ブッダの最期のことばI果実は種子にあるのかないのか
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「ブッダの最期のことば」の今回は十回目です。今回は、「果実は種子にあるのかないのあか」というテーマでお話を進めていくわけですが、普通に考えれば、「果実は種にある」。これは常識的なごく当たり前に考えれば、そういうことになることになるのではないかと思うんですけれども、果たしてブッダは、この原因と結果の関係をどういうふうに説いていたのか、ということを『涅槃経』を中心にして、いつものように駒澤大学名誉教授の田上太秀さんにその辺の事情を伺ってまいります。どうぞよろしくお願い致します。
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  原因と結果の関係ですから、縮めて言えば「因果」ということになるわけですね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  多分今回も仏教で、釈尊(ブッダ)が説いている因果の問題というは、そう一筋縄ではいかないのかな、という気がするんですけれども、どうなんでしょうか。
 
田上:  因果の問題は、原因と結果という、この言葉を縮めたものでございますけれども、いろいろといろんな面に解釈ができます。例えばこの世の中は、どういう原因で、何が原因で生じたのか。あるいは何が原因で展開したのか、という時に、おおもとの原因は何だろう。我々の世界は結果ですから、その結果はこういう原因によってもたらされた、という、そういう因果関係もあります。それから前回の「行いによって人は支配される」という、あの問題も、結局は原因と結果で、自分が何をしたかという、そのおおもとの原因によって、自分が報いを感じると、そういう問題の時も、因果の問題があります。今回ここに因果の問題を取り上げましたのは、このシリーズの第六回目のところだったと思うんですが、仏性が、我々の五蘊(ごうん)から構成されている肉体に有るのか無いのか、という問題がありました。ブッダになる可能性というものがあるのかどうか、という問題で、そこでも因果の問題がありました。もう一つ大事なところは、人間の身体には、もう既に生まれた時から完成されたブッダが内在する、と。そこにおられる、というそういう信仰を説いている人たちもいるわけですが、果たしてそういうまだ何も修行もしていない者が、生まれた時からブッダのそういう完成されたものをもって生まれてきているだろうか。そういう人が修行するということは一体どういう意味をもつのだろうかとか、いろいろそういう時に、問題になるのが因果の問題であります。そういうものに絡めるために、今日はこの因果の考え方というものを、少ししっかりと考えてみて、それでどういう正しい考え方をしていいか、ということをお話しようと思ったんです。因果というものには、大きく分けまして二通りの因果説があります。因果は原因と結果というものが別々にないと困るんですね。一緒にあっても困るわけです。ですから必ず最初には、原因があって結果がある、という、そういう時には、「因果異時説(いんがいじせつ)」(因と果は時を異にする)という。時が違うんですね。因果は異なった時をもっている。原因の時と、結果が現れた時は、自ずからそこに時間の隔たりがありますから、「因果異時説」という。「異時」という考え方があります。今一つは、今度は「因果同時説」というのがある。因果は同時である。原因と結果が別々にないんです、一緒にある。例えば水辺に生えている葦(あし)がありますが、それは一本で立ちますが、それを束にしても、その一束ではなかなか立ちません。そこで二束を向かい合わせて支え合うと、それが同時に立っていることができます。そういう時に右の方の葦の束が原因なのか、左の葦の束が原因なのか、これはもうなんとも言えない。お互いに支え合っている。こういうような形で、因果というものが一緒に最初からあるんだ、という考え方があるわけですね。そういう時に、「因果異時説」と「因果同時説」というものを考える時に、因果異時説の方の中には、例えば宗教的にいうと、もともとキリスト教やイスラム教のように神様がいて、その神様がこの世の中を造った、という考え方。あるいはインドには、創造主であるブラフマン(梵)という神が居て、それが自分の考えている、その考えに従って、この世の中をつくったんだという、そういう時には、異時説ですね。原因と結果は、時間的には隔たりがあって、そしてそこにはいろいろさまざまな展開をしている、という転変説(てんぺんせつ)(あるものが転じて変わるという説)という考え方があるわけです。
 
草柳:  つまり結果を生み出した何か絶大な力を持ったものが、先ずあって。
 
田上:  あって。そして結果が、この世の中のこのようなものとかというわけです。もう一つ、「因果同時説」というのは、一緒なんですけれども、そこにはさまざまな要素が集まって、その要素がどれが原因、どれが条件になっているんじゃなくて、さまざまな要素が原因になり条件になって、この世の中は展開しているんだ、という。そういうことで、結果が時間的な隔たりでなくて、最初から一緒になって、そこには原因でもあるし、結果でもある、というような考え方をする。そういうのが、「因果同時説」というのがあるんですね。ですけども、その「因果同時説」の中にも、今度は世の中の始まりは一緒である、と言いながらも、何から始まったか、というので考えて、世の中はあるものがちゃんと最初にあって―先ほど言いました神様とか、ブラフマンとかという、そういうものがあって展開した、という、そういう「世の中は有(う)から始まった。あるものがあって、それから展開した」という考え方と、「いや、そうじゃないんだ。まるっきり最初から何にもないという考え方、つまり何にもないところから展開した」という考え方がある。そうすると、「何にもない」ところから展開したというのはおかしいと思われるんですけど、それは先ほど言いました、いろんな要素が集まって、自然にそこに結果が現れてくる、という考え方、そういうふうな因果説もあるんです。
 
草柳:  今いっしゃった、「先ずあるものがあって、結果があるんだ」と。「いや、実は何もなかったんだ。そこからいろいろな結果が生み出されてきたんだ」という、それは釈尊の当時のインドの代表的な考え方なんですか。
 
田上:  そうです。釈尊がお生まれになる前に、いわゆるインドの「ウパニシャッド哲学」と言われる大きな哲学の流れがある中で、「世の中は有から始まった」―「サット」と申しますが、「あるものがあって、それが展開して」というのと、それから「まったくそういうものはない」―「アサット」と申しまして、そういう「何にもないところからこの世の中は展開したんだ。つまり絶対なるそういう原因というものはないんだ。そういう絶対なる原因のないところからこの世の中はできた」という。つまり「有の哲学」と「無の哲学」という、そういう考え方で、この宇宙、あるいは世界の展開を考えたんですね。仏教はどちらかというと、「無の哲学」ですね。いわゆる全く絶対なるものがあって、そのものがこの世の中をつくったんではないんだ、と。さまざまな要素が集まって、この世の中ができた、という考え方が、釈尊の考え方です。
 
草柳:  先ほどの「因果異時」異なる時の異時と、それから「因果同時」ということに当て嵌めると、どちらかと言いますと、因果同時の方なんですか。
 
田上:  はい。結局はさまざまな要素が絡まって、ということですから。これまで何度も申し上げました言葉で、「衆縁和合(しゅえんわごう)」というのがありましたね。さまざまなものが寄り合って、繋がり合って、助け合って、寄り掛かって、すべてのものは展開している、という。ですからそういう考え方をもとに、この世の中はできているんだ、というのが「衆縁和合」の考え方。つまりそれは因果同時説のような考え方ですね。
 
草柳:  そういう二つの代表的な考え方の中の、今の因果同時でいうと、柿の種と果実の例に喩えると、これはつまり因果同時の中に入るわけですか。
 
田上:  そうですね。結局は普通の考え方では、柿の種があって、それに芽が出てくる、という考え方ですけど、それは因果、「桃栗三年、柿八年」と申しますが、柿は八年経たないと実が成らないという、その結果は、時間的な経過がありますから、因果異時説ですよね。ですけども、考え方によると、原因の中に―種の中にも、柿というものが、そのままではないんですけども、柿の性質がなければならない。柿という実は、決して梨の種からは成らない、という。つまり柿の種しか柿の実は生じない、という、そういうところで、もともとからそういうような柿と同時に存在していなければならない、という考え方。その場合には、因果同時のような考え方。
 
草柳:  つまり原因の中に、既に結果がある。
 
田上:  「ある」。と言って、探ってみても、そこにはないんですね。そういう時に因果の問題がいろいろと一概に、「最初からありますよ」とか、「最初からないよ」とかとは言えにくいところがあるんですね。ですから釈尊の「衆縁和合説」というのは、最初からそういう実があるとか、実がないとかという、偏った考え方はできないで、「有るとも言えるし、無いとも言えるし」という、そういうような考え方で説かれていくわけです。
 
草柳:  そうすると、新しい『涅槃経』の中では、その二つの代表的な考え方を絡ませながら展開していく、ということなんですか。
 
田上:  はい。ですから今日のここでお話をさして頂くのは、つまり『涅槃経』ですから、新しい『涅槃経』の中に書かれてある因果説をお話しようとするんですけれども、実はこういう考え方には、もともと釈尊自身の因果説もあるわけですが、それ以前に結局はインドにも「有(う)から生じたか、無から生じたか」というので、あったわけですね。
 
草柳:  それは考えていけば、当然一番おおもとは何だったのか、というところに行き着きますますものね。
 
田上:  そうです。ですから、「これが最初ですよ」という、形あるものを示すことはできないんですよね。「有から発生した」と言いながら、その「有なるものは一体何だ」と言った時に、インドの宗教文献である、そういう中にも、「これです」という形あるものを示していないんですね。たとえば、『タイッティリーヤ・ブラーフマナ』は、「原初にこの宇宙は無であった」これは「無」の方、「それから実に有が生じた」という。これは最初に無であった、と。何にもないところからこの世の中は展開したんだ、という考え方。これは「無の哲学」の方ですよね。今一つは、今度は最初は、「有るものがあった」と。『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』の中に、「ここに、最初、存在しているものだけがあった」。何か、どういう形のものかわかりません。「それはただ一つであり、第二のものを有しなかった」持っていなかった。つまり存在しているという。最初にあるものは一体何だったか、というのを明確に、「こういうものです」とは説いてないんですが、そういう最初に存在しているものがあったんだ、と。それがこの世の中に展開してきたんだよ、ということで、これは「有の哲学」ですね。繰り返しますけれども、先ほど言いました釈尊の「衆縁和合の因果説」は、まさしく「無の哲学」の方で、まさしくさまざまな要素が集まって、例えば空に雲が掛かります、生じます。その時に、もう透き通るように晴れ渡った空に、何かの条件によって雲が生じて、その雲がだんだんだんだん雨雲に変わって、雷が生じ、雨が落ちてくるという、そういう場面が転変していくわけですね、変化していくわけです。その時に、一番最初に空に、そういう雲というものが、あるいは雷というものが、あったでしょうか、というんですよ。ないわけです、それはもともと。ところが気象の変化によって、条件によって、さまざまな要素がそこに絡まり合うことによって、雲が生じ、雷が鳴って、そして雨が落ちでくる、あるいは雹が落ちてくる、という、そういうことですね。それと同じです。結局は、「何にもない」というようなところに、「何かの条件によって、世の中のすべてのものが展開している」という、こういう考え方ですね。ところが「有の哲学」というのは、そうではなくて、最初から「神様が全部そういうものはつくってやっているんだ」という考え方。それは非常に宗教的であって、科学的ではないんですね。だから釈尊のそういう無の哲学という考え方からすれば、それは非常に科学的な考え方ですね。条件によってという。さまざまな要素と条件によって、この世の中は生まれてきている。つまりもっと別な言い方をしますと、例えばギターでも、バイオリンでもそうでけども、それは優れた技術をもった音楽家が弾きますと、とてつもない一つの音楽が流れます。「その旋律は一体どこから生じたんだろう」と言って、バイオリンでも、ギターでも分解したって、どこにも出てきません。それを組み立てて、弾いて貰うと、それが出てくる。つまりそのようなもので、もともとそういう音というものも、そこのバイオリンとかギターは置いただけでは何も出てまいりません。分解したって出てまいりません。それはさまざまなものが集まって、そこに出てくるわけですね。
 
草柳:  それもさっきの雲の譬えと同じことですよね。空には何の一点の曇りもないところに雲が出てきて、場合によっては、雨が降り、雷が鳴る、というのは。つまり原因の中に結果がある、という考え方からは、それは出てこないわけですね。
 
田上:  こない。雷が空にどっかにぶら下がっているわけではありませんしね。雲がどっかから、もうそろそろ出てきて良さそうなもんだ、と言って出てくるわけでもない。あれだけの洪水を起こさせるような雨が、あの空から降ってくるということ事態も、それだけの量の水が空に浮かんでいることはありますか、と言ったら、ないですよ。それは条件によって、どんどんどんどん雨が生じてきているだけの話で、雨が最初から空のどっかに、水槽に蓄えてあって、それが降らされているわけでもないですね。
 
草柳:  それはガイドブックの中に書いてある言葉を使わせて頂くと、「因中(いんちゅう)」原因の中には果実がない。だから「因中無果(いんちゅうむか)」という言葉でいいわけですか。
 
田上:  「無果」になるわけですね。何にもない、という。「因中」というのは、原因の中に無果―果実がない、という。つまり結果がない。つまり原因の中には、これと言って姿・形、あるいは色、そういうようなものは最初からないんですよ、というのが、「因中無果説」ですね。反対に今度は、有るというのは、「因中有果説」ということで、原因の中に結果がある、という考え方。これはもう我々が目にしている色・形というようなもの、例えば今ここのテーマであります柿の実というものが、柿の種の中にある、という考え方です。ですけども、その時に大事なことは、じゃ、柿の実がありますが、あの色をしているもの、あの形をしているもの、味をもっているものが、種の中にあるか、と言ったら、これはなかなか分かり難いですね。一つならいいですよ。おわかりのように、一つの種から八年経って実が成った時に、何十個も成ります。あるいはそれだけではありません。次の年にも何十箇も、何百箇も成ります。年を重ねる毎にだんだんその後増えていくように成ります。それだけの柿の実の数が最初の一粒の中にあったんですか、と聞かれた時に、誰も答えられないですよね。つまりこういう因中有果説というのも、なかなかわかるようでなかなか突き詰めていくと分かり難い。
 
草柳:  この二つの説が、その当時代表的な意見であった、考え方もあった。じゃ、ブッダはどういうふうに説いていったのか。さらに突っ込んでお話を頂くと、ブッダは少なくとも、原因の中に結果がある、ということについては相当否定的ですよね、当然ね。
 
田上:  私は、今日のテーマは新しい『涅槃経』の中の一つの譬えのところで出してある例をテーマにしましたけれども、この新しい『涅槃経』の中では、ミルク―乳ですね。牛乳でもよろしいですが、牛乳からヨーグルト、バター、チーズが熟成されます。で、その時に牛乳の中に、ヨーグルトとか、チーズとか、そういうものが最初からあるだろうか、という。つまり「因中有果説」であるとすれば、当然そこにヨーグルトやバターやチーズが存在していなければいけません。「因中無果説」は、そんなものなんか最初にありませんよ、と。牛乳をいくら探ってみたって、バターもチーズも、姿・形、味さえもないという、そういうことになりますね。一体どっちが正しいのか、ということで、『涅槃経』は、それをいろいろと説いているわけですね。
 
草柳:  そこのところをこんなふうに言っておりますので、先ず読んでみますと、
 
ところで、原因には二種類ある。一つは根本因。これを正因(しょういん)と言う。もう一つは補助的原因で、これを縁因(えんいん)という。
正因とは、乳がヨーグルトを生ずる場合の原因を言う。縁因とは、ヨーグルトになる条件の酵母や温暖などのような原因を言う。この二つの原因によって乳から生ずるので、乳の中にヨーグルトの性質があると言ったのだ。
 
田上:  原因と結果という場合に、いろいろそれぞれについて、詳しく考えなければいけないわけですが、結局はこの原因というものが一体何か、ということで、二種類考えなければいけない、と。そこで根本の原因というのと、それから補助的な原因。つまり一番大本になるところの原因というものと、それが展開していく場合に、それを補助するという、助けになるような原因。ここの場合に根本因というのを「正因(しょういん)」。補助的原因を「遠因(えんいん)」と。「因」というのは、条件という意味です。補助的という。条件的という意味でも同じです。「正因」というのは、例えばミルクとヨーグルトの関係でいうと、牛乳がヨーグルトを生じる場合、これは正しい原因ですから、これは正因になるわけですね。ですからヨーグルトが、例えば単なる水からヨーグルトができるか、ということは、それはあり得ません。どこまでも乳からしかヨーグルトは求めることができない、というので、これが根本の原因。今度はそれがヨーグルトになるためには、それを助ける条件となる、あるいは補助的なものが必要になる。そのものが、例えば酵母、例えばヨーグルトの菌とかとよくありますが、それと牛乳を発酵させないとヨーグルトになりません。そうすると、ここに適当な温度というものが必要。これは経典に書いてあるので、「酵母、温度」というものが、ここの場合には補助的な原因になります。この二つの原因によって、牛乳から生じるというので、ヨーグルトは乳の中にある、というふうに、私は説いているのだ、と、ここでブッダは言っているわけですね。
 
草柳:  だから簡単に原因と言っても、単純なものではなくて、今あったように少なくとも二種類あるという、そのブッダの考えの中では展開しているわけですね。これの今の言葉に続けて、次をまた読んでみたいんですが、こういうふうに言っているんですね。
 
もしすべてのものが唯一の原因から生ずれば、なぜマンゴーの木は乳から生じないのかと質問することさえないのではないか。地・水・火・風の四つの物質的要素は形成する因縁となるが、物質はおのおの形が異なり、差があり、不同であることを考えてみるとよい。その意味で、乳からマンゴーの木は生じないのだ」
(『大般涅槃経』)
 
田上:  「もしすべてのものが唯一の原因から生ずれば、なぜマンゴーの木は乳から生じないのかと質問することさえないのではないか」というのは、決まった原因がもうあるとすれば、何も他のことを考えて、「これからはできないんですか?」とかといろいろ質問しない。決まっているわけですから。ですから例えば、「人間は神が造った」と、こういうふうにすれば、神以外のものは考えられないわけですから、そういうふうになってしまうんですね。ですから唯一の原因から生じれば、こうだというけど、普通考えたらヨーグルトはどこまでも牛乳から。ですから、例えば「他のものから」と言っても、地・水・火・風の四つの物質的な要素というものは、いろいろなものを形成する原因とはなりますけれども、ものにはそれぞれ形があって、差があって、みんな同じでもない、ということを考える時に、どこまでも牛乳からマンゴーの木は生じない。だけどもマンゴーの木という性質というものと、ヨーグルトの性質というものは、自ずから違うわけですね。ですから牛乳からしかヨーグルトは発生しないし、マンゴーの木はどこまでもマンゴーの種からしか生じないんだ、ということですね。
 
草柳:  今の問答というか、ブッダの答えは、菩薩の質問に対して答えているわけですね。これはかなりこの後もずっと続くわけですけれども、実はこの後で本文の中では、菩薩はまだこれでは勿論納得しないわけですね。またさらに質問するわけですね。その質問の内容というのは、実は「乳だけを求めて、水を求めているわけではないんだ」ということを言って、さらにブッダはそれに対して、こんなふうな答え方をしているわけですね。そこもまた読んでみますと、
 
ブッダ「菩薩よ、そうではない。(中略)君が言うように乳の中にヨーグルトがすでにあれば、なぜ乳を売る人は乳の値段だけを受け取り、ヨーグルトの値段を要求しないのだろうか。雌馬を買うときに、親馬の値段だけを受け取り、将来生まれる子馬の値段をなぜ要求しないのだろうか。
もし乳の中にヨーグルトの性質があるのならば、なぜ同時にバターやチーズの味がしないのか。もしニグローダ樹の種子に十メートル以上の高さになる大木の性質がすでに存在しているのならば、同時に芽、茎、枝、葉、果実、色、形などの違いもすでに存在していなければならない。だが、それらを見ることはできないではないか
 
いろいろとこうエピソードの中で使っている例が面白いですね。
 
田上:  獅子吼(ししく)菩薩が、先ほどのことを聞いて、「そう言われても、それは一般の人たちは水を求めるんではなくて、それはヨーグルトを欲しがっているから、乳の中にヨーグルトがあるということは確かですよ、と。ですからあなたのおっしゃるようなことではなかなか納得できません」と、こう言ったら、「いや、そうじゃないんだよ」と。結局はここに今読んで頂いたように、乳を売る人は―売る人、と言ってもいいんですが―牛乳を買う人は、ヨーグルト求めるために―これがヨーグルトになるんだから、と言って、ヨーグルトを求めに来ているわけではない。あくまで牛乳だけを求めている。もしヨーグルトを求めているんだったら、最初にヨーグルトが乳の中に存在しなければいけない。だけどそれはおかしいんではないか、と。ヨーグルトの性質というものが、もしあったとすれば、味から、匂いから、それからそういう性質というものが、牛乳の中にあるわけですから、そういうものがあったとすれば、牛乳を買う時に、ヨーグルトの値段分まで、それは払って買わなければいけない、と。そういうことはないだろう、と。ここに面白いのが、親馬の雌馬を買う時に、当然将来子どもを生む、という。そういうセリにかかった場合に、この雌馬が子どもを生んだら、その子どもが将来素晴らしい競馬になるというので、売り主がその子どもの値段まで付けて親馬を売るか、と言ったら、そんなことはしませんよね。どこまでも親馬は親馬の値段で売って、買う人もそれです。もしそれが最初から親馬の中に子どもがいたとすれば、それはおかしな話で、当然値札には子の分まで、あるいは孫の分まで載っけなければいけなくなるんですね、そういうのはおかしなことだと。だから因中有果説というのは、おかしい、ということを言いたいところですね。
 
草柳:  その後乳の中に、バターの味がするか、というようなこともそうですね。
 
田上:  味がするかどうかですよね、結局は。しないでしょ。そんなことあったら、牛乳飲んでいる時に、「牛乳が欲しい」と言って、子どもが来た時に、飲ませている時に、「これバターの味がする」とか、「ヨーグルトの味がする」と言ったら、飲めなくなります。ですから、牛乳の時は牛乳だけ、バターやチーズはどこまでもそれは乳の中にはなくて、発酵することによって、経過して、こういうものは出来上がっていく、ということですね。
 
草柳:  だから乳を放って置いて、ヨーグルトになる筈はない、という道理を説いているわけで、ヨーグルトになるためには、今までお話があったように、さまざまな条件が重なり合って、初めて乳がヨーグルトになるのだ、ということですね。
 
田上:  おっしゃる通りです。で、前にも仏性の問題の時にありましたように、「仏性というものがあるのか」と言ったら、「いや、あるとも言えないな、無いな」って。それは何故かというと、その人は善根を積んでいない。菩提心を起こしていない。八正道を実践していない。そういうような三つの徳目を挙げましたが、この三つの徳目というものを、修めていない人にとっては、それは仏性は存在しない。ブッダもそこにはいない。だけども、それを条件付でちゃんと行うならば、その時にその人にはちゃんと仏性がある、という考え方です。ですからおっしゃったように、牛乳の中にヨーグルトはない、と言っても、それはちゃんと条件付でいろいろと加えていけば必ず得られる、というような考え方ですね。ですからそういう面では、乳の中にヨーグルトはある、ということはできるわけですね。
 
草柳:  つまり原因の中に既にその結果があるのだ、という、その説については、ブッダはかなり極論だ、と言っているわけですか。
 
田上:  結局それは片方の考え方、極論です。ですから今回の最初のところに申しましたように、「因中有果説」も「因中無果説」も立派な説なんですけれども、それをいずれかの側に自分が立ってそれを説明すると、「衆縁和合説」はなくなってしまう。つまりそれは中道の立場―バランスの取れた考え方にならない。どっちかというと、因中有果説も因中無果説も、これは極端な考え方、偏った考え方。だから両方が頭の中にあって、両方の考え方をしていかなければいけない、ということです。ここはここでいま説明的ですから、因中有果説はこういうふにして説明するんだよ、ということです。
 
草柳:  さっき私は、「ブッダは、因中有果説を否定しているのか」みたいな言い方をしたんですが、それは違うんですか。
 
田上:  いや、それでもいいんです。因中有果説でも否定しているんですよ。と言って、この後出てきます因中無果説を今度は主張してもいるんですね。じゃ、それなのに、と言ったら、最終的には、「有果説でも無果説でもない」というふうにして。
 
草柳:  もう一つの「因中無果説」をどういうふうにブッダは説いているのか、ということは、いつものようにちょっと映像をご覧を頂いた後でお話を伺っていきたいと思います。今回の映像はナーランダというところの映像なんですがご覧下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今の映像の説明の中に、「一万人の僧侶が学んだ」とありましたが、あれは「一時に」ということですよね。
 
田上:  最初から最後まで、というわけではありませんが、今ここの画面にも出ておりましたように、紀元後五世紀の頃に建てられたお寺ですね―ナーランダ寺ですね。その時は小さかったんですけれども、王様が六代にわたって、ずっとそれを受け継いで、どんどん増築していって、それで今まだすべての全貌が現れているとは言えないようですが、インド考古局の人たちが現在の見る限りにおいては、横十一キロ、縦五キロ、そういう広大な敷地になっていて、まあ最盛期には一万人の僧侶が勉強していた。これだけの僧侶を擁しているのは、みんなその人たちは自分のお金で学んでいるんではなくて、地域の人たちの、六カ村なんかの、そういう人たちが全部寄進をして、お金を出したり、いろいろ食べ物を作って、そしてそのお坊さんたちの勉強を精進できるようにしてくださった、支援したんです。
 
草柳:  日本の仏教との関係はどうなんですか。
 
田上:  仏教の人の名前があるというふうに言われていますけれども、確実のところは、私はよくわかりませんが、そういうふうに言われています。結局はインド以外のところからまで学びに来ている。ここでは仏教の勉強だけではないんです。哲学やバラモン教の勉強もするし、ヒンドゥー教の聖典の勉強もするし、天文学や医学の勉強もしているんです。ですから、これだけの規模の、しかも一万人もいるような大学というのは、世界史上ここが最初であり、これだけのものが当時のヨーロッパにも何にもなかったんですね。それだけここは発展した中心地であった。これが七百年続いた。紀元後十二世紀まで。仏教が十三世紀に滅びてしまったんですね、インドでは。ですからその百年ぐらい前までは、これはずっと続いていた、と言われものです。
 
草柳:  今で言う総合大学のようなものが、あの時代にあったというのは、インドというのは凄いところですね。
 
田上:  凄いですね。真ん中に三十メートルぐらいの高さの大塔があって、貯水池まであったりして、大変なものだったんですね。
 
草柳:  さて、先ほどの話の続きの本題に戻りまして、因中有果説は一区切りしました。今度は原因の中には結果はないのだ、という因中無果説について、ブッダはどういうふうな説き方をしているわけですか。
 
田上:  一番分かり易いものは、譬えも出てまいりますけれども、例えば胡麻油というのがありますが、それを栽培しているところに、まったく胡麻油の採取の仕方、あるいはどうやって作るかというのをわからん人にとっては、胡麻油を取ろうと思って栽培している人に、「何しているんですか?」と言ったら、「胡麻の種を蒔いているんだ」と。「それ何するの?」と言ったら、「油を採るためだ」と。「どこに油があるの?」と言ったら、「これを栽培し、時期がきて、実ったらそれを採種して、蒸して搾っていくと、油が出るんだよ。だから今ここに油はないんだけれども、ちゃんと油は得られますよ」という言い方とか、あるいは陶芸家のアトリエへ行って、そこで「花瓶をくれ」と言って求めて行ったら、花瓶なんか何にもなかったが、彼は、「わかった。じゃ、あげるよ」と言った。「お前のところに何もないじゃないか」と言ったら、「いや、ちゃんと轆轤もあるし、粘土もあるし、あんたが求める立派な花瓶を作ってあげる」という。
 
草柳:  その問答も、勿論先ほどの続きですから、菩薩が質問し、それにブッダが答えるという形で話は進んでいくわけですね。その菩薩は、乳にヨーグルトは最初からない、というふうに言われたわけですけれども、時間についても聞いていますよね。
 
田上:  そうです。過去、現在、未来。
 
草柳:  あるのか、ないのか、という。
 
田上:  「過去の時はあるか」という。例えば、自分が生まれた、という事実は存在しますね。自分が今生きているわけですから。だからそういう簡単な考え方は、自分というものは、今生きているんですけれども、「私は過去に存在したか」と言ったら、存在しているわけですね。生まれた、という事実がありまますから。過去は存在します。「未来はあるのか」と言ったら、まだ死んでいないですね。死んでいないんですから、必ず未来は存在しなければいけない。つまり私にとって、過去、現在、未来というのは、必ず存在しているということなんですね。だけども、過去に振り返って見た時に、自分が生まれた、というものの痕跡を、役所に行けば自分の戸籍抄本見たらあるかも知れません。そんなものもそれも消してしまえば、自分の痕跡なんて何もない。親も居なくなったら。そういう時は過去は存在しないんですよ。ですけども、自分が生まれた、という事実は、これは否定できない。何故ならば、今ここに自分がいるんですから。だから存在します。未来はまだ来ていませんけれども、そういう面では何も未来はないじゃないか、と、こう言います。だが存在しない、というわけにはいかない。何故ならば、自分は死んでいないんですから。死ぬということは、いずれ先で、ということですから、未来は存在している、という。内容であるんです。
 
草柳:  その本文の中で、ブッダが、今おっしゃた「過去も未来もあるんだ」という、その過去については、こんなふうな言い方をしているというのを、ちょっと読んでみたいと思うんですが、これは菩薩に答えて、
 
ミカンの種を植えると芽が出る。そのとき、種は形を失い、なくなる。これは芽についても、甘味や果実についても同じである。熟すと酸っぱくなる。この酸味は種、芽、ないし果実などに最初から存在しない。
ただ種々の過程を経て、熟している間に形や色、姿などから酸味が生まれたのである。しかもこの酸味そのものは、最初はなかったのが、いまはあるのだ。最初はなくて、いまあるといっても、最初のものにつながりがなかったのではない。
このように、最初の種は過去のものとなっているが、それだからこそあると言える。この意味で、過去の時は存在する。
 
ちょっと回りくどい言い方ですね。
 
田上:  回りくどいですけど、私が先ほどお話しましたように、自分の過去というものは、生まれた、という事実はあるけれども、親も全部亡くなってしまうと、根拠がないんですよね。ですけども、生きている事実を考えた時に、自分は存在するわけですね。柿の、或いは果実でもそうですけれども、甘味とか渋味とか、いろいろありますが、みんな最初から種の中にあったわけじゃないんですね。それは経てきているわけです。そういう過去になかったものが、今あるから、と言って、過去と無関係かというと、種がなかったら、その甘味も渋味も何もないわけですから、関わりはあるわけです。そうすると、過去にある、ということを言われなければいけなくなる。だから因中有果説というふうになるわけですね。ない、とは言えない。
 
草柳:  つまり「あるのかないのか」その因中―原因の中に結果があるのかないのか、というふうなことを、時の流れに喩えて言えば、こういうことが言えるんだよ、ということなんでしょうか。同じことを、つまり時の時間の経過の中で証明しようとしている、ということですか。
 
田上:  一番分かり易い説き方ですね。時の流れというもので、自分の存在を、過去があったか、未来があるのかないのか、を考えるわけですね。それも先ほど申しました、人間にはブッダがあるか―仏性があるか、というようなものと同じですね。まるっきり何も知らない時は、仏性の存在というものは何もないわけですね。だから自分には、仏性なんてない、と言っているけれども、将来自分が、今から修行してブッダになったとした時に、「ああ自分には仏性というものがあったんだ」とか、あるいは「ブッダが存在したんだ」とかということがわかるわけです。繋がりがなかったわけじゃない、と。
 
草柳:  問題はその間、過程のこと、
 
田上:  「こうだ」と言って否定はできない。「無い」とは言えないですね。
 
草柳:  もう一つ、今は過去はあるんだ、と。未来も当然ある。その未来は、先ほど先生、おっしゃいましたけれども、この本文の中では、胡麻の油を例に出しながら述べているわけですね。そこのところはこんなふうに言っておりますので、それをまた読んでみますと、
 
では、未来の時が、なぜ存在するのかを譬えで説明しよう。
ある人が胡麻を播(ま)いたいたとき、別の人が来て、
『なぜ胡麻を播いているのか』と尋ねた。これに対して、
『油を取りたいから』と答えたとしよう。
このときは、油はどこにも見当たらない。しかし、胡麻が生育して実を収穫し、蒸して搾ったら油を取ることができる。これを予想して播いた人が、『油を取りたいから』と答えたのは嘘ではない。この意味で未来の時は存在する。
 
これは非常に分かり易いですね。
 
田上:  先ほどもお話しましたように、ちゃんと予想が立つわけですね。こういう手順を踏んで、その過程をきちっと踏んでいきさえすれば、必ずや胡麻は手に入るという。ですから仏性の場合も、「あなたがブッダに必ずなれますよ」と説かれてありましたね。ですけども、「ブッダになる、と言ったって、私は今こんな段階の自分が何でブッダになれますか、と。こんな生き方をしているものが、到底無理ですよ」と言っても、「あなたにちゃんとそれを指導してくれる人がいたら―つまり仏教でいうのは善知識ということですね―そういう立派な指導者が居て、その人の教えに従って、ちゃんとこういうふにしていくならば、必ずあなたはブッダになれます。そういうような可能性をあんたは持っているんですよ」ということを教えられて、それに従って自分が生活を積み重ねていくならば、必ずブッダになれる。だから今ここで種を播いて、こうこうこういうふうに栽培して、収穫していけば、先で胡麻が得られる、という。胡麻油が得られる、ということを教えられているから、そういう知恵を得ているが故に、それができるんですね。ところが知らない人は、胡麻の種を播いたからって、何が油が採れるか、という。それで放棄してしまいますけれども、知恵あるものが教えてくれたものを忠実に守って、それを栽培して行けば、将来必ず胡麻は得られる、と信じていくという、そういう生き方。そうすれば、必ず胡麻は得られるように、ブッダにあなたもなられますよ、と。つまりそういう性質のものを持っているから。可能性を持っているから。それがここで教えようとしているところですね。だから今はあなたはブッダになる可能性というものが、あるとかない、とか論じるけれども、必ずありますよ、と。何故かというと、ブッダになった人がいるんだから。だからその人の教えに従っていけば、必ずブッダになれます。だからそれを信じていくことが大事ですよ、ということで、ここにこう教えているわけですね。今はブッダの欠片(かけら)もない。前に出てまいりましたですね、三十二相八十種好のブッダの特徴が何にもないじゃないか、と。ないんだけれども、必ず教えられた通りにいけば、なります。それが未来の時はある、という考え方。それは因中有果説。で、どちらも無果説も有果説も納得がいく考え方ですよね。
 
草柳:  そうですね。
 
田上:  どちらもなるほど、そうか、と思いますもの。だけども偏ってしまうと、おかしいことになっちゃうんですね。「どちらが正しいですか?」と言ったら、どちらも正しいんですよ。無果説も正しいし、有果説も正しい。つまり「最初から仏性がある」と言っても、「無い」と言っても、それはその人のある時の状況によって、それが「有る」とも言えるし、「無い」とも言える。つまり有る、という時は、その人がちゃんと教えに従って修行して生活している時には、有る。だけども無いという時は、何にも無視して、信じないで、そんなものほったらかしておくと、それは無いに等しいですから、因中無果説になる。どっちが正しいか、といったら、それはその人の立場によって、その人の状況によって、有るとも言えるし、無いとも言える。だから釈尊が、あるいはブッダがここで言いたいことは、その人その人が、どういう心の持ち方をし、どのような生き方をしているか、ということによって、有果でもあるし、無果でもある。つまりあなたに仏性があるというのも、真面目に生きていくならば有果説です。だけども悪事を働いて、何にも信じていかなければ因中無果説になる、そういう考え方です。
 
草柳:  「種の中に果実があるのか無いのか」という譬えで始まったんですけれども、それは常識的に考えれば、そうだろうということ、つまり因果説を巡って、ずっとお話を伺ってきたわけですが、ブッダが説いているところを、今のお話を伺っておりますと、単純な因果説ではない。
 
田上:  そうですね。結局はいろいろ状況に応じて、因果説は説いているわけです。だからおわかりのように、釈尊が説いていること、あるいはここのブッダが説いていることは、因果説ではないんですね。結果がこうだ、じゃないんです。「因縁説」なんですね。「因縁説」というのと、「因果説」の違いは、仏典の中では大体同じような説き方をする。正確に言いますと、仏教の因果説というのは、因縁説なんです。原因と条件というものが大事なんです。
 
草柳:  「縁」が条件ですね。
 
田上:  はい。原因と条件によって、つまり特に大事なのは、条件次第によって結果は変わるわけです。ですから「有るとも言えるし、無いとも言える」というのは、条件次第なんですよ。つまり先ほど言いましたように、あなたが信じて善根を積み菩提心を起こし、八正道を行うという、こういう条件を満たしていけば、自ずからブッダになれます。だけども、それを信じることもない、何もしなかったら、それは因縁説であっても、その条件が揃わないと、結果はないんですよ。因中無果説になってしまう。無いに等しい。つまり因縁説を説いているというふうに、いつでも考えて頂くといいです。どこまでも、1+1=2とこうありますが、ここでいうなれば、1+2=3と、こうした時に、1が原因、2が条件として、その3が結果としましょう。因縁説は、1と2の問題ですね。1+2の問題。2が3に変わると、答えは当然変わってきますから。0になると変わりますね。つまり条件を変えることによって、結果はさまざまになるんです。
 
草柳:  それは分かり易いですね。
 
田上:  ですから前のお話の時にもありましたように、人が生まれによって決められたんじゃないんです。それは1+1=2という、生まれによって、こうだ、と決まっている。それは因果説の考え方。条件は抜きなんですよ。教育とか、その人の育った環境とか。ところが、因縁説になると、条件ですから、必ずその人の生まれでなくて「行(おこな)い」です。生まれてからどういう行いをしたか、という条件が結果となる。だからあの人は、生まれによって1+1=2になると決めていたのが、条件によって、4にも5にもなって、人が変わるわけです。
 
草柳:  つまり1が基になると数だとすれば、それに2を加えるか、3を加えるか、5を加えるかということによって、当然答えは変わってくるわけですから、その加える「2、3、5」これが条件というふうに考えていけばいいわけですね。
 
田上:  そうです。仏教はそういう条件が衆縁和合。衆縁和合というのは、さまざまな条件という。その中には原因も入るわけです。それは最初に「要素集合説」と申しましたが、「因果同時説」と言っても同じですが、一緒に全部どれが原因で、どれが条件かわからない。結果はそれ次第ですから。そういうことで、この説明をしていこうとする仏教の因果説です。ですから生まれによって人間は決められているんじゃなくて、行いによって人の価値が変わる、というのは、それです。これも結局は、「あなたは生まれた時から仏をもって生まれていますよ」という言い方は、これはとんでもない間違いで、それはある面では正しいかも知れません。しかし何にもやらない人に、そういうことを言ったって、それは無意味なものですね。どこまでも、何を行ったか、ということが大事。そういうことがここでいう「柿の種に、柿の実は最初からあったかどうか」という、それは柿の実は、そっくりはないかも知れませんが、繋がりはあるわけですよね。それは当然そういうことですね。
 
草柳:  如何に条件が、因縁(いんねん)の「縁(ねん)」が大事なのか、ということは、今のお話で大変分かり易く聞かせて頂いたんですけれども、今日しばしば出てきた仏性の問題についても、確かに仏になる可能性は誰でももっているけれども、じゃ、一体自分は何をするのか。つまり条件のところ、それが大事だ、と。
 
田上:  その条件が大事です。それをちゃんと教えてくれるためには、立派な指導者が要る、先輩がいなくちゃいけない、先生がいなければいけない、という。だから正しい先生、立派な先生を見付けて、その人に付きなさい、というのが、いずれの世界においても言われるものですね。芸術であろうと、あるいは職人の世界であろう、とみんなそうです。
 
草柳:  今日はどうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十四年一月十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである