ブッダの最期のことばF女身も成仏する
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「ブッダの最期のことば」としてこの番組としては、『涅槃経』をこれまで取り上げてまいりました。この『涅槃経』には、ブッダ・釈尊が入滅をするまでの旅の纏めをした経典と、それから後の世になって、ブッダ・釈尊が亡くなった後、後世の仏教徒たちが創作をした『涅槃経』と、つまり新しい『涅槃経』と二つある。このことについては、これまでも何回か伝えてまいりました。この新しい『涅槃経』には、それまでの古い『涅槃経』にはなかった新しいものが付け加えられている、ということなんですが、今回のテーマである「女身も成仏する」というのも、実はその一つなんです。今日はこの問題を巡って、いつものように駒澤大学名誉教授の田上太秀さんにいろいろとお話を伺ってまいります。今日もよろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  『涅槃経』には二種類あるんだ。古いのと新しいのと、二つあるんだ、ということは、今までも度々触れてこられたことですよね。
 
田上:  紀元前と紀元後の『涅槃経』ですね。今日のこのテーマは、「女身も成仏する」と。「女身も」という「も」が付いているんですが、視聴者のみなさんには、この「も」が付いていることによって、一体女性の身体では成仏できないのか、というのが、こういうのでもできるんだよ、というふうに読み取られて、何か非常に違和感というか、異様な意味合いに取られるという方も多いと思いますが、実はこの問題が今まであまり取り上げられていなかった仏教の中でも問題になっていますので、そのことをお話をして、実は釈尊の教えの中には決してそういう差別的なものはないんだ、ということで話をしていこうかな、というふうに考えたのです。
 
草柳:  一見、「女身も成仏する」という言葉を聞きますと、そうすると、仏教では男性の成仏と女性の成仏を分けていたのか、というふうにもなりますね。
 
田上:  そうですね。実際に二つ分けてしまうということは、釈尊の説法の中にはなかったわけで、前にもお話しましたように、お経というのは、一番最初の方のお経というのは、釈尊が説法されたものを纏めて、そしてそれを、後に―正確に歴史的にいうと、紀元前一世紀頃に文字に書き表した。亡くなられてからの間は、みな記憶をもって、記憶して、それを伝えた、ということで、文字に表すということによって、目で見て、読んで、というふうになります。そうすると、多くの人たちの目に触れるわけですが、その中に釈尊の説法にはなかったような、そういう表現のものも出てきたりして、さらにそういうものが、さらに紀元後の新しい、例えばこのような『涅槃経』の中には、それに輪をかけるようにして、女性を差別するような内容のものを付け加えて創り出した経典もあるわけです。そういうのでいきますと、みんな釈尊が説法されたものであるかのように、つまり専門の言葉では「仏説」―仏が説いたもの、というふうにして、如何にも釈尊が説かれたかの如くに書いて、そういうのを釈尊にみんなもっていっているわけですね。今回の「女身も」というのも、本来は男女関係なくブッダになれる。『涅槃経』もそのように仏性というものを通して説いてきているんですけれども、この新しい『涅槃経』は、釈尊が男女差別なく成仏すると説いたもの、それを仏性を説いて行道したのに、この『涅槃経』を創った人、いわゆる自分で書いた人が手を加えて、女性を差別するような、当時のインド社会における女性の蔑視、あるいは差別、そういうものの観念からこういうような言葉を入れているところがあるわけです。
 
草柳:  そうすると、紀元前の仏教の経典の中でも、もっとも古い層にあったと言われる、例えば『法句経(ほっくきょう)』とか、ああいう有名な経典の中にはないわけですか、女性差別的なものは?
 
田上:  ないです。釈尊の説法で、一番最初に纏められた古い経典というのは、これまで何度も引用してまいりました『法句経』というのがあります。あるいは『スッパニパータ』というのがあります。こういうようなお経の中には、まったく釈尊の女性差別的な発言は見当たらない。それなのに、それを今度は離れてというか、あるいは他の経典の中には、同じ古いものでありますけれども、釈尊の言葉というものに、如何にも釈尊がこのようなことを言われたかの如くに書いたものが付け加えられたんですね、編集の段階で。つまり釈尊が亡くなられてから、後のことです。ですから釈尊が生きておられる時に、そんなものを纏めたならば、それは釈尊は、おかしい、と指摘されるでしょうけれども、亡くなられた後のことですから、いろんな人たちが、「私がこういうように聞いた。ああいうふうに聞いた」と言って、勝手に付け加えられた、ということが考えられるわけですね。
 
草柳:  勝手に付け加えられたことが考えられる。そういうその背景にはやはり当時の古い時代のインドの社会、そういったものが反映しているんでしょうか。
 
田上:  そうですね。家庭の中でも、社会の中でも、女性に対する差別、桎梏(しっこく)、あるいは女性を家庭の中においては束縛する。社会では女性を蔑視する。いずれにしても、差別がかなり当たり前として、女性をこういうものである。男性と比べると劣るものである。あるいは悪であるとかという表現がいっぱい出てまいります。そういうようなことを通して、仏教の中にそういうことを通して女性蔑視を象徴するような内容のもの、あるいは表現が仏教の中にも出てまいります。そういうのがいわゆる「女人五障(にょにんごしょう)」というものなんですが、女性には五つの障りがある、という考え方ですね。「障り」というふうに書いてありますけれども、原語の意味からいうと、これは「五つの身分」とか、あるいは「地位」とかという、そういう意味なんです。それを後の中国で翻訳する時に、その原語を「スターナ」というんですが、それを「障(しょう)」「わざわい」「障(さわ)り」というふうに訳したものですから、これがいろいろ女性特有のものにまで意味を変えて説かれるようになる。女性はブッダ(阿羅漢(あらかん))になれない。あるいは帝釈天(たいしゃくてん)になれない。転輪聖王(てんりんじょうおう)になることもできない。魔王(まおう)―魔と言っても神々の上の方ですが―なれない。あるいは梵天(ぼんてん)になれないとかという、五つのそういう身分、地位になれない、というふうに説くわけです。その中に、「ブッダになれない」というのがあるんですね。こういう五つの身分、地位になれない、と言って、それを女性蔑視したのは、女性は本来生まれた時から男よりも劣るものである。悪(わる)であるとか、いろいろ言うわけですね。そういうので説かれてきたものです。それが釈尊の説法の纏めたお経の中に、それが出てくるんです。先ほどの法句経とかスッタニパーターというような古いものにはそれはまったくそれは見当たらないんですけども、他の経典の中に二、三、そういうものが出てまいりまして、それが如何にも釈尊が説いた如くに伝えられた。
 
草柳:  でも明らかにそういう考え方というか、差別は、仏教が一番基本的に大事に多分きっとしているであろう「誰でも仏になれる」ということとは、当然矛盾するわけで、つまり女性も成仏できるのだ、ということで、いろいろ考えられてきた、そういう歴史でもあるわけですね。
 
田上:  そうですね。これも歴史的に考えていきますと、男にならないとできない。仏になれない。成仏できない。つまりブッダになれない、というんであるから、これができないのであれば、女性はまったく無縁のものかというふうになります。釈尊の説法は、じゃ、無味である、というふうになります。そこで考え出されたのが「変成男子(へんじょうなんし)」(男子に変身すること)と言って、二つ表現があります。「変成男子(へんじょうなんし)」男に変身すること、あるいは「転女成男(てんにょじょうなん)」(女身を転じて男身となること)女が転じて男となるという、そういういろんな表現があります。つまり男にならないとダメだよ、と。具体的に後で申しますが、とにかく「女人五障」というものが元にあって、そしてそれでは無縁な女性ではおかしい、と。つまりそこで女性もブッダになる何か方法はないか、と言ったら、そこで考えたのが、「男になること」という、そういうものが、つまり釈尊の説法の中に組み込まれて、それをずっと伝えてきて、そして仏教は伝えられてきた、教えは。
 
草柳:  今のその「変成男子」と言ったような考え方というのは、時代的には後になって出てきた言葉であるわけでしょう。釈尊の時代に、女性の教団というか、女性の信者って当然いた筈ですよね。
 
田上:  そうです。今の「女人五障」とか、あるいは「変成男子」とかという、こういう二つの考え方というのは、今おっしゃったような釈尊の生きておられる時、ご存命中の時には、そういう考え方はまったくないわけですね。ところが実際はその時に、釈尊の育ての親であるマハー・パジャパティーという養母がいらっしゃいます。実はお母さんはもう赤ん坊の時に亡くなられましたけれども、妹さまが養母となられて、そして育てられたんですが、その人が釈迦王国が滅ぼされたために路頭を迷うと、そういうことで、出家を、ということで、出家を望まれた。そこで出家を許されたわけです。ですけども、当時のインド社会において、宗教教団の中に女性の出家者というのはなかったんですね。それを異例なという方法ですね、つまり革命的な、そういう女性の出家者というものを認められて、いわゆる女性の一つのグループというものができたんですね。それがいわゆる釈尊の仏教教団における一大革命であって、のちにギリシャ人のメガステネースという人が、インドに旅行して、その人が帰って見聞録を書いた時に、「インドにはこういうような勝れた女性の哲学者がいた、というようなことで驚いている」という、そういう内容のものを中村元(なかむらはじめ)博士がご自身の翻訳の中で「あとがき」に書いておられますけれども、まさしく考えられないような、そういう事態になったわけです。ですからそこで結局は、女性の人が男性共同体の中に入ってきたために、今まで女性を避けて修行しようとした男性の修行者たちが、そのようなことで自分たちが避けていた人が目の前に現れてきた。その時に女性の出家者たちというのが、最初に誕生したのがマハー・パジャパティーの義母さまのお付きの人たち、二十名か二十一名の人が一緒に出家するわけですね。その人たちが最初の女性の出家者たちです。
 
草柳:  釈尊の時代でも、やっぱり女性がそうやって出家をする。集団を作るということは異例のことだったわけですか。
 
田上:  そうです。考えられなかったんですね。修行者という意味ではあったようですけれども、出家者―家を捨てて、そしてまったく髪の毛を剃って、いわゆる丸刈りにして、そして衣一枚で、というような、そういう生活をする女性の、いわゆる修行者というのはいなかった、といわれますね。
 
草柳:  男性の、いわゆる一般の修行者たちには、あまり歓迎されなかったということなんですが、それはどういうことなんでしょうか。
 
田上:  今日残っている文献に、悟りを開いた女性の方たちのものを纏めた『尼僧の告白―テーリーガーター』という文献があります。「テーリー」というのは、女性の出家者のことをいうんですね。尼僧さん。「ガーター」は、歌ですけれども、その人たちが歌で自分の過去を述べたものであります。これが翻訳されています。『テーリーガーター(女性修行者の回顧録)』の女性の出家者ですけども、ここには七十三名の出家者の名前があって、その人たちはみんな立派に阿羅漢―先ほどあった「阿羅漢にはなれない。ブッダの資格もない」と言われるように書いてあったけれども、この人たちは悟りを開いて、立派に阿羅漢として最高の聖者になっている人たちです。あるいは九十三名だという文献もあります。男の方の『テーラーガーター(男性修行者の回顧録)』は二百六十四名の名前がここに上がっています。そういうことと同時に、当時の釈尊のご存命中の教団の中には、男の出家者たちは大体千九百名ぐらいで、女性が百名ぐらいなんですね。女性がわずかなんですね。それでも女性の存在というのは、どこか纏まったところに集められて、そこで女性は出家の修行をしていたということですが、先ほどおっしゃったように、女性の人たちはあまり歓迎されなかったんです。つまりその理由というのは、それは当時、インド社会では女性は差別されている人たちであったんです。その人たちが入ってきたんですけども、教団の中では男も女も平等に取り扱われるんですよ。しかも早く出家した人の方が上なんですね。それが男性と女性は平等というのが、男の出家者から見ると、それは考えられないことですよ。社会に出れば、差別されて、女性が低く、平等なんてとんでもないというのが、ここでは平等に取り扱われるから不満でしょう。それからいま一つは、平等に取り扱われているということ以外に、自分たちが今度は出家をした時には、女性を避けて、女性と話すことも、見ることも避けて、ただひたすら修行に励むという、そういうもっとも避けなければいけない相手の女性が目の前にいるということは、女性が男の修行者の妨げになる、と。だからこんな女性が目の前にいるのはどうも許されない、というのが、そこにはあったようですね。
 
草柳:  つまり男の僧からすれば、煩悩をなかなか断ち切れないではないか、ということも、
 
田上:  まったくそうです。ですけど、女性にとっては、そんなふうに言われても、女性には社会の差別、桎梏、あるいは蔑視、そういうものからの逃げ場を提供して貰っているようなものです。ここが一番安らぐところだ、というふうになっていたわけですね。
 
草柳:  だからその当時、今から考えると、へぇ!こんなことまで、女性の僧侶たちが言われていたのか、というような大変厳しい中身があったそうですね。
 
田上:  そうですね。ですから男性の側から、釈尊はそれを許されたかどうかというのは、よくわかりませんが、八つの男性を敬う「八敬法(はっきょうほう)」というものがありました。その中の三つほど挙げてみました。
 
草柳:  一度読んでみます。
 
一、百年修行した尼僧でも、新参の男僧に敬礼し、合掌し、恭(うやうや)しく迎えるべきである。
一、どのようなことがあっても、男僧をののしったり、非難してはならない。
一、尼僧は半月ごとに、戒律の反省と説教を男僧から受けるべきである。
 
田上:  まだ後五つばかりあるんですが、特徴的なところを今三つ挙げさして貰いましたが、ここに「百年修行しても、男性よりも沢山修行したって、最終的にやっぱり男性に敬礼し、合掌し、恭しく迎えるべきである」と。「新参ものに対しても」と書いてありますね。それから「男の人がどんな悪いことをしたって、その人をののしったり、非難したりしてはならない」とか、女性の場合には、「半月毎に戒律の反省と説教を男の僧侶から受けるべきである」というふうにして、これはどこまでも女性の出家者に対して、見下して、あるいは監督して束縛しているという、そういうところです。実際に女性の出家者を監督するそういう役目の者がいたんですね。ですからそういうようにして、これを釈尊が認められておられたかどうか、ということよりも、釈尊はあまり教団が大きくなってくると、そういうような女性の出家者たちに対する目が届かなかったのかどうか知りませんが、こういうのも一つの集団生活の中で、あるいは集団というのもバラバラになってきますから、そういうものも委せておかれたのかなというふうな感じも致しますね。
 
草柳:  しかもだんだん人の数が多くなればなるほど、それは確かにそういうこともあるかもわかりませんが、それとお坊さん・僧侶には守らなければいけない戒律がありますでしょう。
 
田上:  男性は三百五十、女性が四百八十ぐらいですが、とてつもなく、女性の方が多いんです。まあこの考え方は、女性が修行は大変だから逃げ出していくことを願ったのかどうか知りません。そんなうがった考え方はしませんが、あるいはそういう戒律があるんだから、もう尼僧さん―女性の出家者は出てこない方がいい、願い出ない方がいいというようなことの見せしめかも知らなかったんでしょうが、一旦なった人が世俗に戻った人というのはいないんですね。やっぱり出家する人が多かった。ですからそういう意味では、社会では如何に厳しく女性が差別されていたかということですね。先ほど言いました、この共同体の中では、女性にとっては逃げ場であったか、というふうに考えられますね。
 
草柳:  それほどまでに女性が差別されていたのかということなんですが、おっしゃるように決して社会的な背景ということは当然あるだろうと思うんですけれども、仏教の中にもやはりそういった考え方があったわけですか。
 
田上:  実際に教団そのものは、そういう戒律というものを通して、男性女性に少し差を付けて、女性をかなり厳しく束縛しました。それだけでなく、今度は教理の上で、また女性というものを差別していくようなものが出てくるわけです。それが今日の「女性も成仏する」にかかってくるわけですが、これまでお話してきました「buddha」仏という原語は、男性名詞でありまして、それで男性名詞でありますが、このブッダというのは、男でなければならない、という考え方なんです。ブッダというのは悟りを開いた道理に目覚めた人ですね。これは男性名詞ですけれども、これを裏付けるような考え方が現れるんですね。それは仏というのは、三十二相八十種好という、ブッダに特有の特徴があると話しましたね。仏性があっても、あなたはまだ仏そのものじゃないよ。何故なら、三十二相八十種好という品格がない。雰囲気を持たないと、こうありました。実はその三十二相というのをみますと、みんな男性なんです。男の特徴。もっとも特徴的なものは、男根を持っている、ということです。ブッダは男根を持っている。それで特徴がみんな雄のライオンのようなものであるとか、みんな男というふうに限定されていくんです。ですから三十二相八十種好というのは、男であるということを意味している。だから先ほど話しましたように、女性のままでは、ブッダというのはあり得ない、という考え方がそこに生まれてくるわけです。
 
草柳:  そこで最初お話のあった「変成男子」というのが出てくるわけですか。
 
田上:  「変成男子」というのがはっきり生まれてくるわけですね。だからどうしてもブッダになるためには、その三十二相というものを得なければいけない。そうすると、それは女性の場合は、男に変わらなければいかん、ということで、これがもう表面的に特徴として説かれていくことが当たり前のように、紀元後には尚のこと生まれてくるんですね。
 
草柳:  しかし何故また「変成男子説」というようなものが出てきたんですか。
 
田上:  それを話しますと、女性の方々には申し訳ないんですけども、女性は、生まれつきこういうような性質・性格を持っているんだ、という。いろいろとあるんですね。それは口にしたくないです。言うと自分の口が汚れるようなもので。ですから結局は、ここにある『大乗涅槃経』においても、そのようにして男性というものでなければいかん、と言うんですが、実は釈尊の説法なさった『スッタニパータ』の注釈書であるその中に、特徴的なそういう女性を蔑視し、ブッダは男である、ということを述べたところがございますので、それを見て頂ければと思います。
 
草柳:  その部分を読んでみます。
 
仏になることを願う人が、(自分の)志向をなしとげるためには、八つの成就を望むべきである。すなわち
@人間であること、A(男性の)しるし(性徴)をそなえること、B因〈田上注=阿羅漢の素質〉、C〔大〕師にまみえること、D出家、E徳をそなえること、F奉仕行、G志欲あること(後略)
 
田上:  これは五世紀のブッダゴーサという人が、これは注釈した文章なんですが、ここで問題は、二番目の、「(男性の)しるし(性徴)をそなえること」というのは、もう男性女性のもっとも特徴とあるものは、男根と女根ということですが、ここでは「男性のしるし」は、男根をいうわけですね。それから三番目は、これは「因」というところは、阿羅漢の素質をそなえて生まれること。つまり阿羅漢の素質というのは、これはもうブッダになるという、そういう素質を持って生まれてきていること。これはどちらにもそれはあるわけですが、問題はここに「出家」ということですが、出家は頭を剃ることですね。丸刈りにすることでありますから、これがまた女性にとっては堪えられないことであったかと思われるんです。このように特徴的なものとすれば、この二番目と五番目のことで、髪を伸ばしたままでは出家はできませんよ、ということを言って、二番はまさしく男というそのものですね。そういうことで釈尊もこのようにして説明しておられるんだよ、ということで、解釈したんです。だからこれが当時紀元後の人たちには、「釈尊はこのように説かれたんだ」というふうに受け取られてしまったんですね。後になると、さらに今度は浄土には、仏国―仏だけの住むそういう仏の国には、女性はいないという。例えばこれは浄土思想の経典として『無量寿経』という有名な経典がありますが、この経典の中には、法蔵菩薩が阿弥陀仏になる前に誓いを立てて修行するんですね。その中に四十八願ありますが、その三十五番目のお誓いのところに、女人成仏ですね、「変成男子願」そういうようなものがあります。私は、女性の人がみんな変成―男に生まれ変わり、あるいは男に変身することが一人でもできない人がいたら、絶対に仏国土には往生しません、という誓いを立てている。つまり全部女性の人が男に変身して貰いたい。変身しないと向こうの方には、女の人は居ないんだから、男ばかりだから、是非女性の人は男に変身してください、ということを誓った。
 
草柳:  それが浄土へ行くための条件だったわけですか。
 
田上:  そうです。だから仏国土という浄土には、女性は居ないし、女の名前も聞くこともないという。こういうようなふうに、どんどん書かれていってしまって、もうかなり女性の身体のままでは、というので、如何にもこれが釈尊の言葉である、教えであるかのようにしてありますけども、釈尊はそうではない。だからテーマの「女身も成仏する」というのは、変成男子するということを条件にして、という考え方が後にそういうふうに形成されていったことになる。
 
草柳:  その辺のお話は、この後、いつものように少し映像を見て、その後で伺うことにしたいと思うんですが、今日ご覧頂く映像は、有名な祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の今の様子を撮ったものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
草柳:  この「祇園精舎」という言葉は、日本でも『平家物語』の一節にも出てまいりますよね。あの祇園精舎のもとはこれなんですか。この祇園精舎なんですか。
 
田上:  そうです。祇園精舎というのは舎衛城(しゃえいじょう)という、今ネパールの国境の近くにある町の舎衛城ですね。その町のところから南の方に位置するところにこの祇園精舎はあるんですが、フルネームでいうと、祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)と申しますが、当時王様の皇太子であるジェータ太子(祇陀太子)というのがおられて、その人の持っている公園を、給孤独(ぎっこどく)と渾名される大富豪のスダッタという人が、それをお金を敷き詰めて、そして買い取ったという、そういうところです。そこに釈尊をお招きして、そしてそこに滞在できるようにして、修行ができるように、いろんな建物を造ってあげたという、そういうところです。そこには勿論、病人のお坊さんを収容するところもあったようですね。祇園精舎の鐘の音、というけど、鐘はなかったんですよ。で、そこの敷地は、関西大学の調査隊の人が発掘した時に、実測したんでしょうが、一万九千百七十坪というんですから、二万坪ぐらいあったという大変な広いところであります。
 
草柳:  さて、前半のお話を引き続きお聞きしていきたいんですが、どうやら「変成男子」、つまり男に変わるということが一つのキーワードの一つのようなんですが、この「変成男子」という言葉の真意というのはどこにあるんですか。
 
田上:  「変成男子」というのは、そのまま男に生まれ変わる。女の身体を男の身体に変えるというのが、原文にあるわけです。ですけども、そのものは実際は性転換のような意味に捉えますが、性転換をするということは現実にできません。生まれ変わるということを考えた時に、生まれ変わるというのはとんでもないですから、その意味は一応置かなければいけません。いろんな経典のものを読みますと、大体このように考えられるんです。その一つは、「変成男子」という時には、「私はこのようにして出家をします」という時に、その時は、頭を丸刈りにすること。男性の修行者と同じように一枚の衣を着るという。いわゆる女性はたくさんのアクセサリーを付けたり、いろんなサリー(インドの民族服)とか、いろいろ綺麗なものを着ておられますけれども、それを一枚の貧しいそういう衣、布切れの継ぎ接(は)ぎしたものを着るという。まあ女性にとっては堪えられないような姿になること。つまりそれがいわゆる「変成男子」の本当の意味ではなかったか、と考えられる。経典のそういう意味からすると。それからもう一つは、考えても厭になるんですが、「男心(おとこごころ)を倣(なら)う」と書いてあるんですね。これは紀元前の文献の中にもそのようにして、「変成男子」の時に、「男心を倣いなさい」と書いてある。なぜ男心かというのは、女の心は悪で、意地悪で、汚れてあるから、といろいろ言いますが、男はどうかというと、男は正直で綺麗だと、こういうふうにして勝手な解釈するんですね。ですから男心を学ぶことによって、女性は自分の心を男のような清らかなものにすることができる。そして頭を丸刈りにして、そういう衣を着る。これが、いわゆる「変成男子」というふうにして考えられた、というふうに考えてもいいと思います。
 
草柳:  大乗経典の中で、今お話があったように、だんだんそういうふうに中身が固まっていったということなんですか。
 
田上:  そうです。それはもう多く書かれています。
 
草柳:  一つは、つまり外見上のことですね。
 
田上:  そうですね。
 
草柳:  もう一つは、勿論心理、心の問題、
 
田上:  そうです。つまり同じ変身と言いましても、身を変えるのと、心を変えるという。つまり男心を倣うというのが、心を変える方ですね。つまり外見と内面の両方をそのような形で変えていくことが、変成男子の意味として、大乗のさまざまな経典には多く書かれてあります。
 
草柳:  新しい『涅槃経』の中で、古い『涅槃経』と違って、新しいことが付け加えられた。それは今テーマにしていることが、その一つということなんですけれども、そうすると大乗仏典の中で、「誰でも仏になれるんだ。その可能性を持っているんだ」ということが、基本的な考え方としてあるわけでしょう。
 
田上:  そうです。新しい『涅槃経』にも、仏性というもの、これまで六回ずっと話してまいりました。ここでいわゆるどんでん返しのように、女性の場合は違うんだ、というので、これが説き出されていったわけですね。それで「仏性というものは一体何だ」と言った時に、最初の頃申しましたように、これを創った、書いた人が、女性差別の考え方が強かったんだろうと思うんですが、仏性というものの本当のもう一つの意味が、こういうもんだよ、って、これは「男の特徴を持っているものだよ」というふうに書いてあるところがあるんです。「仏性は男の特徴を持っているもの」と、こういうんです。もともとこれは三十二相八十種好の問題が先ほどありましたが、ここでブッダは男性の象徴という。まさしくブッダは三十二相八十種好を備えた人であるということは、男であるということを意味したわけですね。ですからブッダは男性の象徴である、と。そうすると、ブッダは一体新しい『涅槃経』ではどう見たかといったら、仏性とイコールなんですね。等しいものだ、と考えた。そうすると「ブッダ即ち仏性」というと、その「仏性は何か」と考えると、「男の象徴」となるわけです。それを「丈夫(じょうぶ)の相」と、こういうふうに。「大丈夫だよ」という、その「大丈夫」という言葉は、「偉大なる男」という意味ですよ。「大丈夫だよ、大丈夫だよ」とよく使いますが、あれは偉大なる男という意味です。ですから「丈夫の相」というふうに、この大乗経典には、今ここでテーマにずっと使っております新しい『涅槃経』には、「丈夫の相あり」と。男というものの特徴を持ったものが書かれてある。いわゆる「それは仏性なんですよ」こう書いてある。つまりこの新しい『涅槃経』は、これは男の特徴というものを教えてあげよう、と。それは何かというと、この経典が説いている仏性のことですよ、といって、これはここの『涅槃経』のブッダがそう説いたわけですね。つまりこのブッダは、釈尊そのもののように考えますけども、実は作者がこういうふうにして筆を入れているわけですね。つまり男性が優性であり、女性は劣性であるという考え方をもとにして、この仏性というものを、男として考えようとして説いたものですよ。ですけども、六回までのお話したものの中では、男女関係なく平等だ、とこうきました。しかし本音のところでいうと、「仏性というのは、男ですよ」と言って、そこで女性に対して蔑視するような表現がここに出てきて、こうなると釈尊がそう説いたのか、と、こうなりますよね。ですけど、これは何度も申しますけれども、釈尊の教えではないんですね。つまり釈尊はそんなことはどこにも説いていないんです。これは紀元後の四世紀頃に書かれたお経の作者が、このようにして付け加えて、女性というものに対する蔑視、差別観、そういうものがここに表れたもので、実際はこういうものは書く必要はなかった筈ですけどね。
 
草柳:  ですから「誰でもブッダになれる可能性を持っている」。後になれば、「すべては成仏しているんだ」ということまでいくわけでしょう。つまりそういう理念は勿論変わってはいない、理念そのものは。
 
田上:  変わらない。「男性女性関係なくブッダになれます」ということです。ですけど、今のは総論ですけども、各論になってきて、女性というものだけを取り上げていくと、ちょっと女性には条件付ですよ、と。何故ならブッダというのが、三十二相八十種好をもって定義付けしているなら、これ男の特徴なんだから、そうすると、女性がブッダになるには根底から男にならないとこれは無理ですね、ということになるわけですね。それで「変成男子」という考え方が生まれてきているわけですね。そうすると、ここの仏性もですね、結局は女性の身体のままでは理解できませんね、というようなことで説きだしてくるんですね。つまりそれは釈尊の教えそのものではないんですね。この『涅槃経』の中のブッダに、ブッダの口を借りて、作者が言われているという、そういうものですね。
 
草柳:  ほんとに釈尊が言いたかったことというのは、釈尊が本当に説いたことの根本というのは、この問題に関してはどういうことになるんでしょうか。何が必要だ、と。
 
田上:  前回でしたか、仏性があっても、それは仏性は、「すべてのものが仏性そのものの現れである」と言いながらも、生き方としては、人間が善根を積み、そしてブッダになりたいという決意を起こすこと、そして八正道をおさめること、この三つをおさめればみんなブッダになれますよ、という、そのことをお話しましたね。それがいわゆるずっと通してきているわけです。『涅槃経』もそれを通していっているわけです。ところが、ここにそういうなんか上から糊付けしたようにして、ピタッとこういうような考え方をもってきているというところに、いささかこれが問題になるところですよね。ほんとにこれは不思議でしょうがないんです。この新しい『涅槃経』にも、六巻本があったり、三十八巻本があったり、四十巻本があったりとかありますけれども、ですけどみんな共通して、一番古い方の六巻本にもこういうふうに女性差別的な言葉が出てくるんですね。だから何故こういう言葉が出てくるのか。その真意はやはりインド社会において、当たり前のようにして女性を蔑視するというのが、通念としてあったとすれば、それがそのまま書き加えられた、というふうにしか考えられない。せっかく仏性思想の素晴らしいものであるのに、これに汚点を付けるようなことになってしまうんですね。
 
草柳:  成仏のためには、男の僧であれ、女性であれ、やはり大事なのは悟りを求める心だ、という話がありましたね。
 
田上:  そうです。菩提心を起こすこと。ですからここに新しい『涅槃経』に、今度はこれを決定的に差別的な表現が出てくる。ほんとは画面には出したくないような文言があるんですよ。
 
草柳:  次の用意をしておいた経典をお読みしたいんですが、
 
まず、心からブッダのさとりを求めようとすることである。女性が菩提心、すなわちすぐれた善人の心、偉大な男性の心、偉大な仙人の心を起こすならば、女人のあらゆる煩悩と交わることがなくなり、女身を離れて永遠に男でありつづけることができる。
(「大般涅槃経」)
 
田上:  これも菩提心というのは、男女に関係なく、ブッダになりたいという、そういう決意ですよね。ところがここには、作者は菩提心の意味を非常に男性側にもってきているんですね。区別なく、菩提心は起こしていいんですけども、この菩提心を「すぐれた善人の心」ここはよろしいですよ。ところが、「偉大な男性の心」とこう、ここに「男性の心」だと言ったんですね。「偉大な仙人の心」というのは、この「仙人」は男なんです、また。それですから、ここでは菩提心というのは、「男の心」というふうに解釈するより、他に解釈は、どんなに女性の側に、と言ってもできないですね。そうすると、「これを起こせば女人のあらゆる煩悩と交わることがなくなり、女身を離れて永遠に男であり続けることができる」とこういうふうに書いてありますが、これ女性に対して、「あなたたちは、この菩提心という、偉大な男の心というものを起こすと」というのは、「男心を倣えば」ということですね。真似るならば、あるいはそういう男心を学ぶならば、あなたはもう女身を離れて、永遠に男であり続けることができる。これが先ほどの「変身の心を変える」という意味ですね。
 
草柳:  だから女性が発心をして、何とかして悟りを開きたいという道に進もうとすれば、つまりここのところが大事なんだ、というふうに、
 
田上:  だから男の場合は、男の身体ですから、菩提心を起こす。そのままでよろしいんですが、女性の場合は、菩提心を起こすということは、男心を学ぶ、倣うという意味ですね。全然意味が違います。
 
草柳:  男側から見た勝手な考えですね。
 
田上:  勝手な考え方です。これを女性の方が読んだら、なんて勝手なことをこういうふうに、というふうになりますよね。読むに堪えないんですね。
 
草柳:  これだけ強調されますと、ほんとにそういうふうに思いますね。
 
田上:  もうどうしようもないですね。
 
草柳:  先ほどちょっとお話のありました「仏性の思想」と、それから今この「変成男子の説」というのは、どういう関わりになって、結局はくるわけですか。
 
田上:  まあ女性も仏性は持っている。必ず同じ仏性をもっている、と。ですけども、女性の場合は、生まれた時から、女性の身体というものと、男というものとの違いで、女の身体をもっている限りは、仏性があるということに気付かない、というんですよ、この作者は。だからあなたが、もし仏性というものをもっているということに気付いたならば、あなたはもうその時に、男ですよ、という、こういう論理ですよ。こういう考え方が、この経典に述べているんですね。私は、この文章を読んだ時に、今までの仏性思想というのは、これで全部崩れてしまう、というふうに思いましたね。だけども、この作者の考え方がそこであって、仏性そのものの思想を、こういう女性の差別とか、なんかを頭に入れないで考えたら、これほど人間平等の考え方はないんですね。ですからここで新しい『涅槃経』の中で、この女性を差別しているという、あるいは仏性と、その女人との関わりというものが述べられているところがあるんですけども、
 
草柳:  じゃ、まずお読み致します。
 
この大乗涅槃経を聞けば、つねに女性の徴(しるし)を嫌い、男性〈の身体〉を求めることになろう。なぜか。この大乗経典には、丈夫の徴があるからだ。いわゆる仏性である。
もしこの仏性を知らなければ、すなわち〈その人には〉男性の徴はない。その理由は何か。自分に仏性があることを知覚(ちかく)することができないからだ。もし仏性があると知覚できない者がいたら、私はこれらの人たちを女人と名づける。
もし自分に仏性があることを自覚できたら、私はこの人を丈夫の徴をもった人という。もし女性で自分自身にはっきりと仏性を知覚できたら、この人こそ男性であると知るべきである。
 
田上:  読んでいて、ドキッとしますでしょう。先ほども言いましたように、「丈夫の相」ということを言った時に、即この経典の作者は、仏性です、と、こういった。今まで述べてきた仏性というのは、男の徴を現すものですから、この仏性というものは、男の人でなければわからないという、こういう考え方ですね。だからそれがあるということを自覚できないならば、この人は言うなれば女の人だ、というふうに言っているんですね。だから女性の身体である限りは、仏性というものが、なかなかある、ということに気付かないだろう、と。だけども、この人が頭を丸刈りにして、男心を学ぶ。先ほどの菩提心を起こすという、偉大なる男性の心を起こすというようなことがあったら、その人はまさしく男の特徴というものを、徴を持つものになるであろう、と。その時は、その人は仏性というものを知覚できている。ああ、自分にもあるんんだ、ということに気付くだろう、と。その時、その人は、女性ではなくて男です、と、こういうふうに言っているんですね。そこで、じゃ、女性はブッダになれないのか、というと、それはなれるんですよね。ですから、私が、いつも区別して言われなければいけない、と言っているのは、「女人成仏」というのは共通して説かれている。女性はどんなことであれ、究極的にはブッダになられるんです。何故なら、仏性があるから。ですけども、そうは言っても、これを女性の身体というものをもっている限りは、ブッダにはなれませんよ、というのが、これが「女人不成仏」。女性という考え方でいうと、それは仏性をもっているから、究極には、最後には成仏できますけれども、女身を持っている限りはダメです、と。ですから、その「女身を」と言った時に、どうするかと言った時、頭を丸刈りにする。男心を学ぶという、こういう変身。いずれの変身も行った時に、あなたは成仏できます、という言い方ですよ。ですから、この考え方を「女人不成仏」と。「女人成仏」というのは、ずっと中国、日本の仏教の中にずっとこれはきているんです。「女人は成仏する」というのは、平等思想ですから、これは通じて言えるんですが、じゃ、どうなの。女の身体のままでいいんですか、と言った時に、これはそうはいきません、と言って、そこで条件を付けているんですね。
 
草柳:  女人は成仏するわけですね。有り難うございました。
 
     これは、平成二十三年十月十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」に放映されたものである