渓声山色これわが師
 
                      永平寺貫首 丹 羽(にわ)  廉 芳(れんぼう)
一九○五年(明治三八年)、静岡県(現)田方郡修善寺町生まれ。一九一六年静岡市の洞慶院住職丹羽佛庵について得度。一九三○年東京帝国大学文学部印度哲学科卒。清水市の一乗寺・龍雲寺の住職を歴任。一九五五年洞慶院住職。一九六○年永平寺東京別院監院。一九七六年永平寺副貫主。一九八五年永平寺七七世貫首に就任。一九九三年、享年八九歳にて遷化。洞慶院時代に、曹洞宗梅花講(御詠歌)を全国に普及させることに尽力。海外に積極的に出かけて各地の宗教指導者と交流した。(1986年中国、1987年ヨーロッパ、1989年スリランカ)ヨーロッパ訪問時はヨハネ・パウロ二世とも会見している。一九八六年には永平寺国際部設置。著書に「老梅語録」
                      き き て 金 光  寿 郎
 
ナレーター:  曹洞宗(そうとうしゅう)大本山永平寺(えいへいじ)では、五月十五日から八月十五日までの三ヶ月を夏安居(げあんご)と言います。この期間雲水たちは山に籠(こ)もり、ひたすら坐禅を組みます。開祖道元(どうげん)禅師は、「一木一草皆仏(いちもくいっそうみなほとけ)」と称えました。己を捨てて森羅万象(しんらばんしょう)と一体となり、大いなる宇宙の真理を感得するところに道元禅の真髄があります。
 

 
丹羽:  「渓声山色(けいせいさんしょく)」と書いたら永平寺ということなんで、
 
峯の色渓(たに)の響(ひびき)も皆ながら
(わが)釈迦牟尼の声と姿と
 
というご開山のお歌がございます。その意味でも「渓声山色」と言ったら、永平寺の代名詞ということでございます。すぐにお山を思い出すんですね、その字をみますとね。
 

 
金光:  今日は、福井県にあります曹洞宗大本山永平寺をお訪ねしております。丹羽廉芳(にわれんぼう)禅師さまにいろいろお話をお伺いしたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。『修證義(しゅしょうぎ)』の一番冒頭のところに、
 
生(しょう)を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり
 
という有名な言葉がございますが、私どもの方に流れてきた噂では、その『修證義』の話とはちょっと違う次元で、禅師さまは、昨年ですか、ヨーロッパの方で、その死の方に(フランスで自動車事故に遭われたこと)大分お近づきになったと伺ったんですが、どういうご様子だったんでございますか。
 
丹羽:  いろいろの原因があったようでございますが、非常に早い百二十キロぐらいの速度で走っておりましたのが、パンク致しまして、急にグッと停まった時に、窓の方へ頭をぶっつけまして、どうもそれが悪かったんじゃないかなと考えますが、それでもお陰様で大変に手術の結果が上手くまいりまして、殊にご親切に静岡の済生会(さいせいかい)病院の院長さんと副院長さんが脳外科の方の主任で、ここへ孔を開けてくださったのですが、脳の外科の方では一番初級の硬膜下血腫(こうまくかけっしゅ)という、血の膿が脳を押していって、そして足が千鳥足になりまして、このお山からずっと杖をついて門のところまでまいります。杖をついているのに足がこういうふうに乱れるんで、それで下りてまいりましたら、お役寮(やくりょう)(修行僧とは別に、永平寺という巨大な組織の運営や修行僧の教育指導といった仕事を担当する幹部クラスの僧)のみなさんが見ていて、「丹羽さん、その足で北海道へ行くと、小松空港へ行くまでに、はい、さようならだな=vと、こう言って、すぐにお役寮さんの中のお一人が、お代理で小松空港から北海道の方へまいりまして、私は、その足で静岡の病院の方へ夕方着きまして、そしてCTを撮って、脳の写真を見てくださったら、「まだ今夜ぐらいもつだろう」と、病院の方では電気をぐんぐん点けて手術の仕度をして待っていてくれたようでございますが、そのお陰で翌日の朝もう一度CTを撮りまして、様子を見て、十二時から―真昼間から二時間かかって、ここへ孔を開けまして、そして私にもう一人中村病院の院長が平素の主治医でございますが、そのお方が、「丹羽さん、儂も三年ばかり前に同じ副院長さんで手術したけれども、痛いことは凄い痛いから、もしあんたが痛いなんて言ったらば、お坊さんの恥を一人でかくから、もう歯ぎしりをして絶対痛いなんていうことは叫ばないように」と言われて、手術台へ上ったんでございますが、いよいよ始まりましたら、もう地球をグルグル二時間回ったほど痛いんでございます(笑い)。それでもそれが終わりまして、ベッドへ横になっておりましたら、岡本一男(おかもとかずお)院長さんと、それから手術された副院長さんと主治医の中村さん、三人の博士がニッコリ笑いまして、ああ、医学博士ともなると、あんないいお顔ができるものかと思うように微笑まれましてね、そして私の足をこう持って揺さ振りましたんです。そうしたらピンとしているんで、千鳥足がなくなったんです(笑い)。それで大変成績が良くて、「これじゃ、丹羽さん、三十年若返りました」と、三人で口を揃えておっしゃってくださった。それから私も、ああ、流石は医学博士になるようなお方々が、お三人もにこやかな顔で私に言ってくださるから、そうかなと、こう思いまして、それから四日目でございます。またもう一度CTを撮りまして、断層の写真をお三人でよく調べて、「ついでにもう一度洗っておこうじゃないか」というので、二度目をまた孔を開けまして、また二時間丁寧におやりくださった。そのお陰で五ヶ月休養致しまして、今年一月十六日の日に、成人式は休みですから、翌日また朝早く行ってCTを撮りました。その時は手術された副院長さまが診察をしてくれて、それが二度目もやって、あまりに綺麗になったものですから、「この分じゃ、三十年若返ったのは取り止めだ。五十年若返りました」(笑い)と、お一人で言ってくださいまして、喜んでくださった。そうすると、二回も洗浄をしてくださったお陰で、痛い思いを二度致しましたけど―そうおっしゃっても生身でございますから、いつどんな明日の日も生きれないわけでございますが―とにかくこの調子では「五十年若返った」とおっしゃいますから、今三十四歳になったわけでございます(笑い)。心の中じゃ嬉しいんでございますね(笑い)。
 
金光:  じゃ、すっかり頭の中もオーバーホールで、掃除して頂いたわけでございますね。
 
丹羽:  掃除を頂いたんで、
 
金光:  禅師さまのお師匠さまは、どういう方だったんでございましょうか。
 
丹羽:  私が七十七代でございますが、七十三代目に熊沢泰禅(くまざわたいぜん)猊下(げいか)、この方は二十五年もご住職をなさった方で、九十六歳でお亡くなりになられました。私の師匠は丹羽佛庵(にわぶつあん)と申しますが、熊沢禅師様と非常にご懇意でございまして、その時私の師匠は七十前でございましたが、ぜん息が酷くて、もう身体は痩せ衰えて骨と皮だけでしたが、熊沢禅師さまのもとで監院(かんにん)を三年間頑張ってお勤め、その三年の間に三度死にっぱぐれにぜん息で遭いまして、お役寮さんたちが棺の仕度をしてくれたというのが三度あります。その時に師匠から私に電報がまいりまして、「ナツカンジサンスグコイ」夏みかん持参すぐ来い、と電報と打ったんだそうですが、それがそんなバカなことが世の中にあるものか。何か滋養になるものがあったら持って来い、というのだろうと思って、静岡のお世話人のお婆さんが、物のない終戦後でございましたので、それこそ苦労して漸く作ってくれた、それを持って来た。ところが私が、門前へまいりましたら、果物屋がありまして、夏みかんが出ておりましたから、〈あ、師匠好きだったな〉と思って、三つ買って持って来たから良かったんですが、それがなかったらとんだ目に会うところでございます。どやされたわけでございます。私は、その時福井へ下りて、だるま屋で師匠の好きな柔らかいお餅を買って持って来ました。そうしたら師匠は喜んで―食べたら悪いのだそうですが―お医者さんに内緒でそっと夜中に起きて、そして袋戸棚から夏柑を出して食べたそうです(笑い)。そうしたら突然また悪くなりまして、「丹羽さん、食べちゃ悪いものを食べて、これでもうあなたはさようならだ」と医者に言われて、それから後で、静岡の方の医者にお話しましたら、「丹羽さんは親孝行だよ」と。私がそれを買って行ってお餅を食べさせたりしたから栄養失調が治って、それから十年生きましたから、七十六歳で亡くなりましたが、喧しい師匠でございましたが、そういういいところがございました。
 
金光:  禅師さまがお書きになった書物を拝見したんですが、『みんな如来様だよ』という題名のものを拝見したんでございますが。
 
丹羽:  若い頃の、
 
金光:  これは、「みんな如来様だよ」と申しますのは?
 
丹羽:  人間だけでなしに、宇宙全体の万物が如来様という意味でございます。
 
金光:  私も?
 
丹羽:  はい。無論のことでございます(笑い)。
 
金光:  そちらに生えているどんな木も?
 
丹羽:  ええ。それは私が常に思いますが、ご開山様が、
 
峯の色渓(たに)の響(ひびき)も皆ながら
(わが)釈迦牟尼の声と姿と
 
という道詠がございますが、ご開山様のご修行の眼(まなこ)からご覧になりますと、この世の中に詰まらないもの、粗末というものは、一物もないですね。あらゆるものが、「法あれば即ち生じ、法なければ即ち生ぜず」という坐禅の『弁道法』(べんどうほう)のお示しにありますが、生まれてきておるものは、全部が法である。宇宙の真理である。如来様であるという、ご開山さまのご慈悲でございまして、これはお釈迦様から達磨大師、ご開山様の承陽(じょうよう)大師(道元禅師の謚号)まで、ずっと正伝の仏法として生きておりますので、二千五百年前の御教えがそのままこのお山に、
 
金光:  そうしますと、有名なよく「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という、山川草木悉くみな成仏しているというのを易しい言葉でおっしゃって頂いたというわけでございますね。
 
丹羽:  そういうわけでございます。みんな如来様だよ。それでずっと仕込まれてきたものですから、岸澤惟安(きしざわいあん)(1865-1955)老師という眼蔵家がございまして、私が、小僧に十二で静岡の寺へまいりました年から、岸澤老師が、永平寺の「眼蔵会(げんぞうえ)」というのを、十七年間、五月六月と二ヶ月間眼蔵の講師で、ここでおやりになられた。その老師様が十ヶ月間洞慶院(とうけいいん)(静岡市羽鳥)という静岡の寺で、毎月永平寺へ来た時だけお休みで、後は毎月来てお講義をしてくださいましてね。それで私は、師匠が私を寺へ連れて行って、翌日から東京の出張所(永平寺東京別院)へ務めたものですから、師匠には何にもものを教えて頂きません。お経一つ教えて頂きません、十八年間ね。それで永平寺から永平寺の出張所へ勤めておりますから、永平寺から留守居二人づつ雲水さんが来てくださって、半年か一年、長いのは何年もおりました。その方々に教えられたんでございます、お経からなにもかもいろいろと。
 
金光:  今のお言葉も、「みんな如来様だよ」と聞きましても、やはりなかなか〈あ、そうだな〉ということなんでございますが、これはやっぱりほんとに〈そうだな〉と思えるのには、やはり修行と言いますか、思うと思うだけじゃ思えないものでございますね。
 
丹羽:  そうでございますね。その時に私は十二まで、十人兄弟として生まれて、お姉さんもあるし、お母さんもあるし、お客さんにお茶なんて出したことは一度もございません。ところが岸澤老僧が、眼蔵会の講師で毎月お出でくださって、奥座敷におりますから、兄弟子が、「廉芳、講師さんのところへお茶持って行って来い」と。「何と言って置いてくるんですか?」「お饅頭持って、置いて来い」「何と言うんです?」。そうしたら兄弟子が「どうぞお一つ召し上がれ、と置いて来い」。それから私はブルブル震いながら前へ行って、「どうぞ一つ召し上がれ」とこう言って置いたら、「一つしかくれないかい」とこう私に問い返されたんで、変なこと言うお師匠さんだなと思って、ビックリして戻って来ましたが、今考えると、「一即一切」一切が一つ、一つが一切、というご開山様の一番お釈迦様からの極意が、「一即一切、一方を証する時は一方はくらし」という、あの眼蔵の「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻の、尊いお言葉がもうご開山さまの宝、一番尊いところでございますね。「一方を証するときは一方はくらし」。この「こころの時代」だと言って、「身心一如(しんじんいちにょ)―身と心は一つだ」と申しますが、その「心」と言った時には、身体のことは隠れて心に現れている。それで「一切如来―みんな如来様だよ」という、岸澤老僧に教わったことでございます。
 
金光:  普通は、「心」というと、頭の中だけと思いますが、今の逆もあるんですね。頭だけではなくて、身体が全部心だ、ということになるわけですね。
 
丹羽:  そういうことです。宇宙全体が心ですね。
 
金光:  これだけの小さいものじゃないわけでございますね。
 
丹羽:  そうです。
 
金光:  ただ、その場合も、あれが心かな、というふうに?
 
丹羽:  お釈迦様かなと思いますよね。
 
金光:  有名な言葉で、
 
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる
 
という道元様のお言葉がございますが、やはりそういうふうに自分の身や心を放ち忘れると、やはり今おっしゃったようなことも気が付く。
 
丹羽:  宇宙全体になるわけでございますね。
 
金光:  そうすると、私どもとしては、あれこれ考えるよりも、まずそれをお休みすると申しますか、
 
丹羽:  お休みして、そしてご開山様のお言葉で言えば、「もう坐禅に打ち込むように」というのでございますね。知らん顔して一切を捨てて、解脱脱落してですね、そういうお心でございますね。一切を捨てて、只管打坐と言いますね。ただひたすらに坐禅に、それが心、心全体が宇宙と一つになっていく。無礙自在(むげじざい)と言いますね。障りがない。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
丹羽:  この身体で実地に努めるということが一番大切で、私、雲水さん―大衆(だいしゅう)(永平寺の修行僧の意味で普通の学校で言えば生徒にあたる。一般的には「たいしゅう」と読むが永平寺では「だいしゅう」と読む。永平寺に入れば大学をでたばかりの新米小僧でも和尚と呼ばれるが、修行中の雲水は役寮さんに対して大衆とよばれる)と申しますが、大衆が今三時半に起床でございますが、歳をとってますし、健康法で体操をやったり致しますので、一時間前に起きないと間に合わないので、二時半には必ず起きて、なるべく自分で床も畳むようにしておりますが、それはここの六十四代目の中興のお方ですが、森田悟由(もりたごゆう)(明治時代の僧。永平寺貫主となり、宗規の改正、宗門の振興につとめた:1834−1915)禅師様というお方があります。この森田禅師さまは『修證義(しゅしょうぎ)』をちょうど作りました明治二十三年、その頃にちょうど禅師さまになる前でございますが、重要な各宗通じてのお知識さんであらっしゃったのですが、その森田悟由禅師さまのところへ私のお祖父さんになります丹羽佛鑑(にわぶっかん)というお方が、十年間胃ガンでございまして、お務めをして歩くのに随分苦労して、北海道から九州まで、十年間永平寺の侍舎で泊まっておりまして、お務めをしまして、それを森田悟由禅師さまはもう可愛がって、可愛がって、その佛鑑さんという私の方のお祖父さんは、非常に卵に目鼻という美男子でございまして、そして静岡の曲金(まがりかね)というところの駄菓子屋の長男に生まれたんで、みんな親類が寄って、「こんな綺麗ないい利口な小僧は、お寺へお坊さんにあげるがいい」と言って、そして宝蔵寺(ほうぞうじ)という軍(ぐん)神社の隣のお寺へ親類中でもって行って小僧にしたのが、私のお祖父さんになる丹羽佛鑑というお方ですがね。その佛鑑さんが、今で言えば胃ガンでございますね、四十三歳の春亡くなっておりますね。その亡くなるまで悟由禅師さまにお勤めをして、そしてお側で禅師さまのなさること、十年間よく存じておりまして、寺へ言い伝えになっていますが、八十四歳で森田禅師さんがお亡くなりになる大正四年まで、ご自分でおトイレのお掃除はなさったそうでございますね。そういう徳のお高いお坊さんの中のお坊さんという悟由禅師さまが、お床も自分であげるし、一切若い者にさせずに、自分のことは自分で、おトイレのお掃除までご自分でなさった、と、こういうことを、私の寺へ言い伝えに残っております。その丹羽佛鑑さまが亡くなった翌年、私が明治三十八年に生まれて、「佛鑑さんの生まれ変わりだ」ということを昔は―今じゃそんなこと言いませんけど―「お前は誰の生まれ変わりだ。よくお祖父さんに似ているよ」なんて言われます。佛鑑さんが静岡の寺へ住職して、そこで一生懸命務めてくれた伊藤さんというお方が、修善寺の丘宗潭(おかそうたん)さまの修善寺へ修行に行く時に、私のところへ泊まったんだそうです。その朝私が生まれたんだ。不思議なこともあるもので、それで私が、小僧に十二で来ましたら、その夏になって、「この廉ちゃんは、私が修善寺へ修行に行って泊まった晩に生まれたんだから、儂のところへ弟子に貰いたい」と、こう言われた。師匠が、「廉、お前行くかい」って、こういうわけです。七里ばかり山奥で大変なところなんでございます。もうこの洞慶院だけでも幽霊の出そうなところでございますのに、七里山奥の、昔は馬車だけですが、その和尚が貰いたいと言って、「儂は嫌だ」と、そう言ったら、師匠が「お、そうか」と。師匠はあっさり退けましてね。私の言うことをすぐに「お、そうか」で、それで済んじゃう。静岡の高等学校を卒業しまして、卒業間際になってから、師匠が、「お前、東大の法科へ行けよ」という。「私は法科へ行くつもりで坊さんになったんじゃありませんよ。お坊さんになるためになったのだ」「お、そうか」それで終わり(笑い)。
 
金光:  それだけですか?
 
丹羽:  それだけ。それから東大のインド哲学科を出ました時に、やはり禅師さまの北野元峰(きたのげんぽう)(幕末-昭和時代前期の曹洞宗の僧。永平寺と総持寺の両本山分離抗争に際し、調停につとめた。大正九年永平寺貫首:1842−1933)さんでございましたが、その禅師さまのお付きの随行長さんが、「丹羽さん、せっかくインド哲学を出たんだからどうか世田谷高校かどっかの先生に儂が世話するよ」と言われた。私は、「儂は先生になるために坊さんじゃありません」とこう言ったら、傍で聞いたいた師匠は、「お、そうか」それで終わりで(笑い)。それでずっとお山の方へ修行にまいったわけでございます。そういうふうにほんとに師匠が、よく喧しい師匠でしたが、昭和二十七年に、道元禅師の七百回忌を迎えるにあたり、師匠とともに開祖を称えるご詠歌「梅花流詠讃歌(ばいかりゅうえいさんか)」を作りますのに、曹洞宗は禅さえしていればいいのに、御詠歌でチンチン鳴らしたりするのは外道だよ、という風潮が大分ありまして、私ども役をしておりました時、お山で大会をやりましたら、若い雲水が、「夜中にその御詠歌チンチンやるような坊主なんかぶん殴っちゃい」と言って、暴力を振るわれて、おっかなくって、小さくなって寝ていたことがございますがね(笑い)。それを私の師匠は知らん顔をして、どんな風が吹いても、「八風吹けども動ぜず天辺の月」というような、師匠でございまして、一度やったことはもう頑として、誰がなんと言おうとやり通す。そういう師匠でございました。そのお陰でございますかね、こんなに選ばれてお山にお務めをさせて頂くなんていうことは、身に余る光栄で、これから生まれ変わりまして、寿命を頂きましたから、ほんとに以前よりも増して、ご開山さまにそれこそ朝二時半から起きてお勤めをさせて頂こうと。誰がなんと言おうがもう一筋で、ずっと雲水さんと、大衆方と一緒にお勤めをやろうと思って、心掛けておりますが、生身ですから、いつどんなことがあるかわかりませんから、大きいことも言えない。私のお弟子ですが、付いて歩いております青山が、「脳膜下血腫の話はしない方がいいよ」とよく言いますが、「お前は痛い思いをした覚えがないから、そう言うけれども、まず痛かったぞって、宇宙を二時間回って歩いて、眼の玉なんかどうにかなっちゃう。それで遠くの山の木が一本一本数えられるんですからね。もうメガネなんか要らないんでございます。そんなに眼が良くなった。それで済生会病院の眼科へまいりまして、先生に一日診て頂きました。そうしたら、「あなたのは、手術をしてぐるぐる回ったから、眼がそういうふうに生まれ変わってよく見えるようになった。別に老眼でも何でもない。そんなものはすっ飛ばさせて治ってしまった」と、こういうわけです。その間お陰さんで大変楽になりまして。
 
金光:  そうしますと、先ほどおっしゃいました「峯の色渓の響きもみなながら我が釈迦牟尼の声と姿と」という峯の色なんかもよくご覧になれるわけでございますね。
 
丹羽:  そういうわけでございます。ただ申し訳ないことは、お山の住職でありながら、三分の一の百二十日しかこのお山にはおられませんで、後の三分の二は北海道から九州までご縁のあるお寺様へご請待(しょうだい)を受けまして、この山の話をしたり、いろいろお釈迦様からご開山が伝えられた坐禅の「一方を証するときは一方はくらし」そういうことの宣伝で、申し訳ないことと考えております。その代わり帰ってまいりますれば、今朝も二時半に起きて、三時半には坐禅堂へ百八段ございますが、手を引かれてまいりまして、そして私の前の禅師さまは、ご修行時代に井深(いぶか)(岐阜県)の正眼寺(しょうげんじ)で臨済を少しおやりになって力を得られました秦慧玉(はたえぎょく)(永平寺七十六代貫首)禅師さまでございますから、朝僧堂へ出されると必ず雲水さん方に警策(きょうさく)をお亡くなりになるまで一本ずつ入れておられた。えらいことでございますが、私はそういう修行をしておりませんから、眼蔵の坐禅の根本の『辨道故實(べんどうこじつ)』という、岸澤老師さまが御一代で纏めてくださったのが百句ばかりございます。要る時はそれを一句ずつ毎朝警策の代わりにそのお話をさせて頂いております。これ死ぬまでやろうと思って。
 
金光:  岸澤老師さまは礼拝を随分なさるので、ここに瘤が、
 
丹羽:  礼拝瘤、
 
金光:  礼拝というのは、それほど大切なことでございますか。
 
丹羽:  これは宗門の一番の極意ですね。礼拝は無我の相ですから。頭の低い人ほど我見がない。
 
金光:  下がるわけですね。
 
丹羽:  下がる。稲の穂がもう実が入れば入ったほど地べたへ頭を下げると同じことで。
 
金光:  これは生き物だけではなくて、と言いますか、やはり自然のものに対しても頭がさがるということですね。
 
丹羽:  ええ。そういうことでございますね。どんな木偶(でく)の坊が飾ってあっても、それを如来様と拝める人は本物でございますね。
 
金光:  つい我見が頭を持ち上げると下がらないという。
 
丹羽:  そういうことです。私は、それですから、このお山のここへ今年四年目になりますが、今年が一番雲水さんが大勢上山(じょうざん)(僧堂に掛搭すること)してくださって、百二十六人お出でくださったんですが、そのお一人おひとり、もうお役寮さん二十七人おられますが、みんな私のお代理をなさる尊いお役寮さんは禅師様。それで大衆方は一人残らずお釈迦様だ、という考えで、ご一緒に磨きを掛けさせて頂くという、そういう考えでおります。
 
金光:  これは我々の下司(げす)の考えですと、相手が無理なことを言ったりする人にはやっぱり頭を下げない方がいいんではないかというようなのが、つい出てくるんでございますが、こちらがほんとに頭がさがる場合は、あんまり無理なことは先方も言わないようになるものでございましょうか。
 
丹羽:  そうですね。確かにそうでございますね。頭が下がったら無我で、我見のない生き如来さまでございますから、自然に光明が輝いて感化しているんですね、向こうさまを、相手を。
 
金光:  それは、じゃ、自分はこれからは頭を下げようと思うても、なかなか下がらないところがあるんでございましょうね。
 
丹羽:  私も、ここへ血が牛乳瓶一本ほどの血の膿がたまり、三日間こう取り除いて、そして清々致しまして、またもう一度洗いましたから、ここが清々致しまして、今ほんと調子がいいんでございます。
 
金光:  しかし我々そういうことをして頂くわけには、真似できませんからね、とても。
 
丹羽:  それからこの間麻布(あざぶ)大観音堂の留守居をしてくれている椎名さんというおばあちゃんがおりましたが、歩いていて、倒れてどっか怪我して、私がまいりました時、「こんなわけで怪我をしました」という。「それから二度目に行った時に日赤で手術をして貰ったということでしたが亡くなりましたが、あれ転んだ時にすぐにやってしまえば清々して良かったのではないかと。千鳥足になったら、頭の中に血腫ができて、血の膿が溜まる。ですから、もう千鳥足になったら何より先にやって貰いさえすれば若返るわけですから、今みさなんに勧めて歩いておりますがね。何も心配することはない。それであの痛さじゃ宇宙をグルグル飛行機で回ったようなものだから、まずどのぐらい手術料がかかったのかと。そうしたら思っていた十分の一ぐらいで、入院二週間、手術を二度して下さって、まず有り難いことだと思っています。
 
金光:  禅師さまは今のお話ですと、全国をお歩きになっていらっしゃるわけでございますが、今の現代のような社会ですと、あるいは若い方なんかは鎌倉時代の道元様のお説きになったようなことは時代に合わないんではないかと、あるいは思われる方がお有りかも知れないと思うんですが、現代にはどういうことをお話になっていらっしゃるんでございましょうか。 現代人向きのことで、いろいろあると思いますが。
 
丹羽:  それはやはり「身心一如」でございますから、身体が心ということがあるし、心を肉体ということがあるし、そのお釈迦様の御教えからずっと私が八十九代でございますが、「みなさん方は私のお弟子になって、お釈迦様からちょうど九十代目の生き如来様だよ」と、こう言って、みんな生き如来様を日本中へ作って歩いているわけですから、他のことは気にせずに、ただひたすらずっとそれでやって歩いておりまして、他のことを思っていたら、だんだんそれに引き入れてあげるように心掛けておりますが、真理でございますね。法が生まれてきている。どなたも一人残らず法。田舎道を昔学校へ歩いて、肥溜めに何万というのが蛆がおりましてね、なんでこんなものに生まれたのかなとしみじみ考えましたが、やはりあれもやはり如来様だなと、こういうわけで、そういうふうに今は思っておりますがね。
 
金光:  人間に自分で生まれようと思って生まれてきていないわけですから、できたら人間であると、
 
丹羽:  そうそう。それでお釈迦様が、ご一代、前世から修行をして、そしてお釈迦様に生まれられて一生懸命ご修行をなさって、生老病死のこの苦しみをみんな免れる道を探されて、そして一切のものを救ってくださった。その御戒法という、戒というのは、森羅万象(しんらまんぞう)の宇宙全体の自分で喋り抜いておることだ。「自道取(じどうしゅ)なり」自ら、「道」という字を「言う」というのですが、自らが語り尽くしている世界。「戒は森羅万象の自道取なり」というご説明がございますが。「自ら言い抜いている御戒法という」。こうしちゃ悪いな、ああしちゃ悪いな、これがいいなという御戒法ですね。
 
金光:  この道を歩きなさいという。
 
丹羽:  歩きなさい、ということでございますね。「森羅万象の自道取なり」と、こういうふうに申されておりますが、世の中はそれより他にないでしょうね。
 
金光:  いつの時代でもこの道を歩けばよろしい。
 
丹羽:  ずっとそれが空劫(くうごう)已前(世界の変遷を、成劫・住劫・壊劫・空劫と分けたときに、世界の成立期に当たるのが「空劫」であり、それにすらまだ到らない帰還のことを「空劫已前」という。迷悟や凡聖といった二見によって、未だ分かれざる絶対の現象を指す)という、朕兆(ちんちょう)已前(物が生じるきざし(=朕兆)よりも更に前ということ。父母未生已前、天地未開已前などと同じで、思慮分別されていない本来の面目を指していう)と言いますね。何億年前か知らない、それからずっと今日に至るまで空劫已前の修行とお悟りが、それが私どもに生まれてきて、私どもはその尊い空劫已前の修証を現成に関わる。何に現れてもと、ご開山さんはおっしゃっておりますね、『弁道法』にね。現成に関わることが何に生まれても―こういうお茶碗に生まれてきても、一切のものが現成に関わることなしに、これが如来様であると。こういうふうにご安心(あんじん)ということを浄土系で申しますが、それで腹を決めて、ご一代ずっと。で、ご用が済んだら、へえ、さようなら。また次の身体に生まれて、ちょうど数珠玉のようにずっとグルグルグルグル―道環(どうかん)(仏祖の大道が円い環(たまき)のようになって、初中後に欠けることがない様子を示した言葉。特に、それが修行の継続によって明らかになる様子を行持道環という)と申しますね。道が巡っているという。道環という。そこのところへみなさんを持ち込んで、そして一生懸命子孫のために善を努め、悪いことは止めてという、それより他に宗教者の道はございませんね。
 
金光:  その場合に禅の方のお言葉というのは、非常に日常の言葉とちょっと違う言葉と言いますか、父母生まれざる先の未生已前の自分を知りなさいとか、
 
丹羽:  その父母未生已前(自己はもちろんのこと、父も母も未だ生まれる前のこと。転じて、迷悟や凡聖といった二見を超越し、一念すら起こらない無差別の心性を指す。朕兆已前、空劫已前、威音以前などと同じ)の、朕兆以前とか、いろいろ申しますが、父母未生已前の自分というものを、それはもう法でございますからね。で、「大悟(だいご)を待つことなし」という、悟ってから初めてそれになるのではない。大悟は待つ必要がない。大悟はずっとグルグル回っているからという、そういうふうにご安心を願って歩いておるわけでございますが。
 
金光:  別に掴まえなくてもいい、ということでございますね。
 
丹羽:  そうなるべくおっぱなせば、それになるという。
 
金光:  そういうふうに自分で掴まえようなんていうのはやめてしまっていますと、こういうお茶碗もそうだし、そこに生えている木も同じ道環の中にいるという。
 
丹羽:  宇宙全体が道環であると、こういう。
 
金光:  これはしかし私なんかお話を伺って、そうなればいいだろうなと思いますが、やはりこれ頭で考えること、知恵と言いますか、それよりも行をして生活で感じるということでございましょうか。
 
丹羽:  そういうわけでございましょうね。
 
金光:  そうも有り難うございました。
 
     これは、昭和六十三年五月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである