ブッダの最期のことばE衆生は仏性の現れ
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「ブッダの最期のことば」の第六回目です。今回のテーマは、「衆生は仏性の現れ」ということなんですが、前回に引き続いて、前回は「誰でもブッダになれる可能性をもっているのだ」という話だったんですが、今回はさらにその発展として、衆生とは何なのか。あるいは誰というのは何なのか、ということも振り返りながら、さらに踏み込んだお話を伺っていきたいというふうに思っています。お話はいつものように駒澤大学名誉教授の田上太秀さんです。よろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  前回は、勿論前々回も仏性のお話だったわけですが、そしてその仏性というのを、「誰でもブッダになれる可能性をもっているんだ」ということだったわけですね。「誰でも」ということもそうなんですけれども、それぞれ違った生類に固有の仏性がある、ということなんでしょうか。
 
田上:  「固有の」という言葉は、それ独自のもの、ということで、他とは違うんだ、という意味でありますけれども、実は生類それぞれに固有のものの仏性があるとは、どこにも書いてないんです。つまり言わんとするところは、例えば生類と言いましても、人間を初め、他の牛とか馬とかそういう動物、さらには鳥、あるいは犬、猫、あるいはもっと小さくいうと、サソリとかゴキブリとか、ハイエナまで、そういうようなものまで考えなければいけません。そういうようなものは、それぞれの独自の仏性を持っているのか、というと、いや、そうではなくて、「仏性は唯一のもので、みんなに共通して同じものである」ということを意味するわけで、固有のものではなく、共有されているもの、同じものが共有されている。別な言い方をしますと、こういう難しい言い方をしていますけれども、それはどんな生き物でも、みんなブッダになれますよ、ということを教えているところです。つまり五蘊(ごうん)からなるもの、つまり何度もこれまでお話しましたけれども、釈尊は、生き物の身体は五蘊(ごうん)からなっている。つまり「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」「地水火風」からできているこの身体、そしてその身体が感覚する働きをもっております。そういうものを分類しますと、五つになると。物質的な要素と、それに備わる感覚作用、そういうものを五つに分けたんですが、それを「五蘊」と言いまして、その五蘊からなっているものが生き物の身体です。その身体をもっているものは、たとい人間以外のハイエナであろうが、ゴキブリでも、犬でも、猫でも、みんなそれは五蘊からなっているものでありますから、それはみんなブッダになる可能性がある。別な言い方をすると、みんなブッダになります。素晴らしい人格者になることができますよ、ということを言っている。ゴキブリが人間のようになるか、というのは、これはまた後の話になりますけれども、つまりみんな仏性をもっているということは、そういう意味であります。で、人間の方に引き寄せて考えますと、人間、この新しい涅槃経が創られたインドで、あるいは古い涅槃経もそうですけれども、インドで創られた、あるいは纏められたお経ですけれども、インドには古来、人間を身分的に差別している階級というものがあって、あるいはそれを生まれによって人を差別する、というようなものがありました。そうしますと、一番上の良い生まれの人間と非常に劣っている生まれの者は、というふうにして、そのようにいろいろと差別をする。謂われなき差別ですけども、勝手に意味されるんですけれども、そういうふうにしますと、上の階級の者が持っている仏性と、下の者が持っている仏性が違うんだ、というふうにしますと、ブッダになるというのが、ブッダそのものの意味が変わってきますでしょう。そうでなくて、ブッダになるという意味においては、どんな階級の人間であろうとも同じである、と。それが共有されている。同じものを持っています、と。ですから四つのカースト(caste:インドの世襲階級制度)でいうと、一番上のバラモン、一番下は、階級の外れているアンタッチャブル(untouchable:インドの最下層の人たち、不可触賤民)と言われるような人の持っているものの仏性でも、同じ仏性で、みんな人間という範囲で限定しますと、どんなところの生まれであろうと、どんな階級のものであろうと、立派なブッダになれますよ、ということを共有している、という意味で説明したところです。
 
草柳:  その涅槃経の中で、端的に分かり易くそれを言っている部分がありますね。それを読んでみます。
 
生類の身体はみな異なり、多数であり、多様である。しかしその身体に内在する仏性は一つである。なぜか。たとえば毒を乳に混入したとしよう。これから熟成した醍醐(だいご)にも毒は含まれる。ヨーグルト、バター、チーズ、醍醐と名前は異なるが、乳から毒性はなくならない。五つの味にその毒性はある。もし醍醐を飲むと死ぬ。しかし醍醐そのものは毒ではない。生類の仏性も同じである。六道にあって違った身体に宿っているが、仏性はつねに一つで不変である。
(「大般涅槃経」)
 
大変分かり易い譬えですね。
 
田上:  これが「生類の身体」というのは、五蘊からなるもの、という意味です。ですから先ほど言った人間に限らない他の生き物たちも、みんな一つの仏性をもっている、ということを説明するのに、毒をもって喩えたところは、いささか異様で強烈でありますけれども、毒性を含むと、それはどんな形のものになっていっても変わりません、ということで、毒をもって仏性を説明しようとしたわけですね。ここでは乳を熟成していくと、ヨーグルト、あるいはバター、チーズ、醍醐というふうに、いろいろと形も色も味も変わっていく。ですからこれがいうなれば別な意味で言いますと、醍醐というのが一番いい味のもの、よく日常使われる「醍醐味」という、何とも言えない良い味という意味で、これは特に詳しい説明というのはあげられないんですが、いわゆる「醍醐味」と言った時は、言葉では説明できないほど素晴らしい味という、そういう意味です。これがいわゆる階級の意味でいうと、一番上の階級。チーズ、バター、ヨーグルト、乳というふうになりますと、これは一つひとつ階級が下になっていく。身分が下になっていくというところで説明したものですが、こういうようにいろんな生まれによって、人が差別されているというのを、この乳のところで説明して、最初に乳の中に毒が混じると、どんなに色形が変わっていっても、ずっとその毒はなくならないで、最後までありますよ、ということを説明したところです。それが仏性というものも、身分とか階級とか、生まれとかに関係ない。みんなそれは共通してもって、どんな人間でもみんなブッダになれます、というのを、こういう形で説明したものです。ですから何もこの毒という言葉を使わないでもいいんですが、作者が当時そういうように強烈なものとして、これは使ったところで、異様でありますが。
 
草柳:  これは仏典の中では、大変な有名な譬えでもあり、よく聞かされるものですね。
 
田上:  よく聞かれます。ですからそういう意味でちょっとここで紹介したんですけども、いささかちょっと強烈ですから、あまり適切ではないんですけれども、そういうように理解して頂ければ、と思います。
 
草柳:  そうやって、仏性というのは、つまり身体の中に内在をしている。つまり共有である。だけどこれが仏性だ、というふうに、特定ということは、もちろんできない。
 
田上:  そうですね。誰でもブッダになりますよ、と。つまり立派な最高のそういう人間、前にも説明したように、勝れた品性をもっている。完成された人格、人格が完成されたような人間になれますよ、ということは言いましても、みんなそういう可能性を持っている、と。じゃ、それはどういうふうな形であるか、と言った時に、なかなかこれは説明するのが難しい。「どういうふうにありますか」と聞かれると、大体この経典にも書かれてあります。その時に新しい涅槃経では、ブッダが、「仏性は有るとも言えないし、無いとも言える」というふうにして説明するんですよ。有ると言ったら、どんなふうに有るか。無いといったらどんなふうに無いというのか。そういうのを、譬えで説明しているところがあるんです。
 
草柳:  大般涅槃経の中にあるんですね。
 
田上:  そうです。新しい涅槃経にあるものです。
 
草柳:  これもよく読んでみないと、ちょっとわかりにくいんですが、
 
迦葉(かしょう)菩薩よ、仏性はあるでもなく、ないでもない。その理由は、仏性はあるといっても虚空(こくう)(空間)のようなものではないからだ。世間でいう虚空は方便を使っても見られない。ところが仏性は、方便(たとえば八正道を修めること)を使うと見られる。だからあるという。したがって虚空のようではない。仏性はないといっても兎の角とは違う。なぜならば、亀の甲羅(こうら)の毛や兎の角は方便を使っても生えないからだ。ところが仏性は生ずる。ないといっても兎の角とは違う。だから仏性はあるともいえないし、ないともいえない。
(「大般涅槃経」)
 
込み入っていますね。
 
田上:  先ほど、「仏性はどういうふうにしてあるんですか」と言ったら、指さして「こういうものです」ということを示すことはできない。「じゃ、ないんじゃないですか」と。「いや、あるんだ」「あるんだったらどんなふうに」と言ったら、それもなかなか説明できない。で、「どんなものですか」と言った時に、「あるでもない、ないでもない」というふうにして、なんか禅問答で誤魔化されているみたいですけれども、それにはそれなりの理由でもって説明するんですが、ここにありますように、「仏性を、あなたはあるとおっしゃるんですが、それはどういうふうにですか」と言ったら、「あるというんだけれども、それは喩えれば空間のようなものだ、と。あるいは空(そら)というふうに指さすことができる。そういうものだ」といって、「じゃ、空と言ったって、掴もうとすると、手で握ることもできないし、じゃ、どんなものですか」と言ったら、インドではこの「虚空(こくう)」という説明をする時に、あらゆるものが存在できる場、場所のことをいうんですよ。この宇宙は、あらゆる星が存在しますね。その星が存在する場が、それが虚空と説明するんです。ですから、ものが存在していると、その存在している場を提供しているというか、それを邪魔しないでそこにあらしめている場が、それが虚空と説明する。じゃ掴めるか、と言ったら、それ掴めないんですよ。どんなにやっても、それは掴むことのできないものが虚空と説明する。それを仏性。だから掴めないんだけれども、実際にあるわけでしょう。虚空は存在しているわけです。ものが存在している場を提供しているんですから、あるわけです。それと同じなのが仏性だ、と、こういうと、じゃ、仏性は掴めないんじゃないですか、とこういう。いや、そうじゃない。虚空は確かにいろんな手を尽くしてやっても掴めないけれども、仏性はここにあるように、方便を使うと掴めますよ、見られますよ、と。「それは何ですか」と言ったら、「八正道を修めれば」というんですね。つまり八正道を実践すれば、仏性はあなたのものになる。つまり今まで言ったように、八正道を実践すれば、みんなブッダになれますよ。
 
草柳:  「八正道」というのは、仏教の修行の基本のようなものだ、というお話がありましたですね。
 
田上:  はい。それを方便として、それを実践すれば仏性は見られます、と。だからあると言っても、まったく掴みようのない虚空とは違います、という、そういう説明です。次に今度は、「無い」と言っているんですね。それは「あるでも無いでもない」。「無いでもない」というんだから、「じゃ、どういうもので、あなた、説明するか」と言ったら、それは兎の角のようなものだとか、あるいは亀の甲羅に毛が生えてこないわけですが、そういうものと同じだ、と。そういう意味で、「無い」という意味を喩えでもって説明した。兎の角は、どんなに生やそうとしても生えてこない。亀の甲羅の毛も、これも絶対生えてこない。だが、そういう意味で、仏性も無いという意味には、このようなものとして説明したわけです。じゃ、そういうんだったら、仏性は全然無いというんだから、もうどんなに、あなたが仏性が、ああだ、こうだ、と説明したって、仏性はないんだから、ブッダになれないじゃないですか、という、こんど質問がくると、いや、亀の甲羅の毛や兎の角はどんな方便を使っても生えてこない。だけども仏性はそれとは違う。何故なら、八正道を修めると、必ずそれは生えてくる。つまり見られるんだから。無いといっても、兎の角のような、無いというあり方とは違う。そういうことで、有るでも無いのでもない、というんだけれども、基本的に八正道という、これを実践するという人間の行いの問題がここに説かれている。
 
草柳:  ここでも、「八正道」というのが、キーワードと言えばキーポイントになりそうなんですが、平たくいうと、今のことというのは、つまり修行をすれば仏性は現れてくるのだ。逆に修行しなければ無い。
 
田上:  修行しなければ、有るも無いも関係ないんですよ。だから前にも言いましたように、仏性というのは、ブッダになる可能性、と説明致しました。その可能性というのは、あなたが有ると言っても、それを実践しなければ身にならない。実践しないと、それは無いに等しい、ということと同じなんです。結局は、有るとか無いとかいうのは、要するに頭の中で言っているだけであって、あるいは言葉で言っているだけで、それは有るも無いも、結局は指さすことができないけれども、あなたが同じように、この八正道を釈尊と同じように実践すれば、そういう有るも無いもそういう議論することはない。必ずそれはあなたのものとなる。あなたもブッダになれます、ということで説明しているところです。だから論争はそこからなくなっちゃうんですね。
 
草柳:  くどいようですけれども、ちょっと確認しますと、「誰でも」というのは、人間以外にも、虎でもライオンでも兎でも何でも、つまり生きているもの、
 
田上:  生きているもの、五蘊からなる生き物は、みんな八正道を実践すれば必ずブッダになれます、ということです。
 
草柳:  だけど、兎がどうして八正道を実践するのか、というのはありますね。
 
田上:  そうです。それが必ず出てくる質問ですけれども、それは今の段階では、なかなかそれは出てきません。それは兎がどのような生き方をするか、というのは、人間の側から見ただけでは、それは人間のようにはできないよ、というふうにして言い切ってしまうかも知れません。しかし世の中には、今まで話ましたように、衆縁和合でありますから、あらゆる条件とか原因というものが、これが絡まり合って、それが時節が熟してきたら、時が熟してくれば、もしかしたらですよ、可能性がないわけじゃないですから、可能性があるんですから、必ずそれはそこに条件を与えれば、兎も仏性を持っているわけですから、八正道を修めることができることがある、ということは否定できない。
 
草柳:  これはまた後でもう一度お伺いしたいんですが、今仏性をこういうふうに捉えた、と言ってみれば、仏性の捉え方、仏性をどう見るか、ということによる第一ステップというか、第一段階ですね。
 
田上:  そうです。まさしくそうです。ですからこれからもう少し進んでいって、結局はそこで今度は八正道を修めていくというわけですけれども、今度は有るとか無いとかという論争は、もうあんたがやってみることですよ、ということになるわけですけれども。
 
草柳:  仏教の仏性についての短い端的な言葉で、衆生と言っても、あらゆるもの、という意味で、一切の衆生悉く仏性があるだ、という言葉がありますね。
 
田上:  このすべての衆生の中に、この衆生というのは、ここの有るのは生き物ですね。生類です。生類には悉くに、有仏性ですから、仏性があります。つまりみんなにブッダになれます、とこういうんです。今草柳さんがご質問ありましたように、兎が八正道を修めることができるでしょうか。極端な言い方をしますと、ハイエナもゴキブリまで、極端なところにまで衆生という範疇が生類の中に入りますから、それは仏性があるわけです。つまりブッダになる可能性を持っている、と説明しているわけですね。ですからそれは結局は、今は違うかも知れませんけれども、時節がくると、というのが、何度も前の回にありました。時節因縁がちゃんと到来すれば、という。時節が、というのは八正道を修めて、そして因縁―原因と条件がちゃんと調ってくれば、というわけですね。これを原因と条件ですから、兎でもゴキブリでもハイエナでも、何かの条件が重なってきて、そしていずれそのものが八正道を修めるような可能性が出てきたら、必ず時が熟すれば、彼らもみんなブッダになります、という。ですから今そういうところまで範囲を広げましたけれども、我々今人間だけに限定していきますと、どんな人でも必ずそれなりに条件を調えていけば、つまりはっきりいうと八正道を実践すれば、時が熟した時にみんなブッダになれます、ということで、時節因縁到来ということ、それは一切衆生悉有仏性で、つまりどんな生き物でも必ずブッダになる可能性をもっているからだ、という、そういうところにあるわけです。
 
草柳:  つまりそれが第一段階とすれば、つまり誰でもブッダになられる可能性をもっている、というところから、さらに涅槃経はどういうふうに深く読んでいくわけですか。
 
田上:  今度はそれをさらに内在する、つまりみんなそれの中に、五蘊の中にありますよ、と言ったんですけれども、いや、そうではなくて、もう少し展開をしていくと、これはもう少し新しい涅槃経の説明はいろいろありますけれども、そこの説明を流れていく途中で、ガイドブックを見て頂くとまたわかりますけれども、そこにはすべて五蘊からなる生き物も、みんなそれは衆縁和合して生きているわけです。独立しているものはない。みんな寄り合い、みんな寄り集まって、集合して依存して、繋がりがあって、みんな生きているわけですから、全部生きているものは、人間だけではない、草木に至るまで、となります。そうすると、そこで一切衆生の中に仏性があるんではなくて、それも一つの第一段階だけども、本来は衆生が即ち仏性ですよ、という説明になってくるんです、新しい涅槃経は、
 
草柳:  そのものがですか?
 
田上:  そのものが。生きと生けるものが、そのまま仏性です。つまり今までハイエナとか何とかというものの中に、仏性が有るとか無いとかで論争しました。ところがそうではなくて、もうそのものの生き様そのものが仏性そのものだ。つまり仏になる可能性そのものの働き・動きである、というふうに説明する。つまり一切衆生即ち仏性です。全然中にあるじゃなくて、そのまま。つまり現象しているものが、そのままブッダの現れである、という、そういう言い方をしようとしたんです。
 
草柳:  その辺のところを涅槃経で、どういうふうな言い方をしているのか、ということなんですが。
 
田上:  言うならば、「悉有仏性」という間に「が」が入るような「悉有が仏性」という意味です。悉くの、有は存在ですね、存在しているもの、衆生が仏性がです、と説明したんです。
 
草柳:  涅槃経の一節を読んでみたいと思います。
 
生類の中に別に仏性があるというなら、その考えは正しくない。生類がそのまま仏性であり、仏性がそのまま生類である。ただ時節が異なるだけで、清浄であるか不浄であるかの違いにすぎない。
(「大般涅槃経」)
 
つまり生類がそのまま仏性だ、というのは、今、田上さんがお話した通りですね。で、それが時節が異なるだけで、清浄であるか、不浄であるかの違いだ、というのは、どういうことですか。
 
田上:  これはどういうことかというと、ブッダであるか、凡夫であるか、の違いというのは、よく我々は「凡夫凡夫」というけれども、あんなブッダになることは難しい、とこう言います。それはあんなところは我々の関係ないものである、とこういうけれども、いや、それはそうではない。あなたたちその存在そのものが、仏性そのものなんだ、と言っているんだけれども、前にもありましたように、じゃ、俺は仏か、ブッダそのものか、と。いや、それはまだそうじゃない。それはまだ八正道というものを実践していないから、ブッダとしての品格も品性がない、とありましたね。単純にそう思っていない、で、そこが何がじゃ違うか、と言ったら、それは修行しているものは、完成したものはみんな煩悩が起こってこないし綺麗なものである。まだ凡夫はそれをやっていないから、中身がまだ煩悩が蠢(うごめ)いているから汚いものである、という、そういう表現したところです。つまり時節が異なる、というのは、修行をしているか、していないかの違いだ、といっているところです。ですからみんな持っているんです。みんな持っているけれども、そこの違いは何か、と。つまり悟れば仏だけれども、迷うと凡夫だ、と。衆生だ、とこういうのもありますけれども、つまり世の中の道理というものが、実践していくことによって、こうだとわかった時に、それがまさしく人々からブッダと言われる。わからない時が、それは迷える凡夫という、そういう意味です。それを清浄とか不浄とかと説明したところですね。
 
草柳:  生きとし生けるものというか、衆生がもうそのままの姿が仏性なんだ、ということになりますと、それはもう既にじゃ仏性がそこに現れている、ということなんですか。
 
田上:  ただ、この仏性も、生きとし生けるものに限定されておりますから、仏性でないものがいるわけですね。いわゆる無情のもの―心の無いもの、感情の無いもの。あるいは五蘊からなっているわけですから、受想行識―心を感覚する働きを持たないものは、それはこの衆生の中に入らないんですよ。それが新しい涅槃経にちょっとありますので見てみましょう。
 
草柳:  じゃ、その文言を読みましょう。
 
仏性でないものはいわゆる土壁、瓦礫、石ころなどの無情の物をいう。これら無情の物を離れたのが仏性である。
(「大般涅槃経」)
 
田上:  ここにこれ重要なんですよ。今まですべての衆生というものは、みんな仏性だ、と説明しましたけれども、ここに衆生が生きとし生けるもの全部、と言った時に、生き物でない、無生物にまで衆生というのを理解しようとしますから、涅槃経はこれをそうではないんだよ。土、壁、瓦礫、石ころ、別な言い方をすると、山や川、そういう草木に至るまで、そういうものはみんな無情のものではない、というふうに説明しているんです。ですから五蘊からなるものに限定して仏性そのものである、と言ったところです。後に山川草木ですね、いわゆる山や川に至るまで、月や太陽までも仏性が有るとか無いとかというようなこととは違いまして、ここではちゃんとそういうものは仏性とは関係ない、ということを言おうとしている。つまりブッダにはなれない。
 
草柳:  ということは、今の仏性でないものがある、という涅槃経の言葉というのは、同じ涅槃経で、今までずっとあらゆる生きとし生けるものは、と言ってきたことと、決して矛盾はしていないわけですか。
 
田上:  そうですね。後になってくるのが涅槃経で言っていないところで、これは涅槃経はすべて生き物という限定していますから、五蘊から構成されている身体を持っているものだけに仏性がある。そしてそのものが仏性の働きである、という言い方ですから、土壁とか瓦礫とか石ころなんかは五蘊からなりませんでしょう。つまり心がない。感受作用も感覚作用もないわけですから。そういうものは仏性とは関係ない。つまり仏性を持つ、あるいは仏性というものをもっているということはあり得ない。何故なら八正道というものは、これは生き物でしかできないものですから。月や太陽が八正道を修めることはないわけですね。山や川が八正道を修めることはない。山や川が八正道を修めるなら、洪水や地震やなんかない筈でしょう。
 
草柳:  さっきちょっとお触れになったように、つまりその解釈というのはどんどん広がっていくわけですね。
 
田上:  勿論。後の、結局は一切の衆生の、衆生の意味を拡大解釈をしたことによって、衆生即ち仏性というのが、そういう五蘊から構成されている生き物というのに限定しないで、存在するもの、原語の意味は「サットヴァ」と言うんですが、「サットヴァ」と言いますと、それはまさしく存在するものですから。そうすると山や川でも石ころでも土壁も、みんなこれは存在するものです。太陽も月も存在するもの。そういう意味に衆生を解釈すれば、今度はそれはみんなこのようになるもの、生き物―生物、無生物に拘わらず仏性がそのものである、という。
 
草柳:  何故そういうふうに、拡大解釈をしていかなければいけなかったのか。拡大解釈をしていったのか、ということについては、後半またさらに詳しくお話をして頂くことにして、いつものようにここで少しまたインドの聖地の映像を見てみたいと思うんですね。今日ご紹介するのは、勿論これも聖地の一つなんですけれども、ラージギル(王舎城)ですね、王舎城があったところ、それをじゃ少しご覧頂きましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
草柳:  今、霊鷲山(りょうじゅせん)という、釈尊が説教をした、教義を広めるための場が出てきましたけれども、今あそこへいくのには道も非常に登りやすく、コンクリートになっているそうですけれども、田上さんもいらっしゃった時は如何でしたか。
 
田上:  私は、現職の頃には、大学の三、四年の学生の人たちを連れて、十回ほど行きましたけれども、あそこはなかなか最初の頃は今みたいに舗装されてなくて、石段のガリガリのところですけど、まあ大変強烈な印象を持ったところです。あそこによく瞑想しておられて、そして説法された、というところで有名で、紀元後の経典の中には、そこの霊鷲山でよく説法された、ということが書かれてあります。あの霊鷲山というのは、あの上の方を下から見た時に、岩山が鷲の形をしているように見えて、それでそこに鷲がそこに留まっているように見えた、ということですね。ここでもう一つ王舎城というのは、「城」と書いてあるから、キャッスル(castle)で、日本の、例えば大阪城とか熊本城とかという、ああいうふうなことを頭に置かれると違います。そういう高い建物があったんではなくて、城壁があって、それでそこに囲まれている都市がそこが城という意味です。ですから例えば中国でも「何とか城」と書かれた時は、塀で囲まれたところ。出口が東門、西門、南門とありますように、そういうふうにしてあったものですね。ですから日本のキャッスルのような、ああいうものを連想されるとちょっと違います。
 
草柳:  ここも大変観光客には人気のあるところで、日本人も随分行かれるそうですけれども、さて前半の話に引き続きということで、次のステップと言いますか、だんだん解釈が広がっていくということなんですが、端的には、例えば「悉有」悉くがあるんだという、その読み方が変わってきたということのようですね。
 
田上:  そうです。「衆生」という原語はサンスクリットで「サットヴァ」とこう言うんですが、これは存在するもの、あるいは存在している、ということを、その状態をいう意味ですけれども、存在するもの。つまり分かり易いように、存在するもの、というんですから、この場合には、この地球上だけでなく、宇宙に存在しているあらゆるものですね。形あるもの、そういうものはみな、という、そういうものを含めて言っている。それがみんな仏性そのものである、というのが、「一切衆生即ち仏性」というふうにして、新しい涅槃経は後半の部分にそういうふうにして、考え方を発展されたわけですね。前とは違う内在するんではなくて、現れているそのものが仏性である。つまり働きそのものが仏性、つまりみんなそれはいずれブッダになる、そういうことが予想される、予定されているもの、という意味です。そういう考え方は、先ほどもちょっと申し上げたように、太陽まで月まで星まで拡大解釈していきます。身近なところでいうと、その辺にある石ころに至るまで、あるいは山や川もみんな仏性そのものの現れである、という、そういう表現になるわけですが、この考え方が日本には出てまいりまして、「一切衆生悉有仏性」と「一切衆生悉皆成仏」という、これがいわゆる最初の考え方ですね。その次に中国や日本に入ってまいりますと、一切衆生がみんなこれはブッダになれます、という「悉皆成仏」という、そういう言葉が出てくるんです。草木―山川草木と言ってもよろしいんですが、草木に至るまでという「草木国土」という「国土」も入るんですが、草木や国土、山や川に至るまで仏性がある、とこう言っている。同時にこれは仏性そのものだ、という言い方になるわけです。ところが仏性そのもの、というだけでは収まらないんですね。ここにありますように、「草木国土」、あるいは国土を略しておきましたが、みな成仏する、と書いてある。つまりブッダになる、というふうにもう限定してしまうんです。あるぐらいならいいんですけれども、みんなブッダになることを全部言ってしまうんですね。
 
草柳:  ブッダになれる可能性ということではなくて、
 
田上:  ブッダそのものになります、と断言しているわけです。つまりそうなると、国土という中には、土壁であろうと、石ころであろうと、あるいは山であろうと、みんなそういうものもブッダになる、ということになる。で、さらにはこれをどんどん展開していくわけですけれども、この考え方は中国にもう既に現れてきていて、それを日本で今度は仏教のお経が導入されてきますと、伝教大師最澄もそうですけれども、この方は木や石にまでこれ仏性がある、とこう言った。
 
草柳:  最澄(日本天台宗の開祖:766-822)というと平安時代ですね。
 
田上:  そうです。そして弘法大師空海(真言宗の開祖:774-835)さんは今度はそういうもの、一切のものがみんな成仏する、とまで言っておられるんですね。そうすると、もう伝教大師と弘法大師は、どちらもそういうふうにして、すべてのものが、五蘊から構成されている生き物だけに限らない無生物に至るまで仏性がある、というのが伝教大師。弘法大師は、成仏する、仏になる、とこういった。これを受けたようにして、例えば鎌倉時代になると、みなさんご存じのように、親鸞聖人とか、道元禅師とか、日蓮上人がおられますけれども、親鸞聖人は今度は、それをみんな成仏する、という。そして日蓮上人もこれはみんな成仏する、といった。ところが道元禅師は、成仏する、とは言わない。悉有仏性であるんですけれども、それはみんな太陽も月も、とこういって、具体的な例をあげて説明するんですね。
 
草柳:  道元の『正法眼蔵』の中から、その部分をまた読んでみたいと思うんですが、
 
草木国土これが心(しん)なり、心なるがゆゑに衆生なり。衆生なるがゆゑに有(う)仏性なり。日月星辰(にちげつせいしん)これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。
(「正法眼蔵」仏性)
 
田上:  ここで「心」というのが出てきまして、心というのは、私ども、この生きとし生けるものの無常といわれるものは、心をもっている、とこう言います。その心というものは、生き物だけしかないと思っていたら、ここでは草木国土ですよね。草や木、あるいは山や川に至るまで、それがみんな心である、とこう表現した。心をもっているが故に、心そのものなんだから、これはみんな生きとし生けるものですよ、という、そういう表現がここで「心なるが故に衆生なり」という。衆生であるならば、みんな仏性をもっている筈だ、というふうに断言された。さらには展開して、太陽や月や星に至るまでこれ心だ、と言った。みんなこれも仏性をもっている、と。簡単に言えば、この宇宙のすべてのものは、みんな心の現れというか、心そのものである。衆生そのものである、と。だから仏性があるといっておかしくない、と、こういう説明ですよ。ですけども、心というものをどう解釈するか、といった時に、これをなかなかいろいろ説明するよりも、仏教のことを知らない人でもなかったわけですから、五蘊の中の「受想行識」心というふうに考えると、感覚する働きを総称したものですから、そうするとみんな草や木や山や心も、みんな感覚しているんだよ、と。それは一つの信仰の世界、人生観でもあるわけですから、これをそうじゃない、と言って、否定したり、批判したりすることはできませんが、道元という人はそのようにしてこれをみたわけですね。宇宙、自然界を。
 
草柳:  さらに日月星辰ですから、太陽や月や星まで、つまりそういった無生物も当然のことながら、その繋がりでいけば仏性をもっているんだ、と。
 
田上:  ところがですね、道元禅師は、「仏性はある」とはいいました、あるいは「仏性そのもの」というふうに言いたいわけですね、心そのものですから。ですけども、「成仏する」とは言っていないんですよ。つまり「ブッダになる」とは言っていない。空海さんのように、「成仏する」とか、あるいは日蓮上人のように、「成仏する」とかとはどこにも言っていない。何故道元さんが、成仏するとは言わないで、「仏性があるだけ」というふうになったかというと、道元という人は非常に実践というものを厳しく、例えば坐禅というものを通して、すべてのものの基本は坐禅である、と。だから坐禅をするということを通して、その目指すものというのが考えられる。そうすると、坐禅と言っても、坐禅を通して悟りとかじゃなくて、どういう人も坐禅したらそのままが仏であるとか、そのままがブッダの姿であるとかというふうにして説くわけですから、そうすると坐禅をしないものは、そのブッダそのものにならないわけですから。
 
草柳:  そうすると、道元と、例えば最澄とか空海が言った内容とは微妙に違うんですね。
 
田上:  違うんです。だから坐禅というものを実践をしない者は成仏はできない。ただ仏性はあるけれども、成仏はしない、という考え方であったんだろうと思われますね。
 
草柳:  しかもその仏性があるというのは、生き物だけではなくて、無生物にもあるというところは、最初の涅槃経とはちょっと違うようですけれども、成仏するためには、まだ手続きがあるんだよ、というふうに、
 
田上:  道元さんの場合には、坐禅ということですね。親鸞聖人になると微妙にまた違うんですね。
 
草柳:  親鸞は浄土真宗ですよね。道元は禅宗ですよね。ただ勿論二人ともほとんど同じ時代に、鎌倉時代ですね。
 
田上:  そうですね。親鸞聖人の方がずっと年上の方でございましたから、親鸞聖人のお考えというものにまったく影響されない、ということよりも、知らなかったというわけでもないわけですから。
 
草柳:  親鸞はどういうふうに言ったのか、ということなんですが、
 
仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海(ぐんじょうかい)のこころにみちたまへるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり。
(親鸞聖人「唯信鈔文意」)
 
違いますね。
 
田上:  全然違います。非常に日月星辰というところまではいきませんけれども、如来という、仏というものと仏性は同じである、というふうに、これは新しい涅槃経に書いてあるのと同じでありますが、この如来というもの、あるいは仏性は、どんな小さな塵にも、我々の目に見えない塵の中にも、それはあるんだ、ということになると、今度はこの辺に飛んでいる塵(ちり)・芥(あくた)とこう言ってもいいですよ。それもみんな仏性、ブッダになりますよね。「群生海」というのは、これは生き物の集まりですから、その心にみんな仏性がある、という。だからそれはイコールになるわけですね。それに草木国土となりますから、ここは今度は自然界であります。ここにもみんな仏性はあるんだけども、みんなこれがブッダになる、と言っているんですね。ですからそれは具体的に何かというと、念仏を称える、というその一点になるわけですが、じゃ、草木国土が念仏するか、というのは、これは時節因縁の到来で、いずれまたそれはあり得ることであろう、ということが予想されることで説いてあると理解されます。ですからそんなバカなというふうにして否定はできないですね。ですけども、ここで結局は成仏するものと、あるいは成仏するというよりも、みんな仏性がある、という信仰は、いいとしましても、そこに衆生を五蘊からなる生き物だけに限定しないで、それを離れて無生物にまで、自然界のあらゆるものまで、そのようにして仏性があるとか、あるいは成仏するとかという言い方をすると、これは涅槃経のもともとの、新しい涅槃経の考え方に背く、いわゆる相反するというか、あるいはそれをかなり拡大解釈したものと言わなければなりませんね。ただその原因は、衆生というその言葉ですね、サットヴァをそういうふうに生き物に限定した考え方が、いわゆる新しい涅槃経の考え方、教えですけれども、後の人たちは信仰の世界で、それをあらゆるものが存在して、あらゆるものの存在しているものが、みんな仏性であるとか、あるいはみんなあれも成仏できたよ、というふうにして、それをある面からいうと、非常に大いなる憐れみの心をもって、そういうふうにして解釈し信仰したんだろうというふうに思いますね。原典にはなくても。
 
草柳:  何故しかし道元にしても、親鸞にしても、そういうふうにスタートはみんな仏性をどう捉えるか、どう考えるか、というところから始まって、だんだんそういうふうに、いわば変説と言いますか、ある時にはかなりこうホップ、ステップ、ジャンプがもの凄く巾が広い日本的な展開の仕方だったわけですか。
 
田上:  いや、そうとも言えないかも知れません。例えば人間が信仰の世界に入っていくと、だんだん内面が深くなっていって、そして世の中の見る目が非常に幅広くなってくる。自分の殻に閉じ籠もらないで、すべてのものを、前にありましたように、「八正道を修めることを通して一切の衆生を平等に見ることのできるようになった時に」って、こう書いてありましたね。つまりあらゆるものを平等にみるというふうになれた時に、人間、いわゆる生き物だけに限定しないで、その目に見えるもの、触れるものすべてそういうものも、みんな生きているんだ、という考え方。これは私だけの解釈ですけれども、古来仏教以前からある宗教の中で、アートマンという言葉がありますが、息をしているものですね。もともとの意味は「息する」という、息をしているものというアートマンというその言葉をもって考えれば、みんな無生物とは言いながらも息しているわけですね。石であろうと、あるいは瓦礫であろうと、土壁であろうと、みんな息しているわけです。つまりそれはいろんなものの絡まりによって成り立っているわけですから、みんなそれはあらゆる要素の働きがあるわけですね。それは息しているわけです。そうすると、そういうところまで自分の信仰の世界、修行を積んでいってみるようになると、みんな生きているものという、我々が見る生きているもの以外のものにまで生きているという、息しているという、そういうところに行き着いて、最終的には太陽も生きているんだ、月も生きているんだというふうに理解されていく。そうすると、みんなそのようにして山川草木みんな仏性をもっている、ブッダになれる。いずれはなれますよ。いつとは言えないけれども、なれる、という信仰になっていったんだろうと思うんです。ですけども、これはどこまでその人その人の信仰の深まり高まりによって説き出されたもので、新しい涅槃経の考え方の範囲を超えてしまっているわけですから、新しい涅槃経の考え方はいわゆる基本的にやはり決められたところ、これをやらなければというもっと身近なところにもってきていますから、
 
草柳:  結局涅槃経で言っている仏性、誰でもブッダになれる可能性があるということの一番大事なポイントは何なのかということですが、
 
田上:  それを涅槃経のところからパターンで見てみましょう。
 
・善根を積むこと
・菩提心を起こすこと
・八正道を修めること
 
八正道を修めるというのは、基本中の基本ですが、大事なことは善根を積むことですね。生き方の中で何でも善いことをするということですが、前にもありました七人のブッダがずっと伝えてきているもの、「悪いことはしない。善いことをする。この心を決して怠ってはならない」ということが、諸仏の教えであるとありました。そういうことを修めていくことによって、善い根が自分に積まれていくんですよ、という。これを積むことが大事。菩提心というのは、自分もあのようなブッダになりたいという決心―決意ですね、それを起こすことがまた大事。この心を起こさないと、この仏性というものをものにすることはできない。もう言うまでもなく八正道というものは、これはすべての生きとし生けるものたちが修めなければならない。苦しみがなくなるための道である、この上もない道であるということで説かれたものですから、この三つがちゃんと基本になければいけないということですから、これを忘れて、いわゆる悉有仏性―すべて山や川にも仏性があるとか、成仏するとかというのを論ずるというのは、まあこれはまた別なものになりますが、必ずこの二つだけは忘れてはならないということを教えています。
 
草柳:  ですから仏性が五蘊の中に有るとか無いとかって、それは大事なことだと思うんですけれども、言ってみれば大事なことは今の三つなんだから、それをしっかりやっていかなければならない、と。
 
田上:  私たちの身近なものです。生きている。その三つだけは私どもに引き寄せて考えて、その上で先ほどのようないろんな考え方は展開していくんですね。
 
草柳:  しかし、それにしても随分仏性を巡って、展開というのは激しいと言えば激しい。
 
田上:  そうですね。激しいですね。これが新しい涅槃経におけるブッダの遺言の中の一番エッセンスになると思いますね。これは忘れてはならない。
 
草柳:  そしてキーワードは「八正道」。その手続きがなければ始まらない、という。
 
田上:  おっしゃる通りです。
 
草柳:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成二十三年九月十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである