日常の中の仏教
 
                    仏教思想家 ひろさちや
ひろさちや:  そうですね。さまざまな言葉がありまして、たとえば「一蓮托生(いちれんたくしょう)」なんていうようなこと。悪いことをした連中がよく使う言葉、あれも仏教の言葉なんですよね。それからまた「億劫(おっくう)がらずに」とかと言いますですね。あの「億劫」という言葉もやっぱり仏教の言葉です。それからまたお寿司屋さんなんかに行きますと、ご飯のことですね、あれを「舎利(しゃり)」と言いますですね。あの「舎利」という言葉も仏教の言葉なんですね。さまざまな言葉がありますですね。
 
井筒屋:  そうした言葉も、意味が正しく伝わっていればいいんでしょうけれども、中には仏教の大事な言葉であるにも拘わらず、意味が違って取られていることもありますよね。
 
ひろさちや:  もう誤解だらけと言ってもいいんじゃないかなという面がありますね。
 
井筒屋:  そうした言葉を一つひとつ考えていきたいと思うんですが、まず「他力本願(たりきほんがん)」。これもどちらかと言いますと、自分で努力せずに人任せにするという、悪い意味で使われるような気がしますが。
 
ひろさちや:  これは実は「他力本願」という形でいうよりも、本当はひっくり返して、「本願他力」と言った方がいいかもしれないんですが、「本願」というのは、阿弥陀仏という仏様の一切衆生を救いたいという願いの力なんですね。その願いの力にお任せして私たちの日常生活、そしてまた死んだ後の面倒までみて頂こうというのが、これが「本願他力」。一般には「他力本願」として、そして人任せみたいに誤解されている言葉なんですがね。
 
井筒屋:  阿弥陀様の本願によって娯楽浄土へという、こういう信仰ですね。
 
ひろさちや:  「極楽浄土」と言いますと、実は「極楽」というのは固有名詞なんです。「極楽世界」と言って。「浄土」というのは、清らかな土地で、私たちのこの娑婆世界と違った素晴らしい仏様の国。だから「仏国土(ぶっこくど)」と考えて頂ければいいんですが、そういう「仏国土」。しかしその仏国土は、さまざまな仏国土があるわけですね。仏様の国があるわけで、この浄土宗あるいは浄土真宗では「極楽浄土」という、そういう仏国土に死んだ後、逝くんだと考えております。しかしその他の宗派ですと、例えば真言宗ですと、「密言浄土」という、そういう浄土を考えておりますし、また薬師仏のお浄土は「東方浄瑠璃世界」と。「浄瑠璃世界」というお浄土があるわけですね。あるいは日蓮宗の方ですと、お釈迦様のお浄土として「霊山(りょうぜん)浄土」という、そういう浄土を信じているわけです。だから「浄土」は一般名詞なんですね。仏様の国、その中の固有名詞と「阿弥陀仏」という仏様がお出でになる。この阿弥陀仏のお出でになる世界が「極楽世界」。きわめて楽しみの大きい世界だとされているわけですね。そして浄土宗の人、あるいは浄土真宗の人々は、自分が死んだ後は、この阿弥陀仏の極楽浄土に迎えとって頂くんだと、そういう信仰をもっております。この「極楽」という世界がどういう世界なのか。これはまあ理想郷と考えて頂けばいいんですが、お経の中に『阿弥陀経』というお経があるわけなんですが、『阿弥陀経』というお経の中に出てくる―これは私の非常に好きな言葉なんですが、
 
青色青光(しょうしきしょうこう)
黄色黄光(おうしきおうこう)
赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)
白色白光(びゃくしきびゃっこう)
 
という言葉があるわけですね。これは「青色(あおいろ)青光(あおひかり)」と読んでもいいんですが、仏教読みでは、「青色青光(しょうしきしょうこう) 黄色黄光(おうしきおうこう) 赤色赤光(しゃくしきしゃっこう) 白色白光(びゃくしきびゃっこう)」と読むことになっている。これ交通信号の順番ですよね、「青、黄、赤」という。そして「白」という、こういう順番に並んでいるんですが、これは一体何を言っているのか、と言いますと、極楽浄土には大きな蓮の花が咲いている池があるわけですね。そして蓮の花がさまざまに咲き乱れている。その中に青い蓮もあれば、黄色い蓮もあるし、赤い蓮もある。それから白い蓮もあるんだと。そしてその青い蓮も青く光っていて、黄色の蓮は黄色く光っている。赤い蓮は赤く光っていて、白い蓮は白く光っている。これが極楽世界なんですね。何だ、当たり前だ、と思うわけなんですが、実はこの当たり前がいいんだ、と思うんです。私たちのこの人間世界と言いますか、仏教では、「娑婆(しゃば)世界」と呼ぶんですが、この「娑婆世界」はほんとに「青色青光黄色黄光赤色赤光」になっているかというと、私はどうも疑問だと思うんですね。例えば、美人の方は美人で、そのまま光り輝いているんだと。それはおわかり頂ける。しかしあまり美人でない人―不美人というんですかね、そういう方もそのまま光り輝いているんだという。それがその「青色青光黄色黄光赤色赤光」だと思うんですね。ところが不美人な方が整形手術をしましょう。美人にならないとよくない、というのは、それは「青色青光黄色黄光赤色赤光」になっていないんじゃないかと思うんですね。あるいは金持ちは金持ちで光り輝いている。しかし貧しい人も貧しいまま光り輝いているんだ、というのが、「青色青光黄色黄光赤色赤光」の意味だと思うわけなんですがね。だから金持ちが金持ちのまま光り輝いているというのは、つまり金持ちの方でも―後で触れます「布施」の心をもって―施しの心をもって人様のために何かさして頂く。そういう金持ちの心が大事なんじゃないか。それが光り輝きですよね。そして貧しい人でも、自分の貧しさを苦にせずに満ち足りた心で生きていけば、それが光り輝きだと思うわけなんですが。だから「極楽浄土」というのも、ある意味でそんなに非現実的な世界ではない。私たちのこの世界をむしろ極楽浄土に近づけていかないといけないんじゃないかと思うわけですがね。
 
井筒屋:  どうしても、私たちの社会ですと、例えば学力のあるなし、お金のあるなし、そういう物差しで人を計ってしまえがちですけれども、そういう世界ではないと。
 
ひろさちや:  そうですね。だから成績のいい子、成績の悪い子がいるわけですよね。どうも日本人は、成績の悪い子を成績よくすることが教育だと思っておられる方が多い。しかし今の学校では、やっぱり相対的な問題ですから、成績のいい子、悪い子と分けてしまうわけでしょう。大学の入学試験でもそうですよね。成績のいい者を採って、悪い者を落とすわけでありますから、そうすると必ず成績の悪い子は出てくるわけなんですよね。その成績の悪い子、それじゃお前は落ちこぼれだ、としてしまうのは、私は気の毒だと思う。そんなことは教育じゃないと思うんですね。だから成績の悪い子も、そのまま光り輝けるようにしてあげることが本当の教育だ、と思うわけです。
 
井筒屋:  今までお伺いしてきましたけども、「他力本願」というのは、普通人任せにというふうに考えがちですが、そうではない。仏様にお任せすることだ。仏様にお任せするということは、こういう世界のように、人それぞれをそのままの状態で輝かす。そういう世界の価値観を選び取ることだ。そんなことになるんでしょうかね。
 
ひろさちや:  そうですね。だから「あなた任せ」と、よく「仏様にお任せする」と言いますと、もう自分は何にもしないでいいんだ、と思う人が多いんですが、その点ではイスラム教徒に、面白い言葉があるんですね。「イン・シャー・アッラー」こういう言葉があります。「イン・シャー・アッラー」なんですが、彼らが発音しますと、「インシャラー」と発音してしまうんです。意味はですね、「もし神が望まれるならば」という意味なんですね。これは『コーラン』の十八章の二十三節と二十四節にこう書いてあるんです。
 
「なにごとにも、『私は明日それをする』などと言ってはならない。
ただし、『神のみ旨ならば』と言い足せばよい」
 
とあるわけですね。イスラム教では、あなたがたは、わたしは明日これこれのことをすると言ってはならない。明日のことを言えないんですね。ただし、「インシャラー(イン・シャー・アッラー:もし神が望まれるならば)」と言い足せばよろしい、とあるわけですね。だから明日のことをする時に、必ず「インシャラー」、つまり「神が望んでおられるならば、私はこれこれのことをします」と言わなければならない。これがイスラム教徒の掟なんですね。日本人は、これでイスラム教徒に煮え湯を飲まされると言いますかね、私の場合も、例えばあるイスラム教徒と約束して、「明日八時に会おう」と約束したんですが、彼の方は十時頃になってのこのこやって来る。私は、「けしからんじゃないか」と言って怒りますと、彼は、「いや、私は、昨日ちゃんとインシャラー≠ニ言ってあるんだ。神が望んでおられたら来ると言ったんで、今日は神が望んでおられなかったから遅刻したんだ。お前、あきらめろ」というわけですね。「それじゃ、お前、どうしてあなたに神が望んでおられない、ということがわかったのか」と聞きますと、「私は目覚ましを掛けて寝たんだけど、目覚ましが聞こえなかった。だから神が望んでおられないんだ」と言われた時、開いた口が塞がらなかったんです。しかし私たち日本人は、そういう時に凄く腹を立てますが、しかし砂漠の生活をしておりますと、目と鼻の距離であっても、例えば砂嵐が吹くと行けないわけですよね。だからやっぱり人間がどんなに努力しても、やれないことがあるじゃないか。それをやっぱり相手に対して大らかに赦す気持ちですね。だから努力しないわけじゃない。努力はするんだけれども、どうしてもできないこともある。その時はやっぱり神様が望んでおられないからだと、そういうふうに考えるべきじゃないかと。それが「インシャラー」の言葉の意味だと思うんです。従って私はこのインシャラーという言葉を実は「神下駄(かみげた)主義」と訳しているんですね。
井筒屋:  面白い言葉ですね。
 
ひろさちや:  私の造語なんですが、神様に下駄を預けて生きていこう、ということですね。だから私の場合ですと、仏教徒ですから「仏下駄(ぶつげた)主義」と呼ぶべきなんでしょうか。つまり神様に下駄を預けて生きていこうじゃないか。それが私は、インシャラーの精神である。そしてまたある意味で、仏教の精神であるし、そして宗教の精神だと思うんですね。
 
井筒屋:  それは先ほどのお話にもありましたけれども、人間が自分の努力を放棄してしまうということではなくて、ということですね。
 
ひろさちや:  努力しないわけじゃないんですね。だから「神下駄主義」とまったく反対なる日本人に多い「人間努力主義」だと思うんですね。日本人は割合に人間努力主義の考え方をしておりますから。
 
井筒屋:  努力がすべてだ、と。
 
ひろさちや:  そうなんです。努力が一切なんですね。私は、努力主義というのは嫌いなんですが、何で悪いかと言いますと、実は努力して成功した人は―全部が全部ではありませんが、よく出てくるのは、「俺は努力したから成功したんだ」と言って、天狗になる人がいるわけですね。慢心をもってしまう。しかしそうじゃないでしょう。世の中でいくら人間が努力したって上手くいかないこともあるんだ。そしてまたその人が努力しただけではないんだ。周りの人がいろいろして助けてくれたからなんだ。例えば遅刻しないで行けるというのも、JRがちゃんと動いているお陰なんだ。電車が動いているお陰なんですよね。そういう周りに対する感謝の気持ちを失ってしまうのが、努力主義の欠点ですよね。それからもう一つは、努力したら浮かばれる。努力したら成功するんだ、という信念をもっておりますと、失敗した人に対してですね、「あいつは努力しなかったから失敗したんだ」と見てしまうんですね。いくら努力しても浮かばれない人がいるわけですね、世の中で。一生懸命やっておられても、どうしても下積みになってしまう人がいる。上手くいかなかったケースもあるのに、そういう人々に対して、「彼奴は努力が足らんからだ」と見てしまう。私は、その努力主義が良くないんじゃないか。それよりは、イスラム教徒のようにお任せするという、そういう気持ちが大事なんだろうと思うんですね。
 
井筒屋:  仏教本来の意義とか考え方としては、こちらの方に近い、下駄主義の方に近いということですね。
 
ひろさちや:  はい。ですから人間努力主義が無宗教の世界ですね。それに対して宗教の世界がこの神下駄主義、仏下駄主義の世界だと思うわけです。例えばこれは聖書の言葉で有名なんですが、イエス・キリストの言葉として、
 
明日のことを思い患うな
 
という言葉がありますですね。これもやはり「明日のことは神様にお任せして生きていけばいい」という、そういう言葉だと思うんですね。同じことをお釈迦様も言っておられる。お釈迦様も、
 
過去を求めるな。未来を逐うな
 
過去は過ぎ去ったものなんだ。未来はまだ来ていないんだと。だから過去を追い求めるな。未来を逐うな、と。あなた方は今現在なすべきことをしっかりすればいいんだ、というふうに教えておられるんですね。ですから私たちが、明日のことをあれこれ、とやかく心配する。その部分は宗教としてはちょっとおかしいじゃないかと思うんですね。勿論心配をして、努力をして上手くいくものは、努力すればいいんです。例えば病気になりますですね。そうすると、私たち病気じゃいけないんだ。病気は不幸だから早く健康になりたいと思うわけですね。そうすると、ますます焦りが生じるんじゃないか。だから病気になれば、明日のことはもう仏様にお任せして、「あ、病気にして頂けたんだ」と。きっと仏様も、「お前、疲れているから、ここでちょっと休みなさい」と、そういう意味で病気にして頂いたんだと思って、幸せな病人になればいいんじゃないかなと思うんです。それが先ほどの「青色青光黄色黄光赤色赤光」にも通ずるんですね。健康な人は健康なまま光り輝いていくと。病気の人は病気のまま光り輝いているんだと。だから病気になれば、あんまり明日のことを心配せずに、しっかり幸福な病人になるように努力すればいいんじゃないか。同じ努力でも、健康になろうという努力じゃなしにですね。勿論それはそのそういう努力も含まれますが、健康にならなければ幸せになれないという、そういう思いこみでの努力じゃなしに、この病気のままでも幸せになれるんだからね、と言ってゆったりした気持ちを持つ。そうすると、お医者さんの言いつけもよく聞き、お坊さんの言い付けもよく聞いてですね、ゆったりとした気持ちでもって、そして毎日毎日を幸せに生きると、きっと病気の治りも早いんじゃないかと思うんですね。焦れば焦ってですね、「病気を治さなければならない、治さなければならない」と言って、あまり努力努力とやりすぎると、かえって病気の治りが遅いんじゃないかと思います。あるいは落第した時もそうなんですね。浪人しますですね。大学受験で落ちて落第した時、その時に後悔しても仕方がない。それをお釈迦様が、過去を逐うな、という意味だと思うんですね。もう過ぎ去ったんだから、だから今浪人なんだと。そうすると、今度は来年受かるだろう、受かるだろう、とそんなことばっかり心配して、受かるために、どうしなければならないというんですか。そうじゃないよ。浪人生活を送れる。一年、普通であればもう大学に入って勉強しないといけないところ、もう一年ゆったりと勉強させて貰って、もう一年余分にやらせて頂けるんだと考えて、もうそうなった以上はゆったり勉強していく。そして来年入れるか、入れないか、そんなことばっかり考えて勉強しているよりも、来年のことは仏様にお任せして、きっとよくしてくださる、と信じて真面目に努力していく。それが大事なことだと思うんですがね。
 
井筒屋:  「他力本願」という言葉から出発してお伺いしてまいりましたが、さて、その中で、お金持ちの義務のような話がでましたけれども、次に考えたのが、「布施」という言葉ですね。これは日常の会話の中では、お坊さんがお経をあげてくれた。それに対する御礼の金銭ですとか、そういった意味合いが今強いような気がするんですが。
 
ひろさちや:  そうですね。国語辞典を引いて見ましても、「信者が僧侶に差し上げる金銭、財物のこと」と書いてありますね。これは、でも後からできた意味なんですね。本来の意味は、「布施」というのは、インドのお経の言葉であるサンスクリット語で、「ダーナ」という言葉なんですね。その「ダーナ」という言葉が、日本語になって、よく知られているのは「旦那」という言葉ですね。先ほどお寿司屋さんのお話をしましたが、ご飯のことを「舎利」と言うんですが、「旦那、どうですか」と、板前さんが言ってくださる。あれが旦那。これは「布施をする人」という意味ですね。自分が布施をさせて頂くお寺が「旦那寺」であったり、そしてその「旦那寺」の信徒が、「檀家」―「だんけ、だんか」と言いますですね。それから「檀徒(だんと)」ですね―「檀信徒(だんしんと)」のことをいうわけであります。これは「ダーナ」という言葉を訳した。それじゃなんで「布施」という訳語が出てくるかといいますと、実はお坊さんが―お釈迦様時代のお坊さんなんですが―物を持ってはいけない、と言われていたわけですね。持ち物を制限されていた。そしてお釈迦様時代のお坊さん(僧侶)が持てるものは、「三衣一鉢(さんねいっぱつ)」三つの衣と一つの鉢に限られていたわけです。「三衣(さんね)」というのは、大衣、中衣、小衣とあるわけですが、これは托鉢に歩く時に、大きな外套だと思えばいいわけですね。それから上着で、下着ですね。この三つの衣を持つことを許されている。それ以外の物を持ってはいけないとされていたんですね。そして托鉢に使う鉢ですね。お坊さんが托鉢に行かれて、毎日信者から受けられる。それは「布施」と言ってもいいんですが、そちらの方はむしろ「供養」と呼ぶことが多いんですね。お供えする。ですから毎日のお食事の方は供養さして頂くんだ。そうするとお坊さんに差し上げるものは、食事以外に何があるかというと、この三衣に相当するものですね。要するに三衣を作る布を施す。それだけがお坊さんに信者ができる布施だったもので、そこから「布施」という―布を施す、という言葉ができたわけです。しかしこれはお坊さんに布施をさして頂くわけですが、誰が誰にあげても布施になるわけなんです。別にお坊さんでなくてもかまわない。どなたに差し上げても布施になります。しかし無条件に布施になるかと言ったら、そうじゃないんですね。これはまず差し上げる人の、布施をする人の心が清らかでないといけないんですね。心が、「俺がお前に恵んでやっているんだぞ。お前は俺に感謝しろ」と、そんな気持ちであげたんじゃ、これは布施にならないわけであります。それからまた貰う人の心も、なんか貰って卑屈になる。貰ったんだからこれすぐにお返しせんといかんと。私たち日本人は、お中元やお歳暮を貰って、すぐお返しを考えないといけないんで、なかなかしんどいものなんですが、あれは本当の布施じゃないんですね。貰った人も、拘りなく頂ける。そしてあげる人も拘りなくあげる。それから物もやっぱり清らかでないといけない。三つの条件が調わないと布施にならない、と言われています。とりわけ大事なことは、あげる人の心が大事なんですね。「俺が恵んでやっているんだ。お前が俺に感謝しろ」という、そういう気持ちで施したんじゃ、布施にならない。だから私は、「布施」と「お恵み」は違うんだ、と言っているんですね。「お恵み」の場合は、貰った人が感謝しないといけない。これがお恵みだと思います。それに対して、「布施」というのは、あげた人が感謝する。貰って頂いて有り難うございましたと、あげた方が感謝する。それが布施だと思います。私は、子供が―男の子と女の子といるんですが、子供たちが小さい時に教えたんですね。お姉ちゃんが小さなケーキをお友だちの家から貰って来た。一つ貰って来たもので、弟が家にいたもので、「半分こして食べなさい」と言って、女房が半分こさして食べさした。その時に私は、二人に食べ終わった後、聞いたんですが、「何で一つのケーキを二人で分けて食べないといけないか?」と聞いた。そうしたらお姉ちゃんの方が、「弟が可哀相だから分けてあげるんでしょう」と言った。弟の方に、「お前は、お姉ちゃんと違う答えを考えてごらん」と言った。しばらく考えて、「あ、わかった。お父さん、今度僕が貰って来たらお姉ちゃんにお返しするからね。だから今お姉ちゃん、くれたんだよね」と言って答えたわけですが、私は、「二人とも答えは違っているんだ」と言ったんですね。なんか相手が可哀相だからあげる、というんだったら、相手が可哀相でない時、例えば兄弟喧嘩している時なんか、今日はあげたくないと思いますですよね。そういう心が出てきたんじゃ布施にならないので、だからいつでもあげられる子どもになってほしい。それからお返しをくれるから、と言うんであっては、これも布施にならないですね。あの人はお返しをくれそうもないから止めておこう、ということになりますですね。だから私は子どもたちに言ったのは、「お父さんやお母さんが、あなた方にお願いしておきたいのは、一つのケーキを二人で分けて食べて、その方が美味しいと思える子どもになってほしいんだ」と話して聞かせたんですね。一つのケーキを二人で分けて食べて、美味しいと思えるのが、布施の心だと思います。どうしたら美味しく思えるようになるかと言ったら、あげた方が、「あなたが貰って頂いてありがとうございました」と言って、そういうあげた方からいつも感謝していると。「あなたが一緒に食べて頂いたんで美味しくなりました。一緒に食べて頂いてありがとう。貰って頂いてありがとう」と、そういう気持ちであげているときっと美味しくなると思うんですね。私は、それが布施だ、と思っています。
 
井筒屋:  そういう気持ちを表す言葉が、今一つここにある「喜捨」なんですね。
 
ひろさちや:  この「喜捨(きしゃ)」なんですね。『大智度論(だいちどろん)』という仏教の論書があるわけですが、その中にこういう話が出てくるんですね。舎利弗というお坊さんが、大昔遙か前世で一つ仏教の修行をしていた。大乗仏教の修行者であったと。その時に布施という修行を一生懸命やっておられた。そこにバラモンがやって来て、「お前、布施しているそうだな。おれが頼めば何でもくれるか」と言ったんで、舎利弗は、「はい。私が持っているものでしたら何でも差し上げます」と言った。そうしたらそのバラモンが、「それじゃ、お前の目玉をくれ」と言うんですね。それで舎利弗はびっくりしまして、「えっ!この目玉は私の眼の中にあって、役に立つものではないですか。あなたにあげたって、あなたの役に立たないじゃないですか」とそう言った。そうしたら相手のバラモンは、「お前、布施するのにいちいちつべこべ文句言うのか」と言って、そこで舎利弗は気が付いて、「あ、しまった。そんなことを言っていたんじゃ布施にならないんだ」ということで、自分の眼をえぐり出して、そして相手に布施した。ところが相手のバラモンは受け取って、匂いを嗅いで、「なんだ。お前の目玉って臭いんだな。こんなものダメだ」と言って、ポンと地べたに投げつけて、足で踏んづけたというんですね。その時に、むらむらと怒りがこみ上げてきて、それでこんな大乗仏教は難しいと。だから小乗仏教に変わろうと思ったんだと。そういうふうに『大智度論』でいう―これは大乗仏教の立場から書かれた本なんですが、その中に書かれてあるんですね。大乗仏教というのは、「布施行」ということを強調しているんですが、「布施」というのは、そう簡単なものではないよ、ということを意味しているんですね。まず相手に役に立つか、立たないか、そんなことを判断しちゃいけないんだ。自分の持っているものを喜んで捨てさせて頂く。それが布施だと、そういうふうに思うべきなんですね。
 
井筒屋:  しかも自分にとっては大事な掛け替えのないものも喜んで捨てさせて頂く。
 
ひろさちや:  そうなんですよね。そして喜んで捨てさして頂いたものを相手が有り難く利用して頂く。あるいは今のバラモンのように、足で踏んづけようと、それは相手の問題だから、自分は絶対そんなことを考えてはいけない。自分ができることは喜んで捨てることだけであって、それさえできれば、それが布施なんだと教えているんですね。
 
井筒屋:  しかしそれは相当に厳しくて、私たちはなかなかやろうと思っても、そこまで気持ちが行きにくいんじゃないですか。
 
ひろさちや:  はい。ですから大事な物を捨てさして頂かないといけないという意味では、私たちの持っている全財産を捨てさして頂くのが布施なんですよね。これは「貧女(ひんにょ)の一灯(いっとう)」という、日本語では「貧者の一灯」と言われている言葉がありますが、お釈迦様の時代に、阿闍世王(あじゃせおう)という王様が、お釈迦様をご供養にご接待申し上げて、そしてお釈迦様が帰りに帰る道を一万の灯火―万灯でもって照らそうとされた。それを聞いたある物貰いで生きている老婆が―人様の喜捨によって生かされている老婆が、自分がその日稼いだお金でもって、「そうじゃ、私も油を買わしてください」と言ったと。油屋さんは、「お婆さん、あなたが一灯ぐらい献じたところで一つの灯火しか献じられない。そんなものやったって王様が万灯を献じられるんだから意味がないよ」と言ったけど、「いや、どうしても釈迦様のために、私はこのお金を投げ出して頂くんだ」と言って、そしてその油を持って一灯を献じたわけですね。その日は老婆は何も食べずに終わったわけです。空腹を我慢したと。翌日になりますと、王様の献じた万灯は全部消えていたけども、老婆の一灯だけは赤々と燃え続けていたと。「これが本当の布施だ」と、お釈迦様が言われたという話が残っているわけなんです。これは王様にとっては、万灯を寄進する。それは素晴らしいことかもしれないけど、決して悪いことではないんですが、でもそれは布施じゃない。何故なら自分の全財産を施して布施になるからですね。王様は余裕があるからまだ布施じゃない。でも老婆の一灯は、自分がその日空腹を我慢するという、そういう布施であるから本物の布施なんだ、と言っているわけですね。じゃ、私たち、布施できないじゃないかと思われますが、そうじゃないんですね。全財産を施すのが布施なんです。持っているお金全部布施さして頂く。喜んで捨てさして頂くのが本当の布施なんですが、「私はとてもできません。私のできるのは、たったこの一万円ぽっちです。十万円ぽっちなんです。どうももうしわけありません」と言ってしっかり反省しながら、お詫びの心をもって施さして頂けば、それも私は素晴らしい布施だと思うんですね。だから日常生活の中で、「俺は恵んでやっている。十万円もやっているんだぞ。お前、感謝しろ」と、そんな気持ちをもっていてはいけないと。「本当は私はあなたに全財産を差し上げないと布施にならないんです。それはできないもので勘弁してください。どうも申し訳ありません」と言ってお詫びの気持ちをもって施さして頂くと、私、素晴らしい布施じゃないかなと思うんです。だから例えば、満員電車の中で座席を譲るというのも布施なんだと思います。お年寄りや身体障害者の方に、「どうぞお座りください」と言って、自分の席を布施さして頂く。それは素晴らしい布施ですね。しかし、私、高校生などにお話さして頂くことがあるんです。若い人たちによく言うんですが、「あなた方、絶対に年寄りが可哀相だから座らしてやろうなんて、そんな気持ちで譲ってほしくないと。そんな気持ちで譲るんだったら、むしろ譲らない方がましだ、と、私は思うんだ」という話をさして頂くんですね。そうじゃない。「あなた方、疲れているかもしれないけども、でもお年寄りに座って頂いた方が嬉しいから座って頂くんだ。それが布施なんだと思ってほしい」と言っているわけです。だからお年寄りの方に御礼を言ってほしい、というんですがね。今の世の中で、「おばあちゃん座って頂きました。有り難うございます」なんてこれ(合掌)やるとちょっとおかしいじゃないかと思われそうなんで、私は心の中で御礼を言ってほしい」と言っているんですが、日本全体の中で、譲った方が座って頂いた人に、「有り難うございました」と言えるような社会になったらいいなと思うんですね。それがさっきの極楽浄土じゃないかなと思いますが。そして私は、「あなた方、立たなくたって布施はできる」と言っているんですね。その席を譲らない。自分で立たなくても布施はできるから、いつも布施をやってくれ」という話をしています。「立たないで布施ができる」というと、変な顔をされますが、今の中学生でも高校生でも、疲れている時もありますよね。クラブ活動等でくたくたになっている。だから座りたいもので、一駅始発駅まで戻って座ってきたような場合、目の前に立たれたお年寄りにとても布施できないと思います。でもその時でも布施できるんだと。じゃどうしたら布施になるかと言えば、私は、「目の前に立たれたお年寄りの方に、お詫びを言ってほしい」と言っているんですね、心の中で。「あばあちゃん、ごめんね。本当はおばあちゃんに座って頂きたいんだけども、今日は、私、くたくたなんです。だから私を座らしてくださいと。そうしてお詫びを申し上げてじっと座らして頂くと、それも素晴らしい布施なんだ」と話しております。そして「毎日でもやってもかまわない」というんですよ。そうですよね。毎日でも、「おばあちゃん、今日もごめんね。今日もごめんね」と。でもそれを言っていると、いつか条件が自分が元気がいい時、「どうぞ」と譲れるようになってくると思うんですね。だから毎日でもいいからやってほしいと、そう思っております。この点で道徳と宗教が違っている、ということを、なかなか日本人はわかっていないんじゃないかと思うんですね。私は道徳というのは結果主義だと思うんですね。
 
井筒屋:  席を譲るという結果がすべてだと。
 
ひろさちや:  心の中で、「年寄り、閑なんだろう。だからもっと空いている時間に乗ってくればいいじゃないか。何も俺の目の前に立つな。そんな座りたそうな格好するな。えっ!座れ」なんて、そんな気持ちで譲っても、心の中でそう思っていても、譲った子がいい子だと言われるのが道徳の考え方ですよね。しかし私は、宗教はそうじゃないんだと。宗教は心の中が大事なんだから、なんかお年寄りの方が譲らなくても、「ごめんね、おばあちゃん、ごめんね」と、その心をもっているその心が大事だ、と、仏教は教えているんだと思うんですね。
 
井筒屋:  「布施」という言葉を中心にお伺いをしてきましたが、さて最後に考えたいのが、「縁起(えんぎ)」という言葉なんですけれども、「縁起」という言葉は、「縁起がいい」とか、「縁起が悪い」とか、どちらかと言いますと、良いことが起きそうだ、悪いことが起きそうだ、そういう予兆の意味に使われることが多いんですが、本来の意味はそうではないということですね。
 
ひろさちや:  「縁起」という言葉ほど誤解されている言葉はないわけですよ。正しい仏教の言葉で言いますと、実は「因縁生起(いんねんしょうき)」と。「因」と「縁」から物事は生じ起こってくるんだという。その「因縁生起」の「縁」と「起」をとって「縁起」と呼んでいるわけなんですね。だから実は「因よりも縁の方が大事なんだよ」と言っているのが、その「縁起」の意味なんだと、そういうふうに理解して頂きたいんです。
 
井筒屋:  もう少し詳しくお伺いしますが、普通「因果」というものに目を奪われがちですよね。原因と結果と非常にわかりやすいものですが。
 
ひろさちや:  よく仏教は、「因果」の教えを説いていると言われるんですね。仏教は因果論を説いているんだ。因果の教えを説いているんだ、とよく言われます。それは説かないわけじゃない。当たり前なんですが、でも「因果の道理」ですね、原因があって結果が出てくるんだという、因果の教えは別に仏教でなくたって、哲学でも説いております。西洋哲学も、科学だって因果律の教えですよね。ですから仏教の教えというのは、因果ではない。むしろ「因」は、その因だけでもっては絶対結果が出てこないんだと。因が果を結ぶには、ここにあります「縁」というものが大事なんだ、というわけですね。因が果を結ぶには、縁が必要なんだと。それがだから「因縁」という言葉ですね。よく「因縁をつける」とか、「因縁がつけられた」と言うんですが、それは因と縁ですね。先ほどの「因縁生起」の因と縁。じゃ因と縁がどう違うかと言いますと、因というのは、私は、「直接原因」だと、そういうふうにパラフレーズ(paraphrase:注釈)しているんですがね。「因」というのは、「直接原因」。それに対して「縁」というのは、「間接条件」であると。因を支える間接的な条件である。わかりやすく言いますと、因の方は柿の種だと思って頂きたい。早く芽を出せ柿の種という。あの柿の種が因ですよね。じゃ、種があれば発芽するかという。発芽という果を結ぶか、と言ったら、決してそうじゃないんですね。だって柿の種を机の上に置いたって発芽しません。それには縁が必要なんですね。発芽するには、まず土がないといけませんね。しかしその土もカラカラに乾いている土の上に蒔いたところで、こんなもの発芽しないわけですね。やっぱり雨が降って適当な水分が要るわけであります。そうすると、それも縁なんですね。あるいは冬の間は発芽しませんですよね。冬の寒い時はいくら水分があっても発芽しないんで、やっぱり適当な温度がないと発芽しない。それらのものがすべて間接条件、因が果を結ばせる、そういう間接条件を「縁」と呼ぶわけですね。だからさまざまな縁があるわけであります。しかも仏教は、これ非常に縁を大きく大きく解釈しているんですね。「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる」という言葉がありますね。あの権兵衛が種まくと。だから因が果を結ぶには、柿の種が発芽するには、権兵衛さんが蒔いてくれないと発芽しないわけですから、権兵衛が種まくという、そういう縁が必要です。ところがカラスがほじくっちゃったら発芽しませんよね。だからそうすると、因が果を結ぶには、カラスがほじくらなかった、という縁も必要だと言っている。ですから私は、「プラスの縁」「マイナスの縁」と名付けているんですが、権兵衛が種蒔くという方は、プラスの縁なんです。それに対してカラスがほじくらなかったというのは、マイナスの縁なんです。結婚式に行って、「ご縁を得まして、皆様方のご縁によりまして」とかという、そういうお陰様で、という時には、縁という言葉を使いますが、それはある意味では、みんなが反対しなかったものだから、私たちの結婚を邪魔しなかったから、私たち夫婦結ばれたんだと。そういうところまでいっているわけですね。だから非常に縁というのは広い広いものであります。
 
井筒屋:  そうすると、ちょっと考えますと、全然関係のないような方との、まさにご縁ですとか、そういったものも非常に大事になってくる。無限に近い広がりをもってきますね。
 
ひろさちや:  そうですね。ですから「袖振り合うも多生(たしょう)(他生)の縁」というわけですが、ほんとになんかちょっと袖をすりあうようなもの、それも縁なんじゃないか。もう大きく人間関係というものも単に今私はこのあなた方だけに直接お世話になったんだ。その人だけに御礼をすればいいと、そんな気でいてはいけないんですね。それだったら布施の心も出てきませんから。だからありとあらゆる人のご縁を頂いて、みんな上手くいったんだと。先ほどの努力主義の時もお話したんですが、私たちついつい自分の因ばっかり強調しちゃうんですね。俺は努力したから上手くいったんだ。俺の成功の原因は、俺の努力だと。それは因ばかりしか言っていないんじゃないかと。そうじゃない。大勢の人たちに助けられて、私たち物事も成功するんだ。だから努力はいけないわけじゃない。しかしそういう大きな大きな縁、それを仏様と考えると、仏縁ですよね。そうすると、仏の縁に助けられて、私たち何事も上手くいくんだと。そういう認識が大事なんじゃないかと思います。あるいは会社でよく部下が失敗する。そうすると部長さんなんかがよく怒られる。こんな失敗しやがって、あいつは能力がないから失敗したんだと。確かにそれは能力がない、部下が無能であるというのは縁であると思うんですね。しかしその部長さんが、この失敗の原因は彼奴が無能力なんだとみた時には、仏教がわかっていないんじゃないか。確かに無能力は因なんだけども、しかしその縁があればその人でも上手くいったんだと。だから自分がその人にとっていい縁をつくってあげられなかった。その反省、お詫びの気持ちというものが大事なんじゃないかと思うんですね。別の考え方をしますと、因があって、縁がさまざまにABCと縁があると。そうすると、因が果を結ぶには、縁Aという縁であれば、別の結果が出てくる。例えば先ほど言いましたように、柿の種を、例えば乾燥した土の上に蒔いたら発芽しないという結果が出てくる。水分もあり温度もあるところに蒔けば発芽という結果が出てくる。しかし日陰という縁であれば、今度はもやしになってしまうというような、そういうふうに結果が変わってきますですね。
 
井筒屋:  如何に縁が大事か、ということですよね。
 
ひろさちや:  そうですね。ですからそう考えると、ABCとさまざまな縁があるんだと。だから無能力な部下がいても、その無能力な部下、自分がAという部長であったから失敗という結果になったんじゃないかと。自分がもう一つ別な縁をつくってやれば、人にも上手くいったんだろうに、という、そういう反省も大事なんじゃないかと思いますがね。
 
井筒屋:  さて、因と縁についてお伺いしてきましたが、果の方も果だけではないという考え方が仏教では強いようですね。
 
ひろさちや:  仏教では、果の方にも、その果だけではなしに、「果報」と言って、果と報があると言っているんですね。
 
井筒屋:  「果報は寝て待て」の「果報」、
 
ひろさちや:  そうですね。だから「因縁」という言葉にもなっているし、「果報」という言葉にもなっている。そして仏教は、先ほど言いましたように、因ばかりを強調するんじゃなしに、縁が大事だと言っている。だから果ばかりを強調してはいけないんだ。私たちが、果というものはしばしば予測して果を求めるわけなんですが、その一つの結果が出てくると、間接変化が生じてくる。だからこの報という報を、私は、「間接変化」と訳している。それに対して結果というのは直接的な結果なんだ。目に見える結果ですね。例えば、先ほどの努力するという、努力したら金持ちになるという直接結果が出てくる。しかしこの金持ちになったら、周りが変わってくるんですよね。間接変化が出てきます。必ずこれは出てくるわけですよね。例えば一生懸命願い事をするわけであります。私たちは早く部長になりたい、なりたいと、そういうふうに思っている。で、部長になれた。人よりも一年早く部長になったという。それは直接結果でいいことだと思っております。しかしそういう結果が出たら、全部が全部じゃないんですが、逆に一年人より早く部長になった、早く上手くいった人は、かえって世間の妬みに遇うんじゃないか。足を引っ張られることもままあることですよね。
 
井筒屋:  お金持ちになったという果があった時には、そのお金を目当てに、これまで付き合っていた人との付き合いが変わってしまうとか、そんなことも起こりそうですね。
 
ひろさちや:  そうですね。多分あっちこっちから、「用意してくれ」とかなんと、宝くじに当たるとよく聞くことなんですがね、「寄付をしてくれ、寄付をしてくれ」と。で、その寄付ができればいいんですね。先ほどみたいに布施の気持ちをもってお金持ちになって布施さして頂けばいいんですが、その金持ちになったら周りが変わってきますですね。そうするとその人の心がまた悪くなる可能性が強いですね。なんか彼奴はおれがいいと思って強請(ゆすり)たかりに来やがって、「たかり王」と言って相手を蔑む気持ちがその人につい出てくるんじゃないでしょうか。
 
井筒屋:  お金持ちになった本人の気持ちの変化が出てくる。
 
ひろさちや:  そういうのを「成金根性(なりきんこんじょう)」というんですよね。ついついそういう気持ちが働くんじゃないか。そうすると、私は、報というのは恐ろしいものじゃないか。だから私たちが金持ちになりたい、金持ちになりたい、と思っているけども、結局金持ちになったら報が違ってくるんだと思いますですね、あるいは出世したいというのも。だから私、周りが変わってくるんだと。報というものがある。それは目に見えない変化なんですね。そうすると目に見えない変化をどのように考えればいいかということ、これは難しい問題だと思うんですね。イギリスの短編小説作家の中に、W・W・ジェイコブズ(William Wymark Jacobs:イギリスの小説家。短編怪奇小説の「猿の手(The Monkey's Paw)」や「徴税所」が有名だが、彼の大部分の 作品は海に題材をとったむしろユーモラスなものである。1863-1943)は、「猿の手」という短編を書いているんですが、私、昔読んだ小説なんで、筋を忘れたんで、ちょっと日本流に作り替えさせて頂きますと、こういう話なんですね。三つの願いを叶えてくれる奇跡を起こしてくれる猿の手を手に入れる。で老夫婦が猿の手を「私たちに五千万円授けておくれ」というわけですね。そうしたら猿の手がピクリと動いたように見えたんですが、何にも起こらない。「なんだ。これ偽物なんだ。インチキなんだ」と思っていたら、翌日会社から人が来て、「あなた方の息子さんは、会社で事故でお亡くなりになったんだ」と。そして「会社も落ち度があると思いますので、慰謝料として五千万円お支払いします」と、まあこういう小説があるんですね。私たちは、ついついお金がほしいと思っている。でもそのお金というものが、どういう代償ですね、報によって得られたものか。息子の命が引き替えになっているんだと。そう考えると、なんか恐ろしいもんだなと思うんですね。それよりは、今のこの現実の姿ですね、私のこの今の生き方、貧しければ貧しくって、これも仏様が、「今は金持ちになったら大変だよ。だから貧しくっていいんだ。貧しさの中にしっかり幸せを見出しなさいね」と言っておられるんだと、そう受け止めることができれば、それが立派な果報の考え方なんだ。だから「因果、因果」と言いますが、因果というものは、別に仏教の特色だと思うんですね。大事なのは、因縁であり、果報なんだと。そして私たちは、すべて仏様にお任せして―これは仏教以外の方であれば、神様でもいいわけですが―仏様、神様に私たちをお任せして、いろんな私たちは願いをもってしまう、別の今の自分でないものを求めてしまいますが、しかしその心を捨てた方がいいんじゃないかと思いますね。
 
井筒屋:  要するに人間努力主義という、さっきお言葉がありましたけれども、その言葉だけはこの果だけをほんとに追い求めているという傾向が強いですものね。
 
ひろさちや:  私は、前にインド人の神父さんから一冊の本を頂きまして、そしてその本を読んでおりましたら、非常にいい言葉があった。それは、
 
神様はあなたが欲しいものは、何でもあなたの願いを何でも叶えてくださいます。しかしそれがまだ今叶えられていないのは、あなたにそれを使う準備ができていないからです
 
という、そういう言葉です。いい言葉だと思って、仏教にも応用させて頂いているんです。「仏様は、私たちが望んでいる願いは、何事でも叶えてくださる。しかしそれが今叶えられないのは、あなたにそれを使う準備ができていないからです」と。金持ちになりたい、金持ちになりたいと思っている。そして一生懸命努力するわけであります。しかしその時に、自分の結果ばかり求めていると、周りの人を傷つけているんだ、ということを忘れてしまうんですね。だから大勢の人に支えられて、初めて自分は上手くいくんだと。そういう認識をもっていないといけないんじゃないか。あの「幸福」の「幸」という字、「幸せ」という字は、あれは手かせ足かせをつけられたものなんだという。「刑罰」の「刑」という字が語源なんだというんですね。「刑罰」の「刑」というものが語源であって、むしろ幸せというものは、要するに僥倖(ぎょうこう)という言葉の中に表れているように、なんか思ってもみない幸せ。偶然の幸せみたいなものが、この「幸福」の「幸」という字の本来の意味なんだというんですね。刑罰を免れるというようなところがあって、そういう意味からきているんだという、語源解釈があるんです。幸福というものは、ある意味で、私、そういうものだと思うんですね。努力の結果、幸福になれると思っているといけない。偶然だと思えばいい。偶然というのは、大きな仏縁ですね。一切衆生、世の中のみんなにお助け頂いて、人間ばかりじゃない、生き物みんなに助けられて生かされているんだと。そして私たちが幸せになる。歯をくいしばって、俺は幸せになりたいんだと言って、努力をすれば、どうしても他人の痛みがわからない人間になりそうで、私は恐ろしいんですがね。
 
井筒屋:  そういう競争社会になりかねない人間関係ので、この因と縁の考え方のスタンスに立ちますと、連帯感ですとか、そういったものって出てきそうに思いますね。
 
ひろさちや:  だからみんなに助けられて、「衆生の恩」と言えばいいんでしょうね。そういう恩によって生かされている自分ですね。自分一人で生きているんじゃないんだ。自分一人で生きようたって、とても生きられないわけです。だからみんなに助けられて大きなご縁を頂いて生かされている。そして自分が今何かこうあって欲しいと思って、そういう結果を求めているかもしれないけれども、それは仏様にお任せしておけばいいんだ。しっかり仏様はきっと良くしてくださると信じればいい。その時に、例えば大学に合格したいと思って真剣になって勉強する。でもその合格、合格ばっかり考えていると、落ちた時ガックリくるわけですよね。でもそれは仏様がきっと良くしてくださると信じていれば、上手くいった時、合格できた時も、有り難うございますと。落ちた時も、あ、仏様きっと一年ゆったり勉強しなさい。今のこの実力のまま大学へ入ったんじゃ、お前苦労するからね。ここでしっかり準備を調えて、そしてもう一年後に入ったら素晴らしい人生が歩めるんだよと。きっと仏様はそういってくださったんだなと信ずれば、きっと立派に生きられると思うんですね。有意義な浪人生活が送れる。だから神様は、あなたの必要とするものを何でも与えてくださいます。それがまだ与えられていないのは、準備ができていないからなんだ。仏様がきっと合格させてくださる。でもまだ合格できないというのは、自分にまだ準備ができないからなんだ。そう信じてゆったりとした努力をしていきたいなと思うんですね。
 
井筒屋:  ゆったりとした努力と、
 
ひろさちや:  だから仏教の言葉で言いますと、「精進(しょうじん)」という言葉があるんですがね。「精進」というのは、「精進料理」しか残っていなんですが。
 
井筒屋:  一生懸命努力する意味のような気がしますが。精進しなさいとか、そういう意味合いに使いますよね。
 
ひろさちや:  でも仏教で教えているのは、「正精進」正しい努力をしなさいって。正しい精進をしなさい、と言っているんですね。だから人を踏みつけにして、自分だけ良ければいいような、そんな努力は正しい努力じゃない。私が、みんなと一緒になって生きていく。みんな他人の幸せも願いながら、ゆったりと努力をしなさい。それが「正精進」の意味なんです。だから私たち、努力主義で自力自力と、自分の力ばっかり頼り切っていると、どうしても他人に対する包容力というのがなくなってしまうと思うんですね。
 
井筒屋:  気づかう心ですとかね。
 
ひろさちや:  そうですね。思いやりの心がなくなる。だからどこかの部分でやはり仏様にお任せする。他人じゃないですね。仏様にお任せする。そういう気持ちが大事なんだろうと思います。
 
井筒屋:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成五年二月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである