。
 
草柳:  この部分は、とにかく極端は避けなければいけない。しかしここで取り上げた極端の内容というのは、これはブッダ自身が経験をしたというか、つまり体験をしたことなんでしょうか。
 
田上:  そうですね。釈尊の生涯の中で、いろいろなことが書かれてありますけれども、出家をする前に、釈尊は非常に豪奢な生活をされた。それこそ泥にまみれるとか、あるいは土をいじったとか、そういうことさえない。それほど綺麗事の、いわゆる世界に住んでいた方で、同時に食べること、飲むこと、あるいは遊びにおいても、それこそ極みをつくした人であります。ですけども、釈尊はそういう幼少から青年にかけて生活をされたんですけれども、そういう歓楽の生活に極めていったことで何かを得たか、と言ったら虚しさしかなかった、と。そういうことで、それを捨てて、何か自分というものを見付けたい、というので出家をされたわけですね。それで「善なるものを求めて」というのは、そういうところにあったのかも知れません。と言って今度は、じゃ、修行生活に入ってみようと思って入ったら、苦行をやってみたり、坐禅のヨーガのそういう世界に入ってみたりしていかれたんですが、特に苦行の生活をされた。
 
草柳:  凄まじい苦行だったみたいですね。
 
田上:  六年間の、ラホール博物館に苦行像がございますけれども、そういう苦行をして、いったいそれが自分の何になったか、と言ったら、自分が死線を彷徨うような、まさに死を直前にするような、そういう自分の身体が衰弱してしまった。そういうことではこれは目的は達せられないというので、これもおかしいと言って、その二つは自分の出家前の生活と出家後の修行の生活、そういう二つを表しているもので、そこから中道という生き方をそこで悟られたのが、言うなれば菩提樹の下でのことであったと言われるわけですね。
 
草柳:  しからば、「中道とはいったい何であるのか」ということは、今お読みした後半の方なんですけれども、
 
田上:  ここで、「八つの道」と。「八支(はっし)なる道」というのが、「八正道」ですけども、この一つひとつは、前回のところでもちょっと出てまいりましたが、後でちょっと詳しく説明をさせて頂きますが、この「八正道」が、言うなれば、いわゆる中道を表す。じゃ、具体的にバランスのとれた生き方というのは一体なんですか、という、その言葉の意味はわかりますが、具体的に何か、と言った時に、釈尊はこの八つを挙げられたんですね。で、これがわかったならば、まさしくその人は世の中を見る目が生じる―眼(まなこ)ですね。それから世の中だけでなく、自分というものがよく見えるようになる。世の中をよく認識・判断することができる。心の安らぎとか、普通の人間の、いわゆる凡人のもっている知識以上のものが得られる、と。そして「正しい悟り」というのは、正しい理解ができる。そして心の安らぎ、つまり究極の煩悩の起こらない、「ニルヴァーナ」というのは、煩悩がこの身体から生じなくなった。まさしく綺麗な状態になったことを言うんですが、それを「安らぎ」ということで、その安らぎに向かうことができる。つまり「八つの道を歩むならば、このような心安らぐ気持に至るよ」ということで説かれている。これが中道の具体的な意味です。
 
草柳:  後でまたもう少しさらに詳しくお伺いしますけれども、例えばこれだけ見ても、「正しい」という言葉がもっている意味というのは何なんだろうか、というふうに思いますよね。
 
田上:  「善と悪」とか、「正しい」と言った時は、反対は「邪(よこしま)」。仏教の文献なんかで出てくるのは、「正と邪」。「邪」というのは、「邪道」とか、「邪見」とかの、あの「邪」です。で、まずその「善、悪」というのは、先ほども申しましたように、仏教では、「善」というのは、「利」という、こういうふうに漢字で翻訳されますが、「正しい利益」、つまり自分のためにも、他のためにもなるようなものが、これが善。つまり人のためになるもの、あるいは自分のためにもなる、それが善。それでためにならないものが、悪と考えられている、基本的にですよ。そこからいろんな意味づけがされていくわけですが、正しいとか、邪というのは、「邪」と言った時は、ものを逆さまに見ている、という意味なんです。ですから逆さまに見るというのはどういうことか、というと、物事は、いわゆるここでいう「中道」の「中」に当たるわけですね。世の中のものを見ていく時に、必ず極端な見方をしない。必ずバランスのとれた、そういう公正・中正という言葉で表現されるわけです、今日の言葉で。自分の生き方にも、言葉にも、決して極端な、そういう言葉を使ったり、あるいはいろんな表現をそういうふうにしない。つまり常に中世・公正な、そういうものの考え方、言葉の使い方、生き方をする。それがいわゆる「正」です。逆が今度それと反対になるわけですから。
 
草柳:  「中道」の「中」はそういうことなのかということはわかるんですが、「道(どう)」は?
 
田上:  「道」というのは、歩みです。普通の道じゃなくて、自分の足で歩んで行くという。だから実践なんですね。だから「中道」というのは、「マドゥヤ プラティパド」とこう申しますが、「プラティパド」というそのものは、歩みなんですね。自分の実践を意味するんです。だからバランスのとれた歩み。別な言い方をすれば、我々赤ん坊の時には四つん這いでないと歩けなかった。そのうちに二本足で歩くということは、バランスがとれるようになることを言っているんです。だから歩く時に、赤ん坊の時はまだ伝え歩きしますけれども、自分でバランスがとれるようになると、二本足で歩くようになる。それと同じことです。つまりバランスのとれた歩み、歩きということです。これをいわゆる実践ということで表現することができます。
 
草柳:  今言葉だけというか、八つの項目を見ておりますと、言っていることは、例えば行いを正しくとか、あるいは生活を正しくというのは、非常に誰でもできそうな感じがするんですけれども、勿論目ざすということは誰でもできると思うんですけれどもね。ただそれとこの八つの実践というか、道というのは、実はブッダが初めてそれを言ったのではない、初めて発見したのではない、ということなんだそうですね。それはどういうことなんですか。
 
田上:  それは前回もお話したと思いますけれども、「八正道」の「道」というのは、原語で、サンスクリットで「マールガ」という、パーリー語では「マッガ」ですけれども、獣道。八正道は獣道とこう言った方がよろしいかも知れません。つまりこの「マールガ」の語源を辿っていくと、動物が歩いていくと匂い付けして、自分がここに来たよ、自分の領域だよ、と言って、木々に自分の匂いを付けていって、そして後を付けて行くものがまたそこに匂い付けして、いつの間にか道ができるという獣道。ですから、八正道というのは、釈尊自身が発案したような、そういう項目ではなくて、これはそれまでの多くの仏たち、この間出てまいりました「七仏通戒偈」の時に、あの自分の過去の仏たちが、ずっと歩いて来た道である、と。そういうものがこうなんだ、というので、それを説明したところもあるんです。それが今日またご紹介頂くと思うんですけれども、仏典の中に八正道というものが、どういうものか。どういうふうにして、それが説かれたものか、ということを、譬えを使って、釈尊が説明しているところがありますので、それを見ていきましょうか。
 
草柳:  次の経典をまたお読みしたいと思うんですが、
 
修行者たちよ、たとえばある人が人なき森林の中をさまよっているうちに、ふと、古人のたどったらしい古い道を発見したとしよう。
その人はその道跡をたどって進んでいるうちに、古人が住んだらしい古城や公園や、岸も美しいハス池がある古い都を発見したとしよう。
修行者たちよ、そのとき、その人は後に王や大臣たちにこのことを報告して言うであろう。
 
修行者たちよ、そこで、王または大臣たちがそこに都をつくったところ、やがてその都は栄え、多くの人々が集まり、繁栄したという。
修行者たちよ、これと同じように、私は過去のブッダたちがたどられた古い道を発見したのである。
(『相応部経典』「城邑」)
 
と、最後にはっきり言っていますね。
 
田上:  まさしく八正道というのは、自分がつくった項目、あるいは道ではないんだ、と。それまで歩んできた人たちの、というのは、荒野を歩いているうちに、とにかくああでもない、こうでもないと歩いていた時に、その森の中に入って、そこに道があった、と。その道を辿っているうちに、森を抜けたところに視野が開けて、そこにかつて都があったと思われるところがあって、池もあって綺麗なところであった、とこう書いてありますが、それがいわゆる自分が修行をしてやってきたんだけれども、そこで、ああ、こういうことがブッダたちによって、あるいは多くの仏たちによって説かれていたものが、これだったのか、と。だから私は、それを多くの人たちにこれから伝える、と。その時には、ここに書いてあるように、王や大臣たちを頭にして、その人たちの多くの人民にまで伝えた、というのは、差別なく多くの人たちにそれを私はここで伝えようとしているのが八正道だ、と。だから八正道は、「修行者たちよ」と、こう書いてありますけれども、何も修行者たちに限らないで、一般の人たちに対しても、それはどんな身分の人たちに対してでも、これは人の道として伝えるものである、と。これをみんなわかってくれて、じゃ、それを実践すれば、というのが、「王または大臣たちがそこに都をつくったところ」というのが、そういうことで、それを実際に行って、そこでみんなが集(つど)うて生活をしていくと、その都は栄える、ということが、ここの意味であります。だからこれは、私は過去の仏たちが辿られた古い道を発見した。つまり古人の足跡、それを私はここに示したのが、八正道なんだ、と。仏典に、「古人の行履(あんり)」という言葉がありますが、
 
草柳:  ただ、この実践、八正道の道というのは、おっしゃるように、ブッダ自らが見つけ出した、発見したのではない。何でわざわざ敢えてそれをいう意味というのは特にあるんですか。つまりこれは古人が辿ってきた道なんだ、ということを敢えて言っているわけでしょう。敢えていうというのは、どういう意味なんですか。
 
田上:  それは万人が、これはある宗教ということ、つまりブッダというのは、世の中の道理に目覚めた人、と云われて、その目覚めた人は多くの人たちに尊敬される人たちですから、だからそれはいろんな宗教という枠決めというか、そんなものはないわけですね。ですから釈尊が説いているものは、仏教というのは説かなかったんですよ。仏教という、そういう一つの宗教的な教えというものは説いていない。人の道を説いた、というだけなんです。だから私が歩んでいるのは、その人の道を歩いているだけなんだよ、ということを言っているだけですから。だから敢えてそれを言おうとするのは、宗教的なそういう枠を外してしまう。キリスト教であろうと、イスラム教であろうと、あるいはバラモン教であろうと、それは教という、教えという一つの枠組みを作ると、そこの中で閉じ籠もって、他のものを排他的にみるようになる。そうじゃない。八正道は、どの宗教の人たちでも、例えばイエスでもこれは守っているじゃないか、別な言い方をすれば。マホメットでさえもこれを行っている。八正道というものは、人類共通、古今東西を問わず、多くの人たちが、必ず歩まなければならない。歩んで当然のもの、そして人としてブッダになられる、そういう道なんだよ、ということを説いているわけですから、敢えてそれは堂々と、仏教という宗教を説いたわけじゃない、ということを言いたいところです。
 
草柳:  その辺のところに、この教えの普遍性というのがある、ということなんでしょうか。
 
田上:  だから八正道というのは、何も仏教の教えというふうにして、何か錦の御旗みたいにして持っていくことではない。これはすべての人たちに対して、どんな時代でも、これを否定することはない。これは必ず人として、人の生き方として、これは道筋であり、道理である。最初に法と、法の領域は私は歩んで来たというのは、この八正道のそういう道筋、道理を、私は実践してきたんだよ、ということを言おうとしているところですね。
 
草柳:  その実践がなければ、結局さっきおっしゃるように、ニルヴァーナというか、その涅槃には至らないわけですね。
 
田上:  そうです。まさしくブッダになるという言葉もそうですが、ニルヴァーナにいくというのは、この八正道を抜きにしてはない。
 
草柳:  それをさらに端的に言っている「ダンマパダ(法句経)」というお経から、その一部をまた読んでみたいと思うんですが、こういう言い方なんですね。
 
もろもろの道のうちでは〈八つの部分よりなる正しい道〉が最もすぐれている。これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。
 
どういうことを言っていますか、ここは。
 
田上:  八正道を抜きにしては、この世の中の人の道はない、ということ。これがここでご紹介頂いた「ダンマパダ」というのは、仏典の中、仏教のお経の中で、もっとも古いお経。法句経は釈尊が説法されたものを纏めたものですね。つまり法句経の中には、いろんなところで説法されたものを、こういうふうに暗記し易いように、歌の形で、詩の形で纏めてあるわけですね。それの中には、釈尊がそういう話の中で使われたと思われる言葉さえもそこにいくつか入っているというほど、これは古い経典なんです。そういう経典ですから、仏教のもっとも基本となる、もっとも源流である。つまり別の言い方をすると、釈尊の間近にある経典だ、と。あるいは釈尊の声がそこの中に、言葉がそこの中に盛り込まれている。そういう経典ですから、そこに八正道を他にして最高の道のない。これはあらゆる苦しみを無くす道である、と。無上の道だ、というんですね。仏教では、比較にならない最高のもの、とこう言ったりする場合もありますけれども、無上というのは上が無いでしょう。その下にもっと上というのを付けまして、「無上上の道」という言い方もあるんです。つまり上にないものの上にある道という言い方。そういう言い方もあるんです。あるいは「無等々」というのは、等しくないと言って、無等にもう一つ等しい。だから等しくないものに等しい、というんですから、比べようもないものに、最高のものの上にあるものにまたあるという。そういうものとして八正道を説いておられるわけです。ですから仏教では、本当はいろんな修行の方法が説かれていますけれども、後の時代には。ですけれども、八正道は本当はこれはもう最初から最後まで釈尊の説法された内容ですから、すべて仏教がこの八正道を説かなければいけない。ところが各宗派で八正道を表に出して説いている宗派は、私は見当たらない。
 
草柳:  そうですか。これは凄く格調が高い文章のような気がするんですが。この中に出てきている言葉で「悪魔」だとか、それから「矢」というのは、これは何を言っているわけですか。
 
田上:  「悪魔」というのは、自分の中にある生まれた時から、人間にある悪性みたいなようなものをいうのかどうか知れませんけれども、「マーラ」というのは邪魔者なんですね。邪魔するものなんです。ですからその邪魔者が、人間がいくら修行していても、なんかやっていても、その心の中からそうやって起こってくるという、そういうものを悪魔と表現しているんです。ですからそういうものに一生懸命努力してやっている時に、どこかで怠けの、あるいはずぼらなやり方をすると、そこからいろんな理屈を付けて内面からそういう邪魔するものが出てくるんですね、それが悪魔。「矢」は外からくるものですね。つまり外界のいろんな人間の感覚を誘惑する、そういう外からのものがありますが、それがこう人間に刺さって、それで人間は痛み苦しみという、そういう外の感覚器官の対象を、例えば眼ならば色・形、耳ならば声、鼻ならば匂い・香り、そういうものがいわゆる人間を刺激して、邪魔していって、痛め付けるというので、矢という譬えに使っているものです。
 
草柳:  そして、「(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い」というふうに、ここも言い切っているんですね。
 
田上:  はい。まさしく世の中の道理、いわゆる衆縁和合という道理をちゃんと見極める、あるいはそういうものだとわかるためには、ただ単に自分の頭の、理論的にじゃなくて、自分の生き方の中で、バランスのとれた生き方をして、常にいわゆる中正公平な、そういう生き方、考え方をしていないと、それは正しく見ることはできない。つまりサングラスを掛けて見るようなものになって、色眼鏡で見るということになります。ですから全部あからさまに見るという時には、常にバランスのとれた自分を保っていないと見れないですね。だから人の意見でも何でも、先入観であの人は自分の考え方に合わないとか、というようにして排斥する場合もありますけれども、それは言うなればバランスがとれていないんですね。自分がバランスがとれていたら、みんな一応何でも聞いて受け取って、そしてその上でどうなんだろうか、というふうに考えていく。
 
草柳:  さてこの後は、八正道の具体的な、さらに中身をもうちょっと詳しくお聞きしていきたいと思うんですが、その前に前回と同じように、ここで釈尊が生まれた誕生の地と言われているルンビニの映像がありますので、それをちょっと今日もご覧頂きたいと思うんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ブッダ生誕の地と言われるルンビニの映像をご覧頂いたんですけれども、この釈尊がこれまでお話があったように、二十九歳で出家をして、そして難行苦行を続けて、しかし両極端ではダメなのだということで、中道ということを見つけ出した。中道という、その教えを、それは具体的な形では八正道―八つの正しい道を実践する、ということが大事なのだ、というところまで前半でお話を伺いました。で、後半はその八正道、つまり「怠るな」ということが、これまでずっとテーマになってきたわけですが、怠らず、八正道を精進して実践をしていくというのは、一体どういうことなのか。中身は何なのか、ということについて、さらに詳しくお話を伺っていくことに致しますが、で、そのきっかけとして、先ずそのこの経典から読んでいきたいと思うんですが、田上先生はルンビニには何回か行かれましたか。
 
田上:  行きました。
 
草柳:  何か穏やかな良い所のような感じですね。
 
田上:  はい。
 
草柳:  もうほとんどインド国境に近いところでしょうか。
 
田上:  ネパールで、インドの国境に近いところにあります。非常に穏やかなところで、そこで面白いのは涅槃堂のところにあるサラ樹の木がありまして、大きな大木が―沙羅双樹の沙羅ですが―あれは亡くなられたところのクシナガラのところにはやはりラサ樹です。だから生まれたところにもサラ樹があって、亡くなった時もサラ樹となりますが、まあいろいろ多くの場合には、仏典の場合には生まれたところにアショカ樹という木なんですよ。
 
草柳:  その八正道については、至るところで、いろいろなところで教えを説いているわけですね。そのうちの一つなんですが、こんなふうに言っている経典をご紹介致しましょう。
 
修行者たちよ、たとえば秋、空が晴れ、雲がないとき、太陽は青空に昇り、一切の暗闇をのぞき、輝き、照り、そしてきらめきわたる。
修行者たちよ、それと同じように、もろもろの善いことは、すべて不放逸を根本となし、等しく不放逸に流れ注ぐ。されば不放逸はもろもろの善いことの中でも、その最上であると説くのである。
修行者たちよ、だから不放逸の修行者はやがて聖なる八支の道を習い修め、さらにいくたびとなくかさねて聖なる八支の道を修めることを期して待つことができるのである。
(『相応部経典』第四十五経)
 
ここで「不放逸(ふほういつ)」という言葉が出てきますけれども、これは?
 
田上:  「不放逸」の「放逸」というのは、わがまま、自分勝手に物事をやる、という意味がありますが、不放逸という、こういう熟語になっているのは、今日ここでシリーズで言います遺言である「怠けるな」というのが、この不放逸です。ですから不放逸というものが、すべてのもろもろの善いことの基本になっている。根本になっている、ということで説かれているわけで、あらゆるものは不放逸―怠けるな、というその一点にあるんだよ、ということをここでは説かれているんですね。この不放逸を行うものは、つまり怠けないで生きていく。そういう人たちは必ずこの八正道というものを抜きにしては生きていないんだよ、と。必ずそこに繋がっていく、ということがここで説明されているところですね。だから八正道というのは、まさしく怠けないという、そういう人たちにとっては、これはもう表裏一体というか、一つになっているもので、八正道は怠けない、ということをきちっと行えば、必ず達成されたら安らぎの世界に入るということになるわけですね。
 
草柳:  さてそこで八正道なんですが、一つずつちょっと説明を頂くと、これは大変な時間になってしまいますので、ちょっと簡単にご説明頂くと、まず最初はなんでしょうか。
 
田上:  一つ目は、「正見(しょうけん)」という。正しいものの見方、見解ですね。これは世の中の道理というものはこういうものだ。つまり先ほどから何回も出ていますように、世の中は衆縁和合している。すべてのものは原因と条件の絡まりによって、さまざまなものがよって、そして依存しあって、そして繋がって、物事は生じては滅しているという、その道理をちゃんと見るということですね。これが「正見」。つまり世の中は四苦八苦という苦しみに満ち溢れています。その原因はなんだ、と言ったら、人間の自己中心的な無明ですね。わかっちゃいるけどなかなか、というのは、自分勝手なものの見方をして、太陽は自分を中心にして巡っているとかという考え方をする。なんとかなるさ、という我が儘な考え方をする。そういうような考え方をしている人間には、どうしても貪りとか、怒りとか、驕りとかという基本的な人間の煩悩がある。そういう煩悩が起こっているその本を断ち切らなければいけない、ということが、ここで「正見」に説かれているわけです。
 
二つ目は、「正思(しょうし)」。正思というのは、正しい思いですけれども、これは生き物を殺さないとか、盗みをしないとか、自分の驕り高ぶりというものがあるんだということを、常に観察していなければいけない。そして自分の行動ですね、あるいはものを言っているとか、こういう私も発言している時に、自分の言葉というものが一体正しい表現をしているのか、これでいいのか、ということをいつでも意識しながら、自分の行動というものに目を向けて観察していく。それがここでいう正しい思いであります。
 
三つ目は、「正語(しょうご)」。正しい言葉使いですね。正しい言葉を使う。これは嘘を言わないとか、あるいは二枚舌を使わないとか、あるいはお世辞を言わない。おべんちゃらを使わない。おべんちゃらを使うということは、自分の本心を伝えていないで、相手をこう担ぎ出して浮き浮きさせるような言葉を言うんですね。そういうことをしないということですね。これが正しい言葉。例えば相手を傷付けるような言葉は使わないようにする。相手の心が安らぐような言葉使いをするとかというのも、ここの中に入ります。
 
草柳:  非常に平たく言えば、自分が言われたくない言葉は相手に言うな、ということですね。これは全部通じているわけですね。
 
田上:  そうです。これは家庭生活、日常生活で、我々の当然常識として対人関係での言葉使いですね。
 
四つ目は、「正業(しょうごう)」。正しい行い。これはいわゆるいうならば盗みをしないとか、生き物を殺さないとか、あるいは不倫をしない。他人の夫や妻とか、そういう人たちと邪な関係をもたないということ。生き物を本当は殺さないというのは、生き物を傷付けないという意味なんですが、この場合に釈尊が説かれている最初の時の生き物というのは、感情を持っている生き物ですね。ですから限られてくるんです。特にこの場合人間という。人間を傷付けてはいけない。勿論他の動物たちも感情を持っている動物―馬とか牛とか猫とか犬とかいますが、そういうものたちを無闇に傷付けたり殺したりしてはいけないという意味です。草木にまでというような解釈をするのは、後に出てくることでありまして、最初の段階では非常に限られていて、心のある、いわゆる感情を持っている、心情を持っている、そういうものはに限定される。
 
五つ目は、「正命(しょうみょう)」。正しい生活。これは規則正しい生活でありますから、まあそれ以上のことはございません。規則正しい生活をすること。
 
六つ目は、「正精進(しょうしょうじん)」。努力ですね。しなければいけないことを大いにすることですね。今急いでいたら、自分がそれをやる。善いことをしようとしたら、それを実践しなさい。悪いことをしていたらやめなさい。悪いことをしようと思っていたら、それは思い止まってやめなさい、という。そういうことがここで努力です。ですから努力と言いましても、他のいろんなものも努力ですけれども、ここでは具体的にいうと、善いことは大いに進めなさい。実際に行いなさい。つまり今のコマーシャルによくありますように、思いやりというのは形に現されなくなるというので、思っているだけで、人にわからんけれども、形に現すと、それがわかる、というのと同じで、善いことを考えたら、それを実践しなさい、と。
 
草柳:  しかもそれは今だけではなくて、これから先のことについても、これはしてはいけない。だからしないようにしようよ、という。
 
田上:  おっしゃる通りです。そういう気持がもし持てたとすれば、そういう起こらないようにしなさい。善いことをしようと思ったら、それを実際に形に現しなさい。そのことです。
 
七つ目は、「正念(しょうねん)」。正しい念(おも)いというのは、いうならばこれは自分の身体のこと。心の働きとか、あるいは自分の肉体の、いろんな病気とか、いろんなものに対する知識とか、それから自分を取り巻く環境のいろんな動き、そういうものに対する知識とか、そういうものについての正しい知識、あるいはどういうふうにそれに対処するかという、自分の生き方。そういうものをちゃんと記憶しておくということ、ここでも中心になるわけです。ですから教えられたらちゃんと記憶する。忘れないようにして行動する。生きる、というそういうことですね。
 
八つ目は、「正定(しょうじょう)」ですね。瞑想とありますが、瞑想と申しましても、心を平静に保つことですね。常に心というものは蠢(うごめ)いて―仏教では人間の身体は不浄である。感覚する働き、これは思うようにならない。心は変化しっぱなしだという、そういう表現のものがあるんですよ。心というのは、いっときもジッとしていない。だから釈尊は、自分の心を信じてはいけないよ、とまで言ったんですね。自分の心を本当に信じてはいけない、というのは、何故かというと、自分でコントロールできていない心は、たとい自分の心であっても信じてはならない。「私は自分の心を信じます」と、よくいう人がいますけれども、これほどあやふやなものはないものを信じていることになるわけです。つまり釈尊の説明では心というのは、コントロールしなければいけない。制御しなければいけない。ですからいつでも自分の心の起伏、それをないようにする。それがここでいう「正定」です。
 
草柳:  今お聞きしていますと、ある部分はまさに生活上の倫理みたいな感じがしないでもないですけれども、仏教では今八正道というのを要約しているんだということのようなんですが、三つに要約すると「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」というんだそうですね。
 
田上:  「戒」というのは、戒めでもあると同時に、何回も申しますように、習慣であります。「定」というのは、心を平静に保つこと。「慧」というのは、智慧の慧です。物事を体験を通して世の中を見る、そういう心の働きをいうんです。ですから人間の行動というのは、大体この三つのパターンで考えられて、常に自分を正しい教えとか、あるいは規則というものを習慣付ける。習慣付けるのはいいんですけれども、ただ心が乱れてはいけないから、心もちゃんとコントロールする。この二つの戒と定というものが、習慣とそういう心を制御した状態で世の中を見ていくと、必ず世の中は正しく、つまりバランスのとれた見方ができるというので、「戒・定・慧」という。だから仏教の場合には、あらゆる行動というものを「戒・定・慧」で考えていくんですね。「智慧」というのは、「知識」と違いますから。「知識」は、知っているよ、というんですが、「智慧」というのは、「お前はそれを食べたことがあるか」と言ったら、「いや、食べていないけど、知っている」というのと同じで、食べて、それをちゃんと判断できて、観察することのできるのが、智慧なんです。
 
草柳:  まさにそうすると、「戒・定・慧」というのは、仏教の基本中の基本というか、そういうことですね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  最後にもう一つこの経典をご紹介したいと思うんですが、
 
修行者たちよ、たとえば、ガンジス川は東に向かい、東に傾き、東に注ぐ。
修行者たちよ、そのように、修行者たるものもまた、聖なる八支の道を習い修め、八つの聖なる道の修行をかさねれば、涅槃に向かい、涅槃に傾き、涅槃に注ぎ入るであろう。
(『相応部経典』第四十五経)
 
田上:  まさしく八正道というものが、すべての基本でありますけれども、この八正道を実践するということが、あらゆる人たちの理想に向かう。涅槃に向かう道であるということ。だから難しいよ、と言いながらも、少しずつそれを実践すれば、例えば東の方に傾いている木を倒せば、必ず東に倒れる、というのと同じで、自分の心の中にそちらの方に少しでも向いているならば、自分が最後にはどんな場合でもそちらに傾いていくよ、と。それを教えているところですね。
 
草柳:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成二十三年六月十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである