ブッダの最期のことばD誰でもブッダになれる
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「ブッダの最期のことば」の五回目です。前回は、ブッダは、この世の物事はすべて衆縁和合(しゅえんわごう)している。「衆縁和合」という言葉がありました。つまり諸々の条件が寄り依り集まって成り立っているのだ、という話があったわけです。そしてその道理をわきまえて修行をすれば、誰でもブッダになれる、というふうに、ブッダは説いたと言われているわけですが、それは一体どういうことなんでしょうか。今日はこれがテーマです。お話はいつものように駒澤大学名誉教授の田上太秀さんです。どうぞよろしくお願い致します。
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  衆縁和合というのは、仏教のことを考えていく上ではキーワード中のキーワードということのようですね。
 
田上:  まったくその通りでございます。今ご説明ありましたように、すべての物事は寄り合い依り合い、つまりすべて寄せ集まって、そして繋がり合って、そして依存しあって、物事は生じては滅しているという道理、これが衆縁和合の法であります。釈尊は、菩提樹の本で悟った、と言われる中身がこれでありまして、これを他にして、仏教の基本的な教えというのはないんで、これからすべての教えが展開していると、お考え頂いて間違いない。
 
草柳:  まさにそれは道理であって、その道理をわきまえて修行すればブッダになれる、というふうに説いたわけですね。
 
田上:  そうです。つまりこれまで四回までお話してきましたように、仏教の修行という形で現されるとすれば、八正道というこの八つのバランスの取れた生き方ができたならば、誰でもブッダになれますよ、というのが、この衆縁和合を通して説かれた生き方であります。今日は「誰でもブッダになれる」というテーマでございますけれども、仏教に関係がない人はブッダになれないかというと、そうじゃないんですね。前にもお話しましたように、ブッダというのは、これは普通名詞でありますから、簡単に言いますと、人格の完成者、世の中の道理というものに則って生きて、そして自らを磨いて人格的に完成した人、これがいうなればブッダであります。ですから仏教の中で説くブッダだけではなくて、仏教以外でもそれぞれの分野において素晴らしい業績を残すだけでなく、人格が完成した人として敬われる、尊敬されるような人たちは、みんなこれはブッダと呼ばれてもおかしくないわけです。ですからここでもテーマにしました「誰でもブッダになれる」というのは、ある限られた人だけではないんですね。ですから「誰でもブッダになれる」と、こういうことは一般の人たちでも、「自分もなれますか?」と聞かれた場合には、「誰でもなれますよ」と、はっきり言うことができるわけです。
 
草柳:  ということは、つまり釈尊がブッダになった、その釈尊の他にも、あるいは以前にもブッダはいたわけですね。
 
田上:  いっぱいいる。ですから仏教の中では、釈尊だけを指さして「ブッダ」とこういうふうにして、なんか固有名詞のように使いますけれども、実際に古い文献の中で見ますと、釈尊のお弟子の人たちにも、ブッダと呼ばれる人たちがたくさんいたわけですから、前にもお話しましたように、お経の中には、特に漢文に翻訳された原典の経典の中には、みんな「諸仏よ」という、あるいは「諸仏の教え」というふうに説かれている。前にもお話した「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」というのもまさしく諸仏の教え。悪いことをしない、善いことをしよう。そのような心を汚さないようにしていくこと。これが諸仏の教えである、というふうに言って、「ブッダの教え」って、釈尊の教えじゃないんですね。諸仏の教えなんです。
 
草柳:  この教えは、誰に向かっても同じように説かれたわけですか。
 
田上:  そうです。差別がないんです。すべての人ですから、身分的に生まれ良い人とか、悪い人とかと関係ないんですね。善い人がブッダになるんじゃない。あるいは性格が善い人だけがブッダになられるんじゃない。悪い人は生き方によってはブッダになれる。どんな貧しい人であっても、その生き方の中で人格が完成することができたら、その人はブッダと呼ばれてもおかしくはない。つまり貴賤貧富に関わりなく、身分も関係ない。人種も関係ない。すべてのそういう人たちがみんなブッダになれる、ということを説いたもの、それが釈尊の八正道(はっしょうどう)の教えから説かれてくるものであります。
 
草柳:  ただやはり受ける側としては、お坊さん(僧侶)と、それからそうでない、いわゆる在家とは、やっぱり対機説法(たいきせっぽう)ということをブッダ釈尊はおやりになったということを言われますけど、やっぱり言い方は勿論違うでしょうね。
 
田上:  「ブッダに誰でもなれる」ということはありますけれども、ブッダになれるのは、やはり生き方が問題で、誰でも八正道というのは実践することはできます、日常生活で。ですけども、その日常生活のそういうさまざまな柵(しがらみ)というものによって、完成できる人と、できない人がありますね。それは当然一生懸命やっているんだけども、日常の雑用とかいろんな柵でなかなか上手くいかないというのは、これは当然あり得ることで、従いまして早くブッダになったという人と、またなれない人もいるわけです。あるいは遅くなる人もいるんです。それは当然ありますけれども、共通して言えるのは、ブッダになれる、と。ですけども、釈尊は、そうは言いながらも八正道というものをみんなやるのは大変だろう、と。だけども、そういうことが完全にはできないけれども、努力してやることによって、ブッダになれるけれども、いわゆる在家の信者―在家の生活をする人と、出家をして修行をしている人のその修行の仕方というのは、勿論違うわけです。ですから出家の人に対して説かれた教えと、在家の人に説いた教えというのは、自ずから違うわけです。同じブッダになろうとしていくんですけれども、なかなかそこに同じようにスタートラインに並んだ出発点は同じだけれども、走っているうちに出家者と在家者の走りのスピードは違って、そうすると自分はダメかと思うと、そうではないんだよ、というんで、その生き方の目的を区別して説いているというところもございます。
 
草柳:  修行の根本的な考え方といいますか、つまり八正道ということを相手によって言い方を、同じことを言っているんだけれども言い方を変えていったということですか。
 
田上:  勿論それは応病与薬(おうびょうよやく)という―病によって薬の種類を違うのと同じように、それは相手に応じて説法の内容は違ってくるんです。ですけども生き方としては、八正道が基本でその精神を忘れてはいけない、ということを説いているわけですね。要するに、出家者はどこまでも悟りを―つまり悟りと言いましても、解脱を目的にするというんですけれども、在家の人たちはそれはなかなか普通の生活をしていてはできませんから、自ずからそこに在家の人に説いた教えというのも、説かれ方も古い涅槃経の中にあるんです。
 
草柳:  その一節を読んでみたいんですけれども、一般の人たちとは言いながら、「資産者よ」という呼び掛けなんですね。
 
田上:  これはかなり資産のある人、豊かな人ということですね。
 
草柳:  資産者たちよ。戒しめをたもっていることによって、品性ある人には、この五つのすぐれた利点がある。その五つとは何であるか?
ここで資産者たちよ。戒しめをたもち、品性ある人は、財産が多いに豊かとなる。これが品性ある人の受ける第一のすぐれた利点である。
また次に、資産者たちよ。戒しめをたもち、品性ある人は、良い評判が起る。これが第二のすぐれた利点である。
また次に、資産者たちよ。戒しめをたもち、品性ある人は、どこに行っても、泰然としていて、おじけることがない。これが、第三のすぐれた利点である。
また次に、資産者たちよ。戒しめをたもち、品性ある人は、死ぬときに精神錯乱することがない。これが、第四のすぐれた利点である。
また次に、資産者たちよ。戒しめをたもち、品性ある人は、身体がやぶれて死んだのちに、善いところ、天の世界に生れる。これが、第五のすぐれた利点である。
 
こういう言い方なんですが。
 
田上:  「資産者よ」という限定されていますけれども、釈尊の説法を聴こうという人たちはたくさんいるわけですけれども、一般の人たちを代表して質問をする時には、まあそういう位の高い人とか、あるいは資産家とか、そういうような人たちが表に出て代表して質問するわけですから、こういうふうに「資産家よ」という表現になっていますけれども、ここは資産家に対してだけじゃないんですね。位が高い人であろうと、資産家であろうと、あるいはそうでない人たちであろうと、そこにはこういうことだよと、そういう人たちが次のように「戒めを守って、品性のある」と、こういう表現ですが、簡単に言いますと、日常の行儀作法をちゃんと身に付けていくならば、という、そういう意味ですね。今日「品格」とか「品性」とかとよく言われますけれども、それはみんな行事作法がちゃんと、つまり日常生活のマナー、これをちゃんと守って、それを身に付けている人は、ということですね。そういう人には、五つの利点があるが、第一の利点というのは、生活が豊かになる。生活が豊かになるというだけではなく、自らの心の中も豊かになる、と。それからそういう行儀作法を身に付けている人は、第二の利点は、善い評判が上がる、と。つまり名声が得られるという。当然これは多くの人たちに尊敬される人物になりますよ、ということですね。三番目に、今度は行儀作法を身に付けた人は、泰然としてどんなところに行っても怖じけることがない。いわゆる一般にいう「怖(お)めず臆(おく)せず」という言葉がございますけれども、そのようなことで、どんな状況にあっても泰然としておれるような、そういう落ち着いた状況に自分を置くことができる、と。第四番目には、今度はそのような人は、死ぬ時にも精神錯乱することがない。つまり「従容(しょうよう)として死に就(つ)く」とこうよくいう諺がありますけれども、死が近いといっても、落ち着いてなんの驚くこともない。怖れることもない。悠々としておれる。前回にお話しましたように、ちゃんとした生活をして、健康で自分がいけるようにして心を調えていくならば、なんの死ぬことも怖がるものはないという、そういうところですね。逍遙として死につくという、この心構えができるということです。最終的にそれだけではないですね。次にはどうなるでしょう、と。人間は若い時はそう感じませんが、だんだん歳をとってくると、人間の終末というものを考えると、この先どうなるだろう、といった時に、釈尊はそういう日常の生活の中で行儀作法を身につけて、品性のある人間となっていくと、必ず善いところにいく、と。ですけど、ここに「天」という言葉が出てきますが、これはインドに釈尊以前からある何千年もインド人の間に信仰されている死後天に生まれたいという。人間の世界よりも神々の世界に生まれたいという信仰がある。だからそこが善い世界だというので、まあ君たちも知っている天の世界に生まれることができるよ、という、そういうことを説かれたところですね。ですからここが一般の人たちに対して、最終的に善いことをするだけではなく、自らの生き方をちゃんと品性のあるものに調えると、最後に天に生まれることができる、というところに落ち着くように説かれている。じゃ、出家者は、結局は八正道は八正道ですけども、それをするだけではなく、いわゆる出家者にはまたさらにたくさんの戒律があって、それを行うと最後は解脱(げだつ)という究極の心の安らぎのところにいくわけです。そうすると、その人たちは天に生まれるんじゃないんですね。仏教の思想でいうと、天に生まれてもまた生まれ変わるところなんですね。ですから天に生まれても究極の安らぎのところじゃないけれども、人間世界よりも善いところという意味のところです。ですけども出家者は、とことん修行をしていくと、最終的に一切の生まれ変わりのない永遠の安らぎの世界、それが解脱の世界ということを説いているわけです。
 
草柳:  ただ天に生まれるというふうにいっても、それは勿論諸々の条件をちゃんとクリアしなければそうはならない。
 
田上:  八正道ですね。
 
草柳:  それが八正道ですか。
 
田上:  やっぱり八正道というものは、日常生活になくてはならないマナー、あるいは規律でありますから、それは何が何でも行わなければいけないけれども、だけどもなかなかそれを完全に行いきるということはなかなかできませんね。できないけれども、生活の中でできる限りのところをやっていくという、その努力だけは怠ってはならない。つまりそれがいわゆる「怠けてはならない」という言葉にも通じるところですね。
 
草柳:  ただちょっとわからないところがあるんですが、つまり言い方を変えていますでしょう、今のように。つまり一つは在家の人たちには、「天に生まれ変わるんだ」と。僧侶には、「解脱」ということを言っている。何故そういう違った言い方をしているわけですか。
 
田上:  出家者は、「解脱」というのは、一切の煩悩が、つまり自分を「煩(わずら)わし悩ますもの」というのが、漢字で書いた「煩悩」ですけれども、自分を煩わし悩ますそういう煩悩が、自分の身体から完全に起こってこない状態になったのが解脱なんです。悟りとは違うんです。
 
草柳:  違うんですか?
 
田上:  「悟り」というのは、世の中の道理がわかることをいう。解脱は、例えば世の中の道理はこうだ、とわかるでしょう。わかったからと言って、解脱しているわけじゃないですよ。つまり頭の中では理解している。自分でもそうわかっているんだけれども、煩悩が起こってくるじゃないですか。その段階では解脱じゃないです。つまり前から言っている「涅槃」というのは、いわゆる完全に煩悩が起こってこない状態を言うんです。ところが在家は、八正道をやっていても、やっぱりわかっているとやっているんだけれども、煩悩は生活のしがらみの中でやっぱり起こってくるんですね。ですから解脱まではいかない。いかないけれども、そのまま弛(たゆ)まずやっていけば、あなたは必ず天に生まれる。今、五つ挙げましたけれども、泰然自若(たいぜんじじゃく)としている、従容(しょうよう)として死に就(つ)くこともできるよ、と。それで名声も上がるし、心も生活も豊かになるという一般的なもの。それは八正道を行っていてもできるわけです。ですけども、八正道を完全に行うには、やっぱり一切の日常の雑事から離れないとできませんよね。そうしないと煩悩が起こってきますもの。ですから解脱というのは、出家しないと解脱はできないんです。八正道を行っても、最終的に本当の解脱を得るためには、自分の俗事な生活を離れて出家しないとダメだという。だから出家生活は厳しいんです。
 
草柳:  古い涅槃経と新しい涅槃経があるという話なんですが、この辺の事情というのは、新しい涅槃経の中ではどういうふうになっているわけですか。
 
田上:  今言ったそれが新しい涅槃経に説かれているところです。
 
草柳:  そうなんですか。
 
田上:  これは新しい涅槃経で説かれているそのものです。ですけども、その考え方は、後の時代にもそれは受け継がれていくんですけれども、新しい涅槃経と、今これまで話してきました古い涅槃経との間の思想の違い、教えの違いというのは、今度は今言ったように、解脱というものはどうなんだろう。あるいは天に生まれるというのはどうなんだろうということになりますけれども、そういう区分けしたものではなくて、あんたたち出家者と在家の違いというのはこうなんだよ、と言われましても、いやいやそうではない、平等にブッダになられるという。「ブッダになれる」というたったそれだけのことで、一色で、新しい涅槃経はそれを解決しようとしたんですよ。つまり新しい涅槃経では、普通の一般の人たちはどんなに修行しても、柵(しがらみ)でブッダになれませんよ。天に生まれることができるよ、というので、まあまあ我慢しないといけないという言い方はおかしいんですけれども、そのように理解して貰わなければいけない。つまり「無理ですね、僕らはブッダにはなれませんけれども」といっても、「いや、ブッダになれないというんじゃなくて、あなたがこのようにしていくと名声が上がるし、尊敬されるし、豊かになるし、死を怖れることもない。それならば天に生まれるよ、というので、結局は安らぎの、あるいは落ちどころがそこに出てくるわけですね。ですけども、新しい涅槃経は、そうじゃなくて、心配するな、みんなブッダになる可能性をもっているんだから、「心配するな。みんなブッダになれますよ」という。一発でそういうブッダになれるという考え方に転換させる、そういうものが出てきたんですね。
 
草柳:  「誰でもなれる可能性をもっているんだ」という、その可能性というのは、つまり何があるから可能性がある、と。
 
田上:  「仏性がある」から。
 
草柳:  仏性というのは?
 
田上:  仏性というブッダに可能性。つまり誰でも、釈尊はもう新しい涅槃経ができた時は、もう紀元後の四世紀頃のお経の中に書いてあるわけですから、釈尊が亡くなってからもう七百年から八百年ぐらい経つわけですね。そうするとその間には、もうあのような方にも僕らは縁のない人間だ。社会も乱れているし、そして人の心も荒(すさ)んでいるし、人間の階級的なそういう差別がインドにはあったわけですから、もう生まれつきそうなっているんだから無理だ、というふうに考える。そういう人たちに対して、「違う。みんな釈尊と同じように、あのような立派な人間になれますよ」ということを説いて、みんなに安らぎを与えようとしたんです。安堵感を。心配するな、と。それが仏性です。つまり「仏性」という言葉は、前にもありましたけれども、「ブッダになる素質」というふうに言いますけれども、そういう素質という言い方をすると、ちょっといろいろ問題になるんですけれども、原語でいうと、仏性は、「ブッダダーツ」と「ブッダゴートラ」の二つの意味をもっていて、「ブッダダーツ」の「ブッダ」というのは仏のことですね。「ダーツ」というのは土台とか基盤という他に、骨―バックボーンのボーン―骨ですね。骨という意味があります。そして「ブッダゴートラ」というのは、「ゴートラ」は血筋、血脈、そういう意味ですね。上の方でいうと、みんな誰にでもブッダになる、そういう骨がある。あるいはブッダという骨をあんたたちはもっている。ブッダという、そしてあなたは血脈、血筋をもっているという、そういう意味が仏性です。ですけど、この前にもう一つ具体的に、「如来蔵(にょらいぞう)」という言葉があるんですね。その「如来蔵」という言葉は、「如来の蔵」と書いてある、如来の赤ん坊のことです。みんな人々には如来の赤ん坊が宿っているという、こういう言葉がもともとあって、それが具体的な意味であったんですけれども、抽象的な意味で先ほど出た「仏性」という。実際は仏の、いわゆる釈尊と同じ骨をあんたたちは受け継いでいるよ。あるいは釈尊の血筋を引いているよ、という説明がこの言葉にあるわけです。
 
草柳:  ということは、「如来蔵」という言葉が意味することと「仏性」というのは、イコール(=)同じなんですか。
 
田上:  同じです。意味を違えただけで、赤ん坊というか、骨というか、血筋というか、そういう違いだけであって、意味はみんな同じで、釈尊の私たちは家柄のものである、という意味です。そういうことで、みんな心配することもない。身分も貧富も関係ないよ。みんな平等だよ、と。この仏性思想はそういう意味のものです。
 
草柳:  つまりそうやって区別を取り払って、誰でもブッダになれる素質というか、可能性をもっているんだ、というふうに新しい涅槃経の中では説いているわけですね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  ただこの場合「なれる」という、誰が一体なれるのか、つまり「誰でも」というのは、その中身は何なんですか。
 
田上:  生きているもの。つまり生きているものといっても、仏教でよくいう五つの要素(五蘊(ごうん))から成り立っているものという。「色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)」という、人間の、簡単に言いますと、「色」というのは、肉体的な、物質的な要素で、これは肉体です。それから「受想行識」というのは、これは感覚作用の総称したものです。つまり簡単にいうと、「肉体」と「心」のこと。普通でいうと、「身心(しんしん)」ですね。つまり「色(しき)」が、物、物質です。「受想行識」は、心。だから「色」は身体の「身」、「受想行識」は「心」。仏教では、身心(しんしん)というのを「しんじん」と言いますが、これが身体を構成しているもの。これで成り立っている生き物はみんなこれは仏性をもっているというのが、これが新しい涅槃経の教えです。で、「身心」というのは、この五つの要素から成り立っているものですけれども、これはみんな作られたもの、これはいろんな要素の集まったもの。だからこれという実体がない。決まったものがない。だから、これを「空(くう)」と表現したんです。「空」という言葉は、空っぽという意味も、それはわからないでもないんですが、これの一番原語をずっと遡っていきますと、「膨れあがる」という動詞から作られたもの。膨れあがる、つまり瘤と同じで、叩くとそこに今までなかった瘤がポコッと膨れあがりますね。もともとそんなものはないんです。時期がくるとなくなりますね。つまりそういうようなもので、身体に異常がくると、あちらこちらに膨れあがるという状態、それと同じ。風船と考えてもいいんです。中身は何にもないんです。膨れあがったもの。いろんなものが要素が集まって出来上がって、宇宙もみんなそのようにして膨れ上がったもの。だからそういうものをすべて指さして「空」と表現したんです。「空」という言葉は、もののあり方を表現したもので、ものはすべて釈尊の説明でいうと、みんなあらゆる要素の寄り集まったもの。ですからそれが上手くバランスが取れてちゃんと調っている時は、人間の身体で言えば、あるいは生き物の身体で言えば、健康である。バランスが崩れた時は、それが病である、という。ですからこの世にもすべて気候でも何でもそうですけど、バランスが取れている時は非常に美しく素晴らしい。ですけども、バランスが崩れると、例えば不幸にしてああいうふうに震災がありましたけれども、いつもそうですね、バランスが取れたいる時は海が美しい。バランスが崩れると、荒れ狂って、あらゆるものを破壊してしまう。火山でもそうです。そういうものが世の中の現実ですけども、すべてものはそういうふうにして、あらゆるもののバランスが取れている時と、取れていない時がある。みんなこれは衆縁和合しているからです。
 
草柳:  まさに寄り依り集まって成り立っている、という、
 
田上:  この身体の中に、いわゆる仏性がある、と言ったわけです。つまり「ブッダになる可能性はみんなもっているんですよ」と言ったんです。それで、「その身体はどんなものですか?」と言った時、「これは空だ」。つまり寄せ集まりに過ぎない。つまり前にも言いました汚物の詰まった皮袋の、そういうものがあって、その中に仏性がある。そんな汚いものだ、と言われながらも、ちゃんと行事作法を身に付けて、ちゃんといけばみんなブッダになれますよ、ということを言っている。
 
草柳:  「五蘊(ごうん)」と「仏性」との関わりというのは、そういうことなんですか。
 
田上:  そうです。つまり「仏性」というのは、五蘊からなっているもの、そのものなんですよ、と言ったんです。仏性がその中に、こういうふうに固まりとしてあるんじゃないんです。ですから「どこにありますか?」とこう言った時に、樹木に神が存在するのと同じで、どこにと指さすことはできないんですけども、その木に神がいるというのと同じなんです。
 
草柳:  話が相当中に入ってきましたので、ちょっとここで一休みをしていつものように映像をご覧頂きたいんですが、今日はサールナートというところなんですね。サールナートといいうのは、四大聖地の一つと言われているところなんですが、大変日本人にも人気のあるところらしいですね。
このサールナートというところは、釈尊が最初悟りを開いて、最初の説法をしたところなんだそうですね。どうしてここを選んだのでしょうか。
 
田上:  ここはサールナートというところは、原語で「リシパタナ」と呼ばれている場所で、「リシ」というのは、「仙人」とか、「聖者」というような意味です。多くの修行者たちが集まって、「パタナ」というのは、原語の意味では二つありますが、「説法するところ、そこで語り合うところ」とか、あるいは「集まるところ」という意味がありますが、これを「仙人堕所(せんにんだしょ)」という漢字で翻訳されている場合があります。「仙人堕所」というと仙人が天から落ちて来たとか、なんとかというふうに理解されて、私どもが習った時は、これは間違った訳だよ、と。これは多くの聖人たちが寄り集まって、そこで修行したり、あるいは語らったり、説法していろいろやるところだ、というふうに教わったんですが、まあ私ども日常で使っている言葉では、「落ちどころ」とか、「落ち合うところ」とかという、「どこで落ち合おうか」というような言葉がございますから、上から落ちてくるというんじゃなくて、「仙人たちが落ち合うところ」という意味で取れば、漢訳は間違っちゃいないと思われますけどね。
 
草柳:  「人々が集まるところ」というふうな意味で捉えればいいわけですね。
 
田上:  今先ほど出ておりました説法したところ、釈尊の説法を五人の者が聞いたりとか、あるいは鹿が聞いたというので、鹿が大変その頃には多かったというので、「鹿野園(ろくやおん)」鹿の遊ぶ所とこうよく言われますけども、何故そこで釈尊が説法されたかというと、多くの聖人たちが、修行者たちが落ち合うところであるということで、あそこに行けば、かつて一緒に修行していた五人の者がいるだろうというので、そこへ出掛けられたという、そういう所です。
 
草柳:  このサールナートというのが、大変日本人が多く行かれる所のようで、ある店に「鹿野園」と漢字で書いた看板があったんでビックリしたんですけど、それくらい、
 
田上:  そうですね。もうまさしく鹿の遊ぶ所という言われるほど鹿がいたというんですね。
 
草柳:  さてまた先ほどのお話に戻りますが、「誰でもがブッダになれる素質、可能性をもっている」というふうに話がありましたですね。「誰でも」というのは、つまり「衆生」という言葉でよく言い表されるそうですけれども、この場合「衆生」というのは、結局は生きている生き物という意味なんですか。
 
田上:  そうですね。生き物に限定されます。先ほども申しましたように、五蘊(ごうん)から構成されているというもの、という生き物です。ですから五蘊―感覚する働きのないものは、極端に言えば感覚する働きのないものは、それはもう生き物でも生き物に入らないんです、この衆生の中には。ですから仏性があると言われる生き物というのは、この「色受想行識」の五つの要素から成り立っているもの。ですからここにはおわかりのように、霊魂がないんですよ。「霊魂」という言葉がどこにもないですね。ですから霊魂を持たないというものが、釈尊の説明のところのその生き物なんです。あるいは新しい涅槃経で説いているところの五蘊もそうですね。仏性はそういう魂のある、霊魂のあるような人間とか、生き物を考えて説いたものじゃないですね。ですから仏性は、そういう霊魂とか、いわゆる仏教以前の多くの修行家たちが言う「アートマン」―霊魂としてのアートマンの、そういう意味ではない。ですからそういうふうにして新しい涅槃経ではその違いを説明しているところもあるんですけどね。
 
草柳:  ただ「誰でもがブッダになれるのだ、というふうに言われますと、じゃ、もともとそうならば修行が大事というけれども、修行をしなくたってなれるのではないか、という声が多分きっと当時もあったんじゃないかと思うんですが。
 
田上:  それは確かに日本でもそうですよ。日本でも仏性があると、こういうわけですから人間はみんな最初から善い心をもっている。仏の心を持っている。みんな仏さまだよ、と言って、日本の仏教ではそうやってお説法する方はたくさんいらっしゃいますよ。私はそれは聞いておりますが。実際に仏性があるからみんな仏ですよとか、善い心ばかりですよ、持って生まれていますよ、という説明は、実際いうと間違いなんです。どこにもそんなもの書いてないです。つまり仏性というものがあるから仏になるとは限らない。ですから仏性というものがどこにあるか、というような問題との関わりで、そういうところは調べてみていかなければいけませんけどね。
 
草柳:  じゃ、次に紹介する経典は、当然いろいろな疑問が起こるわけですね。そしてそれに対してブッダが答えているという下りを、これはやはり涅槃経―大般涅槃経の一節をお読みしたいと思います。「獅子吼菩薩(ししくぼさつ)よ」と、ブッダが呼び掛けているわけですね。
 
獅子吼菩薩(ししくぼさつ)よ、種々の外道(げどう)では不滅のアートマンがあるというが、彼らが説く仏性は存在しない。生類の仏性とは五蘊のことである。この五蘊を離れて他に別の仏性があるのではない。
(たと)えていうと、茎、葉、雌(め)しべ、台(うてな)などが集合して蓮華(れんげ)が成るように、これらの部分を離れては花は成り立たない。
また、土壁、草木などが集まってできたのが家である。これらの物を抜きにして家は成り立たないが、生類の仏性もまた同じである。(五蘊を離れて他に別の仏性があるのではない)。
 
田上:  そうです。先ほどから説明致しましたように、五蘊というのを他の譬えで説明すれば、花とか家とか、そういうようなさまざまな部分が、要素が集まって花が成り立つ。あるいは家が出来上がるというのと同じで、人間、あるいは生き物の身体も五蘊からなると、こういうもの。その生き物の身体にだけ仏性があるんだという。それは外道というのは仏教以外の宗教なんかがいう霊魂的なような、そういうものではない。つまりここでいうアートマンというのは、前にもありましたように、新しい涅槃経がアートマンと仏性を同じだと言った時のアートマンは、仏性の意味ですけれども、他の宗教のいうアートマンは霊魂として言うわけです。そういうものはここでは関係ない。だから五蘊の中にも霊魂という言葉は、あるいはそれに類する中身は一つもないですよ。このことを言っているんですね。ですから仏性というのは、何か特別ななんか本体、実体というようなものとしてではなくて、五蘊を離れて、五蘊を抜きにして考えられるものではない。つまり五蘊というのは、寄せ集まって出来上がっているもの、そのものですから。だからそれはある時期が来ると解体してしまいますから、当然その時その仏性も、それはそこから無くなる。つまりその人の存在する、その生き物が存在する限りにおいては、その仏性はあるわけです。だからそれが解体してしまうと、その時に仏性は無くなる。その人にとっての仏性は無くなる。何故ならば、仏性というのは、ブッダになる可能性という表現ですから。だから求めようとすればあるんですね。求めなかったら無くなる。だけども、求めれば必ず見ることができる、実感することができる、証明することができる、そういうものを言っているんです。
 
草柳:  そういう意味では、ですから仏性というのは、そのものに実体があるということではない、ということになるわけですね。
 
田上:  そうです。だから一番最初に言ったように、「ブッダになる」「誰でもなれる」というのは、そのようにして、「自分の身体が存在する限りは、求めようとすれば、みんな立派なブッダになれますよ」ということだけを説明しているだけであって、そういう仏性という実体とか本体が、自分が死んでからまで、そういうものだけが生き残って生まれ変わっていくということは、どこにも説いていません。
 
草柳:  そしてさらに仏性というのは、どういうものなのか。喩えて言えばというんで、先ほどちらっと樹木の話がありましたけれども、その一節を読んでみたいと思うんです。
 
たとえば樹木の神は樹木に住むというとき、枝に住むとか、節に住むとか、幹に住むとか、葉に住むとか言わない。どこにと決まったところはないが、住むところがないとはいえない。
 
地上からそれを仰ぎ見たときに、人は鳥が飛んだ跡を見ることができない。人々には天眼(てんげん)がないからだ。彼らは煩悩に埋もれているので、自身に如来性があることに気づいていない。
 
喩えると、新月は見えないが、月そのものがなくなっているのではない。そのように仏性も生類の眼には見えないが、そのものがないのではない。
(「大般涅槃経」)
 
田上:  真ん中のところに「如来性」と書いてありますけれども、これは「仏性」というのと同じ意味ですので、
 
草柳:  先ほどの「如来蔵」と同じ?
 
田上:  同じふうに考えて頂いていいです。ここによく「あの木には神が宿っている」と、古い木に対してはよく昔から言われますけれども、「どこにありますか?」というのは指さすことができないけれども、「あの木には神が宿る」というのと同じで、「五蘊の中にある」とこういう。「じゃ、どの部分にありますか?」ということは指さすことはできないが、この五蘊からなる身体にある、という言い方ですね。で、鳥など飛んだ跡というのもわからない。よく鳥はあの跡を飛んで、渡り鳥は間違わずに渡って行きますが、人にはなかなかその跡は見えない。それは鳥の眼を持っていないから、とよく言われますが、ここでは「天眼がないからだ」というのは、肉眼で見ると見えない。そのものの身になって、そのものの眼になれば、それは見ることができる、ということをいうんですね。つまり仏性というものも、そのブッダの眼を見るものの道理がちゃんとわかる眼をもつとちゃんとわかる。簡単に言えば、煩悩を払いのけなさい、とこうですね。煩悩の煙を自分が生み出しているから煙に埋もれて見えない。月も「新月」とこうありますね、月の出ていない時は、もう月はこの宇宙から無くなっているというのは、それはものの道理を知らない人である。ちゃんと月は存在しているんだけれども、ものの道理がわからない人は、あ、月は消えてしまって、この宇宙にはないと考えるが、それは愚か者の考え方ということで、譬えたのですね。仏性も生類の眼には見えないけれども、それは肉眼で見るからだ。だけども、無いというのではないんだよ、ということを言っている。結局はここのキーワードは、煩悩を払いのけなさい、と。煩悩を払いのけていくならば、ものの道理がちゃんと見えるようになる、とこういったところです。
 
草柳:  その煩悩を払いのけるためには、先ほどから出ている八正道を実践することである、という。
 
田上:  まったくそうです。それに尽きます。
 
草柳:  今のこれも、ブッダは菩薩に向かって諭しているわけですか。
 
田上:  質問の相手が菩薩ですから。菩薩が代表して質問しているわけですから。ですけども、これはすべての人に言っているのと同じです。ブッダは、決してある限られた人だけにわかるような教えとか、その人だけが、あんた他の人たちには関係ない教えだ、ということではないです。これは普遍的な教えとして、それは説いているわけですから、代表者が獅子吼菩薩(ししくぼさつ)に過ぎないんですね。
 
草柳:  後は菩薩たちが、この言葉を納得するかどうかなんですが、相当しつこくこの経典の中では食い下がっているわけですね。
 
田上:  そうですね。
 
草柳:  それに対してまたブッダがこういう答え方をしているという一節です。
 
獅子吼菩薩よ、君の質問は正しくない。仏性とブッダが同じであるといっても、生類は実際にはまだブッダの特徴を具足していない。つまり生類にはまだ三十二相八十種好相(ごうそう)(ブッダになった人だけにある特徴)が備わっていない。
(「大般涅槃経」)
 
田上:  獅子吼菩薩が、ブッダに対して、「あなた仏性がある」とおっしゃった。つまりブッダになる可能性をみんなもっているとおっしゃった。だったら私も持っているんだから、あるいは他のものも同じように平等に持っているんだったら、もうブッダと同じじゃないか。別に修行する必要がないじゃないか、というようなことと同じですね。ですけども、先ほど申しましたように、「みんなあなたたち、ブッダですよ。仏ですよ、と説法されるけれども、そんなら何にも坊さんになる必要も出家もない。それなりのものをしなくてもこのままでいいじゃないか」と。そうしたら、「とんでもないことだ、と。君の言っているのはとんでもない、と。それはお前はそんないうけれども、ブッダと同じと言っても、まだまだブッダとしての特徴、品格、あるいはそういう雰囲気、そういうものを備えていない」と。具体的にいうと、三十二相八十種好相という、まあこれは後から付けられているものなんですが、釈尊にこの三十二相八十種好相に従って彫刻をすると、化け物のような形になるんですが、そのようなものを特徴とする。だからブッダになった人だけにある特徴というものが修行していないものにはそれはない、ということがこの裏にはあるわけです。
 
草柳:  この「三十二相八十種好相」というのは、ちょっと聞き慣れない言葉なんですけれども、
 
田上:  具体的にいうと、仏像を見られると、ここに耳たぶが肩まであるとか、あるいは螺髪(らほつ)がありますし、肉髻(にっけい)があるとか、仏像の仏さまの脇の下に瘤があるとか、手が膝のところまで伸びるとか、いろいろ特徴があるんですよ。それを特徴を全部表現していくと化け物になるんです。だから三十二相というのは、これは作られたもので、実際に普通の人間とは違うんだ、ということを表現したいところなんですね。
 
草柳:  姿形、顔形というのをこの言葉で言い表しているということなんでしょうか。さらにブッダが、次の言葉を言っている。これも大般涅槃経からなんですが、
 
仏性も同じである。それは過去になくて現在になって現れるものではない。内のものでもなく、外のものでもない。あるのでもなく、ないのでもない。こちらにあるのでもなく、あちらにあるのでもない。といって他のところから来るものでもない。因縁がなくて現れるものでもない。見られないものでもない。時節が到来し、因縁が和合したときに見られる。
時節とは、八正道を修めて、生類を平等に見られるような心境になったときをいう。そのときになって見られるが、それは自然(じねん)に行われる。
(「大般涅槃経」)
 
田上:  出だしのところは、過去に無くて今あるとか、内にあるとか、外にあるとか、いろいろと限定して説明しようとすると、それは偏ったものの見方になるわけですね。つまりもともとの釈尊の最初の説法―初転法輪ですね、いわゆるそこの最初の説法のところで、「中道(ちゅうどう)」ということをお説きになったのは、物事を判断したり、あるいは行ったり、考えたりする時には、極端な考え方はするな、というところに尽きるわけです。そういうようなことで、ここにブッダは、昔無くて、今にあるとか、今あって昔無かったとか、あったとかということで限定していうものではない。あっちにあって、こっちに無いとかじゃない。すべて因縁がなくてというので、因縁があって、つまりここで因縁というのは、原因と条件。「因」は原因、「縁」は条件です。原因と条件が必ずそこに重なって、そしてものも現れるものだ。これが衆縁和合です。だからそこでは見られないと思うんじゃなくて、必ず見られる。時節が来れば必ず見られるし、条件と原因が和合した時には必ず見られる。そういうふうにして、時節因縁が来たらというので、「時節因縁到来」という言葉がよく使われます。時節因縁到来すると必ず物事は成就する。これは何も仏教の言葉だけじゃなくて、使い方ではなくて、日常生活でもそうですね。何でも花でも栽培している穀物でもそうです。時節因縁が到来すれば、見事実るという、あるいは開花するという意味です。時節というのは、これは仏教の意味で、人間に限られて説明しているわけですから、時節というのは物事の生き方の中で、あるいは日常の生活で八正道を必ず修めて、そして自ずからあらゆる生き物に対して差別なく、慈しみの心をもって平等に見られるような心持ちになった時、その時はまさしくこれが時節、そしてそれが必ず原因と条件というものがそこに絡まっているわけですが、そのようにして時節が来れば、自ずから見られる。見られるんだけれども、それは自分の力で無理矢理見ようとするんじゃなくて、「自然(じねん)に」という言葉があります。普通は「しぜん」と読みますけれども、本来はこれは「じねん」と読んでいたものが、明治の頃になってからですが、これを「しぜん」と読むようになったんです。昔は自然(じねん)と読んでいた。この自然(じねん)に行われる。そこが難しいところで、何にもしないで自ずからにしてそうなる、というのは、なるように委せるということじゃないです。その前がおわかりのように、必ず八正道を修めるという。必ず実行しなければならないものがそこにある。そういうやることをきちっと修めて、そして世の中のすべてのものに対して慈しみの心をもって、自ずからにしてそれを平等無差別に見られるような気持になった、そういうふうになって自分を調えておくと、自ずからにして仏性というものが見られる。ですけど、それは自然(じねん)に行われるというんですけれども、もう見られるという時は、もうあなたはブッダですよ、と言っているんです、これは。仏性というものを見るというのは、どういうふうに見るか、というのは、見るんじゃないんですね。ここでいう見られるようになりますが、「それは自然(じねん)に行われる」といったのは、その時にはもう自然(じねん)に見られるようになった時は、あなたもブッダそのものですよ、ということ。ブッダになった時ですよ、という意味です。その時、いつなりました、ということを自分が自覚することでもない。だから何回も前から言いましたが、ブッダになった、といって、「俺はブッダになりました」と言って、人に公言するものではない。あの人はまさしくブッダになった人だなあ、って、人々から尊敬され、思われ、呼ばれるようになった。えっ!って、自分でそういうふうに気づかされるか、そういうふうに周りの声が出てきた時に、それがああ自分はブッダと言われるような人間になったのかなというふうに自覚することになるわけです。ですから、これで知っているのは、まさしく平等に人々、生き物を見て、慈しみの心をもって憐れみの心をもって生きていく、ということを続けていくうちに、自ずからにして、あなたはブッダになる、というのを、仏性が見られるようになる、という意味ですよ。
 
草柳:  だって八正道と言っても、その修行を修めきるなんていうことはないわけでしょうからね。
 
田上:  僧、それは出家者です。出家者も最後まで仏性を修めきるということはなかなか難しいでしょう。だから前々回ですか、出家者たちの中に、私はこれだけのものをやってきた、という自信はありますけれども、それで終わっていないんですね。私は死の時が来るまでを一生懸命こうやって続けます、と言っているわけです。
 
草柳:  とにかく人事を尽くさなければダメだ、と。
 
田上:  そうです。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますね。まさしくそのような言葉を言っているところですね。
 
草柳:  どうも今日は有り難うございました。
 
     平成二十三年八月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである