その壁を超えて
 
                    出 演 村 上(むらかみ)  真 平(しんぺい)
一九五九年、福島県田村市生まれ。七八年愛農学園農業高校卒。有機農業を始めた農家の後継者であったが、八二年インドに渡りガンジー・アシュラムに一年間滞在したのをきっかけに海外協力の道に入る。八五年からバングラデシュに六年間、九六年からタイに五年間、民間海外協力団体(NGO)を通じて自然農業の普及と持続可能な農村開発の活動に関わる。二○○二年帰国し、福島県飯館村で「自然を収奪しない農の在り方と、第三世界の人々を搾取しない生活の在り方」の探求と持続可能な生き方を目指し、自然農業、自給自足をベースにしたエコビレッジづくりを始める。二○一一年三月十一日深夜、福島第一原発のメルトダウンを知り、十二日早朝、飯舘村から避難。現在、三重県伊賀市に在住。著書に「不必要な進歩にブレーキを「緑の革命」からの回帰―バングラデシュの場合」「地球を緑にタイ―熱帯の自然の森から学ぶ農業」など。
                    ききて 山 田  誠 浩
 
ナレーター:  福島県飯舘村(いいたてむら)前田(まえた)地区。福島第一原子力発電所から四十五キロ離れたこの場所は、東日本大震災後の原発事故のため、高いレベルの放射能に汚染されました。居住制限地域に指定され、今も住むことができません。ここで二ヘクタールの農園を経営していた村上真平さんは、この日家に残された写真などを持ち出すため、久しぶりの帰郷をしました。現在家族と共に、遠く三重県内で避難生活を送っています。村上さんは、ここで自然農業を実践していました。
 
村上:  随分荒れましたね。草がぼうぼうになって、畑なんかもう見る影もないですけどね。ここから下ずっと見えるところが、やっていた農園ですね。手前側はそんなに荒れていないですけど、奥のその辺は全部ススキ畑になっちゃいましたね。まる二年何にも作っていませんからね。
 

 
ナレーター:  パンを焼き、全国に発送していた手作りの石窯も、避難した日のまま残されています。村上さんは、二○○二年、長い間携わっていた海外協力の仕事を経て飯舘村に入植しました。海外で指導していた自然農業を実践し、自給自足の暮らしをすることが、村上さんの願いでした。農薬や化学肥料を一切使わず、四十五種類あまりの作物を育て、二○○六年には、料理士の経験がある妻日苗(かなえ)さんとともに、「農家レストラン」をオープンしました。福島県産の木材をふんだんに使った建物も、一年かかって自分たちの手で造りあげました。村上さんのもとには、自然農業を学ぼうと、国内や海外から研修生が集まっていました。親子で自然を学ぶための場、親子里山体験も計画。東日本大震災が起こったのは、そうした農園が漸く軌道に乗った矢先のことでした。
 

 
山田:  村上さん、今は福島の飯舘からかなり離れたこの三重県の伊賀(いが)にいらっしゃるんですけど、どういう状態で地震に遭ったんですか。
 
村上:  実は二○一一年は、一月からずっと家造りをしていまして―小さな小屋ですが、それのちょうど棟上げの日だったんですよ。
 
山田:  棟上げの日、上にあがっていらっしゃったんですか?
 
村上:  そうです。上にあがって、柱と梁(はり)と桁(けた)と、こう重なっているんですが、大槌(おおつち)で叩いて、一カ所、二カ所、三カ所目を叩こうとした時に、ゴゴゴゴーッ!ともの凄い音と共に凄い揺れになりましたので、梁に跨(またが)ってずっと揺れの中で一緒に揺れていました。
 
山田:  その後、みんなライフラインがストップしてしまいましたですよね。
 
村上:  はい。僕の居た農園は、水道はなくて、自分たちが井戸を掘ったり、後は湧き水から水を引いてきていたんですね。そんなわけで止まることなくありまして、僕らはすべて食べるものを作るという考えでしたので、冬の終わりでしたけど、お米はもう二年分以上はありましたし、野菜は約十種類は貯蔵庫―凍らないようにしておいてありました。その他に農産加工で三十種類はありましたので、電気がないというだけで、基本的に生活に必要なことは全然問題ないという、そんな状況でした。
 
山田:  しかし原発の問題が出てきて、大変だったわけですけど。
 
村上:  妻は実は、その日は福島市にある友だちのところに行って、そして電話で連絡ついた時には、「まあ大変な状況にあるんで、次の日落ち着いたら帰って来ます」という話だったんですね。ところが真夜中の二時に帰ってきたんで、「どうしたんだ?」と聞くと、「もうすぐに逃げよう!」と。「すぐに逃げる?どうして?」と言ったら「原子炉が爆発する!」と言うんですね。
 
山田:  そういう情報がどこからか入ったわけですか?
 
村上:  僕らと一緒に「反原発」「反プルサーマル」そういう活動をしている人でした。事務局をやっている方で、そのネットワークをずっと調べていく中で、どうやらもう十一日の深夜に炉心の露出が始まっていると。このままいくと、最悪のケースを考えなければいけないと。最悪のケースは、水蒸気爆発による原子炉が爆発することなので、もう一刻の猶予もならないから逃げよう、という話になったんですね。インターネットをもう一回開いて調べました。そうしたら僕が見ていたニュースサイトに十二日午前二時五分で、「一号機の炉心が再び露出した」という一項目がありました。それを見た時に、〈あ、これは間違いなく大変なことだ〉ということで、すぐに研修生を起こしまして、「三十分以内にここから避難するよ」ということで、それで三時ですが、僕ら家族―子どもたちを含めて五人、それに研修生だった彼と、あと後ろに食べ物とかいろんなものを積んで、そして飯舘村を出ました。
 

 
ナレーター:  飯舘村を出た日の午後、一号機で水素爆発。研修生を岐阜に送り届け、浜松にある妻の実家に辿り着いたのは、三月十四日のことでした。福島には、避難場所を探している知人たちが残されていました。村上さんは、三重県にある母校「愛農(あいのう)学園」に受け入れを要請し、知人たちと共に三重に向かうことを決めました。飯舘村が高レベルの放射能に汚染されたと知ったのは、十五日夜のことでした。
 

 
村上:  妻が十一時ぐらいにトントンと上がって来まして、「大変だ。飯舘村が三十五マイクロシーベルトだ!」と。郡山、福島がまだ一マイクロシーベルトと言っている時に、飯舘村だけが三十五マイクロシーベルトだと。僕はそれを聞いた瞬間に〈あ、飯舘村はホットスポットになっちゃった。そしてもう絶対帰れない〉というふうに確信しました。
 
山田:  それでどうしようと思いになったんですか。
 
村上:  その日、十五日が初めていろんなことをゆっくり考えれる時だったものですから、夜中ずっと静かになりながら考えていたんですね。飯舘には帰れないだろうけど、何年ぐらいかなとか、将来あそこ以外にどこへ行って―これから愛農に向かうけど、あっちで何をしようかとか、自分は子ども含めて家族が五人ですから、その生活はどういうふうにしたらいいかなとか、まあいろんなことが自分の中で渦巻いていた、その時に、彼女が、「飯舘村は三十五マイクロシーベルトだ」と聞いた時に、瞬間的に僕の中で空白状態になりましたね。瞬間的に〈飯舘村はホットスポットだ。もう帰れない〉と思った時に、僕は後ろを振り向いてはいけないというか、振り向く必要はない。そして前を向いていく。何をするかしないかというものは、僕自身がほんとに心を静かにして、いうならば、それはわかる、というふうに、その時僕の中で一つの確信がその時にありました。
 
山田:  わかる?何故そういう確信というのか、もっておられる?
 
村上:  ちょっと難しいですけど、小さい時から父親はクリスチャンということもあって、聖書物語というものを日曜日毎に読んだり、というふうにしていたんですね。帰れないというイメージが浮かんだ時に、聖書物語の中に、ソドムとゴモラというところがあんまり悪いことをするんで、神様に滅ぼされる。滅ぼされる前にそこに住んでいた義人と言われるロートという人に対して、神の使者が行くんですね。「あなたはもう早く逃げなさい」と。で、その物語の僕が見ていた絵は、「後ろ振り向いてはいけない」と言って、みんなが逃げている。ロートの奥さんだけが後ろを振り向いてしまって、塩の柱になってしまった、という一つのイラストでした。それは自分に対しての一つのメッセージだと思ったんですね。それはもう後ろを振り向くな、と。〈とにかく前に、後ろを振り向かないで行きなさい〉という、そういうメッセージだと思いました。
 
山田:  自分の中にそういうことをパッと思い出すということがあったということは、そういうことなんだ、というふうにお受け取りになったと。
 
村上:  同時に、「何を飲もうか、何を着ようか、自分の身体のことで思い煩うな」という聖句があるんですね。すべてのことは一切必要なものは与えられるんだ、という。そういうものが、瞬間的に僕の中にフラッシュバック(Flashback:過去の体験が、突然に明確な感覚として 思い出されること) みたいに起こった時に、僕が感じたことは、〈あ、僕は、飯舘のことで思い煩って悩んだり右往左往する、そういうことをしている場合ではないんだ〉という、次ぎに何をするのか、と言ったら決まっている。僕は愛農に行って、そこで避難される二十人、その後もたくさん来るでしょうから、その人たちを愛農会と一緒に受け入れる。緊急避難ですので、食べ物から、着るもの、住むところ、これ必要になりますから、そういうものを一緒に共同しながらいろんなところから集めるとか、やるべきことはありますので、とにかく愛農に行ってそのことをしようと。それだけを今考えようと。その他は考えないでおこう、というものでした。
 

 
ナレーター:  村上さんが身を寄せた三重県伊賀市にある母校愛農学園農業高等学校。無教会(内村鑑三によって提唱された日本に独特のキリスト教信仰のあり方で、プロテスタントに分類される場合が多い)のクリスチャンによって開かれたキリスト教主義の農業高校です。三月半ばから子ども二十一人を含む、およそ六十人が、学園のキャンバスで避難生活を送りました。学園の母体である愛農会は、生活に必要なものを集め、野菜や米などを提供して、避難した人々を支えました。村上さんは、物資の分配や生活の援助など世話役として働きました。愛農学園は、戦後に始まった農民運動の中から生まれました。創立者の小谷純一(こたにじゅんいち)(1910年(明治43年)生。京都帝国大学農学部卒業後、全国各地の農民道場の創設に参与し、肺結核に倒れ、医師からあと二ヶ月の生命と言われたが、玄米正食療法によって起死回生。大阪府立農学校教諭、和歌山県青年師範学校教授を歴任。敗戦と同時に教職を辞し、念願の百姓になり、水田90a・畑50aの自家経営をしながら、自宅を開放して愛農塾を開設。これが発展して全国愛農会となり、三重県青山町に愛農根本道場(愛農高校の前身)が創立される)は、戦争中師範学校の教師として戦争遂行に荷担していたと自分を恥じ、敗戦後農業へと転じます。平和の礎(いしずえ)としての農業を守り、自立した農民による新しい農村を作ろうと愛農会を成立しました。農業技術を磨き合い、戦後の食料危機を克服しようと、食料増産に努める会の活動は全国に広がります。福島県田村市(たむらし)で農業を営んでいた村上さんの父・周平(しゅうへい)さんも熱心な会員の一人でした。村上さんが生まれて間もなく、一九六一年農業基本法が成立、日本は農業の近代化に乗り出します。生産する作物を絞り込んだ上で、一戸当たりの農業規模を拡大し、機械や化学肥料、農薬などを導入して、高い所得を上げられる農業を目指すものでした。それまでさまざまま作物を作っていた父周平さんも、その動きに呼応します。自動化された鶏舎で五千羽の鶏を飼う大規模経営に乗り出しました。しかし鶏に病気が蔓延して次第に経営は悪化、自分自身の健康も損ねたことから農業の方向を転換することを余儀なくされます。
 

 
村上:  その当時車はほとんどなかったんですね。家には大きな二トン半ぐらいの長い車が、曲がり角なかなか曲がれないで大変なんですけど、細い道を来て、餌を持って来たり、卵を持って行ったりするわけですね。そういうトラックが走っていると、なんか自分が誇らしげに、友だちに、「あれ、家に行くんだよ」とか、ただ僕が四年生ぐらいだと思うんですよ、それを止めて転換したのは。転換したら、それまで僕の家には、インスタントラーメンとか、いろんな色の付くジュースとか、そういうものがあったんですが、いきなり食生活がそれが全部なくなって、「それは邪食です」ということで、玄米正食ということで玄米に変わりまして。
 
山田:  農業が有機農法に変わった、
 
村上:  変わったわけです。ただその背景には、父親は、今まで愛農会の中で一生懸命食料増産という形、そして国が勧める方向での農業をしかけていたんですが、その時に愛農会で梁瀬義亮(やなせぎりょう)(長年の経験から病院に治療にやってくる農家の人々の症状が農薬中毒によるものだと気付き、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が注目されるよりも早くから、農薬の危険性と農薬を使わない有機農業の必要性を社会に向けて訴えられた:1920〜1993)さんというお医者さんで、奈良県の五條市(ごじょうし)で、戦後カルテをずっと調べていて、原因不明の病気は、これは農薬にあると。彼はずっとそれを見付けて、国に対しても、もう農薬を使わせないように、農業は有機農業にするように、ということを、勧めていた方だったんですね。その方の話を聞いた時に、父親は自分のやっていたことは誤りだったんだ、と。農業というのは、人間の命を守るために食料を作ることなんだから、そこに毒であるものを使って、お金のためにというのは本末転倒だ、と。その話を聞いてすぐに、もう次の日から有機農業へ転換を始めました。それから夏休みとか休みの日は、草取りとか虫取りとか、小学生も非常に有用な労働力なもんですから、僕らは夏休みはいつも仕事をさせられていた、ということを思い出します。
 
山田:  そういうことを一生懸命積極的にやったという感じですか。
 
村上:  いや、僕は中学校の時には、真空管ラジオを組み立てたいというか、そういう電気関係が非常に好きだったんですよ。ですから僕は、高等高専というのが福島県ですと、いわき市にありまして、そこに行きたいと思ったんですね。先生たちも、「そっちへ行ったらいい」と言われたんですが、家の父親が、「高校進学に当たっては、二つに一つしか選ばせない」というんですね。一つは、三重県にある愛農学園農業高等学校、もう一つは、山形県にある基督教独立学園高等学校―これは内村鑑三の弟子が創った、どちらも小さな全寮制の学校なんですね。「高校へ行くというのは、お父さんお母さんが働いたお金を使って行くわけで、僕のお金じゃないんだから、それに対して意見を挟む余地はない」というふうに言われたんですね。
 
山田:  親としての権限をきちんと示される方だったんですね。
 
村上:  示し過ぎるぐらいに(笑い)。いつも親父は、強い存在なので、離れたところへ行きたいということで(笑い)、千キロ離れていますので、それで三重県の方を選んだという感じでしたね。愛農学園のモットーは、「農業が好きで好きで堪らない人間を教育する」という。全寮制で、一つの校風自体が、もう僕の先輩は、ほんとに農業が好きで、寮の自分の部屋の前の部分に庭があるんですね。精々八畳ぐらいの場所ですが、そこでいろんな種を植えて野菜を作っているんですね。自分たちが食べるために一生懸命作っている。野菜だったら野菜部で、農場で作っているんですが、一生懸命作ったりしているわけですよ。農業が大切で、農業をするんだということに対しては、誰も当たり前という感じの、そういう校風の中にいましたので、僕もほんとに先生方も非常に熱心にやってくれましたから、ほんとに農業は人間にとって大切なものであって、そして将来僕はそれをするんだという、そういうふうに思うようになりました。卒業する時に、「大学へ行きたい」と言ったんです。父親は、「百姓するのに大学の勉強は全然為にならない。かえって大学の勉強をしたら、農業はしない。だから行くことは許さない」と言うんですね。僕は将来家を継がなければならないと思っていましたし、でも大学へ行けば、猶予があっていろんなことを学びたい、したいことがありますから、「それができないというならば、じゃ、最低二年、半分はどうだ」と。ずっと僕、サイクリングやっていて、「自転車で日本一周をし、もう一年は海外の方に行きたい。二年後には帰ってくるから、どうだ」ということを父親に言いました。父は、「それならいいだろう」ということで、ずっと太平洋側を走って北海道を回って、日本海側を下って来て、山形まで来た時に、家から連絡がありまして、「お爺ちゃんが危篤だ」と。で、山形にいましたのですぐ帰りまして。
 
 
ナレーター:  村上さんは、結局計画の途中で福島の父のもとに戻ることになりました。父周平さんは、有機農業の草分けとして消費者に直接農産物を届けるルートを確立していました。しかし眼を患い、車の運転が難しくなっていたのです。村上さんと父との間にはわだかまりが生まれるようになります。
 

 
村上:  僕は家に入ったんですが、そんなわけで一応志し半ばにして、晴れ晴れした気持ちで入れなかったんですね。その当時はまだ僕が若い頃で、村の中では青年団活動であるとか、4Hクラブ(よりよい農村、農業を創るために活動している組織)とか、そういう青年たちみんなで集まっていろんなことを勉強会をしたり、一緒に遊んだりとか、そういうものが農村の中にありました。会合というのは、六時半ぐらいですかね、夕方ね。夏の六時半というと、まだまだ明るいわけです。家の父親母親の考えは、朝星夜星と―朝は星が見えるうちに仕事に出て、夜は星を見て帰るという、こういうのが本当の百姓だと思っていますから、僕のようにまだ太陽が見えるうちに出て行くということは、親父からすると、「真平は百姓に本気に心が入っていない」と、こういうふうに見るわけですね。僕の方もやっぱりまだ若いですし、非常に些細なことから起こったんですが、僕は、お正月ですから炬燵でテレビを見ていたでしょうか。そうしたら親父が、「風呂が沸いていないぞ」と言う。〈あ、そうやな〉と思って、風呂を焚く準備をしていたら、酒に酔ったということもありますし、日頃この二年間僕に対して言いたいことがあったと思うんですね。僕が薪を用意しているところで、ブツブツ言ってきたんですね。今まで直接対決は止めたんですけど、その時僕は、「親父、ここでブツブツ言うのを止めてくれ。酔っていて、言いたいことがあったら酔っていない時、はっきり言ったらいいじゃないか」と、僕が言ったんですよ。そうしたら親父さん、シ〜ンとして、そのまま居なくなったんですね。朝方お母さんが、「お父さんが呼んでいる」と言うんで、正座して待っていまして、そして僕に、「お前を二年間見ていたが、本気で百姓に身が入っていないみたいだから、お前はもう好きなことをしていい。この家を継がなくていい」というふうに言ったんですよ。いわゆる勘当という奴ですかね。父親は、有機農業経営では、特に売り方が非常に上手く、直接販売して消費者を掴んでいましたので、年間三百万円以上ぐらいの純所得があがるような、そういう経営をやっていました。ですから僕にとっては将来の生活というのは、ほとんど問題がないという。それを親父は、「お前はそこから居なくなっていい」ということですね。その時僕の中に、まあ何というんですかね、自分が底なしの居る場所がそのままスッと下がっていくみたいな感覚ですね。言いようのない不安と言いますか、不安と同時に、その時凄い僕の中にイメージがあったのは、〈父親は壁なんだ〉と。野球の時、よくボールをブロックのとこにぶっつけてポンポン返ってくる。強く投げれば強く返ってくるし、弱く投げれば弱いですね。父親という存在は、僕にとって壁で、僕はその壁に対してぶっつけていて、自分の存在は強くぶっつけるだけ強く返ってくるので自分の存在を強く感じ、弱くぶっつければ弱く返ってくる。ところがバタンと壁がなくなっちゃったんですね、その時。一つのアイデンティティ・クライシス(identity crisis:自己喪失。「自分は何なのか」「自分にはこの社会で生きていく能力が あるのか」という疑問にぶつかり、心理的な危機状況に陥ること)ですね。それに僕はその時陥ったですね。僕は、〈親父が居ようが居まいが、この家に居ようが居まいが、どこでも自分は自分であると。そういうものが今の自分にはない。親父に怒られて、「勘当だ」と言われたぐらいで、自分が不安の中に陥ってしまうような生き方とか、考え方とか、それは一体なんだろうか、と。僕は世界中のどこに行っても、自分は自分であって、そこで生きる技術においても、人との関係においてもきちっとできる。考え方においても、こう独立した人格としてある、そういうものを持ちたい〉ということを、その時思いました。
 

 
ナレーター:  父の元を離れた村上さんが思い出したのは、愛農学園の恩師小谷純一さんからの呼び掛けでした。小谷さんは、自らの人格を磨き、命の糧を育(はぐく)む農業者を育てようとしていました。その元にインドの学校から卒業生を派遣してほしいとの依頼が舞い込んでいたのです。村上さんは、インドに行くことを志願、小谷さんの薦めで東京で英語を学びながら、渡航の準備をすることにしました。その生活を支えてくれたのが、小谷さんの盟友で愛農学園の信仰的指導者であった高橋三郎(たかはしさぶろう)さんでした。村上さんは、高橋さんの聖書集会に出席するようになりました。
 

 
村上:  それまでは父親がキリスト教であるということで、信仰というものに対しては、どちらかというと、ちょっと引いていた部分がありましたが、高橋三郎先生というのは、いわゆる聖書の中の昔の話をするということだけではなくて、現代のさまざまな社会問題、それから戦争問題、そういう隣の国の韓国であるとか、中国に対してやったことの問題とか、そういうさまざまな社会問題についても常に見ていて、自分の生き様のすべてを通して、神の存在というものを伝えるという、そういうことをされていた方でした。その生き方に触れて、〈こういう人をほんとに突き動かしている神の存在というのがあるんだな〉ということを凄く感じました。僕も真剣に祈れるようになりましたし、彼から学んだ一つの信仰というものの確信は、本当のものと言いますか、そういうものを常に求めて生きるというものだと、僕自身は思っています。
 

 
ナレーター:  一九八二年、村上さんは、インド・ブッダガヤにあるサマンバヤ・アシュラム(サマンバヤとはヒンディー語で「調和」とか「融合」などを意味します。英語では「harmony」にあたります。アシュラムとはヒンディー語で直訳すると「同等の仕事」となりますが、「精神修養の場」とか、ある種のセンター的役割を担う組織を指したりします。つまり、サマンバヤ・アシュラムは「調和のための修養道場」となりますが、インドの、そして地球に住む全ての人類の調和を目指す研修施設と言えるでしょう)を訪れます。「調和のための道場」と名付けられたこの場所は、インド独立の父・マハトマ・ガンディー(インド独立の父、インドの非暴力運動の指導者、政治家:1869-1948)の思想を受け継ぐ弟子たちが開いたものでした。すべての人が自立した生活ができるようになることを目指していたガンディー。ここでは最下層の人々に土地を分配する一方、子どもたちに読み書きや農作業を教えて、自立した農民となる手助けをしていました。インドでの経験は、その後二十年にわたる村上さんの海外協力の原点となりました。
 

 
山田:  そのアシュラムというのは、ガンディーの考え方を上手く具現化している、と言うんですか、実際に展開されている場所という、そういうところに一緒に生活してご覧になって、ガンディーの考え方というのは、どういうふうなものだ、というふうにお感じになったんでしょうか。
 
村上:  そうですね。僕は、「そこに行って、お手伝いをします」と。「じゃ、来てください」ということで来たら、別に「あなたはこれこれしてくれ」と言われないんですね。「あなたの住むところは、このバグハという村にある一つのアシュラムで、ここの部屋ですよ」と言われて。ボッとしていると何もしないで済んじゃうものですから、ある日僕は、先生たちに、「何したらいいかな?」と言ったら、彼が言った言葉は、「as you like」と言われました。「あなたの好きなように」(笑い)と言われたんです。それで「えッ!」と。「as you like」と言うなら、どうしようかなということで、一緒に子どもたちと畑をやったり、堆肥を作ったりという作業をしていたわけです。アシュラムの一つのポリシーである「来る者は拒まず、去る者は逐わず」という非常に自由な、そしてその中で本気に思った人たちが中に入るという。そういう意味では非常にフェアな考え方ですし、ガンディーのことを学んでいく中で、インドが独立した後、どういうふうに生きるべきなのか、と。彼が、よく糸を紡いでいる写真なんかあると思うんですが、インドの中で農村が自立するということが一番の目的だったんですね。農業とか手工芸とか、そういうものをやっていく中で、彼らがきちっと食べて生活をしていけるということですね、自立ということは。「コッテージ・インダストリー」という言葉を使いましたね。「コッテージ」というのは、庭先みたいなもので、「インダストリー」というと、工場というふうな大きなものですけど、人間に必要なものを―鍛冶屋さんであるとか、石鹸を作るとか、そういうもので、ちょっと自転車で走れるくらいのところで生活していて間に合う。どこか工場で作ったものを全国展開するとか、そういうものではない。村の人たちの生活を考えるのであれば、彼らが如何に日々のものを食べられて、そして豊かに生きれる、そういうような政治がどうやってできるか、というのが、アシュラムの考え方であり、ガンディーの考え方でしたね。
 
山田:  その村上さんのやる仕事というのは、そのアッシュラムの人たちのそういう運動に自分も加わってどういうことだったんでしょうか。
 
村上:  インドに行って一年間の経験でしたけど、僕にとっては自分の人生の方向性を変えられるような、そういうものがありました。僕の父は、有機農業というのをやっていました。僕はその子どもで、有機農業の家を継ぐ予定でしたけど、僕は今いろんな人に言う言葉は、「自然農業」という言葉を使っているんですね。「自然農業」を使う意味は、実はインドの経験からきているんですよ。僕がインドに着いたのは四月の中旬です。カルカッタから電車で一昼夜、朝方にガヤというところに着きました。ブッダガヤまで約十キロありまして、景色をずっと見て行きますと、左側に山がずっとあるんですね。その山は全然木がないんですよ。〈あれ、岩山だ〉―ずっと岩山なんですね。ブッダガヤに着いて、ブッダガヤに大きな川があるんですよ。長い橋が付いているんですよ。川幅は、三百メートルか四百メートルあったと思いますね。水が全然ないんですよ。「雨期にはたくさん水があるよ」と言うんですね。まあ実際雨期になりましたらもの凄い水がありました。僕の中で、「山」というと、「山=森」なんです。それから「川」―日本は僕の田舎でもこんな細い小川でも、一年中水が流れています。乾期に涸れてしまう川って一体何か。それでそのうえですね、僕が行ってすぐ最高気温四十五度でした。後から調べていく中で知ったことは、お釈迦様が悟りを開かれたと言われる二千五百年前は、森だったんですね。多くの人たちが修行していた森なんですよ。インド人は必ず一日沐浴します。その沐浴は川でやっていたんですね。ですから二千五百年前周りは全部森で、川には水が満々とあったわけですね。ずっと考えてくると、これはこの地域に住んでいる人間が農耕し、それから森の木を切って、煉瓦を焼いて、建物を造ったりとかという、そういうことをする中で、結局森がなくなり、自然が壊されて、川が乾期は乾上(ひあ)がると。山には木がなくなるという、こういうことになったんだな、と。それを気付いた時、僕はそれまで有機農業は環境を守り、いわゆる化学農業というのは環境を壊す。これはほんとにその通りなんですが、そういうもんだと思っていたんですね。有機農業であれば、環境は壊さないと。ところが人間がまだ化学肥料も農薬も機械化もなかった時代から、この問題があった。四大文明は、エジプト、メソポタミア、インダス、そして黄河(こうが)―中国文明ですね。すべてその場所はどういうところにあるかというと、砂漠なんですね。ピラミットも砂漠の中ですね。我々の先祖である文明を作った人々は、豊かな自然の中でそれを謳歌することに一生懸命だったけど、それが永遠にずっと続くように自然を見ながら、自然とともに生きることができなかった。その末裔が今僕らなんだ、というふうに思ったんですね。その時初めて自分の中で、農業そのものは、反自然という要素を、人間がやっているわけですから必ず持っていて、そのものが自然を壊すというものを持っているから、そのことをきちっと考えてやらないと、本当の意味での持続可能なものにはならないということです。
 
山田:  農業をすると言っても、それをどういうふうにするか、ということを考えないと持続可能なものにならないんだ、と。
 
村上:  ならないんだ、ということを感じました。
 
山田:  そういうふうに思いになった。
 
村上:  はい。
 
山田:  インドでの体験というのは、そういうふうに今まで村上さんが考えてこられた農業とか、自分のいろんなもの対する対処の仕方とか、それをやっぱり変えられていく、そういう体験が重なったということなんですね。
 
村上:  そうですね。僕が行ったところのビハール州の農業の仕方と日本はまったく違うんですよ。日本は畝をこう立てると、必ずその上のところに種とか苗を入れるんですね。ところが僕がいたビハール州のところは、乾期にやる時に、畝を立てて、溜め池から水をずっと通すんですよ。そうすると、ずっと通して、水が引いた後に植えるんですが、畝の谷に植えるんです。日本は雨が多いんで、下に植えちゃうと、根腐れとかしちゃうから、芽が出て育つために一番いい環境は、畝の上なんですよね。ところがビハール州は、年間降水量が日本の三分の一、そうなると水が通った後が一番湿っていて、それが長持ちするから、それが作物にとって一番いいところなんですよ。やり方はまったく反対ですけど、何故そこに植えるかという考え方はまったく一緒ですよね。その作物の為ですよね。それを感じた時に、僕は今まで、「インドのやり方は、日本と比べてどうのこうの」と言っていた。それはほんとに浅薄なものの見方で、それを意図しているところをみると、人間というのは、どこの所にいてもさまざまな条件が違うとか、いろんな条件の中でやりますけど、表面的な違いで物事を絶対決められないんだ、ということとか、ましては表面的なそういうことを見て、相手の価値まで作ってしまうようなものの見方は、ほんとに違うんだ、ということを、その時インドで約一年ぐらい経とうとしていた頃に、僕の目の前の壁がなくなった感じなんですね。それが僕にとって非常に大きな心に深いものとして残るようになりましたね。ある時僕はドワルコさん(ドワルコ・スンドラニ:インド独立の父、故マハトマ・ガンディーの四大弟子の一人、故ビノーバ・バーベが創設し、現在、その創設者の一人であるドワルコ・スンドラニが中心となり、サマンバヤ・アシュラムの運営にあたっている)という責任者の方と一緒にインドをずっと旅をしていて、僕はいつものように自分が知っている考え方を語り、相手側から聞いたら、「自分の考えはこういうふうだ」と。英語で言えば、「my opinion」とか「my idea」という感じで、こういろいろ喋っていたんですよ。ある日ずっと喋っている時に、彼が僕に、「Sinpei you know」と言うんですね。「あんた、知っているか?」と。「my is cause of war」と言われたんですね。「my」という「私は」というのは、戦争の本だ」と。「my is cause of war」―えっ!。私の考えを言うことが、戦争の本(もと)? 一瞬僕もその時、言葉が止まりました。彼は半分冗談みたいな感じで言って、「まあまあ」という感じで、また話も続いたんですが、自分の考え方を主張して、相手がそれに対して反論できないんであれば、これは認められるみたいな、喧々諤々(けんけんがくがく)の違いはありますけれども、そういうもので真理というものに到達できるかと思った部分があるんですよ。相手と自分の協調点をみるよりは、相手と共通点ではなくて、相手との違い、それはほんの些細なところでも違いを非常に強調して話すみたいな部分が凄くあった、と思うんですね。それは近代の教育の中で受けてきた物事を詰めていくやり方というものは、本当にじゃ相手と幸せな平和な関係を持つためにほんとにいいものか、と。お互いの共感であるとか、そういうものを見出すような対話の仕方というのはやっぱり違うものだ、というものを、彼との中で凄く学ばされましたね。
 

ナレーター:  村上さんは、新たな農業のやり方を模索することになります。海外協力のため、一九八五年から滞在したバングラデシュでのことでした。持続可能な農業とは何か。福岡正信(ふくおかまさのぶ)(自然農法の創始者:1913-2008)さんが提唱していた自然農法にその手掛かりを求めます。耕さず、肥料もやらず、農薬を使わない、除草もしないという、四つの無(不耕起(耕さない)、無肥料、無農薬、無除草)を実践する農業でした。
 

 
村上:  僕は、最初その「四つの無」を読んで、「えっ!」と。「四つの無」―有機農業の中で一番大変なのは何だろうか、と。夏なら除草だ、と。それから堆肥作り―これは凄く大切なことですね。そして耕す。農薬を使わないことだけは同じなんですよ。そうすると有機農業で一番やらなきゃならない三つのことを要らない、というのは一体何なんだろうと。バングラデシュに行った時に、非常に具体的な形で、僕は自然農業というものに取り組むことになったんですね。
 
山田:  それはどうしてそういうことになったんですか?
 
村上:  バングラデシュの今の農業の仕方をみると、お米を作って藁ができます。そうすると藁はほとんどみんな牛の餌です。牛はその藁を食べて、そしてお乳を出しながら糞をする。その糞は、今度は乾かして非常に良い燃料になるんですね。そうすると僕の今の知っている有機農業は、先ず堆肥を作って、それから農業をするんだというところでは、バングラデシュは、そもそも有機農業のための有機物がないと。日本は何故いっぱいあるかというと、日本はもの凄い量の飼料を外国から輸入しているわけです。そしてたくさん牛を狭いところに飼ってですね、もの凄い量の糞が出るもんですから、それを捨てるところが困っちゃって、いわゆる畜産公害というのが起こるぐらいに糞がいっぱいあるわけですね。ですからほとんどお金がかからないで手に入るんですよ。
 
山田:  バングラデシュでは有機材料が全部なくなってしまう。そこで具体的にどういうことを、どうしようとされたということでしょうか。
 
村上:  その地域は、雨期になると、水も五十センチぐらい水が来るところだったんですね。そこはNGOの農場なものですから、年間いつも作れる状況を作りたいということで、真ん中に大きな池を掘って、その土を周りに置いて、一ヘクタールほどの農場を作ったんです。僕は、その農場を委された時に、見たら、雨でいろんなところが壊れていたんですね。一番最初にやったことは、その削られたところを全部直して、区画を作って、水がちゃんとパイプを通して流せるようなことをやっていたんです。そうしたらバァッと雨が降ってきまして、二つの流れがあるんですね。一つの流れは、ついこの間耕したところ―ザァッと泥水がどんどん流れてきているんですね。もう一つは、まだ耕していなくて、そこに草が生えていたんですよ。そこも同じように降られたんですけど、そこの水は澄んだ水なんですね。
 
山田:  土を流していないわけですね。
 
村上:  二色の水が暫く混ざらないで、こうツートンカラーじゃないですけど、茶色い水と透明の水が流れていて、僕、ずっと見ていて、表土が流されてしまうということは、一番養分のあるところが流されちゃうわけですから、先ず僕がバングラデシュでやるためには、肥料やる前に、流れないということをしなければならない、と思ったんですね。とにかく表土を露わにしないということで、さまざまな草とか、いろんなものを有機物を上において―これを「草マルチ」と日本では言いますけど―それをして守るようにしたんですね。そして農場を始めていったんですよ。そうしたらその上に置いたマルチというものは、非常に暑くて―雨も降ったりするんですが、アッという間に分解しちゃうんですね。分解するということは養分になって土に戻るということなんですね。ということは、堆肥を作るんじゃなくて、堆肥の材料である草とかいろんなものを上において、マルチしておけば、それがどんどん分解していって土の中にいく。土がどんどん栄養があがっていき、しかも軟らかいんですね。「雨降って地固まる」という言葉がありますね。何もないと叩かれて粉々になって固まるんですよ。ところが、上に草があることによって、そこが全然潰されないものですから、雨もスッと入っていきますし、しかも草をたくさん置くと、七割から八割の草は出ません。上に出てこないですね。草というのは大概光りに反応して芽を出すんですが、太陽の光が遮断されてしまうもんですから、あんまり出てこないんです。除草はほとんどしないようになるし、出てきた草を抜くのも凄い簡単だと。それを考えたら、あれ! 福岡さんが言っていたのは、「耕さない」―上に草をずっといつも置いていくと、耕さないでも下の土は軟らかい。肥料をやらない―これは堆肥の材料全部この上にあげてしまったら、全部それで分解するから堆肥を作ることもないし、ここに「雑草」という概念がなくなってしまうんですね。「雑草」というのは、人間にとって要らないものを雑草というわけですが、僕らにとっては草は全部要るものですから。それとほんとにこれは耕すことはない。肥料もわざわざ作ることはない。その農場の周辺のところに、さまざまな木とか果樹であるとか、レモングラスというのをずっと植える。レモングラスというのは一本植えると、三ヶ月間でこんなになる。それをばさばさと切ってやると、年に三回ぐらい生えてくるんですね。そういうものをきちっとものを還(かえ)してあげれば、循環の中でバランスが取れてきますから、いろんな有機物を還(かえ)してあげれば、その後作物の終わったものも全部そこに還(かえ)してあげれば、バランスが取れてくるんですね。もう一つそれで気付いたことは、そういうものをたくさん置いてくると、生態系が変わってくるんですよ。さまざまな鳥や虫やいろんなものが棲める環境ができてきて、その中でバランスができてくるんですよ。そうすると今まで大きな問題になっていた害虫と言われたものがだんだんいなくなってきたという。それをこう見てくると、福岡さんが言った自然農法というものは、具体的な実践の中で、耕さなくても土が軟らかくなるし、しかも除草はほとんどしなくてもいい。しても凄く簡単であるとか、それから堆肥は作らなくても、その材料を上にあげれば全部自然に分解しちゃうと。自然の森は全部そうですね。土の中の微生物も多様になる。自然と同じような多様性がそこに作られて、土は守られて、そして自然に循環していく体制をとることによって、彼が言っていた「四つの無」というのは、実は可能なんだ、ということを感じたんですね。そういう意味で、僕は彼から基本的なアイディアを頂き、これを自然農業という形でバングラデシュ、その後タイの中でずっと農民及びNGOの人たちに伝えてきました。
 
山田:  その自然農法が、バングラデシュというアジアの国で必要だったということは、どういうことなんでしょうか。
 
村上:  これは先進国側が、海外援助によって、アジアの各国でお米ならお米の生産性をあげるということで、農薬とか、肥料と種、機械をセットにして送るという、そういうことをやった「緑の革命」というのがあるんですよ。六十年代から始まって、七十年代に中心的にやって、それによって今のバングラデシュも含めて、農薬、化学肥料を使うという農業が忽ち広がったんですよ。バングラデシュでは特にお米で使いました。バングラデシュは水が豊富なんで、その水をどんどんポンプで上げて、今まで全然お米作っていなかった乾期に―それまで雨期しか作っていなかった―乾期に作るようにしたんですね。そのお陰で乾期ですから、いつも太陽もあって、水がありますから、もの凄く穫れたんですよ。初めの年は、日本で言うならば、八俵から十俵穫れた。それで多くの人たちがやり始めたんです。ところが十五年ぐらいしてきますと、だんだんだんだん全体の中の七割ぐらいしか穫れないようになってきたんですね。どんどん下がるんです。それが一方農薬とか、化学肥料―窒素、リン酸、カリといういろんな種類のものを、大体五倍から十倍ぐらい、二十年ぐらいすると、もっとという感じでどんどん増やさなければならない。農薬も使わなければならない。昔は病気は問題じゃなかったけど、病気が付く。僕がちょうど関わっていた八十五年から九十一年というのは、「緑の革命」が導入されて、約二十年ぐらいの時でした。
 
山田:  そういう中で村上さんは、導入にも積極的に努力なさった自然農業というのは、多くの人にやっぱり受け入れられていっているんですか。
 
村上:  僕は、自然農業という中で、耕さなくても軟らかくて、豊かで、肥料もやることもなくて、草も問題にならない。それがいわゆる理想的な農業だと思いますが、そこにいく過程では、耕すことも必要ですし、肥料も入れることも必要だし、バランスが取れるような形が必要なんですね。そういう意味では、有機農業的なやり方を、当然いろんな形で堆肥を作ったりとか、初めはやっていきます。そういう中で、今では三十万戸の農民たちが、「ノヤクリシー運動(nayakrishi andolon)」と呼んでいるんですが、「ノヤ(naya)」というのは「新しい」、「クリシー(krishi)」というのは「農業」、「アンドロン(andolon)」というのは「運動」という。「新しい農業の運動」という形で、彼らはバングラデシュで進めていますが、農民が農民に伝えるという形で広がっていく。乾期に訪ねて行くと、ほんとに色とりどりの農園がさまざまなものと一緒に植わって、サトウキビの間に豆があり、キャベツがあり、いろんなものが植わっているという。そういうなんか曼荼羅(まんだら)みたいな状況が見えて非常に面白いと思っています。
 
山田:  二十数年になりますか、アジアに関わられて、その後日本に帰って飯舘村に入ろうというふうに考えられたのは、何故なんですか。
 
村上:  僕はある意味で技術者ですから、技術的なこととか、やり方みたいなのを伝えて、向こうの人たちがそれをきちっとやっていくという状況が見られたら、僕はそこの引き時だと思っているんですね。僕は海外に行って、いろんなことをお手伝いをしていましたけど、でも海外に行くためには、日本は経済的に優位な国であるから、僕が海外に行けるわけですよね。ということは、日本はそういうものを、僕から見ると、あれは搾取に近いような形で自分たちが豊かになっている部分がありますから、そういうことを若し日本という国が止めるとするならば、どういう生き方になるんだろうか、と。日本の今の経済の中で完全に捨てられている中山間地帯の農業というのは儲からないで、大規模化もできなくて、捨てられて、限界集落になる。豊かな緑があって、里山がある。ああいうところが捨てられているということが、僕の目から見ると、そんな恵まれている―水がたくさんあって、森があるようなところは、世界中でほんとに少ないですよ。エチオピアなんか川の側ぐらいしか人が豊かに生きられない。水があるということは凄いことで、世界から見たらほんとに豊かなところを、経済的な意味でここはダメだと。物をいっぱい作って、輸出して、いっぱいお金儲けて、我々は勝ち組になって頑張るんだ、と言っているけど、勝ち組になるために、負け国を作って、そしてその怒りを実は作っているんだという。それは「グローバル経済のルールは不公平だ」ということを、はっきりいう人たちがたくさんいるわけです。僕もそれを感じるわけです。そこで一人では足りなくて、いろんな人たちが協力しあって、自然を壊さずに、自分たちが必要なものをそこで作り、そしてお互いに協力しあって生きれる関係、つまり争って、奪い取ってくる、競争して奪うんじゃなくて、助け合って分かち合う。そういう生き方に変わる方向しか、僕は人間の未来はないんだろう、というふうに思います。
 
山田:  そういう意味では、飯舘に入って、それを作ってこられたわけですね。
 
村上:  まあ経済的にもきちっとやられるような形になってきたというのが、ちょうど二○一○年ぐらいでしたね。
 
山田:  その時点で震災が来てしまったわけですね。さらにその原爆の被害を受けるということで、初めのように、そこを離れざるを得なくなったという。
 
村上:  はい。
 

ナレーター:  村上さんは、今三重県内の耕作放棄地を借りて、新しい農場を開く準備をしています。戦後開拓で開かれたこの土地は、夏場の大根やほうれん草など、高原野菜の産地として知られた場所でした。しかし長年同じ作物を続けたことから連作障害が起こり、また多くの後継者が農業より収入の高い仕事を選んだため、三十ヘクタールの土地が耕作されないままになっていました。
 

 
村上:  ここは高原なんですよ。普通のところに比べるとね。高原ですから、夏なんかは日格差(ひかくさ)(一定の場所における一日の最高気温と最低気温の差である)が大きいですね。昼間は暖かいけど、夜になると凄く涼しくなるという。日格差が大きいということは、作物は―食べ物というのは、いわゆる昼間に澱粉を一生懸命溜めて、夜は呼吸作用でそれを失っていくわけですから、夜は涼しいとあまり呼吸しないんで、よくこういう日格差が大きいところのお米でも野菜でもみんな美味しいと言いますね。ここは凄く美味しいです。前にここでやっていた方が、この前カボチャ分けてくれたんですよ。僕は、三重県に来てから、福島県で食べていたようなほくほくのカボチャがないんで、何でかな、と一年ぐらい悩んでいたんですけど、彼がここで作ったカボチャはまったく同じだったから、やっぱり気候があるかなというふうに思いましたね。それで僕が慣れ親しんだ気候に近い、そういう場所ですね。向こうにある大洞山(おおぼらやま)という千メートル近くの山です。こちら側は、石がけっこう多いんですよ。ここから向こうの方に行くと、石がどんどん少なくなります。ですから石が多いところの農地は、ちょっとこの辺でブルーベリーをたくさん植えて、摘み取り体験的なことができるものにしたいと思うんで、その辺の石が多いところはほとんどブルーベリーをやろうと思っていますね。石がないところに大根とか、キャベツとか、白菜とか、それからハウスを建てて、トマトとか。だからまさにここをどんな感じのデザインをしていくかな、というふうに見て考えています。ここの上にあがって来て見て、あ、いいな、と思っていますね。ここならば、自分が思い描いている農業というか、そういうのができるなというふうに思いました。
 

 
ナレーター:  村上さんは、耕作放棄地再生事業への補助金で農場を作り、志を同じくする人々と共に働くという、新たな夢を抱いています
村上:  今、ほんとに思うことは、自分に起こってくるさまざまな問題であったり、不快な出来事であったりするものは、やはりこれは僕にとって「新たな学びの場なんだ」ということなんですね。そのことを通して、神であるなら、「神は僕にそこでそれを学びなさい」と。僕の考え方で否定したり、肯定をしたりしないで、まずそれはどういうことなのかということを学ぶ。その学びの中で、今まで自分が気づいていなかった、知らなかったことが、知れるようになり、またそれは自分の中の自由―心の自由さをつくっていく、そういうものだ、というふうに感じています。
 
     これは、平成二十五年一月二十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである