師匠の姿に学ぶ―橋本凝胤師の遺したもの―
 
                           薬師寺管長 安 田  暎 胤(えいいん)
                           き き て 太 田  信 隆(しんりゅう)
 
ナレーター:  奈良市西の京にある薬師寺。「発菩提心荘厳(ほつぼだいしんしょうごん) 国土(こくど)」つまり淨らかな心を発(お)こして美しい世 界を作るという願いは、薬師寺創建を発願(ほつがん)し た天武天皇の理想でした。一二七○年の歴史 を誇る東塔。白鳳時代の様式を伝える塔は、 建物全体が醸し出すリズム感があり、アメリ カの美術研究家・フェノロサが、「凍れる音 楽」と形容したと伝えられています。中央に ある金堂は、一九七一年に再建工事が始めら れ、一九七六年に落慶式が挙げられました。 この中には、国宝の薬師三尊像が安置されて います。中央が薬師如来座像、右に日光菩薩 立像、左は月光(がっこう)菩薩立像です。西塔は一九八 一年に再興されました。これに加えて、回廊、 大講堂の復興も終えて、薬師寺は薬師寺縁起絵巻に描かれた創建当時の姿、白鳳 の大伽藍をあらかた再現しています。この薬師寺、戦後間もない頃には、創建当 時のものとして残っていたのは東塔だけでした。当時の薬師寺管主(かんしゅ)で法相宗(ほっそうしゅう)管 長は、橋本凝胤(ぎょういん)師でした。橋本凝胤師(1897-1978)は、明治三十年、現在の奈 良県平群(へぐり)町に生まれ、明治三十七年、七歳の時、法隆寺住職・佐伯定胤(じょういん)師(186 7-1952)について得度(とくど)。青年期には上京して大学に学び、著名な学者について仏 教の研究を続けました。昭和十四年に薬師寺住職となり、昭和十六年に法相宗管 長に就任。高田好胤(こういん)(1924-1998)、松久保秀胤(まつくぼしゅういん)、安田暎胤などの弟子の育成に 力を発揮、昭和四十二年に薬師寺管主を退き、長老となります。後任は高田好胤 師でした。長老時代にもっとも力を入れたのは、金堂復興でした。昭和四十六年 門外不出の月光菩薩を東京のデパートに出展しました。金堂再建の写経勧進(かんじん)のた めの企画でした。そのお披露目のために、上京した橋本凝胤師の言葉です。

 
橋本:  一番初めはフランスへ持っていくということで、これはまあ外 国へいくのは困るというので断ってきたわけなのでございます。 しかし、今度いよいよ金堂の復興ということがございますので、 金堂の復興のことなら、まあご自分の御厨子みたいな家、館な んだから、一つお出まし願おうじゃないかと、こういうことで お寺のほうで話が纏まりまして、とにかく門外不出のものでご ざいますので、ミロのヴィーナスの場合は何もフランスのもの ではございませんし、もっともっと傷ものでございまするけれ ども、こちらは伝世(でんせい)のものでございまするし、無傷でございま すのでね。
 
質問者: 美術品として観にいらっしゃる方が多いんですね。
 
橋本:  そういうことですな。それが東京であり、しかも近代的な考えの人ばっかりでご ざいますから、そういうことになりますけれども。東京というところへ―植民地 ですから此処は。まあ寺としては毎日開会の初めに発遣(ほっけん)を致しまして、それでみ なさんに拝んで貰うと、こういうことに致しておりますんでございますけども。

 
ナレーター:  歯に衣着せぬ言動は有名でした。昭和五十三年、橋本凝胤師は 亡くなります。戦後の混乱した時代に確固とした指針を示した こと、薬師寺再興のリーダー役を果たしたこと、仏教の中でも 特に唯識(ゆいしき)学の研究を深めたことなどが、人々の記憶に残されて います。凝胤師は病に倒れて入院するまで、朝五時からの勤行 を、一日も休みませんでした。師が倒れてから、後を継いで朝の勤行を勤めてき たのが、当時の薬師寺執事長で、現在の薬師寺管長の安田暎胤さんです。安田暎 胤さんは、昭和二十五年、十二歳で出家し、薬師寺に入山。橋本凝胤師の弟子に なりました。平成十五年に法相宗管長・薬師寺管主となりました。太田信隆さん は、奈良の斑鳩(いかるが)に住んでいます。取材記者として主に歴史、文化の分野を担当し てきました。現在は浄土真宗誓興寺(せいこうじ)の住職をし、龍谷大学の客員教授をしていま す。薬師寺とは取材などを通じて長年に亘って交流を続けています。戦後橋本凝 胤師の名前が全国的に有名になったのは、週刊誌の対談で徳川夢声(むせい)氏を相手に、 天動説を展開した時からでした。その対談の行われた薬師寺地蔵院の客殿は、昭 和二十六年当時のままに保存されています。
 

太田:  管長、この部屋ですか。
 
安田:  そうです。この部屋が徳川夢声さんと橋本凝胤 さんが対談をしたところです。此処に徳川夢声 さんがおりまして、此処に橋本凝胤師匠が坐っ て、丁々発止(ちょうちょうはっし)やった、と。この辺に漫画家が 坐っていて縮み上がった、という話ですな。随 分印象が良かって、あちらこちらで橋本凝胤さんの物真似をさ れておったようですね。
 
太田:  徳川さんが、一人で二人の。なるほど。建物はその当時のもの?
 
安田:  ええ。そのままです、此処は。
 
太田:  橋本凝胤管長と言いますと、南都の傑僧というのは早くから知 られていましたけど、一躍と言いますか、有名になったのは、 週間朝日に載りました天動説だったですね。
 
安田:  はい。そうですね。確かに、それで一躍名が全国区になったと 思いますね。
 
太田:  ちょっと読んでみますと、凝胤さんが、
「私は、あんた方と違うのは、今の天動説をとって、 地動説をとっておらん。私の持ち合わせの知識で、天動説で十分説明で きるこっちゃ。」
とこうおっしゃっるんですね。
「あんたらは、地動説をとっておるわけやな」
夢声さんは、
「それはもう小学校以来、それで習ってきていますがね。しかも天動説 でもって説明がつくというだけで、地動説が間違いだとは言えないでし ょう。」
そうすると、凝胤さんは、負けんようにというか、
「天動説でちっとも困らん。それでいいんじゃないかな。逆らう必要は ないわな」
と、この辺りからちょっと険悪になってきましてね。凝胤さんが、
「天動説でちっとも困らんもの、それでいいじゃないか。逆らう必要な いわ。地球かて円筒形だ」
とおっしゃるんですね。そうすると、夢声さんが、
「それは円筒形でございますがね。丸いことは認めているわけですな。 それが空間に浮いているとも認めていらっしゃるでし ょう。天の方がグルグル回っているんですか?」
というと、凝胤さんは、
「回っているんじゃ」
とこう言われる。この辺りですね。何と言いますか、気骨とい うか、自分の骨子というか、凝胤管長―長老と言ってもいいん ですけども、この辺りはどうなんですかね。性格として。
 
安田:  普通の人が考える常識というものに対して、少しは違う角度から、物を観るとい うことも人間必要じゃないか、と。勿論、天動説であれ、地動説であれ、日常生 活に特に困ることはないんでしょうけれども、一風、一言、驚かしてやろうとい うような、ちょっとからかったようなところもあるんじゃないかと、私は思って いるんですよ。
 
太田:  そうですね。お終りのほうなんですけど、凝胤さんが、
「あんたが時代遅れと言おうと、阿呆やと言おうと、私はこのことが、 説かずんば非ず、という、いつでもこれを言っているんだ。地動説とい うても、天動説というても、天文学は仏さんの時代から考えられておっ て、倶舎論(くしゃろん)、或いは婆沙論(ばしゃろん)、一応本に書いてあるんですわ。科学のこと はね、儂もよう研究してきたけども、儂の言うていることが、これから 信じられるようになるかも知れんぞ」
そういう意味のことをおっしゃっているけどね。自信というか、強がりというか、 如何にも骨のある高僧であった、坊さんであった、という気が今するんですけど。
 
安田:  まあ確かに人間というものは、自分中心に世界が回っているように思っていると ころもありますけども、自分という存在を非常に大地の如く、動かざる自分、環 境に左右されない自分、そういう信念をもたないかんということかな、とも思っ たりしますけどね。
 
太田:  なるほど。時代返りをした天動説を持ち出した。何を言いたかったのか、という ようなことを、今になって思うんですけども。
 
安田:  一般的な、世間がみな右に向いているから、右というんじゃなしに、もう少し角 度を変えた物の見方があるんではないか、という一つのアドバイスかな、という ことも思うんですけど。
 
太田:  なるほど。安田管長は確か十二歳の時に出家されて、そして橋本凝胤さんに付か れたわけなんですが、初めて会われた時、子どもの頃なんですけども、印象はど うだったんですか。
 
安田:  私の郷里は岐阜ですけども、そこへ私が小さい時から、年一回 か二回来ておられまして、貫禄がありますし、声も立派ですし、 「日本一偉い坊さんだ」というふうに教えられていましたから、 お偉い方だ、という威圧感を受けるような畏敬の念をもって、 最初からそういうようなイメージでまいりましたから緊張の連 続でした、初めのうちは。寝ていて、マッサージを頼まれて、 こんなお偉い方の体に触れさせて貰えるのか、というような感 動で汗が出てきたんですな。なんか師匠が、私をからかって、 「もう汗かいているのか」と。「緊張していますから」というほど。年齢の差も 四十一歳ありましたから。私が十二歳で来た時は、五十三歳という若さでしたけ ども、もっともっと老けた感じに見えましたね。今、私は六十五ですよ。あとわ ずかで六十六歳ですけども、それから見たらもう十年以上も前なのに、此処で弟 子を抱えて指導をしておられた、お偉い人だったのだなぁ、ということは思いま すね。
 
太田:  そうですか。橋本凝胤さんの弟子への仕込み方、或いは教育方針は厳しかった、 と聞いておるんですけども、どういうふうな?
 
安田:  それはやっぱり大和弁丸出しで、言葉は大和弁ですわね。「これなんど!なにし てけつかるんや!」ということで、罵倒するように仕込む。非常に観察力が鋭い というか、その人の言動、行動について、非常によく、いいところも見える代わ りにむしろ悪いところが目立って見えたんでしょうか。ご飯食べている時でも、 ちょっとした箸の持ち方がいかんかったら、ガッと怒る。ちょっとご飯遅れたら、 「何しとるんだ!」と怒られる。怒ることが趣味みたいな人だなぁ、というよう な感じで、厳しく仕込む。いわばスパルタ教育ですか、弟子というものは厳しく せないかんということで、敢えて意識的に叱っていたというところがあると思う んです。根は優しい方なんですよね。だけどもやっぱり弟子には怒って仕込まな いかんということで、どんな時に怒られるかと言ったら、朝早く起きて先にお堂 へ行ってしまわれる。我々は朝寝坊します。そうすると帰って来たら、パーンと 布団を蹴って、上から蹴飛ばされる、ということですね。勉強していて居眠りす ると、来られて、パチンッと殴られたり、ということはありましたね。実際、腕 力の暴力まで、言葉の暴力は大変なもので、そんな小さい頃ですから愛のムチと 思いませんよね。なんでこんな怒り方せられるのかいな、というもので、反感め いたものがありましたけども、今から見れば私たち、若い子にそんなきつく仕込 めませんからね。有り難いと思っています、今は。
 
太田:  その厳しさというのは、南都仏教の伝統なんでしょうか。
 
安田:  南都仏教と言っても、私、昔のことは分かりませんが、橋本凝胤さんの師匠さん である佐伯定胤(さえきじょういん)という方が法隆寺と薬師寺の住職を兼務しておられました。
 
太田:  法相宗で、当時は。
 
安田:  ええ。そのお方さんがやっぱり厳しい方だったんだろう、と思うんですよ。佐伯 定胤さんを見習って厳しくされたのかな、と。本来、南都仏教というと、学問的 なイメージが強いでしょう。禅寺の激しい厳しい修行というよりは、私は学問追 求のイメージがあったんです。橋本凝胤、佐伯定胤という、特に明治以後、廃仏 毀釈の後(のち)に、仏教を立ち上げていこうとする、あの情熱を燃やした心ある僧侶た ちは、やっぱり精進潔斎して肉食妻帯を許されても、するものか、と。南都仏教 を守っていくんだ、という強い意識で頑張ってくれたのかな、と思いますな。
 
太田:  厳しかったのは橋本凝胤さんが、何か伝えたい、教えたいと。弟子をこういうふ うに仕込みたい、という一つのお考えがあった、と思うんですね。厳しさ、伝い たいと思われたのは、どういうことなんでしょうね。
 
安田:  これはやっぱり仏教の本筋というか、奈良仏教が日本仏教の、いわば元祖である という自負心と、そのためには何としても持戒堅固で、独身で肉食をしない、戒 律を守ることがまず基本である、と。だからこそ厳しく仕込んで、そういうタイ プの人間を弟子としてつくりたかったのじゃないかな、と思いますね。だから仏 教は堕落している、と。堕落した中に、ほんとの坊さんをつくりたい、と。自ら 率先してやられたんじゃないか、と思うんです。
 
太田:  ご自身にもやはり厳しかったんでしょう。
 
安田:  それはやっぱり人間誰しも欲望はありますから、その欲望をコントロールすると いうことは、それは厳しい。弟子の手前、更に厳しく、私はされたと思いますね。 それと辛いことも嫌なことがあっても、ただ自分自身、範を示そうとする。その 姿はやっぱり大したものですね。
 

(朝の勤行)
 
橋本凝胤師は晩年八十歳近くになっても朝の勤行を続けた。
弟子が、「早朝は寒いので暖かくなる八時頃にしてはいかがで すか」と進言、
凝胤師は、「体を心配して戒律を忘れてはならぬ!」と。
病に倒れるまで朝の勤行は続けた。
 

 
太田:  厳しさの反面、聞くところ、非常に優しいところがあった、ということですが、
 
安田:  そうですね。
 
太田:  どんなところが、そういうふうに感じられました?
 
安田:  やっぱり情のあるところですね。私が怒られて、シクシク泣いて、帰ろうかな、 と思って裏の畑へ出て行ったことがあるんですよね。後から追っかけて来て、な んかグッグッとこう抱いてくれましたからね。私自身は、父親が戦争で亡くなっ ていますから、そういう父親代わりということもあって、さらに一方そういう厳 しさと優しさを両方持って指導してくれたのかなぁ、と。
 
太田:  凝胤さんを慕う政界人、財界人が多かった。阪急電鉄、宝塚歌劇を作り、それか ら東宝経営された小林一三(いちぞう)さん。それから電力の鬼と言われた松永安左エ門さん ですね。それからトヨタの神谷(かみや)正太郎(しょうたろう)さん、それから政界では、自民党の副総裁 ・衆議院議長をやった大野伴睦(ばんぼく)さん、そういう方々は此処へよく来ておられた。
 
安田:  むしろこちらへいらっしゃった数は少ないと思いますけども、こちらが出て行っ て毎月一回、例えば阪急の小林さんのお宅でお茶の会があって、そこでお話をす るとか、或いは東京へ行きますと、必ず大野さんの家とか、神谷さんの家へ寄っ たり会社へ寄ったりして表敬訪問した。向こうさんも喜んで、お待ちしていてお 会いして頂いたものですから。私が、一応連絡してはお会いしたことがあります。 やはり経済人、政治家という方々は、心の中のゆとりと言いますか、癒しという か、人間性の深まりを求められたのか、違う雰囲気でお迎え頂いた、と思うんで すね。政治家の中でも、宗教者があまり入っていけませんから、そこへ積極的に お会いして貰えるということで、三木武夫さんでも大変親しくして、「政界で、 宗教者が来てくれることは非常に少ない。是非話を聞きたい。自分たちは法律を 作って、網の目を作るけれども、網の目をくぐる人がいる。このくぐる人のない ようにして貰いたいのが宗教家だ」という話もされたりしていましたけども。確 かに師匠は、「政治家を指導する宗教者が必要である」と言っていました。だか らそういう大御所にお会いしては、何か思うことがあればズバリということを好 んで橋本もされておった、と思うんですよ。
 
太田:  今の時代、ちょっと考えさせられる問題なんですが。そういう意味で橋本凝胤さ んは、「政治的な力を持った坊さんだ」ということを言われたことがあったんで すが、平城京旧跡(710-784)の復興には随分と政治の力を借られた、という話 も残っているんですが。
 
安田:  國の買い上げで、何としても侵されていない田圃をできるだけ國で買い上げて貰 いたい、と。時の池田勇人(はやと)総理大臣にも頼み、或いは大野伴睦さんにも頼み、何 とかして國で買い上げて保存して欲しい、と。國の国費で買うんですから、その 当時、「文化財保護委員会」と言っていましたけども、年間予算が十億円、買い 上げの費用が四十億円ですから、一文化財保護委員会では買える金額でありませ ん。だから何としても國で守って貰いたい、ということはほんとに積極的に随分 動かれましたね。政治でなければ、国費でなければ買いませんからね。あれは大 きな国民運動にもなりましたけども、その中心の一人であった、と思いますね。
 
太田:  凝胤長老は、お茶ですね―茶道でもお付き合いが広がっていった、という話を聞 くんですが。
 
安田:  お茶が好きでしたね。「お茶をするものは、人間性を深める上において大事であ る。だから政治家でも財界の方でもお茶をしてくれるといいな。お茶人であって 貰いたい」ということはよく言っていましたね。だからここでも還暦の時でした、 還暦茶会というのをやって、毎日二十人ずつお客様を接待しま して、二年半ほどやりましたかね。私は、京都の大学へいって いましたから、京都の方でいつも錦の市場で生麩を買って帰っ て来る。「明日は何人分だ」と言ってお使いしたことがありま す。大変お茶がご自分も好きで毎日毎日お茶を飲まない日はな かったですね。
 
太田:  「お茶は長生きのもの」とか、そんなことは言われましたでし ょう?
 
安田:  うん。健康にね。薬ですから。「茶薬(さやく)」と申しますのでね、確かに。そして泡を 立てるから、「この泡がいいんね」と言ってね。
 
太田:  なるほど。安田暎胤管長は、橋本凝胤長老―その当時管長だったですけれども、 随行で世界各国ずっと廻られましたね。ローマでは確かパウロ六世。フランスで はドゴール、それからインドのネールさんにも会われた、
 
安田:  そうそう。
 
太田:  その同じところへずーっと随行されたんでしょう。
 
安田:  ええ。
 
太田:  世界の知名人というか、著名な人と会うて、会見した時で、印象に残っているこ とがありましたらお話下さい。
 
安田:  フランスでの有名な文化大臣・アンドレ・マルロー(フランスの作家・政治家) と会った時の印象が強いかな。ローマ法王は謁見ですから、ちょっと握手する程 度のことで、会話はありませんのでね。アンドレ・マルローさんが、日本の展覧 会をパリのプティ・パリでやったんです。いろんなものが出ていたんです。埴輪 から禅宗の書まで、いろんな、奈良のものもいっていましたけれども。それはマ ルローさんがその展覧会をした理由は、「フランスの美術界が今壁にぶつかって いる。だからその壁をぶち破るために、日本の芸術の展覧会をしたんだ」と。で も師匠は、「自分が眺めたら、こんなものあかん」と言ったので、マルロー氏は、 「どんなものがあるのか?」と質問され、木食(江戸後期の遊行僧で特異な木彫 仏を残す)というような、江戸時代の彫刻家の話もされておりましたけれども。 マルローさんとそういう日本の文化の話を堂々と渡り合っていることが非常に印 象的ですね。
 
太田:  マルローさんというのは、日本の文化をよく理解されていた人ですね。
 
安田:  そうですね。薬師寺にもその後来られまして、私が境内をご案内したんですよ。 余談になりますけれど、西の塔を建てるか建てないかで、随分問題になっていた ことがあるんです。日本の文化人は建てるのは反対しておりましたけれども、私 は絶対に建てたいと思っていたものですから、「マルローさん、あんた、西の塔 を建てることをどう思うか?」と言ったら、「元あったのか?」と訊きますから、 「あったから復興したいんだ」と。そうすると、「建てるべきである」と、と言 ってくれたんでね。私は國への申請書の中に、「アンドレー・マルローさんも建 てよ、と言うている」と書いたことがあります。非常に日本の文化の理解者でし たね。
 
太田:  なるほど。管長、この番組のタイトルは、「師匠の姿に学ぶ」ということなんで すけども、凝胤師に学ばれた一番のものというのは何でしょうか。
 
安田:  「コツコツと続けることの大事さ」です。「人間はそう差はないのだ。努力が大 事だ。天才というたって大したことはない。大事なことは続けてやることや」と いう積み上げの尊さを言われたですね。そのことはまた高田好胤管長も受け継が れて、「継続は力なり」という有名な言葉がありますけれども、身をもってそれ はされたかな、と思います。よく教えの中では、「自業自得」ということをよく 言うでしょう。要するに、「絶対に偶然はない。因果必然である。今置かれてい るのは必然的な因果によってあるんだ」ということで、「偶然はない」というこ とをしきりにおっしゃっていたことです。それから、「人間というものは愚かな ものや。偉そうなこというたって、人のために言ったって、結局自分のためにや っているんじゃないか」という。その自己否定ということを自分自身も思ってお られたでしょうけども、一般の方に、「ほんとに人間というものは、自分のこと ばかり、我が物は我が物に、他人(ひと)のものも我が物と思うぐらい、自分勝手なもん や」ということはしょっちゅうお話の中に出ていましたね。
 
太田:  なるほど。人間というものを、聖徳太子の憲法にもありましたね。 「我必非聖(われ必ずしもせいにあらず)。彼必非愚(かれ必ずしもぐうにあらず)。共是凡夫耳(ともにこれぼんぷのみ)」と。
 
安田:  凡夫であると。その意識が強かったですね。だから理想的なことを言っても、そ う偉そうなことを言ってもできるものではない、とおっしゃっていましたね。
 

 
ナレーター: ともすれば、孤高の姿勢をとるところのあった師匠に比べて、 兄弟子の高田好胤師は解りやすい話をすべきだ、という立場を とっていました。
 
高田:  皆さん方は、ミケランジェロとか、或いはレオナルド・ダビン チというような有名な外国の芸術家の名前を知っているでしょ う。ところがそういう外国の有名な芸術家よりも、もっともっ と素晴らしい芸術家が、もっと古い時代に、私たちの先祖の中 にたくさんいらっしゃったんです。
ナレーター: また師匠の悲願であった金堂復興の方策にしても、高田好胤師 は弟弟子の安田暎胤さんのお勧めもあって、写経勧進で基金を 集めることにしました。昭和四十二年のことでした。
 
高田:  お経さんは、文字を見るだけでも功徳がある。そのお経さんを 声に出してあげますと、さらに大きな功徳がある。そのお経を 一文字一文字自分の手で写し取って、心にお経さんを頂くこと は、更に大きな功徳があるんだと。
 
ナレーター:  二百六十二文字の般若心経を写経し、一巻に千円を添えて納めるという方式が編 み出されました。目標は百万巻。基金は十億円が目標でした。一九八五年には三 百万巻が達成され、目標を遙かに上回り、現在も続けられて、その数は七百万巻 になっています。
 

 
太田:  高田管長と安田管長は兄弟弟子ですね。
 
安田:  そうですね。長男と何男か、というところでしょうね。
 
太田:  なるほど。そうすると、高田管長の間はずーっと執事長だった。
 
安田:  そうです。
 
太田:  支えていかれたわけですね。そうすると、この間に白鳳伽藍薬 師寺復興、これをなさったわけですね。
 
安田:  はい。幸いにですね。名前が、あちらが「高田」、私は「安田」と、同じ「田」 が付いていても、あちらは「高い」ほうで、私は「安い」ほうという。「高・安」 とコンビよくですね。歳は違いますが、非常に私を信頼して頂きまして、また私 も高田管長のためならばと、諸手をあげて全面協力をしようと。支えさせて貰お うという気持でお付き合い致しました。橋本凝胤元管長も七十歳で、今では若い ですけども、引退されて、これからは若い者の時代だ、と。で、その時高田管長 が四十三歳、私が二十九歳、足して七十二ですね。
 
太田:  なるほど。
 
安田:  二人が一応コンビと言いますかね。高田管長は師匠の恩返しのためにでも、何と しても金堂の立て直しをしたい、と。金堂だけで最初はスタートしたんですね。 是非とも金堂を復興したい、と。師匠の目の黒い間に、ご恩返しだ、というので スタートいたしました。
太田:  百万巻写経ということで呼びかけれれたんですね。
 
安田:  ええ。
 
太田:  写経というのは、それまで他の寺にありましたけども、「写経 は薬師寺」というようなことになってきたのは、今度は此処は 非常にそれでお堂を再興するということが解ったからですか。
 
安田:  そうですね。結局これも橋本凝胤師匠がもう戦前から細々とお 写経の会を続けておられて、これを是非多くの方にもして貰っ たら、ということで、「それは高田好胤管長さんならできるだ ろう」と。橋本凝胤管長の場合は、ごく一部の方々との深い繋 がりをもたれたけども、更に高田管長さんの場合は、お写経を 広くお勧め頂けるんじゃないかなぁ、と思って。普通ならば、 財界のお金を集めることが第一。「まず頼みに行って、足らな いところを写経でやれ」とかという話もありましたけども、「い や、そうではない。最小の効果のために最大の努力を惜しまな い。宗教精神大事さ」と。これも橋本凝胤の教えなんですよね。 それを高田は実行に移し、我々の世代でできなくともいいんじ ゃないかと。大衆のお金を頂戴し、ただこのお金を頂くだけで なしに、喜んでして貰える方法はないか、ということで、お写 経ということでできたわけですね。高田管長というのは非常に 説得力のある、人の気持を切り替えていく。坊さんというものは―お釈迦さんも 最高の説得者でしょうね。出家するまでこう気持を転換さすんですから。そうい う人の気持を転換さす名人ですな。だから高田管長は非常に大衆性のある方であ る。これからの時代はそういう時代でないかなぁと思って一生懸命お支えさせて 貰いました。
 
太田:  なるほど。そうすると、橋本凝胤長老は難しい方で、怖い人であった。
 
安田:  そう。
 
太田:  高田管長は優しい人で、それから才知というか手腕のあった人。コントラストと 言いますか。
 
安田:  面白いのは易しいことを、難しく語るのは橋本凝胤さん。難しいことを易しく語 るのが高田好胤さん。こういうと解りやすいかと思うんですけどね。高田管長の 話はみんな目を開けて聞いておりますけども、橋本凝胤長老の話はみんな居眠り して聞いているようなことがありましたからね。それと面白いのは、「百人のう ち一人だけ聞いてくれておったら、儂はそいつに話をするんだ。九十九人寝てお ってもいい」というのは、橋本凝胤さんです。高田好胤さんは、「百人のうち一 人でも寝ていたら、なんとかその人に起きて貰いたい、と思って話をする」とい う違いがありました。まあ面白い比較ですよね。
 
太田:  そうですか。そうすると安田管長は、どちらかというと、どちらのほうに近いと ご自身思われますか。
 
安田:  私、ハーフですね。どちらかというと、性格からいくと橋本に似ているんですね。 だけども私は高田管長の生き方を見習いたい、と。できるだけその方向に自分は 努めているつもりなんです。だから笑顔を絶やさないようにせないかんな、と思 っています。
 
太田:  高田管長のいいところは、たくさんあると思うんですけども、どういうところが いいな、これを実行したいな、と思われましたか。
 
安田:  やっぱり人の中へ飛び込んでいく。だから向こうの方が虜になってしまうほど、 意思の疎通が家族ぐるみの関係になるぐらいですね。そういう人の中に飛び込ん でいける親しさ。これは学びたいなあ、と。
 
太田:  高田管長という方は大勢に話しておられても、一人ひとりに話しておられるよう な印象を与えましたね。
 
安田:  そうそう。だから途中で話を聞いている方が、どっかへ出ていかれると、「話が 嫌で帰って行ったのかなぁと思ったら、また帰って来た。あ、あれはトイレへ行 ってはったのかな」というように「安心した」というぐらいに、一人ひとりの顔 を見て、また同じ話を繰り返しされても、毎回フレッシュな気持で話をしておら れた。修学旅行の生徒は相手は変わりますから、口調は慣れっこにならないで、 毎回新鮮な気持で話をしておられた、ということも学ぶべきことだ、と思ってい ます。
 
太田:  高田管長もそして橋本凝胤管長も繰り返し繰り返し話された。仏教でも大事なん でしょうね。お経でも同じですから。
 
安田:  そうそう。だからそれが結局は修行というものも「体解大道(たいげだいどう)」。体で理解する。 それを繰り返し繰り返しやっていることによって自分自身のものになっていくん ですね。
 
太田:  なるほど。
 
安田:  だから、「知識」と「智慧」の違いは、「知識」というものは吸収する。「智慧」 は磨くものだと。自分の生活にこれが身に付いた時に、智慧に変わると、私は思 いますね。その繰り返しの力、体が覚えてしまう、ということが大事だ、と思っ ています。
 
太田:  現代の教育というは、学校教育が発達し、充実している時代なんですけれども、 この時代はなかなかいい先生に巡り会うというのは難しい。大学はたくさんある し、高等学校もたくさんありますけれども、いい先生に出会というのは、なかな か難しいけれども、安田管長はいい先生、それからいい兄弟子に会われたという のは、これは非常に良かった。
 
安田:  そうですね。ラッキーというか、ご縁は有り難いと思っています。お釈迦様も、 「良き師、良き友を選べ」と。禅宗のお寺のように、あちらこちらの禅寺を訪ね て行くことができれば、それはいいんですけども、私たちの場合は余所へ行けま せんから、与えられた一つの師弟関係ですので、良き先輩、良き師匠にほんとに 恵まれたというのは、私はほんとに感謝していますし、有り難いと思っています よ。
 
太田:  なるほど。天武・持統天皇の作られた白鳳の伽藍が、昭和から平成にかけて甦っ た。これには橋本凝胤さん、高田好胤さんのお二人と、それか ら松久保秀胤さんがいらっして、今度は安田管長になられたわ けなんですけれども、その間には衆縁と言いますか、例えば西 岡常一(つねかず)(1908-1995)さんという大工棟梁―坊さんでないけれ ども、匹敵するというか、大変な人でしたね。
 
安田:  そうそう。私は、何事でも「衆縁和合(しゅうえんわごう)」と。いろんな諸々のご 縁が和合してできるものだ、と。だから橋本凝胤師が地盤を築 き、その上に寺を建てたのは高田ですけども、その場合でまず 大事なことは発願ですね。やりたいというその情熱をまず燃や すことと、後は資金、材料、技師、そういうものが上手く和合 しなければできません。西岡常一という名工がおられたから、 非常に薬師寺と致しましては有り難かったですね。法隆寺さん の修理を随分されて、その総合力を持って伽藍を建てる大工と なって、華を咲かせられた。西岡さんも幸せだったと思います よ。うちもまたそういう方に恵まれたことは有り難かったけど も、双方お互いが、またこれほど大衆の方々もお写経をして、その浄財がまた伽 藍復興になって残っていくということにもなります。写経をおやりになって、ま た写経し甲斐もあるんじゃないのかなぁ、と。すべての方にできたら喜んで貰い たいなぁと思っていますし、そうしたことで、伽藍ができた歴史は少ないです。 しかも戦後一番南都の寺で大きく姿・景観を変えたのは薬師寺じゃないのかな、 と思います。これも私ども寺へ来た時に貧しかったから、東大寺さんのような、 法隆寺さんのような立派な寺になりたいなぁ、と。そういう一つの大きな目標が ありましたし、そのために師匠は仕込んでくれたということで、「今に見ていろ、 僕だって、見上げるほどの大木になってみせずにおくものか」というような国語 読本があったようですが、もし伽藍が揃っておったところへ我々が来ておれば、 経済的にも豊かであれば、「小人閑居して不善をなす」で、できなかった、と思 うんですね。貧しかったが故に良かった、と。人間すべからく、そういうように、 先に苦しみ悲しみ辛さを体験しておくことが大事なことではないか、と思います ね。
 
太田:  「先憂後楽(せんゆうこうらく)」という言葉を今フッと思い出したんですけどね。ですけども、今の お話伺っていましたら、人の縁ということを、今しみじみと感じるんですが。
 
安田:  「袖振り合うも多生の縁」と思っていますだけに、この縁の繋がり、これ数珠の ずーっと繋がっていくようなもので、この人が居なかったらこれはできなかった という。どこ切っても、あれがなかったら、というように、その縁の不思議さ、 有り難さをほんとにいつも感謝しています。
 

太田:  甦った白鳳伽藍。此処は金堂、それから西の塔、それから中門、 それから講堂、それからこちらのほうには玄奘三蔵院、ほんと に寂(さび)れた寺から、「薬師寺元気」ということを世界に発信され たように思うんですけれども、さあ、これから薬師寺はどんな ことをやるのか、大きな縁を繋いだ方々がそういうことを関心 をもって見詰めていると思うんですが、その辺は如何でしょう。
 
安田:  私は、一つは千年の歴史を持つ寺の僧侶の仕事は、そういう先 人の素晴らしい文化を保存継承していくことが大きな仕事です。 無くなったものは復興し、傷んだものは修理する。それだけで は先人の借金を返しただけではないか。そこで文化を創造する ことも大事なことではないか。何よりも人の心に塔を作る、人 の心に仏を作る、伽藍を作る、という。ほんとは人作りですね。 薬師寺なり、奈良の寺の本来のある姿は、昔の大学ですから、 そういう仕事が大事だ、ということで人作りです。それからも う一つは平和のための努力ですね。イラクのことが心配ですけども、日本も社会 貢献、人道支援という形で協力していかんならんと思います。私自身も、父親を 戦争で亡くしました。戦争遺族です。戦争というものは二度と繰り返さないよう に。戦争では多く殺したら誉められるんですから、異常社会ですね。何としても そうでない平和な社会作りのために少しでも私はまず宗教者同士が手を組まねば いかん。宗教戦争と言われますけども、どんな宗教も人を殺す人はありませんか ら。みんな慈悲と寛容、愛の宗教ですよね。私は、イラン、或いはイスラエルの 方々とお会いしましても、「イスラム教ほど寛容と慈悲の宗教はない」と、彼ら は言いますから。そういうようにどんな宗教も弱者救済、人命尊重、平和を願っ ているんですから。宗教戦争ならば教義で論争してこそ宗教戦争です。戦争の原 因はそんなことではなしに、人種差別とか、或いは貧困の問題だとか、領土問題 だとか、そんなことが大きなことでありますから。でも誤解を招かないように、 宗教者同士がもっともっと深く対話し、日本国内も諸宗教、諸宗派が合同して― 私も、何故か全日本仏教会のほうから副会長になってくれと言われまして、こん な小さな寺ですけども、少しでもそうした日本全体の仏教のお手伝いができたら、 と思っております。
 
太田:  仏教各宗あります。薬師寺は南都七大寺の一つですね。南都の仏教と言いますと、 一般から見ると、難しいという先入観と申しますか、一般的な考え方があるんで すね。この難しいのを易しくということは、これは口で言うのは簡単ですけども、 なかなか難しい。
 
安田:  そうです。
 
太田:  特に三島由紀夫(小説家)さんが、こちらの法相宗の教学である「唯識」を非常 に関心を持った。その他に唯識に関心をもった人がいますけども。唯識というの は人間の深い心の真理を表した、というか、解き明かす。この頃割合に唯識を勉 強したりするような方が多いですね。これはこのお寺の大事な部分でありますが、 これはどういうふうにして広めていかれるんでしょう。
 
安田:  はい。私は三つあると思っています。一つは今おっしゃいます「唯識教学」とい うものの広めですね。確かに難しいです。私は、大学で勉強していて、こんな難 しい、重箱の隅を穿(ほじく)っているような学問をしていたらあかんな、ということを 思ったことがあるんです。だけどそれは勉強不足だからそう思ったんであって、 唐の時代にもっとも栄えた教えですから、唯識教学の平易な語り、説明、唯識学 界の学問だけじゃなしに、一般の方にわかって貰えるような、そういう唯識講座 を持ちたいな、と思っています。それ以外に、御薬師様がご本尊ですから、薬師 信仰というものも大事かな、と。仏教美術的なことの学問も大事かな、と思って います。一般の方は唯識教学に少しずつ関心がありますけども、心の中を観る。 『観心覚夢鈔(かんしんかくむしょう)』という本がありますが、「自分自身を知る」ということが大事で すから。要するに、「自分のおぞましいところを発見して、そして浄(きよ)めていく努 力をすることが大事じゃないか」と。あれもこれもいろいろこう思っても、結局 は自分の自己的なエゴの気持が走りまして、橋本凝胤師のおっしゃるように、人 間大したものじゃありませんが、その慢心を持たず、エゴのおぞましい自分を発 見した時に、少しは自分が進歩していくんじゃないかなぁ、と思いますから、い ろんな角度から人間の心を語っていく。そんな本も書きたい、と思っています。
 
太田:  なるほど。奈良の古寺と申しますと、和辻哲郎さんの『古寺巡礼』。戦争の前で すが、それから戦争を越えて、それから平和の時代になりまして、経済復興して きた。それから文化財というものを非常に大事にしようと。一面は文化財という ことで、仏さまを導きとして見る、ということが先行するようになった。このあ たり他の寺へいくよりは、薬師寺できわめて仏様を拝むというようなのは、
安田:  いや、そうじゃないです。私は、みんな薬師寺へいらっしゃる 方の中には、多くは見に来られる方だ、と思います。見仏(けんぶつ)―仏 を見る。これでいいと思います。ただそれを見た方に拝んで帰 って貰うことをするのが、薬師寺の仕事ではないか、僧侶の仕 事だ、と。最初は見物でも何でもよろしいからお出で下さい、 と。お出で頂いて、美しいな、でもいいんですよ。そのうちに 話をしているうちに知らず知らずに掌(て)を合わせて拝んで帰って 貰うように語りかける。心の転換の場所ですから。それが宗教 者の使命ではないかなと、私は思っています。ですから先ずは、 物見でも何でもけっこうです。お出で頂ければいいんですから。 そして拝んで帰ってもらうように働きかける努力を、今若い人 もみんなやってくれていますから、最後みんな合掌で帰ってい ますよ、薬師寺では。
 
太田:  そういう転換させる手立て、と言いますか、どこに力を入れて おられるわけですか。
 
安田:  伽藍に参拝に来た方々がまず中心ですけども、学生さん、修学旅行の生徒さんで も、或いは一般の方でも、とにかく話をしているうちにだんだんそういう心境に ―人間の美しい心を、と言いますか、温もりの心が出てきます よね、なんとなく、どんな日本人でも心の中には美しい心を持 っておられますから、思わず掌を合わせて帰られると思います ね。だから博物館で観賞するのもいいですけども、お寺の場合 は礼拝の道場ですから、拝んで帰って貰うように努めています けどね。
 
太田:  なるほど。修学旅行生全部に聞いたわけじゃありませんけど、 聞きますと、「薬 師寺へ行くと坊さんのいる風景が見られる」 と言うんですが、若い僧侶の人たちにどんな気持で育成という か、教育をしておられますか。
 
安田:  これは高田管長以来のことなんですけども、素晴らしい文化を 創った先人に負けないような明日の日本を作っていこう。或い は人間の欠点を発見して、丸い心、明るい心に自ら目覚めよう と、いうような話とか、若い人々は同じ話を繰り返してやって います。繰り返し繰り返しやっているうちに最初は受け入れられない場合もあり ますけれど、時々フッと入って、学生がグッと喜ぶような場面がありますね。ど んな話が一番現代の若者にアピールするのかということを自分で感じ取っていき ますから。一つの説法の道場ですな。だから最初恥ずかしい気持であってもだん だん慣れてきますし、修行の一つでしょうね。
 
太田:  なるほど。高田管長は高度成長期に、「物で栄えて心で滅びる」と言われる。短 い言葉で言い当てている部分があったんですが、標語に高田管長は「発菩提心」 と書かれています。それは標語というか、呼び掛けだった、と思うんですけれど、 安田管長はどういう呼び掛けをしておられますか。
 
安田:  高田管長は「発菩提心荘厳国土(ほつぼだいしんしょうごんこくど)」―美しい心を発こして、国土を美しくしよう。 私は、「発菩提心」から更に「修菩薩行(しゅうぼさつぎょう)」と。菩薩行とは何か。自分自身を築 く。自己完成の努力とともに、人様への利他(りた)の活動、人助けというような面での 努力、それを両方やらないかんな、と。自己の完成と人様への愛の御福分(おふくわけ)と申し ましょうか、人のために尽くす。そうした努力が必要なのか、と。エゴの固まり が災いを起こし、戦争を起こしますから、人のため、人の幸せ、 思いやりと気持を少しでも発揮することができるように、自分 も努力したいし、またそうした方々の広まりを望んでいるわけ です。
 
太田:  今の世の中に必要なものが今おっしゃったことは非常に大事だ と思いますね。
 
安田:  親が子を殺す。本来、命を懸けてでも子どもを守るのが高等動物の本能ですけど も、人間は悲しいかな、今、日本人の中には子どもを虐待し、殺す親まで出てき たという。そういう事態は異常な事態ですから、そうであってはならない、と。 何としても親としての温かい心を取り戻して貰いたい。大半そうでしょうけども。 そういうことを強く願っておる昨今でございます。
 
太田:  どうもありがとうございました。
 
 
     これは、平成十六年二月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである