いのちの宇宙
 
                 高野山大学教授 松 長(まつなが)  有 慶(ゆうけい)
<心経の秘密を読み解く」「二十一世紀に生かす 真言密教の智慧」「著作集(全五巻)」ほか。
                 き き て   白 鳥  元 雄
 
ナレーター:  秋の霧雨に煙(けむ)る和歌山県高野山の大門(だいもん)。金剛峯寺(こんごうぶじ)一山の総門で、今からおよそ二百九十年前に建てられたものです。山門からほんの数分も歩くと、霧雨は晴れ、紅葉の盛りを過ぎた参道には、参拝客の姿も疎らになりました。西暦八一六年(弘仁(こうにん)七年)弘法大師空海が、この地を開いてから真言密教の聖地として多くの人々の信仰を集めてきました。現代高野山では、平成の大修理が進行中で、一山のシンボルである根本大塔も修理され、塗り替えられました。今年の秋は、主だった伽藍の修復落慶法要が行われ、殊の外賑わいを見せましたが、今はその賑わいも去って、静かに冬を迎えようとしています。ここの高野山大学で教鞭を執っておられる松長有慶さんを、五(ご)の室谷(むろたに)のお住まいにお訪ねしたのは十一月の初めでした。松長さんは昭和四年のお生まれ、昭和五十八年から五年間、大学の学長も務めておられます。今回は、密教の立場からみる「いのち」の問題について、弘法大師空海さんの言葉などを引きながらお話を頂きます。
 

 
白鳥:  高野山は標高九百メートルぐらいと聞いておりますが、さすがに秋のくるのは早いですね。
 
松長:  そうですね。今年はね、厳しいようです。
 
白鳥:  そうですか。今年は早いですか。お庭も綺麗に紅葉して。
 
松長:  今年、紅葉も綺麗ですね。例年になく朝夕の冷え込みがきついですからね。
白鳥:  そのせいでしょうかね。弘法大師空海が、創始の斧を入れられた時から大体一二○○年経っていますね。
 
松長:  一一八○年ほど前になりますけどね。
 
白鳥:  京であれだけ宗教的にも社会的にも活動されていた弘法大師が、何故三日もかかる高野山を選ばれたかということですね。
松長:  そうですね。やはり二つの性格を弘法大師は持っておられたと思うんですね。一つは、社会にあって、人々のために仏道を広め、そして人々を救うという使命と、もう一つは、この大自然の中に入って、そして黙って瞑想をするという、こういう密教の二つの面、俗と非俗と、この二つの面を一人でやってのけようされたということ。そしてその俗の拠点として京都があり、非俗の拠点として高野山が欲しいと、こういうふうに申請されているわけなんですね。
白鳥:  ほんとに素晴らしいところを選ばれたものですね。
 
松長:  ちょうど盆地になっておりましてね。これ水に恵まれておりますし、そしてここに修行僧が住むのにも、やはり水が大切でございますからね。そういう関係もあったと思いますし、そして都から離れて、俗世間と一旦入ればここで断ち切るということができる場所ということなんでございましょうね。
 
白鳥:  さて、その弘法大師空海ご自身は、今日のテーマである「いのち」というものをどういうふうにお考えになっていらっしゃったんでしょうか。
 
松長:  ここはお話すると長くなりますけれども、弘法大師のご生涯というのは、ほんとに考えたことを次々に実行されて、非常に大変お仕事をされたわけなんですけれども、ご自身はどんどん順風満帆のようにやってのけられたように思うんですけれども、どうもいろいろ調べてみますと、三度ほど身体の不調を訴えられ、そして死を考えられたことがあるんじゃないか、ということがわかってまいりましたんですね。これは私の考え方ではなくて、私の恩師の中野義照(なかのぎしょう)(1891-1977)先生がよくおっしゃっておられたことの請売(うけうり)なんですけど、第一回目は弘仁三年、弘法大師の三十九歳の時ですね。
 
白鳥:  随分お若い時に、ある種死の予感みたいなものを、
 
松長:  中国へ留学して、お帰りになって、密教を広めようとされて、まだ五年半ほどの時なんですね。この時にご自身のお書きになったものでは、それがわかりませんけれども、あの比叡山を開かれた伝教大師最澄(さいちょう)さんのお手紙の中でわかるんですね。それでその最澄さんのお手紙には、空海さんは、「無常を告げて」という言葉があるわけなんです。「無常」というのは、やはり死を予感しているという言葉と理解できると思います。「自分は急いで、中国で自分が受け継いできた密教を授けたい」と、最澄さんに授けたいという。最澄さんはそういうふうに聞いたので、弟子の泰範(たいはん)さんに、「授法でいろいろ準備がいるからその用意をするように」という依頼の手紙があるんですね。ですからその時に身体のかなりの不調を訴えられていたんじゃないか。だから自分が持ってきた真言密教の法を―その時分は、まだお弟子ができていませんからね―誰に伝えたらいいかということを真剣に悩まれて、当時の大徳(だいとく)であった最澄さんにこれを授けたい、とこう決心されたんじゃないかと思うんですね。それで高雄の潅頂(かんじょう)(灌頂とは曼荼羅諸尊の世界に仏弟子を引き入れ仏菩薩と結縁し、密教の継承者とし大日如来の智恵の水を灌ぐことで自らの仏心を開く密教最高の儀礼。弘仁3年(812)には高雄山寺において弘法大師が金胎両部の灌頂壇を開き密教相承の灌頂が行われた)というのが成り立つわけなんです。そうしまして、その後わかりませんですけど、おそらく回復されたんだと思います。で、それからいよいよ大車輪の活躍が始まるわけなんですね。ところがそれからほぼ十年、厳密に言えば九年経った弘仁十二年にやはり身体の不調を訴えられたお手紙が残っているんです。これは今度の場合は、弘法大師ご自身が書かれて、当時の左大臣である権力者の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)という方に出した手紙が残っているんですね。これはかなり長いものです。
 
白鳥:  そうしますと四十八歳の時、
 
松長:  四十八歳の時ですね。その時の手紙長いんですけれども、まあ非常に注目する言葉がいろいろ書かれているんで、私もこれを読んだ時ビックリしたんですね。
 
白鳥:  ちょっと読んでみましょう。
 
俗にあって道を障(ふさ)ぐこと
妻子もっとも甚だし。
道家の重累は、弟子これ魔なり。
斗藪(とそう)して道に殉(したが)い、
兀然(ごつぜん)として独座(どくざ)せば、
水菜(すいさい)よく命を支え、
薜蘿(へいら)これ吾が衣なり。
(藤原冬嗣宛書簡)
 
松長:  この言葉はお手紙の中程にあるんですけれども、「俗にあって」というのは、在家にあっては自分の目的を遂げるための障りになるのは、妻子がもっとも甚だし、これは非常に痛烈な言葉ですね。それからもっとビックリするのは、その次なんですね、「道家の重累は、弟子これ魔なり」というのは、この「道家」というのは、宗教者ですからね。仏教家にとって、重荷になるのは弟子なんだ、と。これをちょっと聞いたところ、私はその時に、「これ魔なり」とこういうふうにおっしゃっているわけなんですね。弘法大師がこういうふうな痛切な言葉を言っておられるのはこれだけなんですね。しかしこれをよく考えてみますと、やはり意味がある言葉だということがわかってまいりました。その次に―中略していますけども、国家からの給付はお断りしたいと。それから弟子は冬嗣(ふゆつぐ)さんにお任せしたい、という言葉が、その次にあるわけなんですね。そして自分はどうするかというと、「斗藪(とそう)して道に殉(したが)い」ということですから、「斗藪(とそう)」というのは、乞食(こつじき)してということですね。ですから自分はもう一切の関わりを捨てて、そして仏道に順って、「兀然(ごつぜん)として独座(どくざ)せば」兀然(ごつぜん)というのは、不動―じっと動かないということですから、そして黙って瞑想に入るならば、そういう生活を送るならば、「水菜(すいさい)よく命を支え、薜蘿(へいら)これ吾が衣なり」と。水菜だけで私は生命を繋ぐことができますし、山に生えている葛だけで私の衣になりますから、もう一切の世俗的なことは捨てて、私は大自然の中に入っていきたい、と、こういうお手紙なんですね。だから一番気に掛かるのはお弟子さんだということですね。今度は先ほどのお手紙から十年経っていますから、もうお弟子さんができていますし、一番気がかりなのは今度はお弟子さんを誰かにお願いをしてからでないと、自分は自然の中に入っていけないということですね。そういう手紙が残っているということです。これも第二回目のそういう不調を訴えたということがあるわけですね。
 
白鳥:  先ほどですね、二面空海はお持ちになっていらっしゃった、と。一つは京都で俗への布教の問題ですね。それはこの弟子たちを中心にする一種の教団として、また布教のエネルギーというのか、組織化されていた。そればかりではいけないんだと。やはり兀然(ごつぜん)として独座への憧れみたいなもの、四十八歳の時に、もう既に考えていらっしゃったんですね。
 
松長:  そうですね。そういう山へ入って自分が修行したいと。瞑想したいという気持ちが、やはり心の隅にいつも持っておられたと思うんですね。
 
白鳥:  これが四十八歳ですか。
 
松長:  はい。もうこの時には高野山を開創されていますからね、おそらく高野山に入って、瞑想生活に入りたいということだろうと思いますね。それから今度は三番目は、それから十年経って天長(てんちょう)八年(831)なんですね。これは五十八歳の時です。この時もかなり身体に変調をきたしておられまして、その時には『性霊集(せいれいしゅう)』という弘法大師の文集がございますんですけれども、その中に国家に対して出した上表と言いますか、申請書がございまして、それは「自分が受けた職位―お坊さんの位を朝廷に返上したい」というふうに、そして「自分はやはり山に入って一人瞑想に耽りたい」と、こういう手紙がございます。そしてもうこの頃になると、京都での布教活動というものよりも、だんだん山へ籠もって一人静かに瞑想に耽りたいという気持ちが高じてこられたように、私には思えるんですね。
 
白鳥:  空海は、その頃にはやはりもう宗教家としてはほんとに位人心を極めると言いますね、そういったものをもお返ししたいという思いというのは?
 
松長:  すべてのものを国家にお返しして、自分は身軽になりたいという気持ちをそこに出しておられるんですね。そしてその翌年なんですけれども、今度は高野山で「万燈万華会(まんどうまんげえ)」という大きな法要が行われるわけですね。この時に願文(がんもん)がございまして、この法要をするから、自分がどういう願いを持っているか、ということを文章に綴ったものが―これは弘法大師の中にも随分たくさんございますけれども、その中に非常に有名な言葉がございますんです。
 
白鳥: 
虚空尽き、衆生尽き、
涅槃尽きなば、
我が願いも尽きん。
(「高野山万灯会の願文」)」
 
松長:  これは虚空―大空がなくなる、あるいは衆生―生きとし生けるものが一人もいなくなる、悟りというものがなくなる、そういう時になれば、自分の願いもなくなるでしょう、と、こういうことですから、逆に言えば大空がある限り、生きとし生けるものがおる限り、悟りというものがある限り、自分は人々を救い、人々の悟りへの道に手助けをする、そういう利他行(りたぎょう)を止めることはない。非常にスケールの大きい願いを、そこで起こしておられるんですね。
 
白鳥:  反応的な表現ですね。しかし非常に重大に決意表明をされているわけですね。
 
松長:  そうなんですね。
 
白鳥:  そしてその決意の中に、間もなく自分のいのちというものは、という、そういう予感みたいなものを秘めているような感じがしますね。
 
松長:  やはり高野山というところは入定(にゅうじょう)(真言密教の究極的な修行のひとつ)の場所として、禅定する場所として貰っている土地ですから、そこへ入りまして、自分は一生を終えるとしても、そういう永遠のいのち、瞑想することによって永遠のいのちと繋がっていくと。しかし山へ入りきりではなくって、その永遠のいのちを持って、今度は俗世界の人々のために手助けをしたいという、これ大乗仏教の利他行の気持ちを、これを出しておるということだと思います。こういうことから弘法大師の入定信仰というのができてまいりますんですね。弘法大師は亡くなられたんじゃないと。生きて高野山で坐禅をしておられて、願いがあれば、人々がいろんな願いがあればいつも聞き届けるためにいらっしゃってくださるという、こういう独特の入定信仰というのがやはり出てくるんですね。
 
白鳥:  衆生救済ですね。
 
松長:  そうなんですね。偶然できたんじゃなくて、ずっとご一生を通じて、そういう決意を持っておられたということが、民衆は受け止めたんでしょうね。
 
白鳥:  松長さんはこのご本の中で、漢字で書く「生命(せいめい)」という字と、平仮名で書く「いのち」という、その間にあるいろいろな書き表し方の中に、生命観と言いますか、生命というもの、あるいはいのちへの見方というものが、いろいろに現れているんだと、冒頭に書かれていますですね。
 
松長:  「いのち」と言いましても、我々が使っている「いのち」というものと、それから非常に広い意味で芸術家とか宗教家とか哲学者が使っている「いのち」というのとが、ちょっとニュアンスが違うように思います。しかしこれはほんとにニュアンスが違うから別かどうかということもやはり考えていかなければいけない問題だろうと思いますね。我々は普通親から生まれて、やがて死んでいく命、あるいは植物であれば種から芽を出し、そして花を咲かし、実を付け、そしてやがて枯れていく命と。こういう目に見えるいのちというものが普通我々は命と考えますね。これ医学でも、あるいは法律でも、常識でも、これやはり我々の「いのち」といった場合に、こういう目に見えるいのちというものが中心になると思うんですね。それと同時に先ほど申しました目に見えないいのちと申しますか、「この作品は自分のいのちを懸けてやったものだ」というような時ですね、「これが私のいのちだ」というような時の「いのち」というものがありますし、あるいはその宗教的に言いましたら、目に見えるいのちだけではなくて、大きな宇宙のいのちと申しますか、実在的ないのちと申しますか、根元的ないのちと申しますか、そういったものも、やはり宗教・哲学というようなものは、そこに根を据えているということが言えると思うんですね。大乗仏教でも、無量壽如来(むりょうじゅにょらい)といういのちの無限性を仏様にするという考えもございますし、あるいは『法華経』なんかにある久遠実成(くおんじつじょう)(法華経の教えにおいて、釈迦は三十五歳で悟りを開いたのではなく永遠の過去から仏(悟りを開いた者)となって輪廻転生してきているという考え方)の仏というふうに永遠の生命というものをどこかに考えているのが宗教だということが言えると思いますね。ですからこのいのちが、目に見えるいのちと目に見えないいのち、これが今でも自然科学や医学関係の方と宗教家が、同じいのちのシンポジウムやってもどっかずれているのは、見えるいのちと見えないいのちが、お互いの話の中でやっぱり接触がないということが大きいんじゃないかと思うんです。ですけど、これは目に見えるいのちというのが、やはりどっかで目に見えないいのちと繋がっているということを、我々は考えなければ、本当のいのちの全体像というのは浮かんでこないんじゃないかと思うんですね。このいのちというのは繋がりじゃないかと思うんです。一つは時間的に言いますと、先祖から親に、親から自分に伝わり、また自分から子ども、そして孫へという形で、いのちというのはずっと時間的にも縦に繋がっていきますね。それと同時に、仏教では、「一切衆生(いっさいしゅじょう)」という言葉がございます。これは大事な言葉だと思うんですけれども、生きとし生けるものすべて同じいのちを共有している、という考え方ですね。人間も犬や猫や鳥や、あるいは魚や虫までも、みんないのちとしては変わらないんだ、という一切衆生という考え方がございますね。そうなりますと、私のいのちは、個々個人だけではなくて、この地球上のあらゆる生き物のいのちと繋がっているんだ、という考えですね。空間的な広がりをもっていますね。例えばアマゾンに生えている木というあのいのち、あるいはヒマラヤの奥に咲いている花のいのち、こういったものも自分とはまったく無関係ではなくて、そういうもののいのちが、私のいのちにいろいろな形で作用してくる。ですから地球上のものをお金にまかせて全部木と切ったら、それでいいんだということにはならないということ、あるいはそこらの魚とか貝を取り尽くせば、あるいは植物を取り尽くせば、自分のいのちにやはりかえってくるという、こういう空間的ないのちの広がりというものが、最近のエコロジー(ecology:生態学。生物と環境との関係を研究する学問)の中でも認識されてまいりましたですね。ですからいのちというのは、時間的、空間的にもそういう繋がりを考えないといけないんじゃないか。
 
白鳥:  親から子、孫へという、この自分の血の繋がりへの感覚というのは、わりに分かり易い日常的な感覚の中にもあるんですけれども、空間的なというものは、仏の教えの中で、その昔から語られていることですよね。
 
松長:  そうですね。
 
白鳥:  それをなかなか私たち日常、俗人には普通の感覚では受け止められないところがありますね。
 
松長:  そうですね。仏教では輪廻の考え方は受け入れておりますし、この輪廻というのはやはり自分が亡くなった時に、何に生まれ変わるか。小さい時に、「ご飯食べて寝たら牛になる」とか言われましたですね。そういう形で生まれ変わりということを考えると同時に、自分と一緒に生きている鶏、あるいは牛、犬、こういったものもひょっとすると、自分の親が生まれ変わってきているんじゃないか、という考えというのが、輪廻の考え方にございます。そうなりますと、このいのちの繋がりは―輪廻ということは縦に繋がっているだけではなくて、空間的にもいのちの繋がりを教えるということになるんじゃないかと。仏教では「不殺生(ふせっしょう)」という戒律がございますけれども、それの理由付けの一つに、そこの鶏を殺すと、ひょっとしたらあなたの親が生まれ変わっているかも知れないから不殺生をしちゃいけませんよ、というようなことで使われることもございますんですね。
 
白鳥:  私たち一人ひとりの、いわゆる生命といいますか、漢字で書く「生命」―孤立しているんではなくて、時間的にも空間的にも、さっきおっしゃった目に見えない無限的ないのちと、そういう意味で使っているということなんですね。
 
松長:  そうなんですね。ですから我々どうしても、自分のいのちだから自分がどう使おうと勝手だ、ということになるわけなんですけど、そうじゃなくて、私の個人のいのちというのは、そういう時間的にも空間的にも無限と繋がる一部分だと。それを分け与えられて生かして頂いているんだ、という考え方が、やはり必要になってくるんじゃなかでしょうか。
 
白鳥:  区切られた、孤立した生命ではないということですね。分子が部分でもない。
 
松長:  そうですね。仏教の考え方というのは、一つひとつが寄り集まって全体ができている、という考え方じゃないんですね。我々は常識的に言っても、あるいは物理的に言いましても、いろいろなものが集まって全体ができているんだ、と、こう考えるわけなんですね。これは自然科学もそうですし、ところが仏教では、一つのものの心の中に全体がもう全部含まれていると。小さないのちの中に無限のいのちが全部込められているんだ、という考え方。この「一即多」と言いますか、「多」というのは多いという意味ですね。
 
白鳥:  一つ即ち多と、
 
松長:  これは『華厳経(けごんきょう)』なんかにもよく出てくるんですけれども、「帝釈天宮(たいしゃくてんぐう)の網(あみ)」という譬えがございましてね、これ略して「帝網(たいもう)」というふうに言うんです。これが面白い譬えでございまして、帝釈天という地上の最高の神様のおられる立派な御殿ですね、その天井がずっと綺麗な宝珠でもって飾られているわけです。珠が落ちないように、綱で縦横にずっと貫いてとめてあるわけなんですね。そういう帝釈天宮がございまして、その珠というのは無数に天井に珠があるんですけど、一つの珠はその他の珠を全部映し取っていると。そして映し取られている珠が、また隣の珠には全部映し取られていると。映しているものが映し取られているものだという、こういう無限の個々のものの中に全体を含んだという考えの譬えとして、「帝釈天宮の網の譬え」が、仏教ではよく使われるんですね。
 
白鳥:  一つひとつの網の目の珠が、これは一つひとつというものではなくて、全部が全部を映し取っていると。
 
松長:  そうなんです。ですからなかなか常識的には理解できないものですから、いろいろなそういう譬えでもって説明したんだと思いますね。『華厳経』はああして、東大寺の大仏でもそうですね。千葉(せんよう)の台座に仏がおられて、千体の台座の仏が中心の毘盧遮那(びるしゃな)如来と同体とされ、こう大仏は一仏であるけれども、千仏そのものだと。こういうことです。それぞれの千仏の中に、この一仏も含まれている、という考え方がございます。これは弘法大師のお考えの中にも引き継がれておりまして、弘法大師の『吽字義(うんじぎ)』という書物がございます。その中にやはり適切な譬えがございますので、一度それをご覧になって貰いたいと思います。
 
白鳥:  これは、
 
両足(うそく)多しと雖も、
並に是れ一水(いっすい)なり。
灯光(とうこう)(ひとつ)に非ざれども、
冥然(みょうねん)として同体なり。
(「吽字義」)
 
松長:  これは雨と灯明の光、これによって個というものと全体というものとの相互関係、相即(そうそく)関係(事物の働きが自在に助け合い融け合っていること。二つの物事が密接に関わり合っていること)というものを表そうとした文章でございまして、ちょうど激しく降る雨は、ちょっと目には、一つの水流のように見えるが、本当は一粒ずつの水滴の集まりである。また灯明は、一瞬一瞬に消え去る光の連続であるけれども、われわれの目には、一つの光に見える。こういう全体としてはずっと続いた光だと、こういう一と多の関係と同じことなんだと、こういうふうに説明されている文章なんですね。
 
白鳥:  私ども、テレビの番組を作る時に、超スローモーションとか、一遍停止したりして、そういうものの動きが止まることがございますでしょう。そうすると、まさにそこで孤立しているものが一つありますよね。しかし日常的映像として言えば、それが一緒になって見えるという。よく分析してやりますね、それを早くも一二○○年前に、
 
松長:  なるほどね。そういうことも言いますね。まさにそういうことだと思いますね。こういうやはり一つのものが孤立で、一つでなくて、全体の中の一つであるし、そして一つの中に全体を全部含んでいる、という考えは、これは密教の曼荼羅(まんだら)の考え方にもやはり現れているということが言えると思いますね。一般によく知られているのは、日本では金剛界(こんごうかい)曼荼羅と胎蔵(たいぞう)曼荼羅、この二つの「両部(りょうぶ)曼荼羅」と申しますけれども、その中の一つの胎蔵曼荼羅をここに掲げてあります。この胎蔵曼荼羅の真ん中が大日如来でありまして、後は四百四十何尊というたくさんの仏さんがおられるんですね。この仏さんというのは、大乗仏教でよく知られた観音さんとか、お地蔵さんとか、文殊さんとか、そういう仏さんがたくさんおられると同時に、ヒンドゥー教で信じられておったような神様がみなこの中に入っているわけなんです。
 
白鳥:  中には恐い顔をした方がいらっしゃいますね。
 
松長:  そうなんですよ。これちょっと普通であれば除外されるような象の顔をしたり、あるいはお星様を象徴したようなこういういろいろな、日本で言えば八百万(やおよろず)の神が全部引っくるめて、そして真ん中の大日如来は絶対の仏さんですけれども、それぞれの仏さんというのは、みんな性格的に分かれておりまして、優しい仏さんとか、実行力のある仏さんとか、あるいは頭の良い仏さんとか、こういうふうにいろいろ分かれています。しかしそれは部分だというわけなんですね。その部分が真ん中の大日如来の絶対性の一部分を表現しているんだ、と。ですからこれはすべての生きとし生けるもの、みんな同じ序列の中で考えていると。
 
白鳥:  大日如来を長として、という図ではないんですね。
 
松長:  そうなんですよ。ですからそれぞれがみな大日如来であるわけなんですね。その一部分を分担している大日如来だ、と、こういう考え方がこの中にあるわけなんですね。個々の仏でありながら、しかし奥底では大日如来と繋がっているんだという、こういう繋がり方ですね。そして個々のものは部分でいいんだと。部分で完全なんだと、こういう考え方がございますね。
 
白鳥:  部分で完全なんだ。それこそ全体を現しているんだ、と。
 
松長:  現しているんだ、ということですね。
 
白鳥:  それが先ほどの「一即多」という考え方でもあるんですね。
 
松長:  そうですね。曼荼羅、特にこの胎蔵曼荼羅が、そういう考え方をよく現していると思いますね。
 
白鳥:  これは先生のご本を読むと、「密教の行者が、ある宗教的な体験のイメージを、二次元の世界に投影したものだ」というふうにお書きになっていますけれども、そういう形である種見える瞬間になるわけですね。
 
松長:  そうですね。やっぱり行者が瞑想するということは、大きな宇宙のいのちと自分が一つだ、ということを、体験の中で知ることですからね。そういう自分だけが楽しむだけではなくて、そういうものを一般的に図に描けばこうなるんだ、という。弘法大師も曼荼羅というのは、一般の方々に象徴的に示すものだ、というお言葉が中国からお持ち帰りになった請来目録(しょうらいもくろく)という中にあるんですけどね。ですからまさにそういう全宇宙を見やすく示したらこうなるんだと、こういうふうな考え方だと思います。
 
白鳥:  もう一つ、空海の教えの中で、非常に特異かなと思ったのが、「三種世間(さんしゅせけん)」(生きものとしての衆生世間、その生きものの住む場所としての国土世間、この二つを構成する五蘊(ごうん)についていう五陰(ごおん)世間の三つ。また、器世間(国土世間)・衆生世間と、これらが教化の対象となることを示す智正覚世間(仏の智身))という観念を先生書いていらっしゃいましたね。あれは無機物の世界、つまり無生物ですよね。いのちのないものも同じ、
 
松長:  これは密教の独特の考え方だと思いますね。弘法大師の中心的な書物の一つに『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』という書物がございまして、
 
白鳥:  その中で、
 
六大(ろくだい)は一切の仏、
一切の衆生、器界(きかい)
三種世間を造す。
(「即身成仏義」)
 
これはつまり一切の仏、一切の衆生、そしてこの「器界」というのは物質的な世界ですね。
 
松長:  そうですね。
 
白鳥:  それをも「三種世間を造す」と同列に並べたということですね。これを読んだ時に、もしかすると、空海さんはそういう形で無機物・無生物のところにも、
 
松長:  これは大きな特徴だと思いますね。「六大」というのは、ご承知のように、「地・水・火・風・空」という五つの物質的な原理と、それから「識大(しきだい)」という精神的な原理ですね。この二つの大まかに分けると、物質的な原理、精神的な原理、こういうものによって仏も成り立っているんだ、と。衆生―生きとし生ける私たちも、それによって成り立っているんだと。だから我々は、自分自身の本来の姿を見つけ出すと、仏さんと変わりないんだから即身成仏ができる、ということなんですね。そこまでは普通の大乗仏教の常道なんですけれども、その上に「器界等三種世間を造す」ということは、「器界」というのは、まさにおっしゃるように物質世界なんですね。現代語で言えば、「環境」と言ってもいいかも知れませんね。石ころに至るまで、みんな同じように、我々生きとし生けるもの、あるいは仏さんと同じように、六大からできているんだ、という考え。ということは、いのちを持っているということなんですね。非常にもう一つ観念を広げられたんだなあ、と思って。
 
白鳥:  別なところにも、顕教(けんぎょう)では―顕教というのは、密教以外のすべての仏教では、四大(地・水・火・風)というこの物質的な原理というものを、そのまま「非情」(物質的要素)とすると。「非情」というのは、いのちのないものと見ているけれども、密教はこれを「如来の三昧耶身(さんまいやしん)」と見るという、こういう言葉があるんですね。これは仏さんのシンボルと見ているんだ、ということですね。そしていのちを認めているということですから。生きとし生けるもの、それだけじゃなくて、太陽でもお月様でも、みんなこれいのちを持った存在だと、こういうふうに見るわけですね。
 
白鳥:  確かに地球四十六億年の歴史とよく言いますですけど、その生命を生み出すまでに、もし十億年として、しかしその前のほんとに物質だけの地球の時代もまたこれいのちを生み出すための一つの長い長い営みだったかも知れませんですよね。
 
松長:  そうですね。我々は近代的な頭で、これを物質だとか、最初から分けてしまっていたんですけれども、もともとはそういういのちを持った存在というものが、これ日本人の考え方の中にもあるんですね。弘法大師は、こういう形で理論的にお説きになっておられますけれども、日本人の感覚の中にも、そういういのちのないものにいのちを認める、という考え方が実はあるんですよ。それは一番端的に言いましたら水なんですね。水というのは、私たちは化学式では「H2O」だと。それは物質のように思うわけなんですけれども、私たちは、この水というものはやはりいのちを宿しているものだ、という考え方がやっぱりありまして、密教でもこの水のことを「閼伽(あか)」と言うんですね。重要な儀式をする時には、閼伽井戸というのがありまして、それは普段は使えない井戸なんですけど、そこへ行きまして、行くというのも夜中を過ぎた丑三つ時(うしみつどき)(今の午前二時から二時半)を過ぎた時刻に、それを汲みに行くわけなんです。というのは丑三つ時というのは、やはり悪魔が跳梁(ちょうりょう)する時期だということですから、それを避けてその後にまだ夜が明けきらない時期に水を汲んでまいりまして、それを大事に、先ほど申しましたように、灌頂(かんじょう)の儀式なんかの時にも、その水は使うわけなんですね。
 
白鳥:  そう言えば、私ども暮らしの中でも、お正月に少なくとも若水(わかみず)という形で、未明の水を大事にしますよね。
 
松長:  そうですね。あれはやはりいのちが宿っているということ、そして新しく生まれ変わる時にも、かなり水という水の生命力というものが大事にされます。ですから灌頂(かんじょう)を授けるというのは、今の在俗の生活ではなくて、聖なる生活にこれから切り替わる、生まれ変わりの儀式、その新しいいのちを授けるために水滴を頭に垂らすという。キリスト教でも洗礼(せんれい)がございますね。これはやっぱり水で生まれ変わりという時に、水を使うという。そういうふうに水というものは、生まれ変わりのいのちの象徴だったと。お相撲でもそうですね。水入り―あれ疲れてきてお相撲さんが疲れてきた時に、水入り、あるいは水をつけることによって、もう一度元気を回復さしていく。
 
白鳥:  再生なんですね。
 
松長:  再生なんです。若水と同じなんですね。
 
白鳥:  そうですね。民族学的にも、かなりほんとに水というのは大事にされていますですね。日本のこの長い長い歴史の中で。
 
松長:  ほんとにこういう水の文化というのが、やはりいのちの文化と結びついているわけなんですね。そしてどなたか亡くなられると、仏教では「末期(まつご)の水」と言いまして、綿に水をつけて亡くなった方のお口をぬぐうと。これは俗には三途の川へ行くまで喉が渇くから、こう水をつけてあげるんだ、と言いますけれども、これをよく考えてみますと、私は、これは再生の願いを込めている水だ、と思うんですね。良い所へ生まれ変わって来いよ、と。水というものの再生、いのちを、そこで死者につけることによって、もう一度生まれ変わって来いと。
 
白鳥:  単純な物質、まさに「H2O」である水の中にイメージされる。そこに観念を込める。まさにそこにいのちを見出しているのかも知れませんですね。
 
松長:  そういう日本の文化の中に―日本の文化だけでなしに、世界中にやはり水のいのちと結びつける文化というのがあるんじゃないですかね。
 
白鳥:  汎人類的なこう広く人類に広がっているという意味でそうですね。
 
松長:  ですから、ものが単に物質じゃなくて、どことなしにいのちと繋がっているという考えというのは、みなもっているんじゃないかと思うんですね。日本語の中の「もの」という考え方も面白いと思うんですね。日本語の「もの」というのは、漢字で書けと言ったら、物質の「物」と書くわけですね。ところが物質の物だけではなくて、「者(しゃ)」という字も、人のことを現す「もの」ですからね。だから「もの」という一つの言葉は、いのちのない物質の「物」と、いのちを持った人間の「者」という、この二つのことを表している。だから単に「もの」は、いのちのないものだということではなさそうだと思いますね、言葉から言いますと。それはやはり現在臓器移植なんかの問題でも、あれは人間の身体そのものを、ヨーロッパ人、アメリカ人のように、もう死んだらこれは物体だ、と。こういうふうには見られない。やはりそこにいのちが持っているという考えと繋がってくるように思いますね。
 
白鳥:  そういったものの中にも、西欧の方々が考えるものの中にもやはりいのちというものを認めていこうという基本的な考え方みたいなものがあるようですね。
 
松長:  そうですね。そういう違いがやっぱりそこに出てきているように、私は考えるんですけどね。
 
白鳥:  今日は、いのち論を伺っていて、やはり弘法大師がお説きになったものというのは、日常的な常識の海に溺れてしまっている私たちには、なんか新しい発想をしろ、新しい感受性を持て、とこういうふうにおっしゃっているような感じがしますね。
 
松長:  そうですね。見えないものも、見えないままで捨てておくんじゃなくて、その中の本質的なものを見つめる目を持ちなさい、ということになるかと思いますね。面白いのは、密教というのは、「秘密の教えだ」とか、あるいは「秘密の仏教だ」と言われる。「秘密」という言葉がキーワードになると思うんですね。ところがこの「密」というのは、我々は「秘密」と言ったら、自分の中に隠しておきたい。これは知られると自分が損するから隠しておきたいという秘密。これは「企業秘密」なんていうことを言いますけどね。こういう形で「秘密」という言葉を考えるわけです。知られたら自分が損するという秘密。ところがほんとの秘密というのは、そうじゃないんだ、ということを、空海さんがおっしゃっているんですね。これが先ほどの『即身成仏義』にもありますし、「秘密には二種あり」ということを言っておられるんですね。一つは、「衆生の秘密」、それから一つは、「如来の秘密」だと、こういうふうにおっしゃっているんですね。この「如来の秘密」仏さんがケチだなあと、隠しておられるんだなということなんです。ところがそうじゃないんですね。「如来の秘密」というのは、仏さんの目から見て、いつでも教えてあげたいんだけれども、教えてあげるとかえって教えられた者に害があるから教えない秘密があるということですね。
 
白鳥:  成長を待って教えてあげると。
 
松長:  そういうことだと思いますね。例えば運動選手なんかですね、コーチが付いて少しずつ高度な技術を教えていきますね。我々のオリンピックでやるような、ああいう高度な演技をやれ、と言われたら一遍に骨を折ってしまいますね。それはコーチが、この人間にはこの程度を教えるという。これもやっぱりコーチが教えられる者に対して、選手に対して秘密を徐々に解き明かしている、ということが言いますね。これが如来の秘密だ、と思うんですよ。仏さんも教えたいのは山々だけれども、教えるとかえって困るという場合があると思いますね。それからもっと大事なのは、「衆生の秘密」ということなんですね。この「衆生の秘密」というのは、今の如来の秘密と違いまして、誰も隠そうとしていない秘密ということなんですね。すべてオープンになっている。しかし見る方の目が曇っているからそれが見えない、という秘密なんですね。
 
白鳥:  むしろ衆生の方に責任があり、と。
 
松長:  そういうことなんです。例えばここの部屋の中に、今何も音が聞こえない。ところがここにラジオの受信機を持って来たら、いろいろな放送が入ってまいりますね。あるいはテレビの受信機でもいろいろ入ってまいります。これはここの部屋に音がないんではなくて、受信機がないだけの話なんです。そういう意味では、誰でも隠そうとしていないのに、自分の方に受信機が具わっていないからそれを見つけ出す目を持っていないということなんですね。それが秘密になっていると。それはこれは弘法大師の教えの基本は、この世の中に存在するものは、みんな価値を持っているものだと。一つとしてムダなものはないんだと。みないのちをそれぞれ発揮して、そしてこの世界を成り立たしているんだ、という考えがございまして、それのお考えを非常に適切に表す言葉が弘法大師の『般若心経秘鍵(ひけん)』という書物の中にございますんですね。
 
白鳥:  これは、
 
医王の目には途(みち)
触れて皆薬なり。
解宝(げほう)の人は、礦石(こうしゃく)
宝と見る。
(「般若心経秘鍵」)
 
松長:  医王―医学、医薬に心得のある者が見れば、道にあるものはみな薬に見えると。あるいは宝という宝石の見聞きのできる人が見ると、そこにある石ころまでも宝と見ることができると。道に生えている雑草は、我々は雑草だと思って、詰まらんからと思って、抜いちゃえとか、踏みつけちゃえと、こうやってしまうわけなんですね。ところが我々が雑草だと思うのは、草の責任じゃないんだぞ、と。これは目のある人が見ると、これは風邪に効く薬ができるんだとか、あるいは腹痛に効く薬がここからできるんだということでして、草そのものには価値を持っているのに、見る目がないから我々は雑草に見えてしまうんだと。あるいは石ころでもそうですね。単なる石ころなのか、あるいはその中にいろいろな宝石が隠れているのか、見る人の責任だということをよく言い表している言葉と思いますね。こういう形で密教というのは、最終的には自分自身の目を養え、ということになってまいりますね。他人の責任じゃなくて、すべてのこの世の中に存在するものの価値を自分で見つけ出す目を持ちなさい、と。ですから、いのちの問題にしましても、我々の個々のいのちは、目に見えるいのちというのは、有限のいのちというものですけれども、その背後にやはり大きな宇宙のいのちですね、こういうものが宿っている。だからそれをちゃんと見抜く目を持つということも必要かと思うんですね。
 
白鳥:  そうですね。目を持つということで、先生の凄くさり気なく書いていらっしゃるんですけれども、
 
観法の途中で周囲を漆黒の闇に完全に包まれることがある。その時は現実に点されて灯火も感覚の中に入ってくることがない。この状態は光の存在を欠く物理的な暗さではなく、この世のあらゆる存在の基底をなす原始の山に身を置いていると言ってよいかとも思う
 
と、こういうことをずっとお書きになっている。観法の途中で、行(ぎょう)の途中で、こういう宗教的な原体験をされるということと、今の「わかる、目が見えるようになる」ということ、
 
松長:  やはり一つ飛び越えるということが必要かと思いますね。見えなかったものが見えてくるというのは、ほんとに我々は闇と光というのは、対立する概念だと、普通考えてしまうんですけれども、ほんとは一つだということを、これ理屈じゃなくて、体験でしかわからないことだと思いますね。そうすると今まで闇だと思っているものの中に、何かが見えてくるということが出てくるんじゃないかと思いますね。
 
白鳥:  やはり観想―自分をよく見つめる行と言いますか、そういう時間も、私たちみな見失っていますんでね。
 
松長:  そうですね。ほんとに自分自身が詰まらんものだということなしに、すべてのものに完全体であるということの自覚ですね。
 
白鳥:  先ほどおっしゃっていた「一即多」、そしてそれはすべて小さなものなんだけど、コスモス全部内の中に持っているんだという自信ですか。
 
松長:  そうですね。いのちの宇宙の自覚と言いましょうかね。
 
白鳥:  そういうことが必要なんですね。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成八年十一月二十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである