ひとりひとりの命から
 
               ノンフィクション作家 柳 田(やなぎだ)  邦 男(くにお)
一九三六年、栃木県生まれ。一九六○年、東京大学経済学部卒業、同年NHKに入局し、広島放送局へ配属。一九六三年東京へ戻り、社会部に配属。一九六六年に遊軍記者として「全日空羽田沖墜落事故」「カナダ太平洋航空機墜落事故」「BOAC機空中分解事故」を取材。一九七四年NHKを退職し、現在までノンフィクション作家として活躍。航空機事故、医療事故、災害、戦争などのドキュメントや評論を数多く執筆している。著書に 「マッハの恐怖」「ガン回廊の朝」「犠牲(サクリファイス)わが息子の脳死11日」「脳治療革命の朝」ほか多数。
               き き て       山 田  誠 浩
 
山田:  震災も、何度も被災地に行っていらっしゃると思うんですけれども、そこにお立ちになった時の率直な感想を伺わせて頂きたいんですけど、どういう思いになられましたですか。
 
柳田:  津波の被災地というものを先ず行きました。これは東松島とか、南三陸とか、大変な被害を受けたところ訪ねて歩いたんですけれど、巨大津波の破壊力の凄さですね。これは言語に絶すると言っていいと思うんですけれど、しかもそれに輪を掛けるというか、もうほんとに想像を絶すると、より一層感じたのは、福島第一原発の現場に立った時ですね。これは事故・検証委員会のメンバーとして現地調査に行ったわけですけれど、ほんとに爆発した一号炉、それから三号炉、その側に寄った時、防護服を着て近づいたわけですが、その破壊状況は、テレビで見る映像ではとても感じられない、全身が震えるようなもの凄い破壊でしたですね。一般報道人は中に入れないので、東京電力が配る静止画像ぐらいでしか見ることができなかったんですが、まあ事故調査ということで現場に立ったわけですね。数メートルある巨大な扉、これは大きな設備なんかを出し入れする扉が、鋼鉄製で頑丈に作られているんですが、それがもう「く」の字にへし曲がって倒れているわけですね。こんな太い閂でさえも「く」の字に曲がっている。この津波のエネルギーの凄さってなんだろうと。後で専門家に計算して貰うと、「ジェット機が衝突する力に相当する」と聞きましたね。しかもそれが一機のジェット機でなくて、巨大な海が全部大群のようにして押し寄せて来てぶつかってくるわけですから、これは原発基地なんていうのは、みんな軒並み壊される。まして原発の外にある防波堤のコンクリートなんか、粉々になって打ち上げられているんですね。そういう風景は、三陸の方の津波被害地へ行っても見られるわけですが、それが安全であった筈の原発のプラントであっただけにショッキング度というのいは大きかったですね。一体この自然のエネルギーの恐さというものに対して、人間は驕っていたんじゃないか。人間は何か自然を支配できるような、とんでもない錯覚をもっていたんじゃないか、という。そういう根源的な問い掛けが頭の中で回転していましたね。
 

 
ナレーター: 福島原発事故・検証委員会。柳田さんが、この委員の任を受けたのは、去年の六月のことでした。これまで半世紀に亘って、放射能汚染や原発事故を取材してきた専門知識が、原因の究明に求められたのです。柳田さんは、これまで取材した原発事故と、今回の事故現場のありさまを、去年九月一冊の本に纏めました。タイトルは『想定外の罠』。福島原発の事故は、ほんとに想定できないものだったのか。「想定外」という言葉に隠された事故の核心に、柳田さんは迫ろうとしました。
 

 
山田:  その後、津波と原発を含めての実態がだんだん明らかになって、一年になるわけですけども、原発の今回の事故については、何に一番お感じになったでしょうか。
 
柳田:  原発事故が起こってからすぐ出てきたのが、「想定外の事態であった」ということなんですね。「想定外」というのは、何かというと、これは津波災害についても、あんな巨大な津波が来るとは予想していなかった。だから防波堤が壊されたり、越えたりするのは避けられなかった、というのが一方でありました。それから原発について言えば、原発、しかも福島という土地で、あのような巨大津波が来るということは、過去に記録がなかったとか、あるいは三陸についてはあるけれど、福島の方は巨大地震の巣が側にないというような考え方が一般的であったために、津波対策は控え目だったわけですね。この程度でいいだろうということで。ところが実際に起こってしまった。起こってみると、不思議なものですね、起こって当然のような地殻変動のメカニズムというのがわかってくるわけですね。今回の問題というのは、「想定外」という言葉を使うことによって、どんな意味をもっていたかというと、一つは何か責任逃れのような形で使われ過ぎている。これは行政においても、電力業界、特に東京電力においては、「想定外だった」ということで、今までの準備態勢は万全であった。それを前提条件として、こんな津波は来ないというふうに、学問的にも実際的にも言われていたからやむを得なかった、という意味なんですね。しかし八十年代から津波の専門家の中に、地殻変動というものは、我々が呼吸している五十年とか百年の範囲内では予測できないような巨大なもの、あるいはとても想像を絶するようなことが稀に起こる。それは千年か一万年かに一回かも知れないけど起こる。そのことを念頭におかなければいけない、ということを言い続けてきた学者がおられるんですね。そこのところをどのように真剣に向き合ってきたか、ということを問わなければいけない。何故それを真剣に向き合わないで棄ててきたのか。排除してきたのか。そこのメカニズムを解明しないといけないだろうな、と思うんですね。
 
山田:  今の社会というのは、非常に技術革新の中でテクノロジーが非常に進んで、そういうものがシステム化されてできあがっているわけですね。そういう中でそういうことが起こっていくということは?
 
柳田:  その背景には二つあると思っているんですよ。一つは、近代西洋科学というものは、人間が自然を支配できる、あるいは自然をコントロールできる、というような、とんでもない考えを暗黙の前提にしている、と言ってもいいような形でなりたってきたわけですね。これは人間が、世の中のものや地球のものや、あるいは生物のもの、そういったものを観察する時に、対象化すると言って、自分は観察するもの、そして観察される相手は客観的にそこにあるというもの、というんで、それを分析することによって、病気の原因とか、あるいは地震の原因とか、いろんなものを明らかにして、そして人類の福祉健康に貢献してきたわけですね。それは成功した例がいっぱいあるわけですね。だけれど、本当にこの地球という規模で考えた時に、人間の知恵ぐらい、あるいは知識で、そんなに簡単にこの地球をコントロールできるのか、というと、それは問題は別になる、次元が違う。二十世紀後半、つまり環境破壊の問題が大きな課題になってきた時に、人間は自然をコントロールできると思っていたのが大間違いで、自然環境が破壊され、地球が危うくなれば人類そのものも危機に陥る、という。こういう問題が浮上してきたわけですね。ですから科学というもの、近代科学というものを基にして、自然をコントロールできるという錯覚―小さい範囲だとできるんだけど、地球全体の大きな動きに対しては、そんな生易しいものではないという、その反省がなかった。それが一つだと思うんですね。それからもう一つは、我々は困ったことや危ないことや、自分が危機に陥れられることについてはなるべく考えたくない。これは政治であれ、行政であれ、学問をやっている人であれ、あるいは事業をやっている企業であれ、みんな最悪の事態だとか、なし崩しにダメになっていくとかというのは考えたくない。何か頑張っていれば、乗り越えられるぐらいのことで、考えているんですよ。ですから一部の学者が警告を発しても、それはまだ先のことだろうとか、そんなことは今すぐには起こらない、というような、根拠なしに楽観主義に陥ってしまうという。こういうように二つの要素が絡んで、やはり天災などについても、我々の人智を越えたような形で、とんでもないことが起こるなということは考えない方向にきてしまった。そこが大きな問題ではないかと思うんですね。
 
山田:  そうしますと、今回のことは津波にも同じ、原発にも同じことがそういうふうに言えるという要素がある、というふうにお考えになっていることでしょうか。
 
柳田:  確かに行政においても、あるいは電力業界においても、そういう地震学や津波の学問の専門家の警告に対して、まったく反応しなかったわけではなくて、何百年に一回なのか、何万年に一回なのかみたいな、そういう確立論で、理論的に一生懸命突き詰めていくわけですが、それが科学性を持たせようとすればするほど、データが必要になるんですね。データが揃っているのは精々明治以降、かろうじて江戸時代ぐらいまで遡れば、まあまあ確立を計算するデータになる。だけれど、これが一千年前の平安時代ぐらいのものになりますと、記録はある。頻りに言われている西暦八六九年の貞観(じょうがん)津波という大津波がありますけれど、これは当時の古文書に書いてあったり、地質調査をすると、確かに大きな津波だったかも知れないけれど、それがほんとに三陸や福島に及ぶような、必ずしも確立論ですぐにそれが来そうな雰囲気として捉えられなかった、こういう問題があるんですね。
 
山田:  社会的にものを見た場合に、そこのところは専門家はある程度きちっと配慮すべきなんでしょか。
 
柳田:  ええ。やはりものを作るというのは、コストと効率の間を考えると、一千年に一回のことまで考えてやっていたら物は作れないという、こういう経済の論理が先ず一つ通るわけですね。でもよく考えますと、一万年に一回というのは、一万年後に起きるということではないんです。それは今起こってもおかしくないんです。ただ一万年に一回というのが、いつ起きるかわからないところからみると、一万年に一回だろうが、千年に一回だろうが、今起こるかも知れないという点では同じなんですね。だけど、そういう論理は、何百億とか何千億というお金を注ぎ込む事業においては取りに難いんですね。じゃ、リスクというのは何なんだ、ということまで考えないといけない。今までの行政や事業を支配していくリスクの考え方というのは、確立論だけだったんです。今起こってみて、明らかになったリスクの考え方というのは、確立だけではなくて、起こったら何が起こるか。例えばジャンボ機一機が落ちれば五二○人が亡くなったという、一九八五年の日航ジャンボ機事故がありますけれど、一旦起こった時に取り返しのつかない大惨事が起きる。それが原発事故ですと、もう周辺の住民が何十万人と避難を余儀なくされ、そして放射能による汚染が起こると、そこへ戻ることもできない地域もできてしまう。故郷喪失、経済的にも破壊され、中には家族崩壊まで起こってくる。親と子どもが別々に過ごし、そして子どもの生育環境というのは非常に劣悪になってくる。何万年に一回というような確立だけではなくて、一旦起こった時に取り返しのつかないような巨大な被害が起こった時のことを念頭に入れる。これを専門的に言いますと、リスクというのは確立だけではなくて、「確立x(掛ける)被害の規模・被害の巨大さ」というものを掛けると、それが一万分の一だったものが、実は十分の一ぐらいになってしまう。そうすると、それは十年に一回に等しいわけですよね。つまり被害の規模というものを考えて初めて、安全で安心な社会ができる。それを裏返していうと、被害が起こったことを前提にして、システムや装置の安全性というものを点検し直すと、穴だらけなんですね。原発で爆発が起こりました。放射能が飛び散りました。どの方向に、どれくらい撒き散らかされているか、というのを調べなければいけない。撒き散らかされてから、調べようというんで車で行ったって入れないわけです、もう汚染が酷くて。そうなると、もうリモコンで操作できるような装置―これを専門的に「モニタリングポスト」と言いますけど、それをたくさん作っておかなければならないわけですね。工学的な目で見ますと、原発を作り、その周辺に二十四箇所モニタリングポストを作ったんです。それが動けば、あの直後にどれくらい放射能が洩れたか。津波を被って全電源停止という状態が起こりました。とうとう放射能が洩れ出しました。その洩れ出したということは、原発の本部でわかりますからいいんだけれど、しかし周辺にどの方向にどれくらい洩れたかというのは、モニタリングポストが働かなければいけない。ところがモニタリングポスト二十四箇所のうち、二十三箇所までが地震で倒れたり、津波で流されたりして、何の役にも立たなかったんですね。それからスピーディ(SPEEDI:緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)という議論の対象になっているリアルタイムで放射能が撒き散らされ飛んでいく方向や濃度を調べる、そういうコンピューターシステムができていたわけですけれど、原発のプラントから出る出口のところ、放射能が洩れる放出源のところのデータが事故のために取れなくなってしまった。そのためにスピーディに入るインプットが得られないわけですね。どれくらい放射能が散ったのか、という。そうすると、それだけでもシステムが役に立たないみたいに担当者は思っちゃうんですね。だけれど、何万という人が避難していく時に、どの方向に流れていくとか、どこに遠いところでもホットスポット(hotspot:局地的に何らかの値が高かったり、局地的に(何らかの活動が)活発であったりする地点・場所・地域のことを指さすための用語)ができるかというのは、ある程度わかるわけで、正確な数字ではなくても、そういうことがわかるわけですね。だけど、それは正確じゃないということで、担当者たちは押さえちゃうんですね。徒(いたずら)に発表すると混乱するということで。このために避難した人たちが、一旦避難した先が、実はそこが濃度がもっとも濃いところだったりして、また避難する。そうすると、さらに避難した飯舘村辺りが、さらにまたそこがホットスポットだったりするということで、さらにまた避難しなければいけないという大混乱が起こったわけです。つまり住民にとっては、不安いっぱい、一体どうなっているのかわからない状態で、避難、避難、避難と転々とさせられる、というような事態が起こるわけですね。被害を受けた側から逆にプラントの安全性ということを考えると、設計する人が自分が付近に住んでいて、そして放射能が降る中を逃げなくてはいけないという身に立たされたとします。そうすると、モニタリングポストはほんとにどんな事態があっても安全に働くのか。ちゃんとデータは取れるのか。スピーディはそういう避難路を決める時に役立ってくれるのかという、逆チェックができるわけです。自分がその身に立ってみる。単に工学者として、あるいは行政官としてシステムをこう見ているだけでなくて、壊れた時どうか。どこからそれが壊れてきたのか、それが見えてくるんですね。そういう視点がこれまでなかったということが、さらけ出されたのが、今度の原発災害だったわけですね。原発の安全性というのは、三条件があって、一つは、放射能が先ず外に出ないようにする、ということ。それから原子炉を冷却し続けて暴走しないようにする、という。それから運転を停めちゃう、ということ。「停める・冷やす・閉じ込める」これは放射能を閉じ込めて外に出さない。この三拍子を前提にして設計をして、この三つは全部確保できます、ということで、「安全です、安全です」とやってきたわけですね。ところがこの三つとも壊れてしまったんですね。だけれど、仮に想定外の事態が起こったということを百歩譲って認めたにしても、万一起こったら大変な被害が生ずるということを前提にして考えたら、そういうモニタリングポスト一つにしても、スピーディの設計にしても、あるいは運用の仕方、住民に速やかに情報を提供し、そして避難路についての情報を提供するとか、あるいは避難先は何キロ以上先でなければダメだとか、そういうことで誘導できるわけですけれど、そういう発想が全部閉ざされていたわけですよね。
 
山田:  それは、そこの地域には人が住んでいるということがわかっていて、その人の地域の中に原発もある。あるいは津波の場合はどういうふうに捉えればいいか、僕にはわかりませんけれども、人が住んでいるということは、行政も企業もわかっていたわけですね。だけど、何が足らなかった、ということになるわけですか。
 
柳田:  これは日本の経済力が成り立っていくためには、エネルギー源として原発を作るという大方針が国策としてあるわけですね。国策としてあるから、それがブレーキされないように、安全であるということが大前提になるわけですね。確かに工学的な目でみると安全だったかも知れない。しかしそれを絶対的に安全ということを前提にしたために、放射能が洩れないことになってしまうんですね。そうすると地域の住民に対して、万一放射能が洩れたら、何が起こり、どういう避難をしなければいけないのか、というのを知らせると、これは住民を不安に陥(おとしい)れて、これから、新しく作るようなところに作り難くなってしまう。そういう問題があるから、できるだけそういった汚染とか、避難とかということは大袈裟にしないという、これは政策だったわけですね。それは因みに、新潟県中越地震というのがあって、東京電力の柏崎原子力発電所で火災が起きました。これは地震の揺れが想定より大きかったために、いろいろと破壊が起こって、それで火災も起こって、原子力発電所を停めなくてはいけなくなった。幸いにして放射能が洩れるような事態にはならなかったけれど、でも当時の段階で想定していたものを越えるような地震の揺れによって火災が起こり、危機的な状況が起こったということで、新潟県ではその後、放射能が洩れた場合まで含めて防災訓練をしなければいけない、避難訓練をしなければいけないというので、知事が先頭に立って計画を立てたわけです。ところがこれに対して、国は、具体的には経済産業省の原子力安全保安院ですけれど、「そういう訓練はしないでほしいと。そういう訓練をすると、住民を徒に不安に陥れるだけだから、そういう訓練は止めてくれ」というふうに命じたんですね。これは非常に象徴的なんですね。今回の福島の原発についても、双葉町(ふたばちょう)の町長さんんがおっしゃっていました。「自分は若い頃、あそこの原発で働いたことがある技術者だった。自分が働いていた時の原発の内部の事情を考えると、いつ何が起きるかわからないから、避難訓練というのをちゃんとやらなければいけないんじゃないか」と再三東京電力に言ったそうですね。結局保安院や東京電力から、「そんな大袈裟なことやる必要ないですよ。もともと原発は安全なんですから」ということで、地元の町長さんが、「もっと本格的な訓練が必要ではないのか」と言っても、「いや、その必要ない」と言われていた、とおっしゃるんですね。
 
山田:  それはなんか人の命と言いますか、住民の捉え方にどこか問題があった、ということなんでしょうか。
 
柳田:  そう思いますね。それは行政や電力事業者が、人のいのちを軽んじる、というふうに意識的に思ったんではなくて、結果的に言えばそれと同じことだった、ということですよね。人間というのは、これは「間違いを犯すのが人の常」とよく言われていますけどね。ヒューマンエラーの研究というと、人間というのは、どういう間違いをするかわからない。それに対する備えというのは非常に大事なんだ、ということは予て言われているわけですが、しかし今回のように、「想定外」と言われていたような、とんでもない事態が起こる。つまり津波によって電源喪失という問題が起こった。しかもいろんな電気をいろんな施設内のものに送る配電盤という重要な施設があるわけですね。いわば人間で言えば、心臓から血を末端まで送るようなそういう部分ですね。そこも水を被ったから、電気というのは水に弱いですから一旦水を被ると使え物にならなくなるんですね。非常に重要なのは、電源盤でさえも、津波が被りやすいようなところに設置していた、という、その一点ですね。心臓部に当たるような装置というのは、もうほんとにどんなことがあっても水を被ってはいけない。その部屋を密閉しなければいけないわけですね。これは気密性に代わる水密性と呼ぶんですけど、水密性のある部屋にしなければいけない。そうなっていなかったんですね。そういうふうに全電源喪失の中で、コントロールルームはいろんなものがわからなくなってきて、原子炉を冷やさなければいけない、そういう緊急の水が動いていない、それも気が付かないような事態が生まれたんですね。ほんとに混乱した時に、複雑なシステムの場合に、そういう致命的な見落としというのが、いくつか起こってくるんですよね。ですから想定外では済まされないような準備不足というのが致命的だった、ということですね。
 
山田:  そういうふうに科学技術の粋を集めて作られたような中でも、そういうことが起こってきているという中に、安全を確保していくという視点を向けるとしたら、それはどういうことだというふうに思いますか。
 
柳田:  これは原発に限らず、すべての巨大システムの安全性の原則なんですけれど、「多重性」と「多様性」というものが必要だ、と言われているんです。「多重」というのは、バックアップとして必ず一つ二つとある、という。だから電源で言えば、外部から来る強力な多量の電源が、停電でなくなった。そうすると取り敢えず自分のところでジーゼル発電機で賄おうという時に、一台だと、それが壊れたらもうアウトになるから、二台作りましょう、と。これ「多重性」と言うんですね。ところが「多様性」というのは、一台が水被っても、一台は絶対被らないところへ置いておくとかですね、そういう配慮というものがなかった。多重性は確かにあった。しかし多様性がなかった。それから電源盤というのは、これは予備を作るような簡単なものではなくて、巨大なものですから、それ一つしかないんですから、多重も多様もなくて、それを絶対的に守る水密性が必要になってくるんですが、それがなかったんですね。こういうふうに起こってみると、逆に見てみると、落とし穴がいっぱいあった、というのが見えてくる。これは「失敗学」を提唱している畑村洋太郎(はたむらようたろう)(工学者、工学博士。工学院大学グローバルエンジニア学部、機械創造工学科教授。東京大学名誉教授。専門は失敗学、創造的設計論、知能化加工学、ナノ・マイクロ加工学。 最近では、ものづくりの領域に留まらず、経営分野における「失敗学」などにその研究を広げている:1941-)先生なんかは頻りにそのことをいうわけですね。つまり失敗の原因というのを調べると、そういう逆算の視点に欠けているということ.それからもう一つ、事故調査・検証委員会が中間報告で、一つ指摘したのは、システムの全体像を見る視点が欠けていた。万一事故が起こった時に、現地対策本部というのが非常に重要になってきます。これは専門家が集まって、事態の情報を収集し、そして発信していく。そこが機能しなくなったら、現地は右往左往することになってしまう。それを「オフサイトセンター」(緊急事態応急対策拠点施設)と名づけていますけれど、「オフサイトセンター」というのが、なんと原発プラントの側に作ったんですね。側というのは五キロなんですけど。原発が故障して放射能を撒き散らす時には、五キロなんていうのは、もっとも濃度が濃くなる虞(おそれ)のあるところですね。そういうところに原発事故の対策本部を作った時に、先ずそこに近づくのも危険、中にいることも危険だ、と言います。じゃ、せめて中に居て、仕事できるためには、放射能が降ってきても、ちゃんとシェルターになっていないといけないんですね。ところがシェルター装置も何も付けていないんですね。もう普通の建物でしかないです。この盲点は、システムの全体を見た時にすぐに見つかるんです。万一事故が起こった時に働く場所でしょう。そういう時に働けなくなるような場所ではいけないでしょう。放射能に対して遮蔽されていなければいけないでしょう。全部できていないじゃないですか、と、こういうふうに見えてくるわけです。先ほど言ったモニタリングポストでもそうです。いざという時に、それではできないですよね。生命や健康というのはどんなことがあっても護られますか、という目で見る。これがシステム全体を見る目です。それが欠けていた、ということが、もう少し調べただけでも歴然と見えてくるんですね。
 

ナレーター: 福島原発事故から一年、未だに問題の全貌が見えないのが、被災者一人ひとりに対する事故の影響です。去年柳田さんは、原発事故を科学的に検証した本と共に、もう一冊の本を出版致しました。柳田さんの取材の根底にいつもあった、一人ひとりのいのちへの思い、その軌跡を纏めたものです。生と死を見詰める眼差しは、幼い時の体験から生まれたものでした。
 

 
柳田:  私は、栃木県の鹿沼(かぬま)という小さな田舎町でしたけれど、そこも空襲を受けました。そしてB―29の大空襲、大編隊が、その低く垂れ込めた雲の中、轟々と過ぎて行くと、満天の花火という感じで、焼夷弾が降ってくるわけですよ。空一面ギラギラと輝くようにして、焼夷弾が降ってくるんですね。それを防空壕から覗き見た時に、もう震い上がって、ダメだと思いましたね。近所では、また別の日に戦闘機による機銃掃射によって娘さんが打ち抜かれて即死したとか、そういう恐怖体験というのをしていたその後、兄が亡くなり、そして父が亡くなったんです。兄は仙台の高等工業学校に行っていて、そして仙台空襲で寄宿舎が直撃弾を受けて逃げ惑って、それがもとで病気になって、半年後に亡くなった。それからそれを悲嘆にくれた父が、かねて結核で自宅療養していたんですが、追うようにして亡くなったんですね。これは小学校の三年か四年に掛けての体験ですけれど―九歳か十歳頃ですね―なんか自分の身体の中に染み付いたこの人間の命や死という問題、
 
山田:  人間の命というのは、簡単に失われてしまうんだ、という思いですか。何が染み付いたんでしょうか。
 
柳田:  簡単に失われるというよりも、何か掛け替えのないもの、肉親の死というものがもたらす、残された者の心の刻まれるものですね。それはプラスとマイナス両方ありましてね、非常に兄や父が亡くなったということは、少年時代の私にとっては大きなトラウマ(心的外傷:外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す)になりましたですよ。しかし一方では、父が結核を患い自宅療養して静かに臥していましたけれど、亡くなる時に自分の死期を覚って、家族全員を呼んで、静かに一人ひとりに言葉を掛け、そして僕に対しては一番末っ子だったものですから、静かに手を握って見詰めて、「健康が第一だからな」というふうに言ったんですね。それから一時間ほどして静かに眠るように意識を失っていって、看取ったわけです。母が非常に動転もしないで、口を死に水を取る。それを教えてくれて、子どもたち兄弟みな次々に、父の唇に脱脂綿で水を含ませて別れをした、という。その静けさ。何か障子か襖を開けて隣の部屋にスッと行くような、そんな形で父が旅立って逝った、という。それは私にとっては精神的な財産になった、と言ってもいいんですね。人生何十年と生きてきて、振り返って見ると、そこに自分の死生観の原点があるなとか、それからその後職業的にものを書く仕事、あるいは報道する仕事、そういうものに就くことになったのも、原点はそこにあるような気がするんですね。人間の命を危機に陥れるもの、そういうものに対して、非常に敏感に自分が反応する。高校一年になった時に、ちょうど日本が、占領期が終わって、進駐軍による検閲がなくなって原爆報道が自由になったんですね。八月六日に、当時「朝日グラフ」が原爆被爆の特集号を組んで、それを読みましてね、もの凄いショックを受けましたですね。戦争、特に核戦争というものがもたらすものの悲惨。目を開かされたというのか、私のこの社会意識なり、戦争に対する感覚外のもう一つの原点になったような気がしますね。そして大学を出て、NHKの記者になったんですね。記者になって、最初の赴任先が広島だったんですよ。広島に行って、間もなく出会ったのが、佐々木禎子(ささきさだこ)さんという少女の死なんですね。折り鶴の塔が広島の平和公園に建てられていますけれど、禎子さんという幼い頃被爆して、そして白血病になって亡くなったわけですけれど、その死を悼んで、いろんな募金活動をして、こんなことは二度と繰り返さないように、ということで、その折り鶴の塔ができたわけですね。その禎子さんのことを書いた手記が英訳されて、アメリカでも読まれるようになったという、そういう出来事があったんですね。そういうことを知ったことが、広島へ行って非常に印象に残っている最初のことでしたけれどね。広島原爆病院とか、広島大学の原爆放射能医学研究所とか、いろんな形で被爆者の医療や研究についてやっている先生方から教えを受けたり、あるいは患者さんと出会ったりとか、あるいは被爆者と親交を得たりして、たくさんの人と出会ったこと、これが社会人となり、記者となって、ジャーナリストとなって、最初の決定的な方向付けだった、と思うんですね。
 

 
ナレーター: 広島から東京に移った後、柳田さんは、災害担当の記者として、連続航空機事故を取材します。一九七一年一連の取材を纏めたルポルタージュ『マッハの恐怖』を発表。科学が万能だと信じられた時代の中で、人間の命を脅かす先端技術の危うさに目を向けました。その後七四年に作家として独立。科学技術と人間の命をテーマとする作品を次々に著します。癌治療の取材では、最前線の医療技術と、その陰で揺れる一人ひとりの患者の命を綴りました。さらに一九七九年に、アメリカ・スリーマイル島で起こった世界初の原発事故の際には、コンピューター制御の落とし穴を描き、これまでの災害とはまったく異なる原発事故の恐ろしさを伝えました。ノンフィクション作家として二十年のキャリアを重ねた一九九三年、柳田さんは、命に対するそれまでの考え方を大きく変える出来事に直面します。息子洋二郎さんが二十五歳で自ら命を絶ったのです。柳田さん、五十七歳の時でした。柳田さんは、脳死状態の洋二郎さんと共に過ごした十一日間の出来事と心の動きを克明に記録、二年後一冊の本に纏めました。
 

 
柳田:  やっぱり自分の息子をそういう形に追いやってしまった。多分に親としてのずっと生育歴以来のさまざまな責任があっただろうなと思うんですね。そういう無念を思い、あるいは自分を責める思いというのはもの凄く強いですね。もう息子が亡くなって二十年近く経ちますけど、昨日のことのように鮮やかにそれはいつも生きています。もう一つは、脳死状態になって救命センターで十一日間ベッドサイドで過ごしたんですが、その時に際限なく息子と会話をしたんですよ。これは第三者からみると、脳死状態の息子さんと、どうして会話ができるのかなと思うかも知れないけれど、しかし人生を分かち合った父親としては、息子のそれまでの二十五年の歴史の中で、いろんなことが起こり、いろんな会話をし、いろんなぶっつかりあいもあった。そういうものの流れの中で、さまざまなこと、逆に息子が問い掛けてくる。無言の問い掛け。例えば、親父は作家だ、なんて言っているけど、ほんとに人の心の奥まで見ているのか、とかですね、自分の息子のこと、どこまでわかっていたのかとか、もう厳しい問い掛けをじりじりと突き詰めてくる、攻め寄ってくるような感じで問われる。目の前に息子が人工呼吸器を借りて呼吸をしている。心臓が動いている。その身体から、そういうものが伝わってくるんですね。これは身体が亡くなった後とはまったく違うそこに場がある。状況がある。これは体験した人じゃないとわからないと思います。法律的に言えば、あるいは医学的に言えば、脳死は人の死、つまり目の前にあるのは死体である、ということになるんですけど、しかし血を分かち合った親の目で見ると、死体じゃないですよね。その身体が肉体的に何かができる身体じゃない。もう動くこともない身体であるだけに、精神性、無言の問い掛けはもの凄い強力なものがあります。インパクトがあります。まるで目に見えない磁場のようなものを持っていて、その中にこちらをぐいぐいと引き付けていく。そういう凄さがありましたですね。その経験というのは、その後私にとってもの凄く人の命や肉体についての考え方を変えました。
 
山田:  どういうふうにでしょうか?
 
柳田:  それは、例えば同じように、遺体に取り縋って泣く家族の姿を見た時に、やっぱりその状況じゃなければ感じというものはわからない。あるいは不条理な死、津波で遺体が見つかったその時に、おそらくそのご家族は、その遺体ともの凄い会話をしていると思います。そういう精神性の深い会話、それがまして遺体が見つからないような犠牲者、行方不明になって未だに見つからないような残された家族にとっては、また別の心の深い闇が、そういう極めて不条理な死というものに直面した人の中で起こっているんだ、ということ、そのことがわかるようになる。中身はわからないけど、他者には想像付かないようなことが、その人の心の中で起こっている。そういう人間の精神性の営み深みというのがあるんだ、ということを気が付いたのは、やっぱり息子の死ですね。
 
山田:  一年経ちましたけれども、まだその原発の放射能のことなんかは、どうなっていくかがわからない部分もあったりという状態が続いているわけですけど、私たち一人ひとりはそういうことにどう関わりながらこれから生きていけばいいというふうに思いになりますでしょうか。
 
柳田:  やっぱり事故や災害を見る場合に、被害の規模ということが大変問題になるわけですけれど、その規模というのは、数字ではないんですよね。例えば「死者・行方不明者二万人近く」と言った時に、そういう数字ではなくて、一人にとってはすべてなんですよ。一人の人が津波で亡くなる。あるいは一つの家族が津波で破壊される。あるいは一つの家族が放射能の影響でばらばらに住めなくなるとか、家族の崩壊が起こるとかですね、そういう問題を一つひとつみんな別々の個性を持っているんですね。ですから二万人が犠牲になった災害ではなくて、一人が犠牲になり、あるいは一つの家族が犠牲になった、そういう災害が、二万件同時に起きたと考えれば、ほんとの実態が見えてくるんですね。現場に立ち、被災者の声を聞く耳というのは、そこにあるんですね。実態というのは、どんな特殊であろうと、一人の人の経験をしっかり聞く、耳を傾ける。それによって何が起こったかというものの実像が見えてくる。そしてそれをBという人、Cという人、Dという人という、一人ひとりの物語に耳を傾けると、実に壮絶な被害の実相というものが浮かび上がってくる。その視点がとても大事なんですね。あちこちで地域のコミュニティFM局ができて、そしてその地域の被害状況や支援状況について、いろいろとアナウンスしていましたよね。その中で伊勢真一(いせしんいち)監督という小児癌の子どもさんなんかのドキュメンタリーを作った映画監督が、今度震災直後からずっと亘理町(わたりちょう)(宮城県)に入ってカメラを据えて、「傍(かたわら)」という、つまりあなたの傍(そば)に誰がいますか、という意味での「傍」という一文字をタイトルにした映画を作ったんですね。試写会に行って、私、見たんですけれど、そのFM局で毎日のように亡くなった人、あるいは新しく確認された人、そういう人の名前を読み上げるんです。そのマイクの前に立って口元だけをアップにして、ゆっくりと名前を二度読み、そして年齢を言うんですね。それをクローズアップで映画で見ている時に、私は震えるような思いをしました。名前ってこんなに凄い意味をもっているのかな、と。例えば、ある女性の名前があり、「十八歳」なんていうと、その若き乙女が十八歳にして、津波で命を失ったのか、どんな家族の悲しみがあるだろうかとか、あるいは「五歳」なんて名前が出ると、その名前に対する愛しさなり、その五歳の女の子の顔なり、なんなりが想像しただけで凄い震えるような悲しみが襲ってくるんですね。
 

 
(映画「傍」の場面から)
 
アナウンサー:やち、やち、すずきりょうすけさん、すずきりょうすけさん、87歳。やち、、すずきよしのさん、すずきよしのさん、83歳。やち、かたおかかずえさん、かたおかかずえさん、93歳。よしだはまみなみ、ひらまあやかさん、ひらまあやかさん、16歳。よしだはまみなみ、すずきあきこさん、すずきあきこさん、83歳。
 

 
柳田:  名前に象徴されるその人の人生の物語、あるいはさまざまな家族関係や生まれ育った土地の関係や、あるいは知り合いとの関係や、そういうもの全体を、その名前という固有名詞が背負っているんですよね。だから災害というものを見る時に、あるいは事故というものを見る時に、その犠牲になった人の名前というものは、ほんとに大事だなって。それは単なる人数確認のためのものではない。そこに壮絶な物語が込められているんだってね。その視点が、いやというほど気付かされましたですね。
 
山田:  これからまた被災地にたびたびいらっしゃることになるわけですか。
 
柳田:  ええ。これからますます行かなければいけないし、やっぱり難しいのは、放射能の長期に亘る影響ですね。これはあらゆる事故や災害の中でも、原発事故災害というもののもつ特殊性ですよね。長期に亘り自分たちが住んでいたところが汚染され、その除染が極めて困難であるということですね。やっぱりそういう土地で生きてきた人にとっては、故郷を失ったに等しいわけで、故郷というのは、人間が生きていく上でもの凄く精神的に重要なんですよね。普段はそんなこと考えないで生きているわけですけど、なんか事があったり、あるいは人生が終末に近づいたりすると、故郷というのはとても大事だったり、あるいはしっかりと故郷に良い思いがあると、なんか人生いろいろ紆余曲折があっても、何か帰るところがあるみたいな安心感に繋がる。しかしそれが放射能汚染や、あるいは津波災害の危険やで戻れない時にどうすればいいのか。やっぱりそれは百年後考えて生きるということではないかと思うんです。百年経った時に、自分たちの子孫が、よくぞ自分たちのおじいちゃんおばあちゃんは思い切ってここに新しい天地を開いてくれたね、って。お陰でそこが新しい故郷として、次の時代へ生きる自分たちにとって、良い場所になった、そういう精神的、また大地の財産というものを残せるような生き方、それが故郷を失っても尚かつ再生できる人生観であり、社会観であり、国づくりかなというふうに思うんですよね。
 
山田:  柳田さんが、今命というものをどういうふうに捉えておられるのか、そこを少しお話して頂きたいと思うんですけれども。
 
柳田:  これは癌で自らの死期が近づいたとか、あるいは大事な人を失ったとか、そういう場合とかなり共通する問題もあるんですけれど、例えば津波で家や家族を失った、街を失った、あるいは原発で辺鄙なところ、遠いところへ避難を余儀なくされた、そのすべてに共通して聞かれる言葉、それは「如何に平凡な日常、そういう日常を生きているということが如何に貴重であり、大切であるか」という言葉ですね。平凡であろうが、起伏があろうが、「今生きているということ」これが命の本質だろうと思うんですね。ですから命というものを、もっと時間軸の中で捉えると、「今」という時点が先ず基本にあるんだけれど、その命はずっと続くということ、続かなければいけないということ、そして死後もなお精神性の側面の命というものは、残された人、人生を分かち合った家族とか、親友とか、そういう心の中で生き続けるということですよね。そういう連続性をもっている。しかしその「瞬間瞬間が命なんだ」ということを考える時に、遊ぶことも大事な命だし、苦しむことも大事な命だし、辛くて、悲しくて、もうほんとに死にたいような気持になっている時も、それは命の営みだと考えると、なんとかここで死なずに頑張ろう、と。生き抜こうという気持にも繋がっていくんではないかな、と思うんですよね。
 

ナレーター: 今年二月、柳田さんは、津波の被害の大きかった宮城県を訪ねました。迎えてくれたのは、地元の医師・岡部健(おかべたけし)さんでした。岡部さんは、もともと大学で外科医として最先端医療に携わってきましたが、十五年前からこの地域で癌患者の在宅医療を行っています。岡部さんは、柳田さんが癌医療の取材をして以来の知人です。震災後、宗教者と共に被災者の心のケアに当たる岡部さんと現地に向かいました。
 

岡部: この辺目印にしていたものも全部無くなっちゃっているから、何だかさっぱりわからない、
 

 
ナレーター: 柳田さんは、一人ひとりが災害とどう向き合ったのか。現場で見詰めたいと考えていました。
 

 
岡部: ここが阿武隈川(あぶくまがわ)なんですけどね。阿武隈川をずっと上がっていったやつ(津波)が、そこに亘理(わたり)大橋という橋があって、そこで乗り越えちゃったんです。だからこの辺は両方の合流点になっちゃったところで、こういう波が両方で向こう側に向かったんですね。
 

 
ナレーター: 宮城県亘理町(わたりちょう)、岡部さんは、ここで共に働いていた看護師の一人を亡くしました。四十三歳だった遊佐郁(ゆさかおる)さんです。遊佐さんは、寝た切りの女性患者の家に向かう途中、地震に遭いました。家に到着し、患者を二階に押し上げた直後、津波に飲み込まれたのです。
 

 
岡部: これだったと思うんだけど、何て目印が無くなっちゃったんで、この一角ですね。それで看護師さんはもう流されてしまったですね。結局ずっと見つからなかったんですけど、結局流されて。ここの隣町の角田(かくだ)というところに遺体安置所があって、もしかしたらというんで、そこの遺体安置所を見させて貰ったら、そこに安置されてあったんです。
 
柳田:  往診している患者さんで、やはり津波に飲み込まれた方もけっこうおられたんじゃないですか。
 
岡部: この上で一回津波越えているんですね。そこのところ、そこの家は、うちから往診に行っていたんで、その患者さんがこの地域でも亡くなられたんです。お子さん一人残して、あとみなさん亡くなられちゃったんで、あの子どうするのかな、これから、というんで、みんなで、
 
柳田:  おいくつぐらい?
 
岡部: 小学生だね、一人残っちゃって。学校に行っていて助かったのかな。私なんかも宗教者と一緒にお付き合いしていたら、宗教者というのは、神様とか仏さまにあずけることができるんだ。あずけられる、って、なんてすごいことなんだろうと。なんか重みを、こうやって自分であずからないで、こうやってす〜っと頂いて、こっちへ、神様仏さまの方にパッとあずけちゃうと。
 
柳田:  岡部さんがおっしゃっていたことも、荷物が重すぎて、もう堪えられないぐらい重い時に、それで一人で頑張らないで、「こんなに重い荷物持てないよ」と言うんで、神様でも仏さまでも、とにかく受け取ってやって!ということでね、あずけちゃう。そういう意味のことをおっしゃってこられているんですよね。
 
岡部: あずかってくれる何か大きなものがなかったら、人類って生き延びられなかったんですね、きっと。
 
柳田:  今の現代社会なんていうのは、いろんな意味で、鎧兜で人間は自分を護っているようなことなんだけれども、もっと大昔原始社会の中では、何も守るものがないわけですからね。そういう時に何か手を差し伸べてくれたり、受け止めてくれたりする。そういう声というのは、宗教が一番最初なんじゃないのかなと思うんですけどね。
 
     これは、平成二十四年三月十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである