とらわれのない世界―大智禅師偈頌より―
 
                  大雄山最乗寺山主 余 語(よご)  翠 巌(すいがん)
大正元年(一九一二年)、愛知県生まれ。五歳の時に、住職の父を亡くし、母と共に寺を出る。小学校四年の時に、母の病気療養のため再び寺の小僧に戻る。駒澤大学仏教学部卒業。大本山総持寺後堂を経て、南足柄市大雄山最乗寺住職・曹洞宗師家会会長。著書に「生を明らめ死を明らむるは―修証義講話」「放てば手にみてり―「正法眼蔵」弁道話講話」「これ仏性なり―「正法眼蔵」仏性講話」ほか。一九九六年逝去。
 
余語:  大智(だいち)禅師(南北朝時代の曹洞宗の僧侶。肥後国の出身:1290-1367)の「偈頌(げじゅ)」のお話です。初めての方もおられると思うから、「偈頌(げじゅ)」というのは、漢詩の形を借りて、宗教の風光と言いますかね、そういうものを述べたものです。漢詩と違うところはそれだけです。形も同じ形をしておりますから。今日は「即心即仏」という一首ですね。この前に同じ題のお話をしたと思っておりますがね。「即心即仏」という頌があって、もう一つ同じ題の頌が一首出てきているわけです。最初にそれを読んでみますと、
 
「即心即仏」
現成公案没商量(げんじょうこうあんもっしょうりょう)
蘗苦氷寒不覆蔵(はっくひょうかんふくぞうせず)
保護即心心即仏(そくしんしんそくぶつをほうごして)
眉間日夜放毫光(みけんにちやごうこうをはなつ)
 
という、そういう頌ですね。これだけ四句の中から、宗教の風光を受け取るわけですが、短ければ短いほど受け取る方は、いろんな形で受け取る。勝手な受け取り方をしていくわけですね。みんな違っておっても仕方がない。ともかくたった一つの結論を出そうというのは間違いですよ、すべて。人間が―人間が、というかね、昔から公案がたくさんあるようですが、日本に一億の人がおれば、一億の公案があるわけですから、それぞれ違った受け取り方をして結構なんです。じゃ、どれが本当かと言われると困るんだけどね。そういう数学の方程式みたいなものはないんだから、みんな安心しておったらよろしいだ。この初めの「現成公案没商量(げんじょうこうあんもっしょうりょう)」という第一句―この前にこの講座で『正法現蔵(しょうぼうげんぞう)』の「現成公案(げんじょうこうあん)」のお話をしたことがありますが、その題目の通り「現成公案」と出ているわけですが、「現成」というのは、現にそこにできあがっておるものでしょうね。現にそこにできあがっておるもの。目に見えるもの。聞こえるもの、全部を現成して、現にそこにできているものを言うんです。「公案」と言いますと、この字は親しみ深い字で、いろんな禅の公案がある。そういう意味でお手本になれるようなものを、普通は「公案」というんですけども、この場合は、「根元、一番本(もと)になるもの」、今までよく言ってきましたね。「根元のいのち」とか、「天地のいのち」とか、というような字を使って、そういうものを「公案」と、ここでは受け取っておく。「公案」という一番元のもの、天地の元のものが、今現にここにできあがっておるものの姿になっておる、ということなんです。これ人間がみなそう考えるんですね。ちょっと参考に申し上げておきますが、お釈迦様が十二月八日に明星をご覧になってお悟りを開かれた、ということになっておるわけです。その時にこのようにおっしゃった、とこう書いてある。
釈迦無牟仏(しゃかむにぶつ)
見明星悟道云(けんみょうじょうごどうしていわく)
我與与大地有情(われとだいちうじょうと)
同時成道(どうじにじょうどうす)
 
そう言われたことになっているんですね。これを普通に受け取りますと、釈尊が明星を見て、お悟りを開かれた。そしてこう言ったと書いてあるんだから、この「我」という字は、お釈迦様は「自分と」という、普通いえばそいういうことでしょう。自分と大地有情、要するに全部だ。とにかく目に見えるもの、地球上のもの、もっと広く言えば、一切のもの全部が大地有情という字で表れておるわけです。「大地の有情」と読むんじゃないですよ。「大地の有情」ということになると、地球上の生き物というようなことになりますからね。「の」は入らない。「大地有情」とひっくるめてそういう。「同時に成道す」と。お釈迦様と一緒に成道をした、というふうに受け取られておる向きもあるわけですね。ところがこれは総持寺(そうじじ)のご開山の瑩山(けいざん)様のご説明を聞きますと、「この我は釈迦無牟仏(しゃかむにぶつ)にあらず」と、そう書いてある。お釈迦様とは違うんだと。「お釈迦様もこの我より出生し、出てきたもの、そういう我だ」と言うんだから、「天地根元のいのちのことを我」と、ここでいうわけだ。さっき言うたように、ここでいう「公案」に当たるわけでしょう。それから元のものと「大地有情と同時に成道す」。「同時に」ということは、「いつでも」という。昔の話じゃない、「今でもそうです」と。「我と大地有情と同時に成道す」ということは、「いつでも天地根元のものと、それの現に現じておるものとは、いつも一緒の姿なんだ。一つなんだ。私どもがやっておるそのことが、根元のもののいのちの姿である」ということを、何遍も言ったわけでしょう。私どもは、この「儚い一生だ」とか、「無情なものだ」とか、いろいろこうお互いのことを考えておって、どこかに永遠のものがある、変わらないものがある、というふうに考えがちなんですよ。どっかにそういうものが、ふぁっとあるように思っておるわけだけども、そういうことではなくて、「いつもかもいつでも無情のままの有限のものの上に無限の姿が現じておる」、そういうふうに受け取っていくのが、こちらの「大地有情と同時に成道す」ということですね。そういうものじゃ。安心でしょう。天地本源のものの中に包まれておる。包まれておる、という言い方がおかしいんだけども、そのものの動きなんだ。洞山良价(とうざんりょうかい)という曹洞宗の中興の祖と言われる人がありますが、その人と雪峰義存(せっぽうぎそん)という人の問答というか、やりとりがありますがね。前にお話したと思うが、雪峰さんが柴(しば)を担いできた。そして洞山さんの前にこう置いた。そうしたら、洞山さま曰わく、「それはどれくらい重いのか」と。一束の柴だ。どれくらい重いのかと聞く。だから雪峰さんが答えて、「これは世界中の人がかかっても持ち上げられません」という。「そんな重たいものをよう持ってきたもんだな」とこういう。「雪峰無対」と書いてある。雪峰さんは答えをしておらん、という。簡単なやりとりがありますがね。それはどういうことになるであろうか、というと、柴を運ぶということは、よく出てくる禅語の中に、「運水搬柴(うんすいはんさい)」水を運び柴を搬(はこ)ぶ、ということが書いてある。みんなの朝から晩までの日常の生活ですよ。みんないろんなことをやるでしょう。いろんなことをやっておるその日常の生活そのものを、今の話では、「柴を搬(はこ)ぶ」ということで現しておる。日常のお互いさまの一切のことが、どれほどの値打ちがあるか、ということを計る秤はない筈なんですよ。そこに無限の活動体がある、お互いにね。無限の活動体があるということだけはわかる。それが良いのか悪いのかね。まあお互い一日中やっておれば良いことか悪いことか、詰まらんか詰まったとか、いろんなことを言いながらおるんだけれども、そういういのちの活動を計る秤はないのですよ。どれが有意義で、どれが無意義であったとか、というようなことは計りようがない。何か物差しがあって、それで計るとわかるんだけど、物差しというのは当てにならん。人間の約束の世界で、当てにならん。そういうふうなことですから、無限の活動体がそこにある。それを計る、重さを量る秤はないのだ、ということが世界中の人がかかっても持ち上げられません、というた言葉の、答えの意味合いです。そんな重たいものをようそこまで持ってきたな、というわけです。それは考えてみますと、そこに存在しておるお互い様がそこに今あるということはわかるんでしょう。誰もわかっておりはせん。あんたら、何故ここにこの私が今ここに座っておるのか、よくわからんでしょう。当たり前だと思ったらダメだ。電車に乗ってここへ坐っておるんだと、そんなふうなことに違いないんだけどね。そういうふうに、よう考えてみたらここに一個の存在があることがわからん。わからんでしょう。前にも何遍も言いました通り、六祖(ろくそ)慧能(えのう)(中国禅宗(南宗)の第六祖:638-713)さんに、南嶽(なんがく)(唐代の中国の禅僧:677-744)さんが来た時に、「甚麼物恁麼来(なにものかいんもにきたる)」という問いがあった。その時に答えられず、八年間かかって南嶽が六祖に答えたのは、「一物説似即不中(いちもつをせつじすればすなわちあたらず)」ということだ。「一物説似即不中(いちもつをせつじすればすなわちあたらず)」ということは、定義付けができない。説明ができません、ということなんだ。一個の存在がそういうものなんですよ。誰も説明しきれん。そういう一番後で、その問答の後の方で、「祇此(ただこれ)不染汚(ふぜんな)」と、六祖さんがそういうわけだ。「不染汚」ということは、「汚れておらん」ということだから、清浄ということですけども、清浄とか、不清浄とかいうことを決めつけるわけにもいかんのですね、本当は。不染汚というのは、そういうことであるが、さっき言った絶対の姿というもの、「我既如是 汝亦如是」我既にかくの如し、汝またかくの如し、と書いてある。「如是(にょぜ)」というのは、「かくの如し」と読むんですけどね。そう読めと私がいうんじゃないけど、「如(にょ)の是(ぜ)だ」とこういう。「我既に如の是なり」という読み方でどうかと、私は思っている。「如」というのは、一番元のものを「如」という。南泉(なんせん)和尚は、「如如と作(な)さば早是(すで)に変ぜり」言いようがないから、「如」と言っていても、つかめない元の姿でしょうね。これは無限というようなものですよ。限定のないもの。何ともかんとも言いようのないもの。そういうものに言い表しようがないでしょう。言葉というものは、なんか一つずつもの言えば具体的なものに固定されてくるでしょう。固定されたものは、限定されたものが無限というものをいう表現はできんというわけだ。その無限というものを「如」という。「是」というのは―「是」という字は、この白墨とか、この畳とか、なんとか言うように、「この」ということで、指し示すことのできるものを「是」という。「是」というのは、さっき言ったように、公案現成ということになる。元のものが目に見えておる姿になっておって、そのものの上にだけ本当のものが現れる場所がある。本当は有限のものの上にだけ、無限のものは現実になる場所がある、ということになるわけですね。そういう説明していくと、「如の是なり」という。我も、儂もそうなんだ。お前さんもそうなんだ。みんなそうなんだ。そういう問答が前にあったと思う。そういう第一句ですね、「現成公案没商量」とある。「没商量」というのは、「商量」というのは、「やりとりをする」ことですね。商いをする。「商売」の「商」という字を書いてある。商いはやりとりをするわけでしょう。なかなかやりとり上手にして、負けたり、負けなんだりするわけだ。「商」という、やり取りをする。そういう意味合いからきておるわけですが、そのやり取りも、議論をするということですね。そういうことですから、「没商量」議論なし、ということだ。文句なし、ということだ。ごてごて言うことはいらん、ということだ。現成公案だから、現にここにおる私ども自身の姿が、如の是なんだ。天地の姿を無限定のものをこのような姿に受けて生きておるでしょう、これで。いつもいうように、まさかお互いの顔を注文して生まれてきた人はおらんだろう、という。生まれたら、こういう顔になっておった。生まれてから顔を注文した人は誰もおらん。そういうふうに、如の是なんでしょう。「如是」というのは、かくの如しだ。そこで初めてかくの如しだ。かくの如く生まれて生きているおる姿は、ごてごて言うことはいらん、ということなんですね。「現成公案没商量」というのは、そういうことなんだ。それから「蘗苦氷寒不覆蔵(はっくひょうかんふくぞうせず)」蘗苦(はっく)という字は、草冠がなくても同じ意のようですけれども、「蘗(きはだ)」という植物だそうです。黄色い染料の。その木の皮を取って、黄色い染料、染める材料になる蘗という木だそうですが、これは苦(にが)いんだそうです。格別苦い。草木染めなんかに使うんじゃないかな。そういう蘗というのは非常に苦い。だから蘗が苦いというのは当たり前のことでしょう。砂糖が甘いというのと同じことだ。蘗は苦いんだと。それから「氷寒(ひょうかん)」というのは、氷は冷たいんだ。温い氷なんてあるわけはない。当たり前のことを言うわけですよ。「蘗苦氷寒」そのままの姿であって、何も「不覆蔵せず」というのは、隠し事をしているわけじゃないのだ、というのが第二句ですね。もっと言い慣わされている言葉で言いますと、「花は紅柳は緑」というような言い方があるでしょう。それと同じことだ。どうも仕方がないでしょう。そうなっておる。そうなっておることにごてごて言うても仕方がない。そうなってきたのは、なってきた理由があるだろうと、理由を捜してみても、それだけのことでしょう。温度が下がると水は凍るんだ、と、説明したって何にもならん。冷たい説明にはならん。そういう「蘗苦氷寒不覆蔵(ばっくしょうかんふくぞうせず)」。道元禅師の「本来の面目」という題目の歌があります。みなさんご承知の通りだろうと思うが、
 
春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さえてすずしかりけり
 
という歌がある。大体の人は知っておると思うが、これも歌だからいろんな受け取り方があるでしょうけども、一番お終いの「涼しかりけり」という字は、どういうふうに受け取るか。「爽やか」というふうに受け取ってみたらどうですかね。「冬雪さえて」とあるから、その雪に関係して、「涼しかりけり」と言ったわけではない筈だ。春の花も、夏のほととぎすも、秋の月も、冬の雪も、それぞれの姿でしょう。春は代表的に述べられたもの、春の花。夏のほととぎす、秋の月、それぞれその季節の代表的なものを、風物を出しておられるんですが、その時すべて、春も夏も秋も冬も、それぞれに爽やかなんだぞ、とこういう。それで「本来の面目」と題が出ておる。それが「本来の面目」なんです。その他に「本来の面目」なんかあまりありませんよ。人間はどうも、「本来の自己」とか、「本来の面目」とか、別にあるように思ってね。今おるこの姿は、嘘になるわけじゃ。「真実の自己にお目にかかりましょう」と言うんだけども、そうすると今あるのは、みんなこれ嘘か。そういうんではなくて、春の花、すべてのものがそれぞれに爽やかなんだ。それで本来の面目なんだ。そういう歌がある。普化(ふけ)和尚というのがあってね、前にも言ったと思うが、普化という和尚は、馬祖道一(ばそどういつ)という人の孫弟子になる。盤山宝積(ばんざんほうしゃく)禅師の法嗣であり、馬祖道一禅師の孫弟子にあたる。普化というこの人は、大体臨済義玄(りんざいぎげん)さんと同じ頃に住んでおったという程度はわかっておるんですがね。いつ生まれて、いつ死んだかわからん。死んだ時が面白いんですね。普段は「佯狂(ようきょう)(狂ったまねをすること)として」と書いてあるから、街を歩いておる。鈴を振ってね。人が半分相手にしなかったんだろうと思うけどね。鈴を振って、歌を歌って歩いておると。最期に死ぬ時は、昔中国の城壁があるでしょう。城壁には東西南北に門がある。棺桶を担いで、「今日、南の門で死ぬ」というからみんな付いて行った。付いて行って見たら、「今日は止めた」と言って止めてしまった。その次にまた「今日、西の門で死ぬ」と言うから、みな付いて行った。「今日、止めた」と言って止めてしまった。東西南北があるから三遍すっぽかされたもんだから、みな誰も付いて行かない。そうしたらその次の時に死んでしもうた、という面白い伝記が書いてある。伝記がわからんということは、その人がつまらんということではないわけですね。きちんと伝記が決まって、いつどこで生まれて、どういう人から生まれて、いつ死んだ、ということがちゃんと伝記に書いてある人が立派というわけじゃない。伝記なんていうのは大体いい加減なことが書いてある。悪いこと書いてないわ。良いことばっかり。あまりしっかりした伝記はあてにならんけれども、伝記なんていうのはいい加減なもんだ。今で言うと、どこの牛の骨か馬の骨だかわからんということだろうと思うけれども、ずっと光っておるね、その伝記の中では。そんなことは余分なことで、その人がどう言ったかというと、その歌を歌って歩いておる。それが一番古い書物によりますと、「明頭来也明頭打(めいとうらいやめいとうだ) 暗頭来也暗頭打(あんとうらいやあんとうだ)」賢い頭が来たならば、賢い頭を打ってやれ、愚かな頭が来たならば、愚かな頭を打ってやれ、というふうな歌を歌って歩いておった、ということになっておる。どういうことを言うておったかというと、一言で言えば、「それはそれ」ということなんだ。「それはそれ」なんて意味をなさんかね。「明頭は明頭ということじゃ」と。この後に句があるんですけどもね。要するに煎じ詰めると、「明頭は明頭」それはそれ、ということの意味になっておるに違いないと、これは私の受け取り方だ。『正法眼蔵』の中にも、そういうような意味合いのところによく使ってある。「それはそれ」ということは、それが一つずつ絶対なんですよ。比べるんではないですよ。自分の人生は意義があったとか、なかったとか、ということをよく言うでしょうがね、どうしてそんなことを決める。決める寸法がありますか。よう考えてみなさい。例えば、勤王方について死んだ人もおる。幕府方について死んだ人もおる。どっちが意義があるのか。あれはやっぱり勤王方の方が意義があったのか、幕府方の死んだ人も意義がなかったのか、よう考えてみなさい。そんなことはどういうこともないわけだ。いろんな場合に、いろんな活動をしながら動いている、そのままのことでしょう。その意義があるとか、ないとかということは、人間が勝手に寸法を決めるわけだ。こういう人生は意義があるんじゃ。そういうことを思いませんか。それからはずれた奴は意義がない。酒を飲んで死んだ奴は意義がないのか―意義があるとも思えんけどね―しかしそれ言い切れますか。みんないろんな姿があるでしょう。生まれから死ぬまで万象の人生があるわけだ。どれが意義があって、どれが意義なかった、ということは、決める寸法はない筈だ。最後の絶対の場所に立てば、「それはそれ」ということ。そういうふうになれば、みんな安心でしょうが。そういうのを安心の生涯というんですよ。何かやらんならん、というのは困るだろう。私は時々ね「河頭売水(かとうばいすい)」という字を、色紙に書くことがある。河のほとりで水を売る、というわけだ。河のほとりで水を売るということは、これはムダ事なんですよ。河頭―河のほとり、河のそばへ行って水を売りに行っても、買わんでしょう。この頃は水が売れるそうだね、あちこちの綺麗な水がね。要するに昔の状態でいうと、河のそばで水を売っても売れない。それはムダ事ですよ。本当はムダ事だということが全部わかったら、素晴らしい仕事ができる筈だ。みんななんかやって、なんかやったら手に入れようとするでしょう。そういうことでは本当の仕事にはならんわけだ。取引やっているわけだ。貯金しているわけだ。本当の仕事というのは、驀直(まくじき)にやれることですよ。「それはそれ」ということだ。人間の寸法で評価をせんとこですよ。人間の寸法だけで評価をしておったら、つとまるとか、つとまらん、ということになる。それを超えたところに宗教の風光があるわけだ。何にもならんからやることせずということになるからね。「それはそれ」という意味なんですよ。だからこの第二句は「蘗苦氷寒不覆蔵(はっくひょうかんふくぞうせず)」という書いてある。蘗は苦くて、氷は冷たいんだ。そういうそれはそれなりのことだ。そういう姿が現にそこにあるだろう。それが天地の道理だという。何も隠しているんところではない。「蘗苦氷寒不覆蔵(はっくひょうかんふくぞうせず)」。それから第三句は、「保護即心心即仏(そくしんしんそくぶつをほうごして)」と書いてありますね。これはどういうふうに受け取るものか。さっき言うた普化和尚のおじいさんに当たる馬祖という人が、「即心是仏」ということを、あるいは「即心即仏」ということを言うたということになっておるんですね。これは、「お互いさまの心が、取りも直さずそのまま仏様だ」と、こういう言い方がある。それはわからんことはないんだけどね。馬祖道一がそう言ったというんですが、この「即心即仏」も同じことですがね。そういうような受け取りではないのですね、私もそう思うのは。私がそう思うというのはおかしいけどもね、第一句、第二句が書いてあるところを見ると、二つこう繰り返すものね。「即心心即」とこう並べてみますと、さっき言った話当て嵌めていくと、これは「如是の如」ということです。「公案現成」の「公案」ということだ。元のものですよ。仏教でよく言いますがね、「心外無別法(しんげむべっぽう)」というような言い方がありますがね。この「法」というのは、「もの」ということです。心の他に別のものはないんじゃ、という。そうすると、この心というものを、お互いさまの心と思うでしょう。そんなこと関係ない。本源のものを心という。仏教の常識なんです。一番元のものでしょう。一番元の「公案現成」と言うた時の「公案」と同じものを「心」という言い癖があるわけです。その「心」というのは、さっき言った「如」なんだ。「即」というのは、これはこの「即」も「是」も同じように、ものを指し示すことの「即時」という、「その時」とかいう、代名詞に当たる字です。だから「即心是仏」も、「即心即仏」も同じことだから、この「即」というのは、さっきの「如是」でいうと「是」に当たる。現成しておる存在ですよ。だから「即心心即」ということは、それと二つ並べたものですね。私どものこのいのちが、この形をもって、天地のいのちを生きておる。「即心心即」と繰り返してあるのは、そういう関係を言ったわけですね。「即心心即を保護して」と。だからそういう「即心心即」という、とにかく私ども一人ひとりがそういうことであるから、そのいのちの外に出ることはない。昔の話で言いますと、孫悟空(そんごくう)というのは、?斗雲(きんとうん)に乗って飛び降りたという。どんだけ飛び降りてみても、阿弥陀様の掌の中にあったという話があると同じことです。出られないんですよ。このような如是の形を受けて生きておるいのち、そのままが天地のいのちなんです。だからこぼれようがないんだから、安心しておられれば、それでいいわけだ。どうなるんだと思って、心配したってしようがない。そういう間柄の受け取り方を、「即心心即」と。そういうあり方の受け取り方が、仏の境涯ですよ。そういう言い方。「即心心即」という「仏を保護」護っていけよ、と書いてある。護っていけよ、というようなことが書いてありますと、何かを護るものと、護られるものと、二つあるようだけども、私どもが生きておる姿がそのままなんだ。そういう安心(あんじん)の生活が「即心心即仏を保護して」と書いてある。「眉間日夜放毫光(みけんにちやごうこうをはなつ)」この「毫光」と言いますのは、仏の三十二相という。ここに白い巻き毛があって、そこから光が出たそうですね。釈尊の、仏様の、そういう三十二の勝れた仏様の姿の一つに毫光という。白毫の光ですよ。白い巻き毛があって、そこから光が出る。日本の仏様の眉間のところにこう入っているでしょう。ダイヤモンドが入れてある。光るようになっている。その毫光のことなんだ。「毫光を放つ」というのは、仏様の放光でしょうかね。毫光は眉間にあるから、眉間と書いて、日夜絶え間なく毫光を放つ。そういう神通力をしておるのだ、という。この前の方に、「放光動地度群生」放光動地(ほうこうどうち)群生(ぐんじょう)を度(ど)す、という書いてあるでしょう。「放光動地」というのは、先ほど言うた「放光」というのは、ここの眉間の毛から光が放って出てくる。「動地」というのは、仏の説法の時に、地が六種に振動す。土地が揺れるわけだ。奇瑞を生じられたわけですね。そういうことを「放光動地」という。「放光動地」というのは、そういうふうな、仏様、菩薩さま方の奇瑞を現しておるのだけれども、さて先ほどいったように、洞山和尚に雪峰和尚が、柴を置いて、どうだと言った話が、「運水搬柴(うんすいはんさい)・神通妙用(じんづうみょうゆう)」水を運び柴を搬ぶ、神通妙用、とこういう言葉がありましてね。そういうふうな、朝から晩まで普通に生きておるその姿が神通力そのものだ、という。そう思いませんか。神通力なんていうことをいうからおかしいんだ。普通「神通力」というと、超能力みたいだ、と考えるから。朝から晩まで、何にもおかしくも面白くもないような生活が神通力とは何事だ、と思うかも知らんけども、そういうもんだ。それが一番貴い。一番貴いのですよ。「戒法(かいほう)」というのがありましてね。普通これは「戒(いまし)め」と読むでしょう。「戒律」とか、「戒」という。得度なんか受ける時には、その戒法を授けて貰うわけです。その中に「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」十箇条の戒めが説いてある。殺生をしてはならんとか、泥棒してはならんとか、嘘をついてはならん、そういうことがずっと書いてある。それを十箇条並べてあってね、みんな守れというたら困るんだろうな。ちょっと守れませんぞ。しかし普通考えておる道徳律とは全然違うんですよ。例えば、「不妄語戒(ふもうごかい)」というのは、嘘を言うてはならんぞ、ということ。嘘を言うてはならん、というようなことは、わざわざお寺さんに来て聞かんでもわかるでしょうが。子ども時分から喧しく言われておる。わざわざ寺へ来て、そんなこと聞くというのは、どういうことかというと、その説明に、大変面白いことが書いてあるんですよ。「不妄語戒」という戒法の説明、『教授戒文(きょうじゅかいもん)』というのがありますが、そこに書いてあることは、「法輪本転(ほうりんもとよりてんじて)無余無欠(あまることなしかくることなし)」と書いてある。「法輪本転(ほうりんもとよりてんじて)」ということは、天地の本(もと)のいのちが、この現に生じておる。現に見えておる世界に現成しておるわけです。展開をしているわけだ。「法の輪」と書いてある。そういう本の本源のいのちが展開をしてこうなっておる。「余ることなく、欠くることなし」過不足なくできておるでしょう、お互いさまは。過不足なくできておる、ということがわかれば一番安心なんだ。そう思いませんか。こうやってちゃんと育っているでしょう。ほんとによくできたもんだと。みんなこれ具合よくできておるでしょう。ちゃんと男と女に生まれてさ。誤魔化すわけにいかんでしょう。いい加減になれば、背が止まって、いい加減にきたら死ぬようにできておるんだから。死ぬのはかなわん、と言ったって、みな死ななければならんから。ちゃんと死ねるから安心でしょう、みんなそれ。いつでしたか、若い和尚が問答してきて、「人間は何故死なんならんか」という。「儂もわからん。みんな生きておったら困るじゃろ」というておいたけど。「何故死なんならんか」と言われたって、困るでしょう。みな死ぬようになっておるんだから。ちゃんと心配せんでもみな死ねる。そういう過不足なくできておる天地の摂理というものは絶妙なもんでしょう。人間のわがままなんかちっとも許されない。任しておけばそれでいいものをね。しかし長生きもしたいし、それはまあそういうもんだろうと思うけど。そういうような「過不足なくできておるということがわかることが、嘘がつけん」ということだ。口で嘘をつくとか、つかんとかということでなくて、天地の姿というものは、嘘をつけんようにできておる。歳とったら、みな歳とった顔になるでしょう。皺ができてくる、みんな。嫌と思っても仕方がない。難儀して皺伸ばしておったって、たかがしれているものだ。そうなっておるんだから、嘘がつけん。その通りでしょう。そういうことが、「不妄語戒」ということだぞ、ということ。「余ることなく、欠けることなし」ということが、どういうことかというと、戒法の第一番目は、「不殺生戒」という。殺生してはならんぞ、という。殺生してはならんぞ、というんですけどもね。ものの命を取りませぬ、というのだけどね。本当にそんなことは守れません。生きている人間は生きておる限りは守れるわけがない。魚や肉を食っちゃいかん、と言うんだけどね。野菜食べたらそれ死んでいるかというわけにいかない。厳密に言われたら困るでしょう。天地のいのち、そんなもののいのちを取るな、というようなことをいうのではなくて、仏のおいのちを殺してはならんぞ、と。仏のおいのち、そこについている。仏のいのちとはなんぞや、と言うたら、お互いに生きていること、さっき言った仏のおいのちというものは、みんなそういう具体的な姿の上に現じているわけだ。無限のものというのは、仏のことです。分かり易く言えば、そういうこと。天地のおいのちが仏様のこと。それがここにお互い様の上に現れておって、過不足なくできておる。嘘もつけんということも、そういうことであるし、そのことがわかれば、それで仏のおいのちは殺さないことになる。ものを殺したり、殺さないというようなこととは違うわけだ。そういうわけですから、この戒法というものは、過不足なく、例えば「不妄語戒」のことをいうと、余ることなく、欠けることなくできておることに気付けば、それでいいことでしょう。ちゃんと生きておる姿それ自体が、過不足なくわかれば余計な惑いがないわけです。よく言われるように、「鴨の足短きも、継がば憂う」なんてよくいうでしょう。ここにも鴨たくさんおりますけどね。歩くのはあまり上手じゃない。もう少しスマートに歩けるように、ちょっと足を継いでやったらどうだろう。そうしたら鴨困るだろうね。想像してください。そういうことだ。ちゃんとそこに余ることなく、欠けることなく、如是の姿、是の如くできておる。没商量なんだ。ごてごていうこと要らん。一番根元の姿ですよ。一番元の人間の大安心の場所は、そういうとこに落ち着く場所です。後のことは上っ面の波だ。そういうように理解すればよくわかる。この「即心即仏」の頌ばかりではなくて、先ほど言いましたように、漢詩の形を借りて宗教の風光を述べたものだ、と言ったんですが、だからその宗教の風光、宗教の世界というのは、道徳や法律の世界と違うわけです。人間の相談事の世界ではないんですね。人間が約束をして、ちゃんと生きていかなければなりませんから、約束事は大切ですよ。大切だけれども、宗教の世界は、人間の約束の世界ではない、ということです。「天地の風光」と言いますかね、人間の寸法でないところを言いたいわけです。だから道徳も法律もみな人間の約束事です。いつも変わっていくでしょう。そういうところから離れて、宗教の風光というものがわかると言いますかね、そういうことがないとよくわからんです。そういうようなことを、一つの信仰ですから。仏の世界の中にちゃんとおるんだよ、ということ。そういう会得があるわけですけどね。そうすれば安心だ。一生涯お互いに心配事やら、悩み事やら、そんなものはなくなりませんから。なくならんものをなくそうと思ったって、そんなことはムダ事じゃ。大体宗派毎の主張というようなものに、一応はその中に入って受け取るわけですけども、みな同じことなんですよ。違うわけがない。ところが宗派ができると、俺のところが一番良いんじゃ、ということになるから困るんですよ。宗派事の争いのようなことになって、まことに具合が悪い。関係のない人はどうでもいいようなことをやっているわけだ。宗教の争いというのは、まことに惨めなものですよ。二、三年前にインドで宗教暴動が起こった。宗教騒動が起こって、イスラム教の人とヒンズー教の人と相争うたわけでしょう。イスラム教の人は、名前がこう決まっておるんだそうですね。その人をヒンズー教に転宗しておった。「お前はなんという名前だ」と聞かれたら、名前を言うたら、それはイスラム教だからとすぐに殴り殺された、と書いてある。くだらんことだと思いませんか、そんなことは。そんなくだらん事なら、宗教がない方がよっぽどいいんですよ。そうでなくて、宗教は一つのもんだ。天地の道理ですよ。「法」というのは―「法」という字は、水が流れていくという字なんですね。「法」―さんずい偏に「去る」と、こう書いてあるわけでしょう―水が流れて行くということです。水が流れて行くということは、人間の約束事とは違うんです。人間が約束して、水が低いところへ流れて行くことにしたというわけではないでしょう。ちゃんと昔からそうなっておる。人間がどう考えようがそんなこと関係ないことでしょう。そういう世界の道理が宗教の風光なんだ。人間のソロバン勘定は要らんことになる。人間が、ものができるとか、できんとか、頭がいいとか、悪いとかというようなことで、大いに苦労しておるわけだけども、あれは苦労なことだろうな。要するに仕方がないな、と思いながらやっているでしょう。そういうやっておること自体が、あまり誉めたことではないんだけど、安んじてやれるようになっている。泣いたり、笑ったり、腹を立てたり、そういうことのないのが仏様の世界だと思っている人がおりはせんかな。こちら岸からあちらの岸へ行こうと。こちらの岸は悲しいことや、いろんなことがあっても困る。だからそういうことの何にもない世界へ引っ越しましょうや、というんだけれども、そんなところへ行ったら退屈で困るだろ。みなそう思うだろう。そういうこと自体を安心してやっていけるようになったらいいでしょうが。人が死ぬのはやっぱり悲しいんだ。人は死ぬものだ、と言ったって、そんなわけにいかんでしょう。そういうふうな人間の姿を安んじて生きていけるようになったらいい。安んじてですよ。安心して―難しいことを言いますと、「現成公案」という巻きに、「悟上(ごじょう)に得悟(とくご)する漢(かん)あり、迷中又迷(めいちゅううめい)の漢あり」ということが書いてある。そうすると悟りの上に悟りを得ていく奴はおる。迷いの中にまた迷うていく奴はおる。そうすると、悟りの上に悟りを得ていく奴は良い方に思うでしょう。迷いの中に迷うていく奴は悪い方に思うでしょう。そんなもの同じことだと書いてある。世の中の景色じゃ、そんなものは。迷わなかったら―迷いと悟りとどこで分けるのかも知らんけれども、そんなもの迷わなかったら、みんな悟りきったら困るだろうな。昔は、「親は子ゆえに迷う」というようなことを言いますがね、親の迷いがなければ、子は育ちませんぞ、簡単にいうと。そういうものは、悟上得悟の漢も迷中の得迷の漢も世の中の綾模様である。悟りが良くて、迷いが悪いということにはならん。何をもって迷いとするのか。朝から晩まで自分のやったことを考えてご覧なさい。これが迷いで、これが悟りと分けられますか。みんな迷いばっかりなら、迷いの悟りもあらへんがね。みんな心配すること要りませんぞ。ちょっと余ることなく、欠けることなく、調うておる。そうしてみると迷いもまた楽しみかな。そういうふうになったら楽なもんでしょう。そういうふうに綺麗にきちっと片づくわけがないんだから、人間死ぬまでいろいろ苦しんだり、悲しんだり、悩みを持ち続けていくより仕方がないものだと、諦めがつけば、それが一つの悟りだ。安心してそうなされ。いつも同じことばっかり言うておって、具合が悪いけど、そんなことです。今日はこれで卒業しましょう。ご苦労さん。
 
     これは、昭和六十三年八月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである