ブッダの最期のことばK安穏を得る生き方
 
                  駒澤大学名誉教授 田 上(たがみ)  太 秀(たいしゅう)
                  き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「ブッダの最期のことば」と題して、この一年間シリーズでお伝えしてまいりましたが、今回が十二回目、最終回ということになりました。これまではブッダは、生涯の終わりに当たって、一体何を説いてきたのだろうか、ということを思ったら、新しい『涅槃経』を中心にしていろいろとお話を伺ってまいりました。最終回の今回は、その総まとめということで、いつものように駒澤大学名誉教授の田上太秀さんにお話を伺ってまいります。どうぞよろしくお願い致します。
 
田上:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  いわばこのシリーズは、釈尊・ブッダがどういう遺言を残していったのか、ということだったわけですね。
 
田上:  第二回の時に、その遺言のことで話をしましたが、もうお聞きになった方はみなさんご存じだと思いますが、いろんなことにおいて、すべて怠けてはならないと。今日なすべきことは今日しなさい。何故ならば、世の中はすべてのものが諸行無常である。一時(いっとき)も時を同じようにしていないから、無情であるが故に、今日のうちにしなければいけないことは明日に延ばすな。一つひとつのものは決して怠けてはいけません、ということが、最期の言葉です。ですけど、これがどういう意味なのか、というところが大変なところで、一年間お話してまいりましたものはすべてそうなんですが、今日はそれを纏める形でお話をさして頂きたい。
 
草柳:  纏めて紐解いて頂くということになると思うんですが、今日最終回のテーマは「安穏を得る生き方」ということですが、安穏を得る生き方、言ってみれば教えはこのことに尽きると言ってもいいんですか、教えは。
 
田上:  そうです。ブッダと呼ばれる釈尊の教えを新しい『涅槃経』も受け継いでいるわけですが、ここに説かれてあるものは、如何に日常生活の中で安らいだ心で生きていけるかという、その方法を、その術を説いてあるわけです。それは世間というものの道理を先ずよく知らなければならない。世間の理法といった方がいいかも知れませんが、それをよく理解することが大事だ、と。そこで説かれてある諸仏の教えというものは、世の中はすべていろんなものが寄り集まって、それが連綿と相互に依存しあって物事は成立しているんだと。そして無くなっていくんだと。決して神様が世の中を創って、神様がいろいろ指図して、この世の中は動いているんじゃないんだよと。物同士の関わり合いの上において行われているということを、先ず理法として、これをよく理解しなさい、ということから説き始めるんですね。その中で人間が如何に生きるかということで、人の道をそこで説かれるわけです。要するに、世の中はそのようにして、あらゆるものの集合―寄り集まり、そしてそれが連綿と相互に依存しあっていくということを、仏教では、三つの決まった教えとして説いてあるわけですが、それが「三法印(さんぼういん)」というものですね。三つのことは決定的な教えというふうに理解して頂いた方がよろしいです。もう仏教は何を説いているかと言った時には、この「三法印」に尽きるわけです。その三つというのが、
 
【諸行無常】
一切の形成されたものは無常である。
【一切皆苦】
一切の形成あれたものは苦しみである。
【諸法無我】
一切の事物は我ならざるものである。
 
世の中というものは「諸行無常」「一切皆苦」「諸法無我」という、この三つです。一般に「三法印」と言いますと、真ん中の「一切皆苦」というのをはずして「涅槃寂静」というのが、三つ目にあるんですけれども、ここでは一番最初の仏教のお経である『法句経』の中に書かれてあるそこのものを取り出して、一年間お話したわけですが、「諸行無常」というのは、一切の形あるもの、あるいは形成されたものは無常である。千変万化しているという意味ですね。それから「一切皆苦」というのは、すべての形作られたものはみんな思うようにならないもの、自分の欲するようにはならない。願うようにはならない、という意味が苦しみである、という意味です。次に「諸法無我」というのは、一切のものはこれは私のものでもなく、私でもない、という。私というものではないんだよ、ということ、それから私のものでもない。何故なら、それは自分の思うようにならないものばかりであるから、自分の思うようになるものは、私のものであり、私なんですけども、そういうものではないということが、ここに書かれている。で、「諸行無常」というふうにして、これが基本なんです。あらゆるものは一時(いっとき)として同じ状態はないというので、それで苦しみであり、願いが叶わない、思うようにならない。私のものはない、という意味ですね。
 
草柳:  取り分けこの中で印象強く残っている言葉が、最初の「諸行無常」なんですが、つまりそれはあらゆるものは千変万化して、どれひとつをとっても、これが固まったものだという固定的なものはないということで、これが出発点なんですか。
 
田上:  そうなんです。諸行無常というのをよく理解すれば、自分の身体についても同じものは一つとしてない。赤ん坊の時から現在の自分の姿を見ても、何一つとっても同じものはないんですね。生まれた時の姿が今まで同じようなものがあったとすれば、それはいつまで経ったって赤ん坊の姿であるわけですけれども、これからまた死ぬまではまた変化して、で、最期に自分が灰になってしまうのも、これは諸行無常のものです。ですけども諸行無常は、決してマイナスの意味でとってはいけない。今言ったように、なんか変化しているから、最後は死ぬんだというので、諸行無常という、それもそうですけれども、物事は変化するということは発展もある、ということです。それから世の中がさまざまにこの美しいもの、素晴らしいもの、こういうものがあるのは無常だからそういうのが現れてくる。逆に無常だから今度は悲しいこともあり、苦しいこともあるという、そういう意味で無常を理解して頂くということが大事ですね。結局それは何故「三法印」―諸行無常であり、一切皆苦であり、諸行無我なのかというと、それは最初に申しましたように、すべてのものが関わり合いの上においてあるからです。神様が創ったんじゃないんですね。物同士の関わり、それを仏教では「衆縁和合(しゅえんわごう)」、あるいは「縁起(えんぎ)」という。「衆縁和合」さまざまな原因と条件が和合して、混合して調和して、物事はできあがっているという、その意味です。だからこれは「三法印」つまり諸行は無常なんです。一切は皆苦です。だから自分の思うようにならない。いろんなものの関わりですから。ですから物事にはそのようにして一切のものの関わりの上においてあるということだから、そこに私とか、私のものというものはない。つまり別な意味でいうと、自分を離れたものの中で言いますと、今度は世の中のすべてのものは、みんなそこに何か永遠なるものがあるんじゃないか。不滅なものがあるんじゃないか、というふうに考えます。たとえば具体的にいうと、霊魂があるじゃないか、神様が宿っているじゃないかと考えますが、そんなものがもしあったとしたらおかしい。中身はあるように思うけれども、みんなそれは創られたものであって、いつでもそれは壊れてしまうものである。千変万化というのはそういうことですね。それは衆縁和合している。だからそういうようなものを、喩えで言いますと、風船みたいなものですね。我々がゴム風船をこう膨らませますが、子どもには風船を与えようとすると大きいものの方を求めたくなる。小さいものが手に入らない子は泣いてしまいます。だけども針でちょっと押すと一瞬にして風船は凋(しぼ)んでしまって元の姿は何にもない。つまりつまり私どもが生まれてから今日まで大きくなってきたのは、風船のように膨れあがってきているもので、何かそこに自分の何か永遠なるものがあるんじゃないかと思いますけども、死んでみて、灰になった時に、そこに自分らしいものが何かあるかと言ったら、まったくないですね。変な言い方をしますと、亡くなって骨を拾いに行った時、金歯だけがころころ転がっているという、その姿しかない。それは自分のものではないんですね。そういうような人間の姿もゴム風船のようなもので、ゴム風船もいろいろ作者によると、犬のようなものを作ったり、いろんな形のものを作りますが、それも膨れあがってもので突っつくと全部元の何にもない状態に戻る。
 
草柳:  確かに風船は、中に空気だけしか入っていない。形のあるものはない。
 
田上:  つまりそれは刹那に消えてしまうもの。そういう中身のないものという、そういうもののあり方ですね。もののあり方を仏教では「空」と表現した。つまり「空」というのは、もののあり方で、何かそこに永遠なるもの、不滅なものがあると思っているだろうけれども、そんなものはそこには何にもない。形あるものはあるけれども、それは決して不滅なものではない。永遠のものではない。そういうところを、つまり今までお話しました「諸行無常」「一切皆苦」、そして「諸法無我」というもの、それは衆縁和合しているから。衆縁和合しているからこそ、すべて中身がない、形だけのものである、というのを「空」という一言で表現したんです。
 
草柳:  仏教の教えというか、仏教の言葉の中では、「空」というのは、これは一つの大変重要なキーワードになっていますでしょう。ただその「空」というのは、実に捉えどころのない、ある意味でとっても難しい内容を含んでいるのではないか、というふうに思っていたんですよね。
 
田上:  もののあり方ですもの。なんか特別に難しい表現をしたり、神秘的だとか、そんなものでも何でもないんです。もののあり方。中身があると思っているものが、実はこんなものだよ、諸行無常なんだよ、思うようにないんだ、私のものなんてないんだよ。みんな関わりの上にあるということを、一々説明するのは面倒くさいから「空(くう)」という言葉で言い表した。このことを釈尊は説いたわけですね。
 
草柳:  その「空」について、ブッダが言っている文言を読んでみたいと思うんですが、これは『スッタニパータ』という古い教典なんです。
 
常に良く気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、
世界を空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
(『スッタニパータ』)(中村元訳)
 
ということなんですが、世界を「空(くう)」なんだ、というふうにみるためには、その前の「常に良く気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って」これが大事だと言っているわけですか。
 
田上:  そうですね。自分の考え、あるいは自分の我、自分の何かこういうものがあるんだというふうにとことん自分の意見を申してとか、自分の哲学的な何かということで、それに固執して、世の中を正しくみることのできない人は自我に固執していくわけですね。ところがよく世の中をみるとそうではない。衆縁和合しているんだから「空」なんだよ、ということがわかれば、あらゆるものを安らかにそういうものだ、自分の身体もそういうものだ。自分の周りのものもこういうものだ、ということがわかると、それは「死を乗り越える」というのは、一切の苦しみから乗り越え、それを解決することができるよ、ということを教えたものですね。だからすべて「空」であるということがわかると、非常に心は安まるよというのを、死を乗り越えることができる。つまりあらゆる苦しみの中で、最後には人間が死というものを一番恐れているわけですから、その死というものを乗り越えるということは、あらゆる苦しみを乗り越えるということができるよ、というのは、この「空」と、世の中を見ることができたら、その知恵を得たらみんな心は安らぐということを説いたわけです。
 
草柳:  その「空」というのは、今までお話があったように、物事がすべていろいろなものが寄り集まってできているのだ。つまり「空」、それをその衆縁和合という言葉でお話してくださいましたですね。衆縁和合、つまりそれは「空」というふうに見ればいいわけですか。
 
田上:  そうですね。衆縁和合しているが故に「空」なんです。それがちゃんと理解できれば、みんな物事は形つくられたものであって、元の組み立てられたものですから、あらゆるものが、要素が寄り集まって、それが繋がって、相互に依存しあっている。頼って生かされているわけですから、その寄り集まっているものが、みんな一つずつ分散すれば元の何にもないものになってしまう。
 
草柳:  しかしこの考え方というのは、つまり物事には実体というものがないんだ。実体がないということを、つまり釈尊・ブッダはそうじゃないんだ、というふうに言ったわけですか。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  ということは、それまでの社会というか、インドの社会ではやはり物事というのは、何か創るものがあって創られたものがある、という考え方の方がむしろ主流だったわけですか。
 
田上:  要するに、何か絶対なるものがあって、創造主と言われるもの。イスラム教でもある、キリスト教でもある、日本の神道でもそうですけども、神があって、絶対なるものがあって、それが世の中のあらゆるものを創っているというその考え方、それを真っ向から否定した考え方が、ブッダの衆縁和合の理法ですね。世の中はそれが理法であるとこう言った。それを物事のあり方の一つひとつを指さして、それはみんな「空」であると言ったんです。このような考え方をもって、釈尊は、その理法をもって人の道を説きながら四十五年間説法して回り、八十歳で亡くなるという。
 
草柳:  だけど、ブッダの智慧から生まれたそういう見方というのは、それまでの価値観をひっくり返すようなことだったわけでしょう。
 
田上:  まったくそうです。「空」というふうに観察する。世の中は「空」であるよと観察する智慧を得たら、世の中の見方が変わる。つまり神様が居なくても、人間は救われるということになるわけですね。神様が居なくても世の中はみんなあらゆるものの関わりによって成り立っているんだと。引き寄せて言うと、一人の人間―私なら私という人間は、自分の周りのものの、あるいは自分の周りに居ない遠くにいる人たちのすべてのもの、あるいは動植物に至るまで全部が関わりで、自分を支えているということに思い至るわけです。ですけども、その一つひとつのものは、みんな創られたものの寄せ集まりにすぎないということです。決してそれが、これは大事なものだと言って、いつまでも手に持っていて、それが持っていられるかと言ったら、それは「空」なんですから、なんか悲観的なように見えますけども、これが事実であり、真実であり、これが世界の理法であるというふうにブッダは説いた。
 
草柳:  しかし当初は容易には受け入れられなかったでしょうね。
 
田上:  絶対受け入れられない。解ればこれほど非常に合理的な考え方はないです。どんなに科学が発達していっても、この理法は否定できないんですね。
 
草柳:  このシリーズの前の方で、確かそういうお話があったかと思うんですが、悟りを開いたブッダが、最初に説法するまでは相当逡巡(しゅんじゅん)をしていたと。一体どういうふうに言えばいいのか、ということで随分悩まれた、という話がありましたですね。
 
田上:  はい。それこそわかってくれるだろうか。だから菩提樹の元から立ち上がって、それでこれを何とか人にわかってくれるだろうかと。今まで多くの人たちと接してきたけども、その人たちはみんな神が世の中を創っている、という考え方にもうずっときているわけですから、それにそういう神を否定するようなものを説いたってわかってくれませんもの。だからそれがわかるためには、どういう説き方をすればいいかというので、いろいろと一週間ごとに場所を変えて、説法する方法を考えていった。だからそれを解らせるために、前の時にお話しましたように、比喩説法というのが出てくるわけですね。いろんな喩えを使わないとわからない。その喩えも日常の我々の身近にあるものを通して、そこから説くわけですから、我々の身近にあるものが、そういうものなんだ、ということがわかると、誰でも理解してくれるでしょう。ですから架空のものを喩えに出してもわかってくれませんけれども、「あなたも、日常こういうことがあるでしょう、こういうことがあるでしょう」という、その喩えを使うとわかってくれるわけです。そのようにして、すべてのものを、衆縁和合しているが故に「空」であるという、それを説き続けて四十五年間、八十歳で亡くなった。
 
草柳:  その亡くなった時の話なんですが、「涅槃(ねはん)に入った」というふうによく言われますでしょう。この「涅槃に入った」というのはどういうことなんですか。
 
田上:  「涅槃」という言葉は、普通釈尊の説法を纏めたような古い教典の中には、普通の死に方だと言っても同じですけれども、聖者と言われるような人、徳の高いような人たちが亡くなった人に対しては、涅槃(ニルヴァーナ)という言葉を使います。だから普通の「死」と言いますが、完全解脱をした、という意味なんですね。だけれども、「完全解脱は一体何だ」と言った時は、肉体があっても心だけの解脱というもの、つまり一切の煩悩が起きなくなる状態ですけれども、ブッダの場合の亡くなり方は、普通の死に方とは違って、古い『涅槃経』に書かれてあるように、これはいろいろ問題になるところですけれども、亡くなる、息を引き取る直前に深い瞑想の中に、つまり禅の中に入っていくわけですね。その禅の中に入っていって、そこが行ったり来たりするんですが、そこで途中の第四禅というところから、その瞑想の境地からスッとそこから亡くなったというふうに言われるんですよ。その第四禅というところは、いわゆる私どもの坐禅をして瞑想をしたというような状態ではないんですね。ずっと高いところで、その段階ですから、それをみますと、生きているということと同じですよ。肉体は滅びました。肉体はマッラ族の人たちが荼毘にふすわけですから、肉体は灰になります。ですけども、瞑想の中に入っておられるブッダは、我々の死とは違う。その第四禅の中に入っていかれたんだから、あれはまだ生き続けておられる。永遠の命の世界に入っておられる、という信仰がそこで生まれたんですね、文献に書いてあるわけですから。それがいわゆるブッダは生きているという、そういうところで信仰が続けられていったわけですね。具体的にはまた教えというものがあって、教えを残されたわけです。その教えというものを全部集めると、これはブッダそのもののお姿であるということで、ここでもお話したように、教えの集まりといって、「法身(ほっしん)」という教え。「法身」という、つまり教えを塊として、それを身体に見立てて、ブッダは、教えの塊として生き続けておられる。それは永遠なる命としてずっと我々のいつでもおられて、見つめておられる。つまりそういう瞑想の境地の中に入っていて、永遠の命というものを得られた。
 
草柳:  古い『涅槃経』の中には、釈尊は勿論生身の人間だったわけですから、肉体は滅びた、というふうに、これははっきり書いてあるわけですね。
 
田上:  書いてあります。ですけども、「瞑想の中に入っていかれた」という一点を捉えて、「釈尊は生きている」と。つまりブッダというのは、我々の死に方と違って、あれだけの修行をし、あれだけの解脱の境地に入って、完成した人だから、二度とこの世の中に生まれてくる人ではない。完全な永遠の境地の中に入ったというのを、瞑想の世界でみようとする。そうすると、そこに生きているという、そういう―「瞑想」というのは、生きていなければ瞑想できないわけですから、それは単なる肉体の上での瞑想ではなくて、教えとしての瞑想の世界というようなことにくっつけていく。ですから理論的というか、論理的になんかおかしいんですけれども、「信仰の世界では生きている」という、そういう考え方が定着していくわけですね。それが後に、紀元後になりまして、この永遠なる命、不滅の命という、あるいは無限の命という、をもっているブッダというのを表す仏様が、ご存じの、日本の人たちがなじみのある阿弥陀仏ですね。「阿弥陀」というのは、原語では「アミターユス」という、そのものを縮めて「阿弥陀」という。「アーユス」というのは命なんですが、永遠なる命をもっている仏というので「阿弥陀仏」。ですから、だ「阿弥陀仏」というのは、釈尊そのものが瞑想の境地に入って、で、あのブッダである釈尊が、永遠の命の中に生きて、我々の前に、周りにいらっしゃるよ、ということ。そこで我々を見つめておられるよ、ということが、その意味なんですね。
 
草柳:  その辺のところというのは、ちょっとわかりにくいところもなくはないんですけれども、つまりブッダというのはおっしゃったように、無限の命として、教えのというか、信仰の対象と言ったらいいんでしょうか。
 
田上:  信仰の対象ですね。つまり肉体は滅びておられるけれども、教えは教えとして教えの塊として残されている。そこに永遠なる命というものが、そこにみられるということで、仏教徒はそこに永遠の仏、ブッダというものを信仰の対象にしようとした。ご存じのように、仏像なんかも、人間の姿をもって現れた。お経というのが文字に表されたりしたのも、それですね。
 
草柳:  無限の命としてのブッダというのは、こういう姿なんだよ、ということを新しい『涅槃経』の中で、こんなふうに言っている部分がありますので、それをまた紹介してみたいと思うんですけれども、これは『大般涅槃経』でしょうか。
 
田上:  はい。新しい方の『涅槃経』です。
 
草柳:  それにはこういう言い方をしているわけです。
 
サラ樹林につねに花が咲き乱れ、果実がたわわに実り、
多くの人々に恩恵を与えている。
そのようにいつも未熟な修行者(または人々)に
私は教えを与え続けている。
ここでいう花とは私のことで、
果実は安楽のことである。
このようにして私はサラ樹林で深奥な三昧に入る。
(『大般涅槃経』)
 
この「私」がブッダなんですか。
 
田上:  そうです。ここにありますのは、古い『涅槃経』の中には、こういうような詳しいことはございませんけれども、釈尊が亡くなられたところのサラ双樹で知られているあの林のところですけれども、そのサラの木が白いいろいろな花を咲かしているというのは、ちょうどそれは私そのものはこのようにしてみんなの目を楽しませ、心を和ませているものだと。そこで果実が実ったのは、みんなそれを食べたりなんかして、それは善根―善いものをそこに与えようとする、教えとしてそれを与えようとしている。つまり私は決して死んでいないんだよと。このようにして、木の一つひとつのものにおいて花が咲いて果実ができたら、それがみんな私の姿だよ。それはみんなのために行っていることだと。だから私はいつも君たちを見て、その願いを叶えようとしているということで、ここでは一切の自然界の植物に至るまで、ブッダは生き続けているという、それが阿弥陀仏というもので現そうとしたんですね。これはまた他の教典の中にも、一つひとつの塵の中にさえも、というのが出てくるんですね。
 
草柳:  もう一つ、今別の仏典とおっしゃいました『華厳経』の中ではどういうふうに言っているのか、ということを続けて読んでみたいと思いますが、
 
如来は衆生のために、衆生に応じて法を説き、
あまねく身を現わす。
一切の諸仏は無量の自在力をもって
衆生の思いに等しいだけの仏の身を現わし、
種々の姿によって世界を清める。
(『華厳経』)
 
このポイントは何ですか。
 
田上:  これはどんな場面においても、あらゆる生きとし生けるものの願いに応じて、私は法を説き、そこで相手が、例えば牛であれば牛の姿を現す。馬であれば馬の姿を現して、そこに行って、馬の言葉で馬は馬に説法するであろうし、人間は人間のいろんな国の人たちのその姿をもって、そういう言葉があれば、その言葉をもって説法をし続けるであろうと。だからいつでも私はどこにどんな人たちに対してでも、衆生の思いに等しいだけの姿を現して、そこに種々の姿によって世界の中で争い事のないように導いていこうとするという。ここに永遠の仏というものが出てくる。つまり阿弥陀仏というのは、そのような仏の姿を永遠なるものとして現そうとしたところですね。
 
草柳:  永遠なるものであると同時に、どこにでも、いつでも現れるものである。あなたのすぐ隣にもいる。
 
田上:  この『華厳経』は、大日如来という仏様を現すんですが、太陽のような仏様と。これもまた同じですね。あらゆるものに光を与え温みを与えるということですね。
 
草柳:  ブッダが不滅の命である。しかも固体ではないと。さていつものように、ここで釈尊ゆかりのインドの映像をご覧頂きたいと思うんですが、今回ご紹介するのは、ヴァイシャーリーというところです。ご覧ください。
 
 
 
 
 
 
 
 
田上さんは、このヴァイシャーリーには、どういう思い出をお持ちですか。
 
田上:  昔の商業都市と言われるところの面影は、今はないんですけども、それはそれなりにブッダにとって思い出深いところであっただろうということを憶測しながら行ったことがありますけれども。ここはブッダが最期の旅をする途中で、梅雨時に立ち寄って―梅雨時は雨が降りますから、外へ出るわけにいきませんから、どこかのお家に、そこでしばらく滞在しておられたというところですが、よくここには画面にもありましたように、ブッダは説法に来られるということで、ここは大変金持ちの方々が多くて―文献にあるんですが、同時に有名な遊女がいたところですね。アンバーパリーという方がおられて、この遊女の方が、釈尊がお出でになられるということを知って、「じゃ、家のところにも是非来てください。ご飯を供養したい」ということをいうわけです。そのことの時に、多くの長者たちもいろいろと予定を変えて、ブッダをお招きしたいとしたんだけれども、ブッダはその遊女のところを先に訪ねたというので、大変長者たちは不満がって、「何で俺たちよりも遊女のところに行かれたんだろう」と、こういうようなことがあって、話題になったところでもあるんですね。同時にここは、仏教が大きく二つに分裂した場所でもあるし、後にヴァイシャーリーというところは、大乗仏教という紀元後の革新的な仏教が起こったところでもあるんですね。ここでは画面にもありましたように、釈尊がここで病に罹るんですね。それで身体が衰弱してしまう。そしてそこを去る時に、「ヴァイシャーリーというところは美しいところだな」という意味も込められて、「この世界は何と美しく、命は何と甘美なものなのだろう」ということを述べられた。ここで原語のところは、「マヅラター」という言葉でありますが、「甘い」というんですね。人の命というものは甘いと書いてありますけれども、味わい深いものである、という意味ですね。だから決して命というものをおろそかにしてはいけない。命というものをよく噛み締めていくならば、それは喜怒哀楽もあり、甘いも酸っぱいもあるけれども、これほど味わい深いものはない、ということを述べられたところですね。
 
草柳:  そうしますと、このヴァイシャリーというところは、晩年のブッダにとっては、ひとしお思いの深いところだったわけですね。
 
田上:  おっしゃる通りです。
 
草柳:  それで前半の話の続きなんですが、最後のところで、『華厳経』の中に、「衆生の思いに等しいだけの仏があるのだ」という文言がありましたですね。その「衆生の思い」、つまり我々の思いが一体どうすればその諸仏に出会えるのか、ということなんですけれども。
 
田上:  これは『法句経』にもありますが、新しい『涅槃経』にも書かれているわけですけれども、いわゆる形のないそういうブッダがおられるわけですね。我々はそこにこの形のないものの仏様と、どうやって対面するか、巡り会うかと言った時には、「南無」という言葉を使う。「南無阿弥陀仏」の「南無」ですね。原語では「ナマス」とか「ナモー」と言いますが、ここは原語の元々の意味でいうと、お慕い申し上げます。「慕う、敬う、随う」という意味ですね。つまりこれを漢字で翻訳されたのが、いわゆる「帰依(きえ)」、あるいは「帰命(きみょう)」という、こういう二つのものが代表的に使われるんですが、「帰る」という漢字は、「あるべきところに落ち着く」という意味が元々の意味ですね。つまり「あるべきところに落ち着く」という意味で、「帰依」と言った場合には、帰るべきところに落ち着くんですから、永遠なる仏のもとに、あんたはほんとは居なければいけなかったのが勝手なことをして飛び出して、あなたは彷徨っていた。それが今初めて「南無」という言葉を通して、そこにあなたは落ち着くべきところに戻って、そして、そして「依」よりかかる、そこにあなたはみんなお願いしたり、敬い、そしてそれに随っていきなさい、という意味が「帰依」。「帰命」というのは―「帰る」という字には、「与える」という意味もあるんです。「預ける」という。ですから、「帰命」というのは、命を預ける。私の命はもともとそこにあったんだ。だけども今私はこうしてもっているけど、あなたにみんな預けます、というのが「帰命」。つまり「阿弥陀仏」という仏様に「南無」という言葉にくっつけることによって、阿弥陀さんを呼び起こすわけです。呼び掛けるわけです。私はここにいます。「南無阿弥陀仏」阿弥陀様よ、私はここにおります。あなたにすべて命も預けます。本来は私そこに落ち着くところにやっといくことができますので、是非と言って、それが呼び掛けなんです。ですから「南無」という言葉を使うことを通して、私どもはそういうふうにしてブッダと巡り会うことができる。
 
草柳:  「南無」と呼び掛ける、呼び掛け方の中に、勿論宗派によって阿弥陀様なら「南無阿弥陀仏」でしょうし、また法華経なら別の言い方が当然あるわけ、「南無法蓮華経」と、これもそうですね。
 
田上:  『法華経』という教典の中身にはブッダの言葉がいっぱい詰まっていますと。だから私はそのいろんなことは考えないで、一々しないで、もうこの『法華経』そのものは全部自分の命を懸けます。これにすべてです、というのが「南無妙法蓮華経」。「妙法蓮華経」というのは、「サッダルマ・プンダリーカ」と言って、この正しい教えというのでありますから、そのものはすべて、と。だから「南無大師遍照金剛」というのもそうですし、「南無」という言葉を使いますが、みんなそれはブッダが基本的に不滅な仏として存在しておられる。だから私はよく言いますが、「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀仏さんが一番代表的なんですよ。これは宗派とか関係ない。仏の実際の永遠なるものは、この「阿弥陀仏」というこの言葉にある。ですから「南無阿弥陀仏」というものは、そういう意味。「阿弥陀仏に、私は命を懸けます。命を預けます」とこういうふうに言った時は、「南無大日如来」でも、「南無釈迦牟尼仏」でもいい、何でもいいんですけれども、その時には常に「南無阿弥陀仏」という意味がそこに込められている。私は永遠なる仏に帰依致します、命を帰命致します、というのが、問題であって、結局は「妙法華経」であろうと、あるいは『華厳経』であると「南無華厳経」でもいいわけですから、何故ならそこ永遠なる阿弥陀仏という姿がそこにあるというふうに考えればいいんです。
 
草柳:  信仰ですから、そういうふうに呼び掛けることによって、いろいろなブッダがそれに応えてくれることは当然期待するわけですね。
 
田上:  そうです。
 
草柳:  応えるわけですね。
 
田上:  そうです。応えて、それで結局はそこで、ブッダは、あなたの願いは何だろうか、ということになるわけですね。ですけども、「なんまんだ、なんまんだ」とよく言われますが、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言ったら、何でも願い叶えてくださるか、と言ったら、そうはいかないですよね。「南無阿弥陀仏」と言ったら、願い叶えてくださると言ったら、一つの詭術(きじゅつ)的なものですよ。車運転していて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、俺は安心だ」と言っていて、事故に遭ったら、それは「何で南無阿弥陀仏と称えて、こんなして事故に遭うんだよ」と、文句言いたくなるでしょう。それは問題なんです。そうじゃなくして「南無阿弥陀仏」と称えても、ブッダの言いたいことは、正しい人の道を踏み行いなさい、ということですよ。それが大事なんです。自分が人の道を踏まないで、「南無阿弥陀仏」と称えているだけで、願いが叶えるんであったら、それは教えも何も要らないんですよ。そういうものじゃない。だから一つの「南無阿弥陀仏」というそのものは、ブッダ自身であると、釈尊自身のそういうものに対して、あなたの教えてくださったこういうものに対して、私はこういうふうに信仰致します。命を預けますけれども、私自身もこのようにして一生懸命人の道を歩みますという、そういうものがそこに自分の中になければいけない。つまりそれは八正道ですよね。ブッダが説いているのは、まさしく八正道。八正道をちゃんと行うことを通して、「南無阿弥陀仏」という、あるいは「南無釈迦牟尼仏」でもよし、「南無大日如来」でもよし、「南無妙法蓮華経」でもいいです。だから何故「南無阿弥陀仏」と称えたら救ってくださるか、と言ったら、それは人間に―この『涅槃経』にもあるように、人間にみんなブッダになる可能性をもっているから、みんなそのようにブッダになれますよ、と。あなたでもだれ差別なく、みんなブッダにあなたたちはなれるんだから、「南無」と言っているということを通して、それをちゃんと私は応えてあげますと。ただしあなたが人の道というものを踏まないといけません、と言って、八正道が説いているわけです。だからただ単に、「なんまんだ、なんまんだ」と言って答えができるんであれば、何も教えなんか、お経なんか要りませんもの。それは人間に応えてくださるんだけれども、人間にあなたは八正道を行えば、必ずブッダになれる。だから私はそれを手助けしてあげます、ということで、常に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、あるいは「南無妙法蓮華経」でもよし、「南無釈迦牟尼仏」でもよし。
 
草柳:  でも、長い日本の大乗仏教の歴史の中では、ただひたすら称えれば、それであなたは救われるんだって、いうこともありましたよね。
 
田上:  あります。それは方便ですから。藁をも掴むというような人に対しては、それはもう「これに掴まりなさい」と、こう言って、それで心安らぐというんであれば、それはいいけれども、ちょっと時間をおいたら必ずそこには正しい道、正しい生き方というものを教えなければいけないですね。だから自分のポケットに解毒剤を持っていて、それでどんな毒を飲んだって心配要らん。解毒剤あると言って、解毒剤飲みますかと言って、そんな簡単にがぶ飲みしませんでしょう。そうじゃないんですよ。毒は飲まないように努力すして、もしかして誤って毒を飲んだ時に、解毒剤というものを使うだけであって、解毒剤を持っているから、俺は心配要らないと毒を飲む人は誰もいません。つまりそれと同じように、「南無阿弥陀仏」と称えたり、「南無何々」と言っても、必ず人の道を修めるということが大事。それを踏まえて「南無阿弥陀仏」でも、「南無妙法蓮華経」でも称えないと、それは単なる蛙がガァガァと言っているものにすぎないんですね。
 
草柳:  このシリーズの中でも何回もそのことについて触れてこられたように、人には仏になる可能性があるということをちゃんと信じている。それはまさにブッダ自身が歩んできた道だったわけですね。
 
田上:  おっしゃる通りですね。つまり私が歩んできたものは、私以前にブッダになった人たちがこのようにして歩いてきたから、それで私はその道を踏んでいって、ブッダになったんだと。その道とはなんぞや、と言った時に、八正道であると。八正道を抜きにして人の道はない。これが最高の道であるということは、もうこれまで何度もお話してきました。法句経の中にそれ書いてあります。つまりブッダになる道はこれである。苦しみをなくす方法は八正道を他にしてはない。つまりこの八正道というものが、いわゆる仏教のいわゆる生き方であり、私から言わせれば、仏教の行儀作法にすぎない。つまりこれが行儀作法というのは、習慣付けなければいけないですから。人間の生き方の中に、これは習慣付けなければいけません。その習慣付けるということは臭い付けをすることですよ。仏教の言葉に「薫習(くんじゅう)」という言葉がありますが、この香りが習い性になる。つまり自分に付いている臭いというものは、香水の瓶から香水を付けても、香水の瓶を持って歩かなくても臭いはくっついてずっといくのと同じように、八正道を自分の身体に染み込ませる。それが大事である。
 
草柳:  その八正道が如何に大事なのかということについて、これも『ダンマパダ』という古い教典の中で、こういう言い方をしているというので、これを読んでみたいと思うんですが、
 
もろもろの道のうちでは、
八つの部分よりなる正しい道が最もすぐれている。
これこそ道である。
(真理を)見るはたらきを清めるためには、
この他に道は無い。
汝らはこの道を実践せよ。
(『ダンマパダ』)中村元訳
 
ということなんですが、この八つの部分よりなる道というのは、これまでも何回か触れて頂いたんですけれども、例えばそれは正しくものを見ることであるとか、ほんとにこれは生活の、いわば一番基礎の部分で大事なことばかりというふうな感じが致しますよね。
 
田上:  この八つというのは、正しい道、これを他にしてはないと言われているんですから、仏教徒である者はみんな―仏教徒に限らないですね、人が人として生きていく上において、この八つの道は日常生活において誰でも身に付けなければならないものであるということを言っている。ブッダというのは何も仏教のことでなくても、前にも申しましたように、世の中の道理というものに目覚めて、それをちゃんと行っていった素晴らしい人格の持ち主なんですから、ですから何も宗教にこだわらないですね。宗教にこだわると、やれこういう人間であれ、こうだとか、神とか何とかをいろいろ考えなければいけませんけど、一切そういうものはないですね。いわゆる八正道というものは、いわゆる日常における行儀作法であるということでありますね。
 
草柳:  この一つひとつを今細かく触れている時間はないんですけれども、それを仏教ではこういう言葉に纏めて大変これも有名な言葉だと思うんですが。
田上:  「諸悪莫作(しょあくまくさ)」悪いことをしない。もろもろの悪いことをしてはいけないんじゃないんです。しないんです。習慣付ける。「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」というのは、もろもろの善いことを行う。これも行わなければいけないんじゃないんです。行う。習慣付ける。このように自らこの心を清めること。決してこういうようなものを汚すような心であってはならない。これがもろもろの仏たちの教えであるよ、というふうに書いてある。つまり七仏というのは、ブッダ以前の仏たちと、で、今のいう釈尊もいれて七仏ですが、これがいわゆる八正道の趣旨なんですね。これを抜きにして八正道はない。悪いことをしない。善いことをしろ。こういう心を常に汚すことなく、持っていくことが大事である、というんで、これがわかれば自ずから心は安らいでいくよ、ということであるんですね。
 
草柳:  今大事なこととして、「してはいけない」という命令ではなくて、「しない」ことだ、とおっしゃいましたね。
 
田上:  そうです。それは薫習ですね。いわゆる行儀作法というのは、「してはいけない」と、誰かが命令するんじゃなくて、自ら自分がそれをちゃんと身に付けてしまうことですね。善いことを、神様が言ったからじゃないんですね。人間関係の中で一番大事なのはそこなんですね。してはいけない。誰が?。あの人。じゃあの人がいなければしていないのか、ということになるでしょう。悪いことをしてはいけないんじゃなくて、悪いことをしない、というのが、習慣付けられる、薫習される。で、善いことをしようという。だけども基本的には、悪いことをしないという、そういう習慣が身に付けば、自ずから善いことをしていることになるという、そういうことです。このような考え方で生きていかなければいけない、というのが、いわゆる八正道の趣旨なんですね。
 
草柳:  おしまいに、今日のテーマである「安穏な生き方を得るために」という、その纏めなんですけれども、そのためには何がポイントになるのかというのを、最後に纏めていただけますか。
 
田上:  これは前新しい『涅槃経』にはいっぱい書いてあるんですけれども、纏めてみると、これに尽きるんじゃないかと。
 
一、信心をもつこと。
二、素直な心をもつこと。
三、正しい習慣を身につけること。
四、善友(ぜんゆう)とつき合うこと。
五、ブッダの教えをよく聞くこと。
 
というんですが、この「信心をもつこと」というのは、ブッダの教えというものをよく理解して、それに絶対の全幅(ぜんぷく)の信頼をおくということ。そしてそれを常に忘れないようにしていくという、そこにすべてを懸ける。「素直な心をもつこと」というのは、これはもともとは真っ直ぐな心というんですけれども、決して曲がった心を持たない。いろいろと自分に背くような、自分は本来はこう考えていないんだけれども、時にはこういうことをしていいんだろうかとか、いろいろ考える。そういうようなものをしないことですね。「正しい習慣は身に付ける」これが一番大事なんですね。正しい習慣というものを自分に身に付けることが大事。ここでいうのは、八正道を行儀作法として、自分が常に日常生活で、それを心掛けて習慣付けること。それから「善い友だちと付き合うこと」これはもう人間社会生活の中、あるいは我々の交際の上において、善い友だちを常に持つことが大事。善い友だちというのは、してはいけないことを教えてくれると同時に、本人もそれを実践すること。教えた通りに自分も行っているような友が善友ですね。善い友だちです。「ブッダの教えを教えをよく聞くこと」ブッダの教えというのは、人生の指導者ですから、ブッダは。何も釈尊だけに限りません。多くのブッダたちの教えというものは、人生の達人であり、指導者である。そういう教えをよく聞くという耳を持つということですね。よく聞かないと何もできません。仏教では、「聞思修(もんししゅう)」と言いまして、先ず聞くこと、そしてそれをよく理解して実践すること。よく考えて、「聞思」の「思」は、考えるんですね。聞いたものをよく考えて、わからない時にはもう一度聞きなさい。で、理解したものを今度は実践しなさい。「聞いて、考えて、修める」ということを説いているんですが、まさしく教えをよく聞くということが大事。
 
草柳:  「南無」と称えるだけではだめですね。
 
田上:  そうですね。
 
草柳:  今日最初に田上さんがお触れになりましたけれども、一年間先生のお話を伺っていて、仏教の出発点というのは、どうも無常ということにある。しかも無常というのをマイナスとして捉えるのではなくて、逆にそれをいわばスプリングボードにしてプラスの方向にこう転換していくようにしていかなけらばいけないのだ、というのが、これがブッダの教えの元なのかなという気がしたんですが。
 
田上:  そうです。決して諸行無常を、悲しいとか、哀れだとか、儚いとか、そういう意味だけにとってはいけないんですね。発展的にものを見る目も諸行無常だからできるんですから、そこが大事なところですね。
 
草柳:  どうも一年間有り難うございました。
 
田上:  有り難うございました。
 
     これは、平成二十四年三月十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである