ブッダの最期のことばH人は行為に支配される
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
草柳:  「ブッダの最期のことば」の九回目は、「人は行為に支配される」というテーマでお話を進めてまいります。この「行為―行い」という言葉を、「業(ごう)」という言葉に置き換えて考えてみますと、昔から、例えば「業を煮やす」とか、あるいは「業が深い」と言ったように、あまり良い意味では使われていないようなんですね。ところがこの「業」ということは、本来は、「行為」、つまり「行い」ということを意味していて、ただその行為―行いが習慣化されて、で、そうするとだんだん人の本性に染み付いていってしまう。そのことも、「業」という言葉は意味をしているのだ、ということなんですね。今日はその「業」ということについて、一体ブッダはどのように説いていたのか、ということについて、いつものように駒澤大学名誉教授の田上太秀さんにいろいろとお話を伺ってまいります。どうぞよろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  今ちょっと触れましたけれども、「業」というのは、確かにあまり良い意味では使われていないケースの方が多いみたいですね。
 
田上:  そうですね。確かにそうです。仏教の歴史で、最初に使われていたその意味と、後になってだんだん仏教が発展していくに従って、その一つの言葉にいろいろな意味づけをされて、今おっしゃったように、良い意味で最初は使われていたものが、悪い意味の方に重点をおいて使うという「業」の使い方がありますね。原語では「カルマ」、あるいは「カルマン」と言いまして、「行うこと」ですね。あるいは「行いの働き」というような意味で使われている言葉、つまり何かをする働きですから、我々が目で見るとか、耳で聞くとか、話すとか、あるいはいろいろ手、足を動かす、そういうようなことの行い全般を一つひとつ「行い」―「カルマ」と言って、その言葉を漢語で「業」というふうに翻訳したものですね。ですから例えば今草柳さんのおっしゃったように、習慣化されていく。我々の行いの中に、繰り返し繰り返しやっていると、それが習慣化されて、それが潜在的になっていく。そういう意味のもので、それで良いこと悪いことも「業」という言葉で、漢字では翻訳されてしまいますが、もともとは「善い行い」という意味、あるいは「悪い行い」というように使っていいのが、漢訳されますと、「善業」「悪業」と言って、重みが全然違ってきます。ですから、どちらかというと、善業という意味の方が隠れて、悪業という意味の方を重く考えて、因果関係とみるようになる。そういうところがありますね。
 
草柳:  しかも「業」という考え方というのは、勿論釈尊が生存をしていた時代のインド社会には当然あったわけですね。
 
田上:  そうですね。善い行いをすれば善い報いを感じる、あるいは受ける、と、こういう。悪い行いをすると、悪い報いを感じる、受けるとか、と、こういうふうに言いますが、「報いを受ける」という意味で使いますが、実はこれもこれからずっと最後までお話する中で理解しておいて頂きたいのは、「報いを受ける」というのは、価値の上で、善とか悪とかという意味で報いを受けるという意味ではなくて、個人が、その本人が報いを感じる。受けるんじゃなくて、感じるという、そこに力点がおかれているんです。ですから、一般には「善因善果 悪因悪果」という、こういうふうに言葉を使います。悪い原因には悪い結果、善い原因には善い結果と、こう申しますが、仏教では「善因楽果(ぜんいんらっか) 悪因苦果(あくいんくか)」と、こういうふうに説明をするんです。
 
草柳:  「楽」と「苦」の違いは、どういうことなんですか。
 
田上:  「楽・苦」というのは、本人が感じるか、感じないか、と、そういう時の「幸せを感じる」というのが「楽果」。「苦果」というのは、「思うようにならない、苦しみを感じる」という意味です。ですから、よく言われるように、「何か悪いことを過去世にやった」とかと言って、過去に遡って、自分の生まれる前の前世の話をもってきて、「前世で悪いことをしたら、こうこうこういうことをしたために、今あなたの今の姿というものは、その原因なんですよ」と言って説明をするんですね。そういうのが一般的によく言われますが、実はそういうのは間違った考え方で、この因果関係―「善因楽果・悪因苦果」という考え方は、今生きている自分が、この今、親から生まれた後何十年か過ごしている間に、自分が行ったその原因が、何らかの形で早く感じる場合もあるし、遅く感じる場合もあるし、その後にずっと続いていく場合もあるでしょうけども、みんな個人が感じるという意味です。ですから形で現す、例えば今自分が貧乏であるというのは、過去世においての動向ではないんですね。自分が生きていることを通して出てくるようなものだ、というふうに考えて、貧しいとか、身体的な障害を持って生まれている、とかというのは、全然そういうのとは、業とは関係がないんです。それはあくまでも、後のそういう仏教の方で間違ったと言いますか、誤った考え方で説かれているもので、そういうふうに形で現すとか、価値の上で善とか、悪とかで表現されるものではないんです、本来は。
 
草柳:  つまり私がこうあるのは、前世があって、その前世のためにこう今の私がここにある、という考えではないわけですね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  ところが、インドの古い時代には、そういう考え方が、
 
田上:  いや、ないです。仏教以前にも、そういうのはない。「過去世において、あなたがこういうことをしたから、今のこういうようなあなたが、こういうようにして、今こういう境遇の中にいるんだよ」という、そういうような説き方はしません。形に現しているとか、あるいは状況を現しているとか。今生きている時の中において行われた時の因果関係を説明する時、そういう時に使うわけで、決して善とか悪の結果で評価して説明しないんです。「幸せを感じるか、苦しみを感じるか」という、そのことが「報いを受ける」という意味なんです。だから絶対そこのところを、「感覚的に受ける」という意味ですね。「楽を感じるか、苦を感じるか」という、そういう意味で、最初仏教では説かれたんです。その報いがあるものを「業報(ごっぽう)」と、こういうふうに言うんです。「業の報い」というような説明をするんです。「業報は、自分が行ったことの報いというものをそれなりに自分で感じますよ」とこういうことです。
 
草柳:  しかもさっきお話にありましたように、「習慣力」あるいは「慣習」ということが、「業」ということを説明する時に、当然出てくるわけですね。つまり習慣というからには固定したものはない、と。
 
田上:  そうです。こういう行いをしたから、例えば悪い行いをした。悪い行いをしたんだから、その報いを感じるのは、決まってこういうふうなんだよ、ということは、それはそのままで何にもしないで悪いことをしっぱなしていけば、そうかも知れません。だけども途中で反省をして、例えば宗教的にいうならば、そこで懺悔(さんげ)することによって、自分がこれから心を改めて善行を積むようにしていけば、その報いというのは軽く済む、善い方向にいくというふうなことをいうんです。ですから幸せを感じるというのも、決まっているわけじゃないんです。善いことをしても続けなければいけない。途中でこれぐらい善いことをしたんだから、まあ少しぐらい悪いことをしたって、どうってことないだろう、というふうに思うのは間違いで、善いことをしても続けていかないと、途中で悪いことをすると帳消しになる。だから報いというものは決まっていないんです。必ずその途中での行いによって変化してしまう、ということでもあるんですね。
 
草柳:  もしその報いが決まっているということになったとすれば、それはかなり宿命論的な様相と言いますか、そういう感じになってしまうわけで、要はそうではなくて、釈尊が説いた因果応報というのは、さっき言われるように、あくまでも「善因楽果 悪因苦果」である、と。
 
田上:  そうですね。ですから、過去、現在、未来にわたって、その過去の繋がりで、そういう因果応報があるか、という説き方は、もともと釈尊の教えの中にはなかったんです。それはあくまでも今の自分の生き方ですね。だから釈尊は、人間の価値というものは、生まれによって、その人の価値があるんではなくて、行いによって価値がある。つまり人の偉さとか善いとか言われるのは、その人の生まれよって評価してはならない。行いによって評価することを言うんです。どこまでも、今生きている時に何をしたか、ということが大きな意味合いをもつわけですね。
 
草柳:  古い経典の中に、「人間は確かに行為によって束縛されているのだ」という『スッパニパータ』という経典から、その部分を読んでみます。
 
行為によって世界はあり、行為によって人々はある。生存するものは行為に束縛される。ちょうど車が楔(くさび)に結びつけられるように。
(「スッタニパータ」第六五四偈)
 
田上:  これは先ほど申しましたように、「行いによって人を見なさい」というのと同じように、人間がそれぞれの行いというもの―自分の体このものが行うわけですから、自分の行いによって、「世界」と言ったって、この原語の意味で言いますと、ここには「生きとし生けるものも世界」―これには生きとし生けるもの、それから環境もいうわけですが、いろんなそういう意味を込めて、人々、あるいは生きとし生けるもの、あるいは環境、そういうものもみんなすべてのものは、行いによってそれはつくられている世界である、と。人間も一人ひとりの行いによってつくられる、という、そういう意味です。ですから生きているものは―これは人間以外の動物もそうです。生存するものは、そのそれぞれのものの行いにみんな束縛される。だから何をしたか、ということ。善いことも、悪いことも、みんなそれが行ったことによって、その人は全部いろんな面で束縛され、支配されるんですね。だから例えば、こうやって発言をしている、あるいは話をしている、その話をしたということには、必ず責任をもたなければいけない。だから言いたい放題ということで、人から非難をされたり、あるいはいろいろと中傷されたりというのは、自分の言葉における行いですね、言語行為ですね。それに責任をもちなさい。だから責任を持たなければいけないということは、我々はその言葉の行いに束縛されているんです。行ったことに責任を持ちなさい、という意味が、行為によって人は束縛される。だから私どもが、耳で聞いたもの、目で見たもの、みんなそういうものが蓄積されて、簡単にこうやってはいけないんだよ、ということですね。行いによって全部生きとし生けるものは束縛され、支配されている。善いことをすれば、人々に称賛され、人々に信用され、迎えられる。だけども悪いことをすれば、必ずそれは苦しみを味わうことになるよ、ということも、行いによって束縛され、支配されている、ということですね。行いと言いましても、大きく分けますと、仏教では、「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」と申しまして、「身体的、肉体」において行う行いと、「言葉」、それから「心の働き」ですね。こういうもの、これを大きく三つ分けて、特に心の働きというものが中心になって、それが思うと身体で現す。あるいは言葉で言ってしまう、というふうになりますですね。思ったことが、口にポロッと出るとか、あるいは考えていたことで手が伸びてしまうとか、あるいはこういうことをしてしまった、とかということがありますね。ですから、この「身口意の三業」が、もし善い行いをすれば、これを「身口意の善業」三つの善業になる。今度、悪いことをすると、それが「身口意の悪業」三つの悪業と、こういうふうにして、仏教の経典の中では説明されるわけです。私どもは、今言ったように、身口意の三業によって束縛されているわけですね。いわゆるそれを責任をもって行動しなければいけない、ということを、先ほどの経典の言葉はそれを意味しているわけですね。
 
草柳:  そうしたことというのは、勿論習慣化されていくわけですよね。
 
田上:  そうです。だからそれが「習慣化されていく」。「習慣付けられる」というのは、簡単に考えてはいけないんです。我々の人々の骨格も、親から、また親の親からずっと受け継いでいる身体的な―今日で言えば、NDAかわかりませんが―そういうものがずっと物理的に受け継いできているものというのも、ずっとその前の先祖の人たちがつくってきている業という骨格が、受け継いできている場合もあるんですね。それから癖ですね。癖も親の癖というものが出てくるとか、親の性格というものが、受け継いでいる場合もあるでしょうし、いろんなそういう身体的な特徴とか、ものの考え方とか、あるいは言葉づかいとかという―例えば言葉でも、方言がありますが、こういうのも受け継がれているものがあるんですね。そういうようなものも業の中に入るんです。ですから、それが善い悪いというようなことじゃなくて、親、あるいは先祖―人間は何も自分の親に限らない。親にはまた親があり、その親にもまた親がありで、もう限りなくどんどん先祖は膨れ上がっていくわけですから、誰から受け継いだということは言えないんですが、人は人としての骨格、あるいはそういうようなものを受け継いできている。癖でも何でもそうです。そういうものもこういうところには、業というようなことで理解されているんですよ。
 
草柳:  そういう繋がりのことを、よく「輪廻(りんね)」という言葉がありますでしょう。「輪廻」という言葉の意味、それは輪廻ということが、一体何がそれは原動力になっているのか。
 
田上:  もともと「輪廻」という言葉は、インドの原語では「サンサーラ」と、こう申しますが、原語の意味は、「回転すること」「巡ること」というんです。日本語でよく使われる「流転(るてん)」という言葉ですね。流れ流れ転がっていくという、そういう意味で「サンサーラ」、これを中国の方で漢字に翻訳した時に、「輪廻」と翻訳したんですね。これは鳩摩羅什(くまらじゅう)という有名なお坊さんが翻訳をされましたところに出てくるんですが、輪が巡るが如くに、それは繰り返される。だから同じような状態に繰り返されて―自転車の輪は同じところをぐるぐる回るからと言って、例えば人間が死んだら、また人間に生まれ変わるというふうに考えるのは違います。仏教的な表現をすると、何に生まれ変わるかわからない。流転ですからコロコロ転がっていって、形も変わるし、それから重さも変わるし、あるいは途中で弾けて石が小さくなっていく場合もあるでしょうし、そういうようなものを「流転」と言ったんです。ですから生まれ変わる、という意味のものでは、もともとなかったんです。「諸行は無常である」という、「この世の中は千変万化している」という、そういう意味で使った言葉なんです。
 
草柳:  じゃ、どう変わるか、わからない、ということですね。
 
田上:  わからないんです。ですからこういうふうに生まれます、と決まっていないんです。それをインドの人たちは、今日も「世界」という言葉、「ワールド」という言葉の原語として使っているんですね。「サンサーラ」は、現代語では「世界」という。ですから「世界平和」と言った時に、「サンサーラ・シャンティ」というような言葉がありまして、その「シャンティ」というのは、「寂滅(じゃくめつ)」という、「涅槃(ねはん)」という。仏教語では難しい言葉になりますが、「輪廻寂静(りんねじゃくじょう)」という。輪廻寂静というと、輪廻が静かになった、とこうなりますが、これを現代語で実際に翻訳されているのは、「世界平和」というんですね。「ワールド・ピース」という。ですから仏教の意味と現代語に訳したものは、こんなに大分違います。だから仏教で解釈するのは、あまりにも難しく解釈してありまして、深刻な意味にしてしまいますが、もともとはこういう輪廻は、生まれ変わりという意味ではなかった。そういうので使われていなかった。それが後になりまして、「輪廻」というものと、それを「業の思想」と結びつけて、その行いがこうなると、来世で、あるいは今の世に受ける場合もあるし、来世で生まれ変わって受ける場合もあるし、来世で受けなければ、その次の世でも受けるよ、なんていうようにして、どんどんそれは意味づけを、意味を深く広く繋げていってしまった。釈尊の場合には、それはそんな使い方はしていなかった。
 
草柳:  つい「輪廻」という言葉を聞くと、「輪廻転生(りんねてんしょう)」というふうに結びつけちゃうんですけれども。つまりそれは本来の意味は、再生でも何でもない、ということなんですね。
 
田上:  そうですね。「再生」という意味はもともとなかった。「業」という思想と結びつけることによって、「再生―生まれ変わり」というものが出てきた。だからそれがいろいろな意味合いを、そこにくっつけて難しくしてきているんですね。
 
草柳:  その「習慣力」ということで言えば、それによって我々は、いろいろな行いをするわけですよね。善い行いもあれば、あまり芳しくない行いも勿論あるわけで、つまり善い行いをすることによって、功徳が積まれていく、と。先ほどおっしゃるように、それは休んではダメだ、と。
 
田上:  そうです。繰り返す。だから善い行いをしても、いわゆる「善業を積む」とよく言いますが、習慣力なる、いわゆるそこに善い行いをすると、それなりの力というものが蓄えられますね。いわゆる運動もそうですけれども、何度も何度も先輩に教えられたもの、あるいは指導者に教えられたものを繰り返すと、その人に力が付きますね。「実力」とよくいう。その「実力」というのが、いわゆる仏教でいう「功徳(くどく)」という意味ですよ。ですから「功徳」というのは、「恵みである」のと同時に「力」なんです。そういうものが人間には溜まるんです。まさしく「業」というのは、その「功徳の一つの形」なんですね。善い行いをすると、それが習慣付けられていくと「善業の功徳」―力がそこに得られる。そうすると、逆に悪い業を積んでいくと、「悪い功徳」いわゆる力がそこに溜まる。それがつまり自分というものを引っ張っていく、ということになるんですね。だから悪い習慣をやっていると、例えば変な話、盗みをするというようなことをして、それを繰り返していると、自然に盗みをしないようにと思っても、習慣付けられて意識の中でポロッとそういうのが出てしまうとか、善いことをしていれば、いつでも善いことをしようという心掛けが出てくる、というのは、みんなそういう業の積み重ねによって出てくるものですね。
 
草柳:  善い方は、勿論それは文句の付けようがないですけれども、例えばちょっと悪いことをしてしまった。その結果がいつも悪いことだと、これはもう救いようがないと思うんですね。つまり常に必ずしも悪いことをしたからといって、悪い報いにストレートに繋がるということではないわけでしょう。
 
田上:  ないです。行いは、先ほど申しましたように、不定(ふじょう)ですから。決まっていない。世の中は釈尊の最初に説かれているように、すべてのものは衆縁和合(しゅえんわごう)しているわけですから、固定したものはない。だから決まって、「こういう悪いことをしたら、こういうふうになりますよ、苦しみを味わいますよ」というふに、いうのは、それはもう一定の固定した考え方。例えばあの人は、「こういう生まの人であるから、こういうふうになる」というようなものをいうのと同じですよ。ですから、人間の生き方というのは、みんなこれも決まっていないわけです。環境によって、人が変わるのと同じように。行いも善い行いをして、それを積み重ねていったら、必ずこうなる、というのも、悪業を積んだら、必ずこういう報いを感じますよ、といっても、それを聞いて怖れを抱いて、最初に申しましたように、反省をして懺悔をする、というようなことが、心に湧いてくれば、自ずからその苦しみを受ける、感じる、そういうものが軽くすむことができるという場合もあるんですね。
 
草柳:  いずれにしても、行為には報いが当然付きものであるわけですから。
 
田上:  それは、行(おこな)ったら必ず報いを受けるわけです。「決して俺には来ないだろう、と。私には、そんなものは来ないだろう」と言って、悪いことを軽んじてはいけない、ということですね。
 
草柳:  その報いについて述べているところを、また少し読んでみます。ちょっと長いんですけれども、
 
まだ悪の報(むく)いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇(あ)うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。
まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。
「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴(したた)りおちるならば、水瓶(みずがめ)でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。
「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』)
 
『ダンマパダ』という経典も古い経典ですか。
 
田上:  そうです。仏教の仏典の中で、お経の中で、もっとも古いものの一つ。よく出てまいります『スッパニパータ』と『ダンマパダ』その二つでありますね。ですから、ここには釈尊が説法なさったものを記録したものです。歌にしてありますから非常に分かり易い。後のお経のように、難しい表現はございません。ここにありますように、「悪いことをしたらこういう報いを感じるよ」というふうにおっしゃられても、「自分には来ないだろう」と。「自分だけは」という気持がどこかある。善いことをすると、「自分はこういう幸せなものがくるだろう」といって、安心してはいけない。だから繰り返すということが、いろいろ善いことは繰り返すけれども、悪いことは繰り返してはならない、ということを意味するんですね。だから譬えの使い方が素晴らしくって、要するに「塵も積もれば山となる」という、よくみなさん知られている諺がありますが、それと同じように、ここにも一滴ずつの水が積もり積もって、滴って、それが海となる、という。あるいは「石をも穿(うが)つ」とよく言いますように、まあここでは一滴ずつの水でも、それを繰り返し繰り返し善いことをしていくと、海になるように、全部善いことで満たされますよ、というふうに、ここは書いてあるんですね。ですから、必ず報いはあるんだよ、ということを、いつでも心掛けていなければならない。だから少しずつでも、というところは、繰り返すということですよね。決して一回やったら、それで終わるということではない、ということを、これは教えているところですね。もう一つ譬えがあるんですよ。火種の上に灰が被っていて、その上に載っかると、最初は熱さを感じない。だけども暫く載っかっていると、その灰も熱くなって、足が火傷してしまう、という。最初に悪いことをしていても、自分には来ないだろうと思うのは、その上に立っている人間と同じだ、と。必ずそういうのは、いずれ自分に最後には火傷してしまうことになるよ、ということを、釈尊の譬えにあるんです。
 
草柳:  因果にはきちんと道理があるんだから、その道理をあまり軽くみてはいけないよ、ということなんでしょうか。その教えなんですね。
 
田上:  そうなんです。決して自分だけには来ないだろう、と思っちゃいかん。必ずそれはきますよ、ということを教えているんですね。
 
草柳:  この辺でまた、いつものように、映像がございますので、その映像をどうぞご覧ください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
紀元前三世紀頃と言いますと、ブッダが亡くなって二百年ぐらい経った後なんですね。
 
田上:  そうですね。アショカ王という、紀元前二六八年から三十二年間、王位に就いてインドを統一した人です。偉大なる人なんですね。この人は、釈尊の慈悲の教えというものに感服して、その教えに従って政策をした人です。ですからこの人の石碑の中に「政治は民衆への報恩の行である」と。恩を返す、恩に報いる、という。つまり「民衆のことをいつでも考えて、民衆に恩を返すつもりでやるのが政治である」と、こういったのが書いてあるんです。この人は世界で初めて、つまり人類史上初めて病院を造った人です。薬草を栽培したとか、というのがありますが、有名な人です。あるいは信教の自由を説いた人です。そういう人で、これは慈悲の教えに基づいているということは、釈尊の教えが宗派に関係なく、宗派を超えてそういうものを説いているという証なんですね。それを実践してみせた人です。今ここにアショカ王の建てたストゥーパというのが―日本の墓の原型とありましたが―お墓というのは、もともとストゥーパで、お鉢をこう伏せた形をしたものをストゥーパとこういうんです。お寺で卒塔婆(そとば)というのは、ストゥーパを音訳したものなんですね。
 
草柳:  随分大きなものですね。
 
田上:  そうですね。あれは巨大なものですね。いわゆるストゥーパというのは、舎利を納めている。つまり仏の遺骨を納めたところです。
 
草柳:  ここも入っているんですか。
 
田上:  これは入っていない、と言われているものです。ですけど、そういうものの中にはお経本を入れたり―まあここではお経本は入れていないんですけれども、後の時代になると、原語で表されたお経本を入れた廟というのがあるんです。もう一つここで、紀元後に、仏像が現れる前は、象徴的な仏足石とか、大法輪とか、お釈迦様は、お母様のマヤ夫人に説法のために三十三天に昇られたといわれている。天上界から戻ってこられた。その際、天上界から地上に向けて金と銀、瑠璃でできた階段が出現し、お供を伴って釈尊が下界に降下された。その様子は三道宝階降下として、多くの仏伝彫刻のモチーフになっている。そういうものとしてお釈迦様のお姿というのを拝んだんですね。
 
草柳:  なかなか静かな良いところのようですね。
 
田上:  そうですね。
 
草柳:  さて前半の話の続きにしたいんですけれども、前半の最後のところで、「因果の道理を軽くみてはいけない」という話がありましたですね。
 
田上:  因果の道理を自分の意思で動かそうとしてはいけない。よく「私だけは違う」と言って、例えば悪いことをしても、「私だけには報いがこないだろう」というのは、自我の、いわゆるエゴの考え方。どこまでも人は、自分を中心にして、自分だけはないだろう、という。そういうことを考えるのが、人間の悪い点ですね。ですから因果の道理も、「善いことをしたからって、善い報いが、幸せな報いがあるなんて言ったって、真面目にやっていたからって、貧乏じゃないか」と、こういうふうにいう人がいるんですが、そうじゃない、というんですね。最初は善いことをしている人でも、決して幸せな報いというのは、すぐに感じないかも知れないが、時とともにそれを行っていると、いっぱい自分に幸せを感じることができる。決して因果の道理を軽んじてはいけませんよ、というのがあるのは、それですよね。私を中心にして、考えて、世の中をみてはいかん、ということを言っている。そういう言葉が、見事に言った人が、日本には道元禅師という人がいらっしゃるんですよね。
 
草柳:  やはり人はどうしても、善い報いをどうしても得たいという気持というのは、誰にもありますよね。
 
田上:  そうですね。それは自分を中心にして考えますから、当然善い報いを得たい、感じたい、というふうにあります。形で現そうとしても、それはなかなかすぐにはこういうふうにならないから、幸せを感じるかどうか、というのがありますね。幸せの感じ方というのは、人それぞれによって違いますから。寒い時にお風呂に入って、幸せを感じる。「あ、幸せだ」というのも、お風呂も、大きなお風呂に入って幸せだ、という感じる人と、山の奥で山登りしていて、ドラム缶にお湯を沸かして、で、入って「いやぁ、幸せだ」と感じるのは、どっちが素晴らしいか、と言ったら、どっちも同じだ。評価はできないですね。だから綺麗なお風呂の中に入っているのが幸せなのか、ドラム缶の中に入る、それが幸せなのか、というのは、これは決められない。だからそういうのも、幸せを感じるという、あるいは苦しみと感じるというのも、人それぞれの感じ方で、「決まってこういうものです」ということは、一つとして言えないものである。
 
草柳:  ただその幸せを感じたい、という思いがあって、何かに縋りたい。何か願いが叶えられるんじゃないか、ということだって、そういうことがあるから、例えばお寺に願い事に行きますよね。布施をしますね。それはみんなそれを期待するから。
 
田上:  祈祷して貰うとか、あるいは呪術(じゅじゅつ)で、今祈願をして貰うとか、いろいろ我が国で目の当たりにするものはいっぱいございます。これから入学試験があった時、祈願に行きますものね。そういう時に、お寺に行くとか、神社に行くとかというので、みんな祈願をします。ご祈祷をして貰うとか、病気が治るようにとか、あるいは仏像を触ってなんとか御利益を、とこう感じます。そういうのがいっぱいございますね。果たしてそれが効き目があるかどうかという。それは結局は、その祈祷してくださった方は、「効き目があります」と言いますけれども、受験をする時に、「よくお考えください」と、私はいうんですが、例えばある神社にお詣りに行って、そこでお金を払って、それで祈祷して貰って、合格祈願をして貰って、それがみんな効き目が百パーセント全員があるとしますよね。そうすると、その人たちが全部ある大学なり、あるいは高校なり、みんな受験しましたら、全部合格したら、それは効き目がある、と言います。ところが効き目がなかった場合には、どうなるかという。その責任はもっていきようがあるのかどうかという。そういうことを抜きにして、まあ少しの心の安らぎを少し求めようと、気休めだと、こういう人もいますから、それはそれでよろしいんですが、そういうことでほんとに効き目があるかどうか、と言ったら、釈尊は、それをどう言われたんだろうか、というんですね。例えば、悪い悪人と言われた、極悪人なら極悪人と言われた人が死んだとした時に、「その人は地獄に堕ちる」と、こういうふうに言った時、「いや、金をあげるからなんとかご祈祷して良いところに生まれるように、極楽に行けるようにして貰いたい」と、こう言ったら、お釈迦(釈尊)さんがそれをやってくれたかどうかという。当時のバラモンたち、仏教以外のそういう宗教者たちの中には、当時「ご祈祷してあげます」と言ってやった人はいるわけですね。だから釈尊は、それに対して、それはおかしいじゃないか、というのがお経の中にあるんですね。
 
草柳:  じゃ、その部分を、ある人が、村長さんが釈尊のところに行っていろいろ質問するわけなんですね。その問答なんですが、読んでみますと、問いに対して釈尊が、
 
釈尊「たとえば、油を入れた油壺(あぶらつぼ)を、誤って深い湖に落としてしまったとしよう。その油壺が湖底で壊れて油があふれ出て、水面に浮かんだとしよう。そこで、その浮かんだ油を湖底に沈めようと思い、大勢の人々が集まり、合掌して沈むようにと祈願したとして、それで油が沈むだろうか」
村長「そんなことはありません」
釈尊「それと同じように、五つの戒を守り、つねに正しい考えをもち、慎みある行いをする人がいて、いま、この人の死後、大勢の人々が集まり、地獄に堕(お)ちるようにと合掌して祈願しても、その人は道理にしたがって天界に再生することになろう」
(『相応部経典』「西地人経」)
 
田上:  これはもう一つその前に、また別の譬えがちょっとあるんですが、長いところの一部分だけを要約してご紹介しているんですが、もう譬えの使い方が絶妙ですね。油を沈めようと思って沈めても、決してそれは沈まない。油は道理に従って、つまりそれは本性に従って浮いてくるんです。だから善いことをした人を、「あんな奴は」なんて言って、憎たらしくて、それをその人が亡くなった後、祈願をして、「あの人は地獄に行くように、地獄に行くように」と言って、お祈りをしたからと言って、その人が地獄に行くだろうか、と言ったら、釈尊は、決してそんなことはない。油が浮いてくるのと同じように、道理に従って天に生まれるであろう、と。つまりどんなに合掌し祈願しても、その人は決して地獄に堕ちることはない。これの前には、極悪人が、お金を出して、何とか祈願して天界にいけるようにして貰いたい、というんですよ。ところが、それに対して池の中に石を沈めるんですね。池の中に石を落として、それを「浮き上がってこい」と言って、祈願してやった時に、この石が浮いてくるかといったら、そんなことは絶対にない。それと同じように、悪を犯した極悪人は地獄にいくのが必定である。だから決してそれを祈願をして、浮き上がらせて天界に生まれるようにすることは、不可能なものである。道理に従って、それはわかっていることである、と言って、譬えを出すんですね。そこで村長さんに、こういうようにして悪人と善人の違いというのは、ここだ、ということを説明したんですね。今日でも同じです。勉強しない人に、祈願して合格できるか、と言ったら、祈願してもできませんもの。そうしたら必ず勉強はしなければいかん、と言ったら、何も祈願しなくたって、本人が勉強すればいいということですよ。
 
草柳:  ここでも勿論道理が大事なんですよ、ということを言っているわけなんですが、さらに『ダンマパダ』の一節をまた読んでみたいんですけれども、そこではこういうことを書いてあるんですね。
 
鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を食いつくすように、悪をなしたならば、自分の業が、静かに気をつけて行動しない人を悪いところ(地獄)にみちびく。
(前掲書)
 
どういうことを言っているんですか。
 
田上:  「身から出た錆」と我々が使う言葉ですね。つまり自分でつくった悪いことをした者は、その錆によって自分がまた身を滅ぼす、ということですね。これはもうよく言われる「身から出た錆」という。悪をなしたものは、自らその悪に染まって、自分で今度は行いによって束縛されているわけですよね。悪いことをした者は、悪いことなりのそれによって支配され束縛されて身の破滅。善いことをした人は、それによって人々に信用され、称賛されて、決して誤ることはないから、人々に称賛されて、それによって人々は自分の行いによって束縛されている、という言い方ですけれども、それが結局はその人の身を守ってくれている、ということですね。だからここにいうように、「身から出た錆」というものが、身の破滅という言葉になっているんですね。必ず報いはその人にくる。
 
草柳:  道理は全然眩(くら)まないよ、ということなんですね。
 
田上:  自分の勝手にはできませんよ。自分がつくった悪は自分で刈り取らなければ、悪の芽は自分で刈り取る。だからどこまでも刈り取るというのも、途中で何度も申しましたように、反省し懺悔するという、そのことですよね。もう二度と繰り返さないという、悪を繰り返さないということが、そこで自分に身を課していかなければいけないことですから。
 
草柳:  だからそういうことが習慣化されていけば、それは善い行為になる。
 
田上:  そうです。例えば地獄に堕ちる筈のものが堕ちないですむ場合があるよ、という。つまり決まっていないよ、ということを言っているんですね。報いも、こういうふうになると決まったものではない。それが決まっているんだったら、修行する必要もないですよ。修行するということは、今おっしゃるように善いことをしようというものを、それを繰り返し繰り返して、自分が身に付けていくと、過去において悪いことをしたことがあったにしても、それが報いが消されていくということですね。
 
草柳:  同じようなことを、道元禅師人がどういう言い方をしているのか、ということをご紹介したいんですが、
 
おおよそ因果の道理、歴然(れきぜん)としてわたくしなし。造悪(ぞうあく)の者は堕(だ)し、修善(しゅぜん)の者はのぼる。毫釐(ごうり)もたがわざるなり。
(『正法眼蔵』深信因果(じんしんいんが)
 
田上:  短い言葉ですけれども、見事に言い表しているんですね。「因果の道理、歴然としてわたくしなし」因果の道理というものを、自分の勝手に、天は私を中心にして動いているなんて言って、考えて、悪いことをしても報いはこないよとか、あるいは悪いことをしても、お寺に行って、死んだらなんとかお経をあげて貰って、引導をわたして貰うと、地獄に堕ちるのを免れて、極楽に導いてくださるだろう、なんていうような考え方をしては大間違い。私を中心にして考えて、因果の道理をおろそかに考えてはいけないよ、と。「造悪(ぞうあく)の者は堕(だ)し」悪をつくった者は、地獄に堕ち、「修善(しゅぜん)の者はのぼる」善いことをした者は、必ずのぼる。天にのぼる。これは、この道理は少しも間違いはないよ、ということを言っているんですね。だから悪いことをした者は堕(だ)して―どこに堕(だ)すということは書いてありません―堕ちるか、のぼるかの違いで、こういう表現がなかなかこれは面白いんで、極楽にいくか、地獄にいくか、という表現もしていないんですけど、のぼる者と堕ちる者、先ほどの石は必ず落ちるというのが道理である。油は必ず浮くというのが道理である。そういうことですよね。それが善いことをした者は、どんなに沈めようとしても、それは浮き上がるのが道理である。悪いことをした者は、浮き上がらうとしても、それは堕ちるというのが道理である、というのが、ここの言葉で見事に表してありますね。
 
草柳:  先ほど「行為」というのは、不定である。固定的なものではない。つまり定まっていない、という話がありましたですね。その不定であるということ、だからこそ、つまり修行をする意味合いがそこには出てくる、というふうに考えていいわけですか。
 
田上:  「修行」という言葉は、何回目かのところでも繰り返しましたけれども、「修行」という言葉は、「繰り返す」ということ、「反復する」という意味がそこに込められているわけですね。「反復する」ということは、ここでも話の中心になってきた、つまり「業(ごう)をつくること」です。つまり「善い業をつくることが、修行の目的」なんですね。それはちょうど匂いが体につくように、例えば私どもの日常の生活の中で、「あなたの生業(なりわい)はないですか?」とこういった時、職業のことを大体聞きます。「生業(なりわい)」というのは、「せいぎょう」とも読みますが、まあ読み慣わしで「なりわい」とこう言いますが、その「業」という言葉は、その職業が自分の体の中、生活の中の中心になって、例えば大工さんは大工さんの業をそこで繰り返し繰り返しやることによって、その技を自分の身に付ける。パン屋さんはパン屋さん、お魚屋さんはお魚屋さん、みんないろいろの細工をする人たちも、そういう職業の人たちも、みんなそれぞれの職業の生業(なりわい)を何十年も続けていく。そうすると、その人の体に染み付く。ちょうど「匂いが染み付く」というのがよくありますが、パン屋さんは、小麦粉の匂いが付く。魚屋さんは、魚の匂いが付く。大工さんは、大工さんで木の香りが付くというようにして、みんなそれぞれに職業の匂いというものが付くわけですね。そういうようにして雰囲気というものがありますが、人の雰囲気というのも、それも生業によってつくられてくる。だから電車やバスに乗って、「あ、この人はお医者さんじゃないかな」とか、あるいは、「この人は大工さんではないかな」って、たといスーツを着ていてもなんとなく雰囲気をもっているというのは、その生業によってつくられたもの、それは繰り返されたもの、それが修行のもともとの意味です。ですから善いことを繰り返し繰り返して行っていくと、必ずや幸せな報いを感じますよ。悪いことをしていくと、その苦しみの報いを感じますよ、というのは、そういうことです。それが「善因楽果、悪因苦果」ということです。ですから、それを繰り返していくことを通していくから、その修行が重なっていけば、仏教的な言い方をすれば、必ずや先々でブッダになられますよ、立派な人間になられますよ、というのが、これまでズーッと説明してきたことです。ですから「業」という言葉を、悪い意味ばっかりに私ども日本人は使っておりますけれども、そういう言葉の意味で使ってはいけないんです。どこまでも業は、一般的に善いこと、悪いこと、両方あるわけですから、善いことの方を特に強調して使わなければならないです。今それを逆に悪いことの方に使う傾向が多すぎて、悪い傾向の意味で何でもかんでもそういうふうにして、「業、業」と言って、悪いなんかこじつけの意味が出てきたりしますが、決してそういうものの使い方はしてはいけないですね。
 
草柳:  最後にもう一つ、『大般涅槃経』の中から読んでみたいんですが、
 
あらゆる行為が必ず報いを受けるなら、八正道(はっしょうどう)を修める心を起こさないだろう。八正道を修めなければ、解脱はない。あらゆる聖人が八正道を歩むのは、重い悪行を消して、軽い報いを受けたいためであり、不定な行為には報いがないからである。(中略)
もしあらゆる行為が必ず決まった報いを受けるなら、一生の間つくった善行は安楽の報いを受けつづけることになり、反対に一生の間つくった悪行は永久に苦しみの報いを受けつづけることになるだろう。もし行為の報いがそういうものであれば、修行も解脱も涅槃もないことになる。
 
田上:  これはもう一生行いというものは、「決まってこういうものです」というふうに、報いを感じるものではないんで、善いことをずっと一生続けたら、その報いは善い方にいきますけれども、感じますけれども、悪いことを一生したからと言って、その報いは必ずこういうふうになりますよ、というのは、それはそのままいけばそうかも知れません。ですけども、これも繰り返し繰り返し自分が反省をして懺悔していくという努力をしさえすれば、「八正道」という、ちゃんと釈尊が示された八つのバランスの取れた歩みを行うよう努力すれば、自ずからそこに重い報いを感じるのが、軽くすむことができる、と。地獄に堕ちないでもすむことができる、という。だから、みんなそういうふうにして、善い行いを―人間はどっちかというと、なんか大につけ、小につけ、悪いことをなんかしているわけです。ですからそういう悪い行いを反省して―善い行いをしよう、という努力をしていくということが大事で、それが目指すブッダになろうということに繋がるわけです。そういうふうにして、これを心掛けなさい、ということが、ここの教えであると思うんですね。
 
草柳:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十三年十二月十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである