ブッダの最期のことばJ臨終の比喩説法
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「ブッダの最期のことば」の十一回目です。今回は「臨終の比喩説法」というテーマでお話を進めていくわけですが、よく生前ブッダは、八万四千もの教えを説いた、というふうに言われているんですが、これは特筆すべきことと言っていいのではないかと思うんですが、相当な部分を譬え話を使って教えている、というふうに言われているわけですね。そこで今回はその臨終のブッダが、最期にこの譬え話を使って一体何を語り伝えようとしたのか、というところに焦点を当てて、いつものように駒澤大学名誉教授の田上太秀にいろいろとお話を伺ってまいります。どうぞよろしくお願い致します。
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  今日は、「比喩説法」ということがテーマになるんですが、ほんとに仏教というのは譬え話がまことに多いですね。
 
田上:  そうですね。今回まで読んでまいりました新しい『涅槃経』の中身は、比喩を使った説法というのが特筆するほど多いんですね。反対に古い『涅槃経』の方では、この新しい『涅槃経』のようには比喩はそんなに出てまいりません。比喩があるわけですけれども、新しい『涅槃経』のようには比喩はそんなに出てまいりません。比喩があるわけですけれども、新しい『涅槃経』のようにはないですね。ですから新しい『涅槃経』は、多くの仏典の中でも、特に「比喩説法」の多いというので有名な経典でもあるわけです。で、釈尊、あるいはブッダの説法というものについて、この新しい『涅槃経』には、その特色、あるいはその方法に八つある、というふうに書いてあります。まず釈尊、あるいはブッダの比喩の説き方というものを、まずその八つの中から最初の四つだけをお話します。
 
一、順喩説法―これは世俗の道理にしたがって小さいものから大きなものへと次第に説くこと。例えばちょっとした小さな善いことをしても、それがたくさん集まれば最終的にあなたは立派な人間になります。ブッダになる、という。よく私どもの日常使っております言葉で、諺に「塵も積もれば山となる」というような言葉がありますね。これなんかはいわゆる「順喩」の方ですね。
二、逆喩説法―順喩説法とは逆に、深遠な教えから素朴な教えへと次第に説くこと。
これはブッダと言われる仏さまというのは、人間ではなかったんじゃないか、と。特別、神様のようなものだと、一般の人はそう思いますけれども、そうではなくて、仏と言われる人、あるいはブッダと言われる人も、これはもともと普通の人間であった人、その普通の人が正しい道を歩むことを通して、こう言ったんだという。その大の人が、一番最初はこういう凡人であった、と。だから江戸時期の滑稽本に出てきますように、「仏も昔は凡夫なり」という言い方は、まさしく大から小に向けて、つまり最初は凡夫だった、というところから始まるんですね。
三、現喩説法―だれにでも理解しやすいように、身近にあることがらを例に取り上げて説く方法。
四、比喩説法―「もし・・・であったら」と、現実にはないことだが、つまり相手の心に大きな転換をもたらすための仮の方便を使う説き方ですね。
 
草柳:  そういう譬え話を、ほんとに縦横に駆使されたという節があるんですが、釈尊・ブッダの説法の特徴として、相手に応じて説法したという、
 
田上:  「対機説法(たいきせっぽう)」ですね。つまり「対機」の「機」というのは、相手のことを言うんですね。相手に応じ、相手がどういう人かによって、例えば小学生なら小学生の使っているような言葉を使いながら話をする。大学生なら大学生、あるいは職業でいうならば大工さんとか、左官屋が相手であれば、そういう人たちの日常の譬えを使って説法する。そういうようなごく普通の生活の中から譬えを使いながら、相手に応じて中身の濃いものを少しずつ説法していくという。もう一つは、こういう「現喩」、あるいは「逆喩」と同じように、「次第」というのは、順番に応じて、順番に次には何、次には何、というようにして、前の話に繋げて、例えば相手の習熟度に応じてレベルを上げていくという「次第説法」というのがありますね。だからブッダの説法の中には、そのようにして「応病与薬(おうびょうよやく)」相手の病に応じて薬をお医者さんが与えられるように―その薬というものは、まさしく教えでありますけれども―相手に応じて薬をあげます。それと同じ。それから一つずつ「匙加減」と申しまして、少しずつ匙を相手があまり飲めない人には小さな匙、大きな人には大きな匙で飲ませる、という。
 
草柳:  その辺は実は巧みなという感じがするんですが、何故譬え話が多かったのかというのは、当然その理由があるわけでしょうけれども、これからいくつか紹介して頂く譬え話を使って教えをしようとした。それを見ていくわけですけれども、ブッダ・釈尊という人は、もう臨終の、と言いますか、最期の方になっていく、つまり新しい『涅槃経』の中では、相当私の教えがちゃんと後世に伝わっていくだろうか、という、そういう危機感が随分あったんではないかな、という気がするんですが。
 
田上:  この新しい『涅槃経』は、最初の頃に申しましたように、紀元後四世紀頃に書かれた経典であります。実は紀元後になりますと、仏教教団というものも大きく分かれまして、保守的なものと革新的な仏教のお坊さんたちのグループができまして、仏教はかなり形を変えて展開していくわけです。そんな中で、「大乗仏教」と言われる紀元後の仏教になりますと、「戒律(かいりつ)」戒と律ですね、いわゆる集団で修行するという人たちの集団規則、それから「戒」と言われるのは、個人の規則ですが、そういう戒律というものが十分に守られていたかどうか、というのが疑わしいような状況でした。ですからお坊さんたちと言われるような人ばかりでなく、いわゆるお坊さんでない在家の信者の人たちが、仏教を広めていくことを致します。そうすると、戒と律が非常に乱れてきて、仏教そのものが非常にある意味で堕落をしていた時代です。ですからこの新しい『涅槃経』の中にも、そういうのを嘆くブッダの言葉がいっぱい出てまいります。そういうところを比喩したようなもの、揶揄(やゆ)した譬えを使って説いているところがございます。
 
草柳:  今これからご紹介するところなどは、かなり激しい言葉がちらちらと見えるような文章なんですが、それをまず読んでみたいと思います。
 
私の正法(しょうぼう)はいま滅びようとしている。こんなときには悪行(あくぎょう)の弟子たちが多く横行するだろう。私の秘密の教え(仏性(ぶっしょう))を知らず、怠け、だらけて、私の正法を読むことも、唱えることも、説くことも、理解することもせず、また、できない。これは、ちょうど愚かな者が、見分けることができず、本物の宝を捨てて、草の束を背負って帰るのに似ている。怠け、だらけた人々は私の秘密の教えを理解していないために、もともとすばらしい教えに恵まれているのに、それを正しく学ぶことができない。哀れなことである。
(『大般涅槃経』)
 
相当長い文ですね。
 
田上:  これは先ほど申しましたように、新しい『涅槃経』は、紀元後四世紀頃の当時のインドの仏教教団の姿を現している、と言われるところでありまして、「私の正法は」というのは、これはブッダが自分で言っている。私が伝えていこうとする教えというものが、まさしく悪行をする弟子たちが、いわゆる戒律を守らないような弟子たちが多く横行している、ということですね。ここで「秘密の教え」というのは「仏性」。誰でもブッダになられますよ、ということを説明しようとしている。だから誰でも身分も関係ない、生まれも関係ない、みんな差別なくブッダになれます、ということを説こうとしているけれども、怠け、だらけ、そしてこの教えそのものも理解できないし、それを口をすることもない、説法することもない。そういうことを説法することさえできない、能力もない者までお坊さんとしているものがいて恥ずかしい、ということを言っているところですね。ですから何が正しいものなのか。何が正しくないのかがわからなくなっている。別な言い方をすると、どれが釈尊の教えでだったのかがわからないでいる、と。日本なんかでも、よく言われますけれども、一般の方は、「お釈迦様の教えって、宗派がたくさんあるんだけれども、どれがお釈迦様の教えなんでしょうね、本当のところ」と言われるように、仏法もさまざまに解釈されてしまっている、という。これは当時の四世紀頃のインドに、それがあったということですね。ですからこの『涅槃経』の中で、ブッダはそのようにして語っているのを、これは新しい『涅槃経』は、ある方がそういうふうにブッダに語られているんですから、当時嘆いてこういうような言葉をブッダの言葉として伝えているものですね。
 
草柳:  仏性を何故「秘密」という言葉で言っているんですか。
 
田上:  これは「秘密」と言いましても、誰にも言いたくない、ということではないんですよ。これは人間の、生き物の五蘊(ごうん)の中に、これは本来知られずにして伝えられているようなものなんだけど、それを見る目を持っているならば、ちゃんとそれはいつでも見られるものである、と。だから見る目を持たない者からすれば、秘密の教えのように見えるわけですね。
 
草柳:  「大事な」という意味も、当然そこにはあるでしょうね。
 
田上:  正しく耳をもって聞いてくれるならば、これは何も秘密でも何でもないんだよ、ということなんですが、聞こうともしない、何もしないものにとっては秘密になってしまうような。
 
草柳:  今の文章は、かなりストレートな嘆きですよね。次をご紹介しましょう。こういう譬え話ですね。
 
ある牛飼いの女のことを例に出そう。彼女は大儲けをしようと思って、搾(しぼ)った牛乳に水を加えて二倍の量にした。これを他の牛飼いの女に売った。これを買い取った女はさらに水を加えて二倍の量にした。・・・
ときに、ある女が賓客(ひんきゃく)をもてなすために新鮮な牛乳を求めていた。ちょうど水増しした牛乳を売っていた女に出会い、その牛乳を買い求めようとした。しかし、その値段のわりに牛乳の質がよくないことを知ったが、(中略)買い求めて家に帰った。
家に帰り、その牛乳で粥(かゆ)をつくったが、まったく牛乳の味がしなかった。ただ、味がしないとはいっても、どんなまずい料理よりは千倍のおいしさがあった。それは牛乳の味が、あらゆる味の中で最高だからである。
 
という譬えなんですが。
 
田上:  これは欲張りな人が、こういう牛乳を水増しして金儲けをしようとする。それを何に譬えたかというと、「正しい教えというものはこういうものである」というところを―これは新しい『涅槃経』ですから「正しい教え、秘密の教え」というのは、先ほどからありました「仏性」ですけど、何も仏性に限りませんで、もともとの釈尊の教えというものが、こういうものである。それが正しい教えであるんですけれども―いわゆるこれは何を言いたいかというところが問題なんですが、これは要するに、今牛飼いの女の人が、水増しをして二倍にも三倍にも、それをまた別の人がそれをまた倍にして売っていくという。どんどん倍にして、他の人がまたそれで金儲けをしていこうとする。そういうことは何を言っているかというと、釈尊の教えをもとに、それを使って金儲けしようとする、そういうあくどい人たちが当時いた、ということを言っているんです。つまり釈尊が、やってはいけないというような迷信とか、占いとか、商売繁盛というようなもの、いろんなそういうことをやろうとしていた人たちがいっぱいいたわけです。つまり釈尊という教えというものは、何ににも増して素晴らしいものである、と。これは例えば別な言い方をすると、この教えの言葉を一つでも捉えて、口にすれば、霊験あらたかであるとか、あるいは病気に効くとか、いろいろそういうようなことの、いわゆる詭術的なところが強く出ていたんですね。だから紀元後のお経の中には、非常に祈祷的なもの―「祈祷仏教」とまで言ってもいいほどそういう呪文を唱えて、何か病気を治すとか、なんかする人たちもいたわけです。そういうような仏法を利用して金儲けをしていこうとする人たちが、かなりいたのを、このように牛乳を水増しして、倍にして売ろうというあくどい人たちがいたということを譬えたんです。ですから日本の仏教を例えても、日本の仏教でもともとの仏教宗派もあるし、新しい仏教の教団もあるし、みんなどれが良い悪いは別と致しましても、正しい仏法というものを利用して、いわゆる金儲けのため、利益のために、自分たちのために利用するということは、まさしくこれを喩えでもって、それを批判しているところなんですね。つまり当時の新しい『涅槃経』ができた頃にも、このようにして仏法を利用して金儲けをしようとしたお坊さんがいたわけです。つまりそれは出家した人もいるでしょうし、いわゆる出家をしていないで在家で「菩薩」と言われる人たちの中にもそういう人たちがいたわけです。ですから「菩薩さん」と言われていましても、その人たちの中には、仏法を利用した、そういうあくどい人たちもいたということが、このような譬えで使われているんですね。
 
草柳:  そうするとこれに類した話というのは、多分きっと他にもあるかもわからんですね。
 
田上:  それは、例えば火を使って火を供養する、というようなことも、実をいうと釈尊そのものは、火というものを、そういうような供養したりするというのは何の効き目もないということを説いていますし、あるいは水浴びをして、水で身を浄めるという。例えば滝に打たれて、自分の精神の心にまで浄めていくというような滝修行というなんていうのがよくありますけれども、別にそれが悪いわけじゃないんですけれども、釈尊の教えにそういうのがあったかというと、そんなものはない。それが悟りに繋がるかと言ったら、繋がらない、と言っている。もしそれができるんであれば、水浴びをする雀や鳥たちは、もうとっくに修行もせずに悟っている筈だろう、という、こういう説法をされる。そういうのと同じで、仏法を利用しながら、金儲けをするというようなこととか、御利益が如何にもあるかの如くに、というのはおかしい。御利益なんていうよりも、自分が実際に正法を実践するかどうかですね。そのことを教えているところですね。
 
草柳:  さらに付け加えて、こういう言い方もしているわけなんで、それをご紹介したいと思うんです。
 
ブッダは自分が亡くなったあと、正法が残り、八十年しかインド国内に広まらないだろう。そのとき、悪い修行僧がはびこり、教えを簡略なものにし、いくつにも分割して、正法の色や香りやうまさをなくしてしまうだろう。彼らは仏性の教えを説くだろうが、世俗の飾りことば、世俗の美辞麗句(びじれいく)で説くだろう。教えを継ぎはぎだらけにして、教えの要諦(ようてい)をなきものにしてしまうだろう。これはちょうど、牛飼いの女たちが牛乳に水を加えることと同じ行いである。
 
というふうに言って、これは勿論続くんでしょうけれども、ブッダはこういう指摘をしたと。
 
田上:  そうですね。ここで「自分が亡くなってから」というふうに書いてありますけれども、文献の上で、あるいは釈尊の伝記の上でいうと、学者の間で言われるのは、紀元前三八三年に、釈尊は亡くなって―お釈迦様は、それから「八十年しか」というんでありますが、まあ実際に「この正法は五百年しか続かないだろう」とか、いろいろ言われますけれども、ここで「八十年」という表現は、いわゆる釈尊が亡くなられてから、大体百年頃に仏教教団は分裂するんですよね。分裂して、先ほど申しました非常に戒律をきちっと教えられた通り守る者と、少し改革しようとする人たちの争いで分裂するという、そういう事情があるんですけれども、釈尊としては、ここの新しい『涅槃経』もこのようにして表現しているんですが、決してこれが正しく伝えられていくには、正しい修行する者がいないと困る、と。先ほどのように、だらけて何もできないような者たちが多く蔓延(はびこ)ると衰えていくだろう、というようなことで、ここでは書いてございまして、「誰でもブッダになれるんですよ」というのを、ちゃんと説かないために、世の中には「仏性」というものを、何か特別なもののようにして説法し、いわゆる世の中の、そういう考え方、釈尊はそう言ったかも知れないけども、今の世には通じないんだよ。今はこういう言葉で言ったっていいじゃないかとか、あるいは世俗的な美辞麗句でこういうものを説いて、格好良く説き示そうとする人たちが出てきてしまうと、本物の仏性というものは伝えられない、ということを言っているところですね。ですからこれはまさしく利益を、つまり金儲けをしようとする牛飼いの女が水を加えて牛乳をどんどん増やしていこうという、ああいうあくどさ、それがまさしくここで言っていることの本音なんですね。
 
草柳:  ただその牛乳は、これが仏性なのだ、ということであるとすれば、仮に薄められていっても、仏性がなくなるわけではない、と。
 
田上:  そうです。これは本物は無くならないですね。それをほんとに見る目、正しい見分け方ができれば、それはもう仏性というものは絶対なくなっていないんだ、という。だけども、美辞麗句、いわゆる外から飾ったり、あるいは他の時代時代の格好良い言葉で表現したりすると、大本のところがわからなくなってくる。
 
草柳:  これまでの喩え話の中では、仏性について、勿論触れてはいるんですけれども、仏性の本質は何か、というところまではまだいっていませんよね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  肝心なのは「仏性は何か」ということですから、それについてはどういうふうなことを?
 
田上:  そうですね。仏性は形をもたないですよね。この身体の中のどこにあるのかというのもわからなかった、ということは、これまでも十回までの話の中で出てまいりましたので、大体どんなものなんだろう、と、こういって、我々が普通身体持っているんだけども、どこにあるかわからん、と、こういうふうに考えますが、それを喩えたものに、「象の喩え」というのがあるんですね。これは大変面白い。「象の喩え」というのは、目隠しをした人を百人集めて、百人の人たちに目隠しをして、それでその人たちに象を撫(な)でさせるんですね。初めて象を見たことのない人に目隠しをして撫でさせる。それぞれが鼻のところ、足のところ、尻尾のところ、胴体のところ、あるいは耳のところとか、いろいろ触るわけですよ。それで触った後、みんな集めて、「象ってどんなものですか?」と聞くと、耳を触った人は、「大きな箕(み)のような形でした」とか、鼻を触った人は、「大きな杵(きね)のような形でした」とか、脚に触った者は、「大きな臼のような形でした」と、尻尾に触った者は「縄のような形でした」いろんな部分部分を言います。その人は象のことを言っていないわけではないんですね。それぞれはみんな部分部分を触って、「象ってこんなものですよ」と言っているんですけれども、それは「当たらずと雖も遠からず」という言葉がありますが、みんなそれはそれなりに仏性のことを、あるいは象のことを言っている。仏性もそうですよ。みんなそれぞれが、「仏性はこういうものだ」ということを言っていますけども、当たらずと雖も遠からずで、ですけども、本当の全体の象の姿、全体の仏性ってどんなものか、というのは、みんな本当にわかっていないというのが、この『涅槃経』が言っているところですね。
 
草柳:  今の「象の喩え」にしても、結局は部分部分の集合したものが象であって、それが仏性なんだということで言えば、例えば人間の身体に喩えて言えば、同じようなことが言いますね。
 
田上:  そうですね。人間の身体でいうと、これまでお話してきましたように、「人間の身体は五つの要素の集まり」と。簡単にいうと、「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」と、よくみなさんがご存じの『般若心経(はんにゃしんぎょう)』にありますように、「色即是空(しきそくぜくう)」のあの「色」で、「受想行識(じゅそうぎょうしき)」というのは、「受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)」というのがありますが、あれは『般若心経』は、この「色受想行識」―「五蘊(ごうん)」のことですね。五つの集まり、要素の集まりのことを説明したところなんですね。これは何かというと、人間の身体のことを言っているんですね。「人間の身体というものの中にあります」と言った時に、「人間の身体って何ですか?」と質問されれば、釈尊、あるいはブッダは、「人間の身体というのは、この五つの要素から集まっているんだ」と。
 
草柳:  「色」というのが、形のある身体という意味ですね。
 
田上:  形のある物質的なものをいうんです。ですから普通ならば肉体をいうんです。その肉体だけか、と言ったら、肉体には、目とか鼻とか口とか耳とか、という感覚する働きのものがあるわけですね。それが「受想行識」、つまりそれを纏めて四つの感覚する働きを総称したものが「受想行識」。つまり物質的な「肉体」と、「受想行識」これ仏教ではこれを纏めて「心」と表現するんですが、「身」と「心」というものに、つまり普通でいう「身心(しんしん)」と言われるような心は、この「受想行識」。で、「身」というのは「色」のこと。この中にあるんですけれども、今言ったように、象の各部分を触りまして、「これが象です、これが象です」と言った時に、例えば「五蘊にある」と言った時、この肉体のどこの部分かと、「この肉体でしょう」とこう言った。それも当たらずと雖も遠からず、で、「心」と言った時、この心のどこにあるかと言ったら、感覚する感受作用とか、あるいは意識する働きのものを、それぞれが「仏性なんだ」と、こう言ったら、それも当たらずとも遠からずですね。だからみんなそういうもので、部分部分を捉えて、「これが仏性だ」、あるいは「これが象だ」と、こう言っても、これは当たらずと雖も遠からずで、だけどそれを総合したものが、仏性だ、と。五蘊の中にあるんだけれども、「ある」と言っても、「それがどんなものか?」と言ったら、指差すと五蘊しか指させないんですね。これだ、と。だから「五蘊というものが仏性である」と言って部分を取り出すと、それだけではない。
 
草柳:  それだけでは足りない。ということは、つまり五蘊を離れて、仏性というのはない。というのを、さらにまたこういう喩えを使って説いているんですが、例えば蓮華(れんげ)であったり、あるいは織物であったり、そこのところをまた読んでみたいと思うんですが、こういう喩えなんですね。
 
茎、葉、髭(ひげ)、台(うれな)などを合わせて蓮華(れんげ)を成し、これらを抜きにして蓮華があるのではない。人々の実在もこれと同じである。・・・
また、土壁、草木などが集まってできたものが家である。これらのものを抜きにして家はない。・・・
また、五色(ごしき)の糸が織られて綾絹(あやきぬ)ができるが、五色の糸を抜きにして綾絹はない。
このように、人々の仏性も五蘊を離れてほかに仏性があるのではない。
 
この譬えは、今まで先生が言われてきたことを、また別の角度からみれば、別の喩えで言えば、同じことが言えるんですね。
 
田上:  そうですね。ご覧になられたら、このままで何の説明も要りません。すべてのものは、いろんな部分部分の寄せ集まりであって、それがバランスよく形作っているんだ、と。その中に「仏性」と言われるものがあるんで、つまりそのものはみんなブッダになる働きをもっているんですよ、そういう性質をもっているんですよ、と。だからあなたは人間として生まれた以上は、みんなあなたも釈尊と同じようにブッダになれます。これは確実です、ということを教えようとしているところです。
 
草柳:  だけど、「仏性」というのは、「これだ」ということが言葉で言えないという。
 
田上:  そう。何度も申しましたように、釈尊が教えられたような生き方をしなければならないんですね。結局は、自分が生き方をきちっとしていけば、自ずからそれは中から現れてくる。そのまま身体が現してくれる。取り出して、「こんなもの」じゃなくて、それは自分が正しい道を歩んでいくということを通して、それによって自然に自分に現れてくるものです、ということを教えているんです。だから「ここに」って、いうところにあるわけでもないし、「こんな形のものですよ」というわけじゃない。例えば何度も今まで話しましたように、「私の心を信じてくれ」と言ったって、心をどんな形といって、誰も知りませんもの。ハートの形でもないでしょう。赤い色でもないでしょう。つまりどこにあるということは、誰も知らないけども、心というものはこの身体にある、という言い方と同じことです。
 
草柳:  同じように、仏性もだからある。その仏性がどういうふうにすれば顕現するか、現れてくるかということについて、ブッダはこの後どういうふうに展開をしていっているのか、ということは、いつものようにここで映像をちょっと見て、その後で伺っていきたいと思うんです。今回の映像はアジャンターというところなんですが、ちょっとご覧ください。
 
 
 
 
 
 
 
これが今から一四○○年以上の前のものだ、というんですから凄いですね。
 
田上:  ここで説明したいものはいっぱいございますけれども、三つぐらい注意して頂きたいのは、これ窟院でして、岩山を切り開いて、つまり掘っていって、そして例えば中央にあるドームですね。ドームの円柱から、飾りから、あるいは仏像から、ストゥーパから、あれはみんな石材で、外で彫ったものを運んできて置いたんじゃなくて、その岩山を掘り下げていって作ったものです。ですから全部の洞窟は、みんなそうやって掘っていって、あそこの中で作ったものです。ですから別な言い方をすると、もう出来上がっていたものが、なんか泥で埋まっていて、泥だけを掃き出して現したように思われますけれども、あれはまったくそうじゃない。外から掘り進んで、削って作った彫刻なんですね。それから今一つは、あの涅槃像の前に中央にある仏像がございます。坐っておられる。あれは特徴が、日本のお寺にある仏像というのは、ほとんど「禅定印(ぜんじょういん)」と言って―「法界定印(ほっかいじょういん)」ともいう―自分の下腹のところに手をこう組んでおられる姿で仏像は現してあるのがほとんどですけど、あのところの仏像は、「説法印(せっぽういん)」と申しまして、説法をしておられる手印を示している。つまりあそこにいる修行者の人たちは、あの前に行ったら、釈尊のお姿が―ブッダの姿が説法している姿をそこに見ているんです。だから「仏像」と言いながらも、説法している、その聞こえない声を、そこでみんな聞いて瞑想していた、ということがわかります。あれは「説法印」を示しておられる。「禅定印」じゃないんですね。それからもう一つ大事なのは、面白いのは、涅槃像がございます。涅槃像は、右脇を下にして、こういうふうにして、耳のところに手を添えて、左手は腿のところこう置いている。あの姿が有名でありますが、あれは釈尊がお生まれになって、東西南北を七歩歩いて、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言った時に、一番最初の釈尊の「童子像」子どもの像が、十一世紀頃にカルカッタで発掘されたものがありますが、それは手をこういうふうに上にあげているんじゃなくて、耳辺りまで、肩の辺りまでしか伸びていないんです。これが釈尊の最初の童子の「天上天下唯我独尊」の姿なんです。それを横にした姿と同じです。それまでは両手を下げたそのままの童子像ですね。つまりお生まれになった時の「天上天下唯我独尊」の姿が、お亡くなりになっている時も、その「天上天下唯我独尊」の姿を現している。新しい『涅槃経』には「嬰児品(えいじぼん)」というのがあるんです。子どもになってしまった、今の仏というのは子どものようなものである、ということの一つの章を設けてあるんです。面白いですよ。だから生まれた時、こう「天上天下」、亡くなってしまわれた時も、「天上天下」。だからある面では、あれは「天上天下」というよりも、なんか独特の釈尊のお姿のように私は思います。
 
草柳:  その釈尊が、ブッダが、その後どういうふうに話を展開していったのか、という、その前半の続きに戻りたいんですけれども、つまり仏性という存在はある。
 
田上:  ある。
 
草柳:  言葉では言い表せないけれども、あるということがわかった。じゃ、後は知るしかないわけですが、どういうふうにすれば、それがわかるというか、知ることができるのか。その辺のことはどういうふうにブッダは?
 
田上:  結局は、大本は決まっている。釈尊が説法されたもの。つまりそれには、「誰でもブッダになれますよ」という、そういう素質が生まれつき人間にはある。ブッダになる素質があるんだけれども、それが実はだんだん崩れていってしまっている、ということで説明しようとしているところですね。つまり一番最初の頃に申しましたように、善いことを行い、いわゆる釈尊の教えというものをちゃんと守り、それでそれを求めようとする心を起こし、「八正道(はっしょうどう)」を行っていけば、という、そういうものが大本にちゃんと説かれている。だけども途中でもお話しましたように、「八正道」というものが、どこからか消えてしまっているんですね、仏性の教えの中に。それでさまざまな宗派ができあがっていったりなんかしてしまっているんですね。そういう流れをその喩えで説明しているのが、この新しい『涅槃経』にあるんですね。それが「薬草の喩え」です。
 
草柳:  つまり、まったく曇りのない目で見れば、見えるということなんですか?
 
田上:  そう、それは見えます。だから例えば、これはよく使われている譬えは―草柳さんがご質問のあった「見えないものが見えるというのは、どうすれば見えるか」というところですね。例えば空を飛ぶ渡り鳥の跡は、誰も人間には見えないですね。いわゆる肉眼では見えない。だけどもそれを見る目はある。つまり鳥は見ているんですから。鳥はそれを自分たちの前に飛んでいった鳥たちの跡を追って渡っていくわけですから、その方角はなんらかの形でわかるんだよ、ということを、仏典では説くんですね。鳥の飛んだ跡は、肉眼ではわからんけれども、それは何故かというと、天眼(てんげん)がないからだという。天の眼というのは何かというと、肉眼ではない眼であるということですね。その肉眼ではない眼というのは、何を言おうとしているかというと、煩悩がどんどん自分から湧いてくる限りにおいては、それは肉眼なんですね。肉眼でしか見ていない。つまり自分を中心にしたりとか、自分の我欲でものを見たり考えたりしていこうとすると、そういう色眼鏡でもって見ようとすると、それは肉眼で見たということです。ところが天眼で見るということは、そういう一切の計らいを離れて、自分というものを捨ててしまうような形で、ものを見たり考えたりしていこうとすると、ものの真実が見えるという、そういうことで仏性は必ず見られるものだと言って、だから肉眼で仏性を見ようとしたって見えない。つまりやはり自分の身の処し方ですね。煩悩が起こらないように自分の身を処していくならば、自ずからその仏性を見ることができますよ、ということを言っているんですね。
 
草柳:  それを「薬草の喩え」で、ということで、これからちょっと見ていきたいんですけれども、これから紹介する薬草の喩えというのは、当然古いですけれども、ブッダが生前というか、ご自身で使われたエピソードでもあるんですか、その譬えは。
 
田上:  いや、「薬草の喩え」は違います。これは新しい『涅槃経』の独自のものですね。
 
草柳:  じゃ、読んでみます。
 
ヒマラヤの山中にある甘い薬草を譬えにして説こう。その薬草の名を楽味という。この薬草はとても甘い味がしたからである。深山の樹木が生い茂っているところにあり、だれもこれを見たことがなかった。ただ、ある人物だけはその薬草の香りを嗅ぎつけて、見つけることができた。
昔、転輪王(てんりんおう)がヒマラヤでこの薬草を見つけて、いたるところに木筒を置いて、その汁を採取した。この薬汁は熟したときに、大地から湧き出て木筒の中に集まった。その味はほんものの、混じりけのない甘味であった。
転輪王が死んでから、この薬味は酸味になったり、塩味になったり、辛くなったり、苦くなったり、うまみのない味になったりした。この薬汁の味は流れていくところで味が変わったが、本来のほんものの甘い味は、湧き出るところでは変わっていなかった。
 
草柳:  今出てきた「ある人」というのは、つまり「転輪王」のことですね。
 
田上:  転輪王が薬草を見つけたんですね。それは転輪王はここでいうなら、ブッダのことをいうんですね。ブッダがちゃんとしたものを見つけることができた。つまり遡れば、釈尊は、自ら努力することを通して、ちゃんとブッダになれた、ということは、「人間には誰にでもブッダになるそういう可能性をもっているんだ」ということを、自分で身をもって示された、というところです。そのところの仏性なら仏性、仏法の本当のところのものはこういうものであったんだけれども、それを正しく伝えることができないで、だんだん時代が経ていきますと、正しい弟子の人たちがいないで、怠けた弟子がいると、そういうものに対して、勝手な解釈―先ほどありましたように、その時その時の世俗的な美辞麗句なんかを使ったりする、と。そういうようなことで、仏法が形を変えていく。それは流れ流れていくうちに、甘い味のものが酸っぱくなったり、苦くなったりという喩えですね。これは何を言っているかというと、これは宗派ができた、ということですよね。つまり釈尊の教えというのは、こういうものであるというのを、その時代その時代によって、こう解釈してもいいんじゃないのか。こういうように言われたんではないか、という。あるいはこの教えが本物なんだ。いや、こちらの方が本物だ、と言って、そこで対立して自分たちで一つの流派を作る、宗派を作っていったんですね。そういうものが、つまりここでいう甘いもの、酸っぱいもの、苦いもの、塩味のものとかという、こういうものですね。辛くなったり、苦くなったり、甘味のないものになったりとかという。この甘い汁のものが、流れ流れていくうちに、味が変わってしまった、と。それぞれの味のものを、後の者がそういう味付けてしまった、ということ。だから宗派というものは、途中でもお話しましたように、日本まできますと、さまざまな宗派がございますね。宗派で、釈尊は何をお説きになったか、って、みなさんが、大体お檀家さんがなんか門徒さんたち、そういう人たちは、「釈尊の教えって何でしょう?」と言った時には、みんな「これです」というのは、宗派によって言われるわけです。だけどほとんど宗派は、宗祖仏教でありますから、例えば弘法大師はこうであった。天台大師はこうであった。法然上人、親鸞聖人はこうであったとか、道元禅師はこうであった。日蓮上人はこうであったというようにして、みんなその宗派の最初の開祖の方の教えというものを中心にして、釈尊の教えを説こうとしますよね。それはいうなれば、ずっと流れ流れてきて、味の変わったものを全部そこで示しているわけです。流れはずっともとに戻れば、甘い汁であったんですけども、時代が下るに従って、そのように味付けに関わって日本の仏教はそういうふうにして、例えばこれは他の新しい仏教宗派にしてもそうですね。
 
草柳:  今のところで、流れがいろいろ変わっていったけれども、実はそうではなくて、一番最後のところに書いてあった「湧き出る大本のところはやっぱり本物の味だった」という、このことがポイントと言いたいところなんですか。
 
田上:  そうです。だから仏教の仏典はたくさんございます。別な言い方をしますと、紀元後に、ここでもお話しましたように、書かれたお経がいっぱいあります。そのお経の中身と、一番最初に書かれたところの、あるいは説法されたのを纏めてある『法句経』というのをここで何度も引用させて貰いましたけど、その『法句経』に書かれている中身というものはまったく相反するものかというと、そうではないですね。どこかで繋がっているわけです。繋がっているんだけれども、それなりにみんな教えというものが説かれて、特色のあるものが仏典の中に出てまいります。さらにこれが中国になりますと、さらに今度は中国のそういう伝統的な宗教とか、民族とかの考え方というものと、いろいろ混ぜ合わせていくと変わってきますね。日本なんかになりますと、一体この宗派の教えというものが、一番最初のその聖典である『法句経』の中にあるんだろうか、というものさえ出てきます。そういうようにしてしました時、一番最初のものは、これです、とあるわけですから、いわゆるバイブルですから、言うなれば。そのバイブルというものと、今日伝えられているさまざまな日本の宗派のものは、じゃ違うのかと言ったら、いわゆる根底においてはやっぱり繋がってあるわけです。そういうようにして見ていかないといけないことを教えているところです。
 
草柳:  そんなふうにいろいろ派生的な、というか、ほんとにこれが正法を伝えているものかどうか、という疑問まで出ている中で、やっぱり一番大本のところというのは、これは絶対これは壊れるものではないということを。
 
田上:  そうです。それは壊れないで、誰でもブッダになるという可能性をもっている。これはもっているわけです。これは釈尊が事実自分で証明されたわけですから、こういうふうにして修行して、こういうような生き方をすれば誰でもブッダになれますよ、ということを自らの身体で証明され、お弟子の人たちもブッダになった人たちがいっぱいいらっしゃるわけですから、だからそれは自分がブッダになるということを自覚して、それを目標にして修行していく、あるいは生きていけば、誰でもなれます。決してブッダというものを拝む対象じゃないんですよ。日本では拝む対象にして、ブッダの仏像をさすればどうするとか、ブッダになんかお願いすれば願いが叶えられるとかと、そういうふうに教えますけれども、そんなことはどこにも釈尊は説いていない。拝めとは言っていないんですもの。釈尊は、自分を多くの人たちが「ブッダ」とこう呼んでくれているけど、「じゃ俺を拝め」と言ったかと言ったら、一言も言っていませんよ。「私は君たちと同じように修行する仲間だよ」とこうおっしゃっている。だからそういう原点のところをちゃんと踏まえておくと、拝むということは自分の救いだけを中心にして、自分が改まっていって、自分がブッダになろうという、踏み出しができていない。ただ願っていればいいというだけのこと。ですけど、言っている私が、「じゃどうなんだ」と言われると、それは人間の弱さですから、ブッダになろうというのは、教えられた「八正道」なら「八正道」を一生懸命努力してやっていくということに変わりはありませんよね。だけどもお願いしたら合格するとか、願いが叶うということは、私はどこにも考えません。
 
草柳:  誰でもブッダになれるという仏性は、当然ある筈だし、あるんだけれども、それがなかなか顕現しない。それはいろいろ雑念やらいろんなものがあるから、だから逆に言えば、もしそれを取り除くことができれば、ということなんでしょうけれども、それが今おっしゃるように、一つはそれが「八正道」ということなんでしょうけれども。
 
田上:  自分のこの身体というものが、どういうものであり、自分の身体というものは、釈尊の言われている不浄なものである、と。決してこれが綺麗なものだとは、どこにも説いておられないし、これはみんな自分の身体というものは、さまざまな、例えば「地水火風」という四つの要素からできていると、そういうふうにお説きになって、その中に人間のこの肉体には、感覚する働きのものが六つある、というようにして、そういうものが微妙に相乗複合して、そして人間の身体は、あるいは生き物はそうして動いているんだ、ということで、その中に仏性というものはある。みんな五蘊を備えているものは、みんなブッダになれますよ、ということを説いたんですね。
 
草柳:  六つの働きってなんでしょう?
 
田上:  「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)」これは『般若心経』の中に、みなさんが口ずさまれるところに、眼、耳、鼻、舌、皮膚、そして人間の中にあるいわゆる意識ですね。そういうものをこれ六つの根(六根)と。感覚器官のことを言うんですが、これがみんな微妙にバランスが取れているというと、人間は安らぐんですけれども、眼だけ、あるいは耳だけというものを集中していくと、例えば大きな音というものに悩まされると、耳煩(うるさ)くなってノイローゼになるとかですね、あるいは舌というもの―暴飲暴食とか、あるいは食べ物を貪ると身体を毀すとかとこうありますが、これはみんな六つの感覚器官というものは、みんなバランスが取れていなければいけない。つまりこれは必ずそれぞれに対象物がある。眼は色とか形とか、耳は音とか声とか―六境(色境・声境・香境・味境・触境・法境の六つ)ですね―対象物ですね。感覚器官の対象物、それは、眼には色とか形、耳には声、鼻には香り、舌には味、それから皮膚ですね、皮膚は何も外だけでなく、内臓なんかにもみんな皮が付いていますから、そういうものが感触するもの、法はものですから、これは人間が考えたり、記憶したり、そういうものをいう。みんなこういうものとの上手い接触をする。接触するのがバランスが取れていればいいんですけど、これが過ぎると悩む、苦しむ。それが煩悩―煩わしくて悩ますようなものを起こすことになる。だからこの「六根」というもの、つまり六つの感覚器官を正しく制御し、慎む。そういう慎むという心掛けをしなければいけない。つまり亀が自分の身体を守るように、あの頭と尻尾と前足と後ろ足を一瞬にして甲羅の中に納めるようにして身を慎んでいく。六根を慎めば、人間は安らぐんですよ、ということを最終的に教えている。そういうところにきたら、自ずからブッダになる可能性というものが自然と現れてきますよ、ということを教えているんですね。四つの「地水火風」というのは、言うならば人間にとっては大事なものですけども、この「地水火風」も、結局は人間の身体の中もみんな「地水火風」から構成されているわけですから、その構成されているというものは、うまくバランスが取れていないと病になる。だから仏教では病になることを「四大不調」というんです。四つの要素の不調という。
 
草柳:  次回が最終回になりますけど、よろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十四年二月十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである