ブッダの最期のことばC無常の中に不滅なものがある
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「ブッダの最期のことば」の四回目です。ブッダは亡くなる時に、「この世の中のことは、すべてのことは移ろいゆくものである。従って怠りなく努めなさい。」この言葉が最期の言葉として伝えられているわけですが、ただ単に「諸行無常」無常であるということを説いただけではなくて、無常だからこそ努め励みなさい。つまり無常ということは、ただそれだけではなくて、怠らず努める。つまり人間の努力といったことをブッダはしきりに強調されていた、ということのようなんですね。ただ無常ということだけならば、生きる道というのはなかなかわからないわけですけれども、無常なればこそ人間の努力といったものを強調された。今日はその辺のところに焦点を当てて、いつものように駒澤大学名誉教授の田上太秀さんにいろいろとお話を伺ってまいります。よろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  今日はもっとも有名な言葉だと思うんですが、「諸行無常」についてのお話をじっくり伺っていきたいんですが、今日のテーマが、「無常の中に不滅なものがある」ということですね。その「無常」と「不滅」というのが、どうもどうやって繋がっているのか、というのが、これだけ見るとなかなかちょっとわかりにくいですね。今日はそれを解きほぐして頂くんですが、まず「無常」というのをどういうふうに捉えているんでしょうか。
 
田上:  「無常」という考え方は、仏教でよく使われる「諸行無常」という、この考え方は、原典の意味からいうと、「すべての形作られたもの、形あるものというのは、千変万化して一つとして同じ状態を保っているものはない。変化しっぱなしである」という、そういう意味であります。ですから形あるものは、みんな毎日毎日、あるいは短期間で変化するものもあるし、長い時間を掛けて変化していくものもあるという、そういうものもみんな含まれているわけですが、「無常」という言葉との意味の中に、あるいは無常であるというこの現実の世界の中に、永遠不滅のものがある、というテーマですけれど、そういう「不滅なもの」というふうに考えますと、なんか塊(かたまり)があるかの如くに、なんかそういう形あるものが、その無常のこういう変化しっぱなしの中にあるといわれると、仏教では「諸行無常」と説いていながら、そんなものがあるのか、という疑問を誰でもテーマを見てお考えになる。これはもういうまでもないことですが、その無常の中に不滅なものがあるという、その「不滅」という意味が、いろいろと違うということを理解しておかなければいけないんです。ですから「無常」といった場合に、実を言いますと、この「諸行無常である」という、この考え方は、釈尊以前からあるものなんです。つまりバラモンの、そういう宗教の中においても、
 
草柳:  つまり仏教が興る前のインドの宗教ですか?
 
田上:  そうです。その宗教の中にも、諸行無常というのが説かれていたもので、何も仏教だけが説いたものではないんです。ですから無常というものの考え方が、仏教の無常の考え方と、仏教以前の宗教―まあ代表的にバラモンのそういう考え方というものの違いをまず知っておかなければいけないんですね。その場合に、仏教以前の無常の考え方というのは、その永遠不滅というか、絶対から創造主―この世の中を創ったそういう主なるものがいて、あるいは神がいて、それがこの世の中を創って、その創ったものの一つひとつに自分の分身である「アートマン」という、そういうものを植え込むというのはおかしいですけども、そういうものを一つひとつの個体の中にそれを内在させたんですね。そういう「アートマンというのが一体何か」というと、それは語源を辿っていきますと、「息する」こと。
 
草柳:  呼吸ですか?
 
田上:  呼吸です。「息する」という動詞からつくられた名詞で、「息しているもの」という、そういう意味がアートマンの意味です。ですから「息しているもの」と言ったら、「この世の中に存在するものはみんな息しているもの」なんですね。あるいは「息づいているもの」、そういうことです。
 
草柳:  つまり諸行無常の意味するところというのは、釈尊・ブッダが説く前に既にインド宗教の中にもそういう捉え方、考え方があった、ということなんですね。それともう一つ、無常という言葉の意味をできるだけはっきりさせておきたいんですが、我々日本人が無常という言葉を聞いた時に、今おっしゃる仏教の説いている無常とは少し何かずれがあるような気がしてならないんですけども、どうなんでしょうか。
 
田上:  そうですね。もともと仏教の「無常観」という、つまり釈尊が説いた「無常」というのは、「ものはただ変化しているんだよ」という意味です。つまり「どんな形にしろ、形あるものは変化しているんです」という、ただそれだけの意味なんです。日本ではその変化しているという意味が、例えばマイナスの面、つまり別の言い方をすると、悲しいこと、あるいは哀れなこと、そういうような人生の悲哀を感じさせる方の意味に、無常というものを説いているわけです。特に『平家物語』を初めとする日本の文学書の多くには、そういう悲しい面、哀れな面、そういう面を強調して無常観を説いている。ところがそれは悲しいことばかりが無常ではないんです、本当は。喜びも無常だから喜びがあり、楽しみがあるわけです。つまり「繁栄」と「衰退」というのも、無常だからあるわけです。ですから日本での多くの無常観は、マイナスの面からだけを強調しますけど、釈尊がいう「無常観」というのは、そんな偏ったものではなくて、「すべて変化しているもの。善きにつけ悪きにつけ、明るいことも、暗いことも、全部これは変化しているものの中の現象である」という考え方です。ですから、それが諸行無常ですけれども、何故諸行無常か、というところに問題があるわけですね。ですから今日はそのことでお話をするんですけれども。
 
草柳:  まず最初に古い経典の中で、どういう言われ方をしているのか、ということですね。これをまず読んでみたいと思うんですが、『相応部経典』の中からですが、
 
この身に関して智慧豊かな人は説かれた。
三つのものを離れたら、
(しき)、形は捨てられたのだと観察せよ。
その三つとは、寿命と体温と識別作用である。
もしもこの三つがこの身体を離れたら、
身体は捨てられて横たわり、
精神のないものとして、他のものの餌食となる。
(「相応部経典」第二十二経)
 
田上:  これは無常観の中の一つで、世の中の変化する人間の身体以外のもの、あるいは生き物の身体以外のものも無常ですけども、自分たちに引き寄せて、この身体についてはどうだろう、と言った時に、ここに人間の身体でさえも、これは無常のもので、変化しているものだ、と。それを一番身近なものとして説いたものがこれで、この三つのものを離れたら、色、形あるものはすべて捨てられたものだと観察しなさい、と。つまり生きているうちのその色の色と、なくなった場合の色の違い、形もすべてこれも変化して、別の言い方をすれば腐って、だんだん最後は骨になる、という、そういうものなんですが、結局はこの身体というものも、永遠不滅なものではなくて、諸行無常だ。形あるものは、すべてこれ変化するというその意味ですが、それを具体的に、「寿命と体温と識別作用」というものが、これがなくなっていくと、これを「死」と考えるわけです。寿命がなくなって、寿命がきて、もっというと、「命根(みょうこん)」命の根っ子というものが途絶えると、寿命がきて、そこで体温が引いていって、最後には人間の奥の奥の意識までが、これがなくなってくる。そういう働きがなくなってしまった時に、この三つがなくなると、今度はこれは人間は死んだものとなる。この身体はもう精神のないものであるから、物になる、と。つまり人間は生きているうちは、精神というもの、あるいはそういう魂があるとかと考えたりしますけども、それはとんでもない。みんな三つのものがなくなっていくと、人間の身体は単なる物だよ、ということでして、そしてそれは他の生き物たちの餌食になるに過ぎない、ということで、人間の身体が無常であるということを、こういう表現をされたんです。
 
草柳:  しかもそれは生きているものにとって、まさに避けることのできない宿命であるわけですよね。
 
田上:  そうです。これが道理であり、これがもう当たり前のことである、と。おっしゃったように、避けられないものである、という。これが人間に限らない、あらゆる生き物―形をもって生まれた生き物は、みんなこのようになるんだよ、と。つまり物になる。
 
草柳:  無常である。さあそこで、何故釈尊は、その無常―人の儚いことを無常というふうに言ったんでしょうか。
 
田上:  それなんですね。日本でもよくお寺で、あるいはお坊さん方も、「諸行は無常だよ」というふうに説法なさいます。私どももそれをよく聞きました。ですけども、これを「何故無常なんですか?」と質問すると、なかなかこれはすぐに答えてくださらなかった。多くの方が、テレビをご覧になっている方でも、「無常だ」と言われて、おっしゃるけれども「何故ですか?」と聞かれると、おそらく答えに困ってしまわれるんじゃないかと思うんですけども。
 
草柳:  そんなに難しいことなんですか?
 
田上:  「なぜ無常なんですか?」と言われた時、それは「無常だから無常だよ」というわけにいきませんでしょう。「形が壊れていくから無常だ」と。「何で形が壊れるんだ」と、今度はさらにたたみ掛けるように質問していくと、答えに窮していく。それが結局は、釈尊がお悟りになったそのものの道理というものに入ってくるわけです。それは何故かというと、「何故諸行無常か」というと、それは「衆縁和合(しゅえんわごう)しているからだ」という、そういうことです。この「衆縁和合」という言葉は、仏教の専門用語では、よく使われるのは、「縁起(えんぎ)」という言葉があります。「縁起物」とか、「縁起がいい」とかという。ですけども、それの本当の意味は、「衆縁和合」という意味ですけれども、日常使われている縁起は、吉凶のそういうものに関わることで、善い悪いのものに引っ掛かるもので、誤解を招いていくことが多いので、仏典の中によく分かり易い言葉で、「衆縁和合」というのが出てきます。この「衆縁」というのは、「もろもろの条件」という意味です。あるいは原因の条件。それがうまく和合して、物事は生まれたり、なくなっていくんだ、という、そういう道理が、これが衆縁和合。これが世の中の道理である、という意味です。つまり世の中の道理は、神が創ったものではなく、あるいは何か創造主が世の中を創ったんじゃなくて、「いろんな物質的な物が集まって、それが原因となり、条件となって、世の中はできているんだよ、というのが、この世の中の道理です」と言って、釈尊はそれを菩提樹の本で発見されたんです。これはいわゆる仏教のいう「真理」なんです。その衆縁和合しているが故に、世の中は無常なんです。
 
草柳:  例えば自分の身体を例にとって言えば、よく「六十兆の細胞からできている」というふうに言われますよね。人間の身体というのは、六十兆の細胞が寄り集まって、衆縁和合して一つのものを形作っている、身体を作っている。それが衆縁和合なんですか。
 
田上:  そうです。それが結局は、私はこの「衆縁和合」を説明する時に、こういう三つの言葉を使うんですけども、「寄(よ)り合い・依(よ)り合い・縁(よ)り合い」と。つまり「すべての世の中の形あるものは、いろんな物が集合して、そしてそれが依存し合って、そしてそれがつながり(縁)合って、それらが寄り集まって物事はできているんだよ。それが衆縁和合。ですから六十兆の、そういう細胞であろうと何であろうと、この一枚の皮袋の中にそういうものがうまくこうバランスよく収まっている時は病気がない。ところがバランスが崩れたり、和合していないと、それが病気という、バランスの崩れたものが病気ですから、そういうふうに釈尊は、この人間の身体だけではない、生き物の身体を「汚物の詰まった皮袋」という表現をされた。これは十年前のこの「仏典のことば」の時にもお話したんですが、所詮この人間の身体はいろんなものが集まって、それがうまく一つの皮袋の中に収まっている。それがうまく寄り合い、依り合い、縁り合って、それはある。ですけども、それは毎日変化している。だから赤ん坊の時の姿と、自分の今の姿はもうどこにも赤ん坊の時の姿なんかないし、逆に赤ん坊の時に、今の自分の姿を発見することもできないほど、自分は衆縁和合によって変化しまっている。同時に人間は生まれる時に衆縁和合によって、つまり原因と条件の絡みによって生まれて、そして最後も死ぬ時も衆縁和合によって死ぬ。ですから諸行は無常である、ということです。だから諸行無常。何故世の中は無常か、といったら、みんなそういうふうにして絡まってできているから、一つとして自分の創ったものはない。いろんなものが重なって、そうやって絡まって、つまり縄が編んであるように、ああいうふうにしてできあがっているようなもので、みんないろんなものが縄を綯(な)っているようなものでできあがっている。
 
草柳:  すると、釈尊・ブッダのその後の教えというのは、すべてこの諸行無常ということが一番根っ子のところにあって、ということなんですか。
 
田上:  そうです。ですから結論的に言いますと、諸行のすべてのものは形作られているこの世界のものは、すべてのものはみんな諸行は無常なんだから、一つとして無常でないものはない、ということが、これが当たり前のことであるから、これはある面からいうと、不滅なんですよ。これが「常住(じょうじゅう)」という。これはなくならない。その中に一つとしてなんか形があるものとして、自立して他のものの影響を受けないで、同じ形をもってあるものは存在しない。そういう意味で無常であるという、そのことの道理が、いつの時代になっても、どんなところにあっても変わらないから、無常であるという事実は変わらないから、それを不滅という考え方もできる。
 
草柳:  そうすると、今日のテーマの「無常の中に不滅がある」というのは、
 
田上:  結局は無常というのが当たり前のことですから、だから「無常であるが故に不滅だ」という、そういう考え方。つまり無常であるということは変わらない、ということだけを考えれば、その意味も出てきます。
 
草柳:  諸行無常ということをしっかり観察というか、見つめていけば、例えば自分自身、我というのはほんとにじゃあるのか、ないのか、と言えば、多分今の諸行無常ということで考えていけば、それすらもしかしたら実体はない。
 
田上:  ない。「私とか、私のもの」というのはない。つまりあったら、それはそういう一つの個体、あるいはそういう実体的なものを考えなければいけない。ところがそんなものなんかない。つまり「私」というものを、人間はあると思っていますけども、それは一つの幻覚でしかない。みんな幻想でしかない。だから私が今私自身が―田上太秀という人間がお話しているんですけれども、私の考えというのはないんですよ。私が考え出したものは一つもない。つまり私が育ってきたこれまでの身体も、考え方も、全部多くの人たちの書いたものを、教えられたものを、私は全部それをもっていて、その中から言葉を選んで編み出しているだけであって、私の言葉とか、私の意見とか、私がこういうふうな思想とかというのはない。だから釈尊も、「私が説法したというのは一つとしてない」と自分でいうんです。それを結局はうまく諸行無常というものを通して、世の中のものをうまく表現したものがあるんですね。それが仏教の基本がありますけども、それをご覧頂きましょうか。
 
草柳:  いわゆる「四法印(しほういん)」というふうに呼ばれているものが、実はこれなんですが、「諸行無常」が一番最初に出てきますね。
 
「四法印」
・諸行無常(しょぎょうむじょう)
・諸法無我(しょほうむが)
・一切皆苦(いっさいかいく)
・涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
 
田上:  その「法印」というのは命題(めいだい)。「四つの命題」とお考えになってもいいし、決まった印は崩れることのないというものです。教えとしてこれは定まっているもの。「諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静」という、こういう言葉ですが、この「涅槃寂静」というのを省いて「三法印」ともいうんです。これはもともと『法句経』という仏教のもっとも古いお経の中に、この三つが説かれているんです。順番も、「諸行無常・一切皆苦・諸法無我」となっているんです。そこの説明にも同じんですけれども、もろもろの形作られたものは無常である。変化しています。だから一切は皆私の思うようにはならない。私の欲するようにはならない。願うようにはならない、というのが、この「一切皆苦」です。そして「諸法無我」というのは、すべてこの世の中のものは、形あるもの、形ないもの、例えば「ないもの」というのは、自分の記憶しているもの。いろんなものをもっていますが、そういう形のないもの、記憶しているものでさえ、すべてこれは私とか、私のものではありません、というのが「無我」です。つまり「何故ですか?」といった時に、これは衆縁和合しているからです。衆縁和合しているが故に、諸行は無常であり、一切は苦であり、もろもろのすべてのものは、私とか私のものはない、という意味。これがわかると「涅槃寂静」。世の中に対するものの考え方が悩み苦しみ疑いというものが、全部その火が消えてしまった状態が涅槃でしょう。そうすると、ああそうだったのか、といって、心が静かになる、というのが、「涅槃寂静」の意味です。
 
草柳:  この最後の「涅槃寂静」というのは、例えばちょっと別の言い方をすれば、「悟り」という言葉でもいいわけですか。
 
田上:  そうです。「わかった」と。それが自分の心の中に、あるいは自分の生き方の中にも、今度はそこがわかるようになってくると、悩むこともない。例えば別の言い方をすると、諸行無常であるし、思うようにならないものであるし、私とか、私のものなんてないんだよ、ということがよくわかると、次の世にまた生まれ変わりたいという気持さえももういらない。死ぬことも怖れることもない。そしてただただこれまで話してきました毎日を自らの身と心というものを律して、怠らず、仏法に従って、つまりブッダの歩んだ道を行っていけば、ただ最後は死ぬ時がくるのを待つだけだ、と。だからもうそういう時には怖れるものがないという、そういう状態が「涅槃寂静」。
 
草柳:  ただ生身の我が身に引き比べて考えますと、例えば「一切皆苦」苦というのは、多分きっとこれは「思うようにならないこと」というふうにいってもいいんじゃないか、と思うんですが。
 
田上:  「願うようにもならない」。だから私どもは、自分の思うようになると思っているけれども、周りにですよ、例えば自分の身近でいうと、妻であろうと、夫であろうと、あるいは子どもであろうと、兄弟であろうと、みんな自分の思うようにならない。「自分の思うようになるというのはないんですよ」といって、今度は自分の身体を振り返ってみますと、自分の身体も自分の思うようにならないんです。どこを指さしても自分の思うようになるものはない。つまりこれが自分の置かれている今の状況ですから、それを結局は考えると、衆縁和合している身体であるが故に、諸行無常であり、一切皆苦であり、諸法無我である、ということになるんです。
 
草柳:  どうすれば乗り越えていけるんでしょうか。
 
田上:  それをそういうふうに、達観する、あるいは諦観(ていかん)する。ちゃんとそういうふうに見るほかはないんですね。つまりそういうものだ、ということをよくわかることですね。「諦観(ていかん)」諦(あきら)めると書きますが、この諦めるというのは、決して「もうどうでもいいや」という意味ではなくて、その実際の中身がよくわかること。それが諦める。よく諦めること、それを言っているんです。ですからそれがわかれば、何も「あなた自分の身体を来世で生まれ変わるということを考えますか」と言ったら、そういうふうに考えられないでしょう。火葬してしまうと灰だけになるんですから。この身体がそっくり生まれ変わることはあり得ないわけです。仏教では、「次の世で人間に生まれ変わる」とはどこにも書いてありませんので、何に生まれ変わるかわからない。それはもうどうしようもないものなんです。死を経験した人はありませんから。死を経験していない以上はどうしようもないんです。
 
草柳:  そのブッダが、つまり何を見なければいけないのか。つまり諦観ということ。何をじっくり見なければいけないのか、ということで、実は次に先生が用意してくださった中に、まだブッダが元気な頃に、ヴァッカリという長老に言った言葉がとてもいいんだそうですね。それをちょっと読んでみたいと思うんですが、こんなふうな言い方をしているんですね。
 
ヴァッカリよ、もうそんなことは言いなさるな。やがては腐敗して朽ちてしまう私のこの肉体を見たとて、なんになりますか。ものごとの理法を見る人は、私を見るのです。また私を見る人は、ものごとの理法を見るのです。じつにものごとの理法を見ている人は、私を見ているのであり、私を見ている人は、ものごとの理法を見ているのです。
(「相応部経典」第二十二経、「雑阿含経」第四十七巻)
 
という文句なんですが、最初の「ヴァッカリよ、もうそんなことは言いなさるな」って、これは前段に何かあったわけですか。
 
田上:  はい。もう病気しているんです。ヴァッカリが病気をして、もう床に伏しているんです。で、自分はもう先長くない、と。これまで釈尊の説法を何度も聴いたけれども、もうこの身体で説法を聴きに行くという力もない、と。何とかして聴けないものだろうか、ということを悩んでいた時に、それを聞いた釈尊が傍に行って、「そんなことをするな、私を見たからって何なんだ。私を見るのは、お前は何を見ようと。この身体を見ようとしているのか、と。私の身体を見て何になる、肉体を見て。そんなものなんか見たって、この身体も、不滅なものではない。無常なものである。だから物事の正しい理法を見るということが、大事なんだよ」ということです。それは何か、と言ったら、私を見なさい、と。この自信に満ちた言葉ですよね。前にもお話しましたスバッダに対して、「私はこれまで理法に従って歩んできました」と、こう書いてありました。「八十年間の自分の生涯をみまして、私は理法に基づいて生きてきた」ということをおっしゃった。まさしくそれを意味している。私を見れば、ものの道理というのがわかる。人間がどういうものだ、というものもわかる。この物事の理法を見るならば、一番わかるのは私を見なさい」と言った。そうすると、所詮この身体もどんなにブッダだ、と人に言われていても、あるいはどんなに修行を完成した人間であっても、所詮これは死んでいくものだ。ですけども、理法を知る。つまり「諸行は無常であり、一切は皆苦であり、諸法は無我であるという、この道理がよくわかり、衆縁和合のダルマ(理法)がよくわかれば、そのわかることが君自身を、何にも怖れることのない心の安らぎに導くんだよ」ということを教えているところです。
 
草柳:  ヴァッカリはこの言葉を聴いて、何か胸にストンと落ちたんでしょうか。
 
田上:  結局は自分はどうなるんでしょう、という、そういう気持から最期のお言葉を聴きたかったんでしょう。ですけども、それを結局はこのような形で、「私を見てごらん。私も所詮君と同じように死ぬんだよ、と。死ぬけれども、私は何も怖れるものはない。理法はこういうものだ、ということを理解したら、何にも死を怖れるわけでもない。次の世に生まれ変わりなんていう気持もさらさらない。こんなに安らいだものはない」ということを、そこに言っておられるところですね。
 
草柳:  「怖れるな」ということは、「これ以上執着しなさんな」ということにも、
 
田上:  そうです。生に執着するな。だから修行者たちが、釈尊のお弟子の人たちがみんな自分の過去を振り返って、最期に自分の今の心境を述べているところの集めたものがありますけれども、そこに多くのものたちが、先ほど申しましたように、「私は生を喜ばず、求めずとか、死を求めず、あるいは喜ばず」もうそういうものにもまったく関心がない。ただただ怠らず身と心を律して、これから生きて、最期の自分がもう死ねばことはすむんでしょうけれども、この身体がある間は、そうして身を律して、最期に死の時がくるのを静かに待つ。譬えがいいです。雇われている人が賃金を払うのを待っているように、という。わかりますよね。つまりサラリーマンの人が月末になって給料日に近づくと、ああ、貰えるという。それを楽しみにして一生懸命働きますね。そういう譬えがちゃんと書いてあるんです。雇われる人が賃金をもらうのを待っているように、死の時がくるのを静かに待っている、とこう言うんです。その時は、一生懸命その間働かなければいけないわけでしょう、賃金を貰うために。だけど、その時に貰うことを楽しみにはするんですけれども、働いて一生懸命立派な仕事をしないと、賃金は貰えないわけですから、その譬えがなかなかいいですね。
 
草柳:  こういう「諸行無常、諸法無我」というその「四法印」で表された考え方、受け止め方、捉え方というのは、その後時代が経つにつれて、『涅槃経』の中でいろいろ発展をしていくわけですか。
 
田上:  結局、先ほど「無常の中に不滅なものがある」という。これはどういうことか、と言いますと、「人間は無常だ、無常だ」というと、悲しい、頼るものもない、こんな儚いものはない、というふうに普通は考えてしまいます。それは修行ができた人たちは、先ほどからいうように、悠々としていますけれども、多くの場合は、なんかそう言いながら、何か頼るものがある、手掛かりがある、安らぎの場所があるんじゃないか、と考えます。それに対して、いや、あるんだよ、と。それは一時的に、諸行は無常は無常というけれども、必ずしもそうではない。人間の心の持ち方によって、必ず永遠なるもの、それから安楽なるもの、そして必ずそれは求めれば得られるもの、そしていつでも汚れのないものがある。「常(じょう)・楽(らく)・我(が)・浄(じょう)」という言葉があるんですけれども、「常」というのは、不滅なもの、永遠なるもの。「楽」は、安楽。「我」というのは、内在するもの。これは実体がなくならないもの。「浄」というのは、清らかなもの。つまり人間はここにこういうものがあるんだよ、と。そういうものをちゃんとみんなもっている、と。だから「無常だ無常だ」と言って憐れんでばっかり、あるいはそういうふうにして、なんとなく変化しっぱなしかと思うと、いや、求めればちゃんと「常・楽・我・浄」と言われるものがあるんだよ、と。それは体験を通して、経験を通して得られるものがある、ということを説いたものがこれです。これが新しい『涅槃経』の中に出てまいります。
 
草柳:  今までお聞きしてきた話とまったく逆転するような感じが致しますけれども。
 
田上:  誤解されやすい。
 
草柳:  じゃ、このお話は、実は今日も映像を一つ用意してありますので、その映像をご覧頂いた後、じっくりお伺いすることにして、実はこの映像は、釈尊・ブッダが悟りを開いたと言われているインドの北の方にあるブッダガヤーというところの映像なんです。しばらくご覧下さい。
 
 

 
草柳:  ブッダガヤーは、仏教の聖地としてもほんとにたくさんの人が毎年訪れるところなんですが、田上さんはここであまり普通なさらない得難い経験をなさったそうですね。
 
田上:  別に特別な経験じゃない。一番最初に、今出ましたマハーボディー寺院の後ろの方にある菩提樹の根っ子のところに金剛座というのがありまして、そこは柵がしてあるんです。そこに大理石のような石がありまして、そこのところにほんとは入っちゃいけないんですけども、そこに入って、私は身体全部ひれ伏しまして―五体投地という―地面に伏して礼拝をした時があります。それもただ他の人たちは手だけだったんですが、私はどうしようもなくて、そこにピタッとひれ伏したことを覚えています。何とも言えない、初めての訪れた時の経験でしたので、で、今は綺麗に整備されていますけど、釈尊のお悟りを開いた時は、こんなマハーボディー寺院という、そんなものはないわけですよね。菩提樹にしても、あそこがほんとにその木であったかどうかというのは、よくわかりませんけれども、ただああいうお悟りを開いた木というのは、たしかに大きな木で、こう枝が広がっているというもので、確かに初めて行きまして、厳かな雰囲気にひれ伏すんですね。涙は出なかったですけど、法悦の涙とよく言いますけれども、それは出ませんでしたが、ほんとに自分がひれ伏したのは覚えていますね。
 
草柳:  ところで映像の前のお話なんですが、「常・楽・我・浄」ということなんですが、これを少しご説明頂きたいんですが。
 
田上:  「常・楽・我・浄」という言葉は、仏教の言葉ではないんです。これは仏教以前から、ウバニシャッドの宗教文献の中に出てくる、いわゆるバラモン教の言葉です。つまり「常・楽・我・浄」というのは、「アートマン」のことです。つまり「アートマン」というのは、最初に申しましたように、「息づいているもの。息しているもの」というものですから、その「息しているもの」というものは、バラモン教で仏教以前からある。そういう考え方は、実体として永遠なる不滅なものとして、人間、あるいは生き物の、あるいはすべての個体の中に内在するという、そういう考え方です。それがその個体は滅びていっても、あるいはなくなっても、そのアートマンだけは、その人その人のアートマンがあって、それがまた次の生まれ変わりを促すものであるという、そういう考え方です。
 
草柳:  あのアートマンの考え方というのは、釈尊が生きていたあの時代のインドの、
 
田上:  思想です。それが人間に限って言いますと、それは霊魂みたいなものだ、とこういうわけです。ですから死んでも、その人の霊魂はさらに次の世に生まれ変わって、また新たな生き物として、人間として、という考え方がある。釈尊は、そういうのはおかしい、と。この世の中に存在するものは、さっきから出ましたように、衆縁和合しているから、一つとして変わらないで、ずっと生まれ変わっていく、そういうものはないという考え方です。ですからアートマンという、そういう考え方は、釈尊から言わせると、アートマンという、息づいているものという、そういう霊魂みたなような見方をするのはおかしい、と。そうじゃなくて、アートマンはたしかに息づいているものなんだから、そのアートマンの考え方は、お前たちのいうようなものではない筈だ、というので、あそこにアートマンを否定する、そういう説法がたくさん出てくるんです。それをどんなものですか、と説明すると、これは何もないのを、今度は後でそれを受けたような形で、この新しい『涅槃経』の中で、釈尊が最期に亡くなる寸前に、それを説くわけですね。あの時に、ああいうふうに説いたけれども、彼らのそういうアートマンは間違っている―間違っているというのは、私が問いたいというものは、本当はそれも不滅なんだけれども、その不滅のものは息づいているのは確かにそうだ。だけども、息づいているというアートマンというものの中身がちょっと私は違う。霊魂のようなものではない。これも次回出てきます「仏性」という、そういう言葉があります。そういう教えがありますが、これは要するに人間の中に―人間だけに限りませんけれども、これは前に説明したと思いますけれども、生き物の身体というものは、五つの要素でできている、と。つまり物質的なものと、感覚作用の総称したもの。つまり身と心というものからできあがっている。つまり衆縁和合してできあがっているもの。もっと具体的にいうと、さっきからいうように、人間の内臓がいっぱいあって、それを汚物と考えるわけですね。汚物の詰まったその皮袋というものが、それを生き物だ、と。その中に永遠不滅なもの。つまりそういうのがバラモンたちが、アートマンを「常・楽・我・浄」と。これこそが「常・楽・我・浄」といったものに対して、新しい『涅槃経』は、いや、そうじゃないんだ。このアートマンの「常・楽・我・浄」というのは、これ仏性のことである。つまり生きているものというもの、息しているものというものが、そういうバラモンのいうように個体的なもの、実体的なものではなくて、その五蘊(ごうん)の中に、五蘊のような形で存在するもので、つまり息づいているもの全部がそうである。それを一つの分かり易いように、お前たちの中には仏性というアートマンがある。息づいているものがある。それが仏性の説明で説いていくわけです。それこそが、「常・楽・我・浄」。これこそが永遠不滅なものであり、そしてこれが人間のもっとも心の安らぐものである。そして実在するもの、求めれば必ず得られるものであり、これこそが清らかなものである、と言って、「常・楽・我・浄」というのをつくって、で、それを無常のなかにある、と、こう言ったんです。
 
草柳:  「不滅」という言葉が、何回も出てきているわけですけれども、今触れられた、例えば釈尊以前のインドの宗教の中で捉えている不滅というのと、釈尊が言った不滅というのは、同じ不滅という言葉でも、意味が違う、と。
 
田上:  違う。それが新しい『涅槃経』では、不滅の意味は、こうだ、ということが説かれているんですが、そのことは簡単に言いますと、画面に出して頂ければ一番わかります。
 
草柳:  まず読みましょう。
 
すべての形づくられたものの中で、ただ仏性を除いて、不滅なものはない。
たとえばマンゴーの木を考えてみよう。マンゴーの花が散る状態は無常だが、果実を結んで他に多大な利益となる事実は不滅である。
たとえば、金を含む鉱石が溶ける状態は無常であるが、溶けて金だけが固まり、他のもののために大いに役立つようになったときは不滅といえる。
たとえば、胡麻が圧縮されない状態は無常であるが、圧縮され、油として絞りだされたら、いろいろのことに利用される。これが不滅である。
 
いろいろ具体的な例を挙げて言っておられますね。
 
田上:  この譬えが一番分かり易いんで、ここにキーワードを、「他のために利益となる」という。「役立つ」とか、あるいは「利用される」という。これは、例えば胡麻(ごま)の譬えを最後に出してありますけれども、胡麻油というのは、胡麻からできるわけですが、胡麻は大地に生えて実って、そしてそれはそのままだったらもう朽ちてしまいます。それを実を採取して絞って、そしてそこから胡麻油が出ます。胡麻油出たら、それをお料理にいっぱい利用されます。どの国の人も、どんな時代であろうと、どんな人たちであろうと、お料理に胡麻油の利用されます。それは一回きりではないんです。代々、あるいは何世代にわたって、人々が知恵を出して、そういうふうにしてやればできますよ、と伝えられる。「美味いですよ、こういう味ですよ」と伝えられると、多くの人たちがそれを求めて栽培し、そしてそれを絞りだして利用します。これは不滅。無くならない。人々にそれを受け継がれていく。だけども、それは胡麻というのが、もともと無常なものから作られたものであるが故に、それは無常なんですけども―胡麻油も無常ですよ―ですけども多くの人たちに利用されていくということにおいて、それは不滅である。マンゴーも、それも実って多くの人たちがそれを食べて、「美味い、これはいい」と言って多くのところでそれを栽培し、人々がそれを求めてそれを食べる。食べたらまたこれは美味しいから、「じゃ、自分たちも栽培しよう」と言ってマンゴーの木を育てる。それがもう何千年の間伝えられていくであろう。これが不滅である。つまりそのように、人々に善なるものです。自分のためにもなる。他のためにもなる。つまり人々に喜ばれ、求められ、そしていつまでもこれは人々が伝えていくもの。そういうようなもの、つまりそれは不滅です。無くならない。こういうものが大事だ。つまりその大事なもの、それ何だ、と言った時に、それは人間に、ブッダになる可能性というものがみんなにありますよ、と言ったんです。つまりあなたも、どんな人でも、釈尊と同じようにブッダになられますよ。つまり悲しいかな人間は、儚い儚いと言って、悪いことばっかりして、自分はどうしようもない、というけれども、あんたもほんというと、このように素晴らしい人間になる可能性をもっている、と。これになると多くの人たちに尊敬されて、多くの人たちに讃えられて、そしてまたそのような生き方というものを学んで、みんなあなたの生き方に学んで、また多くの人たちが感化されて、同じようになっていく。そのような可能性をみんなもっているんですよ、ということで、「仏性」というものを今度考え出して、そしてそれが不滅なもの、利用され、求められ、価値あるものとなって説いているものです。
 
草柳:  「ブッダになられる可能性はみんなありますよ」というふうに言われる、そのブッダの可能性、ブッダというのは、それはどういうことを言っているわけですか。その場合のブッダというのは、
 
田上:  これ次回でもお話しますけれども、釈尊が亡くなりました。亡くなりましたということを通して、もう我々は縁のない、あれだけの人にはなれない、あれだけのことを尊敬される人間にはなれない。我々は憐れみ、苦しみ、こうやって悪いことばかりすると、そう思っているけれども、そんなことはないよ、というところから、そういう繋がりというものを求めて、「何か自分に安堵するもの、あるいは自分が確信をもって生きていけるような、何か自分にないんでしょうか」と言った時に、「こういうものがある」と言って「仏性」を説いたんですよ。ですからある面でいうと、「仏性」というのは、例えば草柳さんでも、私でも、今「仏性がありますよ」と言われたって、「どこに?」とこうすぐ質問したくなります。「実感がありますか?」と言われて、実感はないです。「どんなふうにしてわかりますか?」と言ったら、答えは決まっているんですよ。「八正道を行いなさい」と。もう答えは決まっている。これを言ってしまうと、来月の分の話に入っていきますけれども、ここで、「常・楽・我・浄」という言葉は、この考え方は、この仏性というアートマンですね、アートマンというもの、息づいているんですから、みんな。だから息づいているものは、あるいは特に限定して、この生き物―五蘊からなる生き物には、みんなこの「常・楽・我・浄」である仏性が存在する。つまり何故ならばアートマンであるから。息づいているものである。その息づいているもの、というのは、とにかくそれは人のためになるもの、利用されるもの、みんなに喜ばれるもの、求められるもの、それはもう永遠になくならないという、そういうものを教えている。ですから求めたくないものは求めないでもいいわけです。胡麻を、例えば胡麻油を「食べたい?」と言ったら、「食べたい、美味しし食べてみたい」「どう?」と言ったら、「自分で栽培するのは面倒臭い」と言ったら、自分でいつまで経ったってそれは手に入らない。店に行けば手に入ると言ったって、それは売ってくれるからであって、みんな個人個人が自分の求めるものは自分で栽培するとなると手に入らない。つまり自分のものですから。ですからそういうふうにして、自分のものとして、自分が手に入れようと思えば、自分が努力しなければいけないというもの。「それは欲しいでしょう?」と言ったら、「欲しいです」。「じゃ、自分でしなさい」という。そういうふうにしてみんな受け継がれていくものなんですね。
 
草柳:  ブッダが、先ほどの「四法印」の中の、いわば「涅槃寂静」という、その最後の境地に達する時、それまでに例えばですね、ブッダ自身は一体どういうふうに乗り越えていかれたのか、ということを、もうちょっと振り返っておさらいみたいになりますけれども、お聞きしたいんですけれども、例えば最大の敵というのか、最大の問題はやっぱり煩悩でしょうか、それをどういうふうにブッダは乗り越えたのか、あるいはそれを消していったのか。
 
田上:  結局は、煩悩というものの基本は―日本人は仏教で「百八の煩悩」と言いますけれども、百八というのは人間の顔の表情と同じで、千変万化する表情と同じように、煩悩は百八どころじゃないんですね。だけども、その中で一番煩悩の根本になるのは、「むさぼり(貪)」と「いかり(瞋)」と「おごり」の心ですね。これが煩悩の基本なんですよ。この煩悩は結局は何から起こるかと言ったら、結局それは人間が世の中の道理を知らないで、自分勝手に物事を考える。つまり仏教でいう「無明(むみょう)」というのがそうさせるんですが、その「無明」というのは、世の中の道理というのは、衆縁和合しているんだという、その道理を知らない。先ほどからいう「諸行無常・一切皆苦・諸法無我」という、この「三法印」を理解しない。そういうことから起こって勝手なことをする。つまり前にも言いましたけれども、太陽は俺を中心にして回っているとか、金は天下の回りもんだから放っておけばくるんだ、手に入るんだとか、あるいは人は自分の思うようになるんだとかという、いろんな自分を中心にして物事を考えようとする。ところがそんなものは到底あり得ないわけで、衆縁和合しているから。衆縁和合しているという事実をよく理解して、自分の生き方の上でそれをわかっていくと、自ずから貪りの心も起こらないし、いかり(瞋)の心も起こらないし、驕りの心も起こらないということですよ。結局は驕りの心は、金持ちになれば金持ちの驕りがあるし、名誉をもつと名誉の驕りがあるし、健康な人は健康に対する驕りがある。若い人は若さに対する驕りがある。みんないろんな驕りがありますね。いかり(瞋)にしたって何でもない、ちょっとしたことで争いを起こすのは、自分中心でものを考えるからで、貪りもそうですよね。余分なものを持とうとする。そういうことが貪りの心を増長させていく。だからそういうことの起こらないように、常に自分というものを中心にものを考えないで衆縁和合しているんだ、と。だからこそ、前にもありました「中正・公正」中道の歩みが大事なんだよ、ということです。そうしていけば、煩悩は自ずから起こらなくなる。つまり「涅槃」というのは、煩悩がなくなる、と言いますけれども、「この身体の中から煩悩が起こらなくなった状態」をいうんですよ。「煩悩が起こらなくなった状態が煩悩がなくなる」という表現をするだけであって、人間はちょっとでも油断すると、この身体から今言ったような煩悩が起こってくるんですね。どこまでも自分を中心にしてものを考え、衆縁和合して世の中は成り立っている。自分もそうなんだ、ということは知らない。そういうことに尽きる。
 
草柳:  そうして、その炎を静めるということも含めて、つまり「涅槃寂静」というところには、その境涯というんでしょうか、それはつまりさっきおっしゃった仏教は実践の宗教ですから、まさにその八正道がほとんどすべてである、と。
 
田上:  「八正道を修めていけば自ずからにして、煩悩は消えていく」。つまり煩悩が消えたらもうただ涅槃あるのみなんです、最後は。それがいわゆる不滅であり、安らぎであり、安楽という考えです。だから煩悩が消えなければ安らぎはないんです。つまり解脱はない。煩悩を消してしまえば、そうだったのか、といって、心が落ち着くんですね。そういうことを言っているだけです。
 
草柳:  無常の中に不滅がある。今日のテーマに、最後のところで辿り着いたという感じですね。
 
田上:  そういうことに尽きます。ご質問あったものに答えていくと、それがつまりそのまま無常の中に不滅があるということに尽きるんですね。
 
草柳:  そして今日最後にちらっとお話がでました仏性のことなんですが、すべて仏性の可能性を人はもっている。我々はもっているんだ、ということについては、五回目の次回に詳しくお伺いすることに致します。どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成二十三年七月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである