ありのままの心―盤珪禅師を偲ぶ
 
                      祥福寺僧堂師家 河 野(こうの)  太 通(たいつう)
一九三〇年、大分県に生まれ。一九四八年、中津市の松巖寺で出家。一九五三年、花園大学仏教学科卒業、祥福寺僧堂で修行、山田無文老師に師事。禅文化研究所所員、花園大学非常勤講師、松巖寺住職を歴任し、一九七七年、祥福寺専門僧堂師家、一九九四年、花園大学学長に就任。二〇〇四年、龍門寺住職に就任、二〇一〇年、臨済宗妙心寺派管長、全日本仏教会会長に就任。著書に『独坐大雄峰』『白隠禅師坐禅和讃を読む』『親子でする坐禅と呼吸法』『〈無常のいのち〉を生きる』ほか。
                      花園大学教授  加 藤(かとう)  正 俊(しょうしゅん)
一九二九年、京都府加悦町生まれ。一九五四年、花園大学仏教学部卒。一九七二年、立命館大学大学院日本史学専攻修士課程修了。一九六四年、禅文化研究所設立と同時に勤務し、花園大学教授。著書に「近世禅林墨跡臨済篇」「禅画の世界」「栄西前史と臨済宗」「円相 禅の究極」「いのちの風景」ほか。天龍寺塔頭金剛院住職、花園大学名誉教授。二○○九年逝去。
                    き き て    白 鳥  元 雄
 
ナレーター:  易しい日本語で人びとに禅の心を説き、大名から庶民に至るまで多くの人びとに慕われた江戸初期の僧・盤珪永琢(ばんけいえいたく)禅師。盤珪禅師は、元和(げんな)八年(1622年)現在の姫路市網干(あぼし)に生まれ、十七歳の時に、赤穂の随鴎寺(ずいおうじ)で得度。その後全国を行脚(あんぎゃ)して修行を積みました。二十六歳の時、血を吐くような胸の病の中で悟りを開き、元禄(げんろく)六年(1693年)、七十二歳でこの世を去るまで、老若男女(ろうにゃくなんにょ)の区別なく、禅の教えを説きました。盤珪禅師の特徴は、難しい仏典の言葉や漢文漢語を一切用いることなく、ただ「不生(ふしょう)」という言葉を手掛かりに、禅の本質を説いたことです。今年は盤珪禅師の没後三百年に当たり、縁(ゆかり)の寺では法要が営まれています。「不生禅(ふしょうぜん)」とも呼ばれる盤珪禅師の心を、私たちも尋ねてみたいと思います。神戸市兵庫区の祥福寺(しょうふくじ)も盤珪禅師を開山と仰ぐ寺の一つです。石段を上って境内に入ると、静寂な空気が漂い、鳥の声が快く耳に響きます。伽藍の背後には二層の多宝塔が聳え、見下ろすと市街の向こうに神戸港を望むことができます。ここは臨済宗(りんざいしゅう)の専門道場の一つとして、現在でも二十名近い雲水の修行の場となっています。祥福寺は、貞享(じょうきょう)三(1687)年に盤珪禅師の弟子雲巖(うんがん)和尚によって創建されたと言われますが、近代では、今は亡き山田無文(やまだむもん)(1900-1988)老師が二十五年にわたって禅を志す若き人びとを育ててきた寺として知られています。秋色深まる祥福寺に、現在のご住職で専門道場の師家を務める河野太通老師をお訪ねし、盤珪禅師についていろいろお伺いした後、京都へ向かい禅師の墨跡を拝見することにしました。                                
 

 
白鳥:  祥福寺は、神戸の街からさほど上がったところではないんですが、ざわめきからは離れていますですね。
 
河野:  ええ。いいところで。
 
白鳥:  お寺の縁起を見ますと、江戸時代の初期でございますか、もう三百年あまりになりますでしょうか。
 
河野:  ええ。ちょうど今年が盤珪禅師が亡くなられて三百年ですから。記録によると、盤珪禅師が亡くなる八年前に建設された、ということになっていますね。
 
白鳥:  開山は盤珪禅師という方ですね。ものの本を読みますと、かなり一風変わった禅僧であったというふうに。
 
河野:  そのようですね。伝記を見ましても「超逸(ちょういつ)」というような表現がしてありますね。跳び越えて風変わりなという「超逸な方であった」という表現がありますが、その半面、この方の説かれるお話というのは非常に日常平語を使った易しい言葉をお使いになってのご説法で、その点では非常に親しみ深いと言いますかね、慈愛の心を多分に持った方である、と思いますね。それで何よりも、我々は感動しますのは、いろいろなところで自分の心の問題の疑問というものを解きたいがゆえに、どこかで説法があると聞きに行くわけですね。聞きますと、それを帰って来て、お母さんに、「今日はこういう話があった」というようなことを、詳しく母じゃ人に語って聞かせる。ついに自分の大疑問というものも、何はともあれお母さんに聞かせて、お母さんに成仏させたい。成仏させてやりたいという、そういう思いで苦労苦修をした、ということが『御示聞書(ごじもんしょ)』に書かれてありますね。
 
白鳥:  今おっしゃった「大疑問」というのは?
 
河野:  江戸時代になってから盛んになったんだそうですけれども、中国の「四書(ししょ)」と言われるものですね。「四書五経(ししょごきょう)(四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」をいう)」の「四書」ですね。儒教の根本聖典ですが、そこで盤珪禅師も親の薦めによりまして、十二歳の時に、『大学』を学ぶわけですね。『大学』という本の初端(しょっぱな)に、「大学の道は、明徳を明らかにするにあり(大學之道、在明明徳)」こういう文章がありまして、そしてこの「明徳」というものは一体どういうものなのか、ということに大いな疑問をもったわけですね。当時の寺子屋でありますから、寺子屋のお師匠さんなんかがいろいろ説明を加えたと思いますね。そうしたことも『御示聞書(ごじもんしょ)』などの中に収められておりますけれども、いろんな説明を聞いたけれども納得がいかなかった。それでついに「明徳」というものはどういうものであるか、ということが究めたくって、いろんなところに行くわけですけれども、最後そういうことは禅僧に訊いたらよかろうというわけで、随鴎寺(ずいおうじ)の雲甫全祥(うんぽぜんしょう)(1568-1653)師匠のところへ行くわけですね。そこで「坐禅したらわかるだろう」と、こう言われて坐禅に取り組むわけですけど、なかなかそうはいかん。それから大変な苦労が続くわけですね。十二歳の時から二十六歳まで、十四年間の苦修が続きます。それは座布団なしに岩の上に七日間もぶっ続けで坐ってみたり、断食やったり、そしてお尻がすり切れて破れてお尻から血が出る。そうすると杉原紙(すぎはらし)(紙の名、奉書に似た薄くやわらかな紙)を敷いて、そして坐禅を続けて、ついには自分だけが入るような庵を作りまして、その中に閉じ籠もって、大小便は中から外に流れ出るような工夫をしまして、その中で坐禅をする。そしているうちに血痰(けったん)が出てくる。咳をすると痰に血が混じって出てくる。その痰が小さな部屋でありますから、咳をした途端に壁にぶつかってコロコロと転がり落ちる。その痰がポトンと落ちたところで目が開けるんですね。「明徳」がわかるわけですね。それが「不生」の文章があるわけであります。
 
白鳥:  今お言葉に出ました、そこで豁然(かつぜん)を悟られた「不生」という言葉ですね。「不生」という、この悟りの観念と言いますか、概念と言いますか、これはどういうことなんでしょうか。
 
河野:  それはちょっと『御示聞書』の文章をちょっと出して頂くとよくわかるんですが、
 
白鳥: 
皆親のうみ付けてたもったは、
仏心ひとつで御座る。
余のものはひとつもうみ付けはしませぬ。
其親のうみ付けてたもった仏心は、
不生にして、霊明(れいめい)なものに極まりました。
不生な仏心、仏心は不生にして霊明なものでござって
不生で一切事がととのひまするわひの。
不生にして霊明な仏心に極まったと決定(けつじょう)して、
直ちに不生の仏心のままで居る人は、
今日より未来永劫の活如来(いきにょらい)で御座るわひの。
今日より仏心で居るゆへに
我宗を仏心宗といひますわひの。
 
河野:  ここで「明徳」というものが、「不生の仏心」というものに辿り着いたわけですね。辿り着いたというか、そういうものである、ということに気が付かれたわけですね。そしてしかもそれは肝心なことですけれども、盤珪さんは大変な修行をなさった。図らずも自分が求めた苦しみではなかったけれども、図らずも苦しい修行をしてしまった。そして辿り着いたんですが、それはその修行によって拵え上げた心ではない、ということですね。親が生み付けたものであって―ですから自分で拵えようという心をもって生み出したものではないから「不生」と言いますね。
 
白鳥:  「生み出したものではない」これが「不生」なんですね。
 
河野:  そうです。ですから親が生み付けたんだから、自分が拵えたもの、生み出したものではない、これが「不生」。その親もまた、そのまた親から生み付けてもらったものである、という意味で、この仏心を「不生」と、こうおっしゃっているわけですね。そして「不生」には、もう一つの意味があると思いますが、それが「不生の仏心そのものが存在的に不生である」というのと、それと今度は、「働きが不生の働きをする」ということですね。その「不生の働きをする」という証拠を、盤珪禅師は挙げておられるんですが、みなさんが、身どものところに話を聞きに来たんだから、身どもの話が耳に入るのは当たり前だ、と。しかし身どもの話を聞きながら、外で鳥の声が聞こえると、鳥の声をやはり聞くだろうと。鳥の声をこの座に聞きにきたものは一人もおらんのに、私の話を聞きながら、外で鳥が鳴けば鳥の声を聞くし、それに鳥の声を、あれは犬の声だと思って聞くものはいないと。犬と鳥とのちゃんと区別を明らかにしながら、邪魔にもならずに、ちゃんと聞こうとも思わなくって聞いておると。これがまた不生なんですね。鳥の声を聞こうという思いを持たずに、聞こうという思いを生み出さずに鳥の声を聞いておる。だからこれを「不生の心である、仏心だ」と言われるんですね。ですから「不生」という意味合いには、二つの意味合いがあります。「不生の心そのものが、自分の努力や修行でできあがらせたものではない」という意味と、それと「親が生み付けとめた心は、無心にね―自分がものを聞こう、喋ろうという思いをしなくっても、そういう思いを起こさなくっても、ちゃんと働く、そういうものにちゃんと生まれながらにしてなっておる。これを「不生」というんだ」と。そういうところに気が付けば、その心で日々一生日暮らしすれば、人は安らかに暮らせるんだと。
 
白鳥:  それもまた実にわかりやすいですね。
 
河野:  分かり易く、的確に、ほんとに身近な例をとってお話される。こういうことがとかく我々は、個人のことが、特に仏教用語、そしてまた禅門の禅語などを交えながらどうしてもお喋りしてしまうんですけれども、盤珪禅師はそういうことをなさらなかったわけですね。仏典、祖語を用いずに、こういうお話をされたというところで、盤珪禅師の説法―庶民性、そして単一性ですね。いろんな複雑なことを何にも説かない。「不生の仏心」一本槍という単一性ですね。こういうことが明らかに日本で形成された「日本禅」ということができるわけですね。日本人が日本人の感覚で、外国の言葉を用いずに、現場の話し言葉で法を説いた。こういうところが非常に盤珪禅師の感性的に優れた偉いところだったと思いますね。
 
白鳥:  「不生」ということになりまして、要するに生じない。自分から働きかけてなんか起こすものではない。あるがままの自分の中に仏心がある、ということになりますと、なんかそのままでいいのかしら、と。自分の中にいろんな迷いもございますしね。現実にこの語録を読みますと、これは出雲の俗人が、「餘りお示しが軽過ましたではござりませぬか」という質問がある。これは私は非常に同感したんですけど、その点は如何なものでございますか。
 
河野:  そうですね。これは盤珪禅師がご在世当時ですね、「仏心一つですべて調えますと」これが如何にも軽すぎる説法だと。人間救われるのに、そんなに簡単に救われるだろうかと。あまりにも軽く説きすぎはせぬか、という批判がありまして、そのことが当然盤珪禅師の耳に入ったわけですね。そこで「どうして仏心に居ることが、そんなに軽いことかと。仏心に居ることは軽いことではないから、君たちがなかなか仏心に来れないだろうと。仏心に居ることは重いことであるが故に、君たちはなかなか仏心のままで居り切れないと。その軽いのは実は身どもの話が軽いんじゃなくて、あなた方がせっかくの仏心を修羅にしかえ、餓鬼の心に仕かえるのが軽すぎる」と言って説かれておるんですね。
白鳥:  ちょっと読んで見ましょうか。
 
総じて一切の迷と白(もう)すは
人人皆身のひゐき故に、
迷いをでかすことでござるわいの。
身のひゐきしませねば、
迷は出来やしませぬわい。・・・
皆仏心の尊きことを知りませぬ故に、
軽々しう存じて仏心をあれにしかへ、
これに仕かへて、さまざまに流転し迷ふ所でござるわいの。
 
河野:  ですからなかなか生み付けたもうたのは、仏心一つですから、そのまんまで暮らしていけばいいわけですね。しかしそうは暮らせずに、仏心を他の迷いの心にすぐしかえてしまう。ですからそれは何故そのようにすぐ仕かえてしまうのか、というと、それは我が身の贔屓(ひいき)だと。我が身に対する執着ですかね。自己有利に解釈する。執着ですね、我が身に対する。これある故に不生の仏心を他の心に軽々しく仕かえてしまう。こうおっしゃっておりますので、この身の贔屓ということをおっしゃるのも、盤珪さん独特でありますが、
 
白鳥:  面白いことを書いていらっしゃいますね。
 
総じて身どもは仏語祖語を引(ひい)て、
人に示しもしませぬ
只人々の身のひはんですむ事でござれば、すむに、
叉仏祖の語をひかうやうもござらぬ。
身どもは、仏法もいはず、叉禅法もいはず、
説ふやうも御座らぬわひの
みな人々今日の身の上の批判で相すんで、
(らち)の明く事なれば、
仏法も禅法も、とかふやうもござらぬわひの・・・
 
仏語祖語を引(ひい)て、私は説教はしないと、非常に面白い言葉ですね。
 
河野:  普通我々が修行します時には、いわゆる「公案(こうあん)」という祖語ですね、昔の人の悟りを開いた因縁の問答を、問題として与えられて、それに取り組むわけですけど、盤珪禅師はそういう経路を辿らなかった。自ら自分で自分の疑問―「明徳」と。この「明徳を明らむる」と。この疑団にぶつかって、そしてお師匠さんなしで―普通師匠について参禅とかやるんですけど―お師匠さんなしに自分で坐禅したり、行脚したり、苦労して、むしろ「無師独悟(むしどくご)」ですね。ですからそれで開いたんだから。
 
白鳥:  「無師独悟」師も無く独りで悟る。
 
河野:  独りで悟っちゃった。ですから仏語祖語は要らんわけですよ。自分の心が―疑問の心が相手だったから。
 
白鳥:  ここで言っている「身の批判、身の上の批判」というのは、どういうことなんですか。
 
河野:  これが盤珪禅師の修道観と言ってもいいものだと思うんですが、どのように盤珪の不生禅を修行していったらいいのかと。先程来、生まれ付きに仏心を我々は備えておる。備えておるけれども、仏心のままいつもおれない。どうしておれないか、というなら、身に贔屓があるからだと。身に贔屓なしに日暮らしするのには、どうしたらいいかと。それは身の上の批判をしなさい、ということになるわけですね。ですから我が身の批判でありますから、仏語、祖語は要らんわけですね。自分の心の中を覗けばいいわけですから。ですからこの身の上の批判ということは、現代語で言いますと、「自己反省」「自己批判」という言葉がありますが、それと似たような言葉ですけれども。「自己批判」とか、「自己反省」という時には、身体と心の反省が重点ですね。自分が何かしでかした、ああいうことをしなければよかったんだ、という反省。それから要らざることを言ったとか、言わなかったとか、という身体と口の反省ですね、そういうところが主ですが、この盤珪禅師の身の上の批判は、その行動と―口で喋ることも行動に入れれば行動ですね―行動が出てくる以前の心のありようを批判する。心の有りよう、自分のそういう行動が生まれてくる根本の心の姿が、どんな姿でおるのか。それの批判をしろと。常にしていく。こうしていくことによって、親が生み付けたもうた仏心というものが、ちゃんと存在していることが明らかになっていくだろう、というんですね。それでとにかく自浄錬磨と言いますか、「現成公案(げんじょうこうあん)」という―こんなこというと盤珪禅師に後ろからどやしつけられそうですがね。現実の生活の中に現れる日常茶飯事―お茶を飲むとか、トイレに行くとか、そういうことが、一つの仏法上の、人間が生きていく上での一つの問題点として仕立て上げていく。これ「現成公案」ですね。これは古来から言われるわけですけれども、まさに盤珪禅師は、現成公案を言っておられたんでありましてね、そのところに盤珪禅師が、仏祖祖語という古(ふる)ほうぐ(一般には、古反故(ふるほうぐ)。古いほご紙。盤珪にとって公案などは不必要なもの、それゆえ、古いほご紙を取り出して詮議立てするような、無益なことはしない、という意)を用いない、というところがあるんですね。そしてまた「生まれ付き短気で困っておると。どうしたら短気が治せるか」と言った人に、「そんならここへ短気を持ってきなさい」「いや、今出せと言ったって出せません」「今出せないものが、どうして生まれ付きじゃと。あなた、生まれ付き短気だ、と言ったけど、どうしてそれが生まれ付きなんだと。生まれ付きではない」と、こう言って安心させるというところがあるんですがね。これがまさに達磨(だるま)(禅宗の開祖とされている人物)さんの法を嗣いだのが二祖慧可(えか)(中国禅宗の二祖。正宗普覚大師:487-593)禅師でございますが、この二祖慧可禅師が達磨さんのところへやって来て、「私、大変不安でございます。どうかこの不安な心を安らかにして頂きたい」こう言いますと、達磨禅師が、「その不安の心をここに持って来なさい」と。一晩考えたけれども、持って行くことは勿論できなかった。「そんな心は持ち出せと言ったって、持ち出せません。ありません」とこう言ったら、達磨は、「汝がために安心(あんじん)し終わる」と。「君のためにご希望通り安心させてやったぞ」と、この一言聞いて、慧可は悟りを開くんですね。これが達磨の「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」という仏法なんですね、達磨の仏法は、そう言います。この仏法そのままじゃありませんか。生まれ付き短気だと。短気な心をここへ出せ。いや、出せん。出せなければ生まれ付きじゃないじゃないか、と言って安心させるところね。まさに達磨と直結するんですね。
 
白鳥:  「日本禅」とおっしゃいましたね。それが禅の始祖の達磨さんにそのまま繋がっている。
 
河野:  繋がっている。ですからこれが独断的な盤珪禅師の独りよがりではない、ということですね。独りよがりのお悟りではない。盤珪禅師のこの仏法禅は、まさに独創的な日本で生まれた日本的なものでありますけれども、しかしそれを根底を覗きますと、先ほど申しましたように、達磨の二祖と合うんですね、初端(しょっぱな)の祖師である達磨の禅法にいきなり繋がっているということなんですね。ですからここに盤珪禅師の悟りの正当性というものがあると思うんですね。そしてその悟りにいく方法は、身の批判、身のうえの批判ということを申したわけでありますけれども、この盤珪禅がわずか二、三代で絶法してしまうということになって大変惜しまれるんでありますけれども、しかし違った観点から言いますと、如何に独創的なものであっても、その文化を創造した方が亡くなり、次の代になりますと、もう既に二代目で、それだけの命の経過という年を取ったということがあるんですね。ですからこの日本禅を、例えば白隠禅師の白隠禅のように、教法をカリキュラム化して残せば残せないこともなかったと思います。しかしそれはまた盤珪禅師のお言葉から借りるならば、もう「古ほうぐ」である。自分が言っているから独創的な日本禅であって、それを今度は弟子が、「盤珪禅師曰く」と言って、弟子にそれを問題として与えるならば、もはや盤珪禅師のおっしゃる「古ほうぐになりさがってしまう」と、こういうことですね。ですから、このことは盤珪禅師の古ほうぐ批判というものは、常に禅門に新たな命を投げかけてくる。そういうまだ力を、絶法したが故に、そういう力を持っているというふうに私は感じる。そしてしかもすべて生き物―この世界に存在しておる生きておるものとか、それから文化というようなものは、そういうものであろうと。常に創造されて建設された当時というものは、生きた血肉が溌剌と踊っておるんだけれども、しかし時代が経過してまいりますと、徐々に形骸化していって、いつの間にやら創った当時とは似ても似つかないものに成り下がってしまうというのが、これは文化の宿命というものだろうと思うんですね。そういった宿命を脱却するのは、常に身のうえの批判であり、そして破ると言いますかね、盤珪の日本禅は、盤珪さん二、三代によって絶法した、破れちゃったわけですけれども、破れることによって、かえって新たなものを生み出していく。あらゆるすべての文明を批判するところの根源的な眼というものがギョロッとなんか光っておるような、残っておるようなふうに、私は思うんですがね。
 
白鳥:  三百年経って、こういう形で、ほんとに盤珪さんは、ものを書いたりなさらなかったし、それから書き付けを残すことを許さなかったそうですね。
 
河野:  そうですね。
 
白鳥:  窃かにお弟子さんたちが書いたこの『法話集』というのが残っている。
 
河野:  みんな書き付けて、それを借りて自分たちはまた書き写して読むというようなことで、正規に出版されたのは、盤珪さんが亡くなられてから大分経ってからのことですね。
 
白鳥:  今三百年経って、非常に私はフレッシュな思いで読ませて頂きました。今日は有り難うございました。
 
ナレーター:  京都・嵐山にも紅葉の季節が次第に近づいていました。嵯峨野(さがの)天竜寺(てんりゅうじ)の塔頭(たっちゅう)の一つ金剛院に花園大学教授の加藤正俊(かとうしょうしゅん)さんをお訪ね致しました。加藤さんは、禅の書についてお詳しく、最近では盤珪禅師の『墨跡集』の編纂にも携わられました。
 

 
白鳥:  加藤さんは、盤珪禅師の『墨跡集』を編纂されたということですが、盤珪禅師はこういった書画などはかなり残されているんですか。
 
加藤:  そうですね。たくさん残っておりますですね。しかも随分若い時からのものが残っておりますので、前から非常に尊重された人だったと思いますね。しかも写経から、歌なども―『新古今集』辺りの恋の歌なんかもよく書いているんですね。テキストにあったから書いたんでしょうかね。
 
白鳥:  『法語集』なんか読ませて頂きますと、かなり晩年の盤珪さんがわかるんですが、そうしますと、書画からはかなり若い頃からの足取りがわかるんでしょうか。
 
加藤:  そうなんですね。「十牛図(じゅうぎゅうず)」という有名なものがありますね。あれなんかも絵を書いて―漢字は書いていないんですが、歌を書いているわけです。そういう巻物が、何メートルというのがありますですね。それから「血書(けっしょ)」と言って、自分の指を切って、血で書かれた写経というのがたくさん残っていますね。写経から、墨跡から、それから坐禅の結制(けっせい)なんかやっていますね。大変な時間をいろんなことに注いでいます。
 
白鳥:  盤珪さんは、ご自分で著書という、教えをそのままお説きになるようなご本はお書きにはならなかったし、弟子たちにも教えそのものを記録することを禁じられておられたと聞くんですが、そうすると墨跡というような形で、いわば盤珪禅師の教えのキーワードみたいなものは残されていると考えてよろしいでしょうか。
 
加藤:  そうですね。「公案というようなものは古ほうぐで、儂のところでは使わん」というようなことを述べておられますけどね。たくさんの公案の墨跡が各地に残されておるんですね。
 
白鳥:  これは面白いことですね。
 
加藤:  面白いと思います。今までの盤珪さんの評価というものが、元禄三年(1690年)前後の結制の時の記録というようなもので全部評価されておるんですけどね。しかし若い時からのずっと過程というものを辿ってくると、かなり違った評価が生まれるんじゃないかなという、そういう考えがしております、今のところ。
 
白鳥:  早速ですね、実物と、そして一部写真を加えながら盤珪禅師の筆の跡を辿って頂きたいと思います。床の間の右の軸からまいりましょうか。
 
加藤:  萬理一條鐵(萬里一條(ばんりいちじょう)の鐵(てつ)
 
という禅語を書かれておるんですけどね。そういった禅語の意味を離れても、萬理の終点に鐵のレールでもぐんぐん伸びているような、なんか非常に気持のいい気がするんですけどね。どっしりとした字ですね。しかも非常に濃い墨で書いておられるわけですね。私は小さい時に聞いたんですけど、「盤珪さんの墨跡というのは、墨がピカリと光らなければ贋物だ」と言われたような気がするんですけどね。実際に墨が光るような濃い濃墨で書かれておるんですね。
 
白鳥:  「一條」の「一」の左のところはまさに光っておりますね。
 
加藤:  光っておるでしょう。この「萬理」というのは、空間の萬理と共に、時間の萬理というか、時間空間を超えた天地宇宙というものを言っているんだろうと思いますが、天地宇宙に、「一條の鐵」というのは、絶対的な真理だ、と思うんですけどね。絶対的な真理がすべてを超えて一貫しておるという、そういう意味だろうと思うんですね。絶対的な真理というものは、この千差万別のこの現象世界のうちに内在しておって、しかもその現象を現象たらしめておる根源的な本体というような気がしますが、それは言い換えれば仏性であり、仏心であろうと思うわけですね。だから「萬理一條の鐵」ということで、この宇宙全体を貫いておる一筋の真理だ、そういうようなことを意味しておるんじゃなかろうかと思うんですけどね。
 
白鳥:  次に左の軸です。
 
加藤:  箇々披衣珠(箇々(ここ)衣珠(えしゅ)を披(ひ)す)
 
「箇々(ここ)衣珠(えしゅ)を披(ひ)す」という、「披(ひ)す」は手偏に皮という字を書いて、身に付けるという意味だと思いますけどね。「箇々」というのは、一人ひとりということですが、「衣珠(えしゅ)」衣の珠ということで、非常に貴重な財宝ということでありますが、人々みなすべて非常に尊い財宝を身に付けておるという意味だろうと思うんですけどね。これは『法華経』が出典でありまして、この『法華経』の「五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきぼん)」に載っておる言葉でありますが、これは外国というか余所へ行く友だちが、自分の親友を訪ねて最後の別れに行くわけですね。その時に別れでいっぱい酒を飲んでおるんでしょうね。それで相手が酔っぱらってしまって、寝込んでしまう。その時に外国に旅立つ友だちが、その友だちの衣の襟に無価宝珠という比べようのない、比較もできないほどの立派な宝を縫いつけていくんですね。それが友だちが去った後、目が覚めるんですけど、そういう大事なものが縫いつけてあることを知らないわけです。それでまあ非常に苦労し貧乏するわけなんですね。苦労を経た後に、またその友人と再会するわけです。その友人が、「お前の衣に私は立派なもう世界にないような珠を縫いつけておったんだと。それをお前は知らなかったのか」と。それを聞きまして、その珠を出しまして、それで裕福な満ち足りた生活をした、というんですけどね。この「衣珠」というのは、みんな持っておる―盤珪さんに言わせれば、それが「不生の仏心だ」というわけですね。みんな仏心を持っておりながら、それに気付かないんだと。そして悩み苦しんでおるんだと。めいめい立派な衣珠がありながらそれに気付かないのであると、そういうことを言われているんですね。非常に盤珪さんらしい言葉だと思いますね。こういう言葉を墨跡に書いた人も、私は知りませんですね。自分の「不生の仏心」に相応しい言葉だと思って書かれたんだろうと思いますけどね。
 
白鳥:  では次にまいりましょうか。
大道透長安(大道長安に透(とお)る)
 
 
加藤:  これは『趙州録(じょうしゅうろく)』に載っておる言葉でありましてね、その趙州従?(じょうしゅうじゅうしん)(中国唐末の禅僧:778-897)禅師の弟子が「如何なるか是れ道」というんですね。道とはどういうものか、というわけですね。そうすると、趙州和尚が、「墻外底(しょうげてい)」と言うんです。「墻」というのは、垣根という。垣根の外側に小さい道が通っている、そこに道があるじゃないか、というわけですけど、その尋ねた僧は、「恁麼(いんも)の道は問わず」そんな道を聞いておるんじゃない。「大道は是如何」と、大きな道とは何かというわけですね。「大道は長安に通ず」と、趙州和尚が言うておるんですね。「長安」というのは、悟りの世界、仏の世界というわけで、「すべての道はローマに通ず」という言葉がありますが、それと同じようにすべての道は長安に通じておるんだと。「道」という、人の踏むべき道というものはすべて悟りの世界、長安に通じているんだと。ただ自分にそういう志があれば通じておるんであって、志がなければ通じておることがわからないわけですけど、日常茶飯事においてすべて行為がすべて仏の悟りの世界に通じておると、そういうことだろうと思いますね。私は、この「大道長安に透る」という字が好きな字です。「道」というのは魅力ある書き方です。
 
白鳥:  「透る」透明の透、透き通るという字ですね。
 
加藤:  普通一般に「長安に通ず」というようなことでよう言われておるんですけどね。原典は「透る」ですね。
 
白鳥:  「長安」というのは、そういう悟りという意味がある。
 
加藤:  悟りの世界ですね。
 
白鳥:  都の名前ではないんですね。
 
加藤:  都の名前を、悟りの世界を象徴しているわけですね。
 
白鳥:  では次にまいりましょうか。
 
加藤:  「天鑑無私」(天鑑(てんかん)(わたし)無し)
 
「天鑑(てんかん)私無し」という。天の鑑(かがみ)という。天の鑑(かがみ)はすべて写しておって、私のことを写しない、すべて公平無私に写しておるということで、「天鑑私無し」という語でありますが、これも面白い逸話があるんですね。盤珪さんはすべて大衆と同じ食物を食べられた。しかも同じ鍋で炊いたものを一緒に食べたということで、それ以外のものは断固として退けられて自分だけのものを食べられなかったという、そういう逸話があるんですけどね。ある時、昔のことですからひょっとしたことで味噌の樽が一樽全部腐るということがあったわけなんですね。その味噌をほかすわけにもいきませんので、雲水たちは腐った味噌で味噌汁を食べておったんですけどね。盤珪さんは非常に身体の弱い人なんで、この味噌で老師が食中毒されたら困るということで、弟子どもが寄って新しい味噌を仕込んで、盤珪さんに特別の味噌汁を差し上げたんですね。そうするとお給仕をしておった弟子の僧に、「今日からえらい味噌が変わったなと。これまでの味噌はみな使ってしまったのか」と言われたら、正直な雲水で「実は味噌は腐ってしまって、盤珪さんには身体に当たると悪いということで特別の味噌を仕入れたんだ」というようなことを言ったんですね。そうすると、盤珪さんは非常に腹を立てられて、「自分は常日頃いつも言うておるじゃないか。みな雲水と同じものを儂は食べるんだと。それをこういうものを出すというのは、儂に食事をするなということか」と言われまして、そのまま立って自分の部屋へ閉じ籠もってしまわれたんですね。それで弟子の大梁祖教(だいりょうそきょう)(1638-1688)という人ですけどね、この人は盤珪さんの第一の弟子で早く亡くなってしまって、盤珪さんが非常に悲しんだ人なんですけど、その大梁さんが部屋まで行って、盤珪さんの衣に縋りついて「どうも私が悪うございました。どうか食事を召し上がってください」と言ったが、追い出してしまって、部屋の戸を閉めて鍵を掛けてしまわれた。それで弟子の大梁も非常に悲しんで、自分もそのまま部屋の前に坐って食事をしないという、絶食の状態が始まったんですね。それが七日にも至った。七日間老師も食べられなければ、弟子も食べられないという、そういう状況が続いたので、心配して雲水たちが、盤珪禅師と同じ歳で一緒に寺子屋で勉強した灘屋(なだや)(佐々木道弥)という豪商がおるわけですね。この灘屋が非常に盤珪さんの後援者でありますが、その灘屋を呼んで来ましてね、そして「なんとか盤珪さんをなだめてほしい」ということで、灘屋が入りましてね、盤珪さんに言ったわけなんですね。「弟子の祖教も絶食しておるんだと。どうか悪いと思っておるんだから赦してやってくれ」と、そういうことを言われたんですね。その時に、盤珪の『法語集』に言葉が載っておるんで面白いですが、こういうことを言っておられるんですね。
師曰く、大梁能(よ)く聞きやれ。凡そ一方に所して知識・師家分上たる者は、人天の鑑(かがみ)、四衆の手本と成るべき者也。其れ人の鑑と成るべき師家たる身は、亳釐(ごうり)も私意を指挟(さしはさ)んではならぬわい。其方は身共をかばうて大切に思へども、その大事に思うて作(な)す事は、皆、身共が讐(あだ)と成るわい。なんと合点致したか。
 
と、そういう忠告をして、漸く弟子たちの誤りを入れられたというんですね。「知識」高僧の呼び名、「人天」人間界、天上界、「四衆」仏門の四種の弟子。比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の総称ですね。この師家というもの、あるいは知識というものは、人間の鑑でなければならんと、そういうことを言っておられた。それがそのままここに書かれたような気がするんですね。「天鑑私無し」という。非常に感銘深い言葉だと思うんですね。
 
白鳥:  非常に禁欲的な方だったようですね。
 
加藤:  そうですね。禁欲的なと言いますか、自分を律するというか、そういう心の強い人のような気がしますね。
 
白鳥:  それでは次にまいりましょうか。これは禅の方々がよくお好きな円相(えんそう)でございますね。
 
加藤:  円相というのは、何を書いているのか、なかなか難しいんですが、その場合、その場合によって、いろんな円相を書いておる対象が変わるわけですけどね。この盤珪さんの円相というのは非常に珍しい二筆で書いておりますね。普通一筆でグッとお書きになられる方が多いでしょう。二筆は珍しいんですね。しかも左側の円が小さくて、右側の円がそれを覆うような格好で書いてありますね。しかも非常にゆっくりしていい円相なんですけどね。
 
白鳥:  さて、この賛がございますが、「釈迦弥勒は他(かれ)の奴(ぬ)」それでよろしいんでございますか。
 
加藤:  はい。これは『無門関(むもんかん)』に載っておるんですけどね。『無門関』の四十五則に載っておる。「他是阿誰(かれはこれあた)」彼はこれ誰か、という公案ですけどね。その公案の文句が、ここに載っておりますのを読んでみますと、
 
東山演師祖(とうざんえんそし)(いわ)く、釈迦弥勒(しゃかみろく)は猶(なお)(こ)れ他(かれ)の奴(ぬ)。且(しばら)く道(い)え、他(かれ)は是(こ)れ阿誰(あた)ぞ。
 
という。ここからきておるわけですね。これはどういうことかと申しますと、東山の五祖法演(ほうえん)(1024?-1104)禅師という人が言われたんですけど、この五祖法演禅師が次のように言われた。わが大恩教主釈迦牟尼仏も、それから五十六億七千万年の後に、兜率天(とそつてん)からこの世に下りて来て、釈尊の救済に洩れた衆生を救うと言われる、そういう弥勒菩薩を下僕、僕(しもべ)であるに過ぎないというんですね。一体この釈迦牟尼仏も、そして弥勒菩薩というような人も下僕にしてしまうような、召し抱えにしてしまうようなかれとは一体何かと、そういう問い掛けなんですね。
 
白鳥:  「他」と書いて「かれ」なんですね。
 
加藤:  そうですね。それをこの円相で現しておるんですね。この円相というのは、みんなそれぞれもっておる仏性であると。仏性が一番尊いのであって、この仏性が釈迦牟尼仏も、弥勒菩薩もみんな奴僕(ぬぼく)にしてしまう。僕(しぼべ)にしてしまうと。この世の中で一番尊いのは、この人人がもっておる仏性である。そういうことを言って、盤珪さんはこれを「不生の仏心」と言うておられるんだと思いますね。
 
白鳥:  さて、先ほどの加藤先生がおっしゃったんですが、盤珪禅師の―私も今まで活字で、『仮名法語』の世界で盤珪禅師を見てきましてね―それとは違う盤珪像というのがあるんじゃないかと、先ほどおっしゃいましたですね。
 
加藤:  そうですね。実際盤珪さん自ら書かれたものが残っておるんですね。それを読んで見ますと、一番多いのが雲門文偃(うんもんぶんえん)(中国の禅僧、雲門宗の開祖:864-949)禅師という中国の祖師でございますけどね。雲門の語録を書いた、公案を書いたのが非常に多いんです。それからもう一つ有名な趙州禅師の公案を書いた書き物が非常に多いわけですね。大体盤珪さんというのは、公案を否定した、「公案を古ほうぐだ」というようなことを言っておられますね。そういった盤珪さんが、こんなにたくさん公案を書いて与えておられる。また貰った者も非常にそれを尊重してちゃんと表装して残っておるというのはやはり面白いなと思うんですね。
 
白鳥:  この『法語集』の中に、ある僧が、なかなか公案が解けないと。「願くは禅師、開示したまへ」という質問したところが、「禅師の曰く、身どもが所で其のような古ほうぐの詮議は致さぬ」と。
 
加藤:  ちゃんと書いてあるんですね。だから私が思うんですけどね。そういった記録は盤珪さんが死ぬ三年ほど前のすべて記録なんですね。だからそこまで到達される間の過程がやはりあるんだろうと。そういう過程を通じて最後に「不生の仏心」というところに至られたんだろうと思うわけなんですね。二十六歳で若くして、「不生の仏心」を悟られたと。その「不生の仏心」という言葉が実際に出たのはもっと後のことであって、悟られた事実は事実であっても、「不生の仏心」という言葉は後で出たんじゃなかろうかと思うわけなんですね。たくさん公案が残っておりましてね、四十九歳の時ですかね、四国の大洲の如法寺(にょほうじ)というところで結制がありまして、ある公案を出されるわけなんですね。そうしますと、それに対してこの多くの雲水が答えをくだすことができないわけなんですね。それを非常に怒られまして、盤珪さんが山の上にあがって門を閉めてしまって出て来られないという状態があるんですね。そしてみな考妣(こうひ)を失った、「考」というのはお父さん、「妣」というのはお母さん、を失ったような思いで悄然とした、というような記録が残っていますね。そういうのを見るとやっぱり公案を使っておられるなと思うんですね。しかしその公案に一人も答えられなかったというような状況があって、公案は日本人には向かんのではないかなという、そういう思いがしてだんだん変わっていったんではなかろうかと、そのように思うわけですね。
 
白鳥:  教えを伝えていく、その中での試行錯誤というのは続けていらっしゃったということなんでしょうね。
 
加藤:  そうそう。それが私は大事だと思いますよ。不生仏心に至るまでのね。やはりもう一遍みんなに考え直して頂くと言いますかね、じっくり考えてほしいことだと思いますね。
 
白鳥:  昨日神戸の祥福寺へ行きまして、床の間に頂相(ちんぞう)、つまり盤珪禅師の肖像画がありまして、あの肖像画はかなりあるんでございますか。
 
加藤:  ええ。私の見ただけで五十点近くあります。非常に画像を祀ってその人と毎日会うという、そういう態度ですね。これは非常に相手を尊敬した場合に初めて可能なことでありましてね。当時この『法語集』にも載っておりますけどね、たくさん人が画像を描いて祀ったというようなことが書いてありますね。それが現代まで残っておるんだと思います。「師を仰ぐこと父母の如し。家々、像を描いて供養するに至るという」。だから各自在家の家々で、この盤珪さんの絵を描いて供養したという、それほどですから、現在もたくさん残っておるんですね。白隠さんも非常にみんなに尊敬されたわけでありますが、白隠さんの画像って、そんなに残っていませんからね。
 
白鳥:  そうしますと、民衆布教をした盤珪禅師に親しさみたいなのがある。
 
加藤:  そうですね。白隠さんというのは、どちらかというとプロの存在で、仏教団の主流を歩いた人ですわね。盤珪さんは民衆の中に足を踏み込んだ人だと思います。民衆と親しく法語を交わした人だと思うわけですね。そういう点で画像もたくさん描かれたんだと思いますよ。
 
白鳥:  盤珪禅師の頂相(ちんぞう)も含めまして、この墨跡の残されたものというのは大きいものがございますね。
 
加藤:  そうですね。
 
白鳥:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成四年十一月十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである