ブッダの最期のことばG極悪人にも仏性はある
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  大乗仏教の新しい『涅槃経』の説く仏性ということについて、これまでに何度も取り上げてまいりました。仏性、つまり誰でもブッダになる可能性をもっている、という意味の仏性ということなんですが、今回のテーマが「極悪人にも仏性はある」ということなんですね。この真意は一体どういうところにあるのか、ということについて、いつものように駒澤大学名誉教授の田上太秀さんにいろいろとお話を伺ってまいります。今日もよろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  今日のテーマのどんな悪人も救われるのだという意味の「極悪人にも仏性はある」ということなんですが、特にこのただの悪ではなくて、「極」が付いているというのは、どういう意味があるわけですか。
 
田上:  普通「悪人」と申しますと、盗んだり、殺したり、人を騙したりという、そういう人たちに対して「悪人」とこう申しますが、それとはちょっと色合いの違う独特の悪人というものを考えだしまして、それが新しい『涅槃経』の中に説かれるわけです。どんな悪人か、というのはこれから説明をさせて頂きますが、このお経の中にはその「極悪人」と言われる人を一言で申しますと「一闡提(いっせんだい)」という、そういう言葉で表すんですね。原語では「イッチャンティカ」と申しまして、原語の意味から言いますと、「強欲な人間」という意味なんですね。これを強欲な人間というだけに終わらないで、いろいろと「仏教の教えを信じない者」という、そういうことになっていくわけですけれども、なかなかこの「一闡提(いっせんだい)」という悪人を、「極」という極めて悪人という意味にもっていくには、一体どういう意味をもって説明しているか。それが非常に興味あるところでございますね。
 
草柳:  今出てきた「一闡提(いっせんだい)」という言葉なんですが、これは原語の「イッチャンティカ」という、その音を写したものなんですか。
 
田上:  そうです。音訳と。普通インドの原語を漢字で訳す場合には―翻訳する場合ですね、意味の上で訳していく場合と、つまり意訳する場合と、音で訳して、音訳する場合がありますが、その音で訳したものが「イッチャンティカ」というんです。そのまま「イッチャンティカ」というのを「一闡提」と。あるいは略して「闡提」というふうな言い方をします。
 
草柳:  その「一闡提」については、おっしゃるようにいろんな見方と言いますか、いろんな意見があるんだそうですね。
 
田上:  そうです。一番いい例は、先ほど申しましたように、欲っぱりで、釈尊が説かれた教えというものを全然守られないという人間で、欲の皮の突っ張っているという、そういう人間を最初に考えたわけです。ですから「イッチャンティカ」という、そういう言葉は、もともと釈尊のご存命中のところにもあるわけですけれども、ここでは単なる強欲な人間というだけでなく、学者の間でいろいろと研究をされて、「イッチャンティカ」つまり「一闡提」を、どういう人物であるか、というので、いろんな論文で説を出しているわけですね。で、その大きなところは、今言った「強欲」ですけれども、今一つは、「教団を非常に撹乱する人間」という人物である、と。あるいは極端な悪人の典型と言われる提婆達多(だいばだった)という人を一闡提というふうにして考えて、そしてあの提婆達多のような悪人というような説き方をするという説もあるんです。
 
草柳:  提婆達多というのは、釈尊のお弟子さんでしょう?
 
田上:  この人は、実は釈尊のお父さんがシュッドーダナ(漢訳名:浄飯王(じょうぼんのう))ですが、お父さんの弟に当たる方が、ドロドーダナ(斛飯王(こくぼんのう))という人です。その人の息子がアーナンダ(阿難陀)という人と提婆達多という二人だというので、ある文献ではそう言われているんですが、アーナンダという人はお釈迦さまの元で二十五年も付き添ってずっと教えを受けた人ですが、提婆達多はこの人のアーナンダの弟になるわけですが、いわゆる釈尊にとっては従兄弟(いとこ)に当たるわけです。ですから言うなれば、血のつながりがあるという人ですね。提婆達多は釈尊を殺害しようとした人でもあるし、あるいは教団のそういう戒律に不満で、自分でまた戒律を作ってこれを守らなければいけないと言って、自分でまた賛成する者たちを集めてグループを作って、提婆達多は提婆達多で釈尊の元から離れたいということで、
 
草柳:  分派行動をしたわけですか?
 
田上:  そうです。大変そういう意味では極端なそういう人であったということで悪人とされるんですね。教団を撹乱したという。そういうのでそれが仏教の歴史の中では、提婆達多という人はまさしく悪人の典型、それは一闡提である、というようにまで考えた人たちもいるわけですね。
 
草柳:  ただ欲深いだけだったら、そんなに珍しいことではありませんよね。
 
田上:  確かにそうです。ですけども、この場合は、一闡提は、先ほどちょっと申しました殺人を犯した者とか、盗みを犯したとか、詐欺、あるいはその他の世間的な悪事をやる人と同列に見ないで、それ以上のものと言った時に、新しい『涅槃経』でブッダが説いている教え、それを誹謗する、つまり謗り、そしてそれをまったく信じようとしない人。じゃ何なのかと言ったら、いわゆるこれまで経典が伝えている仏性ですね。人間には誰にでもみんなブッダになれる可能性がある、と。立派な人間になる可能性をもっているんだという、その教えをまったく信じようとしない、その人物を一闡提というふうにして決めてしまった。そういうものがこの人物なんです。ですから普通の悪人以上に悪いというのは、そういうところで、私は、「極悪人」という表現をしているんですけど。
 
草柳:  つまりいろんな解釈があるわけですね。
 
田上:  そうなんです。ですから一闡提というのは、経典そのものの中にも、こういうものだ、こういうものだ、というようにしていくんですけれども、まあようははっきり言いますと、仏性を信じない人物という、その一点になるわけですね。
 
草柳:  一闡提というのは、何者であるのか、というのを一覧にしたものがございますね。それをちょっと見てみましょうか。
 
一、一闡提は反逆者や殺生した者や戒律を破った者などの悪人ではなく、それ以上の悪人と考えられていること。
二、一闡提はブッダの秘密の教え(仏性)をまったく信じない人であること。
三、一闡提は仏法僧を誹謗する人であること。
四、一闡提の心は不定(ふじょう)であるから、信心を起こせば一闡提とは呼ばれないこと。
五、一闡提は罪を犯しても、果報を信じない人であること
 
三つぐらいまでのところまでは、今お話があった内容ですね。
 
田上:  そうですね。最初の方は説明致しましたが、仏性を信じない人、これが一つの決め手なんですが、三番目は「仏法僧」と書いてありますね。仏教の教団ですね。お坊さんたちの集まりであるということ、それが僧ですけれども、「仏法」というのは、「仏」は釈尊のことですね、ブッダ。そして「法」はその説かれた教えですね。その教えというもの。それの三つの、つまり教えというものを中心にして、ブッダ、そしてそれのお弟子の人たちのお坊さんたち、こういう一つのグループ。つまりそれを「サンガ」と申しますが、このサンガの平和を乱すような者。これを誹謗するような人間を、これを一闡提と考える。一闡提は、そういう悪人ではあるんですけれども、心というものは決まっていない。つまりこういうものだ、という固定したものは、心ではありませんので、心は不定であるという。つまり定まっていない。まさしく一闡提の心もそうであるから、もしこの人が仏性があること、仏法を信じる心を起こしたら、その時には一闡提とは呼ばれない。つまりこれは仮に呼ばれているもの、ということですね。五番目に罪を犯しても、その果報を信じない人。これは因果の道理を信じない者、ということですね。つまり自分が犯した罪を、自分で反省もせず、それにはこういう報いがあるよ、ということを信じようとしない人。つまり先ほど言いました因果の道理を信じない人、それが一闡提であるという。このようにして、一闡提を特徴付けているんですね。
 
草柳:  悪ということで、最初の一番目に出ていた、勿論人を殺したり、殺めたりするのは、当然これは悪なんですが、今問題にしているのはそれだけではなくて、つまりそういう悪を超える悪なんですね。
 
田上:  そうです。要はここでは「仏性を」と決めてありますけれども、世の中の真理とか道理というものを、ブッダが説かれました。つまり世の中は衆縁和合しているという、つまり寄り合い寄りあい寄り合ってすべてのものは依存しあって、そしてそこには原因があって、条件があって、それによって必ずこういう結果があるんだよ、という、そういう道理を全く信じようとしないという。その信じないという、その一点が大きな悪に繋がっているわけです。ですから結局それを信じないものは、結局は報いがあるという、果報があるということも信じなくなるから、だから悪をしても、それを反省できる人はそれはいいんですけれども、一闡提はそれができない、と言ってしまっているんですね。
 
草柳:  悪をしても、その自覚があるか、ないか、というのはえらい違いなんですね。
 
田上:  だから殺人を犯して、反省して、悔い改めて、自分でこの報いは必ずあるというのを、それに心を痛めていくというのならばいいんですけれども、一闡提の場合はそれがない。特にブッダが説かれた世の中の道理を信じない。その道理は因果の道理ですから、それを信じない者、同時にそれは必ずこういう原因と条件をしたら、こういう結果があるよ、報いがあるよ、ということをまた信じない者という点ですね。
 
草柳:  そうすると、これまでのところのお話では、キーワードは「信ずる心をもつかどうか」ということなんですか。
 
田上:  そうです。つまり「信じる」ということは、仏典の中に、「信は道源(どうげん)」という言葉があるんですね。「信が道源なり」つまり「道源」というのは道の本(もと)という意味ですね。つまり信じるという心の働きはすべて道の本である。すべての道のはじまりである、という、そういう意味でもあるんですね。ですからいろんな場面においてでも、必ず信じるという最初その心を起こすこと。その信じるというもののない者には、いくら教えを説いても、それは単なる焼け石に水をかけているようなものに過ぎないという考え方です。ですから信じるということが如何に大事であるかということが、これは仏教の最初から説かれていることですね。
 
草柳:  その辺の「信心」ということについて、『大般涅槃経(だいはつねはんきょう)』では次のように言っている部分がありますので、それをまた読んでみます。最初の迦葉菩薩(かしょうぼさつ)というのは、お弟子さんなんですか?
 
田上:  これは新しい『涅槃経』の中に出てくる迦葉という名前はお坊さんの出家者のことでございますので、それは違います。
 
草柳:  その迦葉菩薩に呼び掛けている。
 
迦葉菩薩(かしょうぼさつ)よ、娑婆世界の人々には二種類ある。信心がある人と信心がない人である。信心がある人(の病)は治療できる。この人は必ず最高の解脱という無傷の状態を得ることができる。(中略)
信心のない人とは一闡提である。一闡提(の病)は治療できない。一闡提以外の人たち(の病)は治療できるのだが(後略)
 
田上:  先ほどからのキーワードであります「信心」というこの言葉ですが、信じるという心をもっている人ともっていない人の違いは何か、と言った時に、これは信じる者はどこか救われる、そういう道がある。ところが信じないという者は、見ようともしない、聞こうともしない。場合によっては、触れようともしない。ましてや行うことさえ、尚できないという。だから修行の上で言えば、病に罹った人で、お医者さんを絶対信頼して治療して貰う人と貰わない人の違いは、こういうところにもあるんですが、実はインドには古来から「アーユルヴェーダ」という医学があるんですが、「アーユルヴェーダ」というのは、インドの医学なんですが、その中にもあるんですね。つまり病人が治るか治らないか、というもののいろんな項目がある中に、医者の言われたことを信じて、その薬をほんとに心底信じて飲む人と、それを信じないで時々ずるけて飲まなかったりする人とでは、治り方が全然違うと。そういうのがこういうところにも出てきているんです、病と引っかけて。ですから信じる者というのは、釈尊、あるいはブッダの言葉というものをちゃんと信ずる者。そういう人たちは、治療が早くできて健康になるけれども、それができない者は、このようにして病は治らない。その信じないものはまさしく一闡提である。一闡提はなかなか信じるという心を起こすということが難しい人である、と言いながらも、後にはまた先ほど出たように、心は不定ですから、定まっておりませんので、その辺は可能性がまったくないとは言い難い。だけども、それは難しい。ですけど、ここで言われていることは、実は仏教の思想の中に、救われないという人の中でも、仏の慈悲によって救われるという人たちも出てくる、とこういうんですよ。で、まったく救われないとは言いながらも、その仏の大いなる慈悲の力によって、その信じない一闡提をも、必ず心変わりして、そして正しい道を進む。あるいは仏法を信ずるというようになるという考え方を、そういうもっている宗派は、あるいはそういう思想は、中国では天台とか、華厳とか、そういう宗派の思想として受け継がれてきているわけです。ところが中国の法相宗(ほっそうしゅう)というのは、どんな場合でもあり得ない、と。仏の慈悲も及ばない。法相宗では、一闡提は徹底して、これは救われない人物だ、というふうにして、ここで論争があるんですよ。ですからそれはなかなかどっちを取るか、と。ですけど『涅槃経』は、「心は不定(ふじょう)である」という、この一点が、これもキーワードですね。
 
草柳:  同じ仏教でもなかなか一筋縄にいかないというか。宗派によって考え方が違うということもあるわけですか。
 
田上:  読み方が違うのか、あるいはもう絶対のそういう差別なのか。だからまったくそれは救われないのが法相宗の考え方。その他の大乗の宗派は、偉大なるブッダの慈悲によって、力によって、みな最後は救われる。その場合にも、彼は心が不定であるから、ある時何かのきっかけで心変わりして、仏道の教えに従っていくということになる、というふうに可能性を含めているわけですね。
 
草柳:  誰にでもブッダになりうる可能性があるというふうに言っているわけですからね。
 
田上:  ところが一闡提はそういうふうなところで、理由はいろんな理由でこうあるんですよ。それをいうと時間が足りませんので、そういうふうにして論争があるんです。
 
草柳:  少なくとも今取り上げている新しい『涅槃経』の中では、「信心」ということがキーワードになって、信心があれば救われる、という繋がりで考えていけばいいわけですか。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  次の経典をまたちょっと読んでみたいと思うんですが、これは同じ『大般涅槃経』つまり新しい『涅槃経』ではこんなふうに言っているんですが、
 
一切衆生にはみな仏性がある。この(仏)性があるから、数え切れないほどの種々の煩悩の塊を断ち切れば、すぐにでも最高のさとりを得ることができる。ただし一闡提は除かれる。
 
田上:  これが大きな論争を呼んでいるところなんです。「ただし一闡提は除かれる」という、この一文が、どこにかかるかですね。「一切衆生には仏性がある」というところにかかるのか、つまりそうなりますと、「一切みな仏性がある」と言いながら、但し一闡提は除かれるようになると、一闡提は仏性がないことになりますね。ところが、これをその後のところの、仏性はあるんだけど、「数え切れないほどの煩悩の塊を断ち切るようなことができたら、すぐにでも最高の悟りを得ることができる」というところにおいて、一闡提は除かれるとすれば、一闡提はこの煩悩を断ち切ることがなかなかできない人物なんだ、と。仏性はあるんだけれども。だからそういうところで、これは除かれる、という取り方をするか、どっちにかかるかによって、これが学者の考え方があるんですね。
 
草柳:  田上さんはどっちなんですか。
 
田上:  私は、後の方ですね。つまり「仏性がみんなあるんだけれども、煩悩を断ち切ることができない」というのが、一闡提はなかなかできないから除かれる、という。つまり仏性は一闡提も持っている。だけども、なかなか煩悩を断ち切ることができない。釈尊が説かれてこられた「八正道を実践すれば」という、この八正道がなかなか実践できないのが、一闡提だから、一闡提は除かれる、という意味でこれをとった方が、この新しい『涅槃経』の考え方になるわけです。つまり仏教の流れとしては。ですから仏性は誰にでもあるんだから、一闡提にもある。ですけど、彼らは八正道がなかなか実践ができないので、その面ではなかなか解脱はできないというので除かれる、という取り方をした方が分かり易いと思います。
 
草柳:  先ほどちょっとおっしゃった、例えば法相宗という宗派は、一闡提にはまず仏性がそもそも無いだろうというふうに。
 
田上:  そうですね。法相宗は、無いということに、これをとるわけですね。これを取り方からすれば、「一切衆生には仏性がみんなあるんだ」というのが、「一闡提にはないんだよ」と。一切衆生にはみんな仏性があるんだけれども、一闡提にはないんだよ、というので、このかかりを一番最初にもってきた。そうすると、法相宗の考え方はわかる。
 
草柳:  くどいんですけれども、確認をしておきたいんですが、新しい『涅槃経』の中では、田上さんは、「一闡提にも、つまり極悪悪人にも、仏性はある」という、そういう立場なんですね。
 
田上:  はい。それでこの新しい『涅槃経』では、どんな場面でも、「まったく」とか、「一切」とか、あるいは「一万年に一度たりとも心変わりして仏法に勤しむということもあり得ない」というような説き方をいろいろしたところがいっぱいあるんですけれども、だけども、ずっと読んでいきますと、「心が不定である」という、この一点。心が不定でなかったらですよ、一闡提という極悪人は生まれつき心がもう悪に染まって、どうしようもないもの、というふうにして決めつけてしまうと、一番最初にお話しました、仏教の、つまり釈尊自身がお説きになった衆縁和合(しゅえんわごう)の一切のものは、固定したものはないんだよ、と。人間の身体でさえも、心でさえも、周りの環境のすべてのものも、みんな衆縁和合している。固定的なものはないという、そういう道理というものと反するわけでしょう。一闡提だけ、特別に心は決まっている、固定している、となったら。だからこの『涅槃経』の中でも、心は不定であるというのは、仏教のことは一つの決まった定説なんですから。
 
草柳:  もしそうでなかったら、やっぱり大いなる矛盾ですものね。
 
田上:  そうです。ですから一闡提も救われなければなりません。それの条件は、その意味は、心が不定であるからという、その一点ですね。
 
草柳:  衆縁和合しているからということ。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  それはこのシリーズの一番最初の方でもお話がありましたけれども、諸行無常、すべては無常なものだ、ということと、勿論当然関わってくることですね。
 
田上:  まったくおっしゃる通りです。だから無常であるということは、衆縁和合しているからなんです。だから衆縁和合しているから無常であるということは、心も無常なんですね。だから釈尊の言葉には、ブッダの言葉には、「自分の心を信じてはならない」という言葉があるんですよ。それは何故かというと、自分が八正道を行って、ちゃんと自分の心を制御できたら、その心は信じていい。だけどもコントロールできない、制御できない心というものは、絶対信じてはいけない。つまり自分が、八正道を修めて、きちっとした生き方をしている時の心は、それはもう信じていいけども、そうでない時の心は、信じてはならない。明日から禁止しようとか、明日から禁煙しようとかと言って、元旦に願いを立てますけれども、ちょっと一日待ってくれ、というのが、心は不定だからですよ。まさしくそれと同じで、心というものはコロコロ変わるものですから。
 
草柳:  だから一闡提が救われない筈もない。但しそのためには、それは無条件でそうなるわけはないでしょうから、条件が必ずある、ということなんでしょうか。
 
田上:  そうですね。結局は、心というものは無常であり、固定したものではないために、それをちゃんと制御することができる、コントロールすることのできる生き方。だからそれがいわゆる八正道という、ずっと書かれているものを、自分が習慣付けなければいけないですね。つまり何度も申しましたように、仏教でいう「修行」というのは反復することですから。言語的の意味でいうと、反復し、それを身体に匂いが付くような形で、それが身に付くということですね。それが「戒」でもあるわけです。戒律の戒。つまり「戒」というのは習慣というもともとの意味ですから。だから、五戒の中に、例えば嘘を付かないという戒があります。それは嘘を付かないという戒は、嘘を付かないという習慣を自分の身に付けなさい、ということを教えているんです。誰かが居るから、見ているから嘘を付かないんじゃなくて、見ていようと、見ていまいと、人との繋がり、人との関係をもっていくには、嘘を付かないというのが習慣付けられなければいけない。そういうのを言っているわけです。それがいわゆる心をコントロールしたことになる。
 
草柳:  八正道の実践ということも、しかしなかなか難しいところがありますね。
 
田上:  全部を行うことはできない。だけど日常で、嘘を付いてはいけないよ、人間同士殺害をしてはいけないよとか、いろいろありますね。嘘を付いてはいけない、盗んではいけない。これもみんな習慣付けなければいけない。それをやるわけです。一つずつそれを自分で身に付けていくということを教えて、それが八つある、と。ですから、一闡提もそのようにして、心は不定なものであるけれども、ブッダの教えというものに従って、一つずつそれを修めていくというのは、何故かと言ったら、「仏性があるから、あなたも必ず立派な完成した人格をもつような人間になれますよ」と説かれているのに、「いやぁ、俺なんかはそんなものは」と言って、「そんな堅苦しいことは」というように考えると、それはいつまで経ったって、そのままの人間に過ぎないということですね。
 
草柳:  じゃ、前半のお話はここで一旦お休みを頂いて、いつものように映像をご覧頂こうかと思うんですが、今日はネパールのブッダが生まれて育ったところ、そこの映像を用意してありますので、少し見て頂きましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
草柳:  今の映像を見ておりますと、二千五百年前に釈尊が、その子ども時代、青年時代を送った当時の様子って、こんな感じじゃなかったのかなという気がしたんですが。
 
田上:  これカピラ城とこう申しまして、釈尊がお生まれになったところだ、と、こういうふうに言いますが、実はティラウラコットというのは、現在のネパールのところにあるカピラ城というふうになっているんです。実は一九六六年から七年にかけて、あるいは一九七七年から八年にかけて、立正大学の考古学調査隊が発掘して、ここがカピラ城ではなかったか、とこう言われているところです。ですけど、今それに関わるようなはっきりした証拠としての遺品がなかなか出てこなかったんですが、実は一九七○年から六年間の間に、インドの考古学局の人たちが発掘したところが、実はインドの方の領地に、今日のインド領、ネパールのところに近いんですが、デリーから五百キロぐらい離れたところ、北に行ったところで、そこにピプラーワーという、そういうところがありまして、そこがいわゆるカピラ城ではなかったかということが、インドの方で今度は主張されているんですね。で、そこからは釈尊の舎利―遺骨ですね、遺骨を納めた壷が出たりなんかしているんですね。ですから、そこでネパールの国とインドの考古学で争っている。俺たちの方が本物だ、と言って。だけど私ども日本人はあまり関係ないんですが、どちらでも。
 
草柳:  大体この辺だと仮定すると間違いない。
 
田上:  だけど釈迦族の人たちは、今もありましたように、農耕をしていた人ですね。稲作農業をなさっていた種族なんです。釈尊はそこの種族で、長(おさ)である豪農の人でありましたが、お米を食べて育たれたということで、実はお父さんに四人の兄弟が文献によってありますが、シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王(じょうぼんのう))がお父さん。弟がスッコドーダナ。三男の人がドロドーダナ(斛飯王(こくぼんのう))。四男がアミドーダナ(甘露飯王(かんろぼんおう))という。お気付きになったように、後ろの方の発音が「ドーダナ」というのは、お米の「御飯」のことを言うんですよ。だから名前にみんなお米の、そういうものが付いていますから、農業を営んでおられた。つまり稲作をしていたということがはっきりわかる。ネパール人であったのか、どっかの蒙古人であったかというので、いろいろ学者の人がありますけれども、まあどうもやっぱりアーリア系で、インド人ではなかったかというのが、今言われていますけどね。
 
草柳:  何しろ二千五百年前ですからね。さて前半の続きと言いますか、本題に戻りますけれども、その一闡提、つまり今日のタイトルになっている「極悪人」悪人をさらに超えるその「極」が付いているわけですけれども、ただその一闡提も条件によって、勿論当然仏性はあるというのは、新しい『涅槃経』の立場のようですから、救われるということには当然間違いはないわけですね。
 
田上:  はい。但しそれはまったく不可能でしょうね、とこう言いたいほど、もう言葉の意味から「イッチャンティカ」というのは強欲ですから、強欲で自分を中心にして物事を考えようとする人間という、そういうものですから、たとい偉大なるそういう出家者の、あるいはお悟りを開かれたブッダのそういうお言葉であっても、教えであっても、信じないという、そういう気持があると、なかなかそれは付いてこないし、教団の平和を乱すような者というので、それはもう絶対ダメな人間だよ、こういうふうになるわけですけれども、ですけど、やっぱり先ほどから何度も申しますように、仏教のものの考え方というのは、すべてのものは固定したものは何一つとしてない。みんな無常なものである。ですから「こうだ」と決めて、もう悪は悪で救われない人間なんだ、と言って見放すものではない。だからそこで仏の慈悲によって、お力によって、悪とは言っているけれども、生まれつきそうではないんだ。心は常にもっていき方によっては変わって、あの人も人が変わるよというところで、不定ということで、そこで必ず人の心というものを変えるには、一切はすべて衆縁和合しているという、そういう一点において、みんなそれを頭においていけば、どんな人間も決して悪のままではいない。みんな善い方向に向かうよ、ということで、一闡提も最終的には救われますよ、というのが、今回のテーマでもあるわけですね。
 
草柳:  前半のところで、かなり詳しくお話頂きましたけれども、つまり実体としての一闡提、つまり固定した形の一闡提というのは、有るはずがない、あり得ない、ということですよね。
 
田上:  そうです。そういうもともとそういう人物がいたわけじゃないんですね。それは作られたものですね。結局その人の行いをそういうふうに表現しただけなんですね。つまり例えば職業で、同じ人でも、例えば私があるところでは大工をしていた。あるところではパンを作って職人になった。ところが最初に私はパン職人であった時は、「あの人はパン職人である」と。お菓子を作れば「お菓子屋の職人である」と、そういう呼び名をします。ですけども、状況が変わって「止めた」と言って、自分が、例えば大工さんの仕事を始めたとすると、「あの人は大工」とこうなると同じように、その人のやっていることに応じて名前は、表現は変わりますと同じように、同じ人間も仏法を信じない者、仏性を信じない者を、このようにして一闡提と呼んだんですね。殺人者ではないですね。殺人犯でもないですね。そういうふうにして一闡提というのは、仮にそういうふうにして、行いを通して呼んだだけのものです。固定した人物はいないですね。一闡提という、生まれつきそういう一闡提はいないわけです。
 
草柳:  その分かれ道と言いますか、つまり一闡提でなくなる時というのは、これもまた前半でお話をお聞きしましたけれども、要するに信心―信じるか、信じないか、ということがとっても大きなポイントになってくると。
 
田上:  もう信じるという、その一点にそれにかかるんですね。
 
草柳:  お書きになったガイドブックの中に、インドの王様の例が出てきましたでしょう。
 
田上:  はい。ちょうどここの部分のところで、阿闍世王(あじゃせおう)という。釈尊のお友だちであるビンビサーラ王(頻婆娑羅王)の息子さんなんですね。皇太子なんですね。王子なんですが、その人が、阿闍世というので、原語では「アジャータシャトル」とこう言うんですが、マガダ国王のお父さまのビンビサーラ王を殺害して自分が王様の位に就くんです。お父さまを殺害するんですけど、お父さまを牢に閉じ込めておいて、それで虐めるわけです。虐待するんですが、その時にお母さまが可哀想だからと言って隠れるように食べ物を差し入れたりなんかしてやったんですね。で、そうやっているうちに、お父さまを殺害し、お母さまを虐待し、そうやって自分が次の王様の位に就いたということで、非常に悪い、
 
草柳:  つまり阿闍世王というのは、一闡提のいわば、
 
田上:  代表にもなりうる、先ほど提婆達多というのがありましたね、提婆達多はこの阿闍世にけしかけたんですよ。「あんたは王に就きたいならば、お父さんを殺せ。そうやればこうなんだから」と言って、提婆達多にいろいろ入れ知恵されて、そしてそのお父さんを殺害して、王位を自分が継いだわけです。だから言うなれば、提婆達多も悪いし、その阿闍世王も結局はそういうふうにしていろいろ悪事をする。王位に就いてからでも、ほんとにもういろんなところに戦争を仕掛けて、虐待、虐待を重ねた人ですよ。そうやって極端に虐待を重ねて、悪の限りを尽くすほどの王として君臨したわけですが、ある時自分の身体に出来物(腫瘍)ができて大変苦しむんですね。それで阿闍世王は何とかしてこの病気を治したい、と。何がそうさせたんだろう、と。自分の過去世の悪行が、あるいは虐待のそういうものが影響して、こういうふうになったんだろうというので、治す方法はないかというのを考えて、いろいろしているうちに、前のお父さまの時からの主治医であるジーヴァカという大変立派なお医者さんがいるわけですね。この人に聞いたら、釈尊の元に行って少し教えを乞うて、そして生き方を変えた方がいい。そうすればいろいろと変わるだろう、ということを教えられることで、人が変わっていった人でもあるわけですね。
 
草柳:  その阿闍世王が、釈尊に会うわけですね。その釈尊が、その阿闍世王に説法するところがある。その部分をちょっと読んでみましょう。
 
世尊、世間ではエーランダ毒樹の種子からはエーランダ毒樹が生えるのを見てきましたが、エーランダ毒樹から栴檀(せんだん)樹が生えたのを見たことはありません。ところが、いまエーランダ毒樹から栴檀樹が生えたのを見ました。
つまり、エーランダ毒樹の種子とは私の身体です。栴檀樹とは私の無根の信心、つまりブッダの助けによって生じた、これまでなかった私の信心です。
 
どういうことでしょうか。
 
田上:  これはエーランダ樹というのは、葉っぱから枝から幹に至るまで、木が全部毒に染まっている非常に危険な樹木なんですね。栴檀樹というのは白檀(びゃくだん)ですね。この栴檀の木から絞り出された香油―香水じゃないんですけど、油ですね―香油はまさしく素晴らしい香油でもあるわけですが、この栴檀樹というのは、これは香木でありますから、これを燃やしますと辺り一面が非常に香りが漂うという。まあこのエーランダ毒樹と栴檀樹というのは対称的な樹木なんです。ですからこれをエーランダは悪、栴檀樹は善、そのようにしてこれは分けて考えている、喩えたところです。釈尊の元に、ジーヴァカと一緒に行くわけですが、林の中におられる釈尊のところを捜しながら行った時に、どこからともなく、「大王! 阿闍世大王!」という声を聞いて、ビックリして、あれだけの偉いブッダが私の名前を呼んでくださった、というので、大変感涙にむせんで、そしてお側に行って五体投地して、まあ教えを乞うことになるわけですが、そしてそこで二十項目のいろんなことを聞いて、反省して、そこで彼が釈尊に向かって、つまりブッダに向かって言った言葉がここです。「世尊」というのは、世の中で最も尊敬に値する人というので、敬称でありますが、わたしみたいな者が―エーランダとして喩えた―私のこの身体からは、到底栴檀樹なんて生えてくるわけはない、と。それは常識を逸しているものである。そういうような種から芽が出て、栴檀樹は出てこないのに、どういうわけか不思議なことに、この私の身体の中から、つまりエーランダの木から栴檀の木の芽が生えて、それでこのようになった、と言って、変わった自分をこう表現したところです。で、そこのところでエーランダの毒樹の種というのは、私の身体ですけれども、この身体というものが、栴檀樹になったのはまったく「根無しの信心」こういう信心という根っ子がまったくなかったのに、このような信心が生じたというのは、これはまさしくブッダの慈悲の助けによるものである、と言ったんですね。この「無根の信心」というのは、「根無しの信心」ですけれども、これは「仏性のこと」を言っているんですよ。後の禅の文献の中に、「無根の信心」というのが使われているんですけれども、これは「仏性のこと」を表す言葉として使われているんですね。ですからここでは、「無根の信心」とも言っていますけれども、これは仏性のことで、まさしくこれは、阿闍世王が自分にこのようにして、仏性というものを気付かせてくださった。これは仏の慈悲のものである、ということで、ここで非常に彼は反省し、それ以後生き方を変えたら、その出来物(腫瘍)が引いていったということが書かれてあります。
 
草柳:  今このエピソードというのは、確かに木に喩えていて、この木そのものは我々にはポピュラーというか、身近にあるものじゃないんですけれども、とても分かり易い。つまり本来ある筈のないことが起こった、ということを言っているわけですね。
 
田上:  はい。つまり仏性というのは、何度もこれまで出てきましたけれども、「こんなものですよ」という形を持たないんですね。それでそれは身体の中に、肉体と心のそういうものの中に、どこにあるとか、指さすことはできないけれども、それは必ずあるもので、それは、自分が求めようとすれば、自分が八正道を修めていく。つまり正しい道を歩んでいくならば、自ずからにして、それは現れてくるものなんだ、と。それで自分がそのようにしていくことの努力を積み重ねていくことによって、最終的にブッダになるけれども、それは仏性というものがあるからだ、と。だけど仏性がある、などというのは、普通は芽が出るなら種があるし、何かそれらしい根っ子がなくちゃいけないんだけれども、これは不思議なことで、そういうもののないものが、芽を出したんだ、と。ですからまさしくそれは、ブッダの慈悲の力というものによるものである、と。だからこれはまさしくこれは、自分の力ではないんだなということに、この阿闍世王は考え付くんですね。
 
草柳:  その阿闍世王が、そこに考えが辿り着くまでの心の葛藤と言うんでしょうか、多分それは徹底的に自分自身を観察しまくらなければならないわけでしょう。
 
田上:  そうです。二十七の項目をブッダから与えられるわけですね。それを一つずつ反省していくと、ああ、自分がとてつもないことをやってきた人間であるということを知るわけですね。そこで自分をまったくこうひっくり返すような反省、あるいは転換をして、そこで釈尊、あるいはブッダの教えというものが、何であるかということに気付くんです。その時にこういうようにエーランダの木から栴檀が出てくるわけないのに、私はこのエーランダの自分の身体の中から、こういうような素晴らしいものが生まれてきたんだよ、ということで、これはもうブッダのお力による他はない、と。だから人間がこう生きている中で、何でこういう気持が起こったんだろうか、と、よくありますけれども、それなんかも、誰かが手を貸したとか、なんとかじゃなくて、何かの、例えば木の葉一枚落ちても、それによってハッと気が付いて、思えもしないような人生観を、あるいは人生を見つめる目を持つことができたり、あるいは普段我々の周りにある川のせせらぎを聞いただけでもとか、鳥の鳴き声を聞いただけでも、それが何か自分を導くものに変わってくる。そういうようなものは、最初自分になかったんだけれども、何かそれがきっかけで自分は変わった、というのがありますよね。そういう一つの例として、これが挙げてあるんだと思いますね。
 
草柳:  つまりそういう気付きの大切さ、凄さということなんでしょうけれども、つまり阿闍世王は、今お話のように、つまり仏心、仏性ということにハッと気付いた、と。
 
田上:  そうですね。だから「無根の信心」という、その言葉は、「根無し」根がまったくない、根拠のなかったんだけれども、そこに生まれた信じるという気持は、どこからきたんだろうという、そういうことに気付かされたんですね。それがいわゆるここの新しい『涅槃経』の仏性というところになるわけですけれども、そこでは「これが仏性だ」というふうには言わないんですけれども、そのちょっと後のところで、「信じるというのが、仏性である」ということを、この経典は述べているところがあるんですね。
 
草柳:  そこのところを読んでみますと、
 
一切衆生(いっさいしゅじょう)にはことごとくに仏性がある。大信心とはすなわち仏性である。仏性とはすなわちこれ如来である。
 
田上:  「一切衆生(いっさいしゅじょう)にはことごとくに仏性がある」は、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」というお決まりの言葉でありまして、どんな生き物にも仏性があります。みんなブッダになる可能性がある。で、そこでその大いなる信心という、今阿闍世が言った「信心」、その「信心というのは何か」と言ったら、「これは仏性であるよ」と、こう言ったんですね。つまり「無根の信心」と言っているところは、これは「仏性そのもの。これはまさしくブッダになる可能性そのもの」を言っている。ですから途中で申しましたように、「信は道源なり」信は道の初めであると同時に、道の本であるというのは、まさしくこれを言っているわけですね。仏性とはすなわちこれ如来なり。だからこの仏性というのは如来である、と言ったのは、その如来が如来の自身の力によって自分がこのようになったのは、まさしくその仏性そのものが、あなたにあって、それが語り掛けて、あなたに力を貸してくれたんだよ、というところにきているわけですね、この言葉は。
 
草柳:  如来は?
 
田上:  如来はブッダのことです。
 
草柳:  で、これを鎌倉時代の日本のお坊さんたちが随分読んだのではないか、という話が、これもガイドブックの中にあるんですけれども、その中であげていらっしゃるのが、親鸞の言葉ですね。
 
田上:  親鸞聖人ですね。親鸞聖人の「浄土和讃(じょうどわさん)」の中にあるんですね。
 
草柳:  読んでみます。
 
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなわち如来なり
 
田上:  先ほどの新しい『涅槃経』の中の言葉を引用しましたあの言葉のずっと後の方なんですが、なかなかそこまで読み切っていく人は少ないんでしょうけども、親鸞聖人はそこまで読んで、こういう言葉を残しておられる。最初の二行は、これは『華厳経』というお経の中に書かれてあるものですが、そこは信ずるという心、信心こそがあって本当にこれが起こったことによって、なんと自分は人が変わり、世の中を見る目が変わったか。仏の教えに巡り会うことができたかという、そういう歓びですが、信心を本当に心から歓んで起こす人、その人はまさしくこれは如来と等しと説き給う、ということですね。如来と同じだよ、と。今度は「大信心」というのは、これは後の二行は、新しい『涅槃経』の方の言葉ですが、大信心というのは、仏性ですよ、というのは、先ほどありました、仏性は即ち如来である。ブッダでありますよ、と、こういったんですね。これは最初の二行と終わりの二行も、これはまさしく通じ合うところで、みんな信心ということが、如来というものとみんな続く。それで如来の働きによって、信心というものが起こってくるんだよ、ということ、このようにして説かれてあるところですね。非常に私どもこれ読んでいて、心が温まるんですね。いろいろ説明をいっぱいしてまいりましたけれども、この親鸞聖人の和讃の中に、この四行で何かすべてを語り尽くしてしまって、最後には信心という心を起こすことが、人間が救われる唯一の道なんだなあ、ということを感じます。
 
草柳:  一闡提も勿論救われるんだという、このことって、今の親鸞の言った言葉で有名な「悪人正機(あくにんしょうき)」ということに繋がってくるんでしょうね。
 
田上:  私は、「悪人正機」の「悪人」というのは、一闡提のことじゃないかな、というふうに感じているんです。
 
草柳:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成二十三年十一月二十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである