ありがとう、すみません、お元気で≠ナ生きる
 
                    妙心寺住職 河 野(こうの)  太 通(たいつう)
一九三〇年、大分県に生まれ。一九四八年、中津市の松巖寺で出家。一九五三年、花園大学仏教学科卒業、祥福寺僧堂で修行、山田無文老師に師事。禅文化研究所所員、花園大学非常勤講師、松巖寺住職を歴任し、一九七七年、祥福寺専門僧堂師家、一九九四年、花園大学学長に就任。二〇〇四年、龍門寺住職に就任、二〇一〇年、臨済宗妙心寺派管長、全日本仏教会会長に就任。著書に『独坐大雄峰』『白隠禅師坐禅和讃を読む』『親子でする坐禅と呼吸法』『〈無常のいのち〉を生きる』ほか。
                    き き て 中 川   緑
 
ナレーター:  京都市右京区にある妙心寺(みょうしんじ)。建武(けんむ)四年(1337年)に開かれた七百年近い歴史をもつ古刹(こさつ)です。現在住職を務める河野太通さん、八十二歳。平成二十二年からは全日本仏教会の会長も務めています。河野さんは、寺の生まれではないものの、若くして仏門に入りました。そして今、機会がある毎に仏道に立脚した人の生き方、人類のあり方を人々に提唱しています。河野さんの説く人間が生きていくうえで根本的な心得とは、「感謝・懺悔(ざんげ)・報恩」それを日常の言葉で表すと「ありがとう・すみません・お元気で」になると言います。今回の「こころの時代」は、妙心寺住職の河野太通さんに、六十年あまりにわたって仏道を歩んで見えてきた心の世界を聞きます。
 

 
中川:  若くして仏門に入られましたけれども、最初のきっかけが人間不信だったというふうに伺っているんですけど、どういうことなんでしょう?
 
河野:  そうですね。私たちは、旧制中学の時に、学徒勤労動員で、軍事工場に働きに行っておって、それで終戦になって、再び就学に帰るんですけどね。その時には私たちの世代というのは、大体大凡の者がそうだったと思いますけど、純真な軍国少年になっておったんですね。そして国家のために命を捧げるということが、私たちの大体の者の生き甲斐だったですね。
中川:  信じて疑わなかった?
 
河野:  疑わなかったね。そして私が生まれた明(あ)くる年に満州事変というのが始まっているんですね。それから日中戦争になりますが、そして約十五年―十五年戦争と言われるその戦争が終わった時が、今申しました旧制中学の四年生の八月ですね。十五年間、生まれてからずっと日本は戦争しておった。ですから国家というのはいつも戦争しておるものだろうと思っていたんですね。それでその中で軍国主義教育を―今から思うと受けたわけですが、純真な軍国少年になって、そして英語の先生が、「これからは日本がもし勝ったら英国人もアメリカ人も日本語をしゃべるようになる」というようなことをいうものですからね。ですから英語の勉強というものは、あまり身が入らなくなっちゃったですね。そんなことで終戦を迎えるんですが、再び学校に行って授業が始まる。そうすると、そう言った同じ英語の先生が、「君たちを教育してきたのは軍国主義教育で、それは間違っておった」その時に自分たちがそういう主義で教育されておった、ということを初めて知るわけですね。「それ間違っていたんで、これからは民主主義だ」と。「government of the people, by the people, for the people」と。「and the God」というのは言ってくれなかったですけどね。
 
中川:  「神の元で」とは言わなかったんですね。「人民の人民による人民のための政治」というリンカーンの言葉で。
 
河野:  「そういうことだから、大いに英語を勉強してもらわなければいけない。そして民主主義を勉強してもらわなければならないんだ」ということを、その先生がおっしゃったんで、私たちは、この先生の言うことは信用ならんなと。それまでは英語なんか勉強せんでもアメリカ人も日本が勝ったら日本語をしゃべるようになるというようなことを言っておった先生が、「これからは英語を勉強していかなければならん。君たちの教育しておった軍国主義というのは間違いであって、これからは民主主義だ」というものですからね。ですからこの先生がそういうんだから、ひょっとすると何年か経つと、また今度はその民主主義は間違いだったと言うんじゃなかろうかということで、先生というものはあまり信用できなくなったですね。
 
中川:  つまり絶対的なものだと思って信じていたことが、「いや、違うんだよ。あれはたまたまこういう時代だったんで」と言われたら、今度また変わるかも知れないという。
 
河野:  そうですね。変わった時に、今度は慌てぬように勉強しておかなければいけないというわけで、私なんかが思ったのは、自分が選んで軍国主義の教育を受けたわけではない。ただ生きた時代が軍国主義教育の時代だったから、当然受けたわけですね。そして軍国主義は間違っておって、民主主義がいいんだからと言って、民主主義教育に自分が身を投じたわけではない。自分が所属しておった国家が崩壊することによって民主主義を選ばなければならんことになったわけですね。そうしますと、自分の置かれている社会が変動する度に、その変動する社会の論理に自分を合わせていかなければならんということは、そういうのは本当の自分の生き方じゃないじゃないかと。自分の生き方じゃない、ということから、そうじゃなしに人間として、これが正しいという生き方が、どんな社会が来ようと―共産主義社会であろうが、軍国主義社会であろうが、社会主義社会であろうが、変わらない真実の人間の生き方というものがあるんじゃないのかと。それがあれば、その生き方をしていけば、どんなに周りが変動しても、自分は正しい生き方ができる筈だ、というわけで、そういうものを漠然と求めるようになったんですね。それでそういうことが、私の場合は仏の教え―仏教に辿り着いた、ということですね。
 
中川:  ぶれない生き方を、つまり時代が変わっても、人としての本当の生き方を求めるということで入られたわけですけれども、入られた仏教界が、でも太平洋戦争の時にはぶれていたわけですよね。その辺をどういうふうに捉えていらっしゃいますか。
 
河野:  そういうことは最初知らなかったんですね。そんなことは知らずに禅寺に入って、そして小僧生活をやって―私が禅寺に入ったのは、新制高校の三年になって入ったんですよ、三年の時にね。そして当然新制高校三年に編入されて、一年を終えたら卒業で、上級学校―大学に行くことになりますね。ところが寺は貧乏につきですね、普通の学校にはやれないから、この宗門の仏教系の学校―花園(はなぞの)大学というんですが、それなら月謝が安いから行ってもいいというんでね。勿論私は仏教の勉強をしたかったしね、それならばというわけで京都へ出て来るんですけどね。そして京都に出て来て、それから夏休みにお寺のお手伝いに帰るでしょう。帰った時に、同じ周辺のお寺の坊さんたちがお手伝いに来ますね。その時に、あるお坊さんに、信者さんが、「隊長」と呼び掛けるんですね。「隊長、隊長」と呼び掛けたんですよ。それで和尚さんに、「隊長」というのはどういうことかな、と思ったら、兵隊さんに行っていたんですね。兵隊さんに行っていて、その時に部下になっていた檀家の方が、終戦になって、もう軍隊がなくなっているんだけれども、相変わらず昔の慣わしで「隊長、隊長」と呼んでいたんですよ。その時に、私は初めて坊さんという者が、戦争中に鉄砲担いで戦地に赴いたということを、私はその時初めて知るわけですね。それで自分が求めた仏教というものが、やっぱりそういうものであるということに非常にショックを覚えたですね。それで戦に負けて、国家が崩壊したでしょう。崩壊する時の兵役に坊さんも加わっておったということね。これどういうことかということを大変ショックを受けて思ったんですね。それでそれが正しい仏教の、仏教教団のあり方ならば、私はその教団からは去らなければならん。しかし花園大学へ来て仏教を勉強する間に、それは仏教教団の方が間違っておった。本当の仏の教えというものはそうでない、ということを当然知るわけですね。そうしたら教団が間違っておった、ということを懺悔表明をして貰わなければならんという、そういう思いになったんですね。だから私が教団を去るんではなくて、教団の方が、「あれは間違いだった」という表明をして貰いたい、という思いをするようになったんですね。それが後々未だに響いておりますけどね。
 
中川:  つまり声をあげられたわけですね。
 
河野:  そういうことで、すぐそういうことは言ってはおりましたけれども、一介の学生やそれから学生を卒業して、一介の道場に入った雲水がそれ言っておっても、人が聞いてくれるわけじゃないですね。ですから私は、本当に坊さんになるという覚悟をその当時決めておったわけじゃないですね。半信半疑で雲水修行をやっておったですね。
 
中川:  「半信半疑」というのは、ほんとにこの道で自分はいいのか、ということですか?
 
河野:  そうですね。自分がほんとに坊さんの道でやっていけるのかどうか、ということを思いながらおったんですけどね。しかし大学で学んだ時に、いい先生に出会っておったんで、その先生が、「当時の仏教教団の方が間違っておったと。間違っておったんだということをさかんに我々に講義もしてくださっておったんで、だから一挙に辞めるというようなことには至らなかったんですね。
 
 
ナレーター:  この時の先生こそが、昭和の日本を代表する禅僧の一人、山田無文(やまだむもん)(1900-1988)さんです。河野さんは、山田さんを師と仰ぎ、僧侶になる決心をします。禅の道を究めるための厳しい修行をつむ毎日が始まりました。師と仰ぐ山田さんが始めた、戦争への懺悔―戦地での遺骨収集の旅にもお供することになるのです。
 

 
河野:  私の師匠が、山田無文というんですけれども、師匠に付いて終戦後現地に遺骨収集に行くことと、それからあちらでもってお父さんやお兄さんを亡くしたという遺族の方を一緒に伴いましてね、そして亡くなった場所でもって御回向するというようなことを、昭和四十五年から毎年やっておったんですね。それ行っていることで現地の人たちと知り合いになる、仲良しになる。その中で生活に困っている、教育に困っているというようなことに出っくわしますね。そういったことが機縁になって、そういうことをしておったところにですね、カンボジアのポルポト政権の問題が起こってくるんですね。今度はそこで出掛けていくということになったわけですね。
 

 
ナレーター:  河野さんは、カンボジアの内戦で多くの人たちが難民となったのを契機に、アジアの友を支援しようと、僧侶たちに呼び掛けました。それが後に、難民を救援する団体の設立に繋がるのです。
 

 
河野:  その時に、私は、神戸の祥福寺(しょうふくじ)という僧堂の雲水を二十人ばかり預かっておる道場の主をやっておったんですが、毎日報道されてくる新聞を見ますと、大変なことがカンボジアで起こっているんだ、ということを知りましてね、そして難民が国境を越えて約七十万人ほどタイ国に流出した。そして坊さんたちは衣(ころも)を脱がされる。それに抵抗する者は射殺される。そして殺された人が沼池の中に投げ込まれておる。手足が突き出た写真が新聞紙上にも出ておりましたね。それを見て、これは大変な事になっているんだ、と。そしてしかもカンボジアは、人口の八十五パーセントかな、仏教徒ですよね。そして一番近くの豊かな国である日本の仏教徒が、何にもせずにこの大変なことになっているのを見過ごしておるわけにはいかんじゃないかと。こういうことで、私は、「カンボジア難民救援」という幟(のぼり)を立てて、雲水たちと一緒に神戸の街を托鉢したんですね。それでこの資金を集めまして、その資金を神戸新聞の事業部に「使ってください」ということで献金しておったんです。何遍もやっておったら、ただお金を集めるだけでは満足できなくなりましてね。それでちょうど全日本仏教会の青年部の方と知り合いがありまして、その青年部の人たちの案内で、それでタイ国の国境辺に、もう既に大きなキャンプができておりましたが、そこのカオイダン・キャンプとサケオ・キャンプという二つのキャンプに雲水五人と、それから有志の方五、六人連れて、十人ばかりでキャンプを訪れたりしたんですね。いろいろな救援物資―医薬品なんかがほとんどでしたけどね、そういうのを持って訪れたりしましてね。そんなことから、一過的であってはいかんというわけで、帰って来てから、それで「RACK(ラック)(Relief, Assist, Comfort, Kindness)」―これは仏教でいう「慈悲喜捨(じひきしゃ)」という―「四無量心(しむりょうしん)」というんですけれども、この心の実践ということで、それでそういうグループを組織しまして、それでそれをずっと続けて今だにやっているということですね。
 

 
ナレーター:  河野さんが組織した救援団体の名前「RACK(ラック)」は、苦痛を取り除くことを意味する「Relief」、人を助ける「Assist」、心の安らぎ「Comfort」、思いやりを現す「Kindness」という、四つの英語の頭文字を並べたもので、仏教の「四無量心」即ち限りない利他の心―慈悲喜捨を現しています。アジアの恵まれない人々の自立を支援し、社会のさまざまな問題へ積極的に参加することで、個人と社会の精神的な豊かさの実現を目指しているのです。
 

 
中川:  現地にも行かれて、いろいろな活動をなさっていらっしゃるということで、具体的にはどういったことをされるんですか。
 
河野:  具体的には、スリランカの孤児―孤児院の教育支援ですね。常に住民の争いが絶えない。そこで孤児ができるんですね。その孤児たちを収容しているのが、これが向こうの坊さんがやっている財団なんですけど、そこに大きな孤児院がありまして、約三百人ぐらいの孤児を収容していますけどね。そこの孤児院の支援ですね、教育支援をやっていること。それからカンボジアでは、子ども図書館ですね、図書館の活動をやっておりますね。自分の仏道というか、仏教僧としての生き方として、じっと何にもせずにいるということは芳しいことではないと。やっぱりそういった問題に関わっていくということが、自分の仏道の生き方である、というような思いでしたね。そして同じ思いをする人たちとグループを組んで、そして仕事ができれば、それは一つの日本仏教の活性化にも繋がるんではないか、というような思いですね。
 
中川:  活動も長くなってきたと思うんですが、活動を通して発見されたこととか、感じられたことって、どんなことですか?
 
河野:  そうですね。どこの国も、人間というのは、究極的にはみんな同じ心の持ち主である、ということですね。そしてどんなに貧しくても、むしろ物質的に貧しい人たちの方が、心が豊かなんじゃないか、というような感じも受けますね。そして特に日本の場合は、かつて日本は、欲望にとかくどうしても流されてしまう自分というものを見つめ、そして自分を磨き、自分を充実したものにしていこう、というような思いが社会的にあったですよね。今だってあると思いますけどね、今はそれよりも物質的に、経済的な豊かさというものを、どうしても追求してしまって、自己自身を磨くとか、充実するとかというようなことには、大変おろそかな社会になってしまったな、ということを救援先の人々に接して思うんですね。
 
中川:  逆に見えてくるということですかね。
 
河野:  そうです。
 

 
ナレーター:  去年起こった東日本大震災。河野さんは、いち早く行動を起こしました。犠牲者を弔う四十九日法要の日には、全国の寺院に復興への願いを現すため、一斉に鐘を撞くように呼び掛けました。その背景には、河野さん自身も被災した阪神淡路大震災での体験があります。平成七年一月十七日、六千四百人を越える死者を出したこの地震が起こった時、河野さんは、神戸市兵庫区にある祥福寺で修行僧を指導していました。
 

 
中川:  阪神淡路大震災の時は、神戸のお寺にいらっしゃいましたけれども、その時はどういう状況でしたか?
 
河野:  勿論大いに揺れて、ちょうどその日は、一月十七日は、私は、朝七時から雲水たちに『臨済録(りんざいろく)』の講義をする日になっていまして、それで私は食事が済んだのが五時半ぐらいだったかな、そしてそのテキストを開きまして、準備をし出したところでしたね。そうしたら地震になりまして、電気が消える。それで私の記憶では、沖合から何百羽というような鳥が飛んでくるようなざわめき―ざぁっというざわめきを聞いたんですね。
 
中川:  海の近くですか、お寺は?
 
河野:  いや、海の近くではないんですけれどもね。山間なんですけどね。神戸というところは細長い街で、どこにおっても海が近いですね。そういう音を聞きましてね、何かなと思って、私は外を見たんだけど、窓ガラスの外は真っ暗気だったですね。そうしたらもうすぐ揺れだしたんですね。大変な揺れ。上下振動もありましてね。それでこれは潰れるかなと思ったんですけど、潰れずに、棚の物が落ち、積んであるものがひっくり返って、私の腰まで本や何やで埋まっちゃったんですけどね。そんなことがあったんです。
 
中川:  お怪我はなかったんですか?
 
河野:  怪我はしませんでしたね。そうしたら雲水が、「山門が倒れました」と言って、報告があったんですね。それよりも雲水たちに誰か怪我があったら大変だと思ってね、雲水たちに日頃は防火訓練と言って鉄兜があるものですから、それをみんな被せて、みんな建物の外に出て貰ったんですね。
 
中川:  全員ご無事で?
 
河野:  ええ。それで漸く夜が白けかけた頃外に出ましてね、それで辺りを見回しましたら、山門が倒れており、そして裏の塔が倒れたら大変だなと思ったけど、塔はちゃんと屹立しておったんで、有り難いと思って、私は合唱したですね。それで山間ですから、山の中腹ですから、そこから街の方を見ましたら、黒煙が―どうしてかな?あの時数を数えたんですけどね、七カ所から黒煙が上がっていましてね。そしてその黒煙の元に橙色の火が見えたですね。火事になっているんですね。これは何か大変なことになったなと思って。ですけどね、その時普通ですと、救急車の走るサイレンの音が聞こえるとか、消防自動車の走る音が聞こえるとか、空にはヘリコプターが飛ぶとかということなんですけどね、その時にはまったく車も走らなければ、ヘリコプターも飛ばない、寂然として声無し。まるでテレビの画面を消音にして見るような感じでしたね。
 
中川:  音がない。
 
河野:  音がなかったですね。何の音もなかった。その音がない中に、七カ所から黒煙が上がってね、橙色の火が下に燃えているんですね。これは何か大変なことになっていると、そういうことでしたね。それから近所の人が、一番最初に、「人が生き埋めになっているから助けてください」ということをおっしゃって来る人がおったんで、助けに出す。それから灘区の方で、知り合いの私の後輩の者が、「一家生き埋めになっているから助けてくれ」と、それでみんなそういう救援に出したんですけどね。それからだんだんそういう救援作業が始まったんですよ。それでちょうどその時は、「大摂心(おおせっしん)」と言いまして、普通ですと朝から晩の十二時ぐらいまでずっと坐禅―ほとんど坐禅以外は、食べることとトイレに行くことぐらいで、ほとんど坐禅を朝から晩までしっぱなしなんですよ、その期間は。一月十五日から一週間ですわ。それで震災があったのは、十七日ですよね。それでそういう時なんですよ。そういう時で、本来は坐禅一本で日を過ごさなければならない一週間でしょう。その時に隣近所の方々が被災し、そしてお年寄りのお家の「煙突がひっくり返って玄関出られないから出して欲しい」とおっしゃる。そこに助けに行く。そういったことをやりながら、まだたくさん檀家信徒の方々のところに訪問に行きたいんですけどね、坐禅一本やりで過ごさなければならん時で、どうするかということを、私は指導者としてちょっと迷ったんですよね。
 
中川:  本来なら何はさておいて、他のことは一切しないで坐禅だけをする。
 
河野:  何も世間のことはもう関わらずに坐禅一本で過ごす時なんですよ。その時にこういう地震があったですね。それで私は迷った。迷った時に、私の頭に浮かんできたのは、私は大分県の中津出身なんですけどね。中津の出身者に福沢諭吉(ふくざわゆきち)(慶応義塾の創立者:1835-1901)がいるんですが、福沢諭吉が慶応義塾で学生たちに教育している時に、上野のお山で合戦があるんですよ、砲声が聞こえてくるんですね。そうすると生徒たちがそれが気になって窓から上野の山の方を見るんですね。そこで福沢諭吉が注意をして、「諸君たちはこの学校に勉学しにやって来た。君たちの任務は勉強して、そして将来国家のために尽くすのが、君たちの任務である。世間でどんなことがあっても、そんなことに関わってはならん」とこう言ってね、平然と福沢諭吉は授業を続けたというんですね。そういうことを私は中津の出身な者だから、福沢諭吉のそういう伝記というのは知っているわけですね。そのことがその時に私の頭に去来したんですよ。それでいきますと、世間でどんな騒動があろうが、我々は坐禅をしていく。そして人の心というものを究めて、平安のために尽くしていくというのが、私たちの任務だから、だから世間でどんなことがあっても、そんなことには関わらずに坐禅一本やりで過ごしていくというのが本来ですよね。そうなりますと、世間がどんなにあたふたと困っておっても、それ知らん顔してやっておるということが修行ということになってくるんだけども、それでいいだろうか、ということを思いましてね。そこで私は究極的に辿り着いたのは、救援活動に行く、と。その救援活動に行くことが坐禅なんだ、という。これを禅門では「動中(どうちゅう)の工夫」というんですけどね。動く最中でもって心を落ち着けていく。如何に落ち着けるか。それを「動中の工夫」という。ですから救援活動に行くことが、動中の工夫、即ち坐禅。簡単にいうならば救援活動が坐禅だと。そういうことで、みんなこれから救援に出掛けようというわけで、みんなヘルメット被って世間に出るようになったですよ。それから毎日朝ちゃんと四時に起きて、そして朝の梵鐘を撞いて、そして食事して、そして八時になったらみんながそれぞれに街に下って行ったですね。その時に神戸市の救援本部に人材の登録をしましてね。「来てください」という連絡があると、そこへ出掛けて行くんですね。すぐ近くに湊山(みなとやま)小学校、平野小学校というのがあるんですけど、そこの体育館には被災者の方が集まっていたですね。そこに既に救援物資が届くようになっていました。それで私たちは、寺は幸いに井戸が二つありましてね、そして水道が止まっておったけれども、その井戸水でご飯を炊くことができる。そしてガスも止まっておったけれども、釜があるから外に釜を置いて、それで井戸の水でもって、薪がありますから、薪でご飯が炊ける。それで救援活動によって避難民の方々には、おにぎりやらお弁当が届くようになったですね。だけども寒い一月でしょう。寒い時ですから、温かいものが欲しいだろうというわけで、お寺でもってぜんざいを拵えて、そしてその救援所に持って行くようにしたんですね。ぜんざいを持っていくんですよ。ぜんざい持って行くと冷えちゃうんですね。そこでガスコンロを持って、ボンベのコンロを持って行くんですけれども、それじゃ間に合わないんですよ、今度は冷えたやつを温めるのに、あんな小さなものでは間に合わないですね。それでそんなことせずに、もう現場に行って、テントを張ればいいじゃないか、ということを思いついて、それでテントを二カ所に張ることにしたんですね。長田(ながた)神社の近くにある長福寺(ちょうふくじ)というお寺さんの境内を借りて、そこに一カ所テント張って、それから兵庫駅の前の広場にテント張る。その二カ所にテント張って、寺の大きな鍋がありますから鍋を持って行って、そこでもってプロパンガス持って行って、そこでもって炊き出ししたんですね。それからうどんですね。温かくて喜ばれたですね。そして避難所には子どもがいる。子どもたちがやって来て、お餅焼きの手伝いをやるんですね。お餅を焼く網もそんなにあるわけじゃないから、壊れた家のところへ行きますと、看板が落ちておったから、看板を持って来て、その下に火を焚いて、看板を置いて、その上にお餅を置いて焼くんですね。子どもたちが、お餅がポッと膨らむでしょう。子どもがそれを見て喜んでね。それを見て、私はこの子たちはお餅焼かして貰ったことがないな、と思ったね。もの凄く喜んだ。
 
中川:  初めてだったですかね。
 
河野:  おぜんざいですから、小豆があるんですね。それ出した後は子どもたちが遊びに来るんですね。それで子どもたちに、今度は小豆(あずき)をお皿に置いて、「こっちの空のお皿にお箸でもって、あんたたち、これ摘んでこっちに入れなさい」と。食べる姿見ておったら、箸の変な使い方をしている子が多かったんでね。箸の使い方を教えたり、小豆を摘んでこっちへ入れろ、と。そんなことやって、子どもたちと半分遊びながら、そんな救援活動をやったんですね。
 

 
ナレーター:  修行としてボランティア活動を行うことで、被災者から学ぶことが多かったと、河野さんは言います。
 

 
河野:  市の方から救援頼まれましてね。それで須磨区の方のお一人住まいのおばあさんのお家に片付けに出掛けたんですね。そうしたら茶箪笥が倒れており、衣装箪笥が倒れておる。庭の木が崩れ落ちて下の道路に落ちてしまっておるというような大変な荒れようでしたが、そこに雲水が訪ねて行きましてね、そしてそういう後片付けをしてあげたんですが、その時にそのおばあさんは言葉も少ないし、そして優しい態度も何にもなくて、お家がそんなことになって、一人住まいだから大変なショックを受けられておるんですね。茫然自失だったんですね。その時におばあさんが、「お薬を常に頂きに行くんだけれども、こんなような状態では自分が、バスも止まっておるし、タクシーも動かないし、行くことができないから、お薬がもう切れてきたから貰って来て貰いたいんだ」というわけで、そして雲水がお薬を貰いに行って、そして次の日かな、届けたんですよね。そうしたらその時に、おばあさんが初めて「ありがとう」と言ってね、ニッコリしてくれたというんですね。その顔を見た時に、雲水は、ここへ来てお手伝いはもうこれきりにしておこうとこう思っておったんだけど、そのおばあさんの「ありがとう」という、ニッコリした顔を見たら、また来て何かお手伝いしてあげたくなった、と言っていましたね。まさに「和顔施(わがんせ)の功徳」と言いますかね、お手伝いする方が癒されるという。
 
中川:  そういうことありますね。
 
河野:  仏教では、布施をするということを大変重要視していますね。お布施ですね。恵まれている者が、恵まれていない者に施しをする。お互いに恵まれておってもいいんですけれども、人様に施しをするということですね。それが施しをするということは、自分のもっているものを人様にあげちゃうわけですから、損をすることになりますよね。損をすることになるんだけど、損を平気でできるようになる。そういう心を養うのが、布施の功徳というものだと思うんですよ。それでそこに喜びを感じることができるということですね。そしてそれは物を持っていないとできないかというと、そうじゃないんですよね。「無財(むざい)の七施(ななせ)(眼施(げんせ)、和顔施(わがんせ)、言辞施(げんじせ)、身施(しんせ)、心施(しんせ)、牀坐施(しょうざせ)、房舎施(ぼうしゃせ))」と言いましてね、お金なくっても施しができる。七つを挙げておりますがね。例えば電車に乗っている時に、自分が座っておって、前にお年寄りがお出でになった時に、立って座席を施すということも、お金なくってもできることですよね。案外それがなかなかできない、できにくいわけですけどね。お金なくってできることの一つにそういった座席を施すということ―これを「牀坐施(しょうざせ)」というんです。それから和やかな顔を施す「和顔施(わがんせ)」ですね。優しい言葉を施す。避難所に仮設のトイレが建ちますよね。そうするとそのトイレが大変言っちゃ悪いけれども、ほんとに汚らしいことになっておったんですね。それを掃除するのも、これもなかなかのことですね。水がそんなに簡単に出るわけじゃないから、そこを掃除するというのは大変なんですが、それを毎日うちの雲水が掃除しておった。もう嫌になっちゃって止(や)めておこうかなと思ったと。そうしたらトイレを使いに来てくれた人が、「毎日ありがとう、ありがとう」と言ってくれたと。初めて「ありがとう」という言葉を聞いたんだと。それ聞いたらまた行ってやってあげたくなった、とそう言っていましたね。まさにこれは「言辞施(げんじせ)」ですね。そういったほんとに被災者の方々というのは、まさにお家が壊れ、そしてお金もほんとに多くのものを失っておるわけですね。そういった人たちが本当に「ありがとう」の一言、そしてにこっとしたひと顔、これが救援に行っている者が励まされるという、そういう効力があるということを阪神の被災の中で雲水たちは学んだ。そういうことを言ってくれていました。
 
中川:  まさに修行の一環でもあったわけですね。
 
河野:  そうですね。ほんとにいい修行をしてくれたと思っていますね。
 

 
ナレーター:  去年は、東日本大震災など、大きな災害が日本を襲いました。また不況も続き、先行きが不透明な世の中で、悩みを抱える人が増えています。こんな時だからこそ僧侶が担うべき役割があると河野さんは考えています。
 

 
河野:  私が提唱してみんなに勉強して貰っておるんですけれども、「傾聴ボランティア」というものですね。これを大学でもって講座を開いて貰って、若き坊さんたちにそれを勉強してもらっておるんですけどね。
 
中川:  「傾聴」つまり耳を傾けて、よく聴くと。
 
河野:  聴いてあげるというんですね。それで決してお説教的なことは言わない。その人の心になりきって聴いてあげる。共に聴き、共に悩む。一緒に悩んであげる。これがその方の助けになるわけですね。そこでお説教らしいことを、そんなことを言っちゃいけない。もっぱら聴くということがその人の心の助けになるんですね。ほんとに悩める人は、例えば癌に冒されて、「あなたの命はあと六ヶ月です」と、こう言われてほんとにショックを受けて不安になって、どう私はこれから六ヶ月を生きたらいいのか。もっと生きたい。どうしたらいいか、という時に、その時に、「あなた、死ぬなんか思えなさんな」とか、何かそういうアドバイスというものをした時に、その方はその言葉をどう受け取るかと言いますと、「あなたは死なないんでしょう。私は六ヶ月先に私は死ななければならない。あなたは死なないからそんなことを言うけれども、私は死ぬんです」と、そのような言葉には出さないけれども、そういうような受け取り方をするんですよ。「あなたは私と違う。あなたはこれから生活して、まだ先々まで楽しい生活もあるでしょう。だけども、私は六ヶ月後には死ぬんだ。六ヶ月後に死なないあなたが私に何を言うか」という反発が必ずあるんですよ。
 
中川:  わかって貰えないという絶望感みたいなものが、逆に出てきてしまう。
 
河野:  そうです。だからその時には、寄り添う。寄り添うためには、自分もその人になりきるんですよ。その人になりきって、共に悩む。共に悩む人が出てきた時に、その人は勇気を持つんです。力を持つんです。安心をさせられるんですね、するんですよ。だから上から何か言うんじゃなしに、共にそれでどうなんですか、と。その人の心境を十分聴いてあげて、そして共に悩む。共に悩むためには、自分を無にしないといかんですね。なくして、そしてその人と心を一緒にすることによって、その人は慰められるんですよ。ですから悩みを聴いて欲しいんですよ。苦しい苦しさというものを、寂しさ、苦しさというものを誰かに訴えたいんです。それを静かに聴いてあげる人が必要なんですね。それを聴いてあげるんです。それを聴いてあげることによって、その人は安らぎを得る。それは宗教家が、六ヶ月の命を十年二十年に延ばしてあげることができれば、一番それはいいでしょうけど、しかし延ばしたところでいつか死ぬんでしょうが。だからその人の心になって、共に自分もいずれ死ぬ身であるということをよく自覚して、ともにその悩みを聴いてあげるということが大切、それが「傾聴」―「傾聴ボランティア」。
 
中川:  私たちがこれから生きていくうえで、どういうことを心の拠り所にしていったらいいんでしょうか。
 
河野:  それは一番の拠り所は、自分自身ですよね。生まれながらにして、さっきからもっておるところの豊かな人間性ですよ。人格。これを仏教語では「仏心(ぶっしん)」と言っていますけどね。「仏心」と言ったり、「自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)」と言ったりするんですけどね、こういったものが誰しも万人生まれた時からちゃんと持ち合わせておる。それが一番のたより。それ以外のものは頼りにならんというんですよ。それはそうでしょう。
 
中川:  生まれもった人としてのよいところというのを―豊かな人間性、それをどう調えたらいいんでしょうか?
 
河野:  それは自分が生まれた時のことをよく観察するということ。これを「内実知見(にょじつちけん)」と、私は言っているんですけどね。生まれた時のことを、事実を正直に観察する。掛け値なしに観察する。
 
中川:  どういうことですか?
 
河野:  あなた、生まれたでしょう。生まれてから一番最初に覚えていること、何を覚えていますか?
 
中川:  えぇっ!覚えていること?
 
河野:  記憶に残っていること、何か?
 
中川:  小さい時のことはあんまり覚えていないですね。怪我した時のこととか、最初の記憶ですね。
 
河野:  それ、いつ?
 
中川:  五歳ぐらいだったと思います。
 
河野:  五歳ぐらいね。自分がこの世に生まれてきてから一番最初に覚えていることを思い出して欲しいんですわ。私はこういうことを覚えているんですよ。乳母車に乗っている。乳母車に乗っていて、そして何かちょっと縁(ふち)に掴まって立ち上がったんですね。立ち上がった拍子に乳母車と一緒に地べたに放り出された、倒れた。その時に誰か助け上げられたんですね。それが誰かわからんけれども、そしてひっくり返って助け上げられたことを、私は覚えているんですよ。だから乳母車の縁に掴まってやっと立ったぐらいですから、一歳になるかならんかじゃないでしょうか。私は、人間というのは根本的には「亡恩(ぼうおん)の徒(と)」ですね。恩を忘れるという人間ですね。そういうことじゃないかなと思うんですね。それからそれならそれを思い出したところから、お母さんにどんなお世話になったかということを、あなた、ずーっとこう振り返ってみなさい。これを「内観(ないかん)」というんですけどね。「内観」―自分がずっとお母さんにどういうことをして貰ったか、ということをずっと今までのことをずっと振り返る。いろんなことで世話になっていますよね。子どもの時には朝起きたら着物着せて頂くことから、晩寝る時、脱ぐことからやって貰ったですね。それがだんだん大きくなるでしょう。そんならお母さんに今度、「してあげたこと、何かありますか?」ということ、これをまた観察してみます。そうすると、あまりないんです。して貰ったことばっかりで、ないんですよ。そういうことを思うと、それだけ大自然や父親母親に世話になりながら今日まで生きてきて、何かお返しをしたり、なんかしたことがあるのかということを問われると、「すみません」と言わざるを得ないですよ。「申し訳ない、すみません」と。何にもしていないと言わざるを得ないでしょう。そしてその前には、「ありがとう」ですね。いろいろお世話になって、ほんとに生まれた時から、ずっとおしめ替えることから、おっぱい頂くことからずっとお世話になってきたのに、何のお返しもしていない。「ありがとう」と同時に「すみません」と。そうしたらそれだけではすまない。ほんとに「すみません」と思ったら、なんかお返しをなんかしてあげたいなと。親孝行したいな、と思うですよ。この親孝行があんまりできないですよね。私も、世話になったということを自分で思うから、「なんかしてあげないかん、してあげないかん。そのうちに、そのうちに」と言っている間に死んじゃったですわ。私の母親は百二歳まで生きてくれたですよ。「そのうちに、そのうちに」と、百二歳で死んじゃったんですよ。そんなものですよ。そうしたら母親の代わりに世間の方々になんかお返しをしなければならないということになるんですよ。
 
中川:  さっきおっしゃった、「ありがとう」ということと、「すみません」という気持ち、
 
河野:  それから「お元気で」奉仕ですね、社会奉仕ですね。それだけのお世話になったのは、自分の父母だけじゃなしに、世間の人々、学校の先生とか、近所のおじさんおばさんとか、人間だけじゃなしに、動物―動物は今度殺して、肉、魚を食べていますよね。それから大自然の綺麗な空気、水、そういったものを頂戴していますから、そういった大自然に対する「報恩謝徳(ほうおんしゃとく)」と言いますが、そういったこと、人間をも含めた大自然にも対するお元気ですよ。お元気でね、という働きかけですね。これが人間を円満なる完成された人間にしていく三つの要素だというふうに、私は今言っているんですけどね。「感謝・懺悔(ざんげ)・報恩」ですね。これをわかりやすい言葉で言うならば、「ありがとう・すみません・お元気で」と。これが人間の望ましい三つの心の柱ですね。これを持ち続けることによって、自分も成長させて貰えるし、社会にもいい影響を及ぼしていくということだと思いますね。そういったことが今日では薄くなって、物事の便利さ、そして経済的な豊かさというものを第一に追求し求めていくというところに、人間の心を貧しくしていっちゃうということになっているんじゃないでしょうかね。
 
     これは、平成二十四年三月二十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである