いのちの大地の上で
 
                     九州龍谷短期大学非常勤講師
一九四一年佐賀県武雄市生まれ。佐賀大学文理学部(経済学専修)卒業。龍谷大学大学院博士課程修了(仏教学)。京都大学人文科学研究所中国中世思想史研究班で福永光司教授に漢文仏典の読み方について教えを受ける。一九七七年帰郷、九州龍谷短期大学で教職に就く。一九九六年同大学仏教科教授を最後に退職。現在、浄土真宗本願寺派円照寺住職、九州龍谷短期大学非常勤講師。著書に「いのちの大地に樹つ : 現代真宗入門講座」「親鸞における「真」「真実」とその系譜--中国古典から真宗七祖まで」ほか。
 
                     円照寺住職 谷 川(たにがわ)  理 宣(りせん)
                     き き て 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  佐賀県の西部にあり、古い温泉地としても知られる武雄市(たけおし)。この地を訪れた日は、北からの寒波に見舞われ、朝からちらついていた雪が、次第に本降りに変わってきた二月初旬の気温が摂氏五度を越えない寒い一日でした。今回は、この武雄市朝日町の中野というところにある円照寺(えんしょうじ)の住職・谷川理宣さんをお訪ね致します。谷川さんは、昭和十六(1941)年のお生まれ。時代により風土により、さまざまに表現されている世界の宗教にも、有限である人間と無限の世界との関係を自覚する共通の基本構造があることに注目し、有限な人間と無限の世界の関係を分かり易い図や言葉で伝えようとしておられます。今日はその図を見ながら谷川さんのお話を伺います。
 

 
金光:  先生のご経歴を拝見しますと、お寺のご出身でありながら、最初の大学は佐賀大学で経済学部の方へ進んでいらっしゃいますね。これはまたどういうところからなんでしょう。
 
谷川:  私自身があまりお寺のお坊さんになりたくなかったということがあって、経済学なら面白いかなと思ったこと、そういうことでケインズ経済学―当時はマルクスが圧倒的に多かったですけど、そういう中にケインズの方を、僕は興味があってやったんですね。
金光:  近代経済学と言われていましたけれども、マルクシズムの方か、あるいはそうでなければケインズの方の近代経済学をやるかということで、そちらの方をお選びになって、そこはそれでご卒業になったわけでしょう。
 
谷川:  卒業して、一応会社勤めを数年やりました。
 
金光:  お勤めをなさって、その後で宗門の学校である龍谷(りゅうこく)大学の方へ。そこで何を?
 
谷川:  今度は仏教学をやったんですね。これも浄土真宗のお寺だったけど、真宗学というとどうしても狭い気がしたもんですから、一応仏教学をやって、その上で考えてみようということで、仏教学をやりました。
 
金光:  「仏教学」と言っても、随分巾が広いわけですが、ご関心があったのは、どの方面で?
 
谷川:  これも私の勝手な思いで、語学があまり達者でなかったもんですから、漢文ならなんとかなるだろうと思って、中国の仏教思想史を勉強しよう、と。たまたま当時京都大学の人文科学研究所の教授をされていた福永光司(ふくながみつじ)(中国思想史の研究者、とりわけ老荘思想・道教研究の第一人者。京都大学名誉教授:1918-2001)先生がお出でになったんで、先生にお願いして研究会にも出さして貰った。
 
金光:  それで龍谷大学が終わった後で、京都大学の人文科学研究所、そこには福永先生がお勤めだった。そちらの方での研究もなさったわけですね。
 
谷川:  そこで毎週一回研究会があって、そこに唐代のいろんな仏教の文献を読んでおられた。ちょうど京都大学の先生を中心にした研究会だったんです。そこに出さして貰って、聴講生から共同研究員という形で入れて貰ったんです。
 
金光:  それで、そこを終えられて、それで九州龍谷短大の先生に移られたわけですか。
 
谷川:  はい。短大の方では、仏教学が中心で、それに漢文仏典を読めるということで、浄土真宗の聖典である『浄土三部経(仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経)』を読んでください、ということで、そういうのを学生さんと一緒に読んでいた。
 
金光:  でも、それをある程度お務めになった後で、いわばここのお寺のご住職をなさる。
 
谷川:  短大を勤めながら―その頃まだ父が元気だったもんですから、勤めながら、「住職はすぐ譲る」と言って、四十年になりますかね―そういうことですけど、両方兼ねてやっていた。
 
金光:  一般の学生さんを相手にお話をなさるご経験、あるいはこちらのご住職として門徒の方に対するお話をなさりながら仏教を、しかも広い立場でご研究になったところで、だんだん谷川先生流の仏教の理解と言いますか、そういうのがだんだん熟してきたんじゃございませんか。
 
谷川:  そうですね。やっぱりなんとかして、特に若い学生さん、仏教なんか聞いたこともないという、あまり興味もないような人たちになんとか伝えたい。仏教の世界というものがあるんだ。そういう世界をなんとか伝えたいということで、いろいろ工夫して、一般の方が書かれている教えとか、ちょっとした文章の中から仏教に関する捉え方というのも引っ張り出す、というのを盛んにやっていたんです。
 
金光:  そういう、いわば集大成の図かなと思うんですが、先生は人間の心を風船に喩えて図にしていらっしゃるということで、先生のお考えの図になさったものを参考に、こういう表を作って持ってきておりますので、これを見ながら人間の心、仏教という、あるいは宗教というものがどういう働きをしているのか、というのを聞かせて頂きたいと思うんでございますが、これが先生のお考えの「風船」ということでございますね。で、その中心にいるのが「私」ということですが、赤ん坊として生まれた人間は、最初は無意識で、それからだんだん周囲のいろんな出来事に関心をもっている間に、自分はお腹が空いているとか、おしっこが出て気持が悪いから泣くとか、それからだんだん言葉を覚えていくことというような成長の段階にくるわけですが、その辺の人間の心の成長というのは、この風船では、どういうふうにご説明になりますか。
 
谷川:  そうですね。生まれてきた時は、もうそのまま、「自分」という意識があまりない。いのちを与えられたまま精一杯生きている。
 
金光:  あんまり「私」というような自我が大きくないわけですね。
 
谷川:  「私」という意識がない。それがだんだん成長して、特に三歳ぐらいから「私」というものを意識し出す。そうすると、「私」というものが、あらゆるものの中心になる。そうするとその「私」というもので自分の枠を作っていく。そしてその中でいろんなものを掴まえてくる。一番基本的な「いのち」というものを、与えられた「いのち」、頂いた「いのち」だけども、それを「私のいのち」―「私」というものを上に立てて、「いのち」を自分の中に取り込んでくる。それが風船の内部というか。
 
谷川:  そうすると、今「与えられたいのち」とおっしゃいましたけれども、私を支えているそのいのちの働きというのは、その時はまだ意識の中には入ってこない。
 
金光:  入ってこないですね。
 
谷川:  それ全部「私」だと思っている。それがだんだん膨らんでくると、すべてが「私のなんとか」と、何でも自分の中に取り込んでしまう。そして自分中心にあらゆるものを見、あるいは考えてくる。そういうのが、いわゆる自我の成長の時代だと思います。
 
金光:  その大きくなると、自我が膨らんでくるわけですが、ここに先生のお書きになっている本の中の言葉を拝借しまして、「風船の内側の世界」―自分の心の内側、
 
谷川:  内側ですね。「自分の思いで作り上げた世界」。
 
金光:  「私の思いの世界」、それは「自我の世界」、あるいは「エゴの世界」ということもできるわけですけれども、その場合はまだ風船の中のことしか気にならないと言いますか、気がついていない。
 
谷川:  気が付いていない。だから「その外に世界がある」というのが、まったく意識にないんですね。だから自分が風船の中にいるというような意識もまたない。
 
金光:  それで、例えばだんだん大きくなって青年期になったりして、学校に通えなくなるような引き籠もりの人もだんだん多くなってきているようですけれども、それはこの風船がどういう状況の時に引き籠もりになるんでしょうか。
 
谷川:  これは私の考えでは、風船が自分の作った思いの中で固まってくる。固定化すると言いますか、「自分という世界を絶対なんだ」と。そうすると、その自分の思いに合わないものは、なかなか受け入れることができなくなる。そういう世界が非常に多くなると、だんだん自分の中に引き籠もって、小さくなる。自分を固めてしまう。外へ通じないもんですから、どうしても自分の方にどんどん引き籠もってしまう。そうするといわゆる精神の状態が固まってしまった状態で身動きできなくなる。それが引き籠もりというか、そういう形になるんだろうと思います。
 
金光:  そうすると、逆に、そういう自分の殻が固い心を軟らかくする。軟らかくなった例みたいなものはございますか。
 
谷川:  そうですね。こういう例を紹介して下さっている方があるんです。五十八歳の奥さんとおばあちゃんとの話なんですが、この奥さんは、ご主人と百姓されていて、若い人たちが外へ出ている。それでおばあちゃんの世話は、奥さんが面倒見なければいけない。非常にきついばあちゃんだったそうで、姑ばあちゃんとしては一生懸命育てようと思ったんでしょうけど、奥さんにとってはきつかった。それがお歳になっておばあちゃんの方が寝た切りになられる。それで自分が何でも面倒を見なければいけない、一切ですね。そういう状態になって、ある程度精神的には少しホッとしている、あんまり喧しく言わない。そういう中でこういう出会いをされているんですけれども、ある時に、その日は自分はお昼から踊りの仲間と発表会があって行かんといかん。それで少し早めに食事を出す。「おばあちゃん、早く食べてよ」と、つい急かせるわけです。ところがなかなかおばあちゃんの食事が捗(はかど)らない。イライラしてくる。「おばあちゃん、何で早く食べてくれんのか」という思いがあるんですね。そういう思いの中で、なんとかギリギリに間に合った。ところが数日して、今度はご主人が畑仕事に出られる。その日は朝早くから野菜の出荷なんかされていて、「用が済んだら早うお前も来い」と言われていたんだけど、少し頭も痛い。熱がある、というようなことで、おばあちゃんに昼食を持って行かれるんですね。今度は、「おばあちゃん、ゆっくり食べてね」と言われるんですね(笑い)。
 
金光:  畑へ早く行きたくないわけですね。
 
谷川:  で、身体を拭いてあげたりなんかして、畑に出たのは二時過ぎになっていた。そうすると、ご主人の方は、遅いもんだから怒っている。「お前、何していたんだ」と言って。その時に、その奥さんは、「おばあちゃんの世話じゃないですか」と言い掛けた。おばあちゃんの世話をやってきたから、遅うなったんだ、と言おうとして、「お前、ほんとにそう言えるのか」という、
 
金光:  先日の「早く食べて」というのを思い出したわけですね。
 
谷川:  思い出したわけですね。それをふっと心の中に出てきたわけですね。そうすると、そういう自分というものを中心にした世界というものが崩れてしまうわけですね。ひっくり返されて、「ああ、自分勝手だったな。おばあちゃんを出汁(だし)にして、おばあちゃんを生かしたり、殺したり、自分の都合でおばあちゃんが邪魔になったり、自分の都合ではおばあちゃんを利用して、畑仕事をちょっと狡(ずる)しようか、という思いが出て、そういう思いの中で生活している自分だったな、というのに気付かされる。そうすると、そういう世界を教えてくれていた。そのきついおばあちゃんを邪魔になってしょうがないと思っていたおばあちゃんが拝めてくる。ああ、自分に大事な世界を教えてくれているおばあちゃんだ、と。そうすると、その世界が、今まで対立していたり、それから邪魔になったり思っていたのが、一つになれる。心が通じ合う。そういう世界が自然に開けてくるんですね。
 
金光:  そういうことを気付かせてくれる人だと思えると、おばあちゃんの見方も自然に変わってきますね。
 
谷川:  変わってくるんですね。そういうところが私たちが忘れていると言いますか、自分中心にあらゆるものを考えていると見えてこない世界じゃないかなと思うんです。
 
金光:  そういう自分に気付かせてくれる世界を「真実の世界」という言葉で表現されているわけですね。
 
谷川:  だから「風船の外側の世界(真実の世界)」というものが、「私」の外側にそういう世界がある。
 
金光:  「風船の外側の世界」に気がつくと、「真実の世界」からの働きというふうに受け取れてくるわけですね。それができると、その「外の世界と自分の自我の殻」に穴があくわけですね。
谷川:  そうそう。
 
金光:  そういう経験が増えれば増えるほど、外との繋がりはスムーズに通い合うことができる。そうすると、こちらにあります「いのちが通じ合う世界」、あるいは「共生のいのちの世界」と。
 
谷川:  そういう世界に立つというのが、「ほんとのいのちを生きる」ということだと思うんですけどね。それがなかなか私たちは、自分中心に無意識にこうやっているわけですから、気付かせてくださるものに出会わないとなかなか気付けない。そこに大事な世界と言いますか、現代が忘れている世界があるんではないか、と思うんですね。
 
金光:  人間それぞれ育ちとか、境遇が違いますし、そういう気付きの機会もその人その人によって随分違いがあるんじゃないかと思いますが、他にもそういうお気付きの例ってございませんでしょうか。
 
谷川:  あるご門徒さんのお話ですけども、こういうことがあったというのを紹介してくださっているんです。自分のご主人が癌で、末期だ。それでこのご主人のためには、とにかく精一杯看病してあげよう、と思って一生懸命やられている。で、たまたたまご主人が「ソバ食べたい」と言われたんで、「そんなら」と言って、そば屋さんに飛んで行って、温かいものを、と思って、急いで帰って来て、ご主人に差し上げるんですね。そうすると、ほんとに喜んで、「ああ、美味い。久しぶりだ」と言って食べておられるんです。けれども、全部入らないんですね、病気のために。それでご主人が食べ残されたものを、「美味しいぞ。お前も食べよ」と言って、奥さんの方へ差し出されるんです。そうすると、その奥さんは、一瞬ですけども、貰ったんだけども、「食べよ」と言われたけども、「あ、私、今お腹一杯だから、また頂くわ」と言って、それを捨ててしまったんですね。そうするとご主人は非常に寂しそうな顔をされた、という。その「捨てた」ということが、自分では、ご主人の癌も末期で、病気ということで、主人が口を付けたものは、ヒョッとしたら自分に移るんじゃないか、という。移らないとは聞いているけども、一瞬そう思って、それで捨ててしまうんですね。そうすると、寂しそうな顔をされた、ということです。その時に、ちょっとして気付かれるんです。寂しそうな顔をされたご主人の顔を見ながら、自分はこの主人のために看病尽くして、自分の命も惜しくないと思っていた。で、一生懸命やっているわけです。本人はやっているけども、そう思っていたものが、ヒョッとしたら移るんじゃないか、と。自分が癌に罹るんじゃないか、と思って、そして捨てる。そして自分の命を守るという方向に無意識にやる。そういう世界を、「ああ、そうだったな」と気付かれるんですね。あの時、なんで自分は、「美味しいぞ」と差し出してくれたものを受け取れなかったのか。そこに奥さんが気付かれたのは、「妻失格」と言いますか、ほんとに「ご主人のため」と思っていたけども、「自分の思いの世界でしか生きていなかった」ということに気付かれる。そしてそういうふうに立った時に、そういう自分の姿を知らせてくれたご主人の姿、言葉というものが拝めてくる。そういう世界を語ってくださっているんですね。なかなか自分を否定するというようなことが、私たちには非常に苦手なんですけども、そこに頭の下がる世界を頂くと、この世界を「自分の風船の枠―自我の殻」が破られて、「共に生きられる世界、心が通じ合う世界」が自然に開かれてくる。そういうところに仏法と言いますか、宗教でいうところの「救い」というのがあるんではないかな、と思うんですね。
 
金光:  今のお話を伺っていますと、こういう「外の世界」と「自我の世界」の、この「自我の殻」が破れて通じ合うようになってくると、忽ち自我の世界が消えてしまって、いのちの通じ合う世界にいつも住んでいられるのかというと、どうもそうでもないようでございますね。何があってもすぐ「私と思い」、「私」がついて、「私はそれでは困る」とかというのが強く出てくると思うんですが、その辺の自我の世界と外の通じ合う世界の具体例として、他にもいろいろお持ちじゃないかと思うんですが、ちょっとその辺のお話を少し聞かせて頂けますでしょうか。
 
谷川:  そうですね。真実の世界に出会う。出会ったからと言って、基本的には「自我」というのは、私たちが生きている限りなくならないわけですね。そのことを詠まれた榎本栄一(えのもとえいいち)(1903-1998)さんの詩で、「木の上」というのがあるんです。
 
うぬぼれは
木の上からポタンと落ちた
落ちたうぬぼれは
いつの間にか
また木の上に登っている
 
「ああ、自我だったな」というのが気付くんですけども、やっぱり生活していると、自我の世界を生きざるを得ない。ただ気付くかどうか、というのは大きな違いだ、と思いますね。そこのところが、やっぱり持っている人と持っていない人というのでは、その気付きの世界というものに出会った人と出会っていない人というのは、違いが出てくる。大事な違いが出てくるんだ、と思うんですね。
 
金光:  気が付いた時は、「うぬぼれはポタンと落ちる」わけですね。ところが「いつの間にかまた登っている」と。
 
谷川:  「あ、自我だったな」ということに気付く世界が、仏法でいう「信心」ということだろうと思いますけどね。そういう世界をもっていないと、どういうことになるのか、というのを一つご紹介しますと、いろんなご縁を頂いた松本梶丸(まつもとかじまる)(1938-2008)さんという方に教えて頂いたことですが、松本さんがあるお店に買い物に行かれる。たまたまその店にもう一人、三十歳前後の奥さんが買い物されていて、それをレジのところへ持って行かれる。そうするとレジの人とお知り合いだったんだろうと思うんです。声を掛けられるんですね。「久しぶりですね」と言って。そうするとそれに対して、「あら、あなた、こんなところで働いていたの」と言われる。そういう会話から、「ところで、あなたのおじいちゃんお元気ですか?」と奥さんに尋ねられる。そうすると、「お陰様でおじいちゃん元気だよ。ところであなたはお元気そうですね」「ええ、元気いっぱいです。毎日働いている。こんな元気な身体頂いた親に、あるいは神様仏さまに、私は毎日感謝している」そういう言い方をされた後で、ちょっとあんまり自慢されたもんだから、レジの方が、「おじいちゃんは元気ですか?」と聞かれる。そうすると、「あ、おじいちゃんか。おじいちゃんは、あれは元気過ぎて困りもんだ」そういう言い方をされる。そこでたまたま隣で聞いていた松本さんが気付かれた世界で、自分の健康は神仏に感謝する、有り難い、と。しかしおじいちゃんの健康というのは、同じように有り難いと言えるかというたら、そうはいかなくて、「元気すぎて困りもんだ」という。意識の上でどっかで、「いつまで生きているのか」という。「いつまで世話せんといかんのだろうか」という思いがある。そういう思いで、自分の物差しであらゆるものを判断してしまう。そういうところに私たちの生き方というのが根本にあるんではないか。そのことに気付くかどうかですね。そのことに気付くかどうかということが、ずっと問われているんだと思うんです。なかなか真実の光というか、教えに会わないと、そういう世界に気付かなくて、自分が自我いっぱいに生きているということに気付かない。枠の中だけの世界を自分はちゃんと生きているんだ、と思ってしまう。
 
金光:  でも、普通はそこで、それは「当たり前ではないか」と。そういうふうに思う方が当たり前ではないか、と。「当たり前」という言葉が出てくることがあるんですが、この「当たり前の世界」というのは、先ほどのお言葉でいうと、「真実の世界に気付いていない世界」。
 
谷川:  そうです。だから「当たり前」というのが盛んによく使われる。あるいは最近の言葉でいうと、「想定内」とか「想定外」とかという、そういう分け方をされるんですけど、自分の思いに合わないものがあったら「想定外」にしてしまう。排除してしまうんですね。ところがこの当たり前だと思っている意識を、私たちは問おうとしない。問題にしない。これがいろんな意味であっちこっちぶっつかるという。それぞれの世界の場、一人ひとりの思いの場所が別々にあるもんですから、合わないで、その自我の殻がぶっつかって、「ああでもない、こうでもない」ということが、それが現代の生きにくさということに通じているんじゃないかなと思うんですね。
 
金光:  そうすると、ぶっつかる時には、そこにはいわば苦しみとか悩みとか、そんな問題が出てくるわけですけれども、しかしそれは苦しみとか悩みというのは、むしろそこでそれに対処の仕方によっては、自分の思いが壊れる。外の世界と通じるチャンスでもあると、いうことも言えるわけでしょうね。
 
谷川:  そうです。だから苦しみとか、悩みというのは、実は困ったことではなくて、実は大事な世界に気付かせてくださるご縁なんですね。ただそれをどうしても自分の思いの中で捉えていると排除してしまう。そういうのがない方が、いわゆる昔風にいうと、極楽の世界ですね。楽な世界が一番幸せなんだ、と考えてしまう。そうすると、そういうせっかく気付きの世界が与えられていながら、それを受け取ることができない。自分の問題としてですね。そういう問題とか、苦悩の原因は外からやってくるからって、排除してしまって、自分を問おうとしない。そこにやっぱり現代の問題というのがあるような気がします。
 
金光:  で、その場合、自分を問おうとしないというのは、自分の殻が固く固まってというか、その固まっているのを守ろうとする。
 
谷川:  そうそう。自分を守ろうとするわけですね。自分は間違いなくちゃんとやっているのに、「相手が悪い」とか、「外側の社会が悪い」とか、いろんな理屈を付ける。自分を守るということに固執してしまうと、外が見えなくなる。そういうことがあるんだろうと思うんですね。
 
金光:  外が見える時には、自分が悪いということに気が付いても、広い世界に目が開けると、別に落ち込まなくて、次の広い世界へ踏み出すチャンスでもあるんですね。
 
谷川:  そうそう。
 
金光:  落ち込んだままで、自分は悪かったんだと、そこで縮こまってしまうこともあるわけでしょうけれども、外の世界が見えてくると、今まで違って、じゃ、新しいところへ踏み出せる次の一歩へ繋がっていくんでしょうか。
 
谷川:  そうですね。自分の世界が狭かったとか、あるいは自分は非常に小さな世界を生きていた、ということに気付かされる。そうすると、その「自分の自我の場」というのが破れる。そうすると、自分の立っている場がなくなるわけですから、そうするとある意味では落ち込むわけですね。
 
金光:  そうですね。落ちてしまうわけでしょうね。
 
谷川:  落ちてしまうんだけども、しかしそこにはちゃんと広い世界が用意されている。その世界に出させて頂くというのが、仏法でいう「出世間」世間を出る、という。そこに「真実の世界との出会い」というのが出てくるんだろうと思うんです。
金光:  ここに今おっしゃった「出世間(しゅっせけん)」という。「出世間」というのは、左の方には、「生死(しょうじ)を超える」と書いてありますが、「生と死を超える」。
 
谷川:  「生死(せいし)」を、仏法では「しょうじ」と読みますが、これは仏法の意味からすると、苦悩の世界なんですね。迷いの世界。まだ真実に会っていない。その生と死を分けて、生がいいことであって、死というのは排除してできるだけ遠ざけよう、と思っている。そう分けているんだけども、それは意識の世界であって、我々が生きているこの身というのは、実は生死(しょうじ)を生きている。生死(しょうじ)のいのちを生きている。だから生と死というのは、我々のいのちの上からすると、裏表ですね。くっついているわけですね。いつひっくり返るかわからない。そういうのを、「ああ、そうだった」と気付かせて貰った時に、「世間を出る。外の世界と通じ合う世界を生きられる」そういうことが出てくるんだと思います。
 
金光:  上の方には、「生死を超える(出世間)」という字がありますけれども、この下の方には、「いのちの流れ」と書いてあるわけですが、この「いのち」という言葉は、今いろんな意味に使われていまして、その人その人で解釈が随分違うんですけれども、ほんとに大きな意味での「いのち」ということになりますと、そういう悩みとか、苦しみとか、あるいは生だけじゃなくて、死をも含めての「大きな宇宙全部の動き、流れ」それを「いのち」と。それを働かせているものを「いのち」という。そういう言い方もできるんじゃないかと思うんですが、この「いのちの流れ」も、思いの中だけの世界ではあまり気が付かないで済んでしまうのが、そういうエゴの殻―自我の殻が破れて、外の世界と通じることが、回数が増えてくるほど、いのちの世界との繋がりの実感というのが、この身体で自覚ができてくる。
 
谷川:  そうそう。だから、その「自我の殻」が破れる回数が増える毎に、「いのちの自覚」というのが深くなって、広くなっていく、そういうことがあるんだと思うんですね。そういう世界があるというのを、教えに遇わないと、そういうことに気が付かない。自分の思いの中だけだと、私たちはこの自我だけの中で、「ああだ、こうだ」と考えていますけど、外の世界に思いがいかないから、どうしても気が付かないですね。自分の目は自分自身を見ることができない。外は一切見えるけど、そういうように自分の思いで掴まえた世界は、自分の中だけの話であって、「世界を超えて私を生かしている、支えている絶対の世界、真実のいのちの世界」というものになかなか気づけない。そういう世界がある、ということを教えていた、ということが大事なことになるんだと思うんです。
 
金光:  思いの世界というのは、しかし「私」という自我と、「自分という思い」と同じように、これは非常にしつこいというか、そう簡単には消えてくれないわけで、自分というのはそういう破れて外の世界に通じても、また自分というのは、さっきの詩にあったうぬぼれと同じでひょこひょこと出てくるわけですが、あれは頭の中で、「こうに違いない、これは間違いない、正しいんだと思い込んでしまう」と、いのちは動いておりますから、思いの中で掴んでしまうと、生きた働きでなくなる可能性が出てくることのあるわけでございますね。
 
谷川:  それが非常に私たちが間違い易い。「自我」というのは、教えられると、「ああ、そうだ」と思う。「正しいこと」とか、「絶対的なことだ」と言われるものを出されてくると、それを掴んでしまうんですね。これは、「私はちゃんと真実がわかったんだ。自分は真実のいのちについて知っているんだ」と、そうすると、その世界は、実は自分の枠の中に取り込んでしまっている。そうすると、その真理は動かなくなる。働かなくなる。そこにまた執着というのが出てくる。
 
金光:  やっぱりこの思いの中に、自我の思いの、私の思いの中に閉じ込めてしまうと、そこでいわば縮こまって死んしまうと言いますか、生きた働きでなくなるわけですね。
 
谷川:  そういうこういうことを、あるお母さんが話しておられるんです。「昨日家のお嫁さんに教えられた」というんで、語ってくださる。その奥さんの家で大事にしていたものが見当たらない。一生懸命探すけど、なかなか出てこない。それでお嫁さんに、「あんた知らないか」と言ったら、「あ、あれはもう要らんと思って捨てた」と言われるんですね。「捨てるわけない。あれは大事なもんだから、大事にしまっている筈だ」と、奥さんの方は一生懸命言うけど、お嫁さんは、「もうあれ捨てたからもうないんだ」と言って、どっちも自分の主張というのを言って譲らないわけですね。つい奥さんの方は、腹が立ってきて、「お前、なんて頑固だ」と言って追求するんですね。そうすると、その嫁さんからすぐ言葉が返ってきて、「お母さんも同じだ」というわけですね。「あ、そうだった。あ、そうだった」と言って、その奥さん頭下げておられる。そうすると、今まで対立していたものがすっと消えるんですね。そして、「ああ、そうだったね」と言って、「お互い頑固だったね」って。
 
金光:  お互いになるといいんですね。
 
谷川:  そこに立たせて貰うというのが、「いのちの場、真実のいのちの場」に立つ。そうすると、お互いの心が通じ合う。安心して生きていけるというか、そういう世界が開けてくるんだと思うんですね。
 
金光:  そうしますと、思いを離せばいいんですね。
 
谷川:  そうそう。
 
金光:  掴んでいるのを離せば自由な世界がある。
 
谷川:  その「離す」ということが、「手放す」ということが、なかなか私たちができなくて、だから「離す」ということのできない私だった。自分の掴んだものを大事にしたいと思う。手放すことのできない私だった、と気付かせて貰うものに出会わないと、その外の世界、それを超えた世界に立たせて貰えない。そこに大事な世界があるんだ。離したらいいんだけども、離せない。やっぱり自分というのを立てたい。自分という殻を出ることのできないいのちを生きている。そういう私だった。頭が下がっていく。そこに広い世界が開かれてくる。そういうことを、榎本栄一さんの「下坐―自分に―」という題の詩で教えられるんですね。
 
こころはいつも下坐にあれ
ここはひろびろ ここでなら
何が流れてきても そっとお受けできそう
 
こういう歌ですね。だから一番下というんですか、「自分の世界」が破れて、いのちの流れを落ちるだけ落ちたというところに立つと、あらゆるものがご縁として頂ける。自分にとって都合の悪いことも、あるいは良いことも一切がご縁であった、と引き受けていける世界が開かれていく。そういう世界が、私たちにとっての「救い、助かった世界」というんですか、そういうのを非常に上手く表現してくださっていると思うんです。
 
金光:  そうしますと、「思いの世界」が破れて、落ちてしまった、と。思いの世界ではもうダメかと思っても、ちゃんとそこには大きないのちの流れている世界があるんだ、と。いのちの世界でまた新しい一歩を踏み出すことができる、と。そこが下座である、と。
 
谷川:  そうです。そこに座るんじゃないんですね。やっぱり歩いて行く。そこから歩み出す世界、そういうものが実は「往生浄土(おうじょうじょうど)」―浄土真宗的に言えば、そういう新しい人生が始まるということだと思うんです。
 
金光:  そうすると、いつでも我々が受け取れる世界というのは、「今、ただ今」、いつも今の連続で、生きているということは、今の連続であるわけですけれども、その「今」というのは、私の思いが壊れても、今は今で続いている。
 
谷川:  そうです。
 
金光:  新しい世界が常に展開している、と。そこに気が付くことができるかどうかという、そこが次の世界へ足がこう出せるか出せないかの境目ということになるわけでございましょうか。
 
谷川:  これも松本梶丸(まつもとかじまる)さんのお話で非常に教えられるんですけれども、こういうことを語ってくださっている。浄土真宗では、「報恩講(ほうおんこう)」という一つの大事な行事があるんです。それであるご門徒さんにお詣りに行かれる。そうするとそこのおじいちゃんが機嫌が悪い。なんか自分は悪いことをしたんだろうか、と思われたけど、おじいちゃんが、「ごいんさん、ちょっとこっち見てください」と言って、自分の家の座敷の襖を開ける。そして綺麗な庭を見せてくれる。そうすると、そこは非常に綺麗な庭なんだけども、銀杏の落ち葉がいっぱい落ちている。「今朝から二度も掃いたけど、こんな有様や」と。その落ち葉を落としているのは、実はすぐ塀の向こうにある隣の庭の銀杏の木なんですね。それでその銀杏の落ち葉が風の具合でこちら側に落ちてくるもんだから、おじいちゃん腹を立てて、「今日は報恩講だ。ごいんさんも来てくれるので一生懸命掃除したのに」という思いがあるわけす。それで腹立てている。ところが落ち葉というのは、特別にこっちのおじいちゃんの庭が憎いから、というので落ちているわけじゃない。しかしおじいちゃんにしてみると、受け取れないわけですね。「こんな落ち葉ばっかり落としている銀杏を植えている隣のおじいちゃんが憎らしくてかなわん」と言われる。それについて、ふと松本さんが気が付いて、「おじいちゃん、あの銀杏の木がこっちの庭にあったらどうやね」と言われたんですね。そうすると、おじいちゃん、気が付いたんですね。「あ、そうやったね。あ、そうやったね」と頂いた時に、もう心の塊というのがほぐれるんですね。柔軟になっている。そうすると、その落ち葉を受け取れることができる。そういう世界。自分の思いで、自分の都合で、「ああだ、こうだ」と言っている世界が、一つの言葉の教えに出会って、「ああ、そうだったね」と、頭が下がった時に、柔軟な世界が開かれてくる。そういうところに私たちが生きる大事な眼というのか、そういうのがあるんじゃないかなと教えられるんですね。
 
金光:  面白いですね。自分の家があって、隣の家があって、その途中に塀がある。その塀が取り払ってしまって、自分の庭と思えば、落ち葉は落ちても腹が立たない。隣の落ち葉だと思うから腹が立つ。それが無くなったら、ということは、そこでいわば仏教の読みだと「柔軟(にゅうなん)」という―「柔軟(じゅうなん)な、柔らかい心」柔軟心(にゅうなんしん)がそこで現れてくる。すべてがそういうことだといいんですけれども、やっぱり最初におっしゃった「私の」とか、「私が」というのが、我々の思いの中にはいつも存在しているから、「私の」と「私の」がぶっつかるといざこざが起こる。やっぱり固い心、そういう意味での固まった心というのは、世の中を暮らすのには非常に不便でございますね。
 
谷川:  不便ですね。これがやっぱり戦後の教育と言いますか、ある意味では人間教育というのがおろそかになって、自我拡張と言いますか、自分を立てるということを非常に出されてきた。それはいいんですけれども、しかしそれが自我という固まったものを非常に強く出されてきた。自我という固まったものを作り出すということで働いてしまうと、ギクシャクした関係になってしまう。そういうのを解きほぐすもの、自分の心を解きほぐすものとして、真実なる教え、あるいは光というものを仰いでいくということが、どうしても大事だと思いますね。
 
金光:  それを「自己主張」と言いますか、自我の塊を主張することによって、これを固めてしまうと、実は私自身が存在しているもう一つ元に大きないのちの流れがあって、それがあるから自分も存在しているんだという。外側の世界、いのちの流れによって生かされている自分だ、ということに気が付かない間は、自分の都合だけしか物事を判断する材料がないけれども、実は自分は生きているけれども、外の世界によって―それは食べ物にしても、何にしたって、全部外の世界で他のいのちを頂いて生きることができている。そういうことに気が付くと、例えば食事の場合でも、いのちを頂く場合でも、頂き方が変わってくるということがありますでしょうね。
 
谷川:  なんか少し前は、「頂きます論争」というのがあった、という。最近では学校の給食の時に、「頂きます」と言って、手を合わせて頂戴するというのが、だんだん少なくなっている、というのを聞いたことがあるんです。これは「いのち」というものを、私たちが生きているということは、頂いているいのちがあって、初めて生きていくことができる。その頂いているものは、お米のいのちであったり、野菜のいのちであったり、あるいは魚とか、牛や豚とか、いろんないのちを頂いている。しかし、「自分はお金払っているんだ。だから頂きます≠ネんて言わなくてもいいんだ」という、そういうのがあったみたいですけど、しかしいのちをくれているものには、私たちは一銭も払っていないんですね。それを仲介している人間に払っているに過ぎない。そこのところが見えていない。そういうところに、私たちの思いの世界というか、自分の思いで作り上げた世界だけで物事を見ている、ということがあるんだろう、と。そういう自分を照らしてくださるというか、絶対的な世界から、そういう身勝手な自分の思いで生きている、あるいは生き方をしているということに気付かせてくださる、そういうものがないと、私たちは、真実なるものに出会えないのではないかな、と思うんですね。「気付かされる」ということが、仏法で言えば、「自覚」ということだと思うんですけど、あるいは「信心」と言われる、そういう世界が現代という時代に失われているんじゃないかな、と、そんな気がするんですね。
 
金光:  だから人間の思いの区別というか、差別と言いますか、そういう世界でない共通のいのちの世界に目が開けると、それは自分自身の身にそれをおいて考えると、今の状況は、受け取りたくないとか、あるいは足らないものが欲しいとか思っている。それよりももう一つ、そこで、と言いますか、もっと深いところで、広い世界が広がっているんだ、と。だからそこで新しい一歩踏み出す世界に気が付くがどうかというのが、生きる姿勢にとって非常に大事だ。もうダメだと思ってしまったら、そこまでですけれども、そういう思いの世界で、思わなくて済む世界が常に広がっているんだ、というつもりで生きて、目を開いていけば、新しい世界に気が付くことができる、というふうな話として伺いました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十四年二月二十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである