こころの居場所を考える

 
                   国際日本文化研究センター 所長 河 合(かわい)  隼 雄(はやお)
専攻は臨床心理学。京都大学を卒業後、高校教師になるが、問題児対策に強い関心を持ち、大学院で臨床心理学を学び、フルブライト留学でカリフォルニア大学へ。さらに昭和三十七年から三年間、チューリッヒのユング研究所で学び、ユング派分析家の資格を取得。心の考察と療法をリードする。平成七年に国際日本文化研究センター所長に就任。
                   国際日本文化研究センター 教授 頼 富(よりとみ)  本 宏(もとひろ)
密教学、密教美術を専攻。昭和五十二年から六年間、小チベット・ラダック地方、東インド・オリッサ地方の密教美術を研究する間に、曼陀羅の思想と美術に関心を持つ。種智院大学仏教学部教授を経て、平成十年から国際日本文化研究センター教授。実相寺(東寺真言宗)住職。
 
頼富:  国際日本文化研究センターは、日本文化に関する国際的、学際的な総合研究を目 的として、昭和六十二年五月、文部省・大学共同利用機関とし て設置されました。現在、専任教官と国内外の客員教授官を合 わせて、約七十名の研究者が日本文化の研究にそれぞれ取り組 んでいます。最近この「日文研」では、「日本文化と個人」と いう連続研究会がもたれ、宗教、特に仏教を研究している私も、 それに参加しています。さて、河合先生の幅広く独創的な研究 成果の中でも、心という接点を通して、宗教、これは特定の制 度的宗教を指すわけではなく、むしろ広く宗教的なものを意味 すると、そういうふうに考えて頂いた方が妥当かも知れません が、そういう宗教と心理学が出合うような研究を数多く報告さ れておられます。今回は新しい傾向をもつ心理学と、そして、 宗教の接点を中心に、「心の居場所を考える」というテーマで、 河合先生の五十年に及ぶ心の研究のお話をお伺いしたいと思い ます。先生宜しくお願い致します。
 
河合:  はい。どうぞ。
 
頼富:  河合先生は、これまでユング心理学の紹介を始め、それから夢、或いは、神話な どさまざまな分野から、心についてご研究をしてこられましたが、先生の心理学 というご研究、これは一言で言うと、大体どういう点に特色がございますでしょ うか。
河合:  一言でいうと、話の始まりは、ノイローゼの人の治療から始ま った。それがきっかけじゃないでしょうか。非常に現実的なも のが初めにあるんですね。
 
頼富:  そして、先生のお書きになられたもの、或いは、お話を承りま すと、心を扱っている中で、宗教、もしくは宗教的なものと、 非常に繋がりというのが伺われるんですが、先生はどういう形 で、或いは角度から、宗教というものをお考えでございましょうか。
 
河合:  そうですね。私は、初めは宗教なんか全然思っていなかったんですよ。要するに、 ノイローゼの人とか、困った人のお役に立ちたい。そこから始まったわけでしょ う。ところが、それが心のことに関係してくる。だんだん深くなってくると、こ れは必然的に考えざるを得ない、というところで、だんだんそこに引っ張り込ま れた、という感じです。
 
頼富:  ということは、心の問題を考える場合に、これは生きている人間の心ということ で、そういう意味では、同じ心理学の中でも、先生は、生きている人間の生(なま)の心 を、特に取り上げるということですね。
 
河合:  そういうことですね。だから、「心理学」と言ってもいろいろあるわけです。何も、 「群衆がどう行動するか」などと考えていいわけだけど、生きている人が目の前 におられる、ということは、「生きていることは、死ぬこと」と完全に繋がってい ますから、その問題に入らざるを得ないんですね。
 
頼富:  そうですか。その場合に、心、特に、生の人間の営みの心、それが宗教と重なり 合う、ということになりますね。
 
河合:  非常に重なります。
 
頼富:  その場合の心というのは、宗教的な面と共通するところを取り上げると、具体的 にどんな点が挙げられるんでしょうか。
 
河合:  そうですね。今、申し上げたように、なんと言っても、死ということが常に背後 にありますね。だから、人間というのは、非常に不思議なことに、自分が死ぬと いうことを知っているわけですよ。これは他の動物はおそらく知らないと思いま すね。まだ、聞いたことないですけど。だから、人間は自分の死ということを常 に意識の中にもって生きているわけでしょう。だから、そこに繋がっていく。そ うすると、生きているということは、自分の死ぬということを、生きている中で どう受け入れるか、という問題になりますね。考えたら、それは宗教がそれをひ たすらやってきたこと、と言っていいわけです。
 
頼富:  考え方によっては、心というのもいろんな捉え方がございますね。哲学的にやる ことも考えられますが。 
 
河合:  哲学に考えることも出来ます。
 
頼富:  同時に、今、生と死ということもおっしゃいましたが、それは変化するというふ うな捉え方でもいいんでしょうか。
 
河合:  勿論、そうです。人の心というのは、ほんとに変化しますから、凄いものです、 それは。
 
頼富:  成る程。変化ということ。心の変化が宗教の中にもたくさん見られる、と。それ を先生はその接点で心理学に宗教と共通する見方を導入されたのですね。
 
河合:  特に、東洋の宗教、仏教なんかでしたら、心がどう段階的に変化するか、という 記述があるでしょう。私は、お会いしている人がやはり変化していかれますので、 もの凄くパラレルに考えますね。
 
頼富:  そうですか。これまでの先生の長年に亘る心のご研究の結果、心の扱い方、捉え 方というものを、非常に現実の面で、しかも立体的に考えるということが定着し てきたわけでございますが、この辺に関して、先生の研究の成果、ご功績という ものは非常に大きなものがあります。
 
河合:  私の功績というよりは、社会の要請と言った方がいいんじゃないでしょうか。何 とか心の問題を解決して欲しい。或いは、心の問題を一緒に考えて欲しい、とい う社会の要請が非常に高いのと、私がそういうことをやってきた、ということが 合致しましたからね。それで急激に、まさに私が考えているような意味の心のこ とを考える人たちが育ってきたし、一つの大きいグループになってきた。私が一 番初めに始めましたのが、一九五二年位なんですよ。その頃は少数派もいいとこ ろでしたから、心といいましても、もっといわゆる自然科学的、宗教などをやっ ている人たちがいた中で、私のような考えが、人の悩みとか、ノイローゼを癒す のに必要だ、ということで、ガーッと大きくなってくるわけです。そして、今、「日 本心理臨床学会」という学会があるんですが、学会のメンバーが一万を超えまし た。
 
頼富:  そうですか。
 
河合:  はい。それぐらい広くなりました。
 
頼富:  そうですね。私も学生時代にユング心理学についての先生の講義を受けさせて頂 いたことがあるんです。社会的に学問的に臨床心理学という一つの体系が出来上 がられたことをほんとに有り難いと思っております。現代、特に、「心の時代」と いうことが言われておりますけれども、この心のあり方ということ、特に変化す る心の意味ということにつきましては、ちょっと場所を変えてゆっくりとお伺い したいと思います。
 
河合:  そうですか、はい。
 

 
頼富:  先程、先生のこれまでの心のご研究のお話をお聴きする中で、どうしても人の生 き様ということが、心の研究の中には大事なポイントである、ということで宗教 的なものとの接点、関わりということをお話されましたですけれども、今の世の 中を考えた場合に、如何でしょうか。我らの心をどう捉えるか、という一つの居 場所の問題にもなるんですが、何かちょっと難しい時代になったなあ、という気 がしないでもないんですね。
 
河合:  その通りですね。それはあまりにも急激に物が豊かになりましたからね。それが どんどん豊かになっていくから、そっちに心を奪われますね。それでやっぱり他 人よりも大きい方がいい。他人よりも広い方がいい。他人よりも早い方がいい。 これは目に見えますので、それを追いかけ回しているうちに、おっしゃった通り で、自分の居場所が無くなった。
これは誰に聞いたのかなあ、凄く面白いと思ったんです。大分前なんですけど、 ある探検家が─あれは中南米だったかなあ─中南米の原住民の人たちをポーター に雇って、もの凄く急いで旅行するんですよ。バアーッと旅行したら、急にその ポーターたちが全部円陣を組んで坐って動かないんですよ。これはストライキで 値上げを言うてくると思った。
 
頼富:  現代人はそうかも知れませんね。
 
河合:  しかし、何も言わない。ジッと坐っているんですよ。「早う行こう」と言っても、 ずうっと坐っている。何をやっているかと思ったら、それから二日程したら、「行 こう」というんです。「お前らは二日間何をしておった」と言ったら、「お前に付 いて、あんまり早いことみんな走って来たんで、魂が付いて来なかった」と。
 
頼富:  成る程。
 
河合:  「それで魂が来るまで、みんなで坐って待っていたんだ。今、来たから行こう」 と言うんですね。これは、現代人のことをそのまま言っているような気がします よ。
 
頼富:  そうかも知れませんですね、確かに。
 
河合:  バアーッと忙(せわ)しくやっているうちに、ポッと気が付いたらね。
 
頼富:  今、何か早いということは、一つのメリットのように考えられているんですが、 何かそこで忘れられたものがあるのかも知れませんね。
 
河合:  そうすると、足が宙に浮くと言うか、要するに、不安ですよ。もの凄く不安な状 況になってくる。
 
頼富:  何かと一緒にいるという、この安心感と思うんですね。同時に、人々のノイロー ゼは昔からないわけじゃないんですけれども、これは現代社会では増えてきた、 というふうに解釈すべきなんでしょうか。
 
河合:  はい。私はこう思っているんです。ある意味でいうと、現代社会は住みよくなっ たし、豊かになった。しかし、そうなるということは、不安も増えるんですね。
 
頼富:  そうですね。
 
河合:  つまり、何とかしてこの稲を刈って、米作って、食べようと思ったら、一所懸命 やるでしょう。ところが、かえって物が一杯になると、心がふわふわ動き出す。 それから、昔だったら六十でお迎えがくる筈だったのに、この頃お迎えが来られ ない。そうすると、後ずうっと、これ大変ですよね。
 
頼富:  そうですね。そういう意味では、心が軽くなった、或いは、足元から地に着いて いない、ということが言えるかも知れませんね。そうしますと、この心というも のを、これから我々が考える場合に、早くなるとか、軽くなるとか、便利になる、 というようなことも一つのメリットではあるんですが、
 
河合:  これはまたそうでないと駄目ですね。
 
頼富:  と、同時に、失うものが多い、ということも言えるかと思います。そうしますと、 心が変化しているというふうに捉えますと、心を一面的に見る、一つの光だけを 当てて見る、というんじゃなくて、以前、先生が新聞にも書かれておられました が、心を多面的に、或いは、「多心論」ということを、先生はおっしゃっていまし たが、これを少し教えて頂きたいんですが。
 
河合:  これは現代人の凄く大変なところで、昔だったら、要するに、私は百姓なんです、 ということで、毎日することがあって、死ぬか生きるかでずうっとして行きます わね。例えば、サラリーマンにしたって、昔だったら、昔のサラリーマンという のは、家に帰っても、「誰のお陰で食わせて貰っている」と言いましたけれども、 今は言ったって通じません。そうすると、会社へ行った時は、課長としてやって いるか知らんけれど、家に帰ったらお父さんであるべきですし、親類の人が来た ら、叔父さんになってみたりとか、それから趣味の会に行ったらとか、いろいろ あるわけでしょう。そういうのをやっぱり全部生きていないと、私らのように、 キューッとしていたら、パーンとやられますよね。だから、いろいろ多面的なも のをいろいろ生きているということが、どうしても必要になってくるんじゃない でしょうか。
 
頼富:  そうですね。そういう意味では、これまで同じような考えとい うのがないわけでもなかった。
 
河合:  それは、私も宗教的なことをいろいろやっているから思い付く んですが、例えば、曼陀羅図像がありますね。あれなんか凄い 仏ですよね。
 
頼富:  そうですね。
 
河合:  もの凄い数のものでしょう。いっぱいおられるけど、一つですよね。だから、あ あいう表現を昔から持っていたというのは凄いことですね。
 
頼富:  確かに曼陀羅で申しますと、私は大体二通りの捉え方があると思うんです。一つ は、「同一平面」という言い方が適切かどうか分かりませんが、あるところにたく さんのものが一緒になる。その中で役割などの働きが違う。その役割が違う、或 いは、場所が違うことによって、それぞれの働きを生かしていく、というのが一 つの見方です。ただ、その中でジッとしているんじゃなくて、動くというか、ロ ーテーション(rotation)というかそういうものがありますが、これは心理学で どうなんでしょうか。
 
河合:  それは、我々素人がパッと曼陀羅図像を見ると、おっしゃったように平面に描か れていますね。あんまりダイナミック(dynamic)に見ていないんです。もっとス タティック(static)に見ている。ほんとは流れの要素を強調すると、全部で三 つあるわけでしょう。
 
頼富:  そうともいえますが、大きくいえば二つです。
 
河合:  それはどういうふうに説かれているんですか。
 
頼富:  物事には複数になりますと、中心と周辺というものがどうしても出てくるわけで すね。どうしても真ん中におられたい方もおられるでしょうし、謙虚深い方は周 辺へ行くということになるんですが、やはりその中に流れがあることによって、 一つの空間に活力というか、生き生きした力が湧いてくる、ということが言える かと思います。
 
河合:  そのことはあんまり人間は知らないんじゃないんですか。
 
頼富:  そうかも知れませんね。どうしてもやっぱり瞬間的に静止的に見ることになるん でしょうね。
 
河合:  あれは瞬間的に映像として捉えなければいけませんから、それを表しておるので あって、生々流転というか、動いているわけですね。
 
頼富:  場所を動くと同時に、生じてまた滅すという。これは宗教に限らないんですが。
 
河合:  しかし、そういうふうに自分を見るべきでしょうね。その立体的な、というのは どういうふうになるんですか。
 
頼富:  そうですね。それからもう一つは、立体という面と時間という ものを両方含め込ませています。例えば、心にしても、ものが 複数ある場合に、─胎蔵界曼陀羅(たいぞうまんだら)(およそ四百の仏が十二部分 に配され、役割を果たしながらの救済を説くコーラス型の曼陀 羅)というのがありますね。これは一つの平面で見ますので、 その場所の違いというのがポイントになります。ところが、も う一つの金(こん)剛界曼陀羅(ごうかいまんだら)(数十の仏が状況設定をかえて九場面に 登場することを一枚に纏めた知的なドラマ型曼陀羅)というの は、画面が何遍も変わっていくという捉え方ですね。これは心 でいうと、むしろ垂直と言いますか、違った切り口のものを集 めて見てみると、そこからは質的な違いというものとか、それ から時間的なもの、時間に動きがあるということを示します。 だから、例えば、地震の後なんかで、これも心理の問題なんで しょうけれども、最初、みんなが助かって喜ぶ。一つの場所に 集まって、場所を共有するという場合の喜び心と、次にだんだ んと辛い時間を積み重ねなければいけないんですね。その場合 は同じ階層だけではなかなか共存が難しいので、場面を変える という必要が生じます。或いは、心を中心に考えると、基盤にあって、総てを受 け入れる心と、それから表面的に相手を客観的に科学と同じような形で知ろうと いう心、それを時間なり、質的なものの違いとして表現していくと、そういう心 の捉え方も如何でしょうか。




河合:  これは凄く面白いし、もの凄 くよく分かりますね。私の凄 く好きな言葉に、モーツァル トが、「自分の交響楽を演奏 すれば二十分です。その二十 分の演奏を、自分は一瞬に聞 くことが出来るん







だ」と。そ うすると、モーツァルトの一 瞬体験というのは、みんなに 分かり易くやってくれると二 十分かかる、と。それでいう と、今の曼陀羅一枚の絵です ね。一枚の絵なんだけど、一 枚にしてあるだけであって、 一緒にしてあるけど、あれに は長い時間といろんな変化を。
 
頼富:  凝縮したもの、
 
河合:  そう思って見るのと、随分違いますね。
 
頼富:  そうですね。一生の跡を振り返るようなものでもあるかも知れませんね。
 
河合:  成る程。その時に、金剛界と胎蔵界とあるでしょう。その二つに対して、どうみ ておられるんですか。
 
頼富:  金剛界と胎蔵界の二つですか?
 
河合:  見る時、胎蔵界だけみて瞑想したり、金剛界だけみて瞑想するのか、両方を同時 に、
 
頼富:  それは一応別々に瞑想するんですが、最終的には自分の中で統合するということ になるのです。
 
河合:  そうでしょうね。それも分かりますね。
 
頼富:  それで敢えて言うなら、心の問題になるんですけど、みんな集まるというか、場 所を共有するという方は、これは他人を思いやる、思いやりの心という理解も必 要です。それから、もう一つの質的なものとか、時間的なものが違うけれども、 それを一つの画面にほんとは集めて、一瞬的にみるという場合は、これはある程 度の知的な理解も必要とされる。それは敢えていうなら、先程の胎蔵界の方が他 を想定した思いやりという形で捉えるのに対して、自分と、それから聖なるもの というか、知的なるものとの繋がりを直接体験するという、ある意味では精神を 非常に研ぎ澄ましていく、というような解釈になるのかも知れません。
 
河合:  その両方の体験が必要なわけですよね。
 
頼富:  そうですね。
 
河合:  普通だったら、両立し難いような、
 
頼富:  確かにかなり違うものですが。
 
河合:  それが両立するように、或いは、両立するというか、これはやっぱり宗教の一つ のもの凄く本質的なところみたいな気がしますね。
 
頼富:  そうかも知れませんね。
 
河合:  つまり、単なる論理構成だけでは出来ないわけですね、考えるだけの世界は。と ころが、それは考える世界ではなくて、生きる世界ですから。そうすると、生き られますよ、という格好でくる。それを、私は実際に相談なんかしていてほんと に思いますよ。ある種の方は、自分の人生というのを考えるなら考えるという一 面だけで生きている。そうすると、どうしても行き詰まってくるんですよ。それ と反対とさえ思える人が、こうなって生きるんだけど、なんか片っ方だけ固く生 きて、その人がいわば正しく生きているつもりでおられるんだけど、完全に行き 詰まってしまう。実はこんな世界もありますよ、ということで、こうなるわけで しょう。僕は、そういうのは、その人がこっちの世界にアッと気が付く、或いは、 目を開くというのは、宗教的体験だ、というふうに言っていいんじゃないか、と 思うんですね。
 
頼富:  そうですね。よく言われるんですけど、山の稜線を歩いていて、どちらも険しい 絶壁があるんですけれども、しかし、それを出来れば両方、自分のものにしたい という、これは希望でありながら、また実践を期待してやっていく、ということ でしょうね。
 
河合:  それがどうしてもやっぱり片面の方がやりやすい。それともう一つは、ここが非 常に難しいところですが、一人の人間として、一般性をもっているとか、一人の 人間として統合されているというふうにいい出すと、下手すると、心が一面的に なるんですよね。
 
頼富:  そうかも知れませんね。
 
河合:  だから、一面性をやめるために、僕は冗談半分で、多心論と言っているのは、こ んな心も、こんな心も、あんな心も、みんな私の心なんだ、と。さっき、他人を 思いやるという言い方をされましたけど、言ってみたら他人の心も自分の心なん ですよね。
 
頼富:  そうですね。
 
河合:  だから、そういう複雑性みたいなものがある曼陀羅図像というのは、凄いもので すね。あれはいつ頃出来たんでしょうね。
 
頼富:  出来たのはインドということになるんですが、基盤となった密教の経典で何を強 調していくかということによって時代的にはかなりの幅があります。そしてとく に後期密教には必ず男女のほとけが登場します。先生もよく心理学の中で使って おられますけど、男性的なものとか、女性的なもの、これもやっぱり心の問題で すね。
 
河合:  これも永遠の課題ですけどね。
 
頼富:  そこもやっぱり統合するというか、一応二つの曼陀羅を表すという。これは中国 でも同じような陰陽という二元論がございますけども。だから、そういうのは、 それがモデルでもありますし、そのモデルを私たちの前に見せて頂くことによっ て、後に続くものが追体験というんですか、なかなかこれは、言うは易しで、行 うは難し、でございますが、実際のより所とする一つのそういうモデルケースを 提示しているのが曼陀羅であるかなあという気が致します。
 
河合:  凄いですね。
 
頼富:  ただ、その曼陀羅のそういう整理されたものも結構なんですが、先程、先生がお っしゃったように、多心論というのはどうなんでしょうね。これはグループ分け とか、それから最大公約数というものを引っぱり出すということは、やらない方 がいいんでしょうか。それとも何かやるべきなのでしょうか。
 
河合:  それは凄い根本的な問題ですね。それは宗教の問題でもあるし、我々心理学の問 題でもありますけど。ついつい学問をやっていると、何か分類したりとか、
 
頼富:  そうなんですね。分類していないと、誉められないので。あんまり多いと整理が 出来ていない、と考えたりします。
 
河合:  だから、分類してみたり、名前を付けたりする。その分類したり、名前を付けた りしていることが、ある意味をもっているというぐらいのことを知っていたらい いんじゃないでしょうか。それが中心だと思う人は一番困るんですね。しかし、 それも私は必要だと思うんです。いわゆる心理学者はそっちの方にちょっと傾き 過ぎて、生きることを忘れるわけですが。と言って、いわゆる生きるということ だけを言い出したら、逆に何も無くなりますね。その時に、ある程度の分類、あ る程度の命名─名前を付けるということは恐いことですよね。
 
頼富:  だから、私もある程度の解釈を持ち込んで、機能的な役割を説明しました。曼陀 羅を直感的というか、それを感じ取ることが大事なのかも知れませんね。
 
河合:  しかし、現代人がパッとみたって、そんなもの分かりませんものね。往時の人が あれみたら、それは見るだけで、すごかったでしょうけどね。
 
頼富:  よく意味論の限界ということが説かれるんです。つまり、私たちは感性で捉える わけですね。それが自分に直接働きかけてきて、生きることなり、何かにエネル ギーを与えるということが大事なんですけれど。と同時に、やっぱり一つの作業 としては、意味論というか、なんかちょっと解釈を与えるということも重要でし ょう。
 
河合:  それは誘い水であったり、ヒント(hint)であったりということになるんでしょ うね。実は、曼陀羅というのは、日本に生まれて育っていながら、全然知らなか ったんです。初めて聞いたのはアメリカにいた時です。アメリカへ留学するまで は、私はむしろ西洋かぶれの方でしたからね。私は特に自然科学の万能みたいで したから、宗教なんか全然考えていませんでしたから。アメリカへ行って、「日本 には曼陀羅というものがある」と言われて、ビックリしまして、「へえー」と思い ました。そうすると、ちゃんと研究がありますから、凄い図像があるので、見せ てくれるわけですよ。僕は今まで何も見ていないので、恥ずかしい思いをしまし た。
頼富:  先に紹介されたのは、チベット系のものです か。
 
河合:  そうですね。チベット曼陀羅ですよね。
 
頼富:  私もどちらかというと、ある程度枠決めをし ている方なんですけど、日本の曼陀羅という のは、ちょっと整理された─よく言えばそういうところがあるんですけど─大事 なのはそこに自分が入っていけるという一種の心と思うんです。曼陀羅の中で自 分の場所が与えられる、と。この生み出すものというか、支えてくれるもの。そ ういう意味では、心と曼陀羅というものはよく似ているといえます。

河合:  私が知ったのは、勿論、ユング(スイスの心理 学者・精神医学者:1875-1961)の心理学です。 ユングという人は何にも曼陀羅のことを知らず に、そういう図形を描いていたわけですから、 凄いことですよ。ユングはご存じのことだろう と思いますけど、凄い精神病と言ってもいいぐ らいの凄まじい体験をして、そこからずうっと 癒されてくる時に、自分でなんか分からないけれど、絵を描く んですよ。そういう絵を描いていると、まさに居場所があって、 癒されるという体験をした。それが面白く、良かったので、精 神病の人とか、ノイローゼの人が治っていく時に、絵を描きな さい、と。描かしていると、痛みがたくさんでるんですけど。 その頃、西洋では、言う人がいなかったから、ずうっと黙って いたんです。言っても相手にされないと思っていた。それがチ ベット曼陀羅を見て、もの凄く感激をするわけですね。ユング がチベットの曼陀羅を見て感激したのが、一九二八年ですけど、一九二九年ぐら いに論文書いていますが、全然相手にされませんでしたね。学会では全く相手に されませんでした。それが一九七○年ぐらいになって、みんなが分かり出すんだ から、これは面白いですね。
 
頼富:  先生がおっしゃったように、例えば、曼陀羅を、今、イメージの中でお描きする 場合に、変化する点というのは重要なポイントではないでしょうか。
 
河合:  そうですね。だから一枚で終わることはないんですね。いろいろしたりする。そ れから中にも動きがありまして。それから特に私はいまやっていますように、箱 庭作りだったら、まさに動きますからね。そして、うまくいかない場合は、曼陀 羅が固定されて、なかなか動かないですね。その方はそこに止まっているという ことで、安心でもあるし、動くのは恐いとい うこともあるでしょうね。これは初めそうい うことを分からなかったんですよ。私が箱庭 始めた時なんか、みんな曼陀羅のことなんか 知らんわけでしょう。そうすると、作る人が 出てきますね。そこで僕はみんなに、「実は これを曼陀羅づけというんだ」と。それから、 それこそみんな知らないから、胎蔵界の話を する。もの凄く感激して。そうすると、作っていく人が似たようなものを作るわ けですね。ある一人の人がずうっと同じようなのをなんぼも作るんですよ。これ は面白いなあ、というので、箱庭療法(砂を入れた箱とおもちゃの建物・人物な どを用意して箱庭を作らせる事で治療を試みる心理療法の治療の過程でマンダ ラ≠ェ表れる事例が報告されている)を─これを考え出したカルプという女性の 方がおられるんですが─この先生が来られた時に、見せたんですよ。僕らにした ら、「日本でもこんな曼陀羅出ました」というわけで喜んで見 せた。それを続けて見せたら、「これは凄い重症です」と、そ う言いましたね。今おっしゃった全然動きがない。動けないん だ、と。そういうのを見たら、僕らは成る程と思いましたね。

 
頼富:  箱庭療法の場合もそうでしょうし、我々も曼陀羅を勉強してい まして、一番困るのは、あまりにも理想状態というものを求め ていますと、そこではマイナス的なものというのが消されて、 むしろ味のうすいものになってしまうことです。
 
河合:  おっしゃった通りです。それは頭で作ったら駄目ですね。分かりますよ。それは 凄い不思議なことです。インパクトがないんです。
 
頼富:  それは言えるかも知れませんね。
 
河合:  実際、こういうことがあったんです。私が日本に持って帰った時は、私はわざと 言わなかったんです。如何に自然に出てくるか、ということをやりたかったんで す。出てきたところをみんなに説明したので凄く喜んだんですね。そのうちに本 なんかを書くじゃないですか。そうすると、曼陀羅のことがありますね。講習を 受けにきた人に作って貰うと、綺麗な曼陀羅を作られるわけです。全然それが迫 力がないんですよ。「なんでこんなものを作ったんですか」と言ったら、「先生、 箱庭は曼陀羅を作らなければいけないでしょう」と。その人は頭で作っているか ら。ところがやっぱり自然発生的曼陀羅というのは、やっぱり凄いですよ。それ はやっぱり動きがあるんですよ。つまり全く左右対称ではないんですよ。ある意 味でいうと、綻(ほころ)びているわけです。そこが動きの源泉である。それが非常に大事 です。
 
頼富:  それと、ユングの場合も、曼陀羅をいろんな過程でイメージ化し、心の状態に関 するメッセージがあったと思うんですが、ある日突然曼陀羅から卒業する、とい うことがあるかと思うんですが。
 
河合:  ありますね。それは卒業と言っていいのかは、議論の余地がありますが。
 
頼富:  確かにそうですね。
 
河合:  やっぱり離れるという。また還って来る必要もありますよね。だから、その辺の ところはほんとに微妙なものですね。
 
頼富:  ある意味で理想的、総合的なものを作りあげますけれども、ところがこれは仏教 の発想になるかも知りませんが、曼陀羅という理想的なものを作りあげて、逆に それにまたあまり拘るのも本意ではないことになります。
 
河合:  拘ったら駄目ですね。何かどっか欠けているというか、それがかえって次に至る 道みたいなところがありまして、さっき言った、難しい人なんかはあまりにも乱 れがないのを、何遍も作っておられる。これはかえって難しい。
 
頼富:  そうかも知れませんね。
 
河合:  しかし、仏教の場合だったら、そういうのはちゃんとあるわけで、それについて、 瞑想しているわけですから。
 
頼富:  一応はそうですね。ただ、それがまた消滅するというのが大切だといえるでしょ う。例えば、一つの目的みたいな、最高段階が設定されますけど、それからまた 平常心に返ってくる。この点が大事じゃないかなあ、と思います。
 
河合:  そこへ還ってくるわけですかね。
 
頼富:  そうですね。そうすると、心の場合も、何が理想状況かというのはなかなか言い にくいんですが、例えば、何の心配もない一種の完成状態もいいんですが、さら にはそういうこと自体を忘れれた状態という、それをむしろ目指すべきなんでし ょうか。それともその辺はいかがなんでしょうかね。ちょっと難しいような発想 なんですが。
 
河合:  私は、旅行の目的地みたいな、そういう到達点というのはないように思いますね。 ただ、やっぱり人間ですから、自分で考えたり、感じたりしているうちに、ある 種の理想像というのは、確かに癒されますけど。私はこういう言い方をしている んです。理想というのは星みたいなものだ、と。だから、星があるお陰で、自分 はどっかへ行っているか分かるし、どっかへ行かねばならないということが分か るけど、星に到達することはあり得ない、という言い方をしているんです。だか ら、理想は要らないというのはおかしい。
 
頼富:  ええ。勿論、先程の曼陀羅と一緒で、確かに目標というか、一つになりますが、 そこへ到達したら、それはそれで消滅というか、ある役割は終えたということに なりますね。
 
河合:  次があるというか、
 
頼富:  そうですね。次がある、ということが、一つの生きるということかも知りません ね。
 
河合:  次があるけど、私にはいじくる必要はない、と。それははっきりしている、と。 ご自分で行って下さい、と。あなたは理想に達したから終わるというんじゃなく て、ご自分の足で歩いていけるから終わりましょう、という、そういうことです ね。
 
頼富:  先程、横の広がりと同時に、縦のつらなりもあるじゃないかということもお話さ せて頂きました。古い例では、空海という方が、心の階段ということを説かれた んですね。これ以外にも、同じような考え方があると思うんですけど、どうです か、心理学の場合は、先生は、ユング心理学をやっておられますし、「無意識」と 「意識」ですが、その処にもういくつかの階段というか、これは上への階段か下 への階段かという問題が出てきますね。
 
河合:  両方言いますね。心理学の場合は、どうしても近代思想から入ってきますね。通 常の意識というのは一番上に置いておりますから、下へ下へ下りていく格好で言 っています。これは宗教的に言えば、上に上がる階段ですね。だから、どっちに もっていってもいいです。ただ、心理学の場合は、今の意識が始まり。何故、下 降というかというと、まず初めは嫌なものが出てくるんですよ。
 
頼富:  成る程。
 
河合:  ユングは、「あれは下水の掃除だ」と言うんですよ。下水を掃除していると、次第 に流れの底の方へいくわけです。だから、宗教的にいえば、上に上がっていくこ とになると思いますね。但し、私は禅なんかまったく経験がありませんが、禅の 場合だって、そういう嫌なところ、汚いところを通らなければなりませんよね。
 
頼富:  そうですね。一度どうしても、
 
河合:  それが、普通簡単な場合は、その汚いところの整理だけで終わるわけですよ。そ うでしょう。宗教というようなことを言わなくても、「分かりました。私はこうい うところがあったんですね」とか、「自分は気がつかなかったけど、案外人を憎ん でいたんだ」ということで、「はい」と、これで終わる人は終わってもらうわけで す。私の場合は来られた人に任せておるわけですね。だから、ちょっと土を掘っ て、家を建てて、終わりという人もおれば、深く深く掘る人はトコトン付き合う。 これは、もの凄くその人任せでやっているわけです。その点、宗教の場合は、む しろやった到達点の方からものを言っていくわけですね。ここはもの凄く違いま す。
 
頼富:  そういう意味では、心理学の方では、効果という点で、ゴールは一つではないよ うですね。それからもう一つ、私どもは宗教の中でも、仏教という外側に神さま とか、絶対的な原因をたてない。こういう考え方でいきますと、やっぱり心とい うのは、ほとけのような聖なるものと何らかの方法で巡り会う場というものが、 どうしても必要だという考えが強いと思うんです。
 
河合:  そうです。その時に、通常のところから、自分に嫌なところ、汚いところが分か って、それで終わりという人は、そういう聖なる巡り会いなんて無しで、話が終 わってしまうわけです。そして、このようなことをいろいろ経験するということ になっていく。ところが、深くいく人の場合は、おっしゃったような速度はある し、我々としても、それは仕事にしなくちゃならないと思っているんですね。
 
頼富:  そこで人格がちょっと変わる、ということがあるんですね、当然ながら。
 
河合:  そういう体験をされた人は変わります。それとこれが一番大きいと言われていま す。聖なる体験というか、非常に深い体験というのがありますね。ところが今度 そこから上に還ってきますね。そうすると、折角の体験が割りと稀くなってしま った、と思いませんか。これは人間の恐いところだと思うんですけど。
 
頼富:  そうですね。よく「往って還る」という言い方をしますね。確かに、往った向こ うの付加価値というか、そういうものをもっている方はいらっしゃるんですが。
 
河合:  だから、それは経験して来られたこれも事実、往って還って来られたことも事実 だけど。これはもう一つはこういう言い方をしているんですよ。例えば、私が、 「ロス・アンジェルス?」「あ、知っていますよ。何故かといったら行ってきたか らね」と。本当は何も知らんわけですよ。行って帰ってきただけで、そこらちょ っちょっと見ただけでしょう。ロス・アンジェルスを知るなんてことは、これ一 生かかっても出来ないわけですよ。だから、そういう意味では、これずうっとい るんじゃないでしょうか。
 
頼富:  それは、そうですね。
河合:  一遍、行って帰ってきただけで、威張っているうちに、
 
頼富:  確かに出たり入ったりと言いますか、それはどうしても宗教の世界では。私ども ついこの間、四国八十八カ所回って参りましたけれど、そういう場に入りますと、 やっぱり何かそういうものを感じるということはあるんですが、帰ってきますと、 もうそこから日常生活が始まる。しかし、それを繰り返すとやっぱり一回は二回、 二回、お人によりますけどね。お人によりますが、宗教的なものの感受性なり、 聖なるものに対する感受性のある方と、比較的、私のように鈍いかも知れません が。
 
河合:  それは巡礼ということは、ある意味では全世界にあると言ってもいいくらいです けど、歩んでいって、訪ねて行って、歩んで行って、訪ねて行って、というか、 これ凄いことですね。
 
頼富:  そうですね。ある意味においては、先程おっしゃられたように、終わりというも のをむしろ想定しない。歩みということの中に自分の生き方を求めて行く。
 
河合:  そうですよね。
 
頼富:  目的地は想定しない方がいいかも知れませんね。
 
河合:  それはグループで行かれるわけですか。
 
頼富:  一人で行かれる方もいらっしゃるでしょうし。やっぱりグループで行った方が共 鳴体験があるのも事実でございまして。そういうプラスアルファというのもあり ます。
 
河合:  私は巡礼どころか、一部屋にいるだけですけど、ある意味では巡礼しているよう に思う時もあるんですよ。いろいろな人に会うわけです。
 
頼富:  成る程。
 
河合:  人が来られて、また、次の人が来られて、お会いして、という。その人の心の中 に無数の人がおられる。
 
頼富:  そうですね。先生、最初におっしゃられましたように、多心論ということは多く の方と出会うこともあてはまるでしょうね。
 
河合:  その人がお父さんのことを言われる。その人が友だちのことを言われる、という ふうな、それは全部その部屋に入ってくるみたいなものですから。一人とお会い しているということはもうほんとに世界中に会っているみたいなところがありま すね。
 
頼富:  多心曼陀羅であり、また人間曼陀羅でもありますね。
 

 
頼富:  個人と家庭というミクロな世界でも、また国や地球というマクロな世界でも、い ずれにおいても主体的にものを考える場合に、心が大切なことは明らかでありま す。従って、二十一世紀においても、この心をどのように考えるかが、依然とし て重要なテーマであるわけですが、今日、既にお話がありましたように、心は固 定的なものではなく、また一色に染め上げるものでもなく、多様性をもった心の 捉え方、接し方が新しいヒントになるのではないかということでした。ところで、 何を拠り所にするか、という価値の体系を持つ宗教においても、一と多という問 題は生じます。例えば、近年のアフガニスタンのバーミアン遺跡での大仏破壊の 問題もその一つでしょう。そこで河合先生が新たに主張された多心論という視点 と、二十一世紀の心のあり方、その可能性を特に宗教との関連で最後にお尋ねし たいと思います。
 

 
頼富:  これまで宗教と心理学と、この接点になる心の居場所ということで、お話を伺っ て参りましたが、その中で、先生からご指摘頂きました多くの心がある、と。こ の考えをもう少し生かすべきじゃないかということを大変興味深く拝聴したんで す。一方の宗教の問題で、多心論というか、これがもし可能としたら、どういう ことがいえるでしょうか。
 
河合:  凄い大事な問題で、要するに、一神教の世界が─キリスト教、イスラムがそうで す。感じが違いますけれど。そういう一神教の世界と、そうでない我々がそうで すが、多神教の世界、これはグローバリゼーション(globalization)ということ で、これから助け合っていかなければいかんわけですね。この問題は凄く深刻な 問題じゃないでしょうか。
 
頼富:  そうですね。具体的な問題としては、例のアフガニスタンのバーミアンの大仏破 壊というのが起こっておりまして、確かに、あるものと、他のものと、それぞれ 確かに言い分があるんですが。
 
河合:  そうです。
 
頼富:  あるものと他のものという関係の他に、そのあるものと今度はその他のものがち ょっと違う考えをもったら、今度どうなるか、と。
 
河合:  そうです。
 
頼富:  この辺はどうなんでしょうか。
 
河合:  それは我々多心論の方が─全体がさっきの曼陀羅じゃないですけど─バランス全 体を構成するという点では慣れてきているわけです。一神教の場合は、そのまま ズバッときますね。ところが、言ってみれば一神教的世界から出てきた科学。ま さに科学は一つなんですよね。それでダアッと世界中が席巻されてきた。その中 で自然科学的な考えとかを受け入れつつ、尚かつ多元性、多心性ということを、 我々はちゃんと主張していく必要があると、私は思っておるんです。これは絶対 大事なことだと思います。
 
頼富:  そうですね。私の場合、ちょっとリアルな例になるんですが、宗教とは違うんで すが、例えば、自分なり、身近なものが、ガンという病気に、もしなった場合、 それを考えてみますと─この間あるところでちょっとそういうシンポジュームが あったんですが─既に一つの宗教ということになるでしょうが、その場合は、人 間の生きるということ、死ぬこと、或いは、病気ということは、これは人間の営 みであって、そしてむしろそれに対しては神の御心のままに、というふうに、そ ういうふうに任せるわけでありますから、そこにあまり個人の関わる余地はない。 ただ、現実の問題として、もう治らないガンというものは、それが私たちの生命 とやっぱり共存というのか、多元的な共存も考えなければならない。これは宗教 とちょっと違うかも知れませんが。
 
河合:  いや、私は宗教的な問題だと思います。
 
頼富:  両立不能と思われながら、しかし、それに対して、先程、先生、西洋が育んでき た科学ということをおしゃいましたけれども、私自身でしたら、そのガンを治す という努力、それを使うと共に、現実としては共生しなければいけない。その場 合に、今度はガンという価値観とはまた別の生き方、一緒に生きるということを 考える時代になっているのかなあと思います。
 
河合:  そう思いますね。それが今のところ自然科学的な見方だけが強すぎる。そうする と、これは治る、治らないと、これは決まっている。それは自然科学的にいえば、 そうですけど、生きるという点からいえば、それから死ぬという点から言えば、 それは共に生きるわけだし、共にいくわけだし、それから共存するというか、そ の時の自分の視点をどこに持っていくか。その時にまさに宗教的な視点というか、 見方というものが共存を可能にする、と思うんです。
 
頼富:  そうですね。だから、先程の問題に返りますと、自然科学の恩恵というのは、私 はやはり大事だと思う。私は不可欠なものだと思います。出来れば身体の中のガ ン的なものが出来るだけ治まって欲しい。と同時に、それをまったく取り除くこ とが不可能な場合、それと生き共に生きる、或いは、生かされているという、よ り大きな考え方、これが多神教的、多心論的と言えるかどうか、分かりませんが、 ただ、やっぱりガンも一つの生き物であることは事実です。
 
河合:  そうなんです。私は冗談に言っているんですけど、私自身がどっかのガンになっ ているかも分からない、と。その時に、我々は身に付けている多心論的なもの、 或いは、多神教的なもの、これが一神論の世界の人たちと、どこまでダイヤログ (dialogue)できるか。これはやっぱり僕らはやっぱり挫けずにやり遂げなけれ ばならないと思っております。
 
頼富:  そうですね。これは初めから違うんだと諦めずに、その中で共生していける、何 かの筋道があると思いますね。
 
河合:  あると思う。だから、キリスト教の中にも、多元主義が出てくるわけですね。だ から、その中で多元主義が出てくるように、多心論の中に、一神教的要素もちゃ んとあるんですからね。 
 
頼富:  私もそうだと思います。
 
河合:  だから、分けるんじゃなくて、むしろ切磋琢磨する、ということになるのかなあ。
 
頼富:  確かに性格が違うものなんですが、性格の違うものだからこそ、その中で共存だ ということを、我々はもう少し言うべきじゃないか、と思います。
 
河合:  私は、二十一世紀の課題というのは、そういう一見矛盾しているもの、論理的に 矛盾しているもの、それを如何に共存させるか、ということが、一つの二十一世 紀の課題だと思っているんです。
 
頼富:  その場合でも、やはり中心となるのは、生きている我々の拠り所となる心を考え ることが大切だ、ということが言えるかも知れませんね。
 
河合:  そう思いますね。
 
頼富:  今日は長時間、有り難うございました。
 
河合:  いえいえ。いろいろこちらこそ。
 
頼富:  有り難うございました。
 
 
     これは、平成十三年五月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。