東洋の智慧をたずねて―中村元博士の世界―
 
                   東京大 ALIGN="RIGHT" WIDTH="189" HEIGHT="113">ナレーター:  インド思想、仏教思想を、時代背景や風土と密着したものと見る視点から研究された中村元(なかむらはじめ)さん。その研究成果は、今も世界の注目を集めています。中村さんは、宗派や教団に縛られがちな教義を、普遍的な真理(ダルマ)追求の立場から世界の思想と比較しながら考察されました。
 

 
中村:  これがインドですよ。もうちょっと分量を越えて、我々の心理を絶したものがありますよ。あの辺に転がっている彫刻類も、まるで石ころみたいに転がって、どれ一つとっても日本の国宝より古いですからね。
 

 
ナレーター:  研究論文とは別に、漢訳経典では難解過ぎて、一般の人が近づきにくかった仏教の経典を、平易な理解し易い言葉で翻訳されました。中でも初期仏教者の素朴で力強い生き方が伝えられた原始経典の現代語訳は、読む人に強い感動を与えています。中村さんは、一九九九年に、八十六歳で亡くなられましたが、生誕百年を迎えた今年、郷里の松江市に「中村元記念館」が開かれて、東京のご自宅にある貴重な研究資料や蔵書が、そちらに移されることになったので、その前に中村さんの講座を引き継いだ前田専学さんと一緒にご自宅に伺って、日頃過ごしておられたお部屋の雰囲気を拝見させて頂きました。
 

 
金光:  私は、この中村先生のお宅へは何度もお邪魔したんですけれども、ここの書斎を拝見するのは初めてなんですが、前田先生は?
 
前田:  私もたびたびお邪魔してはおりましたけれども、大体応接間だけで。
 
金光:  私も応接間だけで。
前田:  こういった、いわば秘密基地と申しますか、学者にとっての秘密基地ですけども、そういうところに入るのは、神聖にして犯すべからざるような場所で、拝見するなんていうことは、お願いすることもできませんでしたが。
 
金光:  それはそうでしょう。随分膨大な論文とか研究を発表されていらっしゃるわけですけれども、そういうものはほとんどはこの書斎でお書きになったんでしょうか。
前田:  おそらくそういうことが多かったんだろうと思いますけども、でも先生はあちこちの図書館などもよくお行きになっておられますし、研究室に寝泊まりされたことも―戦争中はそんなこともあったようなことを聞いておりますからね。
 
金光:  そうですか。
 
前田:  あちこちでやられた可能性はあるんですけど、主としてこちらの書斎が中心じゃなかったかと思いますけれども。
 
金光:  ここをご覧になって、中村先生らしいな、とお感じになるようなことございますですか。
 
前田:  そうですね。中村先生らしいと申しますか、先生の机の手近に辞書があったりなんかしてですね、それからカードやボックスがある、そのようなところは、学者として非常に機能的な姿で羨ましいと思いますかね。電気もあそこに二つ、三つ、四つですか、ありますよね(笑い)。手近に何でもこうありますからね。遠くまで行くという場合は勿論ありますけれども、常に必要なものは手近に置いてあるという。これは大変いいことだと思いますね。ここのところなんかこう並んでおりますのは、中村先生の先生だった宇井伯壽(ういはくじゅ)(曹洞宗の僧侶、インド哲学研究者、仏教学者:1882-1963)先生のものがずっと並んでおりますよね。これを中村先生が、中には後で出版されたのがあったりするわけですけれども、それから字引などはそこにありますよね。
 
金光:  だけど随分古色蒼然としたものが、いろんなバラエティーに富んだものがあるようですね。
 
前田:  我々のやっているのは古色蒼然としたことをやっているわけですからね(笑い)。
 

金光:  今日は「東洋の智慧をたずねて」というようなことで、インドの思想とか仏教の思想を一生涯かけて研究してくださった中村元先生の世界が、どういう世界であったのかということをお伺いしたいんですが、中村元(なかむらはじめ)というお名前の通り、大正元年のお生まれだそうですね。
 
前田:  そうです。
 
金光:  それからのご研究への歩みというと、どういうことなんでございましょうか。
前田:  そうでございますね。どこからお話していいかわかりませんけども、それにしても「中村元の世界」ということでございますので、その世界が一体どういうものであったか、ということから、お話してよろしゅうございますか。先生が亡くなって、五年ほど経ちましてね、そしてインドのデリー大学の哲学の先生のS. R. Bhattという先生がいらっしゃいまして、その先生が国際会議を開かれたんです。それは中村先生のために開かれたんですね。その時にたくさんインドの研究者のみならず外国からも来ておりまして、私もその一員として加わりました。あと四人ばかり日本からまいりましたけれども、その時に先生の世界を垣間見たような気がしたのは、我々が持って行った中村先生の書籍が堆(うずたか)く積まれておりまして、その前でインド人の研究者が五体投地の礼をしておられましたですね。その印象が未だにまだ焼き付いていますけれども、先生の学徳と申しますかね、そういうものに対する敬意と申しますか、それがインドの人たちはよくわかっているんじゃないかと思います。そういうぐらいに中村先生の世界というのは、国際的にも知られ尊敬されているということじゃないかと思います。先生の業績というのは、それほど偉いものであるんですけども、自分のことだけを考えておられたわけじゃなくて、先生の業績の一つの大きなものは、『世界思想史』というのを作られたんですね。それはおそらく世界で最初のことだろうと思うんですよ。それは世界が先生の中にある。それだけでなくて、何故そういう研究をされたかというと、先生が最後に述べておるんです。こんなことをおっしゃっているんですね。
 
我々は以上の考察によって、人類が一体であることを知り得た。思想は種々の形で表明されるけれども、人間性は一つである。今度世界は一つになるであろう。世界の哲学宗教思想史に関するこのような研究が、地球全体にわたる思想の見通しに役立ち、世界の諸民族の間の相互理解を育てて、それによって人類は一つであるという理念を確立しうるに違いない。それを切に願うものである。
 
そういうことを先生、ご自身の結論として結んでおられるんですね。世界平和への篤い願いというのが根底にあったんじゃないか。そういう膨大な業績を残された先生ですけども、その先生を、私はかつてバニヤン(banyan:クワ科の常緑高木。インド原産。高さ三十メートルに達する。樹冠部は大きく広がり、横に伸びた枝から多くの気根を出す。果実は小形のイチジク状果で赤熟。聖樹とされる)という樹に譬えたことがあるんです。バニヤンの樹は、中心になる幹から横に枝がのび、その枝から馬の尻尾を思わせる気根が出て空中にたれ下がり、それが次第に成長して地面に達し、さらに地中にのびて木の根となる。枝からたれ下がっていた気根の部分は次第に固く太くなって立派な幹に変身する。この新しい幹から再び横に枝がのび、気根がたれ下がり、もう一本の新しい幹となる。このようにして何百本もの幹が出来、一本の木で壮大な林をつくるのである。それに先生のことを譬えたことがあるんですけどね。それはその一本の基軸は何かというと、「インド哲学である」と、私はそう思うんです。それだけではなくて、先生の世界というのは、「慈悲の心」というのが、その根っ子にあった。その上に基軸になっているインド哲学が芽生えて、それが一つの大きな林のようになっているバニヤンの木じゃないか、と私は思いまして、その先生の世界というのは、慈悲の心、慈しみの心を根として、インド哲学を基軸に形成された生々と繁茂し無限に成長し続けて、人々に憩いと安らぎを与える、そういうバニヤンの大樹のようなものじゃないか、というように、私は考えております。
 
金光:  私は、学問研究なんかの世界はまったく無縁のものなんですけれども、外から見ていますと、割に自分の専門に入り込む方がけっこういらっしゃるわけですけれども、中村先生の場合は、そういう小さな、自分の専門はここだ、なんていうようなお考えはまったくなかったわけですね。
 
前田:  そうでございますよね。自分の殻に閉じ籠もっているのが、日本の学者の通弊でございましたけど、当時はね。そういういわばセクショナリズム(sectionalism:派閥主義、なわばり根性)と申しますかね、そういうのを打ち破って、どんどん学問を広げていかれた。それが先生の一つの大きな特徴であったわけです。
 
金光:  先生はそれだけ広いバニヤンのような広さをもったご研究だと、お弟子さんの方は大変じゃございませんか。
 
前田:  大変でございます(笑い)。なんとか一つ私どもはやっているだけで、ある時『中村元の世界』という本が出たんですね。その時に一人の学者で、全部先生を覆うわけにいきませんから、五人か六人かかって、先生の部分部分をとってですね、『中村元の世界』というのを書いたことがございます。それほど先生は広くて、たくさんの人がよってたかってやっても覆い尽くせないほどの広さをもっておられるんですね。
 
金光:  その先生の学問への出発と言いますか、随分いろんなご研究をなさっているわけですが、最初の大きな業績というと、どういうものでございましょうか。
前田:  それは、先生が学部で書かれた論文というのは、仏教関係のものでしたけれども、卒業してから宇井伯壽先生が、中村先生に「後で言い聞かせることがある」ということで、宇井先生の所へ行かれたんですね。
 
金光:  それは卒業の後で?
 
前田:  卒業の後ですね。そこで宇井先生が、「仏教だけをやっていると、それだけで終わってしまう。教学の研究だけで終わってしまう。お前の場合には、仏教の根源にあるインド哲学を―ヴェーダーンタ(ヒンドゥー教)というのが、そういう根源にあるものですからそちらの方の研究をしなさい」そういう指示と申しますかね、忠告が与えられたこともありまして、先生は、学部の場合は、仏教でしたけれども、大学院に入られてからは、インド哲学の方の、しかもヴェーダーンタというインドの伝統の中の伝統と言われている研究に入られたわけですね。それで大学院におられた時に纏められたのが、『初期ヴェーダーンタ哲学史』というようになっておりますけれども、それがまた膨大な量のものでございまして、リヤカーでもって、卒業論文を持ち込んだ。
 
金光:  リヤカーで!ほぉッ!
 
前田:  そういう話を聞いておりますですね。指導教官であった宇井先生が驚かれたという話も(笑い)。
 
金光:  インド三千年の歴史の中に、いろいろ残されたものを整理して、自分でいろいろと研究された結果が、結局リヤカーで運び込んだという(笑い)。
 
前田:  そういうことですね。
 
金光:  そういうご専門のインドの場合はサンスクリット。でも、その時まではむしろヨーロッパ―フランスとか、イギリスなんかの研究の方が、日本の人たちよりも進んでいたというようなことをちらっと聞いたんですが、そういう状態ではなかったんですか。
 
前田:  それは進んでいるのは領域によるわけですね。先生がやられた「初期のヴェーダーンタ哲学」のところは外国でもやっていませんし、インドでもやっていないところなんですね。それだけの千年の長い歴史を空白のままあったわけですね。シャンカラ(インドの思想家)という七世紀ぐらいに活躍した人ですけれども、そのシャンカラをもってヴェーダのはじめとし、その前は無視するというような形で、歴史が書かれておりましたけれども、それを先生は暗黒の歴史に日を当てられたということで。
 
金光:  ということは、むしろ暗黒と言いながら、難し過ぎて、手が付けようがなかったという面もあるわけでしょうか。
 
前田:  それもあるかも知れません。資料があんまりないんですね。ですから纏まった資料がないから、あちこちから集めてこないといけない。そういう意味では非常に難しい調査をしなければいけない。
 
金光:  そういう膨大な資料を集めた結果が、リヤカー一杯ということでございますか(笑い)。
 
前田:  そういうことですね。
 
金光:  ご専門のインド哲学の方はそういうことですけれど、私なんかが聞いたのは、三十代で『東洋人の思惟方法』という有名な本が出た、ということを聞いているんですが、これは中村先生の名前を世に知らせるうえでは大きな働きをしたと考えてよろしいんでしょうか。
 
前田:  そうでございますね。日本だけではなくて、世界的に先生の名前を広げた大きな業績ですよね。これは先生が、さっき申しました『初期ヴェーダーンタ哲学史』という大きなものを書いておられて、インドにだけ没頭しておられたわけですけども、博士論文だったんですが、それを取られたすぐに、三十代で東大の助教授になられたわけですね。その時に新しい飛躍が待っていた。それは伊藤吉之助(いとうきちのすけ)東大教授が主催しておられました共同研究の「諸民族の思惟方法の比較研究」というこの研究グループに入られたわけですね。戦争中ですから、「ゲートルを履いて研究議論をした」そんなことがどっかに書いてございました。そういうことで、いろんな方が、研究を持ち寄って、それぞれの人が発表することになっていたんですけども、結局戦争が終わりまして、解散してしまった。業績を出したのは先生だけだったんですね。その結果出たのが、『東洋人の思惟方法』という形で出されて、それも最初は非常に先生の先輩の先生方からいろいろこっぴどく批判されたりしたんですね。
 
金光:  それは何故ですか?
 
前田:  その一つは、昔の先生方はセクショナリズムで、それぞれの領域の先生方は、自分の領域まで掻き回されているところがある、そういうところがあったんだろうと思うんですけどね。非常に批判を受けられたんですけども、しかし批判を受けられたことはあったけど、若い人たちのグループの中では、それを非常に歓迎する人がいたんですね。結局それは英訳されたり致しまして、それがアメリカ人の目に止まって、戦後おそらく東京大学で初めてか―文学部では少なくとも初めてアメリカの大学に招聘されるということになったわけですね。
 
金光:  それは戦後間もない頃?
 
前田:  そうです。戦後間もない頃ですね。
 
金光:  それじゃ貨幣価値なんかも高い頃で、招聘されていなければ、とても日本からは行けないような時代ですね。
 
前田:  そうです。一ドル三百六十円という時代でありまして、しかもドルが自由には使えない、制限されていた。外国からそういう招聘がなければ我々外国に行けないような時代でしたですね。そういう時代に文学部の先生として初めてアメリカに行かれまして、スタンフォード大学で講義をされるというようなことを一年やりまして、それで帰って来られたわけです。そういう大きな世界的に認められるチャンスをつくったのが、『東洋人の思惟方法』でございますね。それもまた英訳されるという機会があったからでございますね。先生の業績は、多くは日本語で残されたままになっておりまして、私も大変残念に思っているんですけども、国際的におそらく認められるような大きな業績がいくつも残っていますけども、それがみな日本語のまま残っているんですね。そういう状況で、今でもあるわけです。英語にされたということは、内容も勿論良かったわけですけれども、それだけでなく、そういう幸運もあったんだろうと思いますですね。
 
金光:  中村先生の英文で発表されたものもおありのようですけれども、ただし量からいうと日本語のものが圧倒的に多くて、『中村元選集』は何十巻という膨大なものになっておりますが、しかもその領域というのはまた随分幅が広いんで、とてもじゃないけど、一冊読むのも随分ぶ厚いもので大変だと思いますが。
 
前田:  そうですね。『中村元選集』を見ますと、全部で四十巻ですよね。そのうち三十二巻が本巻で、あと残りの八巻が別巻という形になっております。最初にくるのは何かと言いますと、『東洋人の思惟方法』が四巻入っているんですね。今まで入っていなかった『韓国人の思惟方法』もそこに加えられて入っておるわけですけれども。『東洋人の思惟方法』は、いわば序論みたいな形で入れられて、後は『インド思想史』という、そういう形でございまして、『東洋人の思惟方法』に継いでくるのが、『インド史』なんですよ。これは先生にとって歴史なんていうのは、ほんとにインド哲学をやっている方からいきますと、領域が離れていまして、『東洋人の思惟方法』もそうですし、全然先生のインド哲学という領域からは離れたところなんですね。
 
金光:  歴史となると、思想とは直接関係ないような気がしますけれども。
 
前田:  と思いになるかと思いますよ。ところが中村先生の研究方法というのは、従来の思想の研究というと、思想だけを辿っていく。それが「思想史」だったんですね。ところが先生はそうじゃなくて、『インド思想史』という小さな本も出ておりますけども、インドの歴史、社会的なバックグランド、その思想の背景というものを見極めてから思想が生まれてくるわけですね。人々の呻きを現しているのが思想なんですね。ですからそういう観点からいくと、一番表面に現れた思想だけを並べていくというのは意味がない。どういう形でそれが出てきたかという、そのバックが『インド史』という形で前にドカンと出てくるわけですね。その後からヴェーダの思想というのが出てくるわけで、そこからいわゆる『インド思想史』というものの本体がずっと繋がっていくわけですね。それが三十二巻まできまして、それが現在まで『インド史』が繋がっているわけです。後の八巻の、最初は『世界思想史』でありまして、それが四巻ございます。そこへ先ほど申しましたような素晴らしい言葉を述べておられて、単なる日本のことだけを考えておられるんじゃなくて、人類のことを考えておられた。そういう幅の広い、奥深い遠く見据えておられた先生だったんですね。その奥底には「慈悲の心」と申しますか、そういうものが先生にあったと思います。先ほどのように「中村元の世界」ということで、私はそんなことを申しましたけれども、それが別巻の最初のところに四巻ありまして、『世界思想史』という形で出ているんですね。
 
金光:  中村先生の膨大な業績が、もの凄く広いということは、今のお話で理解できたような気がするんですが、私たちはインドなんかはちょっと関係が薄くて、中村先生のお仕事としては、現代のことに関係したような仏教の関係のものは非常に親しみやすいものですから、そういうものが印象に強いわけでございますが、広い意味での東洋思想に向かわれたというのは、どういうところからでございますか。
 
前田:  そうですね。先生のお父さんというのは、保険会社のアクチュアリー(actuary:ビジネスにおける将来のリスクや不確実性の分析、評価等を専門とする専門職。「保険数理士」「保険数理人」などと訳されることもある)―保険数理士でいらっしゃったわけで、およそ仏教とか、そういうのに関係がない。それから弟さんの方は、日銀の理事というような経済界の方ですから、先生もそんなことで、通常ならばそちらの方に行かれたかも知れない。仏教ではなかったと思いますけども。しかし先生は中学へ入られた途端に腎臓を患われたんですね。一年休学ということで、学校には入ったけれども、学校には行かないという、そういう一年間だったんですね。悶々とした生活が一年続いたわけで、そのことが先生を読書家にしたんですね。その時に宗教関係だとか、哲学関係とか―仏教関係のものをおそらく貪るように読まれたんじゃないかなと、私は想像しておりましてね。もう一つ仏教に興味を持たれた一つの理由は、おそらくお母さんが門徒の信者で、大熱心な方だったんですね。それもお母さんの影響もあったんじゃないかと、私は思っております。そんなことで非常に死生界と申しますか、如何に生きるべきかということを考えざるを得ないような、そういう先生になられたのは、この病魔が大きな原因じゃなかったかと、そんなように私は思っております。そして、先生は、東洋思想だけでなくて、西洋思想も自家薬籠中のものにしておられたわけですけれども、しかし東洋思想に大いに地歩(ちほ)を固めておられたのは、何故かと申しますと、先生がおっしゃるのは、「西洋思想というのは、何か冷たい。個人主義的であって冷たい。それに比べて東洋思想は温かい」そういうことを先生はおっしゃっておられましたね。やはり病気になられた時の温かさを仏教の中に感じられたんじゃないかということを、私は思っておりますが、そういうことが先生を仏教の方に向かわせた大きな理由ではなかったかと思っております。
 
金光:  大正元年にお生まれになったということですから、その時代の仏教と言いますと、日本の仏教も、サンスクリットなんかの勉強した方もだんだん日本に帰られて、そちらの方の仏教の研究も出てはいますけれども、体勢としては旧来の仏教勢力の方が強かったんじゃないかと思いますが、その中で中村先生はどういう方向を目指されたんでしょうか、仏教の研究としては。
 
前田:  そうですね。先生自身は、おそらく仏教のものを読む時に困られたんだと思うんですね。インド哲学研究所に来るような人は、昔はお寺の関係ばかりだったんですよ。ところが先生はそうじゃない。仏教の本を読まなければいけないとすると、「火星人の言葉で書かれている」(笑い)と、先生自身がおっしゃるわけです。「火星人の言語で書かれているような仏教文献を読まなければいけないわけで大変苦労されたんだと思いますよ。だからそういう火星語でなくて、ちゃんと普通の日本語で書かれているような字引があったらいいな、と、おそらく先生は願われたんじゃないでしょうか。そんなことから字引だけじゃなくて、仏教仏典が普通訳されているものは、それこそ字引を片手にして、それでもわからなくて、さらに字引に字引が要るような形、そういう形のものですよね。中村先生の時代にはそうだったと思いますよ。そういう形の時代ですから、なんとか誰でもわかるようなものが自分で作れないか、と、先生はお考えになったんだろうと思うんですね。それでおやりになったのは、仏典の現代語訳という、しかも先生の仏教の一番読まれたのは、原始仏教の経典を、しかも一番古い方と思われる層から選んで、『スッタニパータ』とか、『ダンマパダ』とか、そういうようなものを、今度は誰でもわかるような日常語で翻訳されて、それを岩波文庫という、誰でも手にできるような形で出版されていった。それが非常に大きな影響をみなさんに与えていると思いますですね。
 
金光:  とにかく一番仏教の元というか、一番元の時代からもう一度調べ直そうという、そういう方向に進まれたわけですね。現代語訳が出て私なんか随分助かりました。でないと、現代文だと言いながら、いわば漢文の読み下し文ですと、これ読み下されても、先生がおっしゃったように、辞書を引かないとその意味がわからないような、一番古い時代のものはまだ多少わかりいいにしましても、それにしても一度で読んでわかるようなものでなかったものですから、中村先生の訳が出ると、何だこういうことか。今の現代の人にも通じるじゃないか、というようなことが、随所に出てまいりますので非常に助かりましたですが。やっぱりそういう方向でかなり時間と労力をお掛けになったんでしょうか。
 
前田:  おそらくそうだと思いますね。先生の著作集の八巻だと思いますが、それが原始仏教に与えられているんですね。
 
金光:  纏まって残っているにしましても、どれが古いのか、どれが新しいのか、その辺も、何年の発行なんて裏書きがあるようなものではございませんでしょうから、その判定もなかなか難しゅうございましょうね。
 
前田:  それは前からいろんな研究者がやっていて、先生はそういうものを利用しながら、古い経典を基礎にしながら原始仏教の、特にゴ―タマ・ブッダ(『釈尊伝 ゴ―タマ・ブッダ』)の生涯を書かれたのがありますけれども、そういう人間ブッダというのを再現すると申しますかね、初めて神話から解放されて、人間ブッダが中村先生によって書かれた、と私は理解しておりますけれども。
 
金光:  私は最初にあんまり大きくないのを拝見したんですが、後で中村先生、だんだん継ぎ足して継ぎ足して―失礼ですけれども、だんだん細かくなって大きな人間ブッダができたんで、えっ!こんなに研究を続けていらっしゃったのかな、という気持ちで拝見したんですが、常に一冊の本が出たから、これで私の研究は終わりなんていうことじゃない姿勢でお書きになっていたわけですね。
 
前田:  常にそうですね。著作集に致しましても、初め確か十巻ぐらいから始まったんですね。それがだんだん二十巻になり、三十巻、四十巻になりという、そういう具合に増えていったんです。先ほどのバニヤンの木じゃないですが、どんどん増えていったわけですね。そういうなんて言いますか、先生は一度飛び付いたらそれを常に頭に置いておかれて、だんだんそれに新たなものを加えていくことはしょっちゅうされていたんですね。
 
金光:  私も随分長い間番組の方でお世話になったんですけれども、ある時仏教関係の本が出たことが話題になりました時に、「この本は良い本だけれども、出典がどこからか、というのが書いてない。これが書いてないと、後から研究する者が非常に不便な思いをするだろうから、あの本に出典がどこどこの何、というのが書いてあるともっといいんだがな」というようなことをおっしゃっていたのを記憶しておりますが、そういう意味では常にご自分のお書きになったものにも、後輩がどうするかという、後輩の研究のこともお考えになってお書きになっていらっしゃったわけですね。
 
前田:  そうですね。学問そのものがそういうきちっとした基礎があるということが大変先生は重要視されておりましたからね。だから字引などでも、必ず出典が出ているわけです。先生の大きな字引に出典が出ておりますよね。そういうのを先生は大変重要視されておりまして、先生の著作には膨大な注釈が付いておりますし、文献の目録も付いておりますよね。文献学のある意味では基礎みたいなことですけれども、そういうことを先生はきちっと守っておられましたですね。
 
金光:  そういうお仕事をなさりながら、その間に、と言いますか、おそらく平行しておやりになったと思うんですが、例の有名な『仏教語大辞典』という非常に大部な仏教語の字典をお書きになっていらっしゃいますが、そういうふうにいろいろお調べになっていらっしゃると、それをまたメモされて溜めていたものが『仏教語大辞典』になったというふうに考えていいんでしょうか。
 
前田:  あれは二段階ありましてね、最初の時には、学生とか、いろんな人を集めて、その人たちの力を借りて編纂しようとされたんですね。その集まったグループが「東方研究会」という名前で集まりができていたわけです。そこで字引の編纂がなされていたんですね。それでもって一応原稿が書き上げられて、出版のために、ある出版社にその原稿が預けられていた。ところが、「その原稿が無くなっちゃった」というお話、お聞きになったことございますか?
 
金光:  後で伺いました。
 
前田:  その頃、私、ちょうどアメリカにおりまして、その記事がアメリカのロサンゼルスの新聞に出たんです。僕はアメリカでそのことを知ったんですよ。ですから日本では大きな騒ぎになっていたみたいで、せっかく何年もかかって書いた原稿がなくなってしまった。そういうことで―ところが先生は黙っておりましてね、出版社に文句をいうわけでなしに、今度は自分で一人で始められたんです。今まで集めた原稿というのは、勿論それはそれなりに価値はあるんですけれども、先生の目から見ると満足すべきところもなかったんです。そういうことですから自分で今度は集めようということで、何年かかったのかな―十年か、かかって自分で今度は集められて、で、できあがった原稿が我々が見ている『広説佛教語大辞典』という字引なんですね。それも二、三回と増版されて、最後には四版になりますけどね。『広説佛教語大辞典』という名前に相応しい大辞典でございます。原語もちゃんと付けられておりますし、ページも勿論どこから出ているか、という引用の箇所もしっかり付けられていて、学問的に非常に信用のおける、そしてまた言葉が、今までの仏教字典にない現代の我々の使っている言葉で解釈されている、そういう大きな字引ができあがったんですね。
 
金光:  その後、私なんかお会いした時は、学園紛争なんかあった時に、「先生、大学で授業できないんじゃないですか」と言いましたら、「もう大学じゃできないから、私は寺子屋をやっているんです」とおっしゃっていましたですね。「そういう形でも学問を続けないと、ということで、どっか別なところを借りて寺子屋でやっております」なんておっしゃっておりましたけれども。
 
前田:  そうですね。その寺子屋というのが、「東方研究会」というものになったんですね。現在は、「公益財団法人中村元東方研究所」というように改称致しましたけれども、「財団法人東方研究会」というのが、先生がまだ在職中にお作りになりましてね。それは先ほどの「東方研究会」―字引を作るためのものが集まりとして、それを中心に東方研究会が作られて、それを財団法人にまでされたわけですね。それを作られるに当たりましては、やはり先生の慈悲の心と言うんでしょうか、そういうものがあったんだと思いますですね。と申しますのは、先生がまだ大学院の学生の頃だろうと思うんですが、先輩のインド哲学の出身者が、就職ができなくて、それで自殺してしまったという事件があるんですね。インド哲学なんていうのは、大体あまり飯の種にはならないわけで、霞を食って生きているかと思うほどに、その最たるものと見られていたわけで、インド哲学をしても大体は生活に困ることが多いんですね。ですから先生は、学生たちが―当時はみな貧乏ですから、戦争後ですから、お金がなくて困っているだろう。自分が字引の仕事をしながら、お金をそういうところから得られて、その経済的な助けになれば、というお考えがあったんだと思うんですね。ですから働きながら、そして専門の領域で働いているわけですから、仕事自身が勉強になるわけですね。勉強しながらお金を頂けるという形で、東方研究会というのができてきているわけですね。それと、先生がもう一つお作りになったのは、「東方学園」というのをお作りになりましたですね。これはいわば先生がおっしゃる寺子屋なんですね。学歴も、身分も、老若男女も性別も問わない。ただ勉強したという人を集めると。先生の方針は、一人の教えたいという者がいれば、そしてまた一人の学びたいというものがいれば、学園は成り立つ、という、それが基本の精神なんですね。ですからそれが採算を度外視しておりましてね、東方研究会の講師の先生というのは、教えたいというボランティアなんですね。ですから給料を払うという形でないわけです。大学の講師とか、そういう形でないんですね。教えたいから来ていて、また学びたいというのが来ているという形で、我々は、「研究会員」と称しております。「受講生」と言わないですね。非常に熱心なんですよ、みなさん。そういうところで先生は、定年退職後教えられる。そこで自分は如何に生きるべきか、ということを考えられ始められたんです。考えられたからそういうことをされたんだと思いますですね。
 
金光:  その辺のご心境について、何か発表されている文章などございますですか。
 
前田:  『学問の開拓』というのがございますけれど、それをお読みになると、心境の変化と申しますかね、そういうことが書かれておりまして、学問をこれから開拓するんだ。今までの学問は西洋の流れと言いますかね、そういうような形でやってきたものだということですが、それは先生が定年で退職された時に、退官の時の最終講義というのを、普通はされるわけですね。普通先生が東大で教えられていた、その時のやってきたことの、いわば反省と、それからこれからの将来のことを語られるのが普通なわけですね。ところがその時に先生は、冒頭で「インド学は〈エジプト学〉か?」ということをおっしゃったんですね。
 
金光:  それはどういうことなんですか?
 
前田:  それはエジプト学(古代エジプトとその遺跡や遺物についての科学的な研究)というのは、対象が死滅しているわけですね。
 
金光:  遙か昔に、そうですね。ミイラの白骨化するというのが、
 
前田:  西洋の文献学とか、そういうのはそういうところから発達しているわけで、死んだ者を対象にしているわけです。「インド学はそれでいいか」ということを、先生は問題にされてですね。
 
金光:  インドの国自体には、仏教はほとんど残っていないというようなところから、もう滅びたというふうに、ヨーロッパでは見ていた人も多いんじゃないかという気がしますが。
 
前田:  インドでは仏教は滅びていますけども、東南アジアではまだ生きていますからね。それから世界でも生きていますから。そういうことではなくて、エジプト学者は死滅した文明としての古代エジプト文明を、全く過去の遺物、何ら共感も親近感も感じ得ない異質的な存在として研究するが、ヨーロッパに発したインド学はエジプト学とその研究方法乃至態度に関して本質的な相違はない。その方式で今までやってきたんだ。その成果が今までの成果であって、先ほどの著作集だとか、そういう形になっているわけです。そういうものは、「如何に生きるべきか」ということに対して、何の答えも説明してくれない。私は、『華厳経』の善財童子(ぜんざいどうじ)のように経巡(へめぐ)って、これから如何に生きるべきかということを研究したい。私は、恥ずかしいんだけれども、それをこれからするんだ、ということをおっしゃる。そのことをお考えになっているのは、いろいろな賞を貰われて、普通ならば悠々自適で、もうそんなことをしなくたっていい、その時代に、先生は、「これから学問の開拓をするんだ」という。その学問というのは、「如何に生きるべきか」そういうことだったんですね。
 
金光:  そういう中に、『自己の探求』というような、人間が自分というものを、自己というものをどう考えればいいかという、ご本が出ましたので、これは難しくないかなと思ったら、いや言葉は平たいけれども、なかなか自分自身知ることは、これは難しいことでしたね。
 
前田:  インド哲学とは、自己を知ることですよね。仏教もそうです。「仏道を習うというは自己を習う」というわけですから、仏教は自己を習うことですけどね。だから「自己」と言ったら、非常に重要な概念ですけどもね。ああいうような本が出始めたのは、そういう先生の心境の変化だろうと、今になって私はそういうふうに思うんですけども。それ以前は、とにかく文献学的なもの、歴史学的なもの、比較思想とかいうようなもので、今まではやって来ている。それでもって勲章貰ったりなんかしたんだけれども、それでは申し訳ないんだけど、これから如何に生きるべきかということで、先生が善財童子のように、新たな道に入られようとしたわけですね。
 
金光:  その『自己の探求』の中にある言葉で、
 
個体としての行動は、他から隔絶されている〈個体〉が行動するのではない。〈大宇宙〉の無限の条件づけの一つの結び目が行動しているのである。こういう視点にまで到達すると、自分が真理をさとるのだと考えることはできない。全宇宙が自分をして真理をさとらせてくれるのである。
 
こういう言葉だと、実感としては、そうは思えないにしても、自分一人で、ダメだ、ダメだ、と思う必要はなくて、全世界の中に生かされている自分だという。これが大学者である中村先生のお言葉というんで、非常に印象に残っていて、メモしてきたんですけれども、やっぱり今おっしゃった「如何に生きるべきか」という、それを自分のご研究の成果として、世の人に伝えたいという一端が、こういうお言葉になって出たということなんでございましょうか。
 
前田:  そうですね。それは華厳の思想なんですけどね、今のは。特に西洋の自己(エゴ)というのは、隔絶されたインビジュアルなものですよね。ところが東洋と言いますか、仏教ではそういう考え方をしない。みな繋がっている。縁起で作られて、因と縁となって、相互に関係しながら存在しているわけですから。そういうところで、西洋と東洋との考え方の大きな違いが出てくるわけですね。生き方の考え方にも違いが出てくるわけでありますけれども、「如何に生きるべきか」というようなことも、そういうところが関係してくるだろうと思いますですね。
 
金光:  如何に生きるか一番根本にあるのは、最初にもお言葉が出ましたけれども、慈悲の考えと言いますか、そういうところへいくわけでしょうか。
前田:  そうですね。私はそのように思いますが。私が、平成八年―ということは、先生が亡くなる三年前でございますけど、平成八年の十二月二十六日でございますね。神田明神会館で、あそこでよく年の暮れの忘年会があるんですけど、そこで先生が感慨深げに、やや天井を見ながらおっしゃった言葉があるんです。それを私たまたま録音したんですよ。それを私はいつも手帳に挟んで持っていましてね。こんなことを先生おっしゃったんですね。いわば遺言のようなものなんですよ。
 
あっという間に一年が過ぎようとしている。越後の歌人良寛に、〈形見として、何遺すらん、春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉〉を引用。私の場合には、何を残すか、というと、何も残さなかったかも知れないが、一つだけ、人様に言えることがある。それは東方研究会のことですね。他の学問をしている方々とは違っていて、われわれの祖先に伝えられている麗しい純なる気持ちを皆さんが伝えている、この美しい精神を遺していらっしゃるから、私の場合は、この遺偈に通ずるものがある。
 
そういうことを先生おっしゃったんですよ。感慨深げにおっしゃったんです。後で考えてみますと、この頃先生は、奥様の方から「癌だ」ということを知らされるんですね。そういうことで、おそらく覚悟を決めておられて、こんなことをおっしゃったんだろうと思うんですけれども、『学問の開拓』の中で、こんなことも先生はおっしゃっているんですね。
 
私には二人の娘は既に嫁いでいる。私の父も母も中村の家を継ぐために、それぞれ養子養女になってくれたのに、私の代で絶えてしまうのは申し訳ない。私は東方研究会に後に残るものを残したいと願っている。
 
そういうことを先ほど申しました『学問の開拓』の中に、先生は書いておられます。昭和六十一年の段階では、先生は何を遺していくのか、はっきり決めていらっしゃらなかった。ところがこの段階になると、後に遺すものというものを、はっきりとお考えが決まってきていたんじゃないか。私は推測するんですね。後に残るものを遺したい。何を残すべきか。しかし先生は、はっきりそれは「慈悲の心」だとおっしゃっていませんけれども、その時には、「麗しい精神」、その「麗しい精神」というのを、東方研究会が伝えているから、それを遺したいんだ、と、おっしゃっているんですけれども、その「麗しい精神とは何か」というのを考えてみますと、やはり「慈悲」のことではないかと、私は考えるんです。そういうことで、その言葉が、実際先生のお墓が多磨墓地にあるんですね。これが多磨墓地にありますブッダの言葉の「 慈しみ」というので、これは先生が、『スッタニパータ』という仏典から、直訳ではなくて、意訳されたと申しますかね、部分部分を集めて意訳されたものですけれども、それを読んでみますと、
一切の生きとし生けるものは
幸福であれ安穏であれ安楽であれ
一切の生きとし生けるものは幸であれ
何びとも他人を欺いてはならない
たといどこにあっても
他人を軽んじてはならない
互いに他人に苦痛を与える
ことを望んではならない
この慈しみの心づかいを
しっかりと たもて
 
こういう言葉なんですね。これは先ほど申しましたように、『スッタニパータ』という仏典の中でも一番古い経典ですけれども、そこの中の「メッタスッタ」というのがありまして、これは慈悲行、「メッタ」というのは、慈悲という意味なんですね。「慈悲」の「慈」の方ですけれども。その教えを説かれた教典の中から抜粋して訳を付けられた。
 
金光:  これは生前にお作りになったわけですね。前に立っていらっしゃるから。
 
前田:  先生は、万感の思いを込めて作られたものだろうと思うんですね。しかもこれはおそらく自分が癌であるということは自覚されている頃ですよね。そういう「清い心・美しい心・精神」そういうのは、やはり「慈悲」という言葉に込められていたんじゃないかな、というように思うんですね。
 
金光:  今お話をお伺いしたのも、中村先生の一端を聞かせて頂いたということだろうと思いますけれども、今年は大正元年から考えますと、ちょうど百年に当たりますし、しかも今日お邪魔している中村先生がお住みになっていたお宅の中の書庫にあった本は、松江市の「中村元記念館」の方にそっくり移っていて、間もなくそちらの方で一般に公開されるという運びになっているようでございますが、現代の世界、現代の日本を考えてみても、非常に角を突き合わすような事件がいろいろあるわけですけれども、そういう時代であり、そういう生き方をしている人が多いだけに、今お伺いしたような中村元先生の生きられた世界、目指された世界というのは、今後の平和な生き方に非常に参考になるんではないかと思いながら聞かせて頂きました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十四年十月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである