理想の終焉(しゅうえん)≠見つめて
 
                   京都大学教授 カール・ベッカー
一九五一年、アメリカ・シカゴ出身。一九七一年にプリンピキア大学卒業。一九七三年にハワイ大学イースト・ウエスト・センター大学院哲学研究科修士課程修了し、一九八一年に同大学院哲学研究科博士課程修了し、同時に博士号取得。南イリノイ大学哲学科助教授等を経て、京都大学教養学部助教授、同総合人間学部助教授・教授、同大学院人間・環境学科教授を歴任。二○○七年より現職。『死の体験―臨死現象の研究』共著 [編集] 『「死ぬ瞬間」のメッセージ―ある少年の臨死体験―』『「死」が教えてくれること』『潔く死ぬために―「臨死学」入門―』ほか。
                   き き て  品 田  公 明
 
ナレーター:  京都大学教授のカール・ベッカーさん、六十一歳。宗教学、倫理学が専門です。アメリカ生まれのベッカーさんは、日本が欧米とは異なる死との向き合い方の伝統をもっていることに心を動かされて来日。以来、四十年近く、日本人の死との関わり方を研究しています。
 

 
ベッカー:  どれだけ長く生きるよりは、どれだけ潔(いさぎよ)く生きる方が日本人の知恵だった、と思うんです。
ナレーター:  ベッカーさんは、末期医療の現場にも出向いて、患者や医師の声を聞き、「現代日本における理想的な死のあり方とは何か」を問い続けてきました。今回の「こころの時代」は、京都大学教授のカール・ベッカーさんに、これまで見つめてきた死のあり方と、それが今の人々に教えてくれるものは何か、を聞きます。
 

 
品田:  ベッカーさんは、最近の日本の社会のあり方をどのように感じていらっしゃいますか。
 
ベッカー:  最近の日本ですか。非常に日本らしくなくなりましたね。日本は、どこの国よりも人口密度が高く、資源のない島国ですから、本来なら中国や隣国の倍ぐらい努力しないとこの生活を支えるだけの余暇がないところです。本来なら日本人が、その限界を痛感して頑張ってこれだけの文明や文化を創ってきたのに、最近の日本人が労働したいとか、頑張りたいという人がかなり少なくなりました。私が研究している個々人の死のレベルにおいても、つい数十年前までは、どこの家庭でも自分のご年配の方を在宅で介護して、畳の上で看取った慣習がありました。ところがバブルで裕福になった時点で、どんどんみんなが病院死に送られまして、最近看取りすらしなくなりました。看取りをしなくなると、今度死は何であるか、わからなくなります。従って過去五十年の間に、日本が一番死を恐れない国の一つから、一番死を恐れている国に転じているんです。で、死についても、目の前の死は悲しいとか、大往生とか、いろんな他の感情があっても、恐いとは思わないんです。が、日本人は今死を恐れたり怖がったりしているのが、死を看取れなくなっているからだと思います。
 
品田:  以前に看取っていた時というのは、どういった状態で看取っていたんでしょう。
 
ベッカー:  日本がずっと大家族で生活をしていて、その大家族がまさしく介護、看護をしてやっと看取りをしていたんです。実は日本のみならず、多くの伝統社会では、子育てをするのは親じゃないんです。親は二、三十代―大体二十代で親になる伝統社会ですが、その二十代の人たちが田圃で労働したり、漁船で労働したり、労働力となるんですね。そうすると、誰が赤ちゃんの子育てをするかというと、ご年配の祖父母なんです。既に体力がちょっと減っているかも知れませんが、その代わり世間・社会のルール、言葉の使い方からいろんな伝説や文化までよく身に付けているものです。おまけにご年配の方の時間感が、若い子の時間感に妙に合っているんです。若い子が、「もう一遍あの歌を歌って」と、おじいちゃんに訴えても、「あぁ、あの歌ね」と―別に「三回歌ったんだから、歌わなくていいんじゃないか」と、二十歳代とは違って―おじいちゃんは、ゆっくりもう一遍「カラスなぜなくの・・・」などと付き合っていけるんです。その繰り返しが教育に大事なんですよね。ところが十年も経たないうちに、その五、六十代の、自分にお粥を食べさせてくれた、おしめを取ってくれたご年配の方が、今度逆に死に向かうわけです。その時の伝統的な社会で介護をするのも親ではないんです。親はまだ三十代で、元気に働かなければならないわけだから、その働いて親は介護をみる時間がないんです。十代の若い人たちが、今度おじいさんのお粥を食べさせて、おじいさんのおむつを替えて、そしていつの間にか大好きだったおじいさんを看取るわけです。目の前にさっきまで「ありがとう」と言ったおじいさんが、もう二度と喋れなくなると、その死は一生忘れないと思うんです。その二度といなくなる深さを感じてしまうと、いくら嫌な相手であっても、「死ね」とは、口には出せませんし、ところが今若い子たちが、中学校、高校に入るまでに、何万回もカギ括弧の「死」を、マンガ、ゲーム、ビデオなどで見ているのにも拘わらず、それは「嘘の死」なんです。何故なら、痛くも痒くもなく、悲しくもない。リセットボタンを押せば、また生まれ変わるような「嘘の死」なんです。本当の死は、もっと深くて、考えさせてくれるようなものなんです。ですから「日本はどうか」と、聞かれた時には、日本には素晴らしい死の作法や死の伝統があったのに、ついバブル以降我々がそれを見失っているおそれがあるんじゃないかなと思います。
 
品田:  その看取りをしなくなったことによって、死について実際に考えなくなって、それがやはり社会にも影響を与えてきたということでしょうか。
 
ベッカー:  多いですね。死は同時に限界を考えること。つまり死はこの生きれる限界の一つですよね。と同時に、未来を考えることです。教育で言えば、我々が小中高等学校で、数学、英語、国語、化学などを学びますよね。何故習うかというと、もしかしたらそれを使うかも知れない、という期待があるからです。ところが、化学を使うかどうかより、絶対確実なのは「老・病・死」を経験することです。だから「老・病・死」について、我々が義務教育としても学ぶべきだと思うんです。勿論それは大家族で、家庭で教え得るものであれば、何も学校でやらなくてもいいと思うんですが、今大家族はもう取り戻せないし、小家族や片親だけでは、教える時間も能力もないのかも知れません。とすると、日本人が学校などで「老・病・死」などについて学ぶ時代にきているんじゃないかと思うんです。例えば、「教室で時々物を無くしたりすることありません」というような作文や話の時間ができるんです。ある子が財布を無くしたとか、大事なぬいぐるみを無くしたとかという話をしているうちに、家のペットが亡くなったとか、あるいは隣の誰それが亡くなったとかという話までいって、失うことの心理を少しずつ受け入れる空気がつくれたら、やがて一番大きな喪失感、つまり人に死なれるということを教室でも扱い得ると思うんです。勿論それを怖がる教員もいるかも知れませんが、それなりの準備さえすればですね。また「限界を考える」と申しましたが、同時に死は未来を考えることです。つまり我々が、どのように亡くなるか、亡くなりたいか。昔は数週間で感染病などに、例えばインフルエンザとか、肺炎とかに罹ったら、数週間で治るか、あの世に逝くかと決まっていたんですが、今の多くの死ぬ原因が、例えば癌が何ヶ月や何年かかったり、あるいは心臓系、脳系の病気であったり、それが数年かかったりすることがありますし、糖尿病も然りですし、つまり死ぬ期間が長くなっている。と同時に、それに対する医療技術はどんどん増えて、厚生労働省が、「自己決定」とか、「インフォームド・コンセント(informed consent:正しい情報を得た(伝えられた)上での合意を意味する概念)という西洋臭いいろんなルールを持ち込んで、一人ひとりで決めろと言ったんです。ところがそれについて、我々が学んだ試しもないし、誰もが自分の老病死について決めなければいけない時代になっているにも拘わらず、何をどう決めていいかわからない。延命装置をどう好むかどうか。それが国が決めることではなく、一人ひとりの国民が決めるべきだと、国が言っているのに、その教育を行っていないんですね。そうなると、昔と違って、死は長引くだけではなく、国の大変な資源・財源などを食ってしまうわけですし、場合によってはそれが本人が欲しくない形にもなりかねません。事前にそれについて考えて、その心の準備、あるいは手続き的な準備をしておくと、英語や化学よりも実際役立つと思います。あるいは、死を話したくても、家族はそれを話したくない、というようなことがあるんです。我々が死を口に出しても、口に出せなくても、同じ頻度で必ず百パーセント起こります。つまりいずれは老病死がやってくるということを意識することによって、むしろそれが自分の生き方に繋がってくるんです。その限界に向かって、どう生きてよいか。そして懸命に生きなければいけない、ということに繋がってくるかと思います。
 

ナレーター:  ベッカーさんは、一九五一年アメリカのシカゴで生まれました。幼い頃から生や死について考えるようになったと言います。それは当時経験したさまざまな出来事の影響でした。
 

 
品田:  何故、宗教や哲学に興味を持たれたんでしょう?
 
ベッカー:  小学校二、三回生の時に、いろんな作文の自由時間があって、ある子どもたちが自分の誕生日で貰ったプレゼントについて、自分が夏休みの過ごし方について、ベッカーは何故か、「人間の義務とは何なのか」とか、「生き方は何なのか」というふうに書いていたらしいんです。他方、私が子どもの頃恐竜が大好きで、近くの博物館に行くと、恐竜のスケルトンがいっぱい飾ってあり、十メートルに渡ったティラノサウルス・レックスとか、ロエトサウルスとか、いろんな子どもにとって恐ろしくて大きくて力強いものがいっぱいいたのに、全滅しているじゃありませんか。すべて消えてしまうということは、むしろこのちっぽけな人間こそが、いつ全滅するかおかしくない。一体どうやって生き残れるかということを、別の時限でも考えるようになってしまったんです。何故そう考えるようになったかと考えると、一つには、当時米国とソ連がお互いに、核のベースを作り、原爆をお互いに落とし合うのではないか、というふうな教育を受けていたんです。毎週のように、もし家の―シカゴだったんですが―シカゴの小学校に原爆が近くに落とされた場合に、どのように身を守るかという半分馬鹿げたような練習があったんですが、サイレンが鳴ると、身体を全部机の下に突っ込むような練習を、あるいはコンクリートの壁のすぐ横に、自分の身体を寄せて、放射線を浴びないような練習をしていたんです。今思えば、そういう戦争が起こった場合、ちょっと身をコンクリートに寄せたぐらいでは、大した差はないと思うんですが、五歳、十歳の子どもたちが毎週のようにそういう練習を繰り返させられました。それに対する恐怖―少し越えたのは多分一九六二、三年辺り、最後にあったのは、キューバのミサイル危機(アメリカのすぐ南に位置するキューバを挟んで1962年10月15日から13日間に亘って米ソ間の冷戦の緊張が核戦争寸前まで達した危機的な状況のことである)だったんですが、その時点で少しずつ全米が気付いていたのは、これだけ多くのこれだけ破壊力のあるまさに「weapons of mass destruction(大量破壊兵器)」を使っていると、自分の身をまるめて、潜めたぐらいではとても生き残れないということだったので、むしろ諦めの境地に至ったのかも知れません。そしてケネディのすぐ後のジョンソンの時代―一九六四年以降になると、ベトナム戦争が勃発して、アメリカがフランスの植民地を受け継いで、ゴム畑などを守るために、どんどんアメリカの兵をベトナムに送り、周囲の十八、九の年輩たちが次々と徴兵制に引っ掛かり、兵士になり、殺しに行かれるわけです。そうすると、当時日本では、「戦争を知らない子供たち」という歌が流行っていたんですが、我々は決して戦争を知らない世代ではなく、むしろいつに戦争に行かれてもおかしくない時代であったので、ますます生と死を考えさせられましたね。
 
品田:  そこから宗教、そして哲学というものに興味を持たれたんでしょうか。
 
ベッカー:  はい。何で人間てこんな戦争みたいなことをしなければいけないのか、という疑問と、逆に平和な一人としてどう生きればよいのか、という疑問が生じました。宗教や哲学は、日本では、通常何々宗、何々派というふうに考えがちなんですが、私はむしろその根元にある価値観、心の拠り所、心の底力がどこから来るのか。何を深い意味で信ずるべきかどうかということに関心を抱いて、広い意味の宗教に関心をもち、また哲学を勉強し出したわけです。
 

 
ナレーター:  こうしてベッカーさんは、宗教や哲学を究める道を歩み始めます。そしてハワイで東洋の文化について学んでいた時に、日本での死のあり方を研究することになるある出来事に出遇います。
 

 
ベッカー:  アメリカの中西部からハワイの方に移り、そこで日系人に囲まれて勉強していると、一緒に彼らのお寺や別院などに行ったりして、少しずつ日本の仏教や生き方についてわかるようになりました。当時のハワイ人のリーダーたちは、大体二世だったんですね。日本語も英語もできて、両方の文化の良いところをわかって、しかし下手をすると日本人以上にその日本人であることに拘って大事にしていたんですね、一つのアイデンティティとして。で、いろんなご年配の方に教わって可愛がって貰って、中で一人の末期を看取らして貰ったんです。彼が、最期に奥様に対して、「長いこと付き合ってくれてありがとう。よく我慢してくれて感謝しているよ」と。倅に対して、「お前はよう頑張っているけど、ここだけに気を付けろよ」。そのお嫁さんに対して、「よくぞ来てくれた。孫のこと頼むよ」とか、釣りの友人に握手をして、「云々」と、みんなに言うべきことを言い尽くしてから息を引き取ったんです。それを見た私がビックリ仰天で、どうしてやるべきことを全部綺麗に済まして、他界できるのか、と思ったんです。特にその人が深いこれこれの信仰をしているわけではないんですが、信仰―一般的な信仰を上回るぐらいの根性、あるいは心の底力があったように思えてならなかったんです。でも彼の上を考えると、どれだけ長く生きるよりは、どれだけ潔(いさぎよ)く生きる方が日本人の知恵だったと思うんです。我々が昔の偉い人を思い出しますと、何日ほど、何年ほど生きたことか、ということをほとんど考えませんよね。その人が我々に対して、何を教えてくれたのか。何を思い出させてくれたのか、ということの方が大事なんです。だからそのハワイ二世の方に点滴を付けて、さらに彼の命を数日、数週間長引かしたとしても、それでさらに綺麗な死に方ができたとは到底思えません。むしろ多くの彼の死を拝見した我々が感銘を受けて、願わくばそのようにいきたいなと思えるようになるんです。その死に方を可能にしたのは、確かに彼の大家族の支援であったり、友人との友情であったり、また病院は強制的に点滴をしないという背景もいろいろあったんですが、その文化的な底力をさらに知りたくて、だから研究としましても、個人の関心事としましても、日本には非常に興味を持っていたんですね。
 

ナレーター:  一九七四年、ベッカーさんは日本へやって来ます。それ以来、日本で受け継がれてきた死との向き合え方の研究を重ねています。その中から日本人が伝統的に理想としてきた死に方があることに気付いたのです。
 

 
ベッカー:  日本人が、大体平安末期ぐらいから幕末期ぐらいまでは、一千年以上にわたってどのように死んでいたのかという記録を残しているんです。インドや中国でも残しているんですが、日本ほど保存状態がよくなかったりして、要するに日本人の死に様の変遷を一千年に亘ってどう変わったかということを知りたければ、日本ほど理想的な研究現場はないんです。それが俗に言う『往生伝』往生というのは亡くなることで、その伝説の伝ではありますが、当時のお寺の僧侶たちが、亡くならんばかりの自分の檀家さん、門徒さんなどに対して、「何が見えるか、何が聞こえるか、何かあったら教えてください」と言って、その中でその台詞―言われていることを記憶して、部分的にそれが印刷にまで残されているわけです。
 
品田:  ベッカーさんが感じた理想的な死の伝統というものはどういうものなんでしょう。
 
ベッカー:  日本の伝統的な理想は、潔く納得できるような、人生を真っ当するような死に方だった、と思うんです。つまりやるべきことを残さず、名残を惜しまず、周囲に迷惑を掛けない死に方でもあるのです。そのためには、ある人が離れ家に入ったら、ある意味で隠居して、自分が長くないとわかった時に、その心を調えるために行(ぎょう)を組み出すという例もありますし、また有名な一遍上人(いっぺんしょうにん)(鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖:1859-1939)の融通念仏の伝教者なんですが、一遍上人が亡くなられる前に、自分のさまざまな書物や弟子たちの集めているものを燃やさせるんですね。自分のものに束縛されたくない。また人にそれ以上、自分の名残を惜しんで欲しくないという思いもあったと思うんですが、その代わりに非常に穏やかな顔で亡くなるべき時に亡くなったというんです。またその昔ならば阿弥陀像などに五色の糸を繋いで、片手でそれを持ちながら、お念仏を称えるとかという慣習があったんですが、明らかに大事なのは、その糸が物理的にあるのか何なのかではなくて、心の中で準備ができているかどうかということだと思うんですね。
 
品田:  昔の人は何故そんな死に方ができたんでしょう?
 
ベッカー:  昔の人は、「死が決してすべての終わりではない」ことをわかっていたからだと思うんです。死は確かに大きな別れではあります。ですが、喩えていうならば、「三途(さんず)の川」であって、いずれ誰もが越える川であるというふうに理解すると、ある人が先に行って我々が後に行くかも知れませんが、いずれまた向こう側で再会できると思うと、死が恐ろしいだけではなくて、一つのやむを得ない大きな出発でもあります。喩えていうならば、中学校から高校に卒業していくようなもので、そこで新しい仲間であって、新しい自然があるのかも知れませんが、決して無になるわけではありません。物質だけを見ていると、死がすべての終わりのように見えるかも知れませんが、生きていることは、精神・心・魂を中心にするものであるとわかっていれば、身体が亡くなったからと言って、別に心や魂が消えるわけではないことを、昔の人はよく知っていたんです。
 

ナレーター:  日本人は、先祖や亡くなった家族と繋がるさまざまな習慣を残しています。例えば四十九日の法要や家に祀られた仏壇などです。これらは今海外で高く評価されだしていると言います。
 

 
ベッカー:  日本の死についての生活習慣は、一時というか、私が七、八十年代までアメリカと日本に行き来したりして、両側で死の作法とか慣習を研究している時に、一時バカにされた時期もあった。何で食べ物までお墓に供えるかとか、何で繰り返しこの儀式を、法事などを行うのかということを言われたんですが、最近それがかなり見直されるようになりました。死を無視して、なかったことにして、「忘れろ」そういうドグマというか、それこそ宗教的な信仰が、つい百年前にできたんです。シグムント・フロイト(オーストリアの精神分析家、精神科医。人間の無意識に注目し精神分析を創始した:1856-1939)とが、なかなか癒せない未亡人たちを相手にした時に、「もうとにかく忘れろ、これ以上拘っては病理的だよ」と称えて、死を忘れられないものが病人だ、というぐらいレッテルを貼られたんです。で、その以降ヨーロッパは、特に第一次、第二次世界大戦が勃発して、何百万単位の死者が出たところで、日本と一緒で、一時的に死はこれ以上考えたくない、触れたくないという時期はあったんですが、ですが考えたくなくても考えてしまうんです。大事な人が亡くなった場合。このフロイト的な死者を考えても、病理的に考えちゃいけないというドグマに対して、変化が生じたのは、日本のお陰なんです。二十年ぐらい前に、デニス・クラス(アメリカの宗教心理学者:1940-)というシカゴ大出身の宗教心理学者が日本に来られて、いろんな日本の家を廻られて、そこでお仏壇とか祭壇とか先祖さんの写真とかを見るんですね。そこで日本人に聞いてみると、「これどう使うんですか?何に使うんですか?」と聞くと、朝に、「行って来ます」と言って、夜に「只今」と言って、彼らにも、お水やら、御飯やら、お酒やらを捧げて、そして大事な契約、面談・縁談などの時には、「父さん、ばあちゃん、見守ってくださいね。どうすればいいの」。静かに心の中で、父さんやおばあさんの声、態度などが見えてくる。すると、その面談や縁談に向かって、上手にこなして帰って来たら、「ばあちゃん、父ちゃん、ありがとう」と言える。この姿を見たクラス先生が、目から鱗だ、というんです。我々はアメリカ人なんぞが、まるで前の世代がなかったかのようなふりをさせられて、独自で何もかも「自分で考えなければいけない」と言われるんですが、でもせっかく父さんやおばあちゃんの生き様、知識、声なども知っているんだから、それを心に聞いて、それを基づいて生きるのが文明ではないか。英語で、彼がそれを、「continuing bonds(続く絆)」ボンズは接着剤ですよね。心の中で、おじいさん、おばあちゃん、父ちゃんの生き方、アドバイス、心が聞けるということが、人類にとって非常に貴重な資源であって、知恵であって、これがむしろ我々が活かせないと損だ。アメリカ人もヨーロッパ人も、「そうだ、そうだ。我らもそういう感覚が、思っていたんだけど口に出せなかった」。それでも日本人は羨ましい。何故なら日本人は既にその祭壇、仏壇などの慣習があって、その場、その心の定め方をわかっているから、もっと我々が真似しなきゃ。西洋東洋を問わず―東西を問わず、大事な人に死なれてしまうと、一、二年も経たないうちに、いろんな不幸が襲ってきます。例えば事故だの、病気だの、精神異常だの、最悪の場合は鬱や自殺まで起こりやすいんです。
 
品田:  残された方に?
 
ベッカー:  そうです。遺族に、残された方に、これが起こりやすいんです。で、今我々がそれを例えば免疫力の低下とか、精神統一不足で交通事故の原因となったとかという理解もできるんですが、昔の日本人がそれを「祟(たたり)」と言っていたんです。あの世から鬼がやって来て、十分なお供えとか、十分な儀法をやっていない人たちに対して、何か悪いことを起こしてしまう。祟りなどを信じていなくても、実は欧米においても最近日本人の慣習が真似をさせています。どういうふうにか、と言うと、ある病院で本人患者自身が長くないとわかった時点で、毎月のようにパーティーを行います。そのパーティーに、どうせ死ぬんだから何を飲もうが食べようが自由で、持ち寄せの物を飲んだり食べたりして、一緒に泣いたり笑ったり黙り込んだり握手したりして、そして本人がいなくなってからも、同じ仲間や家族を呼び寄せて、毎月数回ほどその儀式を続けます。その慣習がどこからきているかというと、日本の宗派によって呼び名などが違ったりするんですが、例えば初七日、四十九日、初盆、一周忌など定期的に親戚や友人などを集めて、一緒に話し合ったり、笑ったり、泣いたり、亡き故人のことを思い出したりすることによって、心の整理、精神統一ができて、それによって昔でいう「祟(たたり)」―今でいう「免疫低下」や、あるいは「鬱」などを避けられて、日本が上手くできていたんですね。だからその儀式は単なる儀式ではなくて、非常に機能的な意味があったわけでして、お墓やお仏壇などを通じて、ご先祖さまの知恵を借りることが、日本人の知恵の一つであって、また繰り返し集まって、亡くなった人のことを話して納得するまで冥福を祈ることも、それなりの日本の知恵だったのと違いますか。
 

 
ナレーター:  ベッカーさんは、日本で研究を進めるうちに、死に纏(まつ)わる伝統ばかりでなく、さまざまな文化にも魅せられていきます。それらは勤勉さや気配りなど、アメリカでは見られなかった繊細な文化でした。
 

 
品田:  日本人のどういうところに魅力を感じたんでしょう。
 
ベッカー:  まず精密で正確で勤勉で、一つのことを完成するのに非常に拘りをもって、誇りをもっていた職人芸が至るところで感じられました。どれだけのお金になるかということ以前に、どれだけ綺麗な画像を作れるか。どれだけ綺麗な音を出せるか。だれだけ完璧なものが作れるかという、そのプライドが、私は日本人が素晴らしいと思う一つが、金持ちになったからではなくて、その根性―綺麗なもの、素晴らしいもの、完成まで運びたいという、そういう精神が素晴らしいと思うんですね。と同時に、「自己中」ではないんですね。欧米では、例えば一緒に食卓に座ったら、何か飲みたい時に、「cheese,please」とか、食べたいなら「potatos,please」と言われなければいつまでたってもやってこないんですが、日本の食卓に二度ほど急須に目線をやると、誰かが無言にお茶を回してくれる。じゃがいもを何度か見ていると、じゃがいもが回ってくる。これが文明だな、と感じると同時に、自分が未熟で恥ずかしく思えたんです。だってそこまで気付きができていないものですから。だから自己宣伝をしないと誰も見向きもしないアメリカと、互いに気配りをしている日本の大人の社会を比べてみると、日本の方が遙かに大人だと思うんですね。
 
品田:  当時ベッカーさんを取り巻く人たちは凄く気付く方が多かったんですね。
 
ベッカー:  多かったんです。先輩は、非常に我々後輩に対しては厳しい半面、我々が困る時によく守ってくれて、紹介や推薦などもしてくれるし、その代わり我々が先輩や教員に対しては全力を尽くして、お金などを期待せずに、人間関係の方がその社会の絆・基盤でもあったように思います。日本に来て、あるお寺のお世話になったんですが、そこで八十代のおじいちゃんが、真似のできない書道の字を書くんです。ずっと静かに、その掛け軸を見詰めて、シュッシュッシュと、素晴らしい絵をその精神力で描けます。あるいは八十代のおばあちゃんが、扇子を片手に取って、真似のできない優雅な日本舞を舞うんです。十代の子がこの字、この舞、真似しようと思ってもとてもじゃないけどできません。この芸には年齢ではなくて、こう積み重ねによって少しずつ自分らしい素晴らしい芸までできるんです。そこで初めて廃れない、年齢を取っても、歳とってもまだまだやり甲斐があるという見込みが見えてきたんです。体力ばかりが理想であるアメリカにおいては、体力を失う中年から晩年までは自分がずっと負け組に入ってしまう。日本では体力ではなくて、芸、美、人格、精神力にウエイトをおいていたんです。芸、美、精神力に人間の価値をおいている限り、いくら歳を取られてもまだまだ明日がある、まだまだ自分を磨く可能性が残っています。たとい身体が丈夫でなくても、人にどういう言葉で何を訴えてよいかを心で考えて、次に会う時に伝えれば、それも一つの美的瞬間として、相手の心に残ります。そこに日本のまた素晴らしい文化が現れているんじゃないでしょうか。
 
ナレーター:  ベッカーさんの研究は、日本の伝統のみならず、現代の医療のあり方にまで及んでいます。その中で現代を生きる日本人がどんな死に方を理想としているかを明らかにしてきました。
 

 
品田:  今の日本人は、具体的にはどういう死に方を理想としているということが、わかったんでしょうか。
 
ベッカー:  私もそれを知りたくて、いくつかの調査を取らして貰っているんですが、面白いことにはかなり共通するイメージがあるようです。現在畳の上で生活している人が、むしろ少ないのにも拘わらず、畳の上で、あるいは寝慣れたベッドの上で死にたいという方が圧倒的に多いのです。また多くの人が出す言葉は、「鳴き声が聞きたい」というんです。それが虫の鳴き声、カエルの鳴き声、鳥の鳴き声などでありまして、「見たいもの」と聞くと、青空、緑、あるいは川、海、山の自然の光景が見たいと言います。「最期はどうありたい」と聞く時に、みんな最期ぐらいは我が儘言ってもいいんじゃないかと思って、こういう答えをくれると思うんです。ではそういう最期をどこで過ごせるかというと、病室じゃありませんよね。消毒された病室の窓から見ても、大体見えるのは向かい側の壁だったり、自然ではありません。言い換えると、病院は病気や怪我を治すためのところであって然るべきでしょうけれども、死を治すべきところではないんです。むしろ末期を自分の住み慣れたところで、在宅で過ごそうではないか、と。ただ家族が今度、「我々がお世話できない」と言い出すんです。つい三、四十年前までは、どこの家族でもご年配を世話していたのに、今できない、というのはどういうことか不思議に思うんですが、その再教育や強力体制、場合によってプラスアルファのケアマネージャーやヘルパーなどを導入して、できる形を日本が考えなければいけなくなる時代になりました。実は全世界が、日本の高齢化対策を注目しています。何故なら日本がどこの国より早く超高齢化社会になっていきますよね。日本が上手い具合にこれをマネージできて、運営できるようであれば、全世界は、「よし、その日本型でいこう」と思うでしょうし、逆に日本がお金ばっかり注いでも、満足度が低い問題だらけということになって失敗してしまえば、日本の失敗例を真似せずに、独自で考えようということになります。上手いこといくために、病院を増やすという選択肢はありません。財源的にも人材的にも、どう考えても間に合いません。むしろ人との繋がり、お互いの理解し合える、助け合える絆を、今元気なうちから作っていって頼れるような共同体やコミュニティを考えていかないと間に合わないと思います。日本人がこれまでも大事にしていた繋がりや絆をもっと意図的に作り上げると上手に超高齢化社会を、これからも運営できるのではないかと期待しております。
 
品田:  ベッカーさんご自身は、どのような死を迎えたいと考えていらっしゃいますか。
 
ベッカー:  私にとっての理想的な死が、まず周囲を視野に入れた死です。周囲を視野に入れた死は、つまり周囲に迷惑をかけない死です。例えば私を見守るために、二十四時間体制で、三人も五人ものヘルパーや看護師がずっと面倒を見てくれるということは、決して持続可能な体制ではありません。将来的にどんどん老人が増えるにつれて、そんな一人の老人に対して、一人以上のヘルパーが付くなんてありっこない。となると、私はそれを理想な死にしてはいけないというわけなんです。理想的な死は、みんなにとって可能な死で、持続可能な次世代でもできるような死で、そして可能だったらば誰でも真似できるような死に方でなければいけない。そうなると、そのためにはいわば物質的な準備と精神的な準備が必要になってきます。物質的な準備には「事前要望書」や「living will(尊厳死宣言)」などが必要なんです。それ一度でいいから、それをまず決めておきたいと思うんです。勿論私は決めています。さらには自分の代理人決定。自分が意識が朦朧したり、あるいはアルツハイマーなどで正常に私が判断できない時に、代わりにこの人を私の代理でお願いしますと決めておくと非常にスムーズにいくんです。つまり医療の自己決定が個人に委ねていますが、個々人がそれに応じて元気なうちに、正常なうちにいろんな手続きを取らなければいけなくなります。場合によって、自分の財産についても、物についても、墓についても、準備をしておきたいものです。今鮮明に考えられる時に、要らなくなった場合の本をこの人に、音楽をあの人に、この家をこの人に、というふうに文字で決めておくと非常に理想的な死に近づいていけるわけです。でもそれを済ました人でも、まだ毎日毎日生きているので、潔く死ぬために可能な限りお礼を言うべき人に、お礼を言って、言えない時にせめて心の中でそれを念じて、また私だってこれだけ生きていると、いろんな人に大変ご迷惑や失礼や問題を犯したことがあります。それに対して許されるかぎりお詫びを伝え、仲直りを望み、できなかった場合には心の中で「ごめんなさい」という気持を思い出したい。その可能な限りお礼とお詫びを伝えることが、いわば物質的な、つまり外的に見える行動であるにしても、もう一つ大事なのはやっぱり心の内面の精神統一のようなものです。つまり納得して死ねるかどうかが、周囲はどうであろうとも、自分の精神が落ち着いて生きれるんだったならば、それなりによい理想に高い死ができるかなと思うんです。そのためには、あるがまま受け入れることが大事になってきます。これまで私が自分の自力で、この世に学んで決定してやっていくという、いわば勉強的な側面を強調したのに対して、その半面精神面になると如何に素直に与えられたものを受け入れることができるかという側面になってくると思うんです。例えばどの季節が一番好き?
 
品田:  はい。私ですか?「春」が好きですね。
 
ベッカー:  たまたま春ですから、いい答えなんですが、仮に秋だったらば、春が一番好きとなるとどっかで不満が起こりますよね。日本人はよく私に対して、「どこの季節が一番好きか」と聞いてくるんですが、「今日が一番好き」という答えができれば、私は一番幸せなんです。冬は寒いもんだ。数十年前に京都大学に入った時、冬が寒くて指先が青くなってメモを取ったりして、夏になると自分の顔から汗がポロポロ紙の上に落ちるんだけれども、そういうもんだと思えば、嫌だ嫌だという気持を起こさずに、その日をその日として受け入れることができます。暑い日でも学ぶことがある。寒い日を絶えても受け入れることがある。そういうあるがまま受け入れる心も日本人の宝の一つだと思うんです。
 
品田:  理想に死について伺いましたけれども、中には理想の死を迎えられずに、突然亡くなってしまう方もいらっしゃいますよね。
 
ベッカー:  たくさんいます。自殺や交通事故、若い人でも病院で突然亡くなることもありますし、あるいは大勢が、津波、洪水、地震などでも命を失ったり、行方不明になったりする。この一見死が行方不明のように見える出来事が、「永遠の別れではなくて、あくまでもこの次元の別れであって、また別の次元で精神同士が再会できる」という希望も日本人にはあった筈だと思うんです。それを失っては、この震災やらさまざまな突然死が、もう凄すぎて、惨すぎて、受け入れる余地がないんです。震災などで、十歳、二十歳、三十歳の方々たくさん亡くなられています。八十まで生きて欲しかったのに、何でこの人が十歳、二十歳で亡くなられければいけないのかという深い悩みが残ります。その答えは、「こうこうこうだから亡くなった」という原因を説明しても、もっと大きな意味では人間だけでは説明仕切れません。だが話し合いとしては、たとい十年であろうとも、その十歳で亡くなった子の十年のうちから、我々がどういう瞬間を大事にできるか。どういう言葉、どういう表現、どういう生き方、何を学び取れるか。その意味で量より質を大事にできるか、と思うんです。何日生きていたのかよりは、その生きている人生の中で何を分かち合えたのか、ということと、これが最後ではないんだ、まだまだ別の次元にあるんだ、というその知恵が日本人を支えてくれたんじゃないでしょうか。災害のそもそもの原因や避け方については、いろんな賛否両論ができるかと思うんですが、それよりはこれからの生き方をどうするかということを考えると、その亡くなった方を忘れないことに、また学び取れる余地を残せるわけです。それも日本に教わった知恵かと思います。
 
 
ナレーター:  これまで日本人の死との向き合い方を見詰め続けてきたベッカーさん。理想の死を考えることは、取りも直さず人生をどう生きるかと考えることだと言います。
 

 
品田:  理想的な死を見詰めながら、どのようにして生きていったらいいと思われますか。
 
ベッカー:  すべての宗教がそういう質問について、いろいろと検討したところ、結論的には物より精神、量より質、物体より心の方が大事だと。あらゆる宗教がそれぞれの言葉で語っていると思うんです。日本文化もまさに物より心を大事にしてこられた文化の一つだと思うので、是非そのメッセージをこれからも思い出して、それをキーワードにして生きられたらと思います。
 
品田:  そのためにはどのようなことを心掛けていったらいいですか。
 
ベッカー:  去年ブータンの国王などが日本を回られて、ここのセンターにもその代表が見えたんですが、我々がブータンを見ると、一見物質的に乏しいかのように、貧しいかのように見受ける側面がある半面、みんな輝いて生きていますよね。その輝きは、ご年配の日本人には懐かしいと言われます。子どもの頃そういうのがあったというんです。その輝きは、物に偏らない幸福のあり方だと思うんです。虫を捕ったり、自然で遊んだり、友だちとじゃれたり、綺麗な夕焼けを見たりすることで、彼らは幸せを感じている。実はその幸せ感が、日本でも末期患者が教えてくれるようなことと一緒です。つまり長いこと寝た切りになって、これ以上動けないとなると自分の人生を振り返ってみて、何が良かったのか、悪かったのか、どこに価値があったのかと、誰だってある意味で哲学者になってくるんです。そして末期患者が語るには、肩書き、名声、偉く認められた時が一番人生で良かったという人が意外と少ないんです。むしろ一緒に何かの催し物に汗を流した仲間と一緒だった時や、好きな人と一緒に音楽を聴いたり、夕焼けを見る時や、あるいは山登りをして山と空気と一体感を感じた時、そういう聖なる特別な瞬間が、最後まで評価されます。この一瞬を大事にする知恵が日本にあるんです。全世界が水分補給としてお茶を飲みます。今朝も一緒に飲みました。だが日本だけが、この一服のお茶を心に刻む聖なる瞬間として仕上げた文明なんです。茶道(さどう)なんです。茶道で「一期一会(いちごいちえ)」この瞬を大事にしろ、と言われ、教わるんです。瞬を心に刻め、と言われたって、二度とないと気付いたら、その瞬を満喫したくなるんです。この面接は二度とないと思ったら、この一瞬一瞬可能な限り全力であって欲しいと願ってやみません。一瞬も無にはしたくなくなります。それはお茶に終わらず、どの職人さんも自分の芸に入れ込んだ発想だと思いますし、武道においても、書道においてもさまざまな道―道(どう)においても、日本人が完成した文明だと思うんです。それが日本文明の魅力でもあれば、将来的に人類にとって不可欠なヒントを秘めていると思うんです。つまり我々の幸福がこれからずっと右肩上がりの拡大によって得られるなんてあり得ない。限界を考えれば、資源の限界、財務の限界、人生の限界、さまざまな限界がある。右肩上がりではあり得ず、むしろこの聖から瞬間を如何に魂に刻めるかが課題だと思うんです。今日一日のうちに、一つ二つ、願わくば三つぐらいの輝く瞬間を心に刻めたら、今日はほんとに良かった日だなと思いますし、逆に「しまった」というところがあれば、それを蒲団に入った時点で反省して、死まで待たずに今のうちに何とか直したいところでもあるんです。そういうことを死を考えている哲学者たちは、今の末期患者たちから教わるわけです。最終的に人や自然や自分以外のものとの繋がりによって、生き方が輝いて感じられるんじゃないかと思うんです。なるべく多くの輝く瞬間を、一日一時間、あるいは数分に詰め込みたいという気がするんです。多くの輝く瞬間を結ぶことによって、自分の人生がますます輝くものになり、その積み重ねで生きて良かったと思えてくると思うんです。それが自分一人ではできるものではなく、みんなと協力しあって、繋がりを持ってできることであって、そして自己満足だけではできなくて、自分のこの瞬間瞬間が、次世代に対しても可能性を残しているものとわかった上で、初めて素直に輝くものと認められるんじゃないでしょうか。死を逃げずに、限界という死を視野に入れて、初めて今日一日大事に生きようではないかという気持と同時に、その最期までの生き方を考えさせられて、むしろ前向きに積極的に一瞬たりとも大事にして生きていきたくなるのではないでしょうか。ですから死を考えることによって、生き方を考えさせられますし、死がすべての終わりではないにせよ、この身体では二度とやれない今日一日ですから、それを大切にするためにその限界を考えることがきっかけになるのではないんでしょうか。
 
     これは、平成二十四年四月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである