永遠のいのちの教え K『法華経』信仰に生きる
 
                 立正大学教授 北 川(きたがわ)  前 肇(ぜんちょう)
                 き き て  草 柳  隆 三
 
草柳:  「永遠のいのちの教え」と題して、この番組ではこの一年間、毎月一回『法華経』の言葉を取り上げて読んでまいりました。今回が最終回になるんですが、最終回の今日はこれまでの後を辿りながら、「『法華経』の信仰に生きる」と題して、いつものように立正大学教授の北川前肇さんにいろいろとお話を伺ってまいります。よろしくお願い致します。
 
北川:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  今まではあまり直接お伺いすることはなかったんですけども、今回は最初に北川さんご自身のことをチラッとお聞きしたいんですが、北川さんはそもそも『法華経』というこの教えに出会ったのは、どういうことがきっかけだったんですか。
 
北川:  そうでございますね。私のことを申し上げるのはとても恥ずかしいと言いましょうか、ご紹介申し上げることでもないかと思うんですけども、大きな節目というのが、小学校の六年生の卒業式を終わりまして、仏門に入りまして、和尚さまに「よろしくお願い致します」というところから、お坊さんとしての、と言いましょうか、出家の修行が始まりましたけれども、それ以前の小学校までの自分の環境を辿ってまいりますと、農業を営みながら両親たち、あるいは祖父、あるいは周りの方が、一生懸命毎日のお勤め、あるいはみなさんが講会(こうえ)の日を決めて『法華経』を読誦したり、先達さんに導かれながら、お釈迦様の話や『法華経』の話、あるいは日蓮聖人の話をされるという、そういう講会。ですから、私は日常はまさに両親たちのお経の声、あるいは小さい時からご縁がありまして、そういう講会に連れて行って頂くことがとても楽しみだったものですから、先達さんや、あるいは周りの方たちに、そういう話を頂戴した、あるいはお寺に連れて行って頂くというようなことで、非常に身近な教え、あるいは身近な経典として私の中にはあったような気が致します。
 
草柳:  そうなんですか。その北川さんの心を捉えた『法華経』の心と言いますか、『法華経』の教えというのは、一体何だったのかというのを、これまでずっとみてきたわけですけれども、改めて今その『法華経』が北川さんの心をどんなふうに捉えたのかということを、
 
北川:  そうですね。日々のお勤めの時にも、儀式としてと言いましょうか、形として、経巻を両手で押し戴くということをさせて頂いておりますが、その儀式の中にこの第一回目から少しくお話をさせて頂きましたけども、読誦すべき、あるいは読誦する黒い文字ではありますけれども、両手で押し戴くということが、御仏の全身全霊、抱えられた、あるいは正真の仏さまがそこに在(ましま)していらっしゃるという、そういう受け止め方でしょうか。ですから時間は、とてもお釈迦様ご在世から二千年以上の時間を経ているわけですけども、しかし私にとりましては、文字を通し、そしてその説かれている教えを読誦さして頂きながら、御仏が常にここにあって法を説いてくださっているという、そういう実感と言いましょうか、勿論それはこの迷っている私からしますと、簡単なわけじゃありませんけども、しかし少なくともそういう気持ちに一緒に戻って、そしてお勤めの儀式の中で、お釈迦様に出会い、あるいは先師に出会えるという、そういうことで小僧の時は、修行さして頂いている時は、朝早く起きて日々の勤行というのが、ある面では苦痛でございましたけども、しかし少しずつ年を重ねながら命を頂いている今を考えますと、とても大きな喜びであることもまた確かなことのようでございますね。
 
草柳:  で、その『法華経』の中の仏とは、どういう存在であったのかということを、先ずその話から今日入っていきたいんですけれども、『法華経』そのものは全部で、章で言えば二十八あって、二十八品(ほん)というふうに呼んでいるんですけども、その中の先ず「譬喩品」の中に、
 
北川:  「三者火宅の譬え」が出ておりますところに、御仏という方は、こういう方でいらっしゃるということが説き明かされております。
 
草柳:  そこのところを読んでみましょう。
 
三界(さんがい)は安(やす)きことなし、猶(なお)火宅の如し。
衆苦(しゅうく)充満して、甚(はなは)だ怖畏(ふい)すべし。
常に生・老・病・死の憂患(うげん)あり。
(かく)の如き等(ら)の火、熾然(しねん)として息(や)まず。
如来は已(すで)に、三界の火宅を離れて、
寂然(じゃくねん)として閑居(げんこ)し、林野(りんや)に安処(あんじょ)せり。
今此の三界は、皆是れ我が有(う)なり、
其の中の衆生は、悉(ことごと)く是れ吾が子なり。
(しか)も今、此の処(ところ)は、諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し。
(ただ)我れ一人のみ能(よ)く救護(くご)を為(な)す。
(『法華経』譬喩品)
 
北川:  私たちが受けているこの世界―三界(さんがい)(私たち衆生が生存する三つの世界を三界を称し、これらは迷いの世界と見なされる。欲界・色界・無色界)でございますけども、ご承知の通りいのちを受けて、そして日々生きております現実世界というふうに置き換えますと、それはあたかも炎が燃えさかって、そして家を焼いているようなものではありますまいか。そこにはたくさん苦しみが満ち溢れています。それらの苦しみというのは、私たちが生きていく上で、あるいはいのちを保つ上でとても恐るべきことです。常に私たちは生まれいずる、そして生きなければならない苦しみ、老い、病、あるいはそして自然的なもの、それでないもの、いろいろな出来事の中で、死を迎えなければならない、そういう憂い、苦しみ、悲しみに満ちています。このような苦悩というようなものが、あたかも燃えさかる火のように、次々と焼け尽くして、そしてその炎も少しも止むことはありません。しかしそのような私たちは現実世界にありますけれども、じゃ、お悟りを開かれた広大無辺な大慈大悲をお持ちの仏様は、どういう方でいらっしゃるかというと、既に私たちのその苦悩に満ちた世界、火宅を超越され超脱されて、お悟りの世界、永遠のいのちをお持ちであり、そして安らけく、そして安処(あんじょ)として静かなるお悟りの境地、涅槃の境地にいらっしゃって、それはあたかもこの自然界で言うなれば、私たちがこの心を癒すような林野、穏やかなそういう世界に、園にいらっしゃいますと。我々から見れば苦悩に満ちた三界ですけども、しかし仏さまはその三界を、実はご自分の所有される大切な大切な世界なんだと。今この三界は、実は私の所有するところであると。治めるところであると。その中にあるいのちを受けているすべての人々は、実は私の子どもなんだと。で、その子たちは、三界の苦悩というものを受けている。その火宅のような三界だけれども、確かに多くの苦しみ悲しみが押し寄せているでしょう。しかしその苦しみ悲しみから抜け出し、脱出せしめる。その導くしっかりと人生を歩みながらも、悟りへの道を示し、そして救い取っていくのはただ私のみなんだ、と、こういうふうに高らかに宣言くださっているわけですね。
 
草柳:  これは『法華経』に限らないと思うんですけれども、仏のことをさしていろいろな言い方をされますよね。つまりは悟りを開いた人、今出てきた如来も勿論そうなんですね。
 
北川:  そうですね。如来には、繰り返しになりますけれども、以前から十の素晴らしいお名前があるというようなことで、それぞれの私たちにとって、偉大な方であるとか、この真理からまいられた方とか、いろいろありますけれども、ともかくそういう尊い如来様であり、特に『法華経』の場合には、私たちの住んでいるこの世界は、火宅だとこう言い切り、しかもじゃ、その火宅は、衆生が苦しむだけで、その苦悩の世界に沈没して救い手がないかというと、そこにはっきりと、実はその中の衆生は私の子であり、私が救い取っていくんだということを、この「譬喩品」では高らかに歌ってくださっているという、そこに仏と仏の子―衆生。衆生とは、迷いの人々であると、こういうふうに突き放すんでなくて、実はその中に生きているあなたたちは、大切な大切な仏の教えによって甦り、仏のいのちを継ぐ子どもなんだということを、このところで示してくださっているというふうに思うわけです。
 
草柳:  『法華経』では、迷いの衆生である我々を救うために仏をこの世に出現させたという関係になるわけですか。
 
北川:  そうでございますね。ですから我々はただ迷いで終始しているということだけではなくて、実は迷っている衆生にとって、この御仏とはどういう方かという時に、今の言葉で言えば、「三界は、皆是れ我が有(う)なり」とか、あるいは「我々が子なり」とか、あるいは「唯(ただ)我れ一人のみ能(よ)く救護(くご)を為(な)す」という形で、私たちと深く関わってくださっているという、その上の仏さまと、上の存在であるということを示されているというふうに思います。
 
草柳:  次ぎに、それでは「方便品」の中の一節を読んでみたいと思いますが、こんなふうに言っています。
 
諸仏世尊は、衆生をして仏知見(ぶっちけん)を開かしめ、
清浄なることを得せしめんと欲(ほっ)するが故に、
世に出現したもう。
衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、
世に出現したもう。
衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、
世に出現したもう。
衆生をして仏知見の道(どう)に入(い)らしめんと欲するが故に、
世に出現したもう。
舎利弗(しゃりほつ)、是(こ)れを諸仏は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故に、
世に出現したもうとなづく
(『法華経』方便品)
 
これはどういうことを言っているんですか。
 
北川:  後半の部分に、「舎利弗よ」というお釈迦様の呼び掛けがあるわけですけれども、実は『法華経』方便品で、御仏が瞑想から静かに厳かにお立ちになって説法をされる、あるいは声を掛けられた第一人者は、智慧第一と称される舎利弗であるわけですけれども、舎利弗尊者に、実は御仏たちの一大目的というのは何なのか、ということを明かされる。そのことが実は御仏のこの世にお出ましになり、そしてその一大目的を果たすご本意というものは、ということを明かされることが、実は仏と私たちと切っても切れない、そういう必然的な関わりというものがあるんだということで、ここで多くの御仏、世尊はということですけども、この後十方諸仏世尊のこと、そして過去仏、未来仏、現在仏、さらに釈迦仏ということで、順番に同じ目的を繰り返し説かれますが、その最初のところで、多くの御仏たちは、一大目的は何なのかということを明かされる、その文章の最初でございまして、私たち衆生をして、仏の知見ですから、御仏の最初の悟りの世界をご自分たちが示して、そして私たちに内在する悟りというものを同じように清浄なる仏心を得せしめたい。私と同じ境地に導くことをお思いになるがゆえに、諸仏世尊は世に出現されるんだと。さらに衆生に、仏の知見をはっきりと示す。それのことの故に世に出現される。衆生をして、さらに仏の最上の悟りの世界に覚知せしめる。その世界を悟らしめるが故に、そういう思いがあるが故に世に出現される。さらに同じことで仏の世界に、最初の悟りの世界の道に導くこと、そのことが世に出現される目的だということで、舎利弗よ、これらが実は御仏たちのもっとも尊い一大目的、あるいは深い仏と衆生との切っても切れない縁(えにし)、そのようないわれというものがあるからご出現になられたんだということで、仏と仏の子、仏と迷っている私たちとの関係は、実は仏の眼差しからしますと、自分と同じ世界に導くこと。ですから、例えば前半は特に声聞(しょうもん)というご自分の悟りだけで、あるいは縁覚(えんがく)という縁に触れて悟りを求める人、それらの人たちは仏になれないと、こう言われていた人たちも、すべて一仏乗の世界に包み込んで最上の仏の世界に導き入れるんですよ。そのことが御仏たちの一大目的だということを「方便品」でお示しくださっているわけです。
 
草柳:  ここのキーワード(鍵)になる言葉は、「一大事因縁をもっての故に、世に出現されたのだ」ということなんですね。
 
北川:  そうでございますね。勿論「一大事因縁」という言葉を、ある仏教者は、この世にいのちを受け、そして仏道精進することが一大事因縁ですよ、と、こういうふうに解釈される仏教者も勿論ございます。しかしこの経文を経文としてそのまま拝読致しますと、特に「方便品」の後半の部分は、繰り返しになりますけども、諸仏の願い、一大事因縁、あるいはこの現在仏、未来仏、過去仏、そういった仏様たち、さらには釈迦仏、このすべての方たちを「五仏(ごぶつ)」(@十方の諸仏A過去仏B未来仏C現在仏D釈迦仏)と称しておりますけども、「御仏たち」と言っていいかと思う。その御仏たちの一大目的は、即ち私たちをして一仏乗の世界に―いわゆる仏の知見―仏知見の世界に導き入れることなんだということが、「方便品」であり、またその苦の脱却の世界で、先ほど冒頭に出ました「譬喩品」の部分は、その御仏というのは、実は娑婆世界にある私たちという形になります時に、三つの徳をお具えになっていらっしゃる。特にこの娑婆世界は、ある仏教解釈では、苦悩に満ちているとか、あるいは煩悩に満ちているとか、あるいは人が人として生きていく上でむしろ地獄界のような、あるいは餓鬼界のようなとかという、そういう決して仏という悟りの世界からみれば、マイナス要件の人たちが充ち満ちている、しかもそれは穢(けが)れた国土であると、こう一見否定的に娑婆世界が、あるいは三界が、このようなレッテルで貼られていると言いましょうか、そのように仏教の経典ではそのように位置付けられるわけですけども、しかしこの『法華経』では、先ほどの仏の目から見た時に、「この三界みな我が有なり」という形で、御仏の世界であるというふうに、娑婆世界がむしろ肯定的に捉えられる。
 
草柳:  しかも娑婆世界に住んでいるあなた方―一切衆生は、全体として本来仏性と言いますか、仏になる可能性を秘めているんだというのがあるわけですね。
 
北川:  そうですね。大乗仏教は、特に悉くすべての人は仏性をもっているということで、この大乗経典の特質は、そういう絶対平等の仏性をもっている。さらに『法華経』は、それに加えて、さらに積極的に「仏の子」という形で、あるいは「仏知見を開かしめる」というような形で、「仏の知見」とか、あるいは「仏の子」という形で、むしろそれをより宗教的なリアリティをもって、仏、そして釈尊と私たちというところを繋いでいくんではないでしょうか。
 
草柳:  先ほど「三つの徳を具えている」と言われましたね。その「三つの徳」というのは何ですか。
 
北川:  「主師親三徳(しゅししんさんとく)」という形で、古来より、先ほどの文章のところを、偈頌なものですから、特にここの部分だけを「三徳偈(さんとくげ)」と言ったりしまして、「主徳」「親徳」「師徳」ですけども、古来より「主師親三徳」御仏は三つのそのような徳をお持ちでいらっしゃるということで、
 
主師親(三徳)
一、「今此(こ)の三界は、皆是れ我が有(う)なり」(主徳)
二、「其(そ)の中の衆生は、悉(ことごと)く是れ吾が子なり」(親徳)
三、「而(しか)も今、此の処は、諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し。唯(ただ)我れ一人のみ能(よ)く救護(くご)を為(な)す」(師徳)
 
一番目は、「今此(こ)の三界は、皆是れ我が有(う)なり」(主徳)というところで、この娑婆世界の主は、大恩教主(だいおんきょうしゅ)釈尊でいらっしゃるということで「主徳」。そして文章としましては、その三界にいのちを受けているすべての衆生は我が子であるというところで「親徳」を、そしてここに親(しん)と子という―親子(おやこ)という関連性が打ち出され、しかも三番目は私たちの苦悩を救ってくださるということで、迷っているものとお師匠さまという関係で「師徳」で、しかも今このところは、多くの患いが多いけれども、ただその苦悩、患いから脱出せしめる、あるいは救済せしめるのは私だけなんだということで、「師徳」がそこで示されているということで、特に「主師親三徳偈」、あるいは仏様の徳を「三徳」というふうに称していうわけでございます。勿論これは、特にそのことを強調されたのは、鎌倉時代の日蓮聖人という方が、大乗仏教では難しく、仏さまには三つの身体があると。「法身(ほっしん)」とか、「報身(ほうじん)」とか、「応身(おうじん)」とかという仏教学的にはなかなか興味のある、そういう三つの側面が説かれるわけですけども、日蓮聖人は時代性の中で、多くの手紙の中で、この『法華経』に説かれる、あるいは大恩教主釈尊という方は、三徳をお具えになった偉大な方ですよ。その方のお言葉をしっかりと受け止めていきなさいという時に、特に「三徳」ということを強調されます。
 
草柳:  そうすると、日蓮にとっては、今の「三徳の教え」というのは、日蓮にとっての『法華経』の、いわば原点みたいなところなんでしょうか。
 
北川:  そうでございますね。特に仏さまのお悟り、というところは、ご自分を末法の今というふうに規定されますので、仏様のお悟りへとにかく近づこうという側面、これはないわけではありませんけども、しかし末法ということの時代性、あるいは私たちはそのように苦悩している衆生であるという立場にお立ちになりますから、むしろ仏の側から差し伸べられる救いの手、あるいは広大な大慈大悲というものとを、我々が受け止めていくかというところに、宗教的な力点があったように思われます。その時の私たちに教えをたれた方は、主師親三徳のお釈迦様があると、こういうふうに強調される時のこの「三徳偈」でございますね。
 
草柳:  今までずっとこの一年間、十一回、今日の十二回目にわたって、『法華経』の教えは何なのかということをずっとご説明してきて頂いたわけですけれども、とにかく『法華経』に限らず、仏教というのは非常に幅が広いと言いますかね、一つのことも同じこともいろいろな言い方を、あちらからもこちらからもすると。『法華経』の場合に、『法華経』の教えの、言ってみればエッセンスというのは、例えば有名な「自我偈(じがげ)」―これは前に一度教えて頂きましたけれども、その中に含まれているというふうなお話がありましたですね。
 
北川:  そうでございますね。「三徳偈」の仏さまの、今度はご活動の部分、あるいはご活動されるお浄土の世界ということで、特に「自我偈」の場合には、お釈迦様の永遠のいのちということが主眼になりますから、そこで「三徳」と「永遠のいのち」と「仏様」ということで、この重ね合わせられてくるということでございましょうか。
 
草柳:  「自我偈」をもう一度ここで是非紹介をして頂きたいんですが、
 
北川:  それでは至りませんけれども、ちょっと拝読さして頂きます。五一○文字の偈頌からなっているわけですけれども、「自我」という経文で始まりますので「自我偈」、あるいは御仏の永遠のいのちが説かれていることから「久遠偈(くおんげ)」とも称します。一句が四つ揃えまして一偈ですので、三偈の部分―三つの偈頌の部分でございます。
 
「自我偈(じがげ)
自我得仏来(じがとくぶつらい)  所経諸劫数(しょきょうしょこっしゅ)
無量百千万(むりょうひゃくせんまん) 億載阿僧祇(おくさいあそうぎ)
常説法教化(じょうせっぽうきょうけ) 無数億衆生(むしゅおくしゅじょう)
令入於仏道(りょうにゅうおぶつどう) 爾来無量劫(にらいむりょうこう)
為度衆生故(いどしゅじょうこ)  方便現涅槃(ほうべんげんねはん)
而実不滅度(にじつふめつど)  常住此説法(じょうじゅうしせっぽう)
 
草柳:  ここではどういうことを言っているんですか。
 
北川:  私が、この遙か過去世において、遙か久遠のところで悟りを開いてから今日、衆生を常に導いてきたんですけれども、先ずその遙か久遠の過去世における時間というものを経たところの劫数(こっしゅ)―劫というのは、極めて長い時間ということで、その時間の長さというもの、数というものは計り知れない無量の、しかも百千万倍したところの億載阿僧祇(おくさいあそうぎ)、それぞれ数字のようでございますけども、ともかく計り知れない時間を経ています。しかしながら常に私は法を説いて数限りない人々を導いてまいりました。じゃ、その導きの目的は何かというと、仏道に入れる、仏道に導くこと。それより遙か過去世より、私は導きながら無量の時間というものを経てきましたと。人々を度(ど)すということですから渡す。苦悩の世界から悟りの世界へと導く。そのために私のいのちは実は永遠だけれども、ある時は仮に入涅槃ということで入滅の姿を示しますよ。永遠のいのちなんだけれども、そこで永遠の姿をしておりますと、人々はつい怠け心を起こして、退転の心、あるいは懈怠(けたい)の心、そういうものに支配されますよ。だから私は敢えて方便の力をもって涅槃を示す。しかし本当は滅度―入滅はしておりません。常にあなたたちのためにこの娑婆世界にあって、説法し続けております。導き続けておりますということが、この久遠のいのち、そして限りない仏の導きのお姿がこの三偈の中に現わされていると思います。
 
草柳:  つまり一度は死んだ姿をしたけれども、実際にはそうではないと。
 
北川:  そうですね。
 
草柳:  ずっと昔から生き続けておるのだと、仏は、ということを言っているわけですね。
 
北川:  そうでございますね。
 
草柳:  一度死んだ姿をしたというのも、言ってみれば方便みたいなもの。
 
北川:  そうですね。ですからここの「寿量品」の譬えのところで、良医治子(りょういじし)はまさに子どもたちを救わんがために旅に出て、そして遣いの人を遣わして、「あなたたちの父親は旅先で亡くなりましたよ」というような、そういう譬え話がありますけれども、そのことの意味をここで示されているかと思います。
 
草柳:  「自我偈」の次の部分は、今度は何を示されるんでしょうか。
 
北川:  散文体では示されませんけれども、特に偈頌だけで、仏さまの在(ましま)している厳かなと言いましょうか、清らかなお浄土の世界が次ぎに示されてくるということでございます。
 
衆生見劫尽(しゅじょうけんこうじん) 大火所焼時(だいかしょしょうじ)
我此土安穏(がしどあんのん)  天人常充満(てんにんじょうじゅうまん)
園林諸堂閣(おんりんしょどうかく)  種種宝荘厳(しゅじゅほうしょうごん)
宝樹多華果(ほうじゅたけか)  衆生所遊楽(しゅじょうしょゆらく)
諸天撃天鼓(しょてんきゃくてんく)  常作衆妓楽(じょうさしゅぎがく)
雨曼陀羅華(うまんだらけ)  散仏及大衆(さんぶつぎゅうだいしゅ)
 
三偈ございますけれども、この世の中というものは、四つの時代を経て、宇宙の生成があり、そして生滅があると、こういうふうに仏教ではみるわけですけれども、衆生がこの世にずっと留まっていく時代というものが終わって、次ぎに崩壊していくという時代、その時に大きな火事が宇宙を焼き尽くすんだと。しかしそういう大火によって私たちの住んでいる三界が焼き尽くされるとみる時も、実はそうではなくて、私たちが住んでいる活動し衆生を導いているこの国土というものは、実は安らかであり、そこには天人が常に満ち溢れている。その情景は、瞑想し、静かに人々が憩う園林(おんりん)があり、その中にはしっかりとした立派な建物が溢れているし、それらは種々の宝でもって作られているんだと。さらに林は宝の木からなっており、そこには美しい宝でできた花や果実というものがそこにあるんだと。人々はそこで心ゆくままに和み、心の苦悩を癒すことができている。諸々の天人たちは、天の鼓を打ち、常に天人たちが衣を翻しながら、音楽を奏でたり、踊りを繰り広げているんだと。そしてさらに天人たちは、天の花びらである曼荼羅華を空から降り注いで、そして御仏や、あるいはそこで修行している、あるいはそこで生きている人々の上に曼荼羅華を降り注ぐんだと。花びらが注がれるんですよ。そういう厳かな、しかも輝きに満ちた世界です。これが仏さまのお浄土です。あるいは娑婆世界の現実ですよ、というふうに示してくださっているわけでございます。
 
草柳:  ということは、ここでのメッセージを縮めていうと、どうなりますか?
 
北川:  仏と私たちが住んでいる世界は、三界は苦悩に満ちていると、こう私たちは誤った見方をしている。むしろ私たちは仏と共にいろんな苦悩があるけれども、実はそれは仏と共に住するところの浄土なんだというふうにみてごらんなさい、というふうなメッセージじゃないでしょうか。
 
草柳:  そしてこの「自我偈」の締め括りは?
 
北川:  仏さまの願いは、先ほどの一大事因縁と同じことの繰り返しになろうかと思いますが、特に永遠のいのちを持たれた仏さまの限りない誓いと言いましょうか、大いなる人々に対する願いと言いましょうか、その誓願が示されるわけでございます。
 
毎自作是念(まいじさぜねん) 以何令衆生(いがりょうしゅじょう)
得入無上道(とくにゅうむじょうどう) 速成就仏身(そくじょうじゅぶっしん)
 
最後の一偈でございます。常に変わることなく、私はこのような思いというものをもっています。どのようにかして、あなたたち衆生をして仏と同じ悟りの世界、無上道という最上の悟りの世界に導き入れて、そして先ほどのご仏知見の世界、五仏の目的のところと重ね合わせれば、そういう無上道に入って頂いて、そして速やかにここでは仏心を成就して頂くことが、私の限りない願いなんだということを、ここに示してくださっているわけでございます。
 
草柳:  全体を通して、今「自我偈」の五百十文字のメッセージのポイントを簡単に言って頂くと、どういうことになるんですか。
 
北川:  そこには今まで辿ってきたことと重ね合わせますと、御仏は久遠のいのちをお持ちでいらっしゃる。そして久遠のいのちをお持ちの仏さまの活動される場所は、この娑婆世界であり、その娑婆世界に住んでいる一切の衆生は私の子であり、そしてその衆生と仏と共に娑婆世界を浄土としている。仏さまの限りない願いというものが尽きることがないんだと。今世も未来世も常に永遠にその願いというもの、そのことにどうか気付いて貰いたい、というメッセージじゃないでしょうか。
 
草柳:  そうすると、今紹介して頂いたこの部分というのは、『法華経』のある意味でエッセンスだというふうにとって構わないわけですか。
 
北川:  そうでございますね。日蓮という方も、多くの方たちの仏教研究を踏まえならがも、一切経の中心眼目は、この「如来寿量品」あるいは「自我偈」なんだという言い方をされている著述もございまして、今おっしゃった通りでいいかと思います。
 
草柳:  さて、話はちょっと変わるんですけれども、この『法華経』は日本に入ってきてから、これまでも何回かお話がありましたけれども、たとえば平安時代の女流の清少納言の『枕草子』も随分影響を受けたとありましたですね。
 
北川:  結縁(けちえん)を受けたとか、あるいは追善供養のための法華八講とか、あるいは経巻を荘厳な巻物の中にお浄土を描きながら経文を書写するというような、装飾経というようなことがあります。
 
草柳:  さまざまな人が影響を受けた中で、例えば近いところの文学者で言えば、よく知られている宮沢賢治(みやざわけんじ)が、『法華経』から受けた影響というのは大変なもののようですね。
 
北川:  今日からしますと、短い、満で三十七歳のご生涯ですけども、しかし今日たくさんの著作がございますし、また彼の生き方そのものが、改めてこういう大きな出来事を迎えた時代で、賢治の目指したもの、あるいは願いは何だったのかという形で、賢治の存在が大きくクローズアップされてきているようでございますね。
 
草柳:  ここで賢治の作品を中心にして、少し映像化したものをご覧頂きたいと思います。どうぞご覧ください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
有名な「雨ニモマケズ」の歌が、あの手帳の中に、ああいう形で書き込まれていたんですね。
 
北川:  そうでございますね。今日このように、これは四十年ほど前に出版された「雨ニモマケズ」手帳なんでございますけれども、研究によりますと、賢治さんの手帳が十四冊あるようで、現在残されているようでございますが、図らずも彼が亡くなる二年前、東京で両親や兄弟へ二通の遺書を書きます。そしてその遺書は後に発見されますが、この手帳はおそらくそれから花巻へ帰った賢治さんが、病床の中で書き示したものだと。十一月三日に、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と鉛筆書きしました後、日蓮の顕したご本尊「南無妙法蓮華経」と中央に示し、『法華経』が説かれている世界を、左の方に「南無釈迦牟尼佛」、右に「南無多寶如来」、そして「従地涌出品(じゅうじゆじゅっぽん)」で登場された四人の菩薩方がここに描かれていますので、おそらく賢治の願い、あるいは祈りというものが、この「雨ニモマケズ」の詩の中に込められながら、額ずいた形で記されたんではないかと解釈しております。
 
草柳:  そして三十七歳で亡くなる日に、遺言を残されているんですね。
 
北川:  そうでございます。彼の病は、胸の病だったようでございますので、年譜等によりますと、そのうちにお題目を称える大きな声が病床からして、ご両親が駆け付けて、そしてお父様が、もう最期と見られたからでしょう、賢治さんに「遺言はありませんか」ということで聴き書き留め、そしてその遺言が実は出版されている。『法華経』を頂きたいということでございます。この『国譯妙法蓮華経』というお経が、翌年の昭和九年六月に出版されたこのお経でございます。
 
草柳:  このお経の最後のところに書かれているんですね。
 
北川:  その願いといいましょうか、あるいはお父さんが聞き取られた賢治の遺言が印刷されております。まさに臨終の日でございます。
 
草柳: 









 

合掌
私の全生涯の仕事は此経をあ
なたの御手許に届けそして其
中にある佛意に触れてあなた
が無上道に入られん事を御願
ひするの外ありません
  昭和八年九月二十一日
     臨終の日に於て
        宮澤賢治

 










 
 
北川:  三十七歳の全生涯の仕事、これは勿論賢治さんにはいろいろな側面があります。文学者である側面、あるいは先生として教壇に立つ、あるいは羅須地人協会(らすちじんきょうかい)で田畑を耕す。始終最後まで農民の方の手助けをする。いろいろありますけれども、しかしそれらをすべてもし臨終の日いうところに集約しますと、それらはまさに信仰に芽生えた「如来寿量品」を読んで、ほんとに感動した賢治さんの全生涯が、実はこの御仏の世界をみなさんに如何なる形であれ、いろいろな仕事の方法が、あるいは葛藤の場面もありましたでしょうけども、その精神はこの御仏の説き残されている『法華経』をお手許に届ける。そして届けるだけではなくて、それはみなさんが手にされて久遠の仏様のいのちの永遠性、そして広大なお慈悲に触れていて、ご自分の大事な鏡と言いましょうか、
 
草柳:  「雨ニモマケズ」の詩の中に「デクノボー」という言葉があって、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という、最後の一節があって、あれはきっと前々回でしたでしょうか、紹介して頂いた常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)がモデルになっているのではないかということでしたですね。
 
北川:  私たちは現実世界に生きて、理想を追い求めれば求めるほど、冷やかしがあったり、あるいはそうじゃないという否定的な意見があったり、いろいろあろうかと思いますけど、しかし賢治さん自身は、彼のお葬式の日に奉読された追悼文の中にも、仲間が言っているわけですけども、決して自分をひけらかすとか、何かそういうようなことが彼の主眼ではなく、あるいは文章を書くことも、むしろ名誉とか、あるいは報いを受けることではないということですから、まさに仏道を精進し、他者から少し常識を逸脱しているということがあったとしても、ただただ御仏の心をみなさんに伝えていくということに邁進された。常に他者を軽んじない、そういう菩薩としてのお姿があると。あるいはこの手帳の中にも「デクノボー」ということで、戯曲風に第一景からずっと見て、そして青年が他者から石を投げられるというようなことまで書いてございます。おそらく賢治は、理想と現実世界、そういうものを両方見せながらも、『法華経』信仰というもの、そしてあるいは手帳の鉛筆差しのところに残された紙の中に歌が残されていますけれども、それが「常不軽菩薩品」の一偈のところであったかと思います。
 
草柳:  きっと常不軽菩薩が、『法華経』の教えを自ら実践をしようとしたというところに、多分きっと賢治がシンパシー(sympathy:共感、共鳴)を感じたと思うんですね。さてそれで釈尊滅後の教えを一体誰に託せばいいのか。誰に託していいのかという話に入っていきたいんですが、「法師品」の中でこういうふうな言葉がありますね。
 
(も)し是の善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)
我が滅度の後(のち)
(よ)く竊(ひそ)かに一人(いちにん)の為にも、
法華経の乃至(ないし)一句を説かん。
(まさ)に知るべし。
是の人は則ち如来の使(つかい)なり。
如来の所遣(しょけん)として
如来の事(じ)を行(ぎょう)ずるなり。
(いか)に況(いわ)んや、大衆(だいしゅ)の中に於(おい)て、
広く人の為に説かんをや
(『法華経』法師品)
 
北川:  「法師品」というのは、御仏の在世に持(たも)つことの功徳、そしてまた御仏の滅後に修行することの功徳の莫大なことが説かれておりますが、その修行のあり方として、五つの修行「受持(じゅじ)、読(どく)、誦(じゅ)、解説(げせつ)、書写(しょしゃ)」ということで、経巻に対する絶対の信を寄せて修行する人、それはもう在家出家を問うこともありませんし、男性女性を問うこともない。もしこの『法華経』を持(たも)つ善男子・善女人たちが、私の亡き後、よく仮に多くの人じゃなくても竊(ひそ)かにお一人のためにも、『法華経』の尊い全体であれ、あるいはわずか一句であれ、そういう教えを説いたと致しましょう。実はその説くことができるという善男子・善女人、『法華経』を背負っている善男子・善女人は、まさに実は自分の力じゃなくって、それは御仏から使わされた人なんだ。如来使(にょらいし)であると。この人は則ち如来の使いでありますよ。それは如来から使わされた人として、「如来の事(じ)」ですから、如来という方は人々の苦悩を除き導くということ、仏様の大切な大慈大悲のお仕事を実践する人なんだ。窃かに一人のためにもそうですから、増して況や多くの人のために『法華経』全体を、あるいは一句説く人においては如来の使いですよ。こういうふうにはっきりと如来使ということで、「法師品」で『法華経』を行ずるものの規定がなされているわけでございますね。
 
草柳:  「如来の使い」ということは、まさにそれは後の世の日蓮自身も自分はそうであるということですね。
 
北川:  日蓮は、やはり経巻を初期の頃から、三十二歳で活動が始まります。で、六十一歳でこの世を去っていきますけども、「如来使」というこの言葉。あるいは自ら多くの法難を受けますので、『法華経』の行者という形での表現もございますけども、それはもう間違いなく経典に基づきますと、「如来使」と。如来の使いということが、後半まで出てまいります。そういった「如来使」というこの三文字に注目しますと、実はもう既に日蓮聖人より四百年前、今日からいきましても千二百年前の伝教大師最澄という方の書物の中にも、実はこの御仏の尊い教えを広める人、あるいは御仏の願いが、『妙法蓮華経』が末永く人々の潤いになるように、救いの教えになるようにということで広める人、それがすべて「如来使」だということで、ご自身のことも、あるいは既に伝教大師よりもさらに前の中国で『法華経』の尊さを体系化された天台大師という方も、やはり伝教大師にとっては尊い如来使として位置付けられてくるというようなことで、伝教大師の著述をベースにされた日蓮聖人は、『法華経』を説かれた釈尊、天台大師、伝教大師、そして自己という、この尊い『妙法蓮華経』が伝えられた歴史の流れというものを、ご自分の立場を如来使として位置付けられていったということでございます。
 
草柳:  もう一つ同じ「法師品」の中から、如来についての部分を読んでみたいと思うんですが、そこにはこうあります。
 
(こ)の善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)は、
如来の室(しつ)に入り、
如来の衣を著(き)
如来の座(ざ)に坐(ざ)して、
(しこう)して乃(いま)し四衆(ししゅ)の為に、
広く斯(こ)の経を説くべし。
如来の室とは
一切衆生の中の大慈大悲心是れなり。
如来の衣とは
柔和(にゅうわ)忍辱(にんにく)の心(こころ)(こ)れなり。
如来の座とは
一切法空(ほうくう)是れなり
(『法華経』法師品)
 
北川:  ここは薬王(やくおう)菩薩とお釈迦様との対話でございますけれども、どのように御仏の入滅の後に法を説いたらいいかということを、改めて薬王菩薩に告げられる箇所でございまして、この『法華経』を信じ持(たも)っている善男子・善女人というのは、先ず如来の室にお入りなさい。そして如来の衣を著(き)せて頂きなさい。そして如来の座に坐って、そして比丘(びく)、比丘尼(びくに)、優婆塞(うばそく)、優婆夷(うばい)のために広くこの『妙法蓮華経』という教えを説き示していきなさい、ということでございまして、如来の室、如来の衣、如来の座ということで、天台大師の解釈では、「室・衣・座」と順番がございますけども、我々は「衣・座・室」、先ほどの「主師親」もそうなんですけども、「主師親」という言い方で纏めますけども、ここで「三つの規範」ということで、「如来の室、如来の衣、如来の座」ということで、「室衣座の三軌(さんき)」「衣座室の三軌(さんき)」に立ちなさいということ。じゃ、「室衣座」が順番ですけども、じゃ如来の室に入るという時の室とはどういう心持ちなのか。どういう大事な心構えなのかというと、それは一切の人々に対しての大慈大悲を持つその心を如来の室に入るということなんですよ。如来の衣というのは、しっかり柔和にして堪え忍ぶ、そういう心を自分の御仏から頂いた衣として纏いなさい。自分の立場というのは、御仏の悟りの一切法はこれ空なりという、その御仏の諸法実相のお悟りの立場を自分の立場として法を広めていきなさいよ、こういうふうに「弘経(ぐきょう)の三軌(さんき)」ということで示されますけれども、まさに如来より使わされた人として、如来の室、如来の衣、如来の座に座すということで、広めていくものは如来より使わされたものとして、この現実社会に生きていくんですよ。こういう強いお示しであり、また広めていく人たちも、自分が我説のためにとか、自分の主義主張のために広めているということではなくて、まさに一切の人たちの願いは、如来の願いは大慈大悲ですから、それを私たちの心の中心において生きていくという、あるいは仏にお仕えしていくということではないでしょうか。
 
草柳:  こうした『法華経』に限らないことだとは思うんですけれども、教えが長く人々の心を捉えてきたというのは、勿論その時代時代の今日的な意味というものは、とても色濃くあったと思うんですが、ただそれを時間を超えて、そこには真実が示されていたからだということでなければ、決して長くは続かないだろうと思うんですね。
 
北川:  教えの説き方というのは、勿論その時代時代、あるいはその方のもっていらっしゃる価値観、その時代のもっている時代性というものもあろうかと思うんです。これはまさに私たち自身も今の平成の世に生きますから、平成の価値観なり、平成の出来事なり、そういった物差し、あるいはそういった情報でお伝えさして頂くわけですから、それから過去のなかなか理解できない言葉をもってしてでもないわけで、ですからそういう部分でのこの世界の常識というもので伝えるということもございましょうけども、しかし仏教の伝え方の最後は、やはり御仏の悟られた真実、それを第一義(真如、真実。また諸法一相の義。一切は空であり一相である。自他此我の差別なく平等である)というようでございますけども、その御仏の真実第一義のその部分に、如来の真実、御仏の教えの真実に導き入れるという大目的を背骨にして、そしてある時には手立てとしてこういうもの、ある時にはこういう手立てということで、そういう部分もまた容認されているということ。そしてまた個別性があり、あるいは何も易しい言葉だけではない、ある時にはいのちに関わるような時には、少し強い言葉というものも、それはいのちに代わるということで、易しい言葉もさることながら、柔和な言葉、難語ということもありますけども、少し厳しくという言葉も、またそれは第一義悉檀(だいいちぎしっだん)というその御仏の真実というところから、生まれ出る慈愛と言いましょうか、そういうもので示すんだということで、「四つの軌範」を説かれておりますから、そういうふうに考えております。
 
草柳:  最後にこれは必ず称えられることのようですが、回向文でしたでしょうか、
 
北川:  すべての祈り、願い、そういったこと、私たち自身は勿論ちっぽけなほんとに私自身はそのような愚かな人間ですけど、しかし広大無辺の大慈大悲の久遠のいのちをお持ちの御仏、あるいは御教えに支えられているところから、私たち自身の祈り、その御仏のもっていらっしゃる『法華経』で辿ってまいりますと、「久遠の寿命」と「莫大なる功徳」という言葉が出てまいります。その功徳がすべて私たちの方に引っ張ってくるんではなくて、すべての人たちにどうか回向し、巡らして頂きたいという願い、祈りというものを、仏事であれ、あるいはいろいろな場面であれ、そういった経文が実は称えられるということでございます。
 
草柳:  それをご紹介頂けますでしょうか。
 
北川:  訓読と真読(しんどく)の場合がありますが、先ず頭の一偈は、
 
願以此功徳(がんにしくどく)
普及於一切(ふぎゅうおいっさい)
我等与衆生(がとうよしゅじょう)
皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)
 
こういう音読で回向文が閉じられる場合がありますし、奉読される場合もありますし、あるいは書写される場合もあります。あるいはみなさんと共にということで、
 
願わくは、
(こ)の功徳を以(もっ)て、
(あまね)く一切に及ぼし、
我等と衆生と、
(みな)共に仏道を成(じょう)ぜん
(『法華経』化城喩品)
 
私たちと衆生と、そこには絶対分断をしない。御仏から頂いている莫大な功徳というもの、あるいは私たちのささやかな祈りの法会(ほうえ)、功徳というものがみなさんに回向され、手向けられて、ということで、どんなに苦しみ悲しみがあっても、あるいはどんなに時代的な苦悩があっても、それは断ち切らない。みんな絆を持ち続けて、祈り続けていく。そういう尊い回向文であるだろうと思うんですね。
 
草柳:  ほんとに今娑婆世界に生きている私たちの身の周りを考えますと、関係がほんとに危うくなっている時代だということを実感するんですね。ですからそういう時だから余計に噛みしめたい言葉であると。
 
北川:  ほんとに私たち自身の、実はこれが宝物として、連綿として宗派を問わず、この称えられているということの意味に立ち返りますと、これは私たちは間違いなく尊い教えの中に生かされていると言いましょう。
 
草柳:  一年間どうも有り難うございました。
 
北川:  こちらこそ本当に有り難うございました。
 
     これは、平成二十五年三月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである