安らぎの世界へ―慈雲尊者の言葉から―
 
                  心空院住職 ・慈雲尊者(じうんそんじゃ)(江戸時代後期の真言宗の僧侶。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した:1718-1805)の仏法の研究に尽力しておられます。慈雲尊者は、宗派を超え、時代を超え、インドの原典まで研究して、釈尊が説いた仏法の根本を人々に伝えて大きな感化を与えた方です。
 

 
金光:  この辺りは福岡市の西の外れ辺りだと思うんですが、朝鮮半島も近いですし、歴史的にはかなり昔のことから記録に残っているんでございましょうね。
 
小金丸:  そうでございますね。それに平安時代にしても、この博多の方から、みなさん船で遣唐使(けんとうし)、遣隋使(けんずいし)が渡ったわけですから、非常に古い歴史もありますし、今見えていますこの海を船で渡ったということはあると思いますね。いい景色だったと思います。
金光:  そういう意味では、仏教なんかもかなり早い時代から伝わってきているんではないかと思いますが。
 
小金丸:  そうだと思います。
 
金光:  ここへ小金丸さんがいらっしゃったのは、いつ頃からでございますか。
 
小金丸:  私はここに十六年おりますね。もともとは福岡の生まれですけれども、高野の方に行きましたので、それから戻ってからこっちに来まして。
 
金光:  高野山からお帰りになった時に、この場にいらっしゃって、ここでいわば仏法の修行と言いますか、お仕事なんかもこの場を起点になさっていらっしゃるわけですか。
 
小金丸:  ええ。私はここがほとんど隠居みたいなところでして、それでずっと出掛ける方が多いんでございます。
 
金光:  そうですか。それじゃそのご活躍の様子なんかは中へ入って聞かせて頂きたいと思います。よろしくお願い致します。
 
小金丸:  よろしくお願い致します。
 

 
金光:  小金丸さんは、高野山からこちらにお帰りになってから、江戸時代の有名な慈雲尊者の研究を随分続けていらっしゃるというようなことを伺ったんですが、今日は慈雲尊者には随分いいお言葉があるようでございますので、そのお言葉をご紹介して頂きながら、私たちが安らかに生きる道はどこにあるのか。どういうふうにおっしゃっていらっしゃるのか、ということをお伺いしたいと思ってお邪魔しているんでありますが、この慈雲尊者と出会われたのは、どういうところからでございますか。
 
小金丸:  これはまだ私が二十代の後半の頃でしたけれども、高野山から下りていましたけれども、私は在家の出身でございます。それでどうしても私の心がまだ安定をしていないというか、こう学ばして頂いたけれども、まだ自分で確証を得ていないというか、そういうものがございました。その時に、〈さあ、これからどうやって歩こうかな〉と思っていました時に、慈雲尊者の書を思い浮かべたんです。書は、高野におります時から見ておりますので、書を思い浮かべますと、深くて優しくて大きくて、そういう書をお書きになる方は一体どういう考え方をされておられるか。その言葉を知りたいと、ふと思いまして、それから『十善法語(じゅうぜんほうご)』『慈雲尊者法語集』『人となる道』こういうものを読むことになりまして、そうすると読んでいきますと、今まで自分が学んでおったものが基礎になりまして、なかなか自分の中にグッと入ってくるものがありました。〈ああ、これだな〉と思う最初の瞬間でございました。
 
金光:  その慈雲尊者の世界にだんだん深く親しまれて、現在までお出でになっていらっしゃるわけですが、先ずどんなところから紹介して頂けますでしょうか。
 
小金丸:  そうですね。仏教というものをどういうふうに捉えたらいいか。根本的な問題ですね。これがやっぱりずれますと、一番大切なところ、またそれを慈雲尊者が常に強調しております、その言葉を先ず最初に挙げまして、始めたいと思いますけれども、
 
人天(にんでん)の法は
生死(しょうじ)の法じゃ。
仏法のみあって
生死(しょうじ)解脱(げだつ)の法じゃ。
(これ)を知らせたいものじゃ。
(『慈雲尊者法語集』)
 
こういう言葉があるんですね。慈雲尊者の法語はたくさんあるんですけれども、そのうちに、「是(これ)を知らせたいものじゃ」という表現が、私が見ましたところ、二つだけありまして、今日二つ出させて頂きますけど、そのうちの一つなんですね。
 
金光:  「人天の法」というのは、今の言葉でいうと、人間と天地自然の法とでもいうことでしょうか。
 
小金丸:  これは天上界のことですね。
 
金光:  天上界ですか。
 
小金丸:  人間界と天上界の法は、
 
金光:  生死の、生き死にの法だと。
 
小金丸:  これは「生死(しょうじ)」というのは、「生死界」と言いまして、私たちの迷いの世界のことを「生死界」と言うんですね。生と死がずっと繰り返していっている。生まれて生まれて、死んで死んで、という繰り返している。この迷っているからこそ、それを繰り返しているわけですが、そういう世界の教えですね。これは私たちがこの世界におって、いろんな教えがありますけれども、その迷いの中でどう生きていくか、という教えはたくさんあるんですけども、その迷いそのものを抜け出るというか、そういうものは仏法だけである、ということなんですね。
 
金光:  次の行になると、「仏法のみあって」という言葉になりますが、これはどういうことなんですか。
 
小金丸:  苦しみの世界―四苦八苦(四苦:生老病死、八苦:愛別離苦(あいべつりく)(愛する者と別れる苦)、怨憎会苦(おんぞうえく)(うらみのある人に出会う苦)、求不得苦(ぐふとくく)(求めても得られない苦)、五陰盛苦(ごおんじょうく)(身心より生ずる苦))の世界ですね―これを乗り越えていく教えは仏法だけであると。他は世間的な教えになっていく。私たちが普通言います、道徳、倫理の教え、こういうものが中心になっておるけれども、それでは私たちの煩悩を、根本的な迷いというものがなくならない。これをなくすのは仏法だけである、ということですね。ですからどうかすると仏法というのは、この世を如何に幸せに楽しく、ただ楽しく生きていけばいいのか、ということが、仏法の教えであると思いがちですけれども、ちょっとそこが違うんですね。お釈迦様が、王子の位を捨てて出家するということは、どういう意味があるかということを考えてみますと、もし世間的な楽しみだけであれば、王子の世界におって、そして満足すればいいわけです。それをわざわざ捨てるということは、それを一回クリアしないと、根本的な悩みが捨てられない、ということを象徴しているわけですね。
 
金光:  で、そういう「生死解脱の法」を説かれるのに、その次の手掛かりになる言葉としては、どういう言葉が出てきますでしょうか。
 
小金丸:  そうですね。それを得るためには、私たちが自ら自分をよく知る、ということなんです。「自分をよく知るものが仏である」という言葉もありますし、それから仏というのは、「我が心の清浄なるところ、これを仏というんだ」というふうな言葉もあります。それから『大日経』の中には、「如実に自心を知る」という、「これが菩提である」という言葉もあるんですね。そうすると、私たちは生活していて、自分を捨てて生きるということもできません。逃げられないわけです。この自己とは何か、ということ。ところがその求め方に仏法の独特の言い方があるという。見方がある。私たちの見方で、それが見えてくるのかというと、それがなかなか難しいので、どうみたらいいか、ということを仏法で常に問い掛けるんですね。慈雲尊者もこの心ということをどう見るかということに、法語の大部分を費やしておられる、と言ってもよろしいかと思うんです。それで和歌に書いてありますんですが、「心自不知心(こころみずからのこころをしらず)のこころをよめる」と題して、
 
心とも知らぬこころをいつのまに
我が心とやおもひ染めけむ
(『慈雲尊者和歌集』)
 
これが「心自不知心(こころみずからのこころをしらず)のこころをよめる」ちょっとややこしい言い方をされますが、「心自ら心を知らず」というのは、「心が心自身を知ることがない」というんですね。そういう心を詠うということなんです。「心が心を知らず」ということは、私たちが心を考えた場合には、既に考えられた心を対象にして考えることになりますので、その心をもう既に離れていくわけですね。そういう心の考え方では、心は知れない、ということを書いたのが、この「心自ら心を知らず」ということです。それは火が火を燃やすことがない、ということと同じですね。「舌が自分の舌を味合わない」こういう表現もありますが、心が心を知ることがない、という、そういう意味で喩えてあるわけです。そこのところの歌を創られましたものに、
 
心とも知らぬ心をいつの間に
わが心とや思いそめけん
 
こういう歌がございます。つまり心というものを、自分が「これが心だ」と思っているけれども、実はそうではなくて、もっと本来の心というものがある。私たちが日常に、「これが好き、嫌い」「こうしたい、ああしたい」という感情がたくさんありますが、それを心だと思っているけども、そうではないということですね。例えば海のさざ波がこうありますけれども、さざ波ばっかりを見ておって、海の大海を見ておらない。全体を見ておらない。またその奥深いところを見ておらない。いつも感情の波ばかりを見て、そこが心の全体だと思っているんですね。唯識(ゆいしき)で「六識(ろくしき)」と言いますが、その辺りの意識する部分だけを自分の心と思っている。そういう心の捉え方しか私たちはしておらないわけですね。
 
金光:  自分の心というのを、いくら見ようと思っても、見ている自分を見ることはできない。ところがそういういつまでも見ることができない自分であるということを知らないで、「ああしたい、こうしたい」とか、「あれがほしい、これがほしい」とか思っているのを自分の心と思ってしまっていると。
 
小金丸:  常に外のものを見ようとしますから、心でさえ外において見ようとするんですね。ここに物がありますが、私たちはこういうものを知ろうとすると、触ったり、匂いを嗅いだりするわけです。それで知ることになると思っていますが、そういう知り方を止めよ、ということなんです。難しいようですが、そういう知り方そのものの法則と言いますか、私たちが決めている、それを捨ててしまうということなんですね。
 
金光:  さてそうなると、それじゃ身動きできなくなるんじゃないか。どう動いていいかわからなくなるんではないか、というようなことを、頭では勝手に考えるわけですが、これは実際それを離れた人であれば、すぐわかることかも知れませんが、その辺の次の一歩というのはどういうふうに?
 
小金丸:  それは私たちが、如何にそういう方向でものを知ろうとしているかということを、先ず反省するという。慈雲尊者は、「憶念(おくねん)」という言葉をよく使われます。これを常に私たちが反省して工夫して、どのように法―真実というものを問うべきかということを、いつも考えなさい、ということなんですね。繰り返しです。その繰り返しの内容としては、外のものを見てしまう一つの条件に、先ず私たちの感覚ですね、『般若心経』に「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんに)」と、こういうのが出てきますが、こういう感覚が私たちのものを知るということを邪魔をしていると。慈雲尊者は、「それに騙されて」とこう言われるんです。「そういうことに騙されて知っていると思っている」こういうふうに言われる。そういうことが一つ反省の条件なんですね。それで次の言葉を挙げますならば、
 
一切法は
言説(ごんせつ)心念(しんねん)を離れて、
自性(じしょう)解脱(げだつ)したものじゃ。
眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)等の
及ぶ所ではない。
見聞(けんもん)覚知(かくち)
及ぶ所でないじゃ。
(『金剛般若経講解』)
 
こう言われております。「見聞覚知」というのも、「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)」というのも同じでございまして、感覚器官ですね、私たちの感覚器官―見たり、聞いたり、味わったりする感覚器官、これで真実が知れるところでない。何故かというと、もともと言説心念を離れているもの、つまり言葉とか、私たちの思いを離れておるものが、法―真実というものである。もともと離れておるものを、私たちが感覚や思いで受け取ろうとしていると、これは無理な話だ、というているんですね。
 
金光:  三行目に「自性(じしょう)解脱(げだつ)したものじゃ」という言葉がありますね。この「自性(じしょう)解脱(げだつ)」というのは、どういうことなんでございましょう。
 
小金丸:  これはいろんなものが、すべてが、私たちの心の思いとか、感覚器官で得られるものの世界の別にあるということですね。離れたものでないんですね。もともとそういうものじゃない、ということなんです。「自性解脱」というのは、もともとそうではない。もともとがそうでないのに、私たちは無理矢理にしようとしている。
 
金光:  ということは、本当に我が身と心で納得できると、また違う、「あ、そういう世界があったのか」というところに導いていかれるんじゃないかと思いますが、やっぱりその辺のところをいろいろお話頂いているわけでございましょうか。
 
小金丸:  そうですね。ここには「言説心念」とありますから、言葉が出てきます。金光さんとこうやってお話していますと、言葉でお話していますが、言葉でどこまで通ずるかという限界がございます。それと同じように、心の思いも、自分の心でしか思っていない、という限界もございます。そういうものを超えるにはどうしたらいいか、ということなんですね。そうでないと、やっぱり自己が中心になっている。この自己を中心にするということは、いわゆる「我(が)」でございますね。感覚器官と同じように、もう一つ「眼耳鼻舌身意」を重く言いますならば、「意」ですね。心です。これが次にあげます「物を覚知する道具じゃ」という言葉なんですが、これをちょっと読んでみたいと思いますが、
 
この心は諸(もろもろ)の境界(きょうがい)に対して、
物を覚知する道具じゃ
といふことを知らぬ故に、
善悪(ぜんあく)邪正(じゃしょう)、是非得失(とくしつ)
転ぜられては我相を執(しゅう)し、
勝他(しょうた)の心を起して、
(はなはだ)しきに至っては、
この心を利根(りこん)にしたうなる。
物知りにしたうなる。
又、その上に、
これを悟らしたうなる。
(『慈雲尊者法語集』)
 
「我相(がそう)」という、そこに「我をつくる。我を立てる」ということになります。我をこちらに、中心にありますので、我ができた瞬間に他ができますので、そうすると比較をすることになります。私とあなた、ということになります。私とあなたができると、比較から、今度は争いになる。戦争になる。本当はちっちゃなことから大きな事件に発展していくわけで、その根本は何かというと、この我を立てることであると。そこに執着をしているわけですね。自分というものに執着をしている。「我慢」とそれを言うんですね。増上慢(ぞうじょうまん)(仏教でいまだ悟りを得ていないのに得たと思念して高ぶった慢心のこと)―慢心(まんしん)ですね。これが起こると、道を私たちが見出すのに難しくなっていくわけです。ですからその根本は、でも我を立てることになります。この我をどうしても自分が可愛がるものですから、自分が、ここに我があると思って可愛がりますから、これを偉いものにしたくなるんですね。慈雲尊者にしろ、禅の方でもみんなこれは、「悟りと迷いというのは一つである」と、こういっているわけです。ところが自分が迷いで、向こうに修行した結果に悟りがあるという、そういう筋道を立ててしまう。こういう筋道ももうやめなさい、ということなんですね。
 
金光:  ただ私たちがいろんなことを思う―欲しいと思ったり、もっと立派になろうと思ったり、その思う時に既に「自分は」という、その「我(が)」というものが出てくるようでございますね。
 
小金丸:  そうですね。その初め一歩のところから、それは方向性を教えなければいけないというのがある。
 
金光:  ただそのことに気が付くか気が付かないか、という、そこがやっぱり分かれ目になるんでしょうか。
 
小金丸:  はい。「初一歩―初めの一歩が肝心である」と慈雲尊者もそう言われておりますが、初めの一歩が違っておりますと、だんだん遠くなりますので、その根本のところはとても大事だというんですね。無我ということがとっても大事なことです。
 
金光:  そこになると、前に紹介して頂いた、
 
一切法は
言説(ごんせつ)心念(しんねん)を離れて、
自性(じしょう)解脱(げだつ)したものじゃ。
 
というところに、そこに落ち着くかどうか。
 
小金丸:  そうなんです。そこが自分で自覚―自覚というと、またこれちょっとおかしいですが、ピタッと自分がそこに嵌って日常生活をすることができるかどうか、ということですね。そのためには、さっきの感覚器官を頼ることなく、それから我を立てることなく、ということがとても大事だ、という。筋道としては、そういうことになると思います。
 
金光:  現実の自分のことを考えてみますと、先ほどの言葉にありましたように、今は自分はわかっていない。もうちょっとこの道を進むと、もっといい境地にいけるんではなかろうかとか、もっと勉強したらなんとかなるんじゃなかろうかとか、そういうふうなことをつい考えがちになるんですけれども、そういう方途と言いますか、そういう真実の世界と自分との関係を知るためには、やっぱりいろんなご注意の言葉も述べて頂いているわけでございましょうか。
 
小金丸:  そうですね。私たちが幼少の頃から、普通に教えられるということは、そういう段階を経て、ものを知って、ものを判断して、それがまた常識であるという、そういう教えを受けているものですから、どうしてもこれがぬぐい去れないわけですね。それを捨ててしまうということは、相当の心の中で変化がありませんとできませんので、まあそれを起こすのが一応修行ではないかと、私は思うんですね。何か修行して、特別な何かを身に付けるわけではなくて、そういうことを捨てていくと言いますかね、捨てていく自分も忘れてしまう、ということで、そこまでいかないとほんとは捨てるということにはなりませんからね。そこまで捨ててしまった時に、初めて本来のものが現前してくるわけなんですね。それは見ておりますのは、先ほどのように感覚であったり、自我を中心としたり、そういうものからしかものを見ていませんので、それを落としてしまうことによって、向こう側に本当のものが今度は出てくる、ということになります。それは心配しなくても、自ずから出てくるものであって、どうも捨ててしまうと不安じゃないかと思います。ところが捨ててしまえば、自ずから出てくるもの、その次にありますように、
 
法性(ほっしょう)の中より一切の出現することを知らねばならぬことじゃ。
知らせたいことじゃ・・・
 
知るといふことは外のことを知ることの様に思うている。
そうしたことではない・・・
 
知るといふは小分(しょうぶん)相応(そうおう)することじゃ。
(『慈雲尊者法語集』)
 
「法性(ほっしょう)の中より一切の出現することを知らねばならぬことじゃ」とあります。「法性(ほっしょう)の中より一切の出現する」というのは、「法性」というのは、この世界の真実の世界ですが、ここから全部出てきておるものですから、あれもこれもほんとは法性である。すべてがそこから出てきたものである。厳密なことを言いますと、この「出現する」ということは、何かがあって、そこから出てきているかというと、じゃ、つくるものがあって、出てくるものがあって、二つがあります。こういうことが言葉を使いますと、誤解されます。徹底して「一つだ」ということは、実は出現するというのは、出現させるものもあるわけではないし、出現する根本があって、何かが出てくるわけでもない。これが難しいところなんですね。このように、本来そこから出てくるものであって、真実というのは自ずから出てくるものであって、こちらから受け取りにいくということではないんですね。続けて読みますが、これを「知らせたいことじゃ」とあります。またこの二番目に、「知らせたいことじゃ」というてあります。慈雲尊者は、「これを知らせたい」ということですね。「法性の中より一切の出現することを知らねばならぬことじゃ」知らせたいことじゃ。今時の人が誤って思うには、「知るということは、外のことを知ることのように思うている。そうしたことではない。知るというは、小分相応することじゃ」とあります。「相応する」ということは、とても大事なことでございますね。「相応」ということは、「一つになる」ということです。一つになっておる。「瑜伽(ゆが)」とか「瑜伽(よが)」とか、こう言います。これは「相応」ということですね。「もともと一つだ」ということなんです。私も自然界ももともと一つのものから生まれている。私たちはお母さんから生まれているけども、お母さんも自然界から生まれているわけですね。もともと本来一つのものである。それから私たちが食べ物を食べますが―お米を食べる、野菜を食べる―彼らは拒否をしません。この身体自身も自然界のものを受け入れるということをしています。この空気も身体が欲して、そしてこれを自然に受け入れることで生きています。ということは、すべてが一つの中で動いているということですね。だから、私たち、心というのがやっぱり働いているものがあります。仏道では、一つここに心というものは形としてあるということではない。「我を立てる」ということはそうなんですけれども、それをやらないんですけれども、しかし働いているものがあります。この働いているものが私にありながら、この自然界に働いているものはない、ということは言えないわけですね。こういう働きがあって、その中から生まれ、そしてここでも働いているものがある。そういう意味では、「相応している」ということは、そういうことなんですね。一つのものである。
 
金光:  ここは大事なことのようですので、「知るといふことは外のことを知ることの様に思うている。そうしたことではない」。心の中のことだったら、心の中で、外じゃないと思うかも知れませんけれども、心の中を見るというのも、これも外のことで、一番最初からの話を忠実に伺っていると、これは自分の心の中でも外のこと、ということがあるわけで、そうしたことではない、という前提のもとで、「知るといふは小分(しょうぶん)相応(そうおう)することじゃ」知るということは、小分相応することである。人間の知るというのは、人間の枠の中に、それを受け取るということは、ある部分ということになるでしょうけれども、ある部分が一如になっているんだと。まだ全体ではないわけでしょうけれども、そういうことで少しずつ知ることができるという、そういう意味ではないかと思うんですが、これはしかし考えるよりも、やっぱり実地の生活の中で、
 
小金丸:  そうですね。例えば私たち子どもの頃でも、自転車の練習をするんですね。最初は右に倒れる、左に倒れる、こうやっています。これは自分で頭の中で考えながらやるわけです。で、今度自転車によう乗れるようになると、今度は自転車と自分が一体しているわけですね。これは相応しているわけです。私たちは、何か生きていく上にしても、何かを左右しながら自分のいいようにしていこうとしているんですけれども、実はそうじゃないと。もう居るところ自体が、自然界の中で自分が生きやすくなっているのに、そこで先ほどの我を出し、感覚器官に頼って自分の好きなようにしようとする、そこで迷いが生ずるということですね。先ほどおっしゃいましたように、内の中でもそれを見ると、外と同じではないかと。まさにそうなんですね。内側を見るというと、今度は内側を見るという対象的にみているわけで、それすらも無くしてしまう、ということなんです。この「法性の中より一切の出現する」ということは、「法性」というのは、難しい言葉で、真実の世界のことなんですが、これは難しい言葉である。それで言い直せば、「一念心のことだ」と、慈雲尊者は言うてあります。「この心のことだ」と。「この心」と言いますが、またここに心をつくってしまいます。これが我なんです。そうではなくて、心というものは常に変化をするわけですね。昨日の心は今の心ではないし、多分明日の心は今の心でない。十年前の心は今の心でもない。いつも変化をしている。経験して変化をしていく。だけれども、十年前のことは思い出すことができる。これは不思議なものです。だけども、それがずっと固定したものとしてはないのです。これが仏教では、「自性がない」ということですね。「無自性」と、こう言うわけです。「実体がない」ということです。ずっと変化をしながらいく。そういうものの中から、私たちは、一つひとつの心があるわけですけれども、これから全部―ここは真実ですから、真実の世界から本当は出現したものであると。こう言われております。実は私は、まだ小学校に上がる前から変なことを思っていましてね。〈私が生まれたここは一体どういうなっているんだろう〉と思って、〈どこに生まれてきたんだろう。人がたくさんいる。空がある。森がある。ここは一体どういう仕組みになっているだろう〉そういう疑問を小さい頃からもっていましてね。これは両親に聞いても、学校の先生に尋ねても、これは多分無理だろうと、なんとなくそう思っていました。それをずっと成長するに従って、いろんなことを漁りましてね―哲学であったり、それから仏教であったり、キリスト教のものも読んだりしましたが、何故か仏教のものに惹かれて、高校時代から参禅をしたりしておったんですけれども、そうしますと、やっと十年ぐらい前に、私の幼少の頃の疑問を思い出しましてね、そうすると、〈ああ、これが答えだったんだな〉というふうに、私は何十年もその答えを知らずのうちに求めてきたんだなと思いまして、非常に有り難い思いがしました。この心、それから自然界がどうしてこの状態であるのか。どこから生まれてくるのか。ここに「一切の出現する」ということが書いてございますんですね。〈あ、これはその答えとして、私が与えられたものだな〉というふうなことを思った経験がございますね。
 
金光:  なかなかこういう言葉で表現されている方は、昔の偉いお祖師さん方にはあまりいらっしゃらないようでございますが、もうちょっと現実の私たちが居てる世界を、慈雲尊者がどういう言葉で表現されているか、もう少しご紹介して頂きましょうか。
 
小金丸:  今、「相応」という、ほんとは「一つである」というふうに、「一つである」ということは、「平等」ということなんですね。「平等」という言葉は、世間でも使いますけども、仏法でいいますと、この平等ということはどうあるべきか、ということを、次に慈雲尊者は言うておりますが、ちょっと読んでみますと、
 
山は高くして平等じゃ。
海は深くして平等じゃ。
 
山を崩して
谷を埋むるやうな
平等では
役に立たぬじゃ。
 
こう言うています。
 
金光:   しかし現実の今日本で考えられている平等とは大分違うようでございますが、普通は、「山は高いのと、海が深いのは違うじゃないか」というのが、普通ですけれども、そうじゃなくて、それが平等じゃ、とおっしゃって、「山を崩して谷を埋むるような平等では役に立たぬじゃ」とおっしゃっていますね。はっきりと断言されていらっしゃるんですが。
 
小金丸:  まあ平均化してしまうというかね、今の教育でもそうですし、みな同じようにしてしまう。みなこれを学ぶとするとすれば、みな同じように学んで、同じように理解をしなくちゃいけない。それで点数が付いていくと。それが平等だ、とこういう。この子はこういう特長があり、これが向いている。この子はこれが向いている、というのがあるんだけれども、それを無視して、同じような教育をしてしまう。それは山は山でよし、谷は谷でよし、海は海でよいと。「山は、谷を羨ましいと思わない」と、慈雲尊者は言うていますね。それはそれで法性、真実だ。海は海で真実である。それが平等である、という。その平等性というのが根本の平等なんですね。平等の反対に、私たちは、「差別(さべつ)」と言いますが、仏法では「しゃべつ」と読んでいます。読み方が違いますが、「差別(しゃべつ)」というのは、いろんなものが箇々それぞれの姿で完成をしている。真実の姿である、ということが差別(しゃべつ)の世界という。これを比較をするんではない。仏法は必ず比較はしませんので、「ただそれが、それである」ということが差別(しゃべつ)の世界として、そこに出てきておると、そういう説明をしています。
 
金光:  そうすると、その世界を私たち人間は、天地自然の中に生きているわけでございますけれども、そういう自然科学が随分発達している現代の中で、もう一度そういう世界をどう見るのか。その辺の見方は―現代の科学的な見方というのは、自分の個を立てて、その個が外を見るという、その方向がもの凄く発達しているわけですが、それとはちょっと違った方向になるわけですね。その辺はどういうふうにおっしゃるんですか。
 
小金丸:  そうですね。「個」というのと、さっきの「我」というのは同じですね。自分を中心にする。個を中心にする。でも自分は自分としてあるではないか、というんですね。そのある「個というものが、全体と一つ」と言っているのが、この平等ということです。このちょっとした一つですけれども、これが全体と等しいと言っている。これは私たちそう言いますと、これはこれだけのちょっとしか見えないし、宇宙全体は広いし、重さ量ったら何グラムで、宇宙を量れないし、という、こういう比較もしてしまう。それから分量で量ります。そういう問題ではないんですね。「これそのものが宇宙と一つ」これは『華厳経』の中によく説いているんですね。「一即多(いちそくた)」一が全体であってですね、そういうものから学んでいくということになりますが。
 
金光:  ただ、現代的な、科学的な考え方を教えられている人間から見ると、「この一つが宇宙と一緒だ」と言われても、「宇宙は宇宙、これはこれ」というふうについこう見てしまいますけれども、でもそれは一面的な見方であって、そうでない見方、世界の味わい方というのもあるんだ、ということになるわけでしょうけれども。
 
小金丸:  世界の中から生まれてきた、「宇宙の中から生まれてきた、ということは、宇宙そのものである」ということですね。分かり易く、今の考え方を使って言いますなら、この柱がございますね。この柱を取ると家が壊れますね。この柱も家と言ってもいいです。この柱を取ると家が壊れる、全部が壊れる。そうすると、この柱も家と同じになる。こういう考え方をしていくわけです。
 
金光:  そうすると、「柱が家と等しい」ということは、「箇々の人間も宇宙と等しい」という言い方もできるわけですね。
 
小金丸:  そういうことです。それで「自分が詰まらない人間だから」こういうふうに思いがちです。ところがそうじゃないということが、そういうことが身に付いてきますと、この「自己」と言っているけれども、全体と一つである。全体と一つである自分が、そこに真実の世界に出ているわけですね。何も阻害されるものも何もない。宇宙の中から出るべくして出てきておる貴重な一つの生命のあるという、そういうところに結び付いていくと思うんですね。
 
金光:  お話を伺っていても、「しかし」という言葉が出てくるんですが、私たちは言葉で考える以外にちょっと考えはないところがあるんですが、「言葉の世界というのは、真実の世界と違うぞ、気を付けろ」とおっしゃっているようですけれども、それでいながら、言葉に書かれた仏教の教えを知るというのは、これはなかなか難しいな、というような気がしながら伺っているんですが、その辺のところはまたいろいろご注意があるんでしょうか。
 
小金丸:  言葉というのは、「迷妄(めいもう)」であると。言葉というものは、迷いの世界のものである。これを本当に言葉として生かしていくには、私たちが今言っている差別も平等もないところに入らないと、言葉というのは実際には生きてこないわけですね。膨大な仏教経典がありますが、あれは全部言葉ですね。有名な「筏のたとえ」がございます。向こうに渡るまでは必要なもの、方向性を示すものですね。そして行けば必要のないもの、と言うてあります。私たちが、どちらに足を向けて、どっちに行くかということはやっぱり教えか言葉に依らずしては、そこには行けないわけですね。そういう意味で、これは言葉は悪いんですけれども、最初に慈雲尊者が、「これは道具じゃ」と言うていることで、道具として示されているもの、そういうことになるかと思います。それですから、仏法というものは見えないから形にはできないわけです。それで次の法語には、こういうのを挙げてみました。
 
仏法には法はなきじゃ。
 
今日
ありとあらゆる事を以て
法とする。
 
これ余道(よどう)
超越(ちょうおつ)する所じゃ。
(『?細(そさい)問答』)               
 
こう言うております。「仏法」というけれども、どっかに固まってこういう原則的な、「これが仏法だ。これがこういうことを守りなさい」というような定義があるかというと、そうではないと。それすらも超えたものである。こう言うておられるんですね。これが最初に言われた、「生死解脱の法に至るまでの強力な教えなんですよ」と。ここまで至らないと生死解脱に至らないというんですね。世間的な判断でしかない、ということなんです。これは法そのものも超えていく、ということが言えると思います。法という形そのものをつくらないと。仏に拘るならば、それは仏の「仏魔である」と。法に拘るなら、それは「法魔」であると。これは『臨済録』の中にも出てくる言葉でありまして、慈雲尊者は「仏魔」「法魔」ということを言っています。どういう素晴らしいものであっても、これを一つ固定して見ることはない。これは迷いのものである。禅では、南岳懐譲(なんがくえじょう)(中国、唐代中期の禅僧:677‐744)という方がおられますが、この方に、
 
説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)
 
という有名な言葉があります。「一物を説似すれば中(あた)らず」ということですね。一物をこう以ていって、いくら「真実がこれ」と言って、一物を以ていったらこれは中らない。これをやらないところが自然な清浄なところだ、とこう言うております。そのように仏法というものは常に枠をつくらない。無限のものである。ここまで、ということがない。これだけ、ということがない。こういう意味からすると、私たちの感覚で思っている「これをやればいい。これをすればお終いだ。ここまでいけばいい」こういうことが全部否定されている。それでお釈迦様が、こういうことを言っているんですが、経典の中には、「仏が出られようと、出られまいと、法という真実というものがある」こう言われておる。そうすると、お釈迦様は、ここに生まれてこられて、それを説いただけであって、この法をお釈迦様がつくられたわけではない、ということですね。そうすると、仏道があるとか、無いとかということよりも、真実が何か、ということが先ですね。私たちは後生大事に、「これが慈雲尊者の考え方である。これがお釈迦様の考え方である。これが仏道である」こうつくるわけですよ。これすらも止めよ、ということなんですね。そこまで全部限界を払ってしまったからこそ、これが本当のものである、ということに出てくる。それが箇々のものになると。
 
金光:  そうすると、お釈迦様は昔の人、慈雲尊者は昔の人、私たちは現代だから違うぞ、と言ってしまうと、違うところにもまたその法はちゃんと生きているわけですね。そういうことなんでしょうか。
 
小金丸:  そういうことですね。そこのところまでいかないと、平等でもないですし、真実と自己というものが一つでもないということが言えなくなるわけです。
 
金光:  そうしますと、時間的には、私たちは現代という時代で、それは過去があって、未来もあるわけですけども、生死―生き死にという問題で言いますと、生まれてくる前もあり、生まれてきたこの生もいずれは箇々の人間は終わる。自分も終わるでしょうけれども、じゃ、生と死の境も枠はないとなると、
 
小金丸:  これは「生死界」というものを、これで超越していくということですね。生も死もないところに―生と死が平等にある。生と死が一つのところにある。そういうことが言うていくわけですね。
 
金光:  「仏法には法はなきじゃ」法はないぞ、と。「今日ありとあらゆる事を以て法とする」法はないとおっしゃりながら、「今日ありとあらゆる事を以て法とする」という言葉が続きます。「これ余道(よどう)に超越する所じゃ」。これは慈雲尊者の喩え話だったかと思いますが、「瓶の水に月が映っていると。隣の瓶にその水を移すと、また月が映る。その前の月がこちらに来たのか、というと、それは違うんだ」という譬え話がありますね。
 
小金丸:  それは心というものは、先ほども言いました、ずっと続いているわけではないんだと。例えば私たちが、「右手が痛い」と言うている。そうすると、心右手にいっています。今度は、「お腹が減った」というと、心お腹へいきます。右手にいった心がお腹にいっているかというと、そうじゃなくて、右手にいった心は、ここで消えて、今度はお腹が痛いという心が起こっている。心というのは、刹那消滅なものだ、ということなんですね。ここで起こる、為す。今度また起こる。そして消えていく。こういうふうなことでずっと続いている。じゃ、前の覚えていないかというと、やっぱり覚えている。ここは連続でもあり、また非連続でもある、ということですね。そういうふうに心ができていると。今おっしゃることは、こっちが起こせば、また今度は違う心が、ここで起こっていく、という。そういうふうに持続して、つまり実体がずっと動くんじゃないぞ、ということですね。
 
金光:  そういうものだ、ということを、じゃ、言葉としては確かにおっしゃるとおりでございましょう、と思っても、現実の生き方の中には、それがなかなか自分にピッタリこない点があるわけですけれども、その辺のところはやっぱりちゃんと配慮してくださっているんでしょうか。
 
小金丸:  先ほどから言いましたように、私たち自身は平等のところから出てきている私というものですね。この平等だ、というようなことを頭で考えましても、この一つひとつは、真実の世界のものなんだ、ということが実感できないでしょう。そうできない以上は、いくら平等と言っても意味がないですね。観念的なものであります。それが次にありますように、
 
(くう)無相(むそう)
合点したようでも、
差別(しゃべつ)の境界(きょうがい)
はなはだ会(え)し難い・・・
 
差別智(しゃべつち)
明らかになければ
涅槃智(ねはんち)
真っ暗闇じゃ。
(『慈雲尊者法語集』)
 
今金光さんがおっしゃったように、「会し難い」わけです。非常に難しい。「差(しゃべつ)別の境界(きょうがい)」と言いますのは、これとあれが存在している。これを慈雲尊者も「会し難い」とこう言うておりますから、ほんとに私たちは何度もそれを思って、生活の中で体験しないとわからないということですね。わからないのが人間であって、わからないから人間に生まれてきている、と言うていいんですね。もし私たちが、犬や猫の心をもっていれば、犬や猫に生まれてきている。人間の心をもっているから人間に生まれてきている。これも相応しているわけです。わからないからこそ人間に生まれてきておる。だからわからないと言えば、ある意味で当然かも知れませんが、その中からどうやってわかっていくかというと、もうこういう手しかないのかという根本的な問題に直面します。
 
金光:  それではそういう差別智を明らかにするためには、どういう段取りと言いますか、どういう道筋があるんでしょうか。
 
小金丸:  これは、さっきから言いますように、捨ててしまうことなんですね。今の感覚。で、次にこういうことを挙げてあります。「名利(みょうり)・五欲(ごよく)・我相(がそう)」ということを言っています。
 
名利(みょうり)・五欲(ごよく)・我相(がそう)を脱するとき、
雲霧霽(は)れて朗月(ろうげつ)を見る如く、
人道もここに明らかに、
天命もここに明らかなり。
実智恵(じっちえ)の光明(こうみょう)沙界(しゃかい)を照らすじゃ。
高遠(こうえん)ならずして
而も誠に高遠なるじゃ。
(『十善法語』)
 
こういう言葉がございます。どういう意味かと言いますと、先ずはこれを捨てなさい、というんですよ。「名利(みょうり)・五欲(ごよく)・我相(がそう)」です。「五欲」というのは、「眼耳鼻舌身意」による欲ですね。「我相」というのは、我を立てること、我を中心とするということ。その上に「名利」というのがございますね。世間では大体名を惜しみ利益を得ること、こういうことを中心にして生活をしているわけですが、ムダにそういうところに欲を出すこと、これが名利の欲ですね。これをなくし、五欲の感覚器官に騙されている思い、それから我を中心とすることを止める。これを「脱するとき」とありますから、これに執着することを止める、ということですね。脱して違う世界に、そうすると、ここに「雲霧霽(は)れて朗月を見る」とあります。実は月というのが明々と照っているわけですが、私たちが見ると、そこに雲がかかっている。その雲が、名利である、五欲であり、我相なんですね。これはスーッと霽(は)れて明るい月を見るように、すべてが明らかになってくる。人道も明らかになる。天命もここに明らかになる。人道というものは、人があればそこに道があると、慈雲尊者は言うています。人がおればそこに必ず道がある。天があれば天の道がある。地は地の道ある。「天・地・人」の三才(さんさい)と易経の中にありますが、人間の道というのも、天の道に即したものですね。天道―天の道、自然の道を無視して、人間の道は成立しないわけです。何でも道理に従って人も行わない以上、科学にしても、天然自然の道理の中で科学を行わない以上、それは結果がでません。科学も自然の道を無視しては、科学は進めないわけですから、天道も人道も同じところにあるわけですね。そういうところも見えてくる。それから「天命」というのは、個人が天より授くるもの、と言われておりますが、天から受けた個人個人の違いがありますので、そういう自分の天命―孔子さんもそういうふうに「天命」ということを言うております。そういうものも明らかになる。つまり自己も世界も明らかになるんですね。それを捨てない以上は、抱え込んでいる自己ばっかりであるし、自分で考えている世界ばかりでありますから、捨てるとそこに人道というもの、個人の天命というものも、そこに明らかになってくる。そうすると、そこで智慧がこの世界を全部照らす、とありますが、社会というのは―差別界のことですが、「照らす」とありますが、先ほど言いましたように、出てくるんですね。道元禅師は、「現成(げんじょう)する」とこう言うておりますが、そこに自ずから出てくると。照らすも、照らされる世界も二つないんですね。自ずから出てくるものである。あるということ―私の師匠さんは、「あるということが悟りだ」と言われている。見て知ることが悟りなんで、もうそこにあるということが悟りだ、とこう言いますね。「高遠(こうえん)ならずして」と最後にありますね。高遠というのは、非常に高尚な難しいものではない、ということなんですね。現実性のものだ、ということですね。こんなに言うていますと、非常に難しいことを言うているようですけれども、それは別に高遠なことではない、目の前の世界のことだ。だけれども奥深いものである。しかも高遠なものである。目の前に、道というのは近くにあるんだけれども、不可思議な奥深いものであると。決してここから離れたものではない、ということも加えて言われておられるわけですね。
 
金光:  そうすると、自分が今生かされている現在今ここと、離れた遠いところにあるわけではないと。現実そのままだけれども、しかもまことに奥深いものであると。
 
小金丸:  だから私たちは、この現実世界をよく観察することがとても大切なことなんです。私たちは、何でも当たり前と思っていることなんです。つまりこれをよく見ますと、例えば自分にしても―私が幼少の頃、自分もそうですけど、〈何故自分がこうであるのか。何故人がそれぞれ違うのか。何故世界は崩れたり生じたりしているのか〉そういうことを考えていきますと、そこには一つの道理というものがあるわけです。その中で自分が生まれて死んでいく。そういうことをずっと観察をする。観察をするということは、仏教でよく言うんですけど、観察をすべきなんですね。当たり前に日常を過ごして、五十年百年過ぎていって、死んでしまうというんじゃなくて、よくそこを工夫して観察して、よくお釈迦様も、「よく用心して、よく知って」というふうに言われています。
 
金光:  しかもそれは、自分の心と言いますか、外に求めるんじゃなくて、今生かされているその姿をよく見なさい、という、そこへ通じているわけでしょうね。
 
小金丸:  そうです。それはやはり私たちが、そのことをずっとそういう心できておりますので、もう何度も、過去の、わからない永遠の過去からずっとその心の習性がついておって、今の生死界におるわけです。今申しました根本のところを、私たちは一つひとつやるしかないと思いますね。一つひとつ、この一番肝心なところを忘れずにやると。どうしても一番肝心なところを、私たちは最後にしてしまうんです。そう思っているうちに人生が終わってしまう。そういうことを何回も繰り返しているのが私たちだと思ってもいいわけです。ですから今ここで一番思うべきか、ということを考えて頂くということが大切じゃないでしょうか。
 
金光:  確かに難しいにしても、こういう世界があるんだ、ということを、慈雲尊者は現実の世界に即して話してくださっているわけですが、現実のこの世界では、小金丸さんは、書の方の先生もなさっていらっしゃるわけですが、そういう仏法の世界と書の世界との関係、これはどういうふうに受け取っていらっしゃいますでしょうか。慈雲尊者の言葉を通してご紹介を頂きたいと思うんですが。
 
小金丸:  そうですね。慈雲尊者が、
 
物を書く外(ほか)に心はなく、
心の外に物を書く者はないようになると、
初めて筆の妙を得る
(『慈雲尊者法語集』)
 
こう言われております。これはまた私たちが日常に実践することもそうなんですけども、ですから書いておるものと、それから道具ですね。私たちの生きている世界というのは、物と心のある世界ですから、どうしても物を使いながら心を働かせなくてはいけないという、この二つある世界で、これを一つにしたところ、これでないと筆の妙は出てこない。書というものの妙、なんとも不可思議な奥深さというものは出てこない。そうでないと、「善心(ぜんしん)を開発(かいほつ)する力はない」ということですわね。そういうことが書の難しさであるし、またお坊さんが書を書くことの意味というのは、そこにあるんだ、ということですね。これはまた筆を通しての実践ということになります。
 
金光:  そうすると、お茶碗と宇宙が一緒だというのか、湯飲みと宇宙と一緒だと同じで、今生きているのは宇宙と一緒に生きているんだと。
 
小金丸:  そうですね。筆を動かすというのは、行為で動いていますね。日常私たちは動いているわけでして、動いていることと、すべてが一つになっていく、という、そういうこと、そこに至った時に初めて本当のものが、心にかかってくるということになると思いますね。
 
金光:  そうすると、安らかに生きる、
 
小金丸:  サラサラとこう流れていく。「心無?礙(しんむけいげ)」というのがありますね。?礙することがない。引っ掛かるところがない。水が、岩がありましてもスーッとこう行くように、岩があるのは当たり前なんですけれども、それをスルッとこう行くと。そういう心で流れていくようにいく、ということが、邪魔をすることがない。心に引っ掛かるものがない。
 
金光:  「空(くう)」とか、「無相」とか、いろいろ言われますけれども、その差し障り、引っ掛かるところがないと。そういう水がサラサラ流れるような形で日々過ごしていける、そういう世界に本当の仏法の味わいある生活ができますよ、と、そういうふうに受け取ってよろしいんでしょうか。
 
小金丸:  そうです。ただそれが難しい。甚だ会し難い。会し難いんだけれども、そこのところを見ていくんだよ、という。歩く方向を示してくださっている。これが、慈雲尊者の法語です。なんかお釈迦様の法語でもあるということになると思うんです。
 
金光:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成二十四年六月三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである