蓮華のごとく生きる
 
                    東大寺別当 北河原(きたかわら) 公 敬(こうけい)
昭和十八年、奈良市生まれ。昭和三十三年、得度。昭和四十三年、龍谷大学大学院(国史学)修士課程修了。修二会新入は昭和四十四年、二十五歳。練行衆として二十八回参籠。上院院主などを歴任後、平成二十二年五月第二二○世東大寺別当に就任。著書に「蓮は泥の中で育ちながら、泥に染まらない」「葵七皆元気対談(第5回)心は巧みなる画師の如し心は諸々の如来を造る」ほか。
                    き き て 中 村  宏
 
ナレーター:  蓮の季節となりました。蓮は六月下旬から八月上旬の早朝に花を開きます。東大寺の住職を務める北河原公敬さんは、仏教にとって欠かせないこの蓮を、四十年近く自坊で育てています。奈良東大寺。奈良の大仏様として知られる本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)は、強大な蓮弁の上に鎮座(ちんざ)しています。蓮の花は、仏教の世界では蓮華(れんげ)と呼ばれ、「浄土 理想の仏国」や「清浄」「解脱」などを象徴します。蓮は泥の中から生えてきます。泥にまみえても可憐で清楚な花を咲かせるその姿に仏を感じると、北河原さんは言います。今回の「こころの時代」は、東大寺住職北河原公敬さんに、蓮を育てることで一層深まったという仏への思いを聞きます。
 

中村:  これは綺麗に咲いていますね。
 
北河原:  そうですね。ただこれはもう三日ぐらい経つんですよ。本来は朝咲き始めて、その日は大体閉じちゃうんです、すぐにね。二日目ぐらいからが一番良い感じですね。今日は三日目で、しかも雨に打たれているから、少し花にとっては条件が悪かったかも知れないですよね。
 
中村:  一つの花は何日ぐらい楽しめるんですか。
 
北河原:  大体、そうですね、五日間から一週間、うまくいけばですね。というのは、あんまり強い雨が当たるとか、強い風が吹くと散っちゃったりする。条件さえ良ければ一週間咲きます。
 
中村:  大体例年いつ頃ですか、一番綺麗に咲くのは?
 
北河原:  大体鉢植えなんで、池の蓮なんかに比べると早いんですけども、うちの場合でしたら七月の中旬から下旬くらいが一番多く咲いてくれていますけどね。
 
中村:  お務めの合間にこれ面倒見られるのは大変ですね。
 
北河原:  そうですね。特に夏はね、これ水をやらないと枯れちゃいますからね。
 
中村:  常に水を、気を付けられてね。
 
北河原:  そうですね。それと後、ちょっと肥料、追肥したりしますから。
 
中村:  どうしてこの蓮を育てられることになったんでしょうか。
 
北河原:  そうですね。私の祖父が生前蓮が好きだったんですけどね。その時私は直接そこまで興味はなかったけども、結果的には祖父が好きだったのを、私が間接的な形ですけども、続けてきたみたいな感じになりましたかね。
 
中村:  詳しいことは別の場所でお話を伺うことに致しましょう。
 

 
中村:  先ほど、蓮は、お祖父さまから受け継がれた、というようなことをおっしゃっていましたが、どういうことだったんですか。
 
北河原:  厳密にいくと、「受け継いだ」というのは、当たるかどうかわからないんですけどね。祖父が若い頃から、多分晩年まで好きだったんだと思うんだけども、蓮をこよなく愛して、自坊にたくさんの瀬戸物の金魚鉢に何種類も植えていたんですね。時々私が行きました時に、たまたま蓮を植え替える時期であって、鉢植えなので、どうしても植え替えないといけないんですが、その植え替える時期に行き会わせた時に、「お前は花に興味はないか」とか、「蓮をやってみないか」とか、と言われたことがあって、その頃は全然若かったですし、まったくそういう蓮に興味どころじゃなくて、私自身が植物の名前だとか、花の名前もあまり知らないくらいの人間でしたのでね、右から左に聞いていたような状態だったんですけども、祖父が晩年体調を崩して入院をし始めて、ですから祖父が世話していた蓮なんかも、誰も世話せずにほったらかしの状態だったんですが、たまたま私の知り合いの方から蓮の根―蓮根ですけどね、それを一つだけ頂きましたので、当時の私ですから、鉢に植えて、そのまま庭に置きっぱなしというか、そんな状態だったんですけども、二年ぐらいしたら一つ蕾がつきましてですね、〈あ、ひょっとしたら花が咲くのかな〉と思っていたんですよ。そうしましたら、祖父が入院しました病院から―これ七月七日なんですが、「ちょっと様態が急変したんで来てほしい」と、朝四時頃電話がありまして―夏でしたから、もう明るかったんですけど、それで病院に行ったところがちょっと間に合わなくて、病院から朝、六時に家に戻ったらば、さっきの蕾だったのが、たまたまその時咲いていたんですね。勿論その時期ぐらいには咲くだろうと思っていたんだけれども、たまたま亡くなった日に咲いたものですから、それで〈これはひょっとしたら、祖父が蓮を植えてほしいと思っていたのかな。なんかそういう思いが強かったのかな〉と、これは私なりに勝手に感じて、それでやはり一回蓮をやってみるかというような調子で始めたんですよね。
 
中村:  ご自分で育てられて、何か感じるということってありますか。
 
北河原:  そうですね。最初はそんなような調子で始めたんで、あまりこれと言って思うというような気持ちは、そうはなかったんですけども、やっぱり毎年毎年植え替えもし、それからやっぱり植え替えをした後、きちっと蓮に対してのこちらの思いと言うんですかね、肥料をやったりとか、水をやったりとか、いろいろ世話をしますのでね、それで花が咲いてくれる。そうすると見ていると、ご承知のように鉢植えなんで、泥の鉢の中から、それはそれは凄い素晴らしいというか、気品があるというか、高貴な花を咲かせる。香りも凄くいい。ほんとに品のある花なんで、そういうようなのを見ていると、なんとなくこういう泥の、汚泥の中からでも育ってきながら、そういうのに染まらない綺麗な美しい花を咲かせるというのを見ていると、これはなんか自分の世の中で生きていくに当たって、その生き方というか、人生の過ごし方というか、それを蓮が私に教えてくれているのかなと、こうちょっと思ったんですけどね。
 
中村:  やっぱり人間もそうありたいというか、
 
北河原:  そうですね。我々もやっぱり世の中の汚泥というか、例えば欲望だとか、貪(むさぼ)りとか、あるいはいろいろなそういう柵(しがらみ)だとか、とにかくいろんな世の中の汚(けが)れの中というか、あるいはさまざまな汚れの中で生活をせざるを得ないわけですから、生活しているわけですから、そうすると、そういうような状態に私たちは身を任せてしまって、生きていくのも、勿論一つの生き方かも知れないけれども、そうじゃなくて、やはりきちっとした生活をするということも、また大事なことじゃないかなと、そういうようなものに流されるんじゃなくて、そういうことを蓮が示してくれているかな、とこう思ったんですけどね。
 
中村:  道を選ぶのはどっちにもでも行けるわけですね。
 
北河原:  そうですね。これは自分自身がどちらを選ぶかでしょうけどね。きちんとした人間としての生活というか、人生ですよね。いわゆる本来の人間、人としてのあり方、生き方というか、そういうことを選ぶ方がいいんじゃないかと思いますけどね。
 

 
ナレーター:  北河原さんは、平成二十二年(二○一○年)に、東大寺の第二二○世住職に就任しました。東大寺が建立されたのは、今から一二六○年前の天平(てんぴょう)時代、聖武(しょうむ)天皇(在位七二四―七四九年)の願いによるものです。長い歴史の中で二度、大仏の姿が大きく損なわれる災難に遭います。しかしその都度、国中の人々の力によって立ち直り、今日に至っています。
 

 
中村:  東大寺と言いますと、私は関東の出身なんですけども、中学校でも、高校でも修学旅行でまいりました。そしてあの大仏さまの大きさを感じるわけですが、歴史の時間にも、中学、高校ともに、この東大寺は、聖武天皇がお造りになったと勉強しました。しかし聖武天皇は、何故東大寺をお造りになったのか。これを改めてお話を頂きたいんですが。
 
北河原:  そうですね。聖武天皇の時代、奈良時代というか、あるいは天平時代と言われていますけども、一面どうかすると華やかな、そういうような面というのがよく話題になりますけれども、一方で飢饉であったり、あるいは疫病があったりとか、また地方では藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱(七四○年)があったりと言って、ある意味で不安定な世相でもあったわけなんですね。為政者であった聖武天皇は、そういうような不安定な、あるいは国民というか、人々がもっとできれば幸せな、安泰な生活を送れるような、そういう社会をなんとかして実現したいという思いが強かったんだと思うんですね。そういうようなことの現れとして、大仏様の造立ということを考えられたと思うんですね。聖武天皇は、その大仏様を造ろうと思われた時には、詔(みことのり)を出されて、それを国民に伝えられるわけですけど、その詔の中にもそういうようなことを触れておられるんですね。ですので、そういう思いというものを、何とかして結実させようということで、これを発願(ほつがん)されたんだと思うんですね。
 
中村:  大仏は大きいですね。難工事であったというふうに聞いておりますけども、何故あの大仏をお造りになったんでしょうか。
 
北河原:  これは、聖武天皇は、東大寺の前身に金鍾山寺(きんしょうさんじ)という―「山房(さんぼう)」とも言いますけど―お寺があったんですが、そこで大安寺(だいあんじ)の審祥(しんじょう)(審祥(しんじょう)大徳)というお坊さんが、日本で初めて『華厳経』というお経を講説されたんですが、それを自らご自身もその講説をお聞きになる。そうすると非常にお経の中に出てくる蓮華蔵(れんげぞう)世界が説かれていて、それが非常に素晴らしい世界である。この世の中の不安定なそういう社会にあって、この蓮華蔵世界という、いわばパラダイスと言いますか、人々のそれこそ生きとし生けるものがすべてが幸せな、そういうような生活を送れる世界であるならば、なんとか実際の世の中に実現をしたいと。そのためには、この『華厳経』の教主と言われる毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)―盧舎那仏(るしゃなぶつ)と言いますが―インドでは「ヴァイローチャナ」と言うんですけども、それが音訳されてきて、毘盧舎那仏、盧舎那仏と言っていますが、意味は「光明遍照(こうみょうへんじょう)」ということなんですけれども、この仏様、華厳教主の盧舎那仏を造って、蓮華蔵世界をなんとかこの世の中に実現しようと、こう思われたんですね。その光明遍照というのは、大仏様、仏様のお光、慈悲の力、そういうようなものが宇宙の隅々まで行き渡るという、そういう意味をもっている仏様なんですね。普通「光」と言えば、障害があれば、そこは影になっちゃうんですけど、その「お光」というのは、そういうものも全部通してしまうという、そういう光であると言われているんですね。無遍際(むへんざい)とも言われますけども、とにかく宇宙の隅々まで光が行き渡るという、そういうことを考えたらば、あの大仏様はもっともっと大きくてもまだいいわけなんですよ、それだけの仏様ですから。そういう意味で大仏様は大きいわけですよね。
 
中村:  宇宙すべてを照らして影ができない。
 
北河原:  そうです。それはやっぱり聖武天皇が大仏様を造ろうと思われた中にも、その思いがおありだったんじゃないか。というのは、つまりそういう光でもって人々の幸せを実現できたらというふうに思われたんじゃないかと思うんですね。
 
中村:  それは弱い人たち、苦しんでいる人たちを照らそうという。
 
北河原:  そうですね。すべてですね。それでしかも聖武天皇は、「動植ことごとく栄えんことを欲す」と詔で言われるんですね。つまり「動物も植物も生きとし生けるものすべてのの幸せを願って、この大仏様を造るんだ」と言われているわけですね。ですから人間ばかりじゃないんです。すべてなんです。大仏様というのは、大きい仏様なんですけども、実はこの大仏様を造る時に、聖武天皇は、これも先ほど言いましたが、詔の中で、時の権力者、為政者ですから、造ろうと思えば自分の力というか、権力でもってできるかも知れない。しかしそれでは造った意味がない。つまり「仏作って魂入れず」という言葉がありますけどもね、やはりそれを造るからには、多くの人々の力を結集して造ることが大切だということを自覚されておったと思うんですね。ですから詔の中では、ご自身が、「自分は徳が薄いけれども、今は為政者としての立場で国を治めておるけれども、なかなか自分の思い通りにはいっておらない。特に仏の恩というか、そういうのがなかなか国民には行き渡っていない。で、そのためにご自身は、大仏様の造立を発願したと。そしてその時に多くの人たちに、その造立事業に参加をして欲しいということで、例えば一握りの土でもいいし、あるいは一枝の棒きれでもいいと。そのようなものを持ってでも、この造像の事業に協力したいと申し出てくる人たちは、喜んでそれを受け入れよ」というふうに詔でいうんですね。そして一方では、詔の中では、地方の、例えば国司(こくし)とか、郡司とか、そういう人たちには、決してこの事業のために税金を取り立てたりとか、そういうために特別に徴税したりとか、そういうことは一切するな、ということも布告されているんですね。ですから、それまでの、例えば仏様なり、あるいは、お寺なりを造ろうと言ったら、大抵は時の権力者であったり、氏族だったりが造ったものなんですよ。ところがこの大仏様というのは、初めて国民というか、当時の人口の約半数と言われているんですが、二百六十万人の人が、この工事造立に携わったと言われているんですね。ですから如何に多くの人がこの造像に力を寄せたかということなんですね。
 
中村:  その後も多くの人によって守られてきたと。
 
北河原:  そうですね。東大寺は歴史を顧みると、罹災(りさい)と復興というんですかね、その繰り返しであったかも知れないんですね、現在に至るまで。東大寺は、平清盛の子どもの重衡(しげひら)に―東大寺に限らないんですが、この南都焼き討ち(1180年)がありましてね、ですから多くの堂宇(どうう)が灰燼に帰すという、それはそれは大変な時に出会ってしまうんですけれども、その時には俊乗房(しゅんじょうぼう)重源上人(ちょうげんしょうにん)(1121-1206)という人が、六十歳になってからですけども、大勧進職(だいかんじんしょく)として―勧進というのは、つまり寄付を集める勧進ですけども、多くの人たちにこの勧進をして、復興のために呼び掛ける。勿論時のその後のことですから、源頼朝の時代になっていますので、頼朝、源氏のバックアップも勿論あったんですけども、しかし全国を勧進帳を持って勧進して回るという。歌舞伎に勧進帳ってありますけどね、あれもたまたまそういう時の東大寺復興のための勧進帳というか、勧進して回っているという、それを取り入れられていますけどね。そういう形でもって多くの人たちの力で、その時には、例えば「尺布寸鉄(しゃくふすんてつ)」とか、そういうちょっとした微々たるものでもいいから協力をしてくださいということで、勧進するんですね。復興を成し遂げるんですね。またその後戦国時代に、「三好(みよし)・松永(まつなが)の乱」(1567年:三好義継と松永久秀の乱)で、東大寺はまた灰燼に帰すんですが、その時も、江戸時代の復興になりますけれども、公慶(こうけい)上人(1648-1705)という方が出られて、この方が「一木半銭(いちもくはんせん)」じゃないですけども、とにかく「一紙半銭(いっしはんせん)」という言葉もありますけどね、そういうようなものでもいいから協力を呼び掛けられると。それこそ当時の勧進帳にはほんとに細かい微々たる金額も書いてあるんですね。そういうのに協力している人たちがいるわけですね。ですので、そういういろんな人々、民衆の力を結集して、たびたび復興を東大寺はするという。東大寺そのものは「護国の寺」というふうに勿論言われております。「鎮護(ちんご)国家」というような言葉がありますけれども、しかしだからといって、決して人々、民衆との繋がりが薄いわけじゃなくて、どちらかというと、そういう民衆の人たち、人々との繋がりが強くあってこそ、今の東大寺がこうやって現在もあるということだと思うんです。近いところでは、「昭和大修理」(大仏殿の屋根瓦が軽量なものに交換されるなどの修理)ということをしましたけどね、この時にも多くの方々にご協力を頂いておりますのでね。

 
ナレーター:  北河原さんの祖父も父も、東大寺の住職を務めました。十歳で寺に入り、得度したのは中学生の時でした。
 

 
北河原:  小学生は奈良でしたけども、中学から東京の学習院に行きましたので、夏休みでないとこちらに戻って来ていないものですから、中三年の夏休みだったと思いますけど、得度をしたんですが、しかし学業がありますから、休み以外はこちらに戻るということはないものですからね。得度をしましてもほとんど東京で、学校の方に行っておりましたので、あまり直接寺のことを手伝ったりとか、そういうのに―得度すれば法衣も着るわけですから、例えば法要の末席に着くということってあるんですけども、しかし私の場合はわりにそういう機会はどちらかというと少なかったんですね。
 
中村:  思春期ですと、進路に迷ったりしますけど、そういうことはなかったんですか。
 
北河原:  そうですね。こっちにいたらどうだったかわからないんですが、たまたま東京にいたものですから、それで離れていますので、あまり寺との、そういう意味での接点というのは薄かったと言いますかね、得度はしていても。ですからあんまりその頃は深刻には考えていなかったような気がするんですよね。
 
中村:  そうすると、わりと普通の中学生、普通の高校生だったんですか。
 
北河原:  そうですね。どちらかというと、そうです。
 
中村:  クラブ活動なんかされたんですか。
 
北河原:  そうです。中等科、高等科と学習院にいましたけど、中等科はちょっとクラブは違ったんですけども、高等科に入った時に、フィールドホッケーなんですけどね。ホッケーというと、アイスホッケーのように、みなさんパッと印象が強いようですけども、フィールドホッケーのクラブに入りました。いわゆるホッケーは十一人、サッカーと同じですのでね、チームプレーというのはどうしたっても重要視されます。勿論個人技も必要なんだけれども、一人ではとても戦うことはできるわけじゃありませんからね。やっぱりチーム内の連携だとか、それから相手が来た時には、どういうふうにボールを出してくるだろうとか、あるいは自分のチームが攻めている時には、同じ同僚と縦パスの交換をしたりしますからね、そういう時には今だったらここへパスしたらいいかなとかね、あるいはこっちに今ボールが欲しい時には、できる限り今自分ボールが欲しいなというようなことを、チームメイトにアイ・コンタクト(eye contact)じゃないですけどね、そんなようなこととか、ですからそういう意味では、相手の考えていることとか、思っていることとか、そういうようなことをホッケーをやっている中では学ぶことができましたけどね。
 

 
ナレーター:  大仏と並んで東大寺で有名なのが、お水取り、修二会(しゅにえ)です。巨大な松明で知られますが、二月から三月に掛け、ほぼ一ヶ月にわたって行われる祈りの行(ぎょう)なのです。選ばれた僧だけが堂に籠もって仏に向かい、人々になり代わって過ちを悔いるとともに、生きとし生けるものの幸せを祈る毎日を送ります。高校卒業後、京都の大学で『華厳経』を学んだ北河原さんは、昭和四十四年、二十五歳の時に、初めてこの修二会に参加することを許されます。

 
中村:  東大寺と言いますと、大仏様ともう一つ有名なのが修二会。「お水取り」という人が多いと思いますけど、この修二会というのは、どういう意味があるものなんでしょうか。
 
北河原:  この修二会というのは、お勤めをされるお堂が二月堂なんですね。国宝に指定されていますが、この二月堂のご本尊が十一面観世音菩薩―十一面観音なんですが、その十一面観音の前で、この行を勤める僧侶のことを練行衆(れんぎょうしゅう)と言うんです。今は十一人で勤めておりますが、この練行衆は、日頃意識するしないに関わらず、犯してしまう罪とか、咎(とが)とか、汚(けが)れだとか、あるいは多くの人たち、自分ばかりじゃなくて、多くのすべての方々のそういう汚れだとか、罪とか、咎とか、そういうようなものを、代表してこの十一人がご本尊の前で、我々は「悔過(けか)」という言い方もしますけど、今ふうに言えば「懺悔(ざんげ)」するというか―我々は「さんげ」という言い方をするんですが―懺悔ともに人々の幸せなり国家の安泰なり、五穀豊穣なり、そういうようなものを祈る行法(ぎょうぼう)なんですね。
 
中村:  お堂の中では、どんなことを行(おこな)っているんですか。
 
北河原:  ご本尊の十一面観音の前で、私たちが犯す罪とか汚れ―そういう中には勿論「三毒(さんどく)」とも言いますけれども、「貧瞋癡(とんじんち)」というふうに言っているんですけども、これは例えば私たちというのは、貧(とん)―貧欲(とんよく)(むさぼり)というような欲望もありますし、あるいはつい怒ったりして人に対して闇雲に怒鳴りつけたりする、そういうことは瞋(じん)―瞋恚(しんい)(いかり)ですね。あるいは癡(ち)―愚癡(ぐち)(教えを知らないこと、無知)、そういうようなことから起こる欲望と言いますか、そういうものも含めて懺悔をする。
 
中村:  三つが貧瞋癡なんですか。
 
北河原:  そうなんですね。「貧瞋癡」というんですけどね。これを毒に準えて「三毒」というんですけどね。とにかくそういうようなものを懺悔する。懺悔するとともに、さっきも言いましたように、人々の幸せだとか、国家の安泰だとか、五穀豊穣。ですから修二会の行法が終わりますと―行中(ぎょうちゅう)に来られた方にもそのお話をされるとびっくりされるんですが、この行中には、今申し上げたように、人々の幸せなり、国家の安泰なりを祈りますから、例えば時の政府―内閣総理大臣から始まってですね、時の大臣の名前も読み上げたり、地元の県知事の名前も読み上げたりとか、つまり国家の安泰、人々の幸せを祈ることもしているんです。行が終わりましたら、宮中にお札の献上にまいりますし、勿論今言いましたように、国にもお札を届けます。そういうことをしているんです。これ別に頼まれたりしているわけではなくて、これは昔から続いているんです。勿論一般の方々からのお願い事がありますから、それも祈っています。それとお札をみなさんにお届けしています。これは実は今年で一二六一回目を数えるんです。この修二会という行法は、それは一度も途絶えることなく連続してきたんですね。例えば先ほどお話したように、東大寺のそのものの存立が危ういような、例えば戦災で火事になって灰燼に帰したというような、そういうような時にでも、この行法だけは幸いに二月堂は焼け残っていますから、二月堂で勤めたわけなんですね。ある時などは、もう宗議でこんな状態ではとても行法なんか勤められないから止めようじゃないかということまで決めていたにも拘わらず、「いや、それは今まで続けてくれた方々には申し訳ない。だからなんとしても続けるんだ」ということで、そういういわゆる大変な時にあっても、東大寺そのものの存立が危うい時であっても、この行法を続けてこられたわけですね。ですから我々は勿論そういう思いというのは受け継いでいますので、これからもずっと東大寺がある限りは続けていかなければいけないと思うんですね。学者の方のお話だと、こういう形態のもので、一端途絶えてまた復活したというのは別として、ずっと一二六一回も続いているのは世界的にみても稀であろうというふうに聞いていますけどね。
 
中村:  去年の修二会の時に、ちょうど東日本大震災があったんですね。
 
北河原:  そうですね。ちょうど三月十一日というのは、この修二会の行法の期間中でありましたので、この行法は三月の、厳密に言えば、十四日の未明と言いますが、十五日も入っているんですが、で、終わるんですがね。あれが十一日でしたので、それで私自身は、行には入っておりませんで、自分の執務室におったんですけども、私の執務室がたまたま雪見障子というのがありますね、こう上げたりする、その障子を上げてあったものですから、障子の上げてある重なっている部分でなんか虫がいるのかな、ちょっとビッビッビッと音がしたんですよね。たまにそういうことがあるものですから、また虫かなと思って、ちょっと見に行ったら、いないんですよ。それで違うなと思って、で、私の席に座ろうと思って下を見た時に、ちょっと目眩がする感じがしましてね。グラッと、以前にそういうことがあったものですから、また目眩かなと思って、何気なしに上を見ましたら、上の電灯が揺れていたんですね。それでこれは地震なんだと思って、ほんとにゆったりした横揺れだったんで、気付く人は割に少なかったんですよ。うちの寺の者でも外にいる者はわからなかったようなんですが、私の執務室から外の池を見たらですね、水がちょっとゆらっとしていたんですね。だからゆったりとした横揺れでしたですね、この辺では。それからのちにテレビだとかで凄いことだということがわかりましてね。それが十一日だったものですから、後の十二、十三、十四の三日間の行法の夜勤めに入ります時に、お松明を焚きますので、その時にたくさんの方が参詣に来られていますから、それでそんなことは今までなく、異例なことだったんですけど、来られている方々に、この震災のことについて、私の方からお願いというか、呼び掛けというか、をさせて頂いたんですね。それは三つありまして、一つは、この震災で亡くなられた方々のご冥福を一緒にお祈りしてほしいということ。それから二つ目は、被災された方には、被災地に心を寄せてほしいということを申し上げ、三番目には、それぞれ各の方々がそれぞれの立場で被災地のために力を尽くしてほしい、ということをお願いしたんですけどね。これは普段修二会に来られている方にそういう呼び掛けたりとか、広報したりということはないんですけど、今回そういうことでやって貰ったんですね。
 

 
ナレーター:  東日本大震災の後、北河原さんは被災地を何度も訪れ、法要を行いました。それ以来、被災した人々に寄り添う活動を続けています。
 

 
北河原:  義捐金ですとか、あるいはお見舞いの金額とか、それから救援物資とか、また境内に義捐箱を置いて、多くの方々の義捐金を募るということは勿論させて頂いております。そしてそれとは別に寺の方で亡くなられた方々の慰霊と一日も早い復興を祈る法要もさせて頂きました。これは東大寺単独ですることは勿論のことでしたけれども、たまたま近畿に神仏霊場会と言いまして、神様仏様合わせて百五十集まって霊場会というのを組織しているんですが、この総会が東大寺で昨年ありましたので、宗教を超えて百五十のそれぞれの代表の人たちが東大寺で、震災で亡くなられた方の慰霊とか、一日も早い被災地の復興の祈りと法要というのも行いました。それとは別にまた私たちは、東日本の被災地の方にも足を運ばせて頂いて、それぞれ―一回に何カ所か行くんですけれども、行った先々で亡くなられた方々の慰霊法要と、一日も早い復興を祈って法要をさして頂き、また場所によっては法話もさせて頂いたり、あるいは被災された方々との交流もさせて頂くという、そういうような活動をさせて頂いている。これは今後も続くかと思いますが。
 
中村:  どういう言葉を送られたんでしょう。
 
北河原:  そうですね。「辛苦同心(しんくどうしん) 復興同志(ふっこうどうし)」という言葉を認めてお渡ししたんですけども、「辛苦(しんく)」というのは、辛い苦しみと書きますが、同じ心、つまり被災されている方々の辛さとか、苦しみとか、そういう思いというのを私たちも同じ思いでいますというような意味合いで、そう私は書いたんですけど。そして「復興同志」というのは、復興への思いも皆様の志と同じで、私たちはおります、ということで書きまして、それを託したんです。その後我々が行く時は、例えば団扇にその言葉を印刷して、向こうへ持って行って配らせて頂いたりとか、我々としては皆様と同じ思いでおりますという、決して被災された方々だけ放っておくというわけではなくて、我々も一緒の思いでおりますということを、ある意味繋がりを意識するというか、そういうことを向こうに知って頂く意味で、思って持って行ったりしたんですけどね。
 

 
ナレーター:  東日本大震災だけでなく、その後も続く大災害や事件・事故、人々の心が荒みそうになる今だからこそ大切にしなければならないものがあると、北河原さんは考えています。
 

 
北河原:  今回東日本大震災がありましたですよね。その時にみなさん、阪神淡路大震災の時もそうだったけど、ボランティアでいろいろとみさなんが被災地に入って、いろんなところで被災された方々に対して、あるいは被災地に対して手を尽くされて、手を差し伸べられて活躍活動されていますよね。これというのは、ほんとに私たちから言えば、「慈悲の心」、あるいは「菩薩の心」「菩薩の道」だと思うんですね。こういうのは、決して菩薩というのは対価を求めないんですよ。人のために尽くすけれども、例えばギブ・アンド・テークじゃないんですよ。無償の施しと言いますかね、そういうようなことに繋がるんですけれども、いずれにしても、そういうような思いというものを私たちみなそれぞれが持っていたならば、例えば重たい物を持っている人見つけたら、ちょっと手を貸しましょう、持ちましょうかとかですね、今階段を上ろうとしているお年寄りの人がいたら、手を差し伸べて一緒にいくとか、そういうようなことをする。勿論そういう人は勿論おられるんだけども、なかなかいざという時には、ああいうボランティア精神というんですかね、ああいうものが発揮されて、手を差し伸べるような人たちが、多いのにも拘わらず、最近の日本人というのは、どちらかというと、普段あまりそういうことが目に見えていないような、発揮されていないような気がするんですよね。そういう意味では、私は、実は公教育では今政教分離ですからいけないんですけれども、ただし宗教的情操教育というものがあってもいいんではないかと。勿論、この宗教は良いとか、この宗教は悪いとか、そういう教育は必要ないです。ただ宗教的な情操教育というようなものはあった方がいいんじゃないかと、私は思うんですね。やっぱりそういう宗教心というものが養われていれば、相手に対しての慮(おもんばか)る気持ちだとか、あるいは心配りをするとか、相手の立場に立って物事を考えたり見たりするとか、そういうことも養われてくるだろうし、そういう意味で情操教育というんですかね、あるといいなと、私は思っているんですけど。
 

ナレーター:  千三百年近く受け継がれてきた東大寺の教え。それは決して古(いにしえ)のものではなく、現在に生きる私たちにも進むべく道を示してくれていると、北河原さんはいいます。
 

 
北河原:  東大寺は華厳宗なんですけども、教典は『華厳経』なんですね。『華厳経』では、「この世に存在するありとあらゆるものは心の現れだ」と。私たちの世の中の存在、あらゆる存在というのは、全部我々の心の現れであるというふうに言われるんですね。我々の心のはからいでもってできた、というふうに言われるんですね。『華厳経』はいろんなことを説いていますけど、その中で心のことで申し上げますと、これは私たちお寺では、多くの方々にお勧めをしているお写経がありまして、これは「唯心偈(ゆいしんげ)」なんです。これ百文字なんですね。それでちょうど百文字なんで、我々は「百字心経」という言い方もしているんです。この「唯心偈」というお経の中に、最初に、「心如工畫師(しんにょこうがし)」心は巧みなる画師のごとし、という言葉が出てくるんですね。「心は巧みなる画師のごとし」というのは、つまり心は上手な絵描きさんですね、画家のようであると。我々の心というのは、上手な画家のようであるという言葉で始めるんですね。これはどういうことかというと、私はなかなか絵は描けませんけれども、心の中ではなんでも上手に描けます。それは抽象画であろうが、具象画であろうが、高名な画家の先生方に負けないぐらい、あるいはそれ以上の絵を心の中では描くことできます、いくらでも。だからといって描き方を一つ間違うと、我々の心は仏にもなるだろうけれども、鬼にもなる、悪魔にもなる、ということだってあるわけですね。そしてこの「唯心偈」の最後の下りでは、「心造諸如来(しんぞうしょにょらい)」という言葉で結んでいるんですね。「心造諸如来」とは、心は諸々の如来を造ると書くんですね。「心造諸如来」という言葉で結んでいるんですね。
 
中村:  「心は諸々の如来を造る」。心が如来を造るんですか。
 
北河原:  そういう言葉で締めるんですね。これはどういうことかというと、さっきも言いましたように、心の描き方、持ち方でもって、私たちの心は、仏様にもなるし、鬼にもなる、と言いましたけれども、その仏様がそれぞれの私たちの心の中におられる、あるいは私たちの心の中でもって仏様が造られてくる。そういうことを「唯心偈」の最後に、我々に説いているんですね。ですからさっきも言いましたように、私たちの心というのは、もうあっちへいったり、こっちへいったり、移ろうものですけれども、しかし心の持ちようでもって、自分たちが仏にもなることができる、ということをいうんですね。もう一ついうならば、仏教では、我々には仏になるための種がある、と言われているんですよ。種子(しゅじ)ですね、種。仏種(ぶっしゅ)とも言いますけど、仏の種。どういうことかというと、我々はみな意識していない、知らないだけの話なんです。人間みな人はそういう種があるんです。だからその種を丹精込めて育てたならば、お釈迦様のように、仏様としてなれるわけです。ところが我々は、それは悲しいかな、なかなかできない。私は、蓮の花を育てていますけど、肥料もやり、水もやり、ご機嫌も伺ってですね、丹精込めて育てているわけですけれども、この我々がみんな持っている種子、種も、仏になる種も、貪りだとか、あるいは瞋恚(しんい)(いかり)だとか、さっきの話じゃないですけど、そういうような欲望だとか、そういう煩悩をなくす、そういう煩悩から離れるための丹精さというんですか、そういうものをもっていかないと、その種は育たないんですよ。そういうものを取り除く丹精さが必要なんです。そうすれば、私たちもお釈迦様のようになれるという可能性があるわけです。華厳では、もう一つ、「初発心時便成正覚(しょほっしんじべんじょうしょうがく)」という言葉がありまして、「初発心」というのは、初めて、「発心」というのは、心を起こすというか、初発心時は、時ですけど、「便成正覚」忽ちに正覚を成ずるという。「正覚」とは悟りなんですけどね。どういうことかというと、発心した時に、私たちは即正覚を得たと同じようなことなんです。つまり我々が、仏になるため、あるいは悟りを得ようと思って発心したら、心を起こした時が、悟りを得たと同じぐらいの思いがあるんだという、そういうことを「初発心便成正覚」ということで教えているんですね。それだけ貴いものだと。そういう思いを持ったならば、という。つまりそういう発心した時は、正覚を得る。そういうような思いに通ずるということを教えるんですね。ですから先ほどの種子を育てるというのも同じことだと思うんですけれども、要は我々が生きていく中で、欲望や貪りや、そういう煩悩と如何に上手く付き合っていけるか。私たちは、お釈迦様のようになろうというのは大変難しいですけれども、しかしだがらといって、なにもせずにいるんじゃなくて、たといわずかであろうとも、お釈迦様に近づけるような努力というんですかね、そういうようなものというのは、意味あってしかるべきじゃないかなと思うんですね。
 
中村:  私たちは、混沌とした世の中で、どういう気持ちで生きていったらいいんでしょうか。
 
北河原:  そうですね。やはり私が育てている蓮じゃないですけれども、この世の中の混沌としているような中で、我々は生きていかなくちゃならないわけですから、どうしたって避けて通れないわけですよね。だけどもだからと言って、混沌とした中にありながらも、自己というものの確立というか、自己というものをよく見つめて、そして先ほどの、「心如工畫師」じゃないですけれども、心の持ち方ですね、私たちは、仏にもなるし、悪魔にもなると言いましたけれども、心の持ちようというものをそれぞれが自覚をして、できるだけ私たちみんなが泥に染まらずに、あるいは汚濁に流されるんじゃなくて、正しい心、清い心というような思いというものを大切に生きていってもらうことが必要かなと思うんですね。で、それはひいては自分の心が正しくなれば、他者に対しての思いもよくなると思うんです。自分の心が、例えば貪りなり、欲望なり、あるいは瞋恚(いかり)なり、そういうので固まっていたら相手に対しても、自分のそういうような思いが出てしまうわけですね。だからそういうことじゃなくて、自分の心もちを正しくして、正しい心で正しい行いをして生活をしていく。そうすれば他者もそれに応えてくれる。そういうような連鎖というか、繋がりというか、そういうことがある意味私たちのこれからの平安な、あるいは穏やかな温もりのある、そういうような社会というか、生活に繋がっていくんではないかというふうに思いますけどね。やっぱりこれは菩薩の心ですよ。慈悲の心ですよ。それをみんなが持ち合わせていったならば、そういうことに繋がると思います。
 
     これは、平成二十四年七月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである