達磨
 
                  天竜寺僧堂師家  平 田(ひらた)  精 耕(せいこう)
一九二四年、京都市出身。天龍寺塔頭で生まれる。一九三三年(昭和八年)に得度。京都大学文学部哲学科卒業。天龍寺僧堂にて修業ののち旧西ドイツのハイデルベルク大に留学。花園大教授、(財)禅文化研究所所長を務める。一九九一年、天龍寺派管長に就任。天龍僧堂師家として次世代の人材育成に尽力。一九八八年、共産圏で初めて旧東ドイツで「ZEN」について講演。禅とカトリックの交流(東西霊性交流)を進めるなど、禅の普及に努める国際派僧侶としても知られる。著書に「禅からの発想」「活人禅」「禅語事典」「一切は空」ほか。平成二十年遷化。
                  二松学舎大学教授 寺 山(てらやま)  葛 常(かつじょう)
一九三七年、埼玉県生まれ。書家。号は旦中(たんちゅう)。大森曹玄に禅と直心影流剣術を、横山天啓に筆禅道を、そして山田研斎に観照道を学んだ。世界各地を行脚し、剣道・禅・書を挙揚した。二松学舎大学教授。上智大学や花園大学でも教鞭をとる。著作に「鉄舟と書道」「書道観賞」「一休墨跡」ほか。平成十九年(2007)歿。
                  き き て    松 村  賢 一
 
松村:  禅宗の初祖菩提達磨(ぼだいだるま)大師。今から千五百年前に、南インドから中国に渡り、禅の教えを伝えた人です。このインドの禅が、中国文化の中で独特の発展をし、さらに日本に伝えられました。日本に伝えられた禅は、中国禅の土台の上に独自の発展を遂げ、今日に至っております。今日は、この達磨図を通して、日本における禅の発展などを辿ると共に、禅とは何かを考えてみたいと思います。お話を伺いますのは、私のお隣が天竜寺僧堂師家(しけ)の平田精耕さん、そのお隣が二松学舎(にしょうがくしゃ)大学教授寺山葛常さんです。よろしくお願い致します。
平田さん、私どもよく知っている「だるまさん」ですね、この「だるまさん」が、この達磨大師をモデルにしたものなんだそうですね。
 
平田:  そうですね。日本では達磨さんと言えば、知らない人は誰もないですね。幸せを招く招福達磨として高崎にダルマの人形がありますね。あるいはこれからまた選挙があるでしょうけども、選挙の時も必ず選挙事務所に政治家の方が達磨の人形を置かれて、当選すると達磨の眼に瞳を入れて万歳やられるんですね。小さい時から日本人というのは、起き上がり小法師(こぼし)という達磨の人形を持って遊ぶ。ところが達磨はみんな知っているんですが、その達磨が我々禅の開祖であるということをまたご存じの人があまりいないんですね。大体本当にこの達磨が歴史上実在したのか、しないのか、従来非常に問題になるところなんですが、殊に松本文三郎(まつもとぶんざぶろう)(明治-昭和時代前期のインド哲学者、仏教学者:1869-1944) 先生とか、鈴木大拙(禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者:1870-1966)博士とかが、いろいろ達磨の研究をなさっていて、よくわかりません。よくわかりませんが、今日はそういう話はそれ専門の学者先生方にお任せしましてね、今日は我々の禅の禅僧の間にずっと伝わってきた達磨、いわゆる公案(こうあん)というんですが、公案の中に作り上げられた達磨のお話を少ししてみたいと思うんですね。大体この公案に現在伝えられてきている達磨のイメージというのは、ずっと達磨がやってきたと伝えられる時から、まあ四百年ぐらい後、九百年代に『祖堂集(そどうしゅう)』とか、『景コ傳燈?(けいとくでんとうろく)』とかという高僧伝がありまして、その頃に現在伝わってきている達磨の話が大体確定すると言うんですか、固まるんですね。もともとはずっと前に『洛陽伽藍記(らくようがらんき)』というのがあって、これによると、菩提達磨という胡僧(こそう)―胡(えびす)のお坊さんが洛陽へやってきた、という記事があるんですね。これは波斯(ペルシア)人だというふうになっていて、現在伝わっている達磨のイメージとまったく違うんです。現在伝わっているイメージというのは、今言いました、唐の一番最後から北宋の時代にかけてできあがった達磨なんですね。それによりますと、もともと達磨さんはインドの人であったという。香至国(こうしこく)第三王子と―香至という国の名前か王様の名前か、これはっきりしないんですが、その国の三番目の子どもとして生まれたというんですね。小さい時から非常に宗教的な閃きのあった人で、宝物を見ても一向顧みなかった。こんなものは世俗の宝で、永遠の宝ではない。これを聞いて、般若多羅尊者(はんにゃたらそんじゃ)という大変インドでは、ずっとお釈迦様以来の正統の仏法を嗣いだお方が、後に出家させるんですね。そして般若多羅尊者という方が非常に予言のよくできた方で、「お前は私の仏法を嗣いだ後は、インドにいてはならない。中国へ行け。中国できっと我々の仏教を伝える一人の人がいるから、しかし慌てて行ってはいけない。私が死んでから行け」と、こういう予言をするんですね。それからお師匠の般若多羅尊者というのが亡くなってから、南の海を渡って中国へ行った、というんです。『洛陽伽藍記』では、シルクロードを通って洛陽に入った、とこうなっているんで、そこのところは違うんですが、我々が伝えられてきている達磨というのは、南の海を渡って、広東省(かんとんしょう)に入るわけですね。それから北上して梁(りょう)の国に入る。その梁というのに、梁の武帝(ぶてい)という方が天子でおられる。この人は非常に仏教信仰の篤い方で、後でゆっくりお話致しますが、仏心の天子―仏の心の天子と呼ばれたくらい仏教の帰依者であったというんですね。この方と―後でお話を致しますが―問答するんですが、縁が適わなかって、そこで蘆(あし)の葉っぱに乗って、揚子江(ようすこう)を渡って魏(ぎ)の国に入る。金陵(きんりょう)―今の南京(なんきん)ですね―というところで問答をするんですが、、それから揚子江を渡って対岸の魏の国に入って、嵩山(すうざん)少林寺(しょうりんじ)というところで九年間面壁(めんぺき)―面壁というのは、壁に向かう、という意味ですが、壁観(へきかん)という坐禅の仕方があるんですね。九年間押し黙って壁に向かって壁観の坐禅をやっていた、というんですね。これも七年という説もあり、いろいろあるんですが、まず九年というふうに伝えられている。その九年間の間に、神光(しんこう)という中国人が訪れて来て、これが先ほどちょっと軸物に出ましたが、第二番目の祖師になる二祖(にそ)慧可(えか)という方になるんですが、この神光という弟子を一人得られるわけですね。しかもその九年間の間に坐禅ばかりしていて、今までの仏教の坊さんのように、教典を翻訳したりなんかしない。何もそういう学問的なことをやらないわけですね。ひたすら坐禅をしていたという。非常に反感を買って、当時の学僧たちに六度も毒殺をされかけたんですね。またエピソードが多いんですが、これは宋(そう)の初めの頃に、いろいろな物語が付け加えられて、一つのエピソードになるんですね。尾鰭(おひれ)が付くわけですね。ただ尾鰭の付く中には、まことに意味のない尾鰭もあるんですが、十分意味をもった尾鰭もあるわけで、その点をよく汲んでいかなくちゃいかんのですがね。六回毒殺に遭った、という話もよくわからない。最後に六回目の毒殺でとうとうこの世を去るんです。百五十歳の寿齢(じゅれい)だったというんですね。そのお陰で、度々毒殺に遭ったり、ジッと坐禅をしていたというお陰で、鬚がぼうぼう生えて、頭もツルツルに禿げてしまう。歯が抜け落ちて、ボロボロの衣を着ていた、という。これが達磨のイメージということになるわけですね。鬚(ひげ)と歯が抜けて、禿頭で、ボロボロの衣を着て、ジッと坐禅をしていたという、こういうふうに言われるわけですね。で、亡くなったので、熊耳山(ゆうじさん)―熊の耳のような形をした山が、熊耳山(ゆうじさん)少林寺(中国の河南省鄭州市登封にある)というところに達磨を葬ったというんです。ところが葬ってから後で、またエピソードが付くんですが、これも後でゆっくり絵が出てきますから、その時にお話を致しましょう。要するところは、大体最初仏教は、ご承知のようにインドから入るわけですね。ほぼこれもはっきりはしませんが、紀元三世紀、四世紀頃から、インド語で書かれた仏教の経典が、ラクダの背中に乗って、シルクロードを越えて中国大陸に入ってくるわけですね。シルクロードの沿道の人たちは、インド語もわかる、中国語もわかる、そういう人たちが中心になって、このインド語で書かれた経典の翻訳を始めるわけですね。そしてこの言葉はこういう意味をもっている、この文章はこういうことを言っているという、今でいう辞書みたいなものも作り出すわけですね。いわばその当時の中国の坊さんというのは、大変語学の達者な学者のような方であったわけですね。ところが実際に宗教というものは、学問じゃありませんからね。そういう反省が中国人の坊さんの間で起こるわけですね。我々中国仏教の歴史では、「学問仏教の時代」とこう言っているんですが、それのアンチテーゼ(antithese)として、学問じゃない、やっぱり実践なんだと、こういう考え方が起こってくるのが、四世紀末から、五世紀なんですね。だから達磨がインドから中国へ来たという年代も、いろいろな『伝燈録』や『祖堂集』だとか、いろんな歴史の書物に書かれてあるんですが、全部年代が違う。一番早いとこでは、四八七年というふうな説もありますし、遅いところは五二七年―四十年も差がある。いずれにしても、紀元後五百年前後に、そういう実践の仏教を主張した一人の誰かがいたということですね。当時の考え方がシンボライズされてできたのが、この菩提達磨なんですね。キリスト教にも、この間話を聞いたら同じような話があって、エルサレムの砂漠の山の中に岩窟があって、そこにやっぱり鬚もじゃのどこからともなく一人の聖者がやって来て、その洞窟の中で瞑想したり、仏教で言えば念仏みたいなものを称えていた、というんです。これが後のキリスト教の修道院の元になるらしいんですがね。これもやっぱり五百年前後の事柄なんですね。世界通じてその後に宗教として発展していく教団の、もっとも基礎の頃の時代であった、というふうに考えてよいんじゃないかと思いますね。
 
松村:  そうしますと、お話を伺っていますと、この達磨大師というのは、特に後に残るような書物を書いたわけでもない。ただひたすら坐っていたと。インドから中国へ行って、ただひたすら坐っていた人なんだな、と、私今思ったんですけども、そこにこそ仏教本来の意味がある、というのを見出した人なんですね。
 
平田:  そうなんですね。大体そういう人がいたか、あるいは当時の仏教の僧侶たちの考えを纏めて、達磨という一つの理想像を作り上げたか、そこのところは学者先生にお任せしましょう。私にわかりませんですね。
 
松村:  非常にあの絵の通りの方がやっぱりいたと信じたいですね。
 
平田:  そうですね。
 
松村:  寺山さん、どうもお待たせ致しました。最初にもご覧頂いたんですが、非常に古来、達磨図という達磨大師を描いた絵が多いんですけども、禅僧はみんなこれ描いたんですか。
 
寺山:  今老師がおっしゃったように、達磨さんが非常に個性的な人ですから、その達磨さんの風貌なりを借りて、自分で得た心境を―これはとらえどころもない、見ることもできないものですけれども、それを仮に達磨の絵というものを借りて象徴的に出す、ということで、禅僧は盛んに描きますね。これは一つは、達磨さんが中国禅の初祖だということと、「ダルマ」というこの音が、「法」を意味すると。非常に上手い題材だからでしょうね。
 
松村:  それでは実際に達磨図をいくつか見ながら、またお話を進めていきたいと思うんですが、これは日本でも古い方なんですか?
 
寺山:  これははっきり描いた人はわからないんですけども、上に賛がありまして、これは鎌倉時代の蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)(鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖:1213-1278)という人の賛なものですから、鎌倉に中国の絵を学んだ日本の人が描いたんだろうと。と申しますのは、この達磨の衣の線にしろ、岩の線にしろ、南宋画のような厳しさがないんですね。非常な柔らかみがありますし、後に出てまいりますけれども、そういうものと違って、達磨そのもの、祖師像を写実的に描こうとしたんじゃなかろうか、と言われるわけですね。
 
松村:  いわば肖像画のようなものですね。
 
寺山:  そういうことですね。
 
松村:  やはりよく見ると中国の方とは顔が違いますよね、インド人のような。
 
寺山:  そうですね。鬚が濃くて、インド人ですね。達磨さんは、碧眼(へきがん)の胡僧(こそう)だ、と。青い眼をしておった、と言われていますが、非常に特徴があって、絵には描きいいわけでしょうね。こちらは「一山一寧(いっさんいちねい)」の賛のある、先ほどのよりもちょっと後だろうと思われる、やはり祖師像と言っていい達磨さんですね。
 
松村:  やっぱり非常に穏和な感じですね。
 
寺山:  そうですね。それで日本人だろう、と言われているわけです。これは一休さんの弟子の墨渓(ぼっけい)が絵を描き、上に一休さんが賛をしています。
 
松村:  そうですか。
 
寺山:  非常にこの衣の線にしろ、先ほどと違って厳しさが出ていますが、
 
松村:  そうですね。大分違ってきましたね。
 
寺山:  禅の厳しさを現していると。「禅機だ」と。禅の機―働きですね。よくそう言われますが、これは一休さんが七十一歳の時の賛であります。「寛正(かんしょう)六年」とありますので、一休さんの書も非常に禅機横溢(おういつ)と言いますか、きびきびした非常に冴えた書ですね。この絵と書とぴったりと合っています。非常なやはり厳しさを象徴的に現したものでしょうね。
 
松村:  そうすると、一口に「達磨図」と言いますけども、だんだん時代と共に変わってきているんですね。
 
寺山:  そうですね。最初は達磨さんの風貌、人をこう描こうとしておったのが、作者の心と言いますか、心境と言いますか、そういうふうになっているようですね。これなどはもっともわかりいいと思いますが、達磨さんはインド人で鬚が濃くて、しかも衣の線が非常に柔らかいんですね。これはじっくりとあまり肩肘張らずに描かないと、こういかない。腹の力と言いますか、それで達磨さんの安らぎのようなものが出ておると思うんですね。それに対して、この壁面だとか、あるいはこちらの左の隅に神光、後の二祖が描かれていますけども、これなどは衣の線にしても、ゴツゴツしていますね。ですからまだ悟られないそういう苦悩の姿を、この線なり、あるいは顔の表情とかに、よく出ておると思いますね。そしてしかも真ん中の達磨さんは、ほとんど白で、これは全体に薄い色が施されているんですけども、達磨さんだけは発心(ほっしん)というつもりなんでしょう。人によっては岩壁を、後光(ごこう)だ、と。達磨さんから光が出ているような感じで、雪舟は描いたんじゃないか、と、そういわれる人もおるぐらいですね。
 
松村:  平田さん、この絵がですね、先ほどお話に出てきた、唯一の弟子が神光であったと。慧可(えか)と後に言ったんですか、そうすると、達磨大師は、神光にもっぱら教えを説いて伝えたんですか。
 
平田:  そうですね。今、図を見ますと、左の肘を切って差し出している図なんですね。だから「断臂(だんぴ)」というふうなことをいうわけですね。
 
松村:  これ左の手が切れていますね、そう言えば。
 
平田:  そこのところを描かれているわけですね。第二番目の祖師になった、後に慧可と称するんですが、神光という人は大変勉強好きの人で、四書五経(ししょごきょう)を読み尽くしたけれども、自分の意に適う真実が発見できなかった、というんです。そこで「碧眼のバラモン」という渾名を取っている達磨のところへ入門を乞いに嵩山(すうざん)の少林寺に行くわけですね。ところが、「時十二月九日、雪大いに降る」と、『伝燈録』や『祖堂集』には出てくるんですがね。雪が降って庭に立ちつくすんだけれども入門を許さない。ジッと黙って達磨は壁に向かって坐ったままだったんですね。それで思いあまって神光が、自らの持っていた刀で自分の肘を切るんです。そしてここまで覚悟してきておるから一つ入門さして頂きたい。それが今、絵に描かれているわけですね。そうすると、やっと達磨が重い口を開けて、「何しに来た」というわけですよ。「我が心未(いま)だ寧(やす)んぜず、為に安(やす)んぜよ」。一種のノイローゼに罹っていたんでしょうね。心が不安で仕方がありません。何とか私の不安を救って頂きたい、こういうわけですね。そうすると、達磨が、「汝が心を持ち来たれ」その不安不安という心を俺の目の前に持って来い。そうすれば安心(あんじん)さしてやろう、とこう言うわけです。そうすると、これは有名な言葉なんですが、神光が、「心を求むるに終(つい)に不可得(ふかとく)なり」いや、心はここに物を出すように出すわけにいきません。心は捉えるわけにいきません。それで、「汝が為に心を安(やす)んじ竟(おわ)んぬ」もうそれでお前、心を安んじたではないか、とこういうふうに言ったという話が、これはまあ今の『伝燈録』とか、『祖堂集』とかにそういう話が既に出てきているわけですね。これが「二祖断臂(にそだんぴ)の図」という、今あった図なんです。
 
松村:  「心を差し出してみよ」と言ったら、「そんなものは差し出せるようなものじゃない」と。そうしたら、それこそが、達磨大師はなんと言ったんですか?
 
平田:  「汝、安心し終わる」―それでお前、もう心を安んじているではないか。「汝が為に心を安(やす)んじ竟(おわ)んぬ」とこう言ったわけですね。心というものは、そうでしょう、普通仏教というのは、昔から神様や仏様の心はあまり問題にしない。人間の凡夫の心が問題になるんですね。昔から仏教では、人間の心―我々の凡夫の心ですね―「生涯を通じて八万四千の心をいろんなことを思って死ぬ」とこう言うんですよ。これを「煩悩」とか、「妄想」とかと言っているわけですね。まことに心というものは掴まえどころのないですね。「昨日鳴いたカラスが今日笑った」という奴で、あんなに悲しんでいたのが、もうニコニコ笑っているという。まあそれでいいんですけどね。心というものは、実に変転極まりのないもので、とらえどころがない。そういう心の出てくるもっとも本のところというのは、これは憎いとか、惜しいとか、欲しいとか、可愛いとかという、すべての相(すがた)を絶したものですね。そういう何にもない、そういう 無相の心―姿形を持たない心、とこういうふうに禅宗ではいうんです。そういう無相の心から縁に応じて憎いという心が出たり、悲しいという心が出たり、カッと怒って相手を刺してみたり、というような一念一念が起こってくるわけですね。人間というものは、心の中で何かのことを一つ思う。思うことによって、例えば憎いと思う。憎いと思うからそれじゃ相手を殺してやろう、こういう行為が起こってくる。そうすると、殺人罪という事件が起こってくる。すべて人間の生活というものは、まず心にものを思って、それから行為に走ってくるわけですね。しかしながら、人間の心というのは面白いもので、一度憎んだら一生涯憎みっぱなしとか、一度悲しんだら一生涯悲しっぱなしということはないわけで、時が経てば忘れる。そして同じ心がまた今度は嬉しいという心に変わるんですね。まことに心というものは不可得のものですね。そういうことの本質というものをきちっと自覚されればノイローゼなんていうものは、どこかへすっ飛ぶわけなんですね。だから「汝安心し終わる」こういうふうに達磨が、二祖に言われたというんです。他にも三人か四人の弟子があった、というふうに伝えられるんですが、最後は達磨さんは、自分の仏法をそっくり、この神光に伝え、なお慧可と改めて、そしてこの方が二番目の祖師になられるわけですね。だから「二祖」とこう称するわけですね。
 
松村:  「心がとらえどころのないものだ」というところまでわかるんですけどね。それを言った途端に、「それでいいんだ」というのは、ちょっとよくわからないんですよね。それでいいんですか?
 
平田:  それでいいんですね。
 
松村:  「とらえどころがない」ということがわかればいいんですか。
 
平田:  「とらえどころがないものである」ということと同時に、「そのとらえどころのない心のもっとも本の心というのは、どんなものだろう」と、そういうことがはっきり自覚できなくちゃいかんわけですね。その一言によって、慧可は相当悩んでいたわけなんで、そういうことがはっきり掴まえられることができた、と、こういうことでしょうね。
 
松村:  そうすると、寺山さん、達磨図が随分描かれていますけれども、あれはやっぱりそういう見えないものを描くわけですね。絵というのは、見えないものを見えるようにするわけですけれども、その辺りを禅僧は苦心して描いているわけでしょうかね。
 
寺山:  そうですね。今の雪舟の絵でも、達磨さんはただ非情じゃないんですね。さっきの眼に、こう神光は左の腕を差し出しておりますと、微かに動く、動揺をちゃんと雪舟は描いておりますね。ですからやっぱり皮下に温かい血が流れているわけですね。それを道を求めるというのは安易ではできないぞ、ということで、面壁九年とやっているわけですけれども、実はそういう人を求めておった、と。これはもっとも雪舟という人の禅をここで吐露(とろ)したということでしょうけどね。
 
松村:  そうすると、その絵を見れば、その人が禅なり、心というものをどういうふうに捉えているかがわかる、ということですね。
 
寺山:  そういうことですね。
 
松村:  ますます達磨図を見ていきたくなりますね。これからご覧頂くのは、寺山さん、これは?
 
寺山:  これは慈雲(じうん)尊者の「無功徳(むくどく)」とありますが、先ほどから見てまいりましたようなものよりも、もっと簡略化されて、しかもこれはよく見ますと、線が光をもっております。墨の一粒一粒が生かされている、と言いますかね、私はこれを初めて目の前にした時に、掛けますと部屋の空気が変わってしまうくらい、静寂でもって―これはどういうことでしょうか、慈雲尊者という人は、尊者と言われるように席は真言にありながら、禅や神道を深く行(ぎょう)した人ですね。ですからそういう内容がそこから光を発する、と言いますかね。
松村:  そうですか。ただなんか下に描いてあるのは岩だか、坐って達磨さんなのかよくわかりませんね。
寺山:  そうですね。そういうふうな簡略化して、そしてよく見ると非常に幽邃(ゆうすい)と言いますか、深い味わいがありますね。まったくどちらを向いて坐っているかわからないような達磨さんですね。
これも「不識(ふしき)」とあります、慈雲尊者のきっと晩年の画賛でしょうね。非常に字も簡略化されていますが、無限の広がりと大きさと深さというものを感じますね。まさに達磨というか、法というか、それを象徴的に現したものでしょうね。
 
松村:  達磨図もここに極まれり、という感じですね。
 
寺山:  ほんとですね。
 
松村:  しかしこれ部屋に掛けると部屋の雰囲気がガラッと変わってしまうような感じですか?
 
寺山:  ほんとですね。まさに慈雲尊者に接したらそうなんでしょうね。
 
松村:  そういうお話を伺いますと、修行すると言いますか、大変なものなんだなと思うんですけれども、何しろ私ども凡夫ですので、平田さん、あそこに書いてある、例えば「無功徳」「不識」という言葉自体わからないんですけども、そこでどんなことが書いてあるんですか。
 
平田:  これはさっき達磨の経歴のところで、少しお話をしましたが、南の海を渡って、まず広東省に上陸するというんですね。それから今の梁の国に入る時に、金陵(きんりょう)(南京市)というのが都であったわけですね。そこに武帝という天子がおられた。さっき言ったように、「仏心の天子」―自らも袈裟を着けて『放光般若経(ほうこうはんにゃきょう)』という経典を講義したというくらいに、仏教の帰依の篤かった人なんです。その方が、達磨という大変風変わりな坊さんがインドから来ている、一度一つ呼んで問答しよう。問答をやるんですね。その中に出てくる言葉なんですが、先ず達磨に対して、「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧を度すこと、勝て紀す可からず。何の功徳有りや」朕、即位してよりこのかた、お寺も建てた。何万巻という写経もした。たくさんのお坊さんに供養もした。どれほど功徳があるんだろうか。どれだけ御利益があるんだろうか、と、こういう質問するわけですね。そうすると、達磨が言下(ごんか)に「無功徳」功徳なし。御利益なし、とこう答えるわけです。帝曰く「何を以て功徳無しや」と達磨に訊くわけです。師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」こういう言葉が後に付くんですが、そういうことをやったって、それは畢竟死んだら天国へ逝くことを願ってやっていることか、むしろそんなものは煩悩の源になる。迷いの本だ、こう言って、木で鼻をくくったようにして、吹っ切ってしまうわけですね。大変面白いですね。世俗の宝を求めているという、そのことのためにいくら写経しても、いくら寺を建てても、それは意味がないと。そういうものを超えたところに本当の功徳、大功徳があるんだ、ということを、達磨は梁の武帝に教えるわけなんですよね。その言葉が「無功徳」なんです。
その次に「不識(ふしき)」というのが出てきていましたね。これもその後で梁の武帝と達磨とが問答をするわけなんですが、「如何なるか是れ聖諦(しょうたい)第一義」大変難しい言葉ですが、仏教でいうもっとも神聖な第一の真実義、第一の真理と言われるものは何か。こういう質問をするんですね。そうすると、達磨が「廓然無聖(かくねんむしょう)」という言葉を吐くんです。これは公案として引用されるわけで、『碧巌録(へきがんろく)』という有名な公案集の第一番目の話として出てくるんですがね。「聖諦第一義」神聖な第一の真理、仏教における真理とはなんだ。「廓然」というのは、カランとしているという意味なんですね。「無聖」というのは、神聖などというものは何にもない、こう言って答えるわけですね。そうすると、今度は、それじゃ、何にもないというんなら、「朕(ちん)に対する者は誰ぞ」俺の前にいるお前さんは一体何という存在だ。何だ、とこう訊ねるわけです。そうすると、達磨が、「不識」知らんと、こう答えるわけですね。「知らん」というのは、別に知らないということではないんで、よくある関西弁で「よういわんわ」という言葉がありますね。ああいう語感ですね。何言ってるんだ、馬鹿な質問をして、俺の言っていることがわからないのか。よく我々日常でもあるでしょう。自分で勝手に悟ってしまっていて、こっちのいうことがちっとも腹に入らんと男というのがいるもんでしょう。梁の武帝も自分なりに、仏教の勉強は仏教学者についてしたわけですけれども、達磨の言った意味がわからなかった。だから、よういわんわです。「不識」知らんわい。「帝契(かな)わず」と、その後に出てくるんですがね。結局だから、噛み合わない。噛み合わない者といくら話をしたって、これは解決しない。もうサッサと揚子江を渡って、対岸の魏の国、嵩山少林寺に入って行った、と、こういうふうに伝えられているわけですね。いずれも我々の公案になっております。
 
松村:  しかしそういう武帝の質問というのは、我々にしてみるとよくわかるんですよね。聞いてみたくなるんですよね、そういうことを。
 
平田:  そうですね。だから少し武帝さんは、いろいろ仏教学者から難しい仏教の講義を聞いたりして、自分ではもう仏教は何でも知っているように思っていたわけですね。ところが「一切空」とこう言ったら、何も無いというふうな勘違いをしてしまって譲らない。こういう人といくら話したって通じはしないから、もういいや。また誰かに説得して貰え、というところでしょうね。
 
松村:  それが、「無功徳」とか「不識」という、ああいうふうに言葉となって、後の禅僧が書くというのは、そこに何か真理があるというふうに考えるわけですか。
 
平田:  そういうことですね。これは後から付けたエピソードかなんか知りませんが、やっぱり「無功徳」、それから「不識」、こういうものの中に限りない禅の真実が込められているわけです。「廓然無聖」ガランとして聖の聖とすべきものは何にもない。大体宗教学となんていうのでいくと、学問は真実を、芸術は美を、道徳は善を、宗教は真善美に対して聖なるものを追おうのが宗教の世界だ。これは西洋の宗教学の定義ですね。そういう定義からいくと、禅は宗教でなくなってしまう。聖の聖たるものも何にもない、というところが、もっとも聖なる世界なんです。仏の仏としてなくなったところが、本当の仏の世界なんですね。そういうことが「廓然無聖」の世界。それから「不識」の世界ですね。自分は悟りを開いたとか、仏様を見たとかというのは、まだ本当の仏様じゃない。こういう悟りを開いたなんていうのは、まだ本当の悟りじゃないんです。悟りというものは、得たら捨て、得たら捨てていく。無限に求めていくものなんですね。そういうのが「廓然無聖」とか、あるいは「不識」という言葉で現れる。あるいは写経何万巻したって、何か世俗のことのためにやっておるということであれば、それは何の功徳も御利益も降りてこないという。そういうことが「無功徳」という言葉で現れているわけですね。
 
松村:  しかしその武帝の質問に、最後には「識らず」と、「よういわんわ」と言ったというんですけども、それですめば師匠なんて楽なものだと思うんですね。知らんと、そんなことは言えない、と。
 
平田:  それで尚かつ後を追いかけて来なくちゃいけないんですね。天子の位を捨てて、ほんとに知りたければ達磨の弟子にならなくちゃいけないんです。それはやらなかった。それから去る者は追わない、来たる者は誰と言えども拒まない、これが禅の原則なんです。
 
松村:  それは結論じゃなくて、入り口だったわけですね。
 
平田:  そうですね。後に創った話でしょうけども、そこにやっぱり限りない禅の姿というものが現れている。これは大変意味のある尾鰭、例えば尾鰭としても、意味ある一つの尾鰭だというふうに、私は思いますね。
 
松村:  寺山さん、もう少しまた達磨図の方を見ていきたいと思うんですけれども、いろいろ肖像画のような達磨さんからだんだん禅そのものを象徴としての達磨図というふうに変わってきているという、実際の図を見てまいりましたけども、これは?
寺山:  これは白隠さんの晩年の達磨図ですね。非常に明るいです。しかも伸びがありまして、深みもある。白隠さんがそういうふうにだんだん捉えていったということでしょうね。
松村:  顔の表情が厳しい達磨と違いますね。
 
寺山:  そうですね。
 
松村:  上に書いてあるのは?
 
寺山:  「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」とありますが、これは後で老師さんにお話頂けるでしょう。この書も達磨の顔の線と同じく、どこを切っても血が出るような非常に生きた線ですね。しかも極めて簡略化されております。晩年には白隠さんが、そうなっていかれたということでしょう。非常な貫禄ですね。
 
松村:  やっぱりこういう達磨図―絵ですね―絵はそこまで悟らないと描けないものですか? 平田さん。
 
平田:  そうですね。絵描きさんの描いた達磨さんというのは、上手だけど、あまり面白くない。ということは、やっぱり自らの心がこの達磨の図柄に現れますからね。やっぱり禅は組んだ人でないと、達磨の絵は描いてもあまり値打ちがないというふうに、私は思いますね。
 
松村:  それで今の白隠さんの図なんですがね、「直指人心見性成仏」この文句はどういうことですか。
 
平田:  大変難しい文句ですね。達磨の絵の賛には、ほとんどと言っていいほど、この「直指人心見性成仏」という賛があるんですね。これは言い伝えでは、達磨がそういうことを言った、ということになっているものですから、その達磨の賛としてこれを使うんですが、日本語に訳せば、直ちに人の心の指して、見性して仏になる、という、こういうことなんですね。人の心とは、我々凡夫の心ですね。この凡夫の心の本源のところは仏の心なんですね。その本源のところを、その心の本源を「性(しょう)」という字で現していますね。その人間の心の本性を見極める。見ると言ったって、ただ目で見るんじゃないですね。自覚する。自覚と言ったらいいでしょうね。人間の心の本性を本当に自覚をする、あるいはそういう本性に目覚める。そうすると、それが仏になる、というんですが、仏と言ったって、ご承知のように、ブッダ―「ブッダ」というのは、「ブッド」というインドのサンスクリット語の動詞が名詞になった言葉で、「ブッド」というのは、目が覚める、という意味なんですよ。だから「ブッダ」というのは、それが名詞ですから、目の覚めた人、あるいは自覚をした人。これは「神も仏も」という言葉があるから、何か人間よりずっと上のように感じますけれども、そうじゃない。仏陀(ブッダ)というのは、やっぱり人間なんですね。ただし凡夫はまだ目覚めていない人、これは凡夫です。目覚めた人、これが仏なんですね。だから成仏するということは、取り立てて人間が仏の世界に行って仏になったんじゃない。この身このままで自覚をすれば、それが仏なんですね。本当に仏を知るということは、自らが仏になって初めて本当に仏を知るということになる。死仏は即成仏というのは、そういうことなんですね。この思想は、仏教だけでなくて、インド全体の宗教にわたってそういう考え方があるんです。「ブラフマン(ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理)を知るということは、自らがブラフマンになることである」ということは、もうバラモンの教えの中にもあるんですね。ただ一方はブラフマンという絶対の神になることだし、我々はそうじゃない。人間の本源の一心に目が覚めるということが、仏になる、ということなんですね。これが「直指人心見性成仏」という言葉、さらにこれに後ついて、「不立文字経外別伝」というふうなことまでがついてきて、これが後々禅宗のスローガンと言いますか、旗印になるわけなんですね。
 
松村:  後半の方はちょっと置いていて、前半の方ですけれども、自分の本念ですか、本心、性―性と書いて「サガ」とも読みますね。それに目覚めることが成仏することであると。
 
平田:  そういうことですね。
 
松村:  ということは、目覚めること自体というのは、そんなに易しいことではないというふうに思っていいんですか。
 
平田:  それは、「ああである、こうである」と、本に書いてあるのを見て、「ああ、そんなものか」ということは、単なる「知仏」ですね。知識の上で、頭の上で仏を知っているというだけのことであって、成仏していない。やっぱり目が覚めるということは、これは人間の一つの体験、経験でしょう。朝目覚ましが鳴って、ハッと目が覚めるんですから、一つの体験ですね。そういう体験というもののためには、いくら学問を積み重ねても体験にはならない。やっぱりそういう体験を得るためには、実践がいるわけですね。当時の実践というのは何かというと、やっぱり坐禅。そういうものをインドから誰かが中国に伝えたというので、それが後に象徴化されて菩提達磨というような図ができあがるわけですね。
 
松村:  寺山さん、坐禅を組まれることがあるそうですけれども、その坐禅の目的は最後は自分の心を自覚する、というお話なんですけれども、こういう実感というのは得られますか。
 
寺山:  特に実感ということでは、先ほど老師がおっしゃったように、例えば「廓然無聖」というのは、カラリとして何もないんだ、と。ところがカラリとして何もない時は、私どもが、例えば書を書く時にもですね、結果的には一番生きていますわね。例えば今日でもこの今頭にも何にもない。腹にも胃が痛いような、そういうような無い時が一番調子がいいわけですわね。ですから私どもの修行ということは、何もやっておりませんけども、稽古をやったり、坐ったりというのは、何にもなくするようにですね、余計なものを取っていくことなんですね。ですからだんだん見てきたように、達磨の図でも簡略化されてくるわけですね。慈雲さんのものでも、晩年になるほど簡略されます。余計なものを取っていくわけでしょうね。そういう時が一番実は生きている。
 
松村:  やっぱりこれは確かに知識で、こういうふうに平田老師からお話を伺って、「あ、わかった」というものではなくて、私自身が厳しい坐禅なり、修行を積んで掴むものなんですね。
 
平田:  私が今話をしているのは、私の体験を話しているので、あなたの体験を話しているわけじゃないんで、あなたの体験はあなた自身で体験するより仕方がない。これは最後のところで、それ以上親切にしろと言ったってできやしない。禅というのは、そういう立場に立っている宗教ですね。
 
松村:  それではかつての禅僧名僧が、どういう境地に達したのかというのを、絵に残したのが達磨図だ、とおっしゃいましたね。もう少し見ていきたいと思うんですが。
 
寺山:  これは一絲文守(いっしぶんしゅ)(定慧明光佛頂国師. 公家岩倉具堯の第三子:1608-1646)の「蘆葉(ろよう)達磨」ですね。先ほど揚子江を蘆に乗って、とおっしゃいましたけども、それを象徴化したものですね。法としての達磨さんは、蘆の葉っぱにも乗れるでしょうから、そういう意味を託したものでしょう。
 
松村:  随分立ち姿というのが綺麗ですね。
 
寺山:  そうですね。これは線が綺麗だからでしょうね。ということは描く時の心境が綺麗だった、ということでしょう。これはすべて省いて、靴だけ描いておりますが、白隠さんですね。
 
松村:  靴だけですね。
 
寺山:  何で象徴しようとかまわないわけですね。本来生きることも掴むこともできない心の象徴と言ってもいいわけでしょうから。
 
松村:  平田さん、これは貴い絵なんですか。
 
平田:  そうですね。これは先ほどあったように、梁の武帝と対談をして、機嫌が合わなかったので、揚子江を渡ったわけですね。その時にこれは紀元九五○年から一○○○年ぐらいにできる今の『祖堂集』とか、『伝燈録』では、蘆の葉っぱとは書いてない。「密かに江を渡る」、あるいは「暗に江を渡る」人知れず揚子江を渡った、とこうなっているんです。それが後になって、蘆の葉っぱに乗って渡った、というふうになってくるんですがね。揚子江は今でも川岸にたくさん蘆が生えていますね。あれ編んで渡ったという。小さな船に乗って密かにこの揚子江を渡って、魏の国へ行ってしまった、ということを表現するものですね。
 
松村:  寺山さん、これは?
 
寺山:  これは白隠さんの「隻履(せきり)達磨」と。片方の靴を持っておりますが、この図もよく描かれるものですね。これは先ほど老師がおっしゃったように、達磨さんを熊耳山(ゆうじさん)に葬った。後で墓を暴いてみたら片方の靴しかなかった、と。達磨さんはいなかったという、また本来「法」というものは去来がないでしょうけれども、またどこにもないものですから、中国へきた達磨さんがインドへ帰っちゃった、というような表現をしているわけでしょうね。
 
松村:  平田さん、これは?
 
平田:  これは達磨が百五十歳の寿命でもって少林寺で亡くなるわけですね。そこでさっき言ったように、弟子どもが熊耳山(ゆうじさん)という墓所に達磨の遺骸を葬るわけです。それから三年の後に北魏の国の使者が―今で言えば外務大臣か、あるいは総領事かなんかでしょうね―インドからシルクロードを越えて帰ってくるわけですね。そうすると、葱嶺(そうれい)と書いているんですが、今のシルクロードのことです。その途中でばったり達磨がボロボロの衣を着て、歯は抜け落ちて、頭がツルツルに禿げて、素足で片方に靴を持ってトボトボインドに帰るのに出会った、というんですよ。そして「あなたの国の君主はもう亡くなった」と。「これからどこへ行かれる?」「もう仕事が終わったからインドへ帰る」こう言って別れたと、こういうんですね。弟子どもが、「そんなことはない。達磨の遺骸は棺桶に入れ葬ってある。それじゃ開けてみよう」と言って、棺の蓋を開けたら、杳(よう)として遺骸がなくて、靴だけが片方ポツンと棺桶の中に残っていた、と。こういう物語があるんですね。それがそのままこの図柄になるわけです。勿論意味するところは、いろいろ考えられますが、今寺山先生が言われたように、仏法というものには、行ったり来たりするということはない。自分が仏になるんですから、仏の国へ行って仏様になるというわけでもない。仏と言ったって、自分が仏になるんですからね。向こうから来るということもない。何の去来の姿ももっていないわけですね。というようなことを、一つのエピソードとして象徴したものが、この「達磨隻履の図」という、片方の靴を持っていますね。そういうエピソードを描かれたものです。
松村:  しかしそういう話を伺うと、禅というのは、どんなものか、この教えを聞かなくちゃいけないというような、そういうものがなくて、非常に自由な感じなんですね。
 
平田:  禅にはドグマ(教義・奥義)というものはないですね。だから「不立文字教義別伝」という言い方をしますね。ドグマがあるとドグマにとらわれてしまう。ドグマのないというのがドグマと言えばドグマですけれどもね。
 
松村:  寺山さん、これは?
 
寺山:  これは風外慧薫(ふうがいえくん)(曹洞宗、相模成願寺住職。のち曾我山中の巌窟にすみ、遠江石岡に移る。承応三年ごろ墓穴をほらせ、その中で入寂したという:1568-1654)という人の達磨さんですが、俗に「穴風外」と言われるように、ほとんど穴居生活をした人で、非常に脱俗軽妙と言いますか、これほど瀟洒な達磨図はないでしょうね。おそらく作者の風外慧薫という人は、そういう人だったんでしょう。
これは武蔵の「正面達磨」で、よく八方睨みの達磨だと言われる。
松村:  なんか眼がどこを見ているかわからないような眼ですね。
 
寺山:  そうですね。まあ至るところに気を配っていると言いますか、さすがに隙のない達磨ですね。この鬚がもう一本一本根がちゃんとあって生きている鬚ですね。武蔵の晩年は多分こういう感じだったんでしょうね。
 
松村:  鬚が一本一本が生きているという感じ。
 
寺山:  そうですね。これは白隠さんのよく「一筆達磨」と言われるものですね。
 
松村:  これは一筆で描いたわけですか。
 
寺山:  そういうことを言われるわけです。単純明快これよりはなし、ということですね。しかもそれですべてを現しているという非常な深さとか、大きさとかですね、しかも非常な貫禄ですね。安定がいい。
 
松村:  実にいろいろな達磨図があるものですね。これは掛け軸ですがね。
 
寺山:  そうですね。これは右の方から白隠さんの「廓然無聖」、これは鉄舟(てっしゅう)ですね。「鉄舟高歩(てっしゅうこうほ)」とあります。山岡鉄舟(やまおかてつしゅう)(幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。諱は高歩(たかゆき)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖)です。ちょうど来年が亡くなってから百年になりますが、この人は剣・禅・書で鍛えた人ですね。衣の線なんか凄い火を噴くような生きた線ですね。
松村:  衣ですか?
 
寺山:  そうですね。それを衣を頭巾のようにしているんでしょう。非常に軽妙な、どの線も生きているという感じですね。鉄舟さんが描かれる時は、まったく自分がなかったということでしょうね。その働きがこうなったと。
これは平田老師の師匠の師匠の精拙(せいせつ)老師という方です。非常に絵の上手かった方ですね。
 
松村:  しかし迫力というのを感じますね。
 
寺山:  やっぱり禅機なんでしょうね。本当の何にも応じたところの働きというのは、こういうものだということでしょうね。
 
松村:  平田さん、こういう図からはどんなことを感じ取られます?
 
平田:  やっぱりお書きになった方の心境、それから風格、こういうものがすっかり出ていますね。加藤耕山(かとうこうざん)さんというのは、大変少しユーモラスな風雅な方だったんでしょうね。それぞれみな面白いですね。
 
寺山:  やっぱりその人を見るような感じがしますね。
 
松村:  これは、また全然違いますね。
 
平田:  これは私の師匠の関牧翁(せきぼくおう)老師(臨済宗の僧侶。天龍寺二百四十一世。臨済宗天龍寺派管長:1903-1991)の達磨です。
 
松村:  随分現代的ですね。こうしてずっと拝見さして頂いたんですが、平田さん、達磨というのは何かの象徴だというふうに思うんですがね。それは何を象徴したものなんでしょうか。
 
平田:  大変面白い話がありまして、宋の時代に或庵師體(わくあんしたい)禅師という方がおられるんですね。この人が弟子に大変面白い公案を出しているんです。先ほどから宮本武蔵、加藤耕山、山岡鉄舟、白隠さん、いろいろ達磨の図を見てきましたね。全部鬚が生えていて、眼をランランと怒(いか)らして先方を睨んでいるのがある。あるいは剽軽な顔をして、それもしかしやっぱり鬚がありますね。ところが或庵師體(わくあんしたい)禅師は弟子に向かって、「西天(さいてん)の胡子(こし)、甚(なん)に因(よ)ってか鬚(ひげ)無(な)き」―「西天」というのはインドですね、「胡子(こし)」というのは、胡(えびす)―達磨のことなんですよ。「達磨さんにどうして鬚がないのか」という問題を出したんです。そうしたら弟子が、「そんなことはないでしょう。達磨はどの図を見ても全部鬚があるじゃありませんか」「あれは絵に描いた達磨じゃないか。あるいは記録に残っている達磨ではないか。そういう達磨を俺は訊ねているのではない。まったく鬚のない達磨はどんな顔をしているか、とっくりと出くわして来い」という。それこそ鬚どころじゃない、眼も鼻も何にもない、そういう達磨はどこにいるか。それをとっくりと見て取って来い、という、こういう問題があるんです。のっぺらぼうですね。鬚もなければ、眼も鼻も口も何もない。そういう達磨がちゃんと自分の心にちゃんと坐っておられるわけですね。これが私らの本当の主人公なんですよ。そういう主人公というものが、それぞれの立場で禅僧は自覚していったわけですね。そういう目覚められた自分の主人公というものを、今度は自分の腕を通して描かれてくるのが、この達磨の姿なんです。だからそういう絶対主人公というものを、自分が目覚めれば、千五百年前に達磨がインドから来たか、ペルシャ人であったかどうかという、そういうことよりも、実際に現在達磨は確かにいたと、こういうことの自分自身で体験証明できるという。これが禅の立場なんです。歴史的な人物であったかどうかということは、これは専門の学者先生方がいろいろ研究される。我々実践をやっている者は、実際に達磨がいるということを、この身体で体験をしなくちゃいけないわけなんですね。これが禅の立場ですね。
 
松村:  寺山さん、自分でそういう達磨図を描けるか、というところが最後に問われるというか、
 
寺山:  そういうことですね。その人以上のものはできない、ということになりますね。
 
松村:  自分それぞれの達磨を求めればいいんでしょうか。
 
平田:  そうです。それぞれが達磨を求めたらみんな達磨に出っくわす筈なんですね。それが、「西天の胡子、甚に因ってか鬚無き」という問題なんですね。
 
松村:  今日は本当によいお話をどうも有り難うございました。
 
     これは、昭和六十二年二月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。