被爆・その後の長い時間
 
                             作家    林   京 子
                             語り・朗読 広 瀬  修 子
                                   (アナウンサー)
 
広瀬:  作家・林京子さんの作品です。長崎で被爆した林さんは、自らの体験をもとに数 々の小説を発表してきました。被爆以来、死の恐怖と隣り合わせに生きてきた林 さんにとって、小説を綴ることは、日々を生き抜くことの証(あかし)でもありました。林 さんは、去年、人生の区切りとも言える作品を完成させました。『長い時間をかけ た人間の経験』。人類史上初めて原爆実験が行われた場所を訪れ、そこで考えたこ とを綴ったこの作品は、文学界の最高峰と言われる野間文芸賞を受賞しました。 昭和二十年八月九日、長崎に原子爆弾が投下された時、林さんは十四歳、長崎高 等女学校の三年生でした。今、七十歳を迎えた林さんにとって、八月九日の経験 は、自らの生命を見つめる原点となりました。『長い時間をかけた人間の経験』。 この作品に辿りつくまでの長い歳月の間に、林さんは生命についての捉え方を、 何度も変えてきました。
 

 
林:  八月九日というのは、私は人間にとって、決して幸福なことじゃないと思うんで す。ですけれど、八月九日に遭遇した以上は認めていかないと仕方がない。その 上を生きてきたわけですね。その中で何回も八月九日と私の関係は変わってきて いるんですね。ですから、ある意味で、私は八月九日を認めるわけじゃないです けれど、私にとって、あれはとても大切な一日だったと思っています。
 
広瀬:  大切な一日?
 
林:  はい。とても重大な意味を持つ一日だったと思います。というのは、それによっ て生き方というのが毎日毎日ということに区切られてきたんですね。
 
 
広瀬:  摂氏三十何度の火の玉となった原子爆弾、あの日、林さんは空 にもう一つの歪んだ太陽を見ました。
 
「太陽の落っちゃゆるう」防空頭巾をかぶった老人が 太陽を指して叫んだ。朱色に変色した太陽が渦をまい て落ちていく。ゴッホの太陽のようにはっきり渦が見 える。真夏の、しかも真昼に、段々畑からみる太陽は眼線と水平の位置 にあった。太陽の熱は極暑の夏でも生命の恩恵を感じさせるものだが、 頭上の太陽は残酷な暑さだった。太陽をロールで伸し、地球に蓋した暑 さである。
(『祭りの場』より)
 
五年前の八月九日、林さんは自分がどうやって生き延びたのかを確認するため、 もう一度同じ道を、同じ時刻に辿ってみることにしました。しかし、半世紀ぶり の太陽は、あの日に見た太陽とはまったく違ったものでした。
 

 
林:  「此処に間違いないです。その日太陽が目の前にあったんです」と言って、ちょ うどこの状況で指したんです。そうしましたら、ほんとにその時『祭りの場』 にも書いておりますけれど「太陽の落っちゃゆるう」と、男の人が大きな叫ん だほど、太陽がどんどん下がって、ちょうど視線の先に太陽があったんですね。 ところが、私が、「此処に太陽があって」と言いまして、ちょうど八月九日に逃げ てきた時間と、私があらためて辿った時間、そこに辿り着いた時間というのは、 午後の二時ちょっと過ぎで、同じぐらいな時間ですね。時間帯です。で、見まし たら、空には何もないんです、太陽が。「ああ、太陽はどこにあるんだろう」と言 いまして、ほんとに、「あれ、太陽がない」と言いながら、見ましたら、ちょうど 斜め後ろこっちが松山町の爆心地です。そうすると、この後ろの金比羅山(こんぴらやま)の天 辺に、太陽があったんです、白く。常識で考えたら、八月九日の真夏の太陽とい うのは、勿論、空の真上、頭上にあるのが常識ですね。二時ですから、少し傾い ております。ところが、私が、昭和二十年八月九日に見た太陽は、ほんとに目の 先にあったんです。それは結局、大気自身があの日はいろんな放射線や何かで 爆発した状況で狂っておりますね。ですから、私が見た太陽は、太陽の実像はこ っちにあったと思うんですけれど、こっちの虚像を見ておるんです。でも、私が 見た八月九日の太陽は、虚像が実像なんです。それほど、それは四十何年経って、 初めて八月九日の太陽は此処にあったんだ。でも、その四十年が、私はずうっと 目の先にある太陽を、八月九日の太陽だと思ってきたんです。ですから、もう既 に出発点から狂っているわけですね。紛れもなく、私の八月九日は狂っているわ けです。ですけれど、事実なんです。あれは八月九日の実像の太陽は目の先にあ ったということ、そこからの出発ですね。
 

 
広瀬:  昭和二十年八月九日午前十一時二分、広島に原爆が投下されてから、三日後のこ とでした。爆心地となった松山町から半径二キロは、ほぼ壊滅状態となりました。 林さんは、長崎高等女学校の生徒が動員されていた三菱兵器工場で被爆しました。 爆心地からおよそ一・四キ ロ、巨大な鉄骨の廃墟と化し た工場では、多くの女学生た ちが亡くなりました。爆風で 飛ばされ、机の下で奇跡的に 助かった林さんは、避難する ために爆心地松山町を通り抜 けることになります。一瞬の うちに崩れ去った街で、林さんの目に飛び込んできたのは、瀕死の状態にあって も、懸命に生きようとする人々の姿でした。








林:  逃げていますと、そこの道のうえで、これは 全裸の人たちです。ほんとに洋服を着ていな い人たち。その人たちが真っ赤な身体になっ て、土の上にコロコロと転がっているんです。 逃げながら、「どうしてこの人たちは洋服を 着ていないんだろう」「どうして家の中にい ないんだろう」。勿論、家がないわけです。 「どうして土の上にいるんだろう」と、不思 議に思いながら逃げていましたら、多分、足 音を聞いて、人が通っていることが分かった んだろうと思うんですけれど、性別の分から ない全身に火傷の人が『祭りの場』にもこ れ書いておりますけども「薬ば」と私に 言ったんです。私は身一つですので、「誰か に頼んであげます」と言いましたら、「だい でん、そんげん言いなっと・・・ばってん来 ならん」と言ったんです。ですから、もう私 だけじゃなくて、何回か頼んでいるんですね、 その方は。「ばってん来ならん」というのは、 「そう言いながら、誰も来てくれない」とい うこと。それを聞いた時に、私はほんとに失 礼な言い方ですけれど、「この方は死んだ方 がどれほど楽だろう」と思うほど、白い肌が全然無い方で、それでも、お薬を貰 って、自分の身体に塗って生きていたいという。それは生命(いのち)に対するというのか、 生きていたいというものに対する人間の執着みたいなのが、私はほんとに怖かっ たですね。怖かったんですけれど、私はあそこの段々畑の上で、もう急性の原爆 症が出ていて、身体が怠くて、歩けないような状況。そして、また、あげたりし ていましたから。その時に、私はほんとに自分が生きていることが嬉しかったん ですね。もし神さまが、私に何かをほんとに下さったとしたら、生命(いのち)一つを私に 下さったんだと、ほんとに思ったんです。生命(いのち)一つを貰えたということは、まあ 嬉しかったですね。生命一つあればいいんだ、ということ。ですから、私が八月 十五日が日本の敗戦の戦いが終わった日ですけれど、私の戦争はもうほんとに八 月九日で終わってしまっていますね。そういう意味で、八月九日というのは、私 の人生にとって、決して幸せなものではないんですけれど、切実に生きるという 意味では、八月九日は私に有り難いものを教えてくれたと思います。
 
広瀬:  焼け野原を逃げるうちに、林さんは天主堂の ある浦上の地で、必死に祈りを捧げる人々に 出会います。しかし、十四歳の少女だった林 さんは、人々が何を求めて祈っているのか、 理解することが出来ませんでした。林さんは 神に救いを求める気持にはなれませんでした。
 

 
林:  「神さま」という言葉が一番簡単なので、「神さま」と言ってしまいますけれども、 人間以外のもの、そういうものにあの時祈ったような気がするんです。実際に、 キリスト教徒の人たちが、あの場所で祈っている姿を見たんですけれど、私はあ の祈りは出来ないと思ったんです。というのは、何の罪もないのに、何故、私が こういう罪を受けないといけないんだ、と。そして、あの人たちは、あの人たち が信ずる神に対して、何を祈っているんだろう、ということ。子供ですから、単 純ですけれども、助けてくれない人に、何故祈っているんだろう、と。実に簡単 な。それよりもっと奥があるとしたら、私は祈れない、という感じがしました。 それはもっと大人になってからですけれど、手を合わせるということはなかなか 出来ないなあ、という気持になりました。
 

 
広瀬:  被爆直後には生き残った喜びを素直に感じた林さん。しかし、その後、その喜び は怖れへと変わります。被爆がもたらす死が、自分のすぐ側にあることに、林さ んは気付くことになります。十月に行われた一月(ひとつき)遅れの始業式は、原爆で亡くな った人々の追悼の場となりました。身近な友人や先生が、突然生命を奪われ、そ の理不尽さに、林さんは戸惑い、この時から死を意識するようになりました。
 

 
林:  八月九日の畑の上では、私は生きている、ということが嬉しかったんですが、十 月になって始まった始業式の時には、死にむしろ直面している感じでいたんです。 兵器工場に動員されたんですけれど、そのうちで五十二名、九月の終わりまでに 亡くなっているんですね。学校全体として百七十数名亡くなっているんですけれ ど、その生徒たちの名前を全部、日本紙に書いて、そして、講堂の壇上の壁にず うっと貼ってあるんです。そうすると、それが壁にいっぱいなんですよ。各学年 の主任が、亡くなった生徒の名前をまた巻紙に書いて、学年担任の主任の先生が ずうっとその名前を読み上げるんです。私は八月九日に逃げて来る途中で、「磯江 という子と、大塚という子を知らないか」ということを聞かれた。もうその時は 長崎の市内からたくさん家族を捜して入って来ている人たちがいたんです。その 四十代の紳士の方が、私の腕章を見まして、みんな「どこどこ学校」と書いてい ますので、「君と同じ学校だと思うんだけれど、磯江というのと、大塚というのを 知らないか」とおっしゃった。これは確かに私の学年にいたんです。この二人の 名前は、有名な子だったんでしょうね。私は転校生ですけれど覚えていたんです ね。だけど、「どうなっているか知らない」ということを言いましたら、「兎に角、 気を付けてお嬢さん帰りなさい。私は探しに行くから」と言って別れたんです。 次に聞いたのが、荒木という子。この荒木というのは、大学生が教えてくれたん です。これも、「君の学校の荒木という子が道で倒れていた。まだこういうふうに 動いていたから生きていると思う」ということを、私に教えてくれたんです。こ の三人の名前を偶然聞いているんです。その後は誰も聞いていない。ところが追 悼式の時に、初めは友人たちの名前を聞いて、みんなあっちこっちで、「ああ、あ あ」というような驚きの声があがっていたんですけれど、私たちの学年になった 時に、ずうっと聞いていたら、この三人が五十人目の中に入っていたんですね。 これはまったくの偶然だと思うんですけれど、何故私が、八月九日に聞いた友人 たちが、三人とも死んでいないといけないんだろう、ということ。それは非常な ショックでしたね。ってなんだろうとか、とっても怖いんですね。勿論、 当然怖いですね、死ぬということは。ですから、自分の死というものを一生懸生 命考えていて、最終的に、私が死というものを了解したのは、まことに少女らし いですけれども、最終的には、私は死というものを忘れる。自分から切り離した。 というのは、結局、考えて考えて、「生きている時には死がない」ということです。 死は知らないわけです。生身の人間は、死は自分の中に死んだ、という意識は勿 論ありませんね。ですから、「生きている、という人間に対して、死は無いんだ」 というふうに了解したんです。「ああ、そうか。生きているということは、死とは 無縁のところで生きているんだから、自分自身が死んだ後のことも、それから死 についても、死んだ瞬間の自分というものは、認識出来ないんだから、私自身に 死はないんだ」というような、まことに単純に。だから、「生しか私にはないから、 死を考えないようにしよう」ということで、切り離したんです。
 
 
広瀬:  その後も、生き残った友人たちは、後遺症によって次々と亡く なって逝きました。昭和二十八年、二十三歳の時に、林さんは 男の子を出産します。しかし、林さんは新しい生命の誕生を素 直に喜ぶことが出来ませんでした。被爆のもたらす影響が、子 供に及ぶことがないのか。母親となった林さんに、不安な日々 がおとずれました。
 

 
林:  私は産むか産まないか、やっぱり迷いまして、やっぱり我慢できなくなって、八 ヶ月になった時に、お医者さまに、「どうしても産む勇気がない」と言ったんで す。そうしましたら、「八ヶ月はもうどうにも出来ない」とおっしゃった。それで も私は強引に言ったものですから、「じゃ、日大の方に、自分の恩師がおられるの で行って相談して下さい」とおっしゃった。どこでしょう、遠くまで行ったんで す、電車に乗りましてね。待って、待って、待合室で待っているうちに、何か怖 くなって帰って来たんです。これは非常に息子に対して申し訳ないことで、ずう っと言わなかったんですけれど、そういう事実があったんですね。待合室から戻 って来たというのも、何も生命がどうの、というんじゃなくて、何となく怖くな って帰って来たのです。そういう内部の葛藤みたいなものがあったんですね。
 

 
ききて: 「自分の生命をよく引き継いでくれる存在が赤ちゃんだ」という言い方がありま すけれども、林さんにとっては、そういうストレートなものではなかったという ことでしょうか。
 
林:  理屈としてはそうですよね。ですから、私は今、息子を見て、孫たちを見て、あ あ、ここまで受け継いで来たんだなあということを、頭の中では考えられるんで すけれど、「受け継がせる」というような意識は、むしろ怖かったから、絶ちたか った方(ほう)があったんじゃないかと思いますね。それと、どういうふうに関わってく るか分かりませんけれど、小さな布団に寝ている子供を見まし た時に、勝手にくしゃみしたり、勝手にあくびしているんです ね。これで、「あ、完全に私とは違う一つの個だ」ということ を、そこで認識しましたね。だからと言って、八月九日とこの 子が結び付いていないという考え方にはならなかったんですけ れど、生命としてとか、個としてとかの、個体としての別とい うことは、その時、認識したので、むしろ育てる段階でも、私 に繋がったものとして、育てた記憶はないんです。ただ、八月 九日は繋がっているんです。ですから、おかしいですね。私の肉体とは、息子は 繋がっている、という意識はあまりないんですけれど、私が被爆した八月六日、 九日とは、息子に伝わっているだろう、と。どういう形で伝わっているか分から ないけれど、それが非常に心配でした。息子自身も、話はしなかったんですけれ ど、八月九日というものが、自分と関わりがあるということで、私に隠れて新聞 の八月九日というのは、必ず今年のトータルとしての被爆者が何人死んだとい う発表がありますね。それを息子が、ある時、死亡記事を見ているのを、私が目 撃したんです。私が見ましたら、パッと伏せたので、「何を見ていたの」と言って、 見ましたら、その八月九日の一年間のトータルの死亡者の死亡記事でした。です から、もうそれは息子自身は認識していたんですね。そういう事件があったんで す。
 
ききて: お母さんとして、もう少し深入りをして、つまり被爆の体験を、母として息子に 伝えようというふうに、お感じになったことはありますか。
 
林:  いや。そんな冷静じゃないですね。「こそこそしないで!」とその時は怒りまし た。私は、「隠れて読むのは止めて頂戴!」と言って、息子を叱りました。小学校 のあれはまだ五、六年だったと思います。その時代は、息子の生命と向き合って いましたから。自分のことよりか息子の生命に。ですから、そんな冷静には話せ ません。むしろひた隠しに隠しておりましたし、私自身も、六日、九日の死亡記 事を何故発表するんだろうというふうな気持で眺めておりましたのです。ですか ら、冷静には話せないです。
 
ききて: 息子さんは、じゃ、お母さんに、積極的にお聞きになるということもなかったん ですか。
 
林:  はい。しませんでしたね。ただ、大学に入りました時に、運転免許が幾つかで取 れますね。その時に横浜の被爆者の小さな事務所があったんです。私が用事があ って、息子が運転して連れて行ってくれたんです。そうしましたら、そこの女性 の方が広島で被爆なさった方なんですけれど、「つい一ヶ月位前に、兄弟二人の男 の子が白血病で続いて死んだ」ということを、会の方に報告されたことを話され たんです。被爆二世の子ですよ。それを隅の方で、息子はマンガを読んでいたん ですけれど、聞いていたらしいんです。で、帰りに、勿論黙って、ほんとに沈黙 ですけれど、運転しているんです。そして、ポツンと、「刑期のない死刑囚という のは、僕は嫌だね」と言ったんです。で、何のことかなあと思ったら、要するに、 無期懲役なみたいな死刑の宣告を、自分も受けているのかなあ、というようなこ とを感じたんでしょうね。そういう言い方をしましたね。それだけです。八月九 日の自分が被爆二世ということに対して、感想か分かりませんけれど、そういう ことを言いました。それ以外は、私は息子からは聞いていません。
 

 
広瀬:  あの日以来拘り続けてきた自らの被爆体験。それを世の中に発表することを決意 させたのは、長男の成長でした。林さんは書くことによって、自らの八月九日と 向き合うことを始めます。
 

 
林:  中学生に息子がなりました時、ですから、昭和二十八年から三十何年になります ね。中学生になりました時に、もう私からこの子の生命を切り離して、そして、 自分自身で自分の生きることも、死ぬということも、ある意味では処理出来るん じゃないか。というのは、中学に入りまして、とってもいいお友だちが出来たん ですね。私に言わないことを、そのお友だちに言ったりして、非常に精神的に、 そのお友だちによって助けられている部分がある、ということが分かりましたの です。それと私自身も非常にしんどくなったんです。息子の生死をいつも凝視し て、ちょっと傷ができると、「どうしたの」とか、鼻血が出ると、止まるまでしつ こく綿を鼻に入れたりする状況で、息子自身も煩わしくなっている部分があった んですね。ですから、もう私から切り離して、自分で受けて貰おう、と。生も死 も自分のものだとして受けて貰おうと、私は勝手に切り離してしまったんです。 それで同人誌「文芸首都」にちょうど所属していましたので、そこで初めて、短 い二十五枚位の短編を書いたんです。ですから、その時代には、私はひた隠しに 隠してきたんですけれど、もう書いてもいいなあというような感じになって、そ れで二十五枚位の短いものを書いたんです。そして、被爆して、ずうっと書こう と思っていたわけじゃないんですけれど、書く題材として、頭に浮かんだのがそ のことだったんですね。その時は、ほんとに短編の練習みたいな気持で、八月九 日の重要性というものを、それほど認識していなかったんです。ですから、ほん とに物語みたいな軽い気持で書いたんです。そうしましたら、「文芸首都」という のは、編集委員がいて、その人たちがチェックして、載せるか載せないかを決め ますね。その編集委員の一人の方が、「この問題は二十五枚位で済ませる問題じゃ ない。ですから、書く気があるんだったら、最低五十枚は書き直して来い」とい うような批評が付いて返ってきたんです。それからですね、八月九日のことを、 私が書こうと思ったのは。息子を切り離したということと、直接の原因としては、 それがあった。それから、友人たちがたくさん死んで逝って、この死だけは、母 親にも父親にも見守られないで、どこで死んだか分からない状況で、死んで逝っ たというのは、とても耐えられなかったんですね。ですから、六日、九日はずう っと歴史の中に残っていきますけれど、少女とか先生が、こういう状況で、こう して死んで逝った、ということは忘れられるだろう、ということ。それは私には 耐えられなかったんです。ですから、何らかの方法で書き残しておきたいなあ、 という素朴な気持ですね。これは八月九日から、私は生と死というものが幾つか 変わってきているんですね。一番初め、八月九日の、あの松山町の上で向き合っ た時には、「人間と核」というような、「私と核」というような対処の仕方で、八 月九日を見てきたわけです。そして、今度、先ほど申しました追悼会では、これ は生から逆転して、死というものに立った人生になってきて、今度、子供が生ま れて、そこでまた私は一変しました。今度は息子の生と死になってきた、という こと。八月九日は変わってきた、ということです。幾つもそういう変わり方をし てきているんですね。
 

 
広瀬:  昭和五十年、四十四歳の時に、林さんは被爆体験をテーマにした小説、『祭りの 場』で芥川賞を受賞。以来、八月九日の語り部と呼ばれるようになりました。あ の日、一体何が起きたのか。原爆は人間の身体に何をもたらすのか。林さんは原 爆開発に関わるデータや核実験によって被爆した人々の健康被害の報告書など、 さまざまな文献を読み漁(あさ)りました。
 

 
ききて: いつもお使いになる資料というのはどういうものでしょうか。
 
林:  作品によって、勿論違ってきますけれど、一番最近の『長い時間をかけた人間の 経験』。その場合には、『内部の敵』(体内に入り込んだ放射性物質がもたらす健 康被害の可能性)、此処にございます。これですね。
 
ききて: 随分たくさん付箋が挟んでありますね。見せて頂けますか。
 
林:  はい。これは結局被爆について、昭和二十年の八月九日から、私たち被爆者が、 今日までずうと考えてきた。九日は終わっている。六日は終わっている。でも、 肉体の中では、何か変化が起きている。それは本能として、「何だろう、何だろう」 と思ってきたことが、数字として実証してあるんですね。ですから、私たちがず うっと五十年生きてきた過程を、綿密に調査して、勿論、六日、九日は此処には 出ておりませんけれども、核に関した爆発事故とか、実験とか、そういうものを ずうっと近辺の人たちの状況を調査して、データとして、出してあるんです。『内 部の敵』というのは、此処に書いてあるように、G・M・グールトという人たち の、こういうグループの人たちが、一九四五年あたりの核実験がありましたあた りから、ずうっとその周辺に住んでいる人、或いは、風下に住んでいる人、そう いう人たちの健康状態をずうっと追跡調査なさっているんですね。それがデータ として出ております。
 

 
広瀬:  被爆への偏見や無理解を超えて、どうすれば自らの体験を伝えることが出来るの か。林さんにとって、文献や資料は小説を書くうえで欠かすことの出来ないもの です。
 

 
林:  私が一番初めの作品は、『祭りの場』です。その『祭りの場』を書きます時に、一 番必要としたのは、基礎的な記録だったんです。数字を取り上げるのは、小説の 中では邪道かも知れませんけれど、私は、あれは半分半ば記録のつもりで書いて おりますので、そういうちゃんとした数字というのは、一番人の頭には入りやす い。数字の下には、必ず人間がいるということまで掘り下げていって欲しいので、 その数字を楯にして、記録を楯にして、そして、私が逃げましたほんとに細い経 験を、ずうっとそこに埋め込んでいった、という作業をしたんですね。そういう 意味で、記録というのは一つの証明として、単に個人が逃げた、という体験だけ じゃなくて、証明として、私が使います。で、知って欲しいんです。六日、九日 の危険というものは、今、あちこちで実験があったり、原子炉が爆発したりして いて、この大気の中にはたくさんの、そういう目に見えない物質があるわけです よ。ですから、今日の問題として、六日、九日の被爆者がある、ということが証 明されたということ。終わっていない、ということ。今、生きている人たちの問 題、ということ。それから、将来生きていく子供たちの問題。そういう問題が明 らかにされた、ということは、私は六日、九日は決して幸福なことじゃないです けれど、起きた以上は、何か証明したい、という気がします。
 

 
広瀬:  次々と話題作を発表する中で、林さんは作家としての地位を確立していきます。 しかし、林さんは五十歳を越え、子育てを終えた頃、突然総てのことから解放さ れたいと願うようになります。そして、家族の元を離れ、一人で旅に出る決意を したのです。
 

 
林:  総てが煩わしくなって、こんなに囲まれているけれど、必要なものは何もないわ けですね。生きていくためにとか、ほんとに日常には関係のないものばかりの中 で生きていた。ですから、ちょうど夏だったんで、リュックサックに下着三枚と、 着(は)いているズボンと、着替えのジーンズを一枚と、二、三枚のブラウスを持って 出たんです。家族には、居ないと心配しますので、「長崎に帰る」と言って出たん です。兎に角、総てが煩わしくなって逃げたわけですね。さっき、浦上で信者た ちが祈っている。私はあの祈りが出来ないという、そういうお話をしたんですけ れど、結局、私も、「助けて下さい」と求めていたんですね。八月九日の上で。信 者の方たちに、その「祈る」ということを聞いたことがあるんです。そうしまし たら、「自分が何か」「どういう悪いことをしたのだろう」と、問い質すというこ と。「それが祈りだ」ということを、おっしゃった方がいらっしゃった。ああ、成 る程。私は求めたんだ。彼らは、自分の中のものを、神さまに対して、「自分がど ういう悪いことをしたんでしょう。教えて下さい」と祈っている。根本的に違う んですね。あそこで歩いて見て分かったことは、結局、私は何かを求めていたん です。けれど、実際に捨てていくことで、さっき「切り捨てた」と言いましたが、 書く時に、みんな削ぎ捨てた。結果としては、削ぎ捨てることだ、ということが 分かったんです。
 

 
広瀬:  総てを捨てて旅に出たことで、林さんは自らの生きる意味を取り戻すことが出来 ました。しかし、再び、子供や孫と暮らし始めた林さんに、新たな戸惑いが生ま れます。ある日、突然自らの老いに気付いたのです。
 

 
林:  八月九日に総て集約して生きてきましたので、生も死もそこにあったわけです。 ですから、生きることも死ぬことも、八月九日と現在の間を反復して、ずうっと 生きてきて、その間に生命に対する考え方、今、お話ししましたように、変わっ てきました。そういう中で、生きてきたんです。ある時、自分が鏡に向き合った 時に、アッと思ったわけですよ。ここまで老いてきたんだ、と思ったわけです。 八月九日の死というのは、老いて死んではいけないんですね。私の場合ですよ。 途中で絶たれる死が、八月九日の被爆を実証する死であるわけですよね。ところ が、その年代を超えてしまったわけです。そうすると、もう老いによるいろんな 故障が出てきて、当然の年代になった時に、八月九日の死には確かに走り勝った けれど、その後に続く一般的な死に直面した時に、やはり喝采ばかりが叫んでい られない、という気持になったんです。確かに、八月九日から生きてきて、途中 で絶たれる予定だった死には、打ち勝ったけれども、その後に続く老いの死とい うもの。これ一般化された死ですね、年代的な。ですから、区別するのはおかし いと思うんです。八月九日の死も平行してあって当然なんですけれど、私の中に 一応絶ちきられた、そこから一般化された中に入れられてしまうし、というふう になってきたわけですね。ですから、そういう意味で、八月九日が鮮明に、被爆 者の死というものが鮮明にならないというような、妙に実証されなくなったとい うことですね。非常に矛盾しているんです。九日の死というのは、ある意味で、 自分がいつも対決しているものなので、その中で生きてきたので、無理矢理納得 させている部分がありました。そして、そういう死に方で全うして、被爆者の生 き様みたいなものを、変な気持ですけれどね。実に曲がった根性だと思うんです けれども、八月九日の一人の被爆者の死というものを実証したい、という妙なも のがあるんですよ。どうせ被爆者なら、それじゃ被爆者として死にましょう、と いうような気持が、私にはあったわけです。それが七十という年代になってくる と、慣らされてくるわけですよ。そうすると、逆に、今までの苦しみは何だった んだろう、と。実証するものが無くなってきた、という感じ。そういう戸惑いが あるんですね。九日の死は自分で納得させている。逆にいうと、納得しないとい けない自然な死を、計算に入れていなかった、ということです。ですから、慌て たんでしょうね。
 

 
広瀬:  予期しなかった老いの訪れ。それをきっかけに、林さんは自らの原点を捜す旅に 出ることを決意します。アメリカ・ニューメキシコ州トリニティ・サイト。此処 で世界で最初に原爆の投下の実験が行われました。林さんは被爆から五十四年目 の夏、トリニティ・サイトを訪ねました。
 

 
林:  そこに戻ったことで、初めて私の八月九日が完結するという感じがあったんです。 八月九日というところから、ずうっと生きて来て、トリニティ・サイトという一 番初めに、一九四五年七月十六日に、そこで 核爆発実験が初めて行われたところ。それと 同じ爆弾が、長崎にプルトニウムの原子爆弾 が落とされたということ。この『ヒバクシャ ・イン・USA』(春名幹男著)の中には書 いてありますけれども、「トリニティはいわ ば長崎の故郷(ふるさと)だ」という言葉がありますね。 そういう意味で、私も、故郷というのは、い ろんな意味があると思うんですけれども、そこはやはり原点だ、という気がして いたんです。ですから、そこに戻ることで、八月九日が一つの輪になって、一環 する、と思ったんですね。完結したかった、ということがあるんですね。






 
広瀬:  トリニティ・サイトに足を踏み入れた林さんの目の前には、果 てしなく続く荒野が広がっていました。地球上で初めて原爆が 炸裂した大地。林さんは爆発の中心となった「グランド・ゼロ」 の石碑に向かってゆっくり歩いて行きました。
 

林:  何にもないんです。何にもない荒野ですね。小さな足首まで満 たないような棘が生えた草がずうっとあるんです。そこにアメ リカの全土から集まった見学者たちが、朝早く、八時半からだ ったと思うんですが、集まって来ている。その人たちが何もな いから、その一点に向かって、みんな歩いて行くわけです。そ の人たちの後に付いて歩いているうちに、私自身、何か穏やか じゃないんですね。訳が分からないけれど、穏やかじゃなくて、 側までは行けないで、ある程度の距離をもって、ずうっと見て いたんです。ほんとに何もないんです。遠くに山があって、あ とは荒野。で、空と、そこに集まっている少しの人間と。それ と荒野より高いものは、石積みの「グランド・ゼロの碑」です ね。石積みの碑と人間。動いているのは人間。風も無い。鳥も 飛んでいない。ほんとにカラスも。カラスと言ったら、どこに でもいるんですけれど、そういうものもいない。ニューメキシ コ州ですから、禿げ鷹ぐらいいるかと思ったら、そういうもの もいない。留まる木もない、という感じの荒野。そこに向かって歩いていったん です。結局、私が被爆者として、そこを訪ねたんですけれど、あのフィンスの中 を歩いている時は、全く何にも無い。これを言葉でいうならば、多分、八月九日 に被爆する以前の私になっていたんではないか、と思うんです。それで無心にそ こに歩いて行ったんだと思うんです。
 

 
広瀬:  大地の底から、赤い山肌をさらした遠い山脈から、褐色の荒野から、ひ たひたと無音の波が寄せてきて、私は身を縮めた。どんなにか熱かった だろう。「トリニティ・サイト」に立つこの時まで、私は、地上で最初 に核の被害を受けたのは、私たち人間だと思っていた。そうではなかっ た。被爆者の先輩が、ここにいた。泣くことも叫ぶこともできないで、 ここにいた。
(『長い時間をかけた人間の経験』より)
 

 
林:  何か周囲から訳の分からない圧迫感があって、ヒシヒシと何か寄せて来るものが ある。結局、一九四五年七月十六日に、この荒野を閃光(せんこう)がサッと走ったんだ、と いうことが、閃(ひらめ)いたわけですね。私は八月九日に、閃光の熱さというものは感じ ていないんですけれども、ほんとに熱かっただろう、と思ったんです。大地、そ して、それにざあーっと走っていって、山にぶつかって無くなったという。あの 光が天に昇ったという。この大地はほんとに熱かっただろうなあ、と。人間だっ たら、叫んだり、泣いたり、訴えたり、書いたりすることが出来ますけれども、 五十五年昔のまま、一九四五年七月十六日の状態のまま、そこに山も荒野も厳然 としてあるわけです。その時に、私はほんとに無言の怖さというようなもの。そ れと熱かっただろう、という感情で、涙がわあっと出たんですね。それまでは、 私は八月六日と九日の被爆者が、地球上で初めて原子爆弾の閃光を浴びた日、核 の被害者だ、と思っていたんですけれども、そうじゃなくて、ほんとに私の先輩 が此処にいたんだ、ということを、その時知らされたんです。そこで、私は初め て八月九日に、母が迎えに来た時にも、逃げる時にも、たくさんの死体を見た時 にも、私は泣かなかったんです。泣かなかったということより、涙が出なかった んですね。でも、初めてあそこで涙が出た。ですから、私はあそこでほんとの被 爆者になった、逆にね。ほんとの被爆者になったような。それが洗い流されてし まった、というような感じ。向き合いました時に、今までは八月九日は、「人間と 核」。その核を作った人間。ですから、「人間対人間」という感情で見ていたんで すけれども、そうじゃなくて、「グランド・ゼロ」の石の碑を中にした、要するに、 核ですね。核を中にして、人間と神の相対する場所が、私の場合にはトリニティ ・サイトということになってしまった。それは人間が、結局、核という禁断の実 を食べてしまった。犯してはならないものを犯してしまった、という。その向こ うには神の裁きしかないということ。どういう裁きか分かりませんけれど、人間 と人間じゃなくて、人間対神の領域まで、人間は踏み込んでしまった、という。
 

広瀬:  大地の叫びを聞いた林さんの胸に、被爆直後 の長崎 を見て語った一人の神父の言葉が思 い浮かびました。
 
浦上の焼け跡に立った一人の宗教家 が、草も木も、人も家も焼けてしま った浦上の地を見て、なんと美しい 眺めだろう、と言ったという。友人からこの話を聞いて以後、私の心に は、美しいとは何が美しいのだろう、と疑問がひっかかっている。見渡 す限り、一木一草、あらゆる生命が死滅した浦上を、その宗教家は、天 地創造の瞬時の無垢(むく)なる大地、とみなしたのだろうか。
 
非凡な宗教家には、浦上の焼け跡が、美しい、理想の地に見えるのだろ うが、しかし、浦上には人間が住んでいた。
 
そして十万人に近い人間があの土地で死んだ。そこにいあわせた私たち が、どんなに悪い罪を犯したというのだろう。
(『ギヤマン ビードロ』より)
 

 
林:  私はこれは、『祭りの場』にも書いているように、ずうっとこだわってきて、たく さん友人が死んでいるのに、「何が美しい」と思っていた。「傲慢な人だなあ」と 思っていたんですけれど、あそこに立った時に、一番初めに閃光が走って、無言 で訴えてくる大地を見た時に、ほんとに美しいと思ったんですね。それは酷(むご)さを 十分、罪とか、何か気障(きざ)な言葉ですけれども、やっていけないことをやってしま った人間の醜さみたいなものを、神父さまはあの場所でご覧になって、その奥か ら通して、浦上を見て、人間として、とっても無垢な感情でという言葉 を使っていいなら、だろうと思うんですけれど神さまと相対した時に、 懺悔の気持の深いところで、浦上の焼け跡は、「美しい」と思ったんじゃないかな あ、と。それは非常な罪深さと、元にね。そういうことじゃないかなあ、という 感じがあそこでしたんです。ですから、確かに、「国立歴史記念碑」だったと思う んですが、そういう言葉がその碑には刻んであったんですけれど、あそこはアメ リカだけじゃなくて、私は世界中の人間が、あそこに立った時に、良心と相対す るところかなあ、と。人間のあり方とか、生き方とか、そういうものと相対する 場所。で、あそこから追放されるか、ノアの箱船に乗せられて、幾つかの生命が 救われるか、そこまで突き詰めた場所なんじゃないかなあ、という気がしたんで すね。その後で、テーブルの上にいろんなものが載せてあって、それは一九四五 年七月十六日の爆発した時に使った計器類、そういうものの破片とか、そういう ものが陳列してあって、それにガイガー計数管を当てると、ガリガリまだ鳴るん です。五十何年経っていても。そういうものを説明して下さった。そこにちょう ど直径一センチ内外のまん丸の石が展示してあったんです。ほんとに見事にまん 丸なんです。灰色の汚い石ですけれども。それを女性の係官が手の平に載せて、 「これは原子爆弾の実験の、爆発の時に、このトリニティ・サイトの爆発に遭っ た土とか、砂が舞い上がって、凄い回転と高熱のために球状になった石です」と おっしゃった。それを、「自分たちは真珠と呼んでいる」とおっしゃったんです ね。それをよく見ると、小さな赤とか白とかというような砂粒みたいなものが寄 り合った小さな見事なまん丸い球なんです。それを見せられた時に、私はフッと、 「あ、友人たちもこういう状態になったんだろうか」と思ったんですね。これは、 八月九日の、その場所の何ものでもないんですけれど、やはりそれから連想する ことは出来ると思うんです。みんな体験していなくても。「これが宇宙規模の熱 だ」というんですね。ああいう丸くなったのは、そういう宇宙規模の出来事が、 あの小さな場所で起きたということ。それに対して、やっぱり無感動でいる人は いないんじゃないか、という気がしたんですね。あそこに集まった人たちは、そ れは心の中でいろんなことがあったと思うんです。戦勝の場所として訪ねた人も いるでしょう。ですけれど、家族連れの人たちが割に多かったり、それから退役 軍人みたいな、私と同じような年代の人たちが、目が不自由だったり、杖を突い たりして、一人で参加している人たちもいる。その人たちがみんな沈黙している んですね。勿論、お喋りするような場所じゃない、ということもあるんですけれ ど。私はほんとに言葉以上の言葉を、彼らの黙々と爆心地、「グランド・ゼロ」に 向かって行く姿を見た時に、「ああ、人間はまだ信用出来るなあ」という感じがし て、ちょっと救われた感じがしたんですね。それを見て、内心は分かりませんで すけれど、あの沈黙は、やはり私には救いでした。
 

 
広瀬:  林さんにとって、八月九日から始まった長い時間は、自らの生命の意味を問い続 ける旅でした。林さんはトリニティ・サイトの大地に立てたことで、この旅に一 つの区切りが付けられたと感じています。
 

 
林:  書いていることは現象ですね。八月九日の現象を書いているんですけれど、最終 的には、生きるとか、生命とかということに集約されてくると思うんです。それ があるから書くんで、大きな死、人為的な死ということ。それに対して、私はノ ー(No)と言いたい。そういう意味でずうっと書いてきているのです。書いてい ることは現象であっても、やはり自分自身とか、或いは、他に対して問い続ける ということじゃないか、と思うんです。残ってきたものはエッセンスだけですか らね。六日、九日にある本質だけが残ってきますでしょう。ですから、そういう 意味では、どんどん時間というものは、感傷の部分を削ぎ落としてくれて、ほん とに骨格だけを見せてくれるということが、私の中ではあったような気がします ね。
 

 
広瀬:  振り返って数えてみると、その時から年の数だけ、年月は経っている。 そしてその時その時の思いは、スプレーで押し固められたように凝縮し て、一人の人間の内に、仕舞われている。記憶の粒子に、過去に似た香 りや湿った風が触れると、記憶は忽ちふくらんで甦ってくる。年月(としつき)は長 いようで、短くもある。
(『長い時間をかけた人間の経験』より)
 
 
     これは、平成十三年二月二十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。