縁を結び 支え合う
 
                  南溟寺(なんめいじ)僧侶 川 浪(かわなみ)  剛(たけし)
一九六一年、長崎県生まれ。大谷専修学院を卒業、一九八九年出家得度し、瀬戸内海地方の寺院役僧から法務生活をスタートする。女性の檀家さんたちから足腰の不調の訴えや年金受給の相談を受け、「世俗の問題」に対応できるように後年、上智社会福祉専門学校に学ぶ。一九九五年、大阪ミナミのVOWS BARの二代目マスターになり、夜の街に出て若い女性や中年男性の悩みを聴く。二○○四年大阪城公園シェルターの相談員になり、野宿生活者問題に深く関わり始める。西成区・釜ヶ崎地区の労働者や元労働者たちの故郷や家の宗旨へのこだわりが強いことを知り、二○一○年、支縁のまちサンガ大阪を結成し、看取りや知人葬や共同墓の問題に取り組む。二○一一年三月、ホームレス支援全国ネットワークから仙台市に派遣され、 東日本震災被災地支援対策本部事務局員として働く。
                  ききて 住 田  功 一
 
ナレーター:  東日本大震災。被災地には宗教家も支援活動に入っています。その一人が大阪南溟寺の僧侶・川浪剛さんです。川浪さんは、もともと日雇い労働者が多く集まる大阪市西成区のあいりん地区、釜ヶ崎で活動を行っていました。ここでは路上やアパートで、誰にも看取られずに亡くなっていく人が少なくありません。川浪さんは、そうした人々の生きた証を残すと共に、ホームレスの人々の自立を支援する活動に取り組んでいます。川浪さんが、この地の人々と関わるようになったのは、ここで日雇い労働者として働いていた父親の影響です。父親の仕事に劣等感を抱いた川浪さんは、中学生で不登校になり、卒業後も職を転々として、自殺願望に苦しみます。そんな時に出会ったのが、親鸞の教えでした。寺の生まれではない川浪さんでしたが、僧侶になることで自分を見つめ直します。やがて自分自身がホームレスになるという経験を経て、釜ヶ崎で生きる人々と、共に歩もうと決意したのです。今回の「こころの時代」は、南溟寺(なんめいじ)(泉大津市)の僧侶・川浪剛さんに、困難にある人と同じ目線で向き合いながら、共に悩み、共に生きていくことで見えてきたものを聞きます。
 

 
住田:  東北では、最初救援物資の後方支援のお仕事を―これかなり素早く現地に入られたんですね。
 
川浪:  そうですね。震災が起こってから四日目ぐらいに、「ホームレス支援全国ネットワーク」という全国でホームレスの支援をされている活動の団体を、七十ぐらい束ねているところがありまして、そこの理事長が牧師さんなんですね。牧師さんから私に電話があった、ということなんです。「ホームレス支援全国ネット」に加盟している仙台の「ワンファミリー仙台」という団体がありまして、ここの代表の方も、元神主さんですけれども、ここがいち早く炊き出しをやってですね、県から、「物資を配送してくれ」というふうに頼まれていて、「どんどん車と荷物を出しているんですけれども、荷物が足らなくなってくるんで、そこへ駆け付けてくれ」ということで、私も、震災から一週間経った三月十八日に仙台に入りました。最初は、みんなが現場へ現場へと、みなさん行きたがるわけでありまして、どんどんみんなが行っちゃって、倉庫だけが残って、荷物が片付かないままどんどん荷物が入ってくる、という状況でありましたので、私は主に荷物の仕分けをずっとやっていたんですけれども、やがてメーンのドライバーさんが―大阪の人だったんですが、大阪へ帰ってしまったんで、そうしたら現場へ運んで行く人間がなくなったということで、それからはどんどん実際に被災された方たちの、一般のみなし仮設と言われるような場所であるとか、在宅で被災された方、まあまたお家は失っていないんですけども、勿論船が流された、田圃に海水(塩)が入ってしまった、と言われるような方たちもいらっしゃいますので、私は積極的に在宅の方の方へ最近は物を届けているんですが、中には「物は持って来なくていいから、顔を見せてけろ」というような、そういった方もいらっしゃる、ということなんです。娘さんとか息子さんも亡くされた方もいらっしゃるし、ほんとにご親戚を亡くされたわけなんで、そういうほんとに自分の顔の見える関係、そういうものを強く求めておられるんだと思います。その後、男性たちは農業や漁業に取り組むわけなんですけれども、女性たちも手仕事を始められます。例えば我々が持って行ったTシャッツを使って布の草履を編んでいるおばあちゃんもいますし、また古い着物の布を使って「ふぐろ」―東北の訛りで「袋」なんですが―「ふぐろ」というものを作ったりする人たちも出てきました。そしてその人たちがほんとに仮設住宅の中で集会室―談話室とも言いますけれども―そこで仮設住宅の個人個人のお家から出て、その集会室で一緒に仲間と布草履を作る、あるいはふぐろを作るということが始まって、人と人との繋がり、コミュニティを支援していく、という段階にだんだんと入っていくわけなんですね。

 
ナレーター:  大阪・西成区。川浪さんが、被災地で人と人との繋がり、縁を大切にした背景には、ここでのさまざまな経験があります。
 

 
住田:  川浪さん、釜ヶ崎でおこなっていらっしゃる縁を結んでいく活動、これは具体的にはどういう活動をなさっていらっしゃるんですか。
 
川浪:  そうですね。一番大きいのは、毎年三角(さんかく)公園と言われるところで合同で法要をしております。そこは一年間に亡くなった方たちを追悼する場なんです。一九八九年辺りから釜ヶ崎の街に住んでおられる神父さんによって、ずっとキリスト教式で追悼法要がなされておりましたけれども、二○○六年辺りから私も一緒になってお経を読んで、神父さんのお祈りがあって、そしてまた労働組合の方のギターと歌という形の法要をしております。三角公園でやっている法要というのは、その一年間に亡くなった釜ヶ崎の関係者の方とか、後はホームレスの方なんですが、お名前のわかっている方たちを追悼する場なんですけれども、お一人おひとりのお葬式と、その一体一体のお骨を預かっていくということも非常に大切なことだと思いますので、阿倍野の私が住んでいる長屋のところにもお骨を預かっておりまして、後このお寺にも預かっているんですけれども、このお寺の隣接する土地のところにまた共同のお墓を作ろうという計画を立てております。
 
住田:  自分の最期、葬式がきちんとあるということはやはり大切なことなんですね。
 
川浪:  そうなんですね。やはり今までは自分が、「このままいったら、儂も野垂れ死にや」とか、「こうやってアパートやマンションに暮らすようになったとしても、やっぱり自分が死んでも、お線香の一本も上げてくれるやつはおれへんね」というふうな投げやりな態度で生きてこられたと、私は感じておりますけれども、やはり自分を弔ってくれる仲間がいるんだということで、やはり生活に張りというか、緊張感をお持ちになっているというふうに感じております。
 
住田:  そういう支援活動、いわゆる縁を支える活動をされるきっかけというか、ベースはどんなものがあったんですかね。
 
川浪:  私は、いろんなホームレス支援の活動を、民間とか、あるいは行政の依託の仕事を受けていろいろさせて貰っていたんですけれども、そこで見聞きしたいろんなことがありまして、やはり深い深い宗教心がそこにあるんだなということに気付きました。
 
住田:  釜ヶ崎にもあるんだと。
 
川浪:  そうですね。一つには、私が、「サポーティング・ハウス」と言われている、もともと簡易宿泊所―一般には「ドヤ」と言われますけれども、ドヤからケア付のアパート、共同住宅に変わったところで、住み込みで仕事をしたりなんかもしましたけれども、そこにいる時に、「兄ちゃん、この辺で観音さんってどこや?」というふうに言われたりするんですね。それで「どういうことですか?」と聞いたら、「家は奈良で育ったんやけどな、幼い時からお母さんに手を引かれて観音さんにお詣りをしていたんや。だから大阪で観音さんはどこにあるの?」というふうに聞かれてみたり、あるいはもうかれこれ六年ほど前になると思うんですけれども、その頃路上で住んでいた方と私はお友だちになっていたんですけども、そこで彼が、「この街には非常にお地蔵さんの数がたくさんある。そこに手を合わせる人がたくさんいるんで、一つこの夏にお地蔵さんすべて回って、そこでお経を上げさして貰ったらどうやろか」というふうな提案があったんですね。そしてそれに私も大いに関心をもって練り歩いたことがあるんです。夏にこういう格好をするわけですから、とっても暑かったんですけれども、二時間半ぐらい外で歩きながらお経をあげていたんです。そうしたらあるお地蔵さんの陰から三、四人の男の人が出て来られたんですね。その時に私はビックリして、こう身をぽっと引いて、なんかどっつかれるのかなと思っていたんですけれども、その中の一人が手にほんとに小銭を握り締めて、「これで坊さん、儂の弟分のお経を読んでくれ」と言われたわけなんですね。それで「一体どうしたんですか?」と聞いたら、「そこにある電柱の陰でヤクザに刺されてしもうてな。儂、弟分を亡くしてしもうたんや」というふうにおっしゃったんですね。そこで短いお経を勤めさせて頂いたんですけれども。そうしたら、その方がほんとに大きな涙を流して、「ほんとによかった、よかった。これであいつも喜んで浮かばれるやろ」というふうに言っていたことがあったんですね。
 
住田:  その握り締めていたお金はお布施として、
 
川浪:  そうなんですね。でもそれがほんとに駄菓子屋さんに持っていくようなお金で、五円玉が二個や、五十円玉が三個ぐらいとか、そういったわずかなお金だったんですけど、ほんとになけなしのお布施ということで渡してこられたんだ思っています。
 
住田:  釜ヶ崎で最初に葬儀に立ち会われた時、これも鮮烈な印象があるんだそうですね。
 
川浪:  そうですね。ちょうどうちの住職が、労働組合関係の方で、亡くなった方たちのお葬式に毎年行っておられたんですけれども、ある日磬(きん)という―お経を称える時に鳴り物がありますけど―「その磬役(きんやく)で来てくれ」というふうに言われたんですね。今から二十年前になるんですけれども、そこの釜ヶ崎の街に足を踏み入れて労働組合の事務所に行った時に、ほんとに粗末な机の上に香炉とお花が供えてあって、それでうちの住職がお経をあげた時に、ほんとにお焼香している人というのは、もう五人ぐらいしかいらっしゃらないわけなんですね。その方たちがほんとに号泣されているわけなんですね。それはよくよく聞いてみれば、この街の公園で炊き出しをされている仲間たちなんですけれども、その仲間の一人を失ったということで、みなさん男泣きに泣いておられるという姿を見た時に、〈ああ、こんなにも血が繋がっていないのに、仲間のことを思われるということはほんとに貴いことだな〉ということを、その時感じました。ですから一般のご家庭の人たちというのは、こういうお寺の檀家さんになっておられるし、いざ亡くなった方があれば、葬儀社の方を通じてお葬式もされるんですけれども、釜ヶ崎の場合というのは、まったくそういうお葬式も法事もないわけなんですね。ですからかえってこういった場所に本当にそういった心の籠もったお葬式―手作りの仲間同士のお弔いの場、そういうものが必要なんだと、私は強く感じております。
 

 
ナレーター:  川浪さんが、釜ヶ崎と関係をもつようになる根底には、父親の姿があります。
 

 
川浪:  うちの父親は、私が生まれるぐらいからですね、釜ヶ崎で日雇い労働をしてきたわけなんです。昔の旧制中等学校と呼ばれるある大阪の商業学校に行っていたんですけれども、当時は非常に今の高校野球に当たる中等学校野球大会というものがあったんですけれども、三度ほど甲子園に出ている非常に有名な学校だったわけなんです。で、残念なことにうちの親父は、そこのレギュラーではなかったんですが、ちょうど中等学校に入っている時から戦争へどんどんと時代が流れていって、そこで甲子園大会も中止になったりする年もあったんですね。そういったこともあって、父親は十分に自分たちの青春を謳歌することができなかったという思いを秘めながら戦場へ向かって、同級生の中にはほんとに亡くなった方たちもいたということで、ある意味で失意のもとに日本へ帰って来て、あまり積極的にこの社会に対して働いて生きていくという道をなかなか見つけられなくなったようなんですね。
 
住田:  復員されて、そしてさまざまな職もなさった後で釜ヶ崎で働くという。
 
川浪:  そうです。電気の職人さんとか、ずっと建築関係の職人をした後に、日雇い労働を始めたというふうに聞いています。やはりうちの母親であるとか、祖母が、「あんたとこのお父ちゃん、世間に顔向けでけへんような仕事をしているんや」というような言い方をしておりましたから、ずっと自分は、父親の存在を自分の友だちにも言えないままですね、胸に秘めて悶々としておりました。そういう父親にどんどん反抗してしまって、優しいこともあって、ジャンパーを買ってきてくれたりとかしたこともあるんですけれども、「こんな中古の恰好の悪いジャンパーなんか要らんわい!」と言って、父が買ってきたものを投げ捨てたこともありますね。そういうことで、ほんとに申し訳ないことをしていたというふうに、今は思えるんですが、当時は父親のやること、為すことが自分の頭痛の種というようなものでしたね。そしてほんとにどんどんと生きることが苦しくなってきて、学校に行って、ほんとに勉強ができて、そのまま上の学校に行って、それから就職するという、普通の人の歩む道がですね、自分はほんとに踏めないんじゃないかなというふうに怖れていたんですね。いつか学校に進学する時、あるいは会社に就職する時に、「あなたのお家は何をしているお家ですか?」というようなことを聞かれた時に、それはもう答えられなくて、あるいは嘘を言わなきゃいけないようなふうに、自分はずっと一人悩んでいたんです。同級生にいろいろ聞かれた時も、まあ何となく「自分の父親は、おかずやさんをしているんや」というようなことも言っておりまして、そんなこともあって中学三年の時に不登校ですね―その当時は「不登校」なんていう言葉は影も形もなくて、「学校に行かれん子ども」というふうに言われていたんですけれども、そういう状況でずっと家の中に引き籠もっていたということがありましたね。
 
住田:  生きることがやはりしんどいという状況ですか。
 
川浪:  そうですね。ですからうちの姉にも、うちの祖母にも期待されて、「あなたは勉強ができるんだから、大学を出て、出世して、川浪家の汚名というか、そういうものを濯いでですね、立派な社会に役立つ人になりなさい」と、こういうふうに言われるわけなんですけれども、〈自分はそれをほんとに果たすことができるのか〉というふうに疑問に思いまして、どんどんと自分を追い詰めて、〈こんなことだったら死んでしまいたい。人間というのはやがて死ななあかんのに、何で生まれてきたんやろ。何で生きていかなあかんのやろ〉。今日こうやって悶々と一日が過ぎていったけれども、それってかえって死なないけれども、どんどん一日一日命を削っていってしまう。こういうこの思いに突き当たってしまった。ほんとに二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなってしまったんですね。
 

 
ナレーター:  そんな川浪さんに転機が訪れます。それはある仏教書との出会いでした。
 

 
川浪:  いろいろ模索していた中で、京都の寺町というところにある古本屋さんで、ある問答集を手に取ることになるんですね。質問されている方が、「ほんとに仏教の勘所がわからない」と言って、その先生に質問を投げかけているんですけれども、その先生のお答えというのは、例えば「悟る」というのは、「自分が迷っていることを知ることが悟りなんだ」とか、あるいは「宗教の道」というのは、「不安の中に立つということなんだ」とおっしゃっていたんですね。その先生が、浄土真宗の方でしたので、親鸞(しんらん)(鎌倉時代の僧、浄土真宗の開祖:1173-1262)という方のいろんな言葉に触れました。その中でやはり「いし かわら つぶてのごとくなるわれらなり」という言葉があります。それは石や瓦や礫のように扱われて人間、元の文章は「瓦礫変成金(がりゃくへんじょうこん)」と書きますけれども、つまり今の言葉でいうと、「瓦礫(がれき)を黄金(こがね)と成す」ということなんですね。やはり自分たちが、石や瓦や礫、その瓦礫のように扱われていても、御仏の光を受けて、一つひとつが輝きを放つ、というふうに聞こえてきたわけなんですね。親鸞聖人の弟子の唯円(ゆうえん)さんが書かれた『歎異抄(たんにしょう)』という中に、「悪人正機(あくにんしょうき)」という言葉がありまして、
 
「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」
 
ということで、善人さえも救われるんだから、悪人は尚更救われないわけではないよ、とこうおっしゃった。その「悪人」という言葉が、その当時私が学校に行けなかったり、なかなか就職ができなかったりという部分であるコンプレックスと非常に深く共鳴して、そういったものの中に道が開けるんだよ、と言われているような啓示があった、ということなんですね。その時は、ほんとに自分がどうやって生きて行っていいかわからないというような、ほんとに暗闇の中を手探りで生きているような状況だったんですけれども、〈ああ、自分のこの辛い気持や迷っている気持、それをこうほんとに誤魔化すことなく、そこを見つめていくということなんだ〉というふうに、私の中でその言葉が響いてきて、〈これでいいんだ〉というふうに思えたわけなんですね。
 
住田:  今の迷いながら生き方でいいんだ、と。
 
川浪:  そうですね。ほんとにすっきりと迷いが晴れて、自信をもってこう胸を張って生きていくというよりも、〈自分のような俯(うつむ)いたような、ほんとに頼りないようなものでもしっかりと生きていけるんだ〉ということだったんですね。
 

 
ナレーター:  川浪さんは、僧侶養成学校に入ります。ここでさらに仏教への思いを深くします。
 

 
川浪:  不思議な学校に行ったんですけれども、それは何故かというと、入学案内があったんですけれども、そこの入学案内に書いてあった言葉が、二つ解せない言葉があったんですね。その一つは、「うちは僧侶の養成学校なんだけれども、仕事は斡旋しません」というふうに書いてあったんですね。普通の学校ならば、自分の学校がどれだけ卒業生を出して、どれだけいろんな就職口があって、うちは就労に強い学校です、というのが学校の常識なんですけど、そこは「たとい僧侶になっても、それを就職口としてお寺を紹介することはありません」と書いてあった。もう一点は、「うちの学校は教師が、仏教というもので生徒を教育することはできないんだ」と書いてあるんです。なんと不思議な学校なんだろうと思って行かして頂いたんですけれども、そこは一人ひとりの中に、そういった救いを求める気持がある。そこを教師というものは、ほんとにそのご縁を支えるだけなんだ、というような意味合いのことを言いたいがために、そういう分かり難い表現をされていた学校なんですね。非常にたくさんのことを学んだんですけれども、例えば、「自分がどんなものであっても、世界中の人々があなたを見捨てたとしても、あなた自身があなたを見捨ててはいけないんだ。そうして自分が見捨てないということが、仏様もあなたを見捨てないということなんですよ」というふうな言葉を院長先生から頂いた。あるいは、「この阿弥陀様の本願(仏が衆生を救済するために起こす誓願)に出会ったということは、どういうことなのかというと、これから自分が仲間を見出して一緒に苦労するということができることが、本願に会ったこと、助かったことなんだ」とおっしゃったんですね。そういった言葉というのは、ほんとに理屈抜きで私の中に沁み込んできましてね。今まで自分というのは、自分の父親に対する気持もそうですし、自分に対する気持もそうなんですが、自分で自分を嫌って見捨てて、父親のこともやはり嫌って見捨てているわけなんですね。それが、「どんなに世間の人から見捨てられたって、自分自身は自分を決して見捨ててはいけないよ」という素晴らしいメッセージを頂いた。少し難しい言葉でいうと、「差別視線の内面化」というんですけれども、みんなが見ている視線で、自分自身も自分を切り刻んでしまう。そういったことが、自分の生き方の中で問題性があった、ということをその学校で非常に指摘されたんですね。親鸞聖人、あるいは阿弥陀様のお気持ちというのは、端的に言って、こういうことだ、というふうに、その院長先生はおっしゃられました。それは「選ばず 嫌わず 見捨てず≠ニいう精神が、この御浄土の精神なんだよ」とおっしゃってくださったんですね。自分がやはり自分自身を、あるいは自分の父親のことを、あるいは自分の父親が暮らしている釜ヶ崎の街を、自分が見捨て、嫌い、選んでいた。そういうことを気付かされて、ほんとに大事なことを学んだ。でもその学校は、「これから君が勉強する気があるんだったら、お坊さんになってきなさい」ということで、瀬戸内海の島のお寺を紹介してくださったんですけどね。

 
ナレーター:  川浪さんは、二十八歳で僧籍を取ります。そして瀬戸内海の島にある寺へ赴いて二年半、僧侶として暮らすことになります。
 

 
住田:  瀬戸内海のその島のお寺、勿論それまで縁のない場所だったんですね。
 
川浪:  そうです。
 
住田:  そこでどういうお仕事、どういった出会いがあったんですか。
 
川浪:  住職さんのお葬式や法事のお手伝いをさせて頂くということで、その島で法務についておりました。私は、僧侶の養成学校を卒業して、ほんとに有り難い教えに触れたので、それをどうしても伝えなければいけない、伝えなければいけない、というふうな意識が強かったんですね。それでずっとずっと『歎異抄』の本を一軒一軒に配って、「これを一緒に読みましょう」ということで、読みながら、一章一章解説をしていたんですけれども、そうした時に、あるご門徒の方が、「どうしてそんなに熱心に教えを説いているんですか?」と聞かれたんですね。そうしたら、「私は生まれてきて、今まで三十年若生きてきましたけれども、このまま生きていたとして、後五十年ぐらいなんですと。そういう短い間にほんとに自分がこれを生きたんだ、という証のようなものが欲しかったんです。そういうものを探していたから、この仏教の中で見つけてきたんですけれども、その長い長い仏教の歴史、あるいは浄土真宗の歴史の中に、ほんとにこう参加していきたかったんです」ということをお話して、自分が何故お坊さんになったか、ということを答えたつもりだったんですが、そのご門徒さんは、「何だ、それだったら、うちはもう四人の子どもと八人の孫に恵まれて、自分の血がそこに受け継がれているというふうに考えたら、そんな悩みは一つのないわ」と言われたんですね。それで僕は、ちょっと肩すかしを食らわされたというか、あれだけ自分がこう悩みに悩んで、浄土真宗の道に漸く辿り着くことができたんですけれども、そこのご門徒のおばあちゃんたちは、「自分が子どもを生み、孫の顔を見るということで、その中に自分の分身が宿っている。そういうことで、永遠に私は生き続けるんだ」というふうに言われた時に、もう自分はどうしていいかわからなくなってしまったんですね。
 
住田:  深かったですね、その言葉はね。
 
川浪:  そうですね。そこのご門徒の方々は、やはり「足が痛い、腰が痛い」というようなことをおっしゃっていたりですね、「こうやって年金生活をしているけれども、年金がこれから目減りしたりすると、自分がこれから生きていく先に、ほんとに生活やって行けるだろうか」というような悩みを抱えておられて、実に私というのは、その時までそういう頭でっかちな生き方をしていたものですから、いつかそういう介護とか、福祉とか、医療とか、そういった問題をいつか勉強しなければいけないかな、というふうに思っていたんですね。暫くして大阪へ戻りました。そこで自分が、介護や医療や福祉をどうやったら学べるだろうか。そのためにはやはり貯金も必要だし、いろんなことをずっと調べていたんですね。その矢先に、自分の出身校の卒業生たちが、大阪の盛り場―南の千日前というところなんですが、「VOWS BAR(坊主バー)」というものを開いたんですね。噂は聞いていたんですけど、一体誰がマスターをやって、店を盛り立てているんだろうと思って、一つ覗いてみよう。あるいは道場破りというんですか、少しからかってみようかなというようなこともありまして、「どういうつもりにやっているの、こんな店?」みたいなところで見に行ったら、「ああ、川浪さんですか。久しぶりですね」と言われて、その時に初代マスターから、「少しお酒が過ぎて肝臓が痛くなってきたんで、二代目は川浪さんに譲るわ」とこう言われたんですね。私は、それまではお酒というのはほとんど飲めなかったんですけれども、僧侶の養成学校で教えられたことは、「出会い」という言葉だったんですね。「出会いこそが人生だ」とこうおっしゃられたんで、ここは引くわけにはいかないな。頼まれたらその言葉には応えていこうと思って、二代目マスターになったわけです。
 
 
ナレーター:  川浪さんは、一旦僧侶を辞め、「VOWS BAR(坊主バー)」のマスターとして働くことにしました。
 

 
住田:  「VOWS BAR(坊主バー)」と言っても、単にお酒を飲むだけではない場だったんですね、そこは。
 
川浪:  そうですね。ほんとにお坊さんに接することがない、お寺の檀家さんという人たちも、おばあちゃん、おじいちゃんならば、お寺に足を運んで住職さんの説教も聴き、悩みも聞いて貰うことができますけれども、若い人たちにはその接点がなかったから、その初代マスターの時代は、「寺を捨てて街へ出よう」というようなスローガンで「VOWS BAR」を作ったんですね。そして「若い人たち―仏教にご縁がない人たちに出会いの場を作ろう」と言って、特別何かほんとに坊主のホスト、スタッフとお話をしたい方は、二階に上がって悩みを聞いて貰う、というような時間も取っていたんですね。
 

 
ナレーター:  この「VOWS BAR」で、川浪さんは一人の女性と出会います。
 

 
川浪:  それは初代マスターの知り合い―友だちだったわけなんですけれども、その女性は非常にアルコール依存とか、今では耳慣れた言葉なんですけれども、「摂食(せっしょく)障害」を持っていた女性なんです。「親と上手くいかなくて、精神科の病院に、クリニックに通院しているから、そのもやもやした状況を打開するために、私はもうどこか別のところに引っ越したい。でも一人で暮らすには、私は何も収入がないから」という話をしていて、「だったら、うちの家に来ますか」ということなんですね。初代マスターから店を譲って貰って、いろんな男性の悩み、女性の悩みをたくさん聞いてきたんですけれども、やっぱり顔の見える関係というのか、やはり一人の人と真剣に向き合っていくということが、そのバーの中で自分がやらなければいけないことじゃないかな、というふうに思ってですね、いろんな人たちの悩みを聞いているけれども、ほんとにそれは解決することがないと。そうしたら一人の人と向き合って生きていく。そういうことが大切なんじゃないかな、というふうに思いまして、彼女と結婚するということになったんです。
 
住田:  その後さまざまな波乱があったんですね。
 
川浪:  そうですね。彼女のご親族やご両親の手前も悪いということで、バーのマスターからまた再び僧侶―役僧(やくそう)に戻ったり、あるいは私の僧侶の仕事というのは、関西では逮夜(たいや)参り(逮夜は命日の前日、関西の浄土真宗信者は毎月この日に僧侶を読経に招く)ということで、檀家さんのもとを毎日毎日お詣りに行くということで、時間が少なくなって、彼女が、「その間寂しいから犬を飼って」ということで、犬も飼いました。そしてやがて東京に行くということが持ち上がりました。彼女が行っていた精神科のクリニックが神戸にあったんですけれども、大本の治療法を確立したのは、東京の先生なので、そのほんまの先生の元で診て貰いたい。そして私の願いの中にも僧侶から医療や福祉の勉強をしたいということも、もともとあったものですから、それが一致したということで、東京に上京するということに踏み切ったわけです。
 
住田:  ずっと彼女に寄り添われて、そして彼女から切り出されたことは?
 
川浪:  東京で犬が飼える家に住むということで、東京でも練馬区というかなり埼玉県に近い、そういった都心部から離れたところで一軒家を借りたんですけれども、彼女の願いは、「都心部にあったそのクリニックに毎日通いたいし、その病院の側にいたいんだ」とこう言われて、「それはもうできないと。東京に来たものの、自分のアルバイトだけではなかなか食べていけないということで、その話はもう勘弁してくれ」というふうに言っていたんですが、ある日彼女の方から、こういうふうに切り出されたんですね。「離婚届に判をついて欲しい」と。それはどういうことかというと、「今の状況であったならば、私は医療費も無料だし、私は毎日その病院に行くことができる。だからここで離婚しましよう」と、そういうふうに言われたんですね。でも私が、初めに彼女に会った時に感じたのは、そういう摂食障害、アルコール依存の問題を抱え、悩みを抱えた人たちのために、自分はそういうケースワーカー、ソーシャルワーカーになりたいと言っていたんだから、この東京で自分の信頼する先生についてその道を歩んでいけば、その彼女の願いは叶うかも知れないと。ここで私と一緒に暮らして悶々と週に一回や二回クリニックに通院するということで、なかなかその道が開けてこないというんであったならば、彼女の言っているように、届けに判をついて、そして彼女が思うような道を進んで貰うならば、それで私の役目も終わったのかなというふうに思いました。
 
住田:  それぞれの生活がまた始まった。そこである知らせが届くんですね。
 
川浪:  そうですね。それはもう彼女が、うちの家から出て行ってから、もう一年経ったんですが、その時に大阪の自分の友だちから手紙が届いたんです。そこには、「あなたの奥さんが実家に帰って、どうやら亡くなったらしい」ということだったんです。その亡くなったというその死因が、自ら命を絶ったんではないか、というふうに噂になっている、というふうに聞いたんですね。それで慌てて、私も大阪の彼女の実家に戻ってみたら、精神科から処方されたお薬を沢山飲んで、救急車で運ばれた、ということでした。
 
住田:  お辛かったですね。
 
川浪:  そうですね。自分は親鸞聖人の教えを受けて、自分自身が生きていく道が開かれて、その喜びの中で、ある一人の人をこう自分も支えていきたいというふうに願ったわけなんですけれども、その結果がこういうことになってしまって、非常にもう情けなく、彼女には申し訳なく思いました。それでほんとに彼女と暮らした時間というのは、実はたったの二年だったんですね。ところがまあよくよく考えてみると、あれだけ選び嫌いにしていた父というものは、決して私たち子どもを見捨てることなく、七十過ぎてまでも仕事をしておりましたから、ほんとに自分の父親というのは、ほんとに私なんかよりもずっとずっと父親の役割を果たした素晴らしい父だったんじゃないかな、というふうに思い返したんですね。
 

ナレーター:  川浪さんは、大阪に帰り、父親が毎日通い続けた街、釜ヶ崎に住む決心をします。
 

 
住田:  どうして釜ヶ崎に住もうということになったんですか。
 
川浪:  そうですね。父が我々家族を捨てなくて、ほんとに祖母や母からいろんなことを言われ続けても、我々を、子どもたちを捨てなかった。そういうことがあって、自分の忌み嫌っていた釜ヶ崎であるとか、父親の励んでいた場所というのは一体ほんとにどういうところなのか。またもう一度大阪に戻って、釜ヶ崎というところで、自分を見つめ直してみよう、というふうに考えて、大阪に戻って来ました。
 
住田:  で、実際にホームレスになられた。
 
川浪:  そうですね。何度も何度も妻と引っ越しをしていたり、東京へ行って、学校に行ったりして、かなり貯金も使い果たして大阪へ帰ったものですから、お金が実際のところあまりなかったんですね。その中でホームレス支援の仕事を通じて知り合った一人の人―その方は詩人としての名前ですけれども、橘(たちばな)(安純(やすずみ))さんという方がいらっしゃるんですけれども、大阪の有名な動物園の上に橋がありまして、そこに自分の小屋を建てて、自分の書いた詩や俳句を表に段ボールで貼り付けていて、ホームレス詩人として、ある人たちからは有名な人だったんですけれども、私はそこにホームレスの支援員としてよくお話を伺いに行って、すっかり意気投合してしまったんですね。自分の生きていく支えのようなものを少し失ってしまったこともあって、もう一度何もかも捨てた人たちの中へ入って一緒に生活をしてみたい、というふうに思ったわけです。橘さんは、いろいろ詩も書いているし、自由律の俳句を作っておられたりもするんですけれども、また散文もいろんなものを書かれていて、その中に自分がホームレスであるけれども、まだお仕事もされていましたので、自分は銭湯にも入れるわけなんですね。ホームレスの方というとお風呂に入っていないように思われるんですが、アルミ缶を集めたお金とかで銭湯にも入っておられる。ところが橘さんは、そうやってお風呂にも入っていないようなホームレスの人を、自分はかえって今差別の目というか、自分と状態は違うんだ、というような、そういった目で見ている。
 
住田:  ホームレスの間でも違って見ていると。
 
川浪:  見ている。そういうことを自分で書いておられるんですね。これは「自分が迷いの中にいる」という。「差別の心の中にいる」ということを非常に自覚されていたんだ、と思うんですけれども、そういうことを書かれていて、非常にビックリしました。
 
住田:  ホームレスのみなさんと共に暮らす中で、接し方としては、それまでと違った接し方ということも見えてきましたか。
 
川浪:  『歎異抄』の中にあるんですけれども、一般の我々がもっている慈悲というものは、 
 
聖道(しょうどう)の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
 
こういうふうに言われているんですね。私たちの慈悲というものが、ほんとにその人を最後まで助け遂げる。助けるということが勿論できない、というふうに言われているんですね。ですから今までは自分が支援者の立場ということで、何かをしてあげなければいけないというような気持が強かったんですが、かえって自分がホームレス生活をする中で、一緒になって生きていくというんですかね、こう一緒に何か笑ったり、お酒を飲んだり、あるいは一緒に悲しんだりする普通のあり方でいいんじゃないかな、というふうには思いました。
 
住田:  まあホームレスの暮らしから、今度は釜ヶ崎の支援活動に移られますね。これはどういうきっかけがあったんですか。
 
川浪:  そうですね。三ヶ月ほど橘さんの小屋の横で野宿をしていたんですけれども、私を知っている人が、私を発見したというか、私を見つけて、「一体あなたは何をやっているんだ」ということで、「今度新しいNPOを作るからそこで働いてくれ」というふうに声を掛けられたわけなんですね。元の知り合いが、「ホームレスの人たちに自立支援住宅という、ホームレスの人たちが仕事について、それを一年間見守っていく、支えていくという、そういう仕事をしてくれないか」ということで、再びまた支援の仕事を始めるということだったんです。
 
住田:  何か人から声を掛けられる。そして次のステップを踏むということは、川浪さんの人生に要所要所ありますね。
 
川浪:  そうですね。ですからほんとに人生は出会いであるのかな、というふうに思ったりもします。
 

 
ナレーター:  釜ヶ崎、そして被災地での活動。川浪さんは、人と人とが心を通わせる縁の大切さに目覚めた、と言います。
 

 
川浪:  今回はほんとに東日本が被災に遭ったんですけれども、いつ何時我々関西に住んでいる者も、地震と津波に遭うかもわかりません。勿論阪神淡路大震災というものがあったわけなんですけれども、そしてホームレスの方々も阪神淡路大震災をきっかけに、どんどん家族の中に亀裂が走って、そこでホームレスになった方たちというのも多く見かけられたんですね。ですから私たちとホームレスの人たち、私たちと被災された人たちの間に一線壁を作ったり、線を引いてしまうということは、あまり意味がないのではないか。そして私たち野宿をしていない者、被災を受けていない者が、被災された方たちに、「お気の毒に、可哀想に」、ホームレスの方たちに、「お気の毒に、可哀想に」と言って支援をする立場ではなくて、ほんとに繋がりの中で一緒に生きていく。私の僧侶の名前なんですが―法名(ほうみょう)いいますけれども―「釋(しゃく)共生(ぐしょう)」というんですね。共生(きょうせい)―共に生きようということで。これは僧侶の学校で習った言葉なんですけれども、「一緒に生きていこう。共に生きていこう」ということで、その学校では呼び掛けられたんですけれども、今ホームレス支援や東日本大震災の支援を通じて、「共に生きていこう、一緒に生きていこう」と。「繋がりの中で、生きていこうということが、ほんとに大切なんだ」ということを、私は実感しております。現在は「無縁社会」ということで、少子高齢化が進んで、非婚や晩婚という形で結婚されない方たちもどんどん多くなっていって、いわゆる孤独死という問題が言われてきたわけなんですけれども、そういった形で私たちが、人と人との繋がり―縁というものを失ってきたということで、これはまさにどなたも他人事ではない状況にだんだんなってきている、ということなんですね。今までほんとに地縁や血縁というものが人の生き方を縛るようなものとして意識されて、私たちの社会というものは、そういうものをできるだけなくそう、なくそう、としてきたわけなんですけれども、結局はやはり人は一人では生きられないという、そういった単純なことが改めて問題として浮かび上がってきたのかなと思っております。ですから従来の同じ街に住みという地縁であるとか、あるいは血が繋がっているという結縁関係を大切にしていくということも、勿論ないんですけれども、またそういったことだけではなくて、新しい人と人ととの繋がり、このご縁ですよね、そういう縁をお互いに支え合おう、そういうことがまた必要になってくる。これは私たちも「支援」という形で、助けて支えるということよりも、「支縁」―縁をお互いに支え合うということが大事になってくるんではないか、と、私は思っております。
 
     これは、平成二十四年六月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである