主人公となる
 
                 発心寺専門僧堂堂長 原 田(はらだ)  雪 渓(せIDTH="177" HEIGHT="132">ナレーター:  福井県の西部、若狭湾(わかさわん)の沿岸に広がる小浜市(おばまし)です。古代から大陸文化との交流も盛んで古い歴史と文化財に恵まれたこの港町を、「海のある奈良」と呼ぶ人もいます。市内には、仏教寺院の数も多く、人口三万四千人の小浜市に百三十のお寺があると言われます。後瀬山(のちせやま)の山麓に建つ発心寺(ほっしんじ)は、禅の道を志す人々が修行する専門道場の一つですが、年に六回ほど開かれる摂心会(せっしんえ)には熱心な在家の人も加わります。私が訪れた時には、ちょうど十月の摂心会の最中でした。一日から七日までの一週間、僧堂を中心に厳しい修行の日が続きます。いつもの倍近い人数に膨れ上がっている気配は特になく、境内は静寂そのものでした。発心寺の住職で、専門僧堂堂長の原田雪渓さんは、昭和二年愛知県岡崎市のお生まれ、海外からも多くの修行者を受け入れて指導に当たると共に、ご自身も欧米各地へ出掛けて参禅会を開くなど多忙な毎日を送っておられます。お訪ねした日は、たまたま達磨(だるま)大師の命日、達磨忌に当たり、達磨像が掛けられたお部屋でお話を伺うことができました。
 

白鳥:  ちょうど摂心(せっしん)の最中にお邪魔することになりまして、
 
原田:  ご苦労さまでございます。
 
白鳥:  この摂心―ある期間、みなさん集中して坐禅をなさる。これはやはり禅にとっては大事なことなんでございましょうね。
 
原田:  そうでございますね。これは随分昔から禅寺では、特に喧しい一つの大切な行事として行われてきておるものでございますし、摂心によって大いに坐禅の効果というとおかしゅうございますけれども、心境が開けるというような方が多うございますでしょうね。
 
白鳥:  これはかなりやはり厳しいスケジュールなんでございましょう。
 
原田:  ここでは朝四時に起床しまして、夜の九時まで僧堂に詰めて生活をするということになっております。勿論寝起き等も僧堂でしておりますし、食事もこの期間は僧堂でみんな一緒に頂くということになっております。
 
白鳥:  ほんとに詰めて詰めてということですね。
 
原田:  そうでございますね。一つは、摂心というのは、いわゆる坐禅堂だけでの坐禅ということよりも、こちらに生活しておられる場所、控え室ですとか、あるいは休憩のお茶飲むところとかということが全部禅にならないといけませんということで、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)がやはり禅で、特にこの期間中は摂心ということに集中して頂きたいということが、私の方の願いでございます。
 
白鳥:  お見かけしたところ随分外国からの方も多いようでございますね。
 
原田:  今回は外国の人の三十人ぐらいの人がいると思います。大体三十人弱の方が毎摂心に坐っておられます。
 
白鳥:  外国から、
 
原田:  そうでございます。
 
白鳥:  どういう国々からの方が多いですか。
 
原田:  今回はアメリカ、それからドイツ、うちに常におる者はインドの人とか、スイス、ヨーロッパのほとんどの国からの―長短期というのはございますけれども。
 
白鳥:  そしてまたここは一般の方々も参加なさっていらっしゃるそうですね。
 
原田:  ええ。もう発心僧堂は、ご存じのように専門僧堂ということで、お坊さんだけの修行道場のようにみなさんお考えになっておりますけども、八十年近くこの摂心に限っては一般の方も志のおありのある方は、お坊さんの修行と同じように、ということで、ルールが乱れないようにということで、特に堂内に入って坐って頂くということになっております。
 
白鳥:  八十年前というと、大正時代からそういうことが守っていらっしゃったわけですね。
 
原田:  そうです。専門僧堂ということで、禅堂に一般の方も入って頂いて坐るということは、なかなか抵抗があるんですけど、菩提心があるということで、菩提心に免じて、みなさんが一緒に坐ろうじゃないかということでございます。
 
白鳥:  外国の方々に、禅を伝えるということになりますと、これはやはり日本の人々に禅を伝えるものと違うものが出てきましょうね。
 
原田:  多少変えないといけないと思います。こういうことを質問した方があります。どういうことかというと、「私たちはもう教えとしての宗教というものは、十分仏教でなくても、他の宗教でも尋ねて聞いておるんだ、と。だからその教えの根本になるものは何か、ということを尋ねたい」とおっしゃるわけですね。ですからそれを私は、「法」と説明しているわけです、「仏法」。釈迦牟尼(しゃかむに)が法を説かれたから、釈迦牟尼の教え、即ち「仏法」、あるいは「仏教」とこう言っています。ですから、「ここにおられるみなさん方が、ほんとに自分というものをあきらめて、そして法を説かれれば、あなた方が一人一人の教えになるわけです。ですから法というのは誰のものでもないわけです。掴んだ人の者だから。お釈迦さんだけのものじゃありません。掴んだ人のものですから、その掴んだ人が、今度掴んだものを教えとしてお説きになれば、その人の教えになるわけです。ですから釈迦牟尼だけの教えということじゃない」ということでございますね。
 
白鳥:  「教え」と「法」が違うということですね。
 
原田:  そうそう。ですから菩提達磨(ぼだいだるま)が中国にまいりまして、暫く当時の仏教天子と言われた武帝(ぶてい)と問答しました。武帝はいろいろ観念、知識の非常に豊富な仏教の学者でございまして、いろいろご質問なさったけども、それを悉く否定してしまわれた。これじゃ法は伝わらない。仏教は伝わるでしょう。法は伝わらないということで、ご存じのように、九年面壁―山の中の洞窟に入ってしまわれた。自ら示されたのは、法そのものをお示しになった。即ち禅―坐るという。ひたすらに坐る。これが「法だ」ということを、説明なしにお坐りになった。果たせるかなそういうことで立派な慧可(えか)(487-593)というお弟子ができておるということでございます。
 
白鳥:  なるほど。それがアメリカで参禅会をされた時に、ご老師が提唱された。とにかく「仏道とか禅を、思想、知識、観念として受け止めないように」という提唱だったわけですか。
 
原田:  そうですね。「宗教」と言いますと、「宗の教え」と書く。ですから仏教も他の宗教も、「みんな教えだ」と、同じように混同してしまうおそれがございますね。やはり仏の教えだけは少し他の宗教と趣を異にするところがあると思います。
 
 
白鳥:  特に禅の場合に、今の達磨禅師のお話が出ましたけれども、知識、観念ではわからんものなんだぞ、と。
 
原田:  「教え」を、自我をもっている私が一度聞きますでしょう。そうすると、私が教えをいろいろ解釈をします。ですからそこで大変な開きが出てくると思いますね。ですから教えをどれだけ鮮明に克明に覚え参究していっても、法までは到達しない、ということでしょうね。ということは、仏教が無我(むが)の教え―我(が)を本当に無くした人の教えだからということです。我のあるうちは本当の教えは聞けない、ということになりますでしょうね。
 
白鳥:  一種の自己矛盾みたいなところがあるでしょうけれども。
 
原田:  ですから、修行をここでも摂心をするということは、わかっていない人が本当の教えを聞いてするんですから、まだ「無我になりなさい」と言っても、自我を持ちながら修行をしているわけです。自我の中での修行をしているわけです。ですから本当の修行になるということは、一回自我というものを忘れ去らないと、釈尊の言われる仏教の教えにならないわけですね。
 
白鳥:  「教え」には、どうしてもそういう「我(が)・自我(じが)」みたいなものが含まれていると。
 
原田:  そうですね。
 
白鳥:  それとは別に「仏法」と言われる法の世界というものがあるんだ、と。
 
原田:  そうでございますね。
 
白鳥:  そういったところでしょうか、禅の中に「不立文字(ふりゅうもんじ)」―文字にしては立たないんだという言葉がございますね。
 
原田:  ですから「禅」は、菩提達磨によって中国に持って来られたものですけれども、「仏教」というものは、それ以前にも入っていたんですね。仏教という、いわゆる仏の教え―それを経典と言いますけれども、そういうものは随分前から入っておりました。ですからいわゆる薬で言えば、効能書きのようなものでございますね。ですから頭の痛い時には何を飲ますか。お腹の悪い時は何を飲ますか、という、そういう議論ばっかりが当時ではあって、そこで初めて達磨さまが―法ご自身が来られて、そういう「甲論乙駁(こうろんおつばく)しているものは、真の仏教ではないんだ」ということをお説きになったんですね。だけども、聞き慣れないことなもんですから、達磨の教えよりも梁(りょう)の武帝、その他の仏教の経典の教えの方が耳慣れしていますからね、達磨の教えは誰も信じないわけです。ですからこれは法が滅亡すると。仏教は残っても、法は滅亡する、と。それで山に入られたということでございましょうね。
 
白鳥:  文字ではない、と。文字によって書かれた経典ではない、と。
 
原田:  ええ、そうです。だから「教外別伝(きょうげべつでん)」教えの外に伝われるものがなければいけない、と。
 
白鳥:  なるほど。「教」―教えという字が、そういう意味なんですね。
 
原田:  そうです。教の外に伝えるべきものがあるんだ、ということなんでしょう。だから「不立文字、教外別伝」という言葉になって出てきているわけです。
 
白鳥:  そしてそれはつまり坐禅―坐ることによって、そういった経典等の手続きを経ずして法がわかる世界というものがあるんだ、と。
 
原田:  そうですね。ですから禅というものが、究極に至る、法に至る手段や方法として使われないようにしないといけない、ということなんですね。「禅そのものが、法そのものである」ということですから、それを〈なるほど、そうだったのか〉と、こういうふうに自分自らが気付くことですから、坐って経典に書かれる文言を頭に浮かべながら、〈「空(くう)」ということはこういうことか。「無(む)」ということはこういうことか。なるほどそうか〉というような解釈だけでしたら、それは禅にならない、ということですね。そういうことでしたら、学校へ行って、そういう文字の勉強をすればいいことですから。
 
白鳥:  今までの提唱を纏めたご老師の本を読ませて頂きましてね、「真の法の人」とか、「解脱(げだつ)の人」とか、あるいは「安心(あんじん)」というような言葉が出てきますですね。今のお話を聞いても、「法と教えは違うぞ」と。法とは何か。真の法の人とは一体どういうものなのか、という。
 
原田:  「法の人」というのは、法を自分のものにしたとか、しないとか、という―いわゆる悟りを開いたとか、解脱をしたとかという人に係わらず、そういうことを全然ご存じない人でも、みんな法の人なんです。ということは、私たちが認識ができるということは、過去と未来のことしかわからないんです。じゃ、過去と未来を区別している今は何か、というと、「今」というのは絶対にわからないです。無いんですね。今という時は無いんです。それを「法」と説明したわけです。無いものを「法」と説明して見せたということです。だから「法を掴む」ということは、無いものと自分と同化した、ということになるわけです。ですから、みなさん方が全部今を―過去と未来しかわからないんですけれども、確かに「今」という時がございますでしょう、わからないけれども有る。無いけれども有るわけです、今という時間を。
 
白鳥:  今、私たちはまさに今がわかったようなつもりでいますね。
 
原田:  そうそう。それ過去になりますね、今わかるということは。わかるということは隔てができるから見えるんです。見えないということは、ものと一つになっているから見えないんです。ものと一つになっている状態を「法」と説明したわけです。
 
白鳥:  そうすると、今有る私も、また法の中にいる。法そのものである。
 
原田:  そうです。それを〈なるほど、そうか〉と坐って、〈なるほど、そうか〉と自分で頷く。それを「悟り」とこう言いますね。ですから悟っていないという人は、一人もいないわけです。自分で気が付くか、付かないかのことです。ですから正しい教えによって修行をしていけば、必ず自分のことですから悟れないという人は一人もいないんですね。悟りを自覚することができるわけです。
 
白鳥:  法そのものであるということなんですね。それを妨げているものというのは、一体それじゃ何なんだろうか。これは如何なんですか。
 
原田:  仏教の言葉を使わせて頂きますと、「無明(むみょう)」と言っていますね。本来もともと一つのものであるのに、それを二つに分けて考える。俗に言う言葉で「主体」とか「客体」とかと言いますけれども、これは二つ同時に考えられるものじゃない筈です。「主体」と「客体」。それからあるいは「善」と「悪」という。「好きだ」「嫌いだ」というのは、同時に二つの意識を考えることはできませんですね。だけども、私たちはあまりにも早く移り変わっているものですから、そういう「主体、客体」「善、悪」でも一緒に考えられるように思っています。だから比較をしてみるわけですよ。比べてみるわけです。ですけども、事実は比べることはできないものですね。一つのものが終わらなければ、新しい思想というものは出てこない筈なんです。ですけども、それは有るかの如くに善・悪を比べてみるということが人の常としてあるわけでしょうね。
 
白鳥:  ということは、そういう考え方をすること自体が、いわば妄想みたいなものなんですかね。
 
原田:  そういうことを、自意識と自我。いわゆる仏教で言う「我(が)」とこう言っているわけです。「我」の働きですね。それも「無明」という、これは生まれながらにして、そういう仏になっておるという人は一人もありませんですね。先ほどの「みんな仏さん」という話と大変矛盾をお感じになると思いますけれども、無明というその過程を経なければ、そしてその無明をあきらめなければ、ほんとに自分は仏であったとか、悟った人だ、ということはわからないんです。
 
白鳥:  人は生まれながらに仏性―仏の性というものを受けているんだけれども、しかし人間として生まれてしまうと、無明、まさに無明の状態に入っている。
 
原田:  たとえば、今では塩は塩化ナトリウムと言いますでしょう。しかし化学製品になりましたけども、昔は海の水を汲んで塩田で撒いて、そして塩を作ったものです。ですから辛いものだから塩水を持って来て、お料理にすればいいじゃないかって言っても、そういうことはできません。ですから必ず手数を掛けて一遍塩にして、そしてお料理に使う。やはりその手続きを経ませんと塩にならない、仏にならないわけですよ、人間も。
 
白鳥:  塩になる本質は、人は持っているんだけども、まだみんな塩水のまんまだと、こういうことなんでございますね。
 
原田:  そうですね。勿論塩水のままで使えないことはないけども、限定されますね。塩水だけですと。
 
白鳥:  まあそうでしょうね。
 
原田:  ですから、どうしても塩に仕立てていかなければならない。それを禅の方では、仕立てるまでのプロセス―過程を「修行」と言っております。塩になった時を、修行が成就した時、即ち「解脱をした」とか、「悟りを得た」とかというふうに言っておるわけでございます。
 
白鳥:  塩田に撒き、それを煮詰めた。その過程が坐禅ということになるわけですか。
 
原田:  そうですね。坐禅というのは坐ることばかりではありません。自分とものとの距離を如何にして一つにしていくかという、そういう姿勢で生活をしておられるならば、仮に坐らなくてもその人は、坐禅の修行をしておるという、まったくそれは間違いないことです。
 
白鳥:  そんな広いものなんですか。
 
原田:  そうです。それから坐禅をしておっても、坐禅と自分とが二人連れになって坐っておれば、その人は坐っておっても坐禅をしていない、ということになるわけですね。
 
白鳥:  二人連れの坐禅。もう少しご説明頂けますか。
 
原田:  私が坐禅を行(ぎょう)じておるということになるわけですね。
 
白鳥:  さっき使われた「我」とか「自我」とかというものですか。
 
原田:  そういうことです。「私が坐禅を行(ぎょう)じておる」と言いますと、離れているわけです、坐禅と私。ですから絶えず自分の坐禅の状態を自分で眺めながら、今日は上手く坐れたとか、妄想がたくさん出過ぎるとかということが、いつもチェックしていますね。自分が離れているからよくわかるわけです。自分の坐禅の状態が。ですからそういうことでは、坐っておっても坐禅にはならない。むしろ寝ておっても、ほんとに横になったままで静かにものと一体になるべく努力をしておれば、よほどその人の方が禅をしておるということになるわけです。
 
白鳥:  身体の姿だけではない、と。
 
原田:  そうですね。
 
白鳥:  逆に伺いますが、今のは広い意味も含めて、坐禅でなければいけないのですか。その塩になるための過程というのは。
 
原田:  そういうことです。そういう自我を無くする方法、例えばものと一体になっていくことを「禅」と名付けております。だから「一体になる」ということは、それを「禅」と言っておるわけですね。それを「禅」と言っているわけですから、禅しかないじゃないでしょうか。
 

 
白鳥:  先ほどの話にちょっと戻るんですけども、観念とか、概念とか―教えの世界ですね、さっき話に出ましたあの教えの世界から禅の目指す状態、つまり法のわかる、法そのものになる条件というのはないんでございますか。
 
原田:  いや、聞くものと教えとの間に、自分というものを差し挟まなければ、直接耳に入る。直接ものが見えるということになります。自分というものの介在がなければ。いわゆる自分を立てて聞くとか、見るとかという、そういう意識がなければね。しかし私たちはいつでもそれをしているわけです。そんな意識をしながら、〈私は今、私がものを見ている〉〈私がものを聞いている〉というようなことを意識せずに、いつでもどこでも何をしておっても、それはきちんとそういうものと一体となっている状態というのはあるわけです。それを「今」とこう言っています。「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、ということになるわけです。ものを認めることが一番問題になるわけですね。
 
白鳥:  仏教―まさに仏の教えの中では、お釈迦様とか、あるいはお釈迦様が弟子たちに伝えたと言われるお経とか、あるいは宗派を開いた祖師さまとか、祖師さまの言語録とか、そういったものというのは、もの凄く大事にされますでしょう。これを必死になって学んでいる方もたくさんいますよね。
 
原田:  いらっしゃいますね。
 
白鳥:  これではやっぱり少なくとも禅の目指す禅の世界にはなり得ないわけですか。
 
原田:  「法」というものは、やはり教えというものを自分で理解して、教えを深く参究していくことによって、法に到達できるかというと、それはできませんですね。「私」というものが、どうしても残るわけです。「私」というものを一度忘れ去らないと、教えそのものにならないわけです。どうしても「私」というものの存在があるということですから。
 
白鳥:  ご老師の提唱の中に、それは厳しくおっしゃっているところがありましてね、「瞞(まん)ぜられる事なかれ」―誤魔化されてはいけないよ、というお言葉があったんですが、あれはどういう意味ですか。
 
原田:  これは例えば、素晴らしい景色を見たり、素晴らしい話を聞くと、自分を忘れて、〈あ、素晴らしいな〉というようなことで、やや自分というものをほんとに忘れて感動してしまうというようなことがございますでしょう。感動だけの世界。それはそれで勿論よろしいです。後から戻りますと、また一時的にそういうことを経験したということになるわけですけども。仏の教えもあまり素晴らしいものですから、禅の世界のことがあまり素晴らしいものですから、自分を忘れてしまって、そういう美しく咲いた花とか、感動的にその言葉を聞いてしまうということがあります。だから仏道を修行するということは、自己に参じること、自分を学んでいくことだ、ということを忘れてしまって、感動の世界だけに慕うということがあるわけです。それは気を付けなければならんと思いますね。ですから仏の仏道、あるいは仏の書かれたものを、素晴らしい感動の目でもって見聞するということは、大切なことでございますけども、それを自分の方に回してこないと、相手と自分のある世界というのは、これはほんとでないと思います。
 
白鳥:  そこで続いて、「自らの主人公を確立する」ということをおっしゃっていますですね。
 
原田:  これは私たちが普通「主人公」というのは、ある家の中心になる人だとか、あるいは客観的に見まして、「あの方はどこどこのご主人ですよ」というようなこととは少し違うんですね。仏教でいう禅でいうところの「主人公」というのは。先ほどから申し上げているような「目覚めた人」という意味です。「自己に目覚めた人」という意味に受け取って頂くと、おわかりになって頂けるかと思いますけども。
 
白鳥:  その「自己に目覚めた」の、「自己」というのは?
 
原田:  無明から覚めた人、
 
白鳥:  つまり法というものが自らになっているような人のこと、
 
原田:  そういうことですね。ですから「私は主人公だから」という、また「主人公」なんていうことを、主人公になった人は、自分が主人公だからそんなものは認めきれませんでしょう。「随所に主となり、縁に則して用(ゆう)なる」という言葉がある。だからある時は主人公になっておるけども、ある時は野に行ってお百姓さんでも、その他の諸々の仕事ができるという、ほんとに自由になった人という。何でも自由自在にものができるということになって。
 
白鳥:  先ほどの「我」とか「自我」というものを消去できるということと、「主人公となる」ということと、なんかこう少なくとも日本語の中でいうと、なんかちょっと自己矛盾があるような気もするんでございますが。
 
原田:  自己という自己を認めておる間の自己というのは、ほんとに小さなものなんですね。ほんとに小さな自分なんです。ですけども、そうかと言って、自己がどこにあるか、と言ったら、もともと自我だとか、自己なんていうのは存在しません。ですけども、存在しているかの如くに誰しも思うわけです。この身の中に何かがあって、そして命令をして、何かをさしておるような、何かこの中に一つの別に存在するものがあるからのように思う。それは無明であれ、妄想であるわけですけども。そういうことではないということが、そのままが本来のものであったということに気が付きますと、そうすると、そのままが主人公になっていくわけです。ここでいう主人公になっていくわけです。大きくなっていくわけです。大きさというのは、比較を絶したものということですから、主人公だけのものということですね。そういうように、ここで仏教でいう、禅でいう「主人公」というのは、そういうことなんです。釈尊のお言葉をお借りすれば「天上天下唯我独尊」とか、臨済禅の言葉で言えば、「無位の真人」というのが、みんな主人公が変わった名前なんでしょうね。ですから「主人公」という言葉だけを捉えますと、どうしても、〈ああ、あの人はここの主人だった〉とかということになりますけども、そういうのとはちょっと違う意味があると思います。
 
原田:  今の状況から言いますと、私どもはわりに西欧的な、例えば「自我」、あるいは「自我の確立」なんていう言葉で、「日本人はそれが弱いんだ」と。ある種の、むしろ理想像としてですね、「自我を強固にしっかりと」という、こういう一種の目標として考えていたんですが、そうすると、これはやはり仏の法という観念からいうと、これは間違いなんでございますか。
 
白鳥:  自分が自分を認めておるということだけで、非常に小さい自分なんですね。例えば、ものというのは何で出来ているかというと、「四大(しだい)」―地・水・火・風という四大でできているわけです。また細かく分けて、四大をまたいろんな因縁が集まってできておる。その中には、「我」というものを認める場所というものはないわけです。
 
原田:  「今」と同じような意味で、
 
白鳥:  そうそう。ですから、それを認めてしまう小さな自分があるわけですね。ですから限界があるわけです。限界を作ってしまうわけです。本来縁起によってできているすべてのものの中に、人間も含めてすべての中に、「私」という存在を認めるために限界ができる。そういうものが生まれたり死んだりするものですね。ですけども、縁起というものはそういうものじゃございません。ですから自己に目覚める主人公になると、そういう限界のないとてつもない想像を絶する大きな自分に変わるということです。それを「主人公」とこう言っておるわけです。ここに修行に来られておられる外国のみなさんも、みんな「私というものを捨てるなんていうことは、敗北―向こうの人には敗北です」と。それは完全な敗北になるということですから、修行の過程におきましても、私というものは、考えをしっかりはっきり持って、そして指導者の言う言葉と自分の考えとが、どうしたら一つになるかということを一生懸命考えるわけですね。そんなのダメだというんですけど、それは聞けないんですね。なかなか聞けない。だから一生懸命祖録にある言葉、指導者が話した言葉を自分の考えとどうしたら一つになるだろうか、と、それを考えるんです。そういうことがなかなか捨てきれない。
 
白鳥:  私たちよりもきっと自我の意識が強いと思うんですね。
 
原田:  ええ。ですから「それではそんなに捨てきれなかったら持っておりなさい」と。自我を持ち続けなさい。だからその自我を持ち続けていくことによって、あなたが非常に不自由を感じるならば、もっと自我を大きな自我に転換していったらどうか。ということは、一時的には敗北になるというふうな考えを持つかも知れませんけども、将来は非常に大きなものになる。小さな自分なら、パイが大きな我に変わるんですから、いいんじゃないですか。
 
白鳥:  まさに主人公になる。
 
原田:  主人公になるということです。
 
白鳥:  しかし今伺ったような形の「主人公になる」というのは、なかなか難しいことでございますね。
 
原田:  前からお話の途中に出ておりますように、私たちは、「もう既に主人公になっておるということに気付くだけ」のものです。まったく新しいものに生まれ変わるとか、従来の考えを根底から覆すということとか、まったくそういうことないんです。それも禅の―禅というよりも仏教の特色でしょうね。
 
白鳥:  そうですね。「人それぞれに仏性あり」ということですからね。
 
原田:  そうです。ですから正しい教えによって、正しい修行をしていけば、必ず今、あ、このままで良かったんだ、ということに自ら頷けるということです。
 
白鳥:  やはり丸ごとありのままを受け止めること、それ自体がやっぱり難しいんですね。
 
原田:  それが何遍か話しております自我、人の介在というのが、どうしてもそこに入るということです。他のものとの相違というのは、人の介在があるかないかの問題だけでございます。だから人の介在さえ、みなさんがそういうようにしてお取りになりさえすれば、すべての知識だとか、概念だとか、学問、その他のものが全部そのままいかされて使えるということになるわけです。だからお釈迦様のご在世でも、最初に帰依した方々は、みんなお釈迦様の教えをほんとに信じなかった人です。しかし後からそれが信じられる。お釈迦様の教えを、なるほど、と頷かれた方々の教えを、お釈迦様はそれをみんな自分のものとして受け入れて、経典になってこられますよ。前は哲学とか、さまざまな宗教にあったものを、お釈迦様がお悟りになって、自我を忘じられたから、それができるようになった、ということでしょうね。だから人の介在さえ今すぐ取りさえすれば、みなさんみんな主人公だという。
 
白鳥:  大らかにありのままに受け止められることができる。
 
原田:  その「主人公」という言葉の出所というのは、『無門関(むもんかん)』という禅書に出ているんですね。瑞巌(ずいがん)という和尚さんが修行する上において、いつも自らを―自分のことですね―自らを自ら「主人公」と呼んで、〈お前、目が覚めているか〉というようなことを自問自答しておるわけです。「??(だくだく)」と―目が覚めておる、ということを、自らまた答えて、自らが問い、自らが答えておる。そしてまた自らある時「他の瞞を受けないようにしなければいけないぞ」というと、「はい、はい」ということを言っている。そのことから自ら問うて、自ら答えている。そこに「主人公」という言葉が出てきているわけですね。私たちが僧堂で警策(けいさく)というのを打ちます。あれも「覚策(がくさく)」の意味がございましてね、眠っている人だけを打つんじゃない。今のように主人公に目覚めない人に対して、警策(きょうさく)でもって目覚めなさい。それから警策(けいさく)というわけですね。覚策の意味があります。昔は耳元で鈴を鳴らしただけでも眼が覚めましたんです。だから人間だんだん横着になりまして、鈴だけでは眼が覚めなくなった。
 
白鳥:  パシッという音を聞きますと、厳しいなという感じがしますが。
 
原田:  そういう厳しさというのは、禅寺の通常だとお考えになるでしょうけども、勿論厳しさも必要ですけども、ここではほんとに目が覚めたか、まだ寝ぼけておるか、ということをほんとに調べることの方、その厳しさの方が真に要求される厳しさでないといけないということなんです。外的にいろいろ叩いたり、行事作法で厳しい―これは少し慣れてきますとできることですけども、寝ぼけ眼で〈あ、覚めています〉なんていうようなことではいけないものですから、それでその厳しさというものが許すか許さないか。覚めたのを確かに見届けたか。自らも覚めているか、ということの厳しさというものがないと、禅が衰退していく本(もと)でございましょうね。
 
白鳥:  そうでしょうね。しかし主人公として目覚める。先ほどのご老師のお話をお聞きし、非常に難しいように思いましてね。
 
原田:  そう思わないで頂きたい。自分のことですから、難しいことではありません。ただ気が付くか、付かないか。
 
白鳥:  そうですね。常にやはり「自分の中に、仏性があるんだよ」ということを教えられているような気が致します。
 
原田:  「有る」と言いますと、探さなければなりませんから。
 
白鳥:  そうですね。
 
原田:  だから探すものではありません。
 
白鳥:  仏性そのものである。
 
原田:  そのものの活動です。
 
白鳥:  これだけお話を伺っていても、尚かついろいろなところでまだよくわかっていませんですね。
 
原田:  そういうわからないということも、実は仏性の働きなんです。それだから思想の転換だとか、自分の考えを考えていかなければならんという、そういう私たちが教育を受けたり、知識をもっているから面倒になるわけですよ。だから「法にはわからない」ということもあるんです。「不透明、不鮮明、不確実だ」というのも、それも事実としてあることですから。
 
白鳥:  そのものも含めてありのままに受け止めるということですか。
 
原田:  そういうことです。それでないと、「これは法であり、これは法でない」というようなものが出てきますでしょう。
 
白鳥:  坐禅という形で、そこに到達する手続きなしに、そういう境地に行く、立ち至る。「手続きなし」と言いながら、私どもというと、やはりこれだけこう坐って坐って、と。この秋で言えば、十月、十一月、十二月と続くわけでございましょう。だから大変な修行のように思うんでございますがね。
 
原田:  「凡夫が仏になろう」とするから間違いになるわけです。凡夫が坐禅の修行をして、悟りを開いて仏になろう、と。今の話のように、主人公になろうとするから、そこに大きな間違いが生じてくる。私が言いたいことは、「凡夫がほんとに凡夫になること」。一切の苦心とか修行なんていうのは一切止めてしまって、ほんとに凡夫が凡夫になりきる。それでいいということです。ですから「他に瞞ぜられないように」というでしょう。いろんな尊い仏さまの教えを聞いたり、素晴らしい仏道を拝んだりして感動を覚えて、自分を見失ってしまう。それではいけないんだ。ほんとに「素凡夫が素凡夫になれば、それを仏だといい、主人公だ」と言っているわけです。仏典ではそういっております。
 
白鳥:  ドイツの参禅会の時でしたか、面白いことを言っていらっしゃって、なんか「坐禅の要訣は―つまり決め手というものは―坐禅の行によって、坐禅を磨り潰すことです」というお言葉がありましたね。今、「凡夫が凡夫になることなんだ」というところで、ふと思い出した言葉だったんですけども。
 
原田:  これはものと一つになるというようなことは、とても自我をきっちりもっている人が、「柱と一つになる」とか、「壁の中に入ってみなさい」と言ったって、とてもそれは考えられないことなんでしょう。日本の人だと言われるから、やってみょうかなんて、確かにそうなれるだろうと思うんですけども、なかなか向こうの方々は、そういうように転換ができない。ですから、一つになるということを、「坐禅によって、坐禅を磨り潰してください」ということです。そうしますと、「一つになるということよりも、分かり易い」とおっしゃる。「坐禅によって、坐禅を磨り潰す修行をしてください。坐禅をしてください」と、こう申し上げると、〈あ、そうか〉ということになる。「そのものになりなさい」とかと、ごく当たり前に「そのものになりなさい」とか、「そのままでいいんだ」といっても、なかなかそれは理解し難いんですけれども、「今やっていることで、今やっていることを磨り潰す」と言いますと、よくわかるように見受けられます。
 
白鳥:  先ほど、こう坐っていても「二人連れの坐禅」というようなお話をなさっていましたですね。つまり一人の自我がいて、自分の坐禅の姿を見ているような、それじゃいかんと、これとこう繋がっているわけですね。「磨り潰す」ということが。
 
原田:  そういうことでございますね。だから「見ている、あるものをなくしなさい」とか、「そんなのを見ないようにしなさい」というよりも、「主体と客観とのものをゴトゴトに磨り潰してごらんなさい」というと、そうすると綺麗になくなる。あってはいけませんから。もともと何も存在しない世界ですから、物が一物でもあってはいけない。ですから、「あるものをあるものによって磨り潰す。自分の考えを考えによって磨り潰していく」という、そういうふうに説明をさして頂きますと、「そのものになりなさい」とか、「自己を忘じなさい」とかということよりも、よくおわかりになるように思います。しかし日本でそういう「磨り潰す」ということを言いましても、あまり外国の人たちがお受けになるほどよくわからないように思いますけど。
 
白鳥:  非常にフレッシュな言葉でした。しかし宗教、一つの壮大な観念の体系を言葉という記号に置き換えるというのは、日本の教えにこれだけなっている禅の教えを伺うと言っても、なかなか難しい。ましてこれを異国の言葉で、ドイツの方々に、ヨーロッパの方々に、あるいはアメリカで、インドの方々に、これは随分難しいことだと思いますし、そういう向こうの方々の宗教の感覚と、私どもの宗教感覚とかなり違いますでしょう。その辺の距離感というのは、先ほどの自我のお話を伺っていて思ったんですけど、これはどういうふうに乗り越えるんですか。
 
原田:  これは、私の持っているものを、他の国へ行って、そこで定着させようと思うと、それは無理なことなんです。「法」というのは、輸出とか輸入というものができるものではありません。そこの国のもの、そこの文化―その国のものなんです。ですからその国へ行って、その国の現在やっておられる生活そのものが、実は宗教でなければならん筈なんです。ですから、仏法を持っていって、「かくかくしかじかだから、だから仏法を得るならば坐禅をしなさい」と言ったって、それはなかなか拒否反応の方が多いと思います。ですから、「法というものはこういうものですよ。あなたが笑ったり、泣いたり、不思議な顔をして見ておる、その事実。その事実が法ですよ」。ありのまま。だからもう一つ言えば、その事実もあってはいけません。事実というものがあると、またそこからいろんなものが生まれてきますから、事実も事実でもって磨り潰してください。そうしますと、法そのもののに帰化する。
 
白鳥:  そこに至ると、キリスト教とか、仏教だとか、イスラム教だとか、そういう形の宗教、あるいは宗派と言いますか、そういったものが乗り越えたものになりますね。
 
原田:  勿論私が、予めそういうキリスト教の国へ行くんだから少し勉強していかなければいかんと思ったことはありません。ただどこに行っても、黒いものは黒い、白いものは白い、熱いものは熱い。これはどこへ行っても、悲しい時には泣くということはございますでしょう。その事実をそれが法だというふうに、方便を使って説明を申し上げるということですね。ですから概念とか知識というのは、そういう方便として使わなければならない。ある時は坐り、ある時はそういうものを提唱する。そういう必要はどうしてもある思う。ただ「坐りなさい、坐りなさい」と言ってもダメだと思う。
 
白鳥:  そしてご老師が提唱の後に、必ず「この私の言葉にとらわれてはいけませんよ」ということもおっしゃっていますね。
 
原田:  瞞ぜられないように、と。
 
白鳥:  それぞれが自分の中の仏性に気付くということでございますかね。
 
原田:  そうですね。「仏道を習ふといふは自己を習ふなり。自己を習ふといふは自己を忘るるなり」という道元禅師のお言葉があります。ですから道理を聞いて、そして聞く側が自己に問題意識をもっているかどうかが、坐禅が、あるいは法が、薬になったり、毒になったりするわけです。聞く側の方に問題意識が何もなくて、「それがそれだ」というと、そのまま受け取ってしまうことがある。だからどんなに立派な薬でも毒になるということです。そういうことはございますでしょうね。注意しなければならんことだと思います。
 
白鳥:  先ほど十月五日が達磨忌ということで、ほんとに禅の教えの始祖の達磨さんの月でございます。
 
原田:  あの方がいらっしゃらないと、禅宗というものはまったくございませんし、それから「教外別伝、不立文字」ということも伝わってきておらない。甲論乙駁(こうろんおつばく)をしていると思うんですね。
 
白鳥:   インドから中国に継ぎ継がれ、また日本に継ぎ継がれていった一つの教えでございますね。今日はちょうど摂心の最中にお邪魔致しまして、かえってお邪魔になったかと思いますんですが、どうもほんとに有り難うございました。
 
     これは、平成五年十月三十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである