人生、これ修行
 
                  比叡山飯室不動堂長寿院住職
                  比叡山延暦寺大阿闍梨 酒 井(さかい)  雄 哉(ゆうさい)
大正五年(1926)、大阪市生まれ。旧制中学卒業後、昭和六年(1931)、慶應義塾大学の夜間商業学校に入学。落第生で卒業が危ぶまれたため、慶應義塾の教授に薦められ、昭和一九年(1944)、熊本県人吉の予科練に入隊した。そこで半年間の訓練を受けた後、宮崎の宮崎海軍航空隊所属を経て、鹿児島県の鹿屋飛行場に移る。戦後はラーメン屋、菓子屋、証券会社代理店など職を転々とする。また、結婚ニヶ月目に妻が自殺するという事件もあった。四十歳のとき得度し比叡山延暦寺に入る。千日回峰に挑む前には、明治時代に死者が出て以来中断していた「常行三昧」という厳しい行を達成。昭和四八年(1973)より千日回峰行を開始し、昭和五五年(1980)十月に満行。半年後に二度目の千日回峰行に入る。昭和六二年(1987)七月、六十歳という最高齢で二度目の満行を達成。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、比叡山一山飯室不動堂長寿院住職、大僧正。
                  き き て      中 村  宏
 
ナレーター:  比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)。延暦七年(西暦七八八年)、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が、国の平和を祈ると道場としてこの地に建てました。さまざまな宗派の祖師を初め、日本の仏教界に多くの人材を輩出してきた寺としても知られています。延暦寺を頂く比叡山の麓に、延暦寺の塔頭(たっちゅう)の一つ、長寿院(ちょうじゅいん)があります。本堂に納められた数え切れない草鞋(わらじ)。比叡山の修行の中でもっとも過酷な行と言われる千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)で使われたものです。

 
中村:  草鞋がたくさんありますね。
 
酒井:  ええ。ずっと行(ぎょう)をしていた時に履いていたやつでね。
 

 
ナレーター:  塔頭(たっちゅう)の住職・酒井雄哉(さかいゆうさい)さん、八十五歳。これまでに千日回峰行を二度満行(まんぎょう)しています。千日回峰行は、比叡山の山中を七年の間に、千日間歩く修行です。歩く距離は四万キロ。地球を一周する長さです。酒井さんが二度の満行を成し遂げたのは、六十歳の時でした。二度満行した僧侶は、信長の焼き討ち以降記録に残っているのは三人だけと言われています。時には命を落とすこともあるという千日回峰行。酒井さんが仏の道に入った背景には、これまでに送った激動の人生があります。
 

 
中村:  今でも毎朝滝に打たれる?
 
酒井:  滝に打たれるんじゃなくて、ちょっとバケツに水を汲みに行くみたいなのをやって。そんな長いこと入っていないしね。
 
中村:  そうですか。あまり冬でも寒いと思うようなことは?
 
酒井:  寒い時は寒いですよ、やっぱりね。
中村:  お肌の色艶がつやつやしていらっしゃいますね。
 
酒井:  あ、そうですか(笑い)。
 
中村:  お子さんの頃は、どんなお子さんだったんですか?
 
酒井:  どんなお子さんって、泣き虫であって、どうしようもないですね(笑い)。
中村:  勉強の方はどうだったんですか?
 
酒井:  勉強の方は全然ダメ。落第の話だと、「はいっ!」と一番に手を挙げるの。
 
中村:  当時ですと、軍国少年だったんですか?
 
酒井:  軍国少年じゃなかったんですよ。だけども学校としてはなんとかして、せっかく席を置いてくれたんだから、学校が無くなれば別として、とにかく卒業だけはさしてやりたいというのは、学校の親心でしょう。どう逆立ちしたって点数を取っていないんだよ、点数が。その頃学徒出陣というのがあった。大学の人たちは出陣して、みんな卒業させて貰っていた。それと同じような特例みたいなものがあって、もし軍隊に入隊したならば、卒業年齢になっている生徒は、卒業と認めてあげましょう、と。三月待たないでもって、入隊したりするとね。だからそういう制度があるから、それへ潜り込んでいけば、あんた卒業できるよ、というわけで、それで行ったんですよ。
 
中村:  予科練に入った。それは熊本なんですか?
 
酒井:  熊本(人吉)の予科練行った。それから宮崎へ行ったりね、最後は鹿屋(かのや)(鹿児島県)まで行って、それで帰って来たんですけどね。
 
中村:  特攻隊ですよね。
 
酒井:  違う。みんなが勝手に「特攻隊」と言っているんだ。特攻基地に居たんだよ。「基地に居た」というのを、みんなが「特攻隊だ、特攻隊だ」と。そうじゃないの、真実は。道路工事みたいなことをやっていた。その頃ね、艦載機が飛んで来て、時限爆弾を落っことした。ダッダッダッダ・・・と、滑走路へ。
 
中村:  アメリカ軍が?
 
酒井:  アメリカ軍が。そうすると、夜になると、日本の月光とかが装備して沖縄の方へ飛んでいくわけ。それを飛び立たせないために時間がくると、バンバンバンとアメリカ軍が爆弾を落っことしていくわけ。昼間のうちにそれを潰さなければならない。それで爆弾を穴を掘って取ってやるんじゃなくて、ほんとに爆弾の穴ぼこあるでしょう。そこへ土を入れてね、「蛸(たこ)」(人の力で持ち上げて地面の土を固めたり、杭打ちに使う、木製の槌に取っ手を着けた物を言う)というので叩いて、それで一時的に飛行機が飛べるような状態にした。そういうところに居たんですから。よく叩いている時に、ちょうど時間とそれとが合致していて作業していて、バーンと、そこで飛ばされたりする人もいたしね。
 
中村:  そうして亡くなった仲間もいらっしゃって、そして戦争が終わりました。そして東京でお勤めになったんですね。
 
酒井:  それはね、家の父親の知っている人が、「法政大学に職員に来てください」と頼まれたらしいわ。ちょっと人が足らなかった時でね。家の父親が行こうと思っていたんだけども、家の近くの方で、「仕事があるから、そっちの方へどうですか」と、また声が掛かってきて、それだったら近いから、「じゃ、お前学校へ断りに言ってくれ」と。それで断りにいったんですよ。断りに行ったのは、それは図書館なんだけどね、図書館の館長さんが、大学の教授だったんだな。それで今みたいに明るくなくて、薄暗いの電気で、はっきり見えなかったから、年取ってるんかわからない。家の親父と間違いして一生懸命説明してくれているんだ。「こうこうやって、こういうことでどうでしょう」というてくれているわけ。返事も出来ずで、「ああ」と聞いていてね、それでちょっと間が開いたもので、「実はその話は、家の父親でもってね、父親は家の近くの方で、仕事があって、止めることになりましたんで、断りにきたんです」と、言ったら、どうもおかしいと思ったんだな。話が通じないし、というわけで、家の親父と違うもんだからね。それでもって、「あんた、何しているの?」というから、「何もしていません」と言ったら、「それじゃ、あんたに向くような仕事を教えてあげましょう」と言って、「ここへいらっしゃい」と言って、それで図書館へそのまま入ったわけ。親父の代わりに入ったわけ。
 
中村:  その仕事は具体的にはどういう仕事なんですか。
 
酒井:  それは出納係。カードを書いてもらって、それを持って本棚へ行って、本を取って出す。今みたいにコンピュータみたいなのなかった時代だから。だけど勉強していないからね、本の名前言われたってわからないんですよ。学校のことだから、洋書が来るでしょう。横文字で、ますますわからないじゃない。困ったなと思っていたら、予科練の勉強した時に、適正検査というのがあった。そこで大分絞られた、いろんなことでね。迷路が書いてあって、こう見て数字を合わせてみたりね、そんな訓練をしていたのが、やっぱりあんな時に役に立つんやな。それで本の名前を見ていたら、わからない。伝票のところに「H―3」とか、「B―24」とか符合があった。そういう符合で、適正検査をやっていたから、これでやればいいんだと思って、数字を見ただけで、どこの棚は、「H」が向こうで、「B」が向こうだというのがすぐわかって、タッタッタッと行っちゃうからね、もの凄いく早いんよ。本の名前を読んで探しているベテランの人より、数字見てトットットッと取っちゃうもんだからね、今度も学校の先生が僕に頼むと、どんな本でもタッタッタッと取って来るわけ。ある時、「学校はどこへ行っている?お前学校行っているんだろう」と言うから、「学校へ行っていません」と言ったら、「惜しいな、あんた、それだけの才能を持っているんだったらな。これは最高ですわ。学校へ入りなさい」という。それで「昼間いろんな事情があるだろうけどね、昼間学校へ来られなかったら、じゃ、昼ここで働かせて貰って、夜学校へ行くんだ。ちゃんと話してあげるから学校へ入りなさい」と言われた。それで「学校へ入りなさい」と言われて、「わかりました」と入る気持でいたんだけどね。学校へ入るのに成績証明書とか、いろんな書類がいるじゃない。それを出さなきゃならないの。そうしたら成績証明書を貰ってこなければいけないわけよ。貰いに行って気になるしな。いつも「優」とか、三十人中の二番とかというんだったら喜んでいいけどね。落第のベテランだから、常習犯だからね。これはダメだなと思ってね、家へ帰って来てからね、心配で薬缶にお湯を沸かして、封筒の後ろをソッと開けて見たら、まず良いこと一つも書いてない。もう落第のこととか、そういうこと書いてあるから、これはダメだと思ってね。それから法政なんかに行かなくなった。
 
中村:  それでどうされたんです、その後?
 
酒井:  それで毎日毎日東京の街を彷徨(うろつ)くんだ。
 
中村:  出勤しているように?
 
酒井:  出勤しているように見せて。朝八時に三鷹の駅へ行って、それからずっと玉川上水を上って、甲州街道から東京の街を回って、築地の方からまた戻って来て、後楽園へ行って、五日市から青海街道の方を回って、そうしたらちょうど夕方の五時にちゃんと三鷹の駅に着くことになっていた。
 
中村:  相当の距離じゃないですか、行って帰って来ると。
 
酒井:  そうです。それでお金が無くなっちゃうから歩き出しちゃうんで、ある間は電車に乗っていたんですよ。
 
中村:  それは何ヶ月ぐらい、そういうことをしていたんですか?
 
酒井:  大分やっていました。百日以上やっていたのかな、長いことずっと。
 
中村:  なんか修行みたいですね。例えば千日回峰行の時に、東京を歩いたことが役に立ったんですか。
 
酒井:  そうそう。それから二十年か三十年か経って、行(ぎょう)が始まったでしょう。それで京都の大回りの時に、
 
中村:  街へ出ることがありますね。
 
酒井:  街へ出て行って、大廻りを歩いていて、なんか知らないけど、こういうような感覚を受けたことがあるな。何だったかな、と。そうすると、あ、これは東京を歩いていた時と同じような感覚だな、と思ってね。それで今度東京を歩いている時は、朝新宿なら新宿を出るでしょう。新宿から街外れ抜けて行くと市ヶ谷の方へ行く。そこら辺にうどん屋さんがあったりしていて、そうすると朝掃除していたり、暖簾掛けたり、それから仕込みが終わって、お醤油やお蕎麦の匂いがプ〜ンとしたりするじゃないの。そういうようなことを考えながら、あ、今日はあそこの家はいつもより早く店を開けたんだ。ちょっと遅いのと違うかな、なんて思いながら通ったりしていたでしょう。今度京都の街を歩いて行って、ここで拝んで、拝んだら、次はお地蔵さんだ、と。今度はお不動さんって、小刻みに小刻みに考えながらずっと歩いて行ったら、夕方の七時頃にちゃんと目的地に着いちゃう。だから小刻みに考えているからくたびれないね。
 
中村:  全体を一気に考えないで、頭の中で小刻みにしていく。
 
酒井:  そうそう。だから一遍に一キロ歩くのと、細かく細かく計算しながら歩いて行ったら、案外と集中は違うところへいくじゃないの。結局疲れないでもって、ちゃんと出来ちゃった。
 

 
ナレーター:  その後酒井さんは、ラーメン店や株取引などさまざまな職を転々としました。そして三十三歳の時に、大阪にいた従姉妹と結婚し、東京で新婚生活を始めます。しかし結婚から二ヶ月で、思えも掛けない出来事が起きます。妻が大阪の実家に帰り、自ら命を絶ってしまったのです。
 

 
酒井:  嫁さんは、先行き見通しないしな、こんな旦那とよう結婚したものだと思って、板挟みになっちゃったんじゃないの。親とか兄弟には、「もっとしっかりせ」とか、「なんとかならないのか」と言われ、そうかと思って、旦那を見たら、従兄弟だし、そうかと言って、「出て言ってくれ」とか、「別れましょう」とも、よう言い切れないうちに、結局は自分が居なくなったら一番いいのと違うかな、と結論を出してしまったんじゃないかなと思うがな。
 
中村:  酒井さん、その時はどういう気持になったんですか?
 
酒井:  どういう気持?って言っても、とにかくすっからぽんの人間だからね、死んじゃったからしょうがないな、ということでね。それでそれじゃしょうがないから、東京へ帰ろうかなと思ったら、伯父さんとか伯母さんたちが、「せめて四十九日ぐらいまで居てやってくれ」と言うんで、そのつもりで居ているうちに、四十九日になったから帰ろうと思ったら、伯父さんが、「せっかく来たんだから、まあ家の仕事でも手伝って、そのままいれ」ということになってね、それで叔父さんの家へ行っていたら、そうしたら伯母さんが、うちの嫁さんが死んじゃった後、よく比叡山へ連れて来てくれた、用事でね。鞄持ちみたいに、風呂敷包んで一緒に後ろに付いてね。で、時々比叡山で泊まったりなんかさして貰って、山のところでね。それからおばあさんの話を聞いていて、なんとかして、この婆さんから逃れる方法はないかなと考えていてね、一番いいのは比叡山へ行っちゃおうかなと、大阪からずっと歩いて、それで比叡山まで行ったわけ。
 

 
ナレーター:  亡くなった妻の母から毎日のように生活態度をたしなめられていたという酒井さん。嫌気がさして、ある日の夜、大阪の妻の実家を後にし、歩いて比叡山に辿り着きました。これがその後の人生を決めることになります。
 

 
中村:  比叡山にお出でになった時に、何か大変な出会いがあったそうですね。
 
酒井:  今の長老さんで、前の延暦寺の総務室長をやったり、学問所の所長をやったりして、今奥比叡の代表をやっている小林隆彰(こばやしりゅうしょう)(天台宗務庁総務室長、延暦寺執行、叡山学院院長、延暦寺学問所所長、「比叡山世界宗教サミット」の運営責任者など要職を歴任。比叡山延暦寺長臈、大僧正:1928-)さんという、その人と出会ったわけですよね。その人が時々大阪の家へお詣りに来てくれた。そんなのがあって、頼って行って、夕方、「今晩は、ごめんください」と言ったらね、そっと出て来て、「なんだ、お前か」というわけですよね。で、「家から心配して電話掛かっていたぞ。お前、居なくなっちゃった、と言って、おばさんが一生懸命あっちこっち連絡していたけど、どこにも居ないし、最後にはお山しかないだろうと、家へ電話掛かってきた。来たら掴まえておいてくれ、というから。家に電話掛けるから、お前、ここに居ろ」と言われて、小林さんに言われてね。それでもって、その日は終わったんです。その次の日になったら、小林さんが、「お前、行(ぎょう)さしてあげるわ」という。「何ですか?」と言ったら、「礼拝行(らいはいぎょう)をやれ」と言ってね。立ったり、坐ったりするやつ、五体投地(ごたいとうち)というのがあるでしょう。「行をやらせるのに、お前、ちょっと汚れているから、だから下の滝のところで、水で身体を浄めて、それでお堂に入りなさい。お堂に行ったら、一回百八遍やって、一日三回やりなさい」という。朝と昼と夕方とね。「それをやりなさい」と言ってね。その度に滝へ入って、それをやらなきゃいけないと言われていてね、やり出すわけですよね。それね、前の日歩いたのが四十キロ以上でしょう。大阪ずっと比叡山へ、直接近くの山越えて来るんだからね。だから普通ここの足の筋肉なんかカチカチになっているじゃない。だから階段上るんでも大変だ、こうやって歩くのにね。腰も足も立たないぐらいに大変ですよね。だから普通だったら一日一回か、一日やったら音(ね)を上げて帰っちゃうんじゃないかな、と思ったんじゃないか、と、自分は憶測しているんですよ。だから「礼拝行をしなさい」と言ったんじゃないかと思って。ところが今までおばあさんの顔見て、ガンガン言われていたのが、リックを背中から下ろしたみたいに、気が楽になって、痛いもくそもない。ボコボコやって、お寺の方ではいつ音(ね)を上げるかと思ったら、音(ね)を上げないで、とうとう言われた通りやっちゃったわけ、一週間だね。3x7=21度やったわけ、一週間やり通したわけ。そのうちに一月(ひとつき)ぐらい経ったのかな、そうしたら「そろそろお前、家へ帰りたいのと違うか」ってね。それで自分の方としても、友だちのことも気にしていたので、それじゃ帰ってみようかなと思って、「帰ります」と言ったらね、「お前、ちょっと待て。お前に宿題出すから、この答えがわかったら山へ上って来い。わからなかったら来るな」と言われてね。
 
中村:  その言葉は、どんなふうに書いてくださったのか。お見せ頂けますか。
 
酒井:  「東西南北」と書かれたメモを渡されるわけです。これは琵琶湖の東の方から太陽が昇ってくる、不動寺の方へ。そこへ「何しに来たんか」というふうに、禅問答みたいに、そういうことを言われたんじゃないか、と。太陽の昇る東の国に、南(な)、西(にし)、北(きた)。「あんた、一体何しに来たんだ」ということを、言葉で言ってしまったら、それでお終いじゃないの。それで「はい、はい。わかりました」と、帰っちゃったら、すぐ忘れちゃうでしょう。こういう問題を出したら、もう頭の中にこびり付いちゃったら、答えが出なかったら来るな、というからほんとに行かなかったんです、山へね。
 

 
ナレーター:  小林隆彰さんが、書いてくれた文字の意味を考え付かなかった酒井さんは、比叡山を下ります。そして大阪に戻った後も、この紙を大切に持ち歩いていました。この時小林さんが、伝えたかったのは、問いについて考え続けることではなかったか、と、今、酒井さんは思っています。昭和四十年(1965年)、四十歳を目の前にした酒井さんは、小林さんの後輩、小寺文頴(こでらぶんえい)さんのもとで出家得度(とくど)します。
 

 
酒井:  小林さんは弟子にしてくれないんだから。小林さんが、とにかく「こんなような人間だから、あんた面倒みてやってくれよ」と言ってくれてね、小寺(文頴)先生のところへご厄介になったわけです。ご厄介になっていたんだけど、学校へ行ったことないしね。その先生は学者肌で一生懸命学問に熱中していたからね。夜なんかでも行って、先生が勉強しているところを覗いたら、「お茶でも出せ」と言われて、お茶でも飲んだりして会話しているうちに、そのうちにだんだんいろんなことをわからないなりに身に付けてね。だから今度は学校へ行かして貰っていた時に、試験が上手いこといくんだな、先生の話を実地に聞いていてね。
 
中村:  叡山学院にいらっしゃったんですね。
 
酒井:  そうそう。
 
中村:  叡山学院を首席で卒業されたんですね。
 
酒井:  首席になったんだけど、ほんとは実力はそんなにないんだよ。だけど先生のいうていたことを頭の中へ入れておいて、試験の時に、答案が行き詰まったら、ちょっちょっちょっと先生の言ったことを書いたりすると、相当勉強していたんだと思ったんじゃないの、学校の方で。先生が余計に良い点数をくれたんじゃないかな。
 

 
ナレーター:  酒井さんは、更に比叡山に三年間籠もり、住職になるための修行「三年籠山(さんねんろうざん)」に入りました。周囲は一回りも二回りも年下の若者ばかり、酒井さんは負けないように、必死で修行に打ち込みます。
 

 
酒井:  僕は、あの時に四十六(歳)だったかな。若い人は二十六ぐらいから、同じ机で勉強しなければならないんだしな。二十ぐらい違うでしょう。これは一緒にやるにはどうしたらいいかな。二倍やればいいんじゃないかな、と思ってね。夜になると、明け方風呂場で身体を浄めて、それでグルッグルッと根本中堂までお詣りに行って、五時になると、他の若い人たちと合流して、釈迦堂でもってお勤めしたりしたんですよ。その時に何日目だったかな、阿弥陀堂のところへ来て、琵琶湖の方見たら、空がズーッと茜色になってきてね、それで弁慶杉の方から山王山のところに橋があるんです。そこのところでスキー場の方をふっと見たら、今度は白夜の何とも言えない水色の光がズーッとなっていて、いやぁ、綺麗だなと思って、阿弥陀堂の方を見たらこっちが赤くなっている、こっちが青くなっていて、何だろうな、と思っているうちに、ははぁ、これは儂が、毎日毎日お薬師さんへ―根本中堂へお詣りに行っているから、お薬師さんの脇に月光菩薩と日光菩薩があるでしょう。だから太陽と月でもって、仏さんはあるんぜ、ということを教えてくれたんだなあ、と思いながら、橋のところでジッと両方を見ていたら、そのうちに、だけど、お薬師さんどこにいるんだ。根本中堂は向こうだしな。今見ているところは、こっちに太陽があって、こっちに月があるのに、お薬師さん、どこにあるの。それじゃ山王院の中にお薬師さんいるのかな、なんて思っているうちに、自分なりに、ははぁ、これ太陽と月に照らされている真ん中にいるのは自分じゃないか、と。自分の心の中に仏さまがある、ということを、仏さまが教えてくれたんじゃないかな、と思ってね。それからずっと西塔まで帰って、西塔の広場で同じように光がぴゅーっとなっていて、それでなるほどな、昔偉い人たちが、「仏とは心の中にある」とか、いろんな難しいことを言っているでしょう。なるほどこのことを言っているのかな、と思ってね。
 

 
ナレーター:  この頃から酒井さんは、心の中に仏の存在を強く意識するようになりました。三年間の籠山行の最中には、その厳しさ故に、明治時代以降誰も成し遂げることのなかった難行に進んで挑みます。
 

 
中村:  千日回峰行の前に、「常行三昧(じょうぎょうざんまい)」というのをされますね。これ自体が大変な荒行だそうですね。
 
酒井:  あれは九十日の間、こっちは坐れないんです。立って、ずっと歩きながら念仏称える行なんです。
 
中村:  お堂の中を、
 
酒井:  お堂の中を。比叡山の西塔に「にない堂」(「常行堂」と「法華堂」を合わせて通称「にない堂」と呼ぶ)というのがあるでしょう。あそこの中でやる。
 
中村:  それをグルグル回る。
 
酒井:  九十日の間ズーッと。
 
中村:  お経を称えて、
 
酒井:  念仏称えて。ズーッとグルグル回るわけですよね。だから食事するのも立ってやる。それ九十日寝ないし。
 
中村:  立っているだけでも大変ですね。
 
酒井:  そうですよ。だから一日目になると、足が象みたいにむくんでくると、今度は足を上げるのでも脚気みたいになっていて、上がらなくなってくる。動きがとれなくなっているでしょう。身体が動きが取れなくなってくると、後八十何日間どないして身体保てるんだろうと、気の焦りが出てきて、だからバランスがずれてしまうわけだ。だから歩きながら呼吸をして、それでもって念仏を称えるという「念念(ねんねん)歩歩(ぶぶ)声声(しょうしょう)」というふうにも言っている人がいるしね。そういうふうに心の中でもって仏さんを描くようにして呼吸しながら、それで身体を動かし、バランスが一つになって初めてものが成就するということになって。
 
中村:  そうすると、九十日の行をしている間に、それがだんだん身に付いていくんですか。
 
酒井:  人にもよるけどね。だけどもみんないずれはそうなってきちゃうんじゃない。長いこと九十日やっているんだからね。居眠りしているわけじゃないしな。だんだん気が付いてきますわ。
 
 
ナレーター:  昭和四十九年(1794年)、酒井さんは、延暦寺の塔頭の住職となります。住職として自ら歩み続ける道と定めたのが回峰行でした。酒井さんは千日回峰行を満行した箱崎文応(はこざきぶんおう)さんに弟子入りします。
 

 
中村:  そして、さらに厳しい千日回峰行に挑まれるわけですが、これは大変な決意だったんじゃないですか。
 
酒井:  決意じゃなくしてね、自然にだな。前みたいに、他のことできないんだから。そうしたら何が残っているか、と言ったら、若い人と一緒にやっていても、一歩もひけを取らないで、三年間ずっと暮らさして貰った、行も出して貰ったということになると、身体にはそういう面から言ったら、自信があるわけですよね。だから一生懸命歩いていけば、自分というものは、自分のスタイルができるんじゃないかな、ということでね、それで行に入った。うちの老僧(箱崎文応)はやっぱり自分がきつい凄い行やっていたでしょう。行というものに対してもの凄く体験をしていたからね。僕が、出峰(しゅっぽう)する―出て行くことを「出峰(しゅっぽう)」という―その時に、その日に本堂のところでもって、手を合わせていて、ジッと出て行くのを見送ってくれていたね。だから素晴らしい行者さんだったんじゃないの。ほんとにそれで行やる時に、回峰行の話の時に、おじいさん(箱崎文応)がね、何気なしに「行く道はいずこの里の土まんじゅう」と言ってね、「お前、土まんじゅうって知っているか」と。「土まんじゅう、何ですかね。何か昔お墓へ行くと、土でもってこう土葬でね、埋めたった」「それだよね」というわけ。「人間というのは、どこで死んでもかまわないという気持にならなければならない。ましてや行者なんていうのは、そういう気持で行かないと行なんてできないんだ」と。で、その時に口走ったのが、「行き道はいずこの里の土まんじゅう」と言ってね。だから「今いるところがもう自分の墓場だよ」というわけだ。だから「物事というものは真剣に考えていかなければダメだ」ということを言われてね、一週間ずっと見送ってくれたのを未だに覚えていますね。
 
中村:  でも人間ですから風邪も引きますし、怪我をすることもありますね。そういう時も止められないですか。
 
酒井:  その時でも止められない。二月の何日頃かね、あれ。とにかく雪が降った後に、水が出ないから上って行ったらね、案の定猪がグッと掘り返していてね、それで正面衝突しちゃってさ。高さこれぐらいなのかな、あそこのとこ。これぐらいのところから、猪と一緒にポコンと落っこちちゃったのよ。まだ下に雪があったからまだ良かったんだけどね。それでも下に岩だの石なんかあったりしてね。その時に足をぶっつけちゃったのかな。それでもって足がね、この親指がこれぐらいに大きくなって、人指し指が親指ぐらいに毬のように膨らんじゃってね。
 
中村:  それ千日回峰行の最中なんですね。
 
酒井:  最中。それでこういう足袋あるでしょう。足袋の指のところ切っちゃってね、足を出して、それで歩き出したんだけどね、もうどうにもこうにも動けなくなっちゃった。それでとにかく足を切開しようかと思ってね、それで刀でチャッチャッと足を切っちゃった。
 
中村:  ご自分で、
 
酒井:  そう。そうしたら真っ赤な血がずっと出てきて、切っちゃった後、こう持っていたの。あの時にバランス崩れてこう倒れたら、そのまま刀と一緒にどっか突いちゃって死んじゃっていたかわからない。だけどもそのままジッとしているうちに、下から冷たい風が吹いてきてね、それで夜露かなんかでもって、ふっと気が付いたんだな。一時失神していたんだと思う。指見たら周りに血の跡があったりして、それで痛いとか痛くないとかなんて、わからない。それで行者さんは手巾(しゅきん)というものを持っている。死出紐(しでひも)というのを持って歩いていて、白いロープみたいなものを持っている。それは病気になったりなんかして、これ以上行かれなくなったら、自分でもって自分を始末しなさい、という昔からの掟があって、それで刀で切って死ぬ。刀持ち合わせなかったら、なんか枝っぷりの良いところへ死出紐を掛けて首吊って死ぬというわけだ。
 
中村:  それだけの覚悟がないと。
 
酒井:  そうなの。それでもう一つは、手巾というものを持っているわけ。手巾というのは死んだ時にこう被せるやつですよ。それを手巾もちゃんと持っていたわけ。例えば首吊るのも嫌だし、それじゃそのまま静かにもう息終わったら人間死んじゃうからね。もう後一息できるかできないかなぐらいの追い込まれた時に、岩場でもどこでもおっかかって、手巾を自分で被って、それで静かに死んでいきなさい、という、そういう三つの道具を持っている。刀と紐と手巾、と。たまたま手巾を裂いて、包帯代わりにぐるぐると縛って、それで赤山(せきざん)まで下りて行った。
 
中村:  ということは、千日回峰行は不退行という、
 
酒井:  そうそう。
 
中村:  もうすると決めたら、するしかない。止める時は?
 
酒井:  自分で始末しなさい。だから今考えられないような。でも、今それを伝承して、ずっと行をやっているからね。結局、そこで死んじゃっても、結局いずれは土に還っちゃうんだから。土に還ったら、比叡山の場合だったら、土になって、地下水になって、その水がトロトロなんか琵琶湖の方へ流れて行って、そうしたら自分死んでも水に変わって、みんなのためになるのかな、という。
 
中村:  最初からそういうふうに考えていらっしゃったんですか。だんだんそうなっていく?
 
酒井:  だんだん歩いているうちにね。百日か二百日歩いているうちにだんだんそうなってくるわけ。
 
中村:  途中で、何故歩くんだろうとか、何故歩かなければいけないのか、というようなことは考えないですか。
 
酒井:  考えない。「何故」というのは、その前にあって、「何しに来たか」というのが先だから。
 
中村:  もう千日回峰行をすると決めているわけですからね。
 
酒井:  「何しに来たのか」というのが、やっぱり頭の中にあるから。行をするんでも、これをするんだ、というふうに自分で決めちゃっているじゃない。他のことに逃げられない、これ以外に。他のことが器用にいろんなことできれば、そういうことできるけども、できないんで。
 
ナレーター:  千日回峰行で七百日を過ぎると行われるのが、最大の難関と言われる堂入りです。堂入りは不動堂に九日間籠もり、食事や睡眠を絶って、法華経と真言を称え続け、不動明王と一体となることを目指す行です。
 

 
酒井:  お堂入りというのはね、断食、断水、断眠、不臥という行があるでしょう。そのお行に入るわけ。それを一説によると、「生き葬式」とか言ってね。結局人間は何が大切かというと、呼吸して命が一番大切よ。次に大切と言ったらお金だよね。そうすると、お堂へ行く時には、明日どうなるかわからないのに、お金に執着をもつことはないだろう、と。だからお堂入りの行するんだったらね、行をするのには必要なものでないから、あんたの持っているお金は全部使ってしまいなさい、と、お小遣いをね。それをはたいて、で、自分を育ててくれた両親だとか、お坊さんだとか、学校の先生、みんな呼んで、その人たちにお食事を饗応して、みなさんに頂いて貰って。だから自分でもって生き葬式というのはおかしいけど、自分でもってお別れ会をやっていくことになるんですよ。それがお堂入りなの。それで九日間の間に、お水も飲まないし、食べないし、横にもなれない。寝てもいけないという行をやって、その間に法華経を全部八巻あるでしょう。あれを全部読み終わって、お不動さんの真言を十万遍称えるわけね。それで一日夜中に「取水(しゅすい)」と言って、「閼伽井(あかい)」という井戸があるの。そこへ行って仏さんにお供えするお水を取ってきて、それを仏さまに供えて、それで修法したりする行があるの、夜中に。だからお堂から出るのは一日その時だけなんですよ、外気に触れてね。
 
中村:  九日間、飲まず、食わず、
 
酒井:  そうです。
 
中村:  人間って、大丈夫なんですか?
 
酒井:  大丈夫なんだな、これまた。ちゃんとやっていれば大丈夫なんですよ。
 
中村:  なんか気が遠くなるようなこととか、
 
酒井:  そんなことないですよ。行を一生懸命やっているうちにいつの間にか自然体になっちゃう。
 
中村:  私でしたら多分怠けようとすると思うんです。ちょっと誤魔化そうとするかも知れません、私でしたら。
 
酒井:  でもね、知っているのは自分だからね、誤魔化しても。後は仏さまが知っているし。だからもし誤魔化して卒業したとしても、おそらく生涯行を終わってから自分がお堂を出る時には、大きな荷物を背負いながら、自分が死ぬまで、それがついてくるんじゃないの。仏さまを騙したことになるんだから。仏さまを騙すということは、宇宙を騙したことになっているんだからね。人が見ていないからいいでしょうと思っても、知っているのは自分が知っている。「天が知る、地が知っている」というのと同じことで、自分だけだと目先でもって、自分だけだろうと思っていても、そういうわけにいかない。
 

 
ナレーター:  酒井さんは、堂入りという難関を五十二歳で乗り越え、その二年後には目標としていた千日回峰行を満行します。ところが酒井さんは満行から半年後に、二度目の回峰行を始めます。二度目の満行は六十歳の時でした。
 

 
中村:  命懸けと言えるような千日回峰行を二回されているんですね。二回目というのは、どういう?
 
酒井:  二回目はどういうこと、ということでもなくて、延長線だから。繋がっているんですよ。今日の自分は、今日どうしましょう。明日はまた新しい明日が生まれてくる、というようなものの考え方だから、今日終わったからと言ったって、今日終わったんじゃなくて、明日またあるんだ。明日のために駒を進めている、というだけのことで。それをやるのには、自分が一番手慣れたことが一番いい、ということだからね。ちょっと色気出して、これだから、こういうふうに、これまでやったんだから、それじゃステップを上にあげて、こういうことをやりましょう、と言ったってね、そうはとんやがおろさないからね。一番無難なのは、自分のやっている毎日毎日つぶしていけばいいだけのことだからね。
 
中村:  二千日達成されたわけですね。それでなんかどういうものを得たと言いましょうか。
 
酒井:  何にも得ていない。ただ二千日ちゃんと動いたな、ということだけですね。だから毎日生きているということ以外に何にもない、ということですよ。生きているから、二千日歩けたんだしな。息があがったらそんなものできやしないんだしな。だから逆に感謝の気持ちだったよね。「ありがとうございました」と、仏さまに。だから朝日なんかでも、ずっと琵琶湖のところから時々日にちによっては、そこのところに明け方山王院のこっちのところから琵琶湖が見えるところがあるんですね。そこのところで見ていると、朝日がびゅっと上がってくる。下に琵琶湖が映っていて、その周りに街が見えていてね、高いこの下にいっぱいいろんな人がいるんだしな。今赤ん坊が生まれて喜んでいるのもいるし、おじいさんが死んだとか、いろんな葛藤がある人間もいる。そういうのがこの下にいろんなことがあるじゃないの。今、この太陽の昇ってくるこの下のどんだけの人が気が付いているだろう。こんなのを見ていると、幸せを自分一人が受けるのが勿体ないような気がする。だから幸せな人は幸せのことを持続して貰いたいしね、不幸な人はなるべく元気になって立ち直るようにと、自然に太陽に向かって拝むようになっちゃうんだよね。そういうような感覚だね。だから千日終わったからと言って、また自分の動くということは、自分が何かをやっていることなんだからね。とにかく坊さんになったんだからね、なるべく人様にご迷惑掛けないようにと思って、人様のために頑張るようなことを考えなければいけないよね。その延長線だからね。だから昨日は昨日だし、今日は今日の自分だし、それと同じように、やっぱり街を歩いて行っても、桜の咲く頃になったら同じ格好でないんだからね。蕾これぐらいなった。次はこれぐらいになった。いつ頃咲くんかなと思って、次の日行くとパッと咲いていたりしていてね。はぁ、やっぱり咲く時は咲くんだなとかね。だから自然に逆らたってしょうがないよって。で、桜は、「行者さん、今年も咲きましたで」って、言ってくれているのかなと思ってね。そうすると逆に、行者なんていうのは、贅沢な花見だな。ここの夜桜とか明け方の桜も、家族でもって見にこようと思ったらね、特別仕立てでないと来られないじゃない。会社休むとか、学校がどうとか、いろいろ事情があるじゃないの。ところが行者は、ここへ来て、ジッとそれを毎日毎日一定の時間に来て眺められるんだから、こんな凄いことはないね。そのうちに桜がパラパラパラと散っていっちゃうじゃない。ああ、やっぱり散る時は散っていくんだなと思ってね。もっと咲いてくれと言ったって、時期が来たら必ず咲いて落ちていっちゃって、そのうちに青々した桜の葉っぱになってね。そのうちに暑いな暑いなと思っているうちに、また冬になって、茶色くなって枯れ葉になっちゃってね。また三月頃になったら、また新しく咲くんじゃない。それのグルグルグルグル繰り返しじゃないの、ということでね。自分たちも毎日今日が終わりだけど、また明日同じことを繰り返して、それの積み重ねで人生終わっていくのと違うかな、ということね。
 
ナレーター:  二度の千日回峰行を満行した酒井さんは、平成二年比叡山を下り、京都から東京まで、かつて伝教大師最澄が歩んだとされる道を巡礼しました。新しい試みの始まりです。平成三年には、回峰行の縁(ゆかり)の地、中国山西省(さんせいしょう)の五台山(ごだいさん)へ、およそ百キロの道程(みちのり)を四日間掛けて歩き、日中友好の祈りを捧げました。平成七年には、バチカンでローマ法王に謁見(えっけん)するなど、酒井さんの巡礼の旅は世界中に広がっています。
 

 
酒井:  比叡山も終わっちゃったしね。だから世界の回峰をやったらどうだ、と。アッシジへ行った時も、また大変なことが起きたんです。「せっかくお坊さんが来られたんだから」と言って、「普段、人に入れさせないところを紹介してあげます」と言ってね。自分たちのファミリーだけが内緒でお勤めするところの地下室の礼拝所へ連れて行ってくれた。そこには石棺が置いてあって、「ここにはここの創立の人の亡骸が入っている」というんで、ミイラになっている大きな石棺があって、そこのところでもってみんながミサや礼拝するんだと言って、それを聞いた途端にね、なんか下の方からゾクゾクとしてきてね、見境(みさかい)無しにそこでもって、玉体(ぎょくたい)お加持(かじ)をやっちゃった。急にそんなことをしたので、周りの人たちや一緒に行った人が、えらいこと始まっちゃったな、と。これはね、宗教的なものの考え方も違うし、そんな約束でここへ入れたんじゃない、とかって文句言われたってしょうがないでしょ。みんな心配しちゃった。パニック状態みたいになっちゃった。そんなのお構いなしに自分だけ拝んじゃって、終わったら、総長がノコノコやって来て、「けっこうなお祈りでした」と言ってくれた。あの時に、真心込めて拝むとか、手を合わすことは、人間共通なところがあるんだな、と思ってね。
 

 
ナレーター:  世界中を歩き続けている酒井さん。心の中に、「一日一生」という言葉が浮かんできたと言います。
 

 
酒井:  「今大切にしなさい」と、一日。今以外に何もないじゃないの。僕が、「一日一生」というのはね、ここのお寺から草鞋を履いて出て行くでしょ。ずっと山に上っていって、山を上ってまたずっと下りて帰って来る。その時に、草鞋がボロボロになっちゃうんですよ。その次の日に履こうと思っても履けないでしょ。そうすると、新しい草鞋を履いて、また次の日に行くという。そうすると、毎日毎日それをやっているうちに、草鞋のお陰でもって自分が回ることができるんだという、有り難い気持になったと同時にね、それを人生と思ったら、今日の自分は今日でお終いで、明日また新しいパワーでもって回るというような発想からね、「一日が一生じゃないでしょうかね」ということですね。今以外に何もないんじゃない。例えば今こういうふうになっていても、いつ大きな地震が来るかも、山津波が来るかわからん。それであっという間に―東北の方の人たちには気の毒だけどね、そんな話をすると怒られるかもわからないけれども―一瞬のうちに地震が来て、津波で、サァッサァッでお終いなんだから。それ以外に保証がなかったわけでしょ。それで後で聞いたら、「千年前にこういうことがあった」とかって。だから地球の上にいたら何が起きるかわからない、というわけだ。それ以外に何もないからね。だからこういう仏さまから命を預かってきた自分たちだから、それを一日一日大切にしてね、なんかみんなのために尽くすことを考えなければならないんじゃないかと思いますよね。
 
中村:  一日が一生、その日が一生だと思うと、その一日って、とても大事になりますね。
 
酒井:  大事なの。だから一日も大事を詰めていったら、「今が一番大事だ」。今こうやってお話していてもね、僕が咳すると、ポンとやったらそれでお終いなんだもの。「あ、死んじゃった、死んじゃった」って、そんなもんでしょ。だからお茶でいうと、「一期一会(いちごいちえ)」みたいなもんや、と。今の出会いが永久に別れかもわからない。「明日でいいや」なんていうことを言わないで、「今のことは今で片づけましょう」ということだね。
 
中村:  去年は東日本大震災も未曾有の災害がありました。未だに苦しんでいらっしゃる方がたくさんいらっしゃるんですね。そういう苦しみ、悩み、それから不安をお持ちの方は、どういうふうにそれと向き合えばいいでしょうか。
 
酒井:  今生きていること自体が、呼吸して生きている。それ自体が感謝の気持ちで起きるんじゃないの。それで世の中というのは、やっぱり酷のようなけど、「無情の世界」だからね。いつ何が起きても当たり前なんだよ、自然の中にいるんだから。この間ね、東京で、地球で高い山ね、エベレストだとか、六千メーター、八千メーターという、そういうところへ無酸素でもって―酸素ボンベ付けないでずっと登った人がいるんですよ。その人のお話をちょっと聞いたんだけどね。やっぱりそこまで行くと、人間っていつ死ぬかわからないですよ。とにかく空気が無くなったらお終いだしね。だからそれと一緒で、一歩ずつ進んで行って、ある地点まで行った時に、自分がそこに立っているということは、まだ息しているんだからね、凄く感謝の気持ちとかね、空気の有り難さとか、そういうようなことを言っていましたけどね。やっぱり今自分たちがこうやっていると、感謝の気持かね。だから空気があって、空気を吸わして貰っているということで、感謝の気持ちをもう一遍みんなが、普通の関係ないと思うんじゃなくして、考えて貰う必要があるんじゃないの。
 
中村:  最後に、「生きる」って、どういうことだって考えていらっしゃいますか。
 
酒井:  「生きる」ということは、僕なんかに言わせると、今仏さまから命を預かって、「お前ちょっと娑婆へ行っていろんなことを勉強して来い」って追い出されたんだから、生きている間に、自分で還(かえ)って行くために論文を書いているんじゃないかと思うんだ。自分の今の人生の論文を死んだ時に携えて、お釈迦様や閻魔様の前でもって見て貰って、「あ、これだったら合格だ。それじゃ来年はこういうことをしなさい」とかね、次は、ダメだったらもう一遍追い返して、「もう一遍人間になってやって来い」とかなるんじゃないかと思うんだよ。だから今一生懸命生きて、やっていくという。これはやらなければいけないなとか、自分というものを懺悔の気持でもって、感謝の気持ちをぶちあけて、それで死んだ時に、どうどうと仏さまに報告ができるような論文を書くために、今を大切にしなければいけないんじゃないのかな、というのが、生きるということと違いますかな、と、僕は思うんだよな。いずれにしても「自分はこの世の中に、何しにやって来たのかな」ということでしょうな。だからそれぞれみんな生き方が違うしね、いろんなことを言っているけどね、やっぱり何かやるべきじゃないの、人間として。また「人生というのは、すべて生きる行」だからね。「修行」なんですよ。「修行」と言ったら、なんか滝へ入って、こんなことをやったりするのが修行じゃなくて、「生きること自体がもう修行」だからね。行を修める。行うことを修めていくんだからね。一つずつ一つずつ。だから前向きに、とにかく一歩ずつ一歩ずつ自分の行く道を考えて進んでいくということが大切なんだ、と思うんですな。
 
     これは、平成二十四年二月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである