諸法実相
 
                  大雄山最乗寺山主 余 語(よご)  翆 巌(すいがん)
大正元年(一九一二年)、愛知県生まれ。五歳の時に、住職の父を亡くし、母と共に寺を出る。小学校四年の時に、母の病気療養のため再び寺の小僧に戻る。駒澤大学仏教学部卒業。大本山総持寺後堂を経て、南足柄市大雄山最乗寺住職・曹洞宗師家会会長。著書に「生を明らめ死を明らむるは―修証義講話」「放てば手にみてり―「正法眼蔵」弁道話講話」「これ仏性なり―「正法眼蔵」仏性講話」ほか。一九九六年逝去。
                  き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  神奈川県南足柄市(みなみあしがらし)大雄山(だいゆうざん)。ゆるやかな坂を上って、最乗寺(さいじょうじ)へ向かう参道は眩(まぶ)しいばかりの緑に包まれています。参道に沿って著莪(しゃが)の花が白い花を咲かせ、私たちの目を楽しませてくれます。
 
春は花夏ほととぎす秋は月
  冬雪さえて涼しかりけり
「本来の面目」と題する有名なこの歌を創られた道元禅師の禅の流れを継ぐ了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師によって、西暦一三九四年に創建されたこの寺では、六百年の歳月を超えて、今も真剣な坐禅の修行が続けられています。現在住職を務める余語翆巌老師は、大正元年のお生まれで、今年八十歳。曹洞宗(そうとうしゅう)の禅の指導者で構成される師家会(しけかい)の会長もお務めで大変多忙な毎日を送っておられます。
 

 
金光:  今日は、神奈川県南足柄市にあります大雄山最乗寺にお邪魔しております。最乗寺の山主(さんしゅ)余語翆巌老師に、「諸法実相(しょほうじっそう)」ということについていろいろお話をして頂きたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。よく「諸法実相」という言葉は、仏教の説明で聞くわけでございますが、これはどういう意味なんでございましょうか。
 
余語:  字の意味を、ちょっと申しておきますと、
金光:  書いて頂いたものがありますので、ちょっとこれを拝見さして頂きます。
 
余語:  「諸法」というのは、もろもろのものですね。「もの」というか、ここに現成(げんじょう)しておる全部の姿がすべて諸法、それがそのままに実相であると。昔は「現象即実在」というふうな、あれは明治大正の頃ですかね、「現象即実在、実在即現象」というような言い方で申しておったと同じことなんですがね。
 
金光:  すべての存在しているもの。私たち人間も含めて、あるいは花も木も建物も全部含めて、それが真実の姿であると。
 
余語:  ところが普通はですね、本当の永遠のものとか、無限者というようなものは、この移ろいゆくとは別にあるような考えをもっておる方の人が多いんじゃないかと。
 
金光:  どっか違いところに無限の方がいると。
 
余語:  そういうふうにして、今即今現成している自分を含めてそういうものが、どうも本当のものでなくて、影じゃないか、というふうな考え方が多いんでしょうな。
 
金光:  殊に「空(くう)」という言葉を聞いたり、あるいは「非」とか、「無」とかという言葉が仏教に随分でてきますと、何となく現実のものは、
 
余語:  違うんですね。昔から―昔というより禅録によく出てくる言葉の中に、
百草頭上無辺春(ひゃくそうとうじょうむへんのはる)
 
「頭」は、ほとりですね。百の草のほとりに無辺の春が現じておる、という。
 
信手拈来用得親(てにまかせねんじきたってもちいいてひたしし)
 
これが両方で対になるんですがね。百草―草花、いろいろな花のほとりに限りなき春が現じておるんだと。黄色い花も、赤い花も、紫の花も、それぞれの姿において、無限の春の顔と言いますかね、無限の春を、そういう形で現じておるのだと。だから黄色いのが良くて紫が悪いというふうな道理もないと。だから「手に信(まか)せ」というのは、手当たり次第にもってきてね、どれもこれも親しいものであると。そこに好悪(こうお)の念もないのが当たり前だけれども、人間のそういうものが入ってくると、良いとか悪いとか言っていますけどもね。春というのは、絵に描くわけにいかんですね。
 
金光:  掴まえるわけにもいかんわけですね。
 
余語:  表現のしようがないものでしょう。だから花という上に現じておるわけですね。そういう赤い花は赤い花という春の顔である。花の上に赤い花という形をして、春が現じておるというわけですね。だから、
春在梅花入画図(はるはばいかにありてがとにいる)
 
春を描こうと思えば、梅の花と書けば、大体春だということになるわけでしょう。初めて絵になったという。春が描くことができたわけですね。梅の花を描けば、そういうふうに現実にそこにあるものの上に捉えきれない無限のものが現れておるわけですね。
 
金光:  先ほど一番最初の「諸法実相」というのも、こういう形で出ておると。
 
余語:  それから梅花とか、花というものは、現実の有限のものなんですよ。限定ができない、掴まえられない無限者というふうなものが、有限者の上にのみ出てくることがある。難しいことを言うと、そういうことなんでしょうな。今ここにあるこの五尺の身体、そういうものを非常に軽んずる傾向がありやせんかと思うんですがね。六祖慧能(えのう)が、門人の行昌に示した「無常者仏性也(むじょうはぶっしょうなり)」という言葉があります。仏性というのは、常住不変のものというふうに思われている無常変転常なきもの、それが仏性だという。世の常のすがたは移り変わり移り変わりして、その移ろいゆくすがたを、世間のことはよろずたわごとですべて儚きものというふうに受け取って世間虚仮(こけ)、唯仏是真というようにも言われる。されどよく思えば、有限の移ろいゆく無常が無限のものの一歩一歩ということができる。無限者、永遠のものが、有限を離れてどこかに別に存在するように思うのは大いなる錯覚である。無常というものは移ろいゆくものですよ、儚いもの、それが仏性なんだ、という。仏性というものは永遠なものなんですね。その読み方も「無常も仏性なり」と読むがいいか、「無常は仏性なり」と読むのがいいのか。そういう迷いはありますが、とにかく移ろいゆくものの上に、本源のものが現じているという考え方ですね。諸法は実相なり、という。諸法と実相とは同じもの。諸法というものは、現成の姿であって、移ろいゆき常無きものだ、というふうに思いがちなんですが、その上にこそ真実が、現実になる場所があるという、そういう考え方でしょうな。
 
金光:  そうすると、そういう世界を、例えばよく知られている「般若心経」なんかも、そういう世界のことを述べているわけでございますか。
 
余語:  それはいろいろの受け取り方があって、私は、「般若心経」の中の「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんに)」という文章がありますが、和訳のお経をみますと、「眼耳鼻舌身意無し」とある。
 
金光:  眼や耳や鼻や舌や身や意もないと。
 
余語:  「眼耳鼻舌身意無し」と読む、書いてありますがね。中国の有名な禅宗の禅匠に洞山良价(とうかいりょうかい)さまがおられますがね。この人は、小さい時分に、お経にそう書いてあるものだから、自分でこう顔を撫(な)でてみてね、「ちゃんと鼻も眼も付いておると。無いとはどういうことだ」と言って、師匠に聞くところがあります。それは素朴な質問ですがね。何故無いというのか。その言い方は、昔はこの五尺の身体というものは、因縁が仮に和合してできておるものだと。だから因縁がなくなれば、みな消え去ってしまう常無きものであるから、そういうものに執着をするな、という説明をしてきたんですね。それはもっともでしょうけどもね。そう読まずに、「無の眼耳鼻舌身意あり」と、そういうふうに読んでみたらどうかと、私は思うんですがね。眼耳鼻舌身意は無の現成せるものであるというのである。それは間違っているのか、間違うておらんのか、ようわからんけどね。そうしますと、「無」という字は、どういうことかというと、「天地の本源」と言いますかね、そういうものを意味するのではないかと。単純に字引で確かめてみますと、「無」という字は、もとは無いという字。それから草木の茂れる形というふうな意味もある。漢字って面倒なものですね。それからその中の一つに、「限定し難き万物の根源」という。東洋的な考えですね。よく『老子』なんかに出てくる。そういうものだと考えてみれば、その「天地の根源」のものが、このように展開して一切のものを現成せしめておるんだ、というふうなのが、よくわかるんじゃないかと思う。わかるからいいというわけじゃないが。「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」という、よくみなさんご承知の言葉もありますが、よくわからんのじゃないかな。
 
金光:  「無一物」というのは、何も無いということですね。
 
余語:  無い。その中に花あり、月あり、楼台あり、と出てくるでしょう。それを「無一物中」ということは、「無の一物」と、そういうふうに読んでみたらわかりそうな気がする。すべてが無の一物としてね。一切のものが、無というすべての根源たるものの現れた一つひとつのものであって、そういうものがこのような世界に現成しておるんだから、花あり月あり楼台あり、という言った方が分かり易いような気もするんですがね。あれは雪峰義存(せっぽうぎそん)和尚の弟子の玄沙師備(げんしゃしび)という人ですがね、その人が雪峰山で修行しておって、遍参―雲水修行に天下を回るというふうなことで出掛けようと思ってですね、雪峰山の山門に至って、足を石に「築著(ちくじゃく)し」とありますが、生爪を剥がしたんですね。「痛い!」と言うわけですね。それで考えたんだろうと思うんですがね、昔から「是身非有痛従何来」この身あるにあらず、痛(つう)いずれよりきたる、という文句。普通の誰が見てもよくわかる言葉ですがね。こういう表現ですね。この身体はあるのではないと。痛みいずれよりかきたる、というんですが、普通は昔からの教えに従うと、この五尺の身体は、因縁仮和合のものであって、実体のある存在ではないと古来より教えられてきている。強いて言えば、似有―有るに似た何かがある―とでもいうべきか、そのような存在であるという。それはそのように受領しても、この痛みは尋常でない、痛いのは実に痛いんだ。痛烈に痛いんだからね。どっかからきたるんかという疑問を呈して、雪峰山へまた旅に出ずに帰ってきてしまう。そういう話がある。ところがそういうのは普通の受け取り方には違いないですね。本当はこれは自分の一切の身体はあるものとは違うから執着するな、ということはわからんことはないけども、痛みとはどっかからきたんだ、というふうな疑問の生まれてくるように、このままではどうも落ち着かない解釈になる。よう考えますと、この「非」という字は、「是の身は非の有(う)なり、痛み何(が)より来る」と読んでみたらどうかと。「痛何(が)より来たる」と、疑問でなくて、「何(が)」というのは不特定の言葉でしょう。「何(なに)」という字はね。それも「非」とよく似た意味になって、
 
金光:  「非」と「何」と共通のものであると。
 
余語:  痛みも何(が)より来たんだと。この身体は非の有であり、痛みは何(が)より来たんだ、という疑問でなくて、肯定ですね。受け取り方。だからそういうふうな読み方でね、大変に違った絶対者のとらえ方だと思うんです。だからごてごていうなというわけです。さっきの「諸法実相」と同じことです。実相が諸法に顔をしてそこに出ておるんだから。人間の面(つら)でもみんなが注文したものでないから、その通りに天の授かりに違いないものだ。そういう受け取り方になっていくんでしょうな。読み方で大変に変わるというのは、金光さんもご承知のように、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」というのがありますね。「一切衆生悉有仏性」とあって、これは「悉く仏性有り」と読む時は、仏性を持っておるという意味、所有しているという。昔の書物を見ましても、仏性ということは一体何じゃというわけですが、仏になれる性質、そういうのが生まれつきあるのか、それとも途中でそういうものが身にくっついてくるのかというふうな議論がありますがね。仏性というものは一体何だという決め方が難しいですね。仏になれる性質ということは、仏という仏の姿というものが非常に素晴らしく万徳円満のお姿をしておられるのが仏様様だと。そういうふうになれるような本質を持っておるというふうに、大体そう考えておるんじゃないかな。だから仏性という尊いものがあるから、普段は妄想煩悩に覆われておる。修行して、そういうものを取り去って仏様になるように修行するんだと。
 
金光:  磨かないとダメだというふうに、
 
余語:  そういう考え方ですがね。そうすると、そういう仏性があるというと、そういうことになる。ところが道元さまは、「悉有(しつう)は仏性なり」と読むんですね。悉く有るというのは「悉有(しつう)」と読む。悉くの存在、それが仏性だという。そういう読み下しをなさると、さっきの「この身は非の有なり」と同じように、全部が仏性なんですね。「悉有の一悉を衆生という」と、人間なんていうのはその一有(いちう)―一部分に違いない。そういう意味が明歴歴(めいれきれき)とわかってくる。全部の存在が仏性だと。ちょっと難しいんですがね。犬に仏性が有るか無いか、というのが、公案に一つあります。狗子(くし)(犬)に仏性が有るかと問われて趙州(じょうしゅう)和尚は、「有る」と答える。問僧は、仏性は尊く優れたものとの考えをもっているために、「仏性というすばらしいものが、どうして犬のようなつまらないものの中に入っているのですか」と訊く。趙州は、「仏性がよく承知しておって殊更に犬の中に入っておるんだ」という、そういう答え方ですね。一般的に言えば、好きこのんで入っておるんだ、と、そういうんですがね。全部が仏性なんですよ。犬と他のものとも、ものが全部仏性がそうなっておるんだと。仏性というものを、綺麗な素晴らしい存在だと考える人は、そういうことがわからん。一切の清浄の法界、現成の世界は―世界中そういう考え方は共通のように思いますがね―この世界は清浄の世界から生まれてきたものだ、とそういうふうに考えるんですね。そうしたら神様がお造りになったこの世界というものも、清浄たるべきものであるのに、何故そうなっておらんかという、弁解をする。天地清浄、法界清浄のものに、人間が手垢を付けておるような状態が、今の人間の寸法か、人間の判断で考える世界があって、これは解決が付かなくなるんですね。犬にも仏性があるよ、という時に、そういう問答があって、それからもう一人の僧には、「それは無いよ」という。犬には仏性は入って無いんだ、という。
 
金光:  同じ趙州和尚が?
                   
余語:  同じ趙州が。後で困るんですね、みんな。「何故無いんですか」と言ったら、その答えは、趙州和尚は、「業障(ごっしょう)があるから仏性はないんだ」と。業障というものがいっぱいあって、仏性は入る余地がないんだ、というような意味の答えを、「業障あるがためなり」というんですがね。それは、「業障も仏性だ」というんです。そういうふうな断定はちょっとできませんがね。一切法界清浄の世界だということがわかると、一切が清浄なんですね。清浄という言葉を使うから、不清浄というのですね。どれもこれも、煎じ詰めてみますと、「揀擇(けんじゃく)することなかれ」と、三祖僧?(そうさん)の『信心銘(しんじんめい)』にありますがね。有名な「唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」ですね。こういう『信心銘』の「唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)」唯(ただ)揀擇(けんじゃく)を嫌う―「よりごのみをするな」ということである。「比べあうな」ということである。この句が全部を覆い尽くしているような気がしますね。全部そうなってくるように、とにかく全部が仏性の姿だと。それを相手によりごのみするな、ということになると、人間の価値判断が妄想になるんですな。善悪を分けること、美醜(びしゅう)を分けること、全部妄想と言っていいくらい、そういう妄想だということがわかれば、宗教の風光がよくわかってくるんじゃないかと思うんですが。
 
金光:  人間のソロバンがまったく通用しない世界と言いますか。
 
余語:  これもよく言いますがね、葬式の時は、「死は汚れだ」というて、お仏壇の前にこう紙張ってやるでしょう。生まれることは人間のソロバンでは大変嬉しいことに見える。死ぬことはよくないことだ。そう分けることが人間の寸法ですね。それは当然の感情ですけども、よく考えてみると、死ぬことも、生きることも天地の姿でしょう。「花は散る散る常住実相」と言いますね、「花は咲く咲く常住実相」どれもこれも天地の姿だ。死ぬことだけが汚れだというのは、こんなものはくだらん。
 
金光:  そうすると、無常は仏性というのも、今のお話まったく同じことですね。
 
余語:  みんな同じことに通じますがね。だから本当はそういうふうな死だけを汚れとする考え方、そうだからというて、今から死んだ時おこわ焚くわけにもいきませんけどね。そういう価値判断は妄想だということがわかると非常に楽になると思うんですがね。
 
金光:  人間が苦しむのは、大体自分が苦しむので、その苦しんでいる自分のいろんな、これは嫌だとか、これさえなければ、とすぐ思うんですけれども、そういうのを離れられるわけですね。
 
余語:  それは実際の痛みは離れるわけにいかんでしょうけどね。見る立場にあるんじゃないかな。大体死ぬことも、立派に死にたい、というふうに考えるんですがね。
 
金光:  よく言いますね。「見事な往生」という言葉をよく使いますけど。
 
余語:  「立派に死ぬ」ということは一体どういうことだろうと思いますけどね。それは泰然自若として死んだら、「立派な死に方だ」と言いますけどね。それは二十年ぐらい前に、もっと前かな、永平寺の熊沢泰禅(くまざわたいぜん)(永平寺七十三世:1873-1968)という禅師が亡くなられた。九十六歳で悠然と亡くなられた。その二年ほど前に、鈴木大拙(すずきだいせつ)(世界的・仏教哲学者:1870-1966)氏が亡くなった。この人は腸捻転だったそうです、死因がね。これは泰然自若というわけにいきませんね。だからその当時の朝日新聞の「天声人語」が取り上げて、それぞれの死に方を述べて、最後に「それぞれの死に方だ」と評した。立派な表現ですよね。普通に言えば、泰然自若と死んだ方が立派そうに見えると。そういう病気の苦しみに苦しみながら死んだ人はやや立派でないと、こういうふうになるでしょう。そんなこと関係ないでしょう。適当に死ぬというのはおかしいが、自然の姿のままに死んだ。それも価値判断ですよ。立派に死ぬとか、立派に死なんとかいう、そういうふうな価値判断で、人間は取ったり捨てたりすることになるわけね。そんなものはどっちがいいかわけがわからんでしょう。とにかく価値判断は妄想ですな。ある人が、これは一般的でないかも知れんが、沢木興道(さわきこうどう)という人と、丘球学(おかきゅうがく)(曹洞宗の僧。永平寺初代副貫首。伊豆修善寺三八世住職:1877〜1953)―修善寺のご住職ですがね―「どちらが偉いんですか?」と私に聞くからね。私はどうもわからんから、「お前、どっちが偉いと思うんだ」と訊いたら、「沢木興道という人はどっちかというと、行儀が悪い人だった。ところが丘球学さんは、それこそ暑い時にも暑いような格好もせんとすっとすましている。これはいいと。やっぱり丘さんが偉いですかな」と、その人が言うわけです。「それはあんたの好みの問題だ、そんなものは。そんなくだらんことを比較するもんじゃないわ」と言ったんですが、比べるということですね、全部ね。こちらが立派で、こっちが立派でないとかね、こっちが偉くて、こっちが偉くないとか、そういう比べる世界に入っては、本当の世界はわからん、というんです。諸法実相なんですからね。四方に現成しておる実相の姿を、是非しても仕方がないものだ。結局人間の世界のいろんな姿は、綾模様と言いますかね、そういう天地根源の姿と言えば根源。それが現成していろいろな綾模様を作っておるんだと。
 
金光:  日常生活のままが天地根源のいのちが現れている。
 
余語:  綾模様の姿が、どれが是で、どれが非という、是非の問題にわたると、それは道徳の問題であるね。そういう世界であって、救いの世界には関係なくなってくる。
 
金光:  そうすると、昔―今もそうでしょうけども、禅堂なんかですと、作務(さむ)があるわけですが、そういう作務、仕事をする。例えば水を運んだり、あるいは今は柴はないでしょうけども、昔だと柴を運ぶような仕事も天地根源のいのちの働きであると。
 
余語:  そういうことになるんですね。人間の寸法、人間のソロバンでは計り切れんところがあるでしょう。
 
金光:  現在だとできるだけ楽をして、重い物は運ばないで、というふうに考えがちですが。
 
余語:  文化というものは、どうして怠けるんだろうみたいですがね。
 
金光:  有名な柴についての問答なんかもあるようですが。
 
余語:  洞山良价さんのところへ雪峰義存という、十五ぐらい歳が違った間柄ですが―雪峰和尚が年下ですが―それで洞山良价の元へ修行にあったんですね。両方とも有名な中国の禅匠ですが、その禅門の生活ですから、いろんな作務をやりますね。その時に雪峰和尚は柴を担うて来たんですね。それで洞山和尚の前にそれを置いたんですね。そうしたら洞山和尚が、「それはどれくらい重いんか?」と聞いたわけですね。雪峰和尚が、「これは尽十方世界と言ったから―世界中の人が来ても持てません」という。そうしたら洞山和尚が、「そんな重たいものをよう一人で持って来たもんじゃ」と問いとも何ともつかんような言い方をしたら、「雪峰無対」とあるから、答えがなかった。答えのしようのない問いですね。どういうことを象徴したかと言いますと、柴を担え、水を運ぶというのは、「運水搬柴(うんすいはんさい)」と、昔は日常生活ですね。そういうことが日常の主たる仕事だったんでしょう。簡単にいうと、日常の生活ということでしょうね。日常生活はどれくらいの重さがあるのかと。そういう問い掛けになったんだろうと思うんですがね。日常生活をしているお互いのいのちというものは、計る秤がないんですね。「人間の一個の生命は、地球より重い」というような言い方があったですが、これも一つの比較の世界ですね。外してしまうと、無限の自由な活動体としてそこに存在しておる、そういう認識でしょうね。
 
金光:  「この身は非の有なり」というのと同じように、この「柴も非の有なり」ということ、
 
余語:  日常生活を営んでおる人間のいのちの価値もそういうものですね。計る秤がないんですね。
 
金光:  諸法実相ということも、これは計る秤はないわけですね。
 
余語:  ありません。そのままなんですからね。「そんな重い物をよく持って来られたもんじゃ」というのは、お互い一個の存在がどこからどうなっておるかよくわかりませんでしょう。誰も答えようがない。そのこと自体昔の言い方ですと、「運水搬柴(うんすいはんさい)、是神通(これじんずう)」というわけです。これ普通に生きている、特別なことをすることは要らんことなんですね。どの人のいのちも、この人のいのちも、そのようにして神通の姿のままで生きておるんですからね。計る秤がないんだから。自分のやったことが立派だとか、立派でないとかね、偶然にそういうことになって、この世の中でできた人は、それは結構な、そういうふうに力があってできる。できん人はできん人で結構なんですね。どの人の人生も、この人の人生も、そのままで足りておるんですね。お釈迦様のお悟りの時に、どういうふうだったかというと、伝記をみますと、暁に明星をご覧になってお悟りになったと。そしておっしゃったことには、「我與大地有情 同時成道」我と大地有情と同時に成道す、という言い方をされたことになっておるんですね。
 
金光:  自分と大地と―有情と言いますと、情けある、要するに生きているもの。
 
余語:  そうですね。生きているものですね。「我と大地有情と同時に成道す」こういうふうにおっしゃったというわけですね。これはどういうふうに受け取ることになるかと言いますと、お釈迦様がおっしゃったというものだから、普通はお釈迦様が、私と大地有情と、というような意味でおっしゃったんだろうと、普通はそう思うんですがね、この「我」というのは、これは総持寺(そうじじ)の開山の瑩山(けいざん)禅師という人が、「この我は釈迦無牟仏にあらず。釈迦無牟仏もこの我より出生し来たる」というように、昔の人は自由に読むんですね。「釈迦無牟仏のみにあらず、大地有情も我より出生し来たる」そういう意味で、天地の根源の意味ですね。それで「同時に成道す」ということは、「同時」というのは、「いつでも」ということでしょうね。「いつでも、過去、現在、未来、いつでも、「成道す」というのは、「過不足なく存在をしておる」んですね。そういうふうな、なんか「成道す」というと、なんか立派になるような気がするんだが。
 
金光:  そうですね。なんか綺麗な型にはまって、ちゃんとできたとか、そういう感じですね。
 
余語:  ちゃんとそれが成道す、という意味なんですね。「ケラというものに生まれて泳ぎおり」という俳句が朝日俳壇に載っておりましたがね。ケラという虫は三センチくらいの泳ぎの下手な、土中にすむ虫である。何らかの拍子に水中に落ちて泳いでいるのを見た作者は、はじめは面白がって見ていたのであろうが、思えばこの生き物は、ケラという形を天地の間に亨(う)けて泳いでいるのだという深い感懐をだんだんもって眺めたのであるかも知れない。しかしこの虫は天地の間にケラという姿を受けて生きておるんですからね。それはそのままで過不足なしだ。人間もあんまり変わったことありはしませんぜ、これ。ケラとそういう姿を受けて生きておるんです。それで過不足なしと、
 
金光:  いつでも過不足ない世界に生きておると。
 
余語:  生きておる。「戒律」と言いますかね、戒律があって、「この頃の坊さんは戒律を守らん」と言いますがね。大乗仏界の方から言いますと、そのことがわかれば、それが仏の―「仏戒」というんですから、仏の戒法ですから、凡夫の戒法でなくて、仏の戒法―仏戒というのは、同時平等の姿で満ちておると。いろんなことがありまして、善いのか悪いのか、善悪なんていうのは、定めがたいものでしょうがね。
 
金光:  その辺のところを言う言葉として、よく聞きますが、「唯仏与仏」唯仏が仏に与えるとか、あるいは「仏法は人の理解する、得するにあらず」とか、いうのはその辺の消息をなんとか伝えようという言葉として出ているわけでございましょうか。人間がなんか理解しようと思うと、つい価値判断が入ってしまう。そうじゃないんだよ、ということをおっしゃっているかと思うんですが。
 
余語:  「人の得するにあらず」これは酷い言葉ですね。人間ではわからん、という。人間の寸法ではわからん、という。
 
金光:  「寸法」という言葉を入れられると、よくわかるような気がしますね。
 
余語:  そういうふうなことでしょうね。「過不足なし」ということがわかると、楽になりますね。
 
金光:  いつでもその時、「同時」というのは、いつでもその時その時が、
 
余語:  いつでもそうなっておる。道元禅師の「教授戒文(きょうじゅかいもん)」というお諭しの中に「諸法実相」ということを説明するんですよ。例えば第四「不妄語戒」という戒法がありますね。嘘をつくな、なんていうことは、お寺に来て聞かんでもわかると思うんだが。
 
金光:  「嘘をついちゃいけません」というのは、小さい頃から習いますが。
 
余語:  どういうことを言うかというと、「教授戒文」の御文から言いますと、
 
法輪(ほうりん)もとより転じて
(あま)ることなく
(か)くることなし
 
こう出てきますね。これは天地の根源の姿を轍(わだち)に譬えてあるんです。法輪というのは端的にいえば仏性のことであり、天地本源のいのちをいう。その法輪が自ら展開して森羅万象ができていることを思えば、一木一草それぞれが仏性の天地法界のいのちであり、それぞれのすがたにおいて、「剰ることなく欠くることなし」過不足なし、ということですね。それが「不妄語」だというんだから、どうもよくわかりかねますけどね。そういうものですね。
 
甘露(かんろ)一潤(いちじゅん)して真を得、
実を得るなり
 
全部がそいういう世界の現成だからね。いつもかも、どれをとってもこれをとっても真実だと。全部諸法実相で尽くしていますね、考えてみますと。人間の価値判断の入る余地ありませんわ。
 
金光:  そうすると、あの人はよくできて、こちらはダメだとかと、いろんな人間の違いがあるわけですけれども、それはそれとして、それも全部よくできている世界の中の出来事である。
 
余語:  それは、みな人間の社会の人間の寸法でしょうね。今の戒法のことをもっとちょっと言いますと、「不殺生」殺生してはいけませんと。もののいのちを取りませぬ、というんだけどね。それなら生きておれませんよね。
 
金光:  肉を食べたり、魚を食べたり、
 
余語:  野菜、精進料理の方が栄養的にもいろいろ問題があるようですけどもね。いつか法要に行きましてね、法要の後の挨拶の時に、私が不殺生戒みたいなことを言い出したんですがね、そこ全部漁師さんなんですよ。
 
金光:  漁師さんに不殺生の話を?
 
余語:  そうしたら、そこの寺の和尚が、そんなことを言うてもらっては困ると。それで要するに、「仏の慧命(えみょう)を殺すな」ということの不殺生戒の話をした。そうしたら、よかったと言うていましたがね。「仏の慧命をつぐ」ということは一体どういうことになるか。さっきの成仏ですね。成仏ということも、
 
山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)
 
という、昔からの伝え言葉がありますがね。山や川や草や木や、みんなが成仏すると。草が成仏するとはどういうことか。人間が死んだら成仏という。これもよくわかったようなわからんことですがね。ましてや草や木が成仏するということは、どういうことなんだろうと思いますとね、草が草であることですね。木が木であること、それが過不足なき成仏の世界。さっきの「同時成道」と同じことです。それが「不殺生戒」の心ですね。「自分が自分である」ということは、さっきの洞山さんと雪峰さんの話じゃないけど、絶対の存在ですからね。比べる世界の存在じゃないんだから、それがわかれば、それが「不殺生戒を保った」ということになるな。
 
金光:  人間の目で見た世界だけではなくて、いわばその絶対の目で見ると言いますか、
 
余語:  そうです。そういうことになるでしょうね。
 
金光:  そうすると、同じ現実の日常の出来事なんかも、非常に視野が広くなりますね。
 
余語:  揀擇の世界から言うと、具合が悪いですね。それが抜けてしまうと実はみんながもっと楽に生きていけるんじゃないかな。
 
金光:  楽になると同時に、天地根源のいのちと直結していると、非常に活動的にもなるわけですね。何もしないでジッとしていることにはならない。
 
余語:  ならない。みんな綾模様ですからね。これをしてはならん。あれをしてはならんというような世界からもっと広いところへ出て来れるんじゃないかな。
 
金光:  一方では、誤解すると、何をしてもいい、というふうに思って、自分の我欲の通りというのもまた違うんですね。
 
余語:  それは今の戒法の説明を書いた書物に『禅戒鈔(ぜんかいしょう)』というのがありますが、その序文の終いの所に、「この話は、本当にもののわかった人だけにすべきものである」と。「いい加減の者に喋ると、名刀を子どもに渡すようなもので、足を切ったり手を切ったりして、大怪我をするから、そういう輩(やから)には喋ってはならん」と書いてある。そういう問題が出てくる。
 
金光:  仏教の場合はありますね。例えば凡夫の説明も、俺は凡夫だからこういうことをする、というような受け取りの仕方もありますから。
 
余語:  非常にわずかなところの差が、説明にちょっと。もっとも真宗でも『歎異抄(たんにしょう)』なんかなかなか目に触れるようにしなかったことがあるんですね。
 
金光:  明治になって清沢満之(きよさわまんし)(明治期に活躍した真宗大谷派僧侶、哲学者・宗教家:1863-1903)という方が紹介されて、
 
余語:  よう似たとこがあるんですね。「天地一杯の中に生きておる」言葉がよくわかるがね。実際にそういう行動を、どのようにとるかということは、やっぱり実践、簡単に言えば修行が要るというか、そういうものでしょうかね。
 
金光:  やっぱり泳ぎにしても、理屈で水の中でこうやれば泳げるというのと、実際に泳ぎと違いがあるわけですね。
 
余語:  あるわけで、非常に広い世界へ入る道理もあると思いますけどね。
 
金光:  そこのところでやっぱり坐禅をなさることになるわけでしょうか。
 
余語:  いろんな宗派の修行もそういうものでしょうね。そういうものがわかってきて、普通にならば、そういうものをおそれ確かめてなにするというような、そういう信条を考えてみなければならない。道理はそうなんだけどね。道理はそうなんだからすべてのものを許せるという世界が、そこに現成してくるんでしょうけども、雲門(うんもん)という和尚は非常に短い答話をするので有名でしたけどね。「不起一念還有過也無」不起一念(ふきいちねん)還(かえ)って過(とが)有りや也(ま)た無しや、という質問に、「須弥山(しゅみせん)」と答えているんですね。
 
金光:  「須弥山」というのは、非常に高い山ですね。
 
余語:  何言うているのかよくわからん。それで宏智(わんし)和尚の頌(じゅ)によると、「肯(うけが)ひ来れば両手に相(あい)分付(ぶんぷ)せん」と言うんですね。「須弥山」というのは、要するにこの世の中のことですよ。この世の中のことを全部許せるようになってくると、非常に両手に持ちかねるほどの幸せがくるんではないかという、そういう意味に取るんじゃないかと思うんですけどもね。全部が肯定できるようになると非常に広い世界が。小言ばっかり言うておっても、非難ばっかり、あれは論理の世界ですね。道徳の世界の出来事でしょうね。それを別々に論理の宗教があるわけじゃない。だからすべてを許せる世界。それが大乗仏教の精神だと思うんですが、これが「揀擇することなかれ」という、あれと同じになってきますからね。
 
金光:  それが「諸法実相」という世界であると。
 
余語:  「諸法は実相」なんだからね。ごてごて言うこと要らんのだがね。すべてが綾模様の世界だと思って見ておると、面白いと思っているんだけど。
 
金光:  お話を伺っていますと、「諸法実相」の言葉の受け取り方が、いろんな例によって大体こういうことではなかろうか、という方向がわかったような気がするんですが、今日はどうもいいお話を有り難うございました。
 
     これは、平成四年六月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである