ナレーター:磐梯山(ばんだいさん)と越後山脈に囲まれた会津盆地の南西部にある福島県会津美里町(みさとまち)。江戸時代から明治にかけて水運(すいうん)に使われた阿賀川(あががわ)が流れ、古くから栄えた会津藩縁(ゆかり)の地です。晩秋の紅葉に彩(いろど)られたこの地に、エッセイストの大石邦子さんをお訪ねします。この町で生まれ育った大石さんは、昭和三十九年九月、事故に遭って、二十二歳の若さで下半身の感覚がなくなり、その後もマヒの症状は進んで、上半身にも広がりました。先の見えない闘病生活の中、大石さんは苦しみの意味を問い続けながら、短歌やエッセイに思いを綴ってこられました。今日はその中の言葉を取り上げながらお話を伺います。
 

 
金光: 確か昭和三十九年(1964年)ですか、日本の東京オリンピックの年に、通勤の途中のバスで事故に遭われた。その当時、ここから会津若松に行くバスは、おそらく現在の東京とか大阪の通勤列車ぐらいの混み方で、立っている人もいっぱいいたような状況だったんだろうと思うんですが、そのバスが突然前に車が来て、それで急停車した。そのために立っている人がみんな将棋倒しになって、しかもたまたま大石さんは、運転手の後ろにある金枠の側に立っていらっしゃったものですから、将棋倒しの重みを受けて、それが金枠のところで、大石さんは挟まれたものですから、その瞬間から気を失われて、それで気が付いたら病院の中。しかも気が付かれた後で、自分の身体がマヒしているというような、そういう状況からだんだんと快復される。その間非常な苦しみにおありになったと。その頃の作られた歌がありますので、ちょっとその歌を紹介させて頂きたいと思いますが、大石さんの方からちょっとご自分で読んで頂けますか。
 
大石:
幾夜さを疼
(うず)きつくして現身(うつしみ)
頼みの脚(あし)の知覚失せたり
 
金光: 何日も疼く。マヒすると痛みがないのかと思ったら、疼くんですか?
 
大石: いや、もうこれが普通の痛みとちょっと違いますね。なんかほんとに突き上げてくる、どこが痛んでいるかわからないという痛みでね。それでこの歌を作ったのは大分後なんですけども。とにかく寝返りもできない。自分の足がどこにあるのかもわからない。それから当時は、左手が全然ピクリとも動かない。それなのに痙攣(けいれん)がくるような痛みが襲うんですよ。それは単なる痛みでなくて、しびれがあって、それがだんだん痛みが引いていった段階というか、いったのかそれはよくわかりませんけど、もうピクリとも動かなくなっていたんですね、気が付いた時はね。
 
金光: 確か前に伺った記憶では、痛みが上にだんだん上がってきたり、と。
大石: それは何年も続いたんですよ。それはその後で、やはり体力が非常に消耗した時に脊髄の液が濁ったことがあってね。それは多分余病だと思うんですけども、それが脳にいくとか、そういうような説明もありましたけども、顔面ちょうどその辺までしびれがグァッと上がってくるような時があってね。もうどういうふうになるのかな、と。自分の身体がちょっと自分でなくなったみたいな、それをでも訴える術もない。ただ動けず寝たっきりで、当時は動くのは右手だけで、右手というのは全身のような感覚でしたから。ある日突然断ち切られた自分の身体が、説明ができなかったですね。先生に訴えようがない。どうしていいのか。「足は? 私の足は?」と言っても、父が、「あるよ、ほら、ここにあるよ。ほら、ここに足がある、足がある」って、私の足を持ち上げるんですけど、足じゃないんですよね。そういうような時代がずっと長かったですね。
 
幾夜さを疼(うず)きつくして現身(うつしみ)
頼みの脚の知覚失せたり
 
生くる望み断たる思ひじわじわと
わが右脚も動かずなりぬ
 
金光: 「生くる望み断たる思ひじわじわとわが右脚も動かずなりぬ」じわじわとくるわけですか。
 
大石: そうですね。最初は右脚は動いていたんですね、右はね。でも、もの凄い痛みのために、頚(くび)と脚に重りを付けて身体を引っ張ったんですよ。頚と腰から下に。それも三十キロぐらいの重みですね。それで身体を上と下から引っ張る―どういう治療かよくわからないんですけど―そういう中で、もう知覚がなくなったみたいなんです。痛みは消えたんですよ。痛みは消えたけれども、その痛みの代わりにその感覚が―触っているとか、抓(つね)っているとかという感覚がまったく無くなっていったんですね。
 
これ以外何も望まずわが神よ
この息らくにらくに吸ひたし
 
金光: 「これ以外何も望まずわが神よ この息らくにらくに吸ひたし」ただ生きる姿態というだけの、
 
大石: これはほんとに何回か繰り返したんですけども、意識がなくなっていくというような時もけっこうありまして、呼吸ができないんですよ。もうやっぱり湧き上がってくるんでしょうね。もうほんとに楽にこの息さえできたら、もうそれ以外何にも要らない。とにかく楽に息がしたいという。なんか思い出しますね。そういう時代が繰り返しありまして。だから今なんて息を吸っているなんて感じなくて呼吸ができる。それだけでこの時代は忘れていましたけど、こういう時代がほんとに繰り返し起きていたな、ということを思うと、ほんとにあの頃のことを、ああ、なんか自分でなかったような気もします。
吸呑(すいのみ)の水を欲(ほ)りつつ指先の
わづかが吾には無限に遠し
 
金光: これは右手も動かないんですか。
 
大石: いや、右手は動いていたんですけども、ベッドの脇に台がありまして、そこに吸呑があって、この吸呑が手の届くよりちょっと先に置かれていると、ほんと指先がわずか三センチぐらいでも届かない。三センチ届かないということは、私にとっては無限の彼方のような、そういう時代があって、身体が全然動かないというのは、ほんとに動かなくて、もう身体が鉛のようになっていて、どんなに頑張ってみても、手の指先が、この指先以上には動かないんですよね。その先にわずか三センチぐらいのところにあっても、私にとってはほんとに三センチが無限の彼方だという感じで、それで絶望的な思いでしたけどね。
 
金光: 会津若松の総合病院で入院されていて、そこには七年ちょっといらっしゃったようですが、その間にはそういう酷い状況も少しずつ良くなるにしても、おそらく最初は全く生きる望みというか、生きてもしようがないみたいな絶望感にとらわれるでしょうけれども、そこから少しずつ状況が変わってくるきっかけ、少しは前向きになるというか、絶望から抜け出る方向へは、どういう形で出られたんですか。
 
大石: まあ四年ぐらい経ってからですけどね。でもその頃二十代になったばかりでね、高校時代の友だちってみんな結構友情って深くてね、仲良しだった人たちが、やっぱり恋をしたり、お見合いをしたり、お嫁に行ったりする中で、青春そのものの時に、私は寝ていたんですけどね。だから〈自分の人生って一体何なんだろう〉って。いろんな人を見回しても、私はいつも、〈どうして私だけが、どうして私だけが〉という思いから抜けられなかったんですね。その時に、私には動くのは右手しかないんだ、という思いがあったんですけども、そういう中である時期にふと思い出したのは、高校時代に読んだ啄木が創った歌だったんですよ。
 
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひきて妻としたしむ
啄木
 
という、その歌をフッと何にもなくなった中で、何故これを思い出したかというと、私はもう人間でもなくなったような―結局排泄もダメになる、寝返りも打てない、感覚もないというのは、人間の資格も全くないと思っていた時に、友だちはみんな綺麗になっていって、お嫁に行った人もみんな優しくしてくれるわけ。私は優しくされればされるほど寂しくなっていくという中で、フッとその眠れない夜に、私は、もう人間としてもう終わったなあと思った時、何か突如〈あれ、私も昔誉められたことがあった〉というのを思い出したんですよ。それが「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひきて妻としたしむ」とい啄木の歌の感想文を書かされた時に、けっこう厳しい先生だったんですけど、「もっとも良い作品を読んで貰います。はい、大石さん」と言われて、読んだ記憶がさぁっと甦ったんですね。〈あれ、こんな私にも誉められたなんていう時期があったんだ〉と思った時に、あれは啄木の歌だったけど、今の私だなあ、と。「友はみなわれよりえらく見えて」、でも啄木は、奥さんがいたけど、私はそれもいないけど、でも歌は私にも創れるかも知れないな、って。何ヶ月か前に、先生が「大石さん、あんたより辛いこういう人がいる」と言って、水俣病の患者さんの新聞の記事を持って来て、歌を創っていらっしゃっていて、「あんたも歌を創りなさい」と言われた。〈そんな歌なんか創って何になるの〉と思っていたんですけど、その啄木の歌を思い出した時に、創ってみようと思って―今まで創ったことはないんですよ―五七五七七と数えて、とにかく数えて、〈そうだ、この二十代で死んで逝く無念さを歌にして、父と母に残そう〉と思ったんですよ。そうして創り出したら、なんかもう溢れるように今までの無念さが湧き出てきて、寝たっきりで起きられないので、胸の上に大学ノート置いて、そこに反対側から書いていたんですね。そういう時に、〈ああ、私にはまだ右手がある〉って。右手しか動かなかった。〈右手がある。右手があれば書ける〉と思って、それでその歌を書き出した時に、〈ああ、私にもできることがあるかなあ〉というような気持ちがしてきて、その頃から創り出したんです。だからこれは四年目過ぎてからの歌なんですよ。
 
金光: でも、「右手しかない」と思っていた時と、「右手がある」と思うのと、全然違いますね。
 
大石: そう。全然違って、やっぱりほのかな希望のようなものがみえてきた。そしてそれをまた先生が、「これを朝日歌壇に送れ」と言われて送ったんです。そうしたらそれが歌壇に投稿すれば載るようになった。昔歌壇というのは一首目が大きな文字で出ていて、先生の感想文が載るんですけど、そうすると、私が歌を詠むと、先生が感想文を書いて、私こんなこと考えていないと思うぐらい深く先生は感想文を書いてくださってね。〈あ、私は自分で意識していない心の底に、もう先生がおっしゃるような、こういうふうなのがあったのかな〉なんて思うようになって、投稿するようになって、結局それが目に止まって、後に講談社が本を出してくださる、ということに繋がっていったんです。だからほんとに私にとっては文字を書くので指も曲がっちゃったんです。鉛筆で書くでしょう。この指曲がっちゃったの。
 
金光: ああ、そういうことですか。
 
大石: この指とこの指が、こういうふうに持つと小指も使うんですね。これも私に人生を教えたんですよ。指って、この指とこの指だけで掴むのかと思ったら、小指がなくては字が書けないですね。小指でちゃんと押さえるんですね。
 
金光: そうですか。
 
大石: 人間の身体って、ほんとに不要なところはなくて、そうしたらもうずっと使いすぎて、この指とこの指だけ曲がっちゃったんです。
 
金光: なるほど。
 
大石: そうなんで、でもこれは私にとっては、最初に生きる希望のようなものを感じさしてくれた四年目でしたね、寝た切りでいた四年目に。
 
金光: その後歌だけではなくて、エッセイを随分書いていらっしゃいますね。文章になって、これも纏められたものが次々に本となって発表されたんですが、こうなってくれば、かなりもう元気が出てくると言いますか、
 
大石: いや、何がビックリしたかと言いますと、最初の本『この生命ある限り』というのが、講談社の加藤勝久(かとうかつひさ)さんという方が出してくださった。そうしたら病院に―これは私、ほんとにものを書いたこともないし、文学少女でもないし、本もほとんど読まなくて駆け巡っていた、どっちかと言えば運動をやっていた私なんで、そういうことをやっていたから、文章を書くなんてやったことないんですよ。ただ無念さを父と母に残すつもりで書いたものだったんですね。それがその時は、状態が悪くて、これが本になっていたという意識はなかったんです。それで講談社の加藤部長さんが、「生きているうちに出せ」という指示を出されて、アッという間に本になったんですね。そうしたら私、生きちゃったんですけど。その本が出たら、病院にもの凄い手紙が届くようになったんですよ。病院の事務の方が、ダンボール箱に入れて、手押し車に、手紙やそれからいろんなものがやってきたんですね。私は、もの凄い驚いちゃったのと同時に、怖ろしくなったんですよ。私、自分のことしか書いていないのに、人がその文章に共鳴してくださる、共感してくださるなんて思ってもいなかったんですよ。でもそれで「勇気付けられた」とか、「私もああいう気持ちだったけど、頑張っていきましょう」とか、またこういう私みたいな子どもを持ったお母さんとか、それはほんとに信じられないぐらいの手紙の量だったんですよ。一日に五十通から六十通ぐらい届きましてね。それは私の力では読めないので、付き添っていた妹が延々と読み続けてくれたんです。その時に、こんな私が書いたものを、全国の全然知らない人たちが、書いたものに心を寄せてくださって、そしてそれに手紙を書こうなんて思ってくださる人たちがこれだけあったんだ、ということにほんとに驚いたんです。驚いたというよりも、良いのかなって。こんなふうになっちゃって、いいのかなというふうに。この人たちにどうしたらいいんだろうという思いね。そういう思いが今度は新たにどうやってこの人たちにご恩返しすればいいのかな、という思いに変わっていきましたね。
 
金光: でもご恩返ししようかなということは、要するにどうやって生きたらいいのか、という、そこに自然に結び付いてきますね。
 
大石: そうなんですね。〈ああ、生きなくちゃ〉とは思ったんですよ、頑張ってね。〈もう生きられない〉と思った時期が長かったんだけども、でもこんなにして貰っているんだから、もう少し頑張って生きてみようという。もうなんか息切れして、もう坂上れないぐらいの感じだったんですけど、もう上ったら頂上があって、頂上から下りがあるのかなとか思ったりしてね。ほんとにそれはまったく想像していない新たな私の世界が、そういう人たちによって開いて頂いた、という感じだったですね。
 
金光: 総合病院で書かれたものが、本になって出たということですが、七年ちょっといらっしゃった病院から、今度熱海で保養所かどっかに変わってリハビリに入られて、そこで五年ということですが、やっぱり環境が変わると、身体の方も変わるでしょうし、やっぱり熱海の保養所の生活の中では、生き方や生きる力みたいなものは変わってきたものですか。
 
大石: やっぱり暖かさというのが、会津の冬は非常に寒いですからね。でも熱海はほんとに暖かくてパジャマで冬を越せるなんていうのは、この辺では考えられないので、結局縮こまる身体もリハビリで、そして温泉療法で―温泉のリハビリだったですから、身体が伸びやかになって、屈伸も、私の身体にはほんとに熱海の五年というのは良かったんですね。
 
金光: そういうご自分の身体の方が次第に快復し、動けるようになったりすると、お友だちが見舞いに来られても、「友だちは丈夫で、私はなんで」みたいな、そういう考え方とちょっと変わった受け取り方もできるわけでしょう。
 
大石: 少し変わってきましたね。やっぱり人と比べてばっかりいましたよね。自分が惨めだという原因というのは―ほんとに惨めだったですよ―なんとも言いようがなく、何でって、わかっているんですよ。理屈としてはわかっているのに、惨めになっていくんです。でも〈これは人と比べることから生まれている惨めさだなぁ〉って。でも私が、どんなにその人を憧れてみても、羨んでみても、その人にはなれないんだ、というのを、五年、七年経ってくると、嫌でもわかってくるというか、その人と比べた時に、寂しくなるんですよ。だから人と比べるのは止めようって。〈今は自分の置かれた状況の中で、自分のできることをやっていくことが、結局私の惨めさを乗り越える方法かな〉ということも、少しは考えられるようにこの頃なってきたんですね。
 
金光: それはしかし身体が健康な人でも、惨めになるのは、人と比べて自分よりいろんな意味で勝れている点がある人を見ると、自分は惨めに思える。基本的な姿勢は共通するところがあるようですね。
 
大石: そして人と比べている時というのは、自分のないものだけが見えてくるんですよ。ほんとに自分にない―〈あれもない、これもない〉と人と比べる時。でも比べるのを止めたら、途端に自分の中にあるものが見えてくるという。私にとっては掛け替えのない右手があって、話すこともできる、眼も見える。〈そうなんだ〉と思ってね。〈人と比べるのは止めて生きていこう〉と思って、言い聞かせるんですけども、自分にね。そういう中で少しずつ自分が、〈自分の今ここに置かれた中で生きていく〉心の準備みたいなものができてきたかな、って。そんな時に父が亡くなりましたから。ほんとにずっと私のために看てきてくれた父が、熱海にいる時に、電話で知らされたんですね。ほんとにそれまで元気で電話でも話していたんですね。でももう信じられなくて、「こんな夜中ダメ」と言われたんですけど、「もう帰る。このまま帰る」って、私、車で熱海から会津に向かったんですよ。父に対して凄い後悔があって。父がまさか亡くなると思っていなかったんで。それは私がこういうふうになってから、父にも母にも迷惑かけっぱなしできたでしょう。それが亡くなってしまうなんて、とにかく息が止まる前に会いたい―亡くなってはいるんですけども―そういう衝動で、郡山から―当時磐越道が出来ていない―49号に入り、猪苗代(いなわしろ)の志田浜(しだはま)のところまで来たら磐梯山が見えたわけですよね。その時磐梯山が、ほんとに父が両手を広げて私を待っている姿に見えたんですよ。私、いろんな意味で悲しいことがあったですけどね、この磐梯山の姿ほど悲しかったことなかったんですよ。父がほんとに手を広げて私を待っていてくれた、と思って。そこまではずっと我慢して来たんです。その磐梯山が父に見えた瞬間から、もう涙が止まらなくなって、声も止まらなくなっちゃってね、父を呼び続けながら―そこから大体五十分ぐらいかかるんですけど―午後二時に家に着いた時に、ここに父が北枕で休んでいました。家の父は真っ白な髪だったんですけど、触ればもう冷たくなっていて、ほんとに父が、私が自殺を図った時でも何でも、父が一番私に向かって、「生きなきゃダメだ」と言ってくれた父だったのに、私はそういうのに反発して生きてきた。その父親に対する申し訳なさで、その冷たくなった父に向かって、ほんとに「生きるよ」って。父が私に「生きなきゃダメだ」と言われたように、その時私は父に「頑張って生きる」って言ったんです。それ以来熱海の生活を止めたんです。そしてこっちに帰って来て、今度は母が残されたので、母と一緒にね。なんかほんとに磐梯山を見る度に父を思い出すんですけど。親が居なくなるというのは、故郷の山河が親に代わると聞いたことがありましたけど、まさにそうなんだなあなんて、今もよくあそこ通りますんで、磐梯山見る度に―磐梯山はちょうど手を広げた格好じゃないですか―それを思い出してね。
 
金光: そういう時に、「私生きるよ」、それは心の底から「生きるよ」とおっしゃった、その生き方というのは、やっぱりその後ずっと続くもんですか。人間の心というのはしょっちゅう強くなったり弱くなったり、いろいろするわけですが。
 
大石: 死にたくなることはたびたびありましたけど、でも実際に前のように薬を飲むとか、そういうことはしなくなりましたね。やっぱりこう絶望・絶望・絶望でくると、絶望は力に・力に・力に、なんかある意味で自分の気持ちの中でそれに耐えられるというか、もう一回我慢してみよう、もう一回この峠が越えられたらまた大丈夫かなと思うような、そういうなんか生き方の練習みたいなものが、苦しみは教えてくれたかなという気はしますね。
 
金光: それから順調に快復しました、目出度しとならないで、やっぱり具合の悪いこともあるし、これでどうしようかと思われたり、悩まれたりすることがあると思うんですが、そこをもう一つ超えられるかな、超えようかな、超えなければとか、その辺の気持ちの踏ん切りと言いますか、これは自然に出るもんですか。
 
大石: いや、やっぱり人の優しさに触れたり、反発しながらも、いろんな人が言ってくれる言葉とか―その言葉ってその時はわからない言葉がいっぱいあって、いろいろ言って頂くんだけども、わからない言葉があったけども、それは後々、〈ああ、そういうことだったのか〉と思うことがたくさんありましたけど―私はやっぱりまだ父に当たるようにして母に―私はいつも別の人みたいというぐらい、私は母に対して当たるというか、自分の心がコントロールできなくなったり、もう悲しかったりというと、つい母に当たるんですね。それで私は、母には何もできないと思っているんだけども、私がちょっとニコッとすると、もの凄く母は喜ぶんですよ。私が、たかがニコッとしただけで、こんなに母が喜んでくれる。それを何回かの中で知った時に、自分の課した思いというのは、〈人に会う時は笑顔で会おう〉と思ったんですね。そうしたらやっぱり違ったんですよ、周りが。私が笑顔で―最初はぎこちない笑顔ですね―でも続けば真実になるんだという。
 
金光: 最初は努力も要ったわけですか。
 
大石: 努力しましたよ。会いたくない人にも会うんですからね。でもそういう時、ちょっと笑顔でニコッとすると、相手の態度も全然変わるし、この私は、劣等感の固まりにある意味でなっていましたね。人間として何もできない。他の人と一緒に行けば足手纏いになるし、迷惑掛けるし、でもそういう関係でも、自分が笑顔でもって接していくと、けっこう人間関係がスムーズにいくというようなこともありまして、そんなことを自分に課したというのは、とにかく人生が笑顔で全うできたら、それは私の最大の努力目標だろうと思ってね、それに一生懸命努力したというのがありますね。
 
金光: 私なんかも自分のことを考えますと、自分が無意識のうちに思っている〈こうしたい〉とか、〈ああしたい〉とか、思っている通りのことが、相手の人にやって貰えると嬉しいんですけれども、どうも自分の思っている通りにして貰えないと、つい腹が立ったり、〈何でこんなことをするのか〉と思ったり、相手に向かって注文付けたくなるんですが、そういうのはだんだん枠が壊れてきますと、都合の悪いことでも、〈そういう考え方もあるか〉ぐらいで受け止められるようになるわけですが、その笑顔になれるためには、自分がこの人あんまり会いたくないと思っている時でも、その思いは相手にしないで、にっこり笑って、笑顔をしてやっていると自然に変わってくるものですか。
 
大石: そうですね。これもやっぱり継続ですね。「笑顔」なんていうことは、私に無縁の人生を生きると自分で思っていましたけども、笑顔を努力目標にしたら、それはそれなりになんとかできるかなという。でも、いつまでもいけるわけではないですよ。やっぱりそういう時は会わない、出ない。
 
金光: なるほど。不愉快な思いをさせるような時には、出ないという格好でね。それで熱海とその前の病院の、合計しますと十二年ちょっと、それを終わってお帰りになって、車椅子でご自分で動けるようになるのは、その頃は動けるようになっていらっしゃったですか。
 
大石: 車椅子で乗り降りできるようになるまで、退院ダメと言われておりましたから、だから車椅子で。だから家も敷居のところに三角板を張ったり、トイレに入られるように、お風呂が使えるような形で改造して、その準備をして、父は亡くなった。
 
金光: それでお帰りになって、車椅子で動かれるようになって、しかも本が出ていますと、「お話を聞かせてください」という講演の依頼とか、そういうものもけっこうあったわけでしょう。
 
大石: そうですね。ビックリしましたね。何を話すのかなとかと思っていましたけど、そこから講演が始まったんですね。
 
金光: 相手はどういう方が多かったですか。
 
大石: 一番最初にやった講演は、これは私の親しい校長先生に半分騙されたように連れて行かれたんですけど、東北六県のPTA連合会の大会があって、先生が、「いや、これは半分観光だからね、土曜日の午後の講演なんて聞いている人いないから。千四百人ぐらい集まるんだけども、みんな観光に行っちゃうから、講演聞く人なんか少ないよ。大丈夫・大丈夫。もうそんなにいないから、好きなことを話せばいい」と言われて連れて行かれて。会場へは裏口から入って、裏の段から上がって、緞帳(どんちょう)が上がったでしょう。もう初めてあれだけ大勢の人―千四百人だったらしいんですけど―会場ぎっしりですよ。それで私は自分でもう全然わからなくなっちゃったですよ、何が何だか。それでも喋らないと終わらないでしょう。それでなんか自分のことを、一応準備をしてきたことを話したんですけども、もう身体も足もガタガタ震えて、そして終わったんです。それがきっかけなんですね。それが終わったら、「あの時の話でいいですから」と言って、あっちこっちから話がくるようになったんですよ。「あの時の話」と言ったって覚えていないんです、私。もの凄い緊張して、もうその人たちが、「あの時の話」と言ってくださるような話をしたようには思えないんです、自分で。「あの時の話でいいです」と言われて、東北六県の学校関係とか、PTAとかが呼んでくださるようになったのがきっかけで、それから私は、学校とかPTAとか、そういう関係がずっと続いてきていますね。そのうちに企業から依頼も入ってきて、企業の研修というので―どうってない話なんですよ、私が生きて今日までくる中で感じたことの話を―だから難しい話なんてできないわけ。
 
金光: そうなると、車椅子であちこち―会津だけではなくて、いろんなところにお出掛けなるようになったわけですね。
 
大石: ほとんど全国行きましたね。
 
金光: その後お聞きしますと、アメリカ大陸へ横断の旅に出られたということですが、これはまたどういうことで、どうなったんですか。
 
大石: 私は、あれだけの病気を長くしてきて、気が付いたら父も亡くなり、母も亡くなって、そしてこのぼろ屋に住んでいる。みんなここで昔子どもたちは育ったんだけど、みんな居なくなって、ぼろ屋でしょう。そうしたら荷物がいっぱいあるわけ。これから老いに入っていくから、元気なうちにもうなるべく身の回りの整理をしようと思って、ものを処分したりしていた。その時に、「アメリカ大陸横断を障害者で、この歳で車椅子で、アメリカ大陸横断なんかした人いないと思うから行こう」と誘われていたんですよ。何回か誘われたの。その考えにいかなかったんですけど、家の整理をしている時に、身軽になろうと思って、〈あ、保険も要らないや、これ以上病気もしないだろう〉と思って。私が、若い時に医療費は大変だったので、保険に入るのに父たちが苦労していた。でもこういう身体だと保険に入れない―今は違いますけど。当時入れたのが癌保険だけだったんですよ。保険に入れないというのも〈また人間でない〉と言われたみたいな感じがあって、それで「癌保険なら入れる」と言われたんで、三つも入ったんですよ、癌保険にね。それでずっと掛けてきたんですが、掛け金が大変なんですね。それを止めちゃったの。それ掛け捨てだと思っていたら、解約返戻金ということで払い戻しがあった。もう喜び勇んでそれを小遣いにして、「じゃ、私もアメリカ横断する」というので友だちと出掛けたんです。
 
金光: どんな形で横断されたんですか。
 
大石: 車ですよ、横断と言っても。私は、計画係とみんなのパスポートとか、お金を私は動かないからベストの中に挟んで持たされて、金庫番みたいなものですね。
 
金光: 何人で?
 
大石: 四人で。サンフランシスコからニューヨークまで十五日間。ほんとに聞いたことのない街ばっかり通って行くんですよ。で、喜び勇んで〈いやぁ、体力付いたな〉とか思いながら帰ってきてね、お風呂場で転んだんですよ。お風呂場で転んだら、なんか身体の中で、ドラムが鳴った音がしたんですよ。ガーンという音がしてね。これは肋骨を折ったな、と思って病院に行ったんですね。そうしたら先生が、私の身体を診た瞬間に、「面白くない病気だな」と言ったんですよ。それで面白くないって何だろうと思って、冗談でね、「面白くないって、先生、まさか癌じゃないですよね」と、私が言ったら、先生が、「違う」と言われるんですよ。そして、私がサッと血の気が引くようになってね、「先生、まさか癌?」と、私が聞いたら、「ウン」と言うんですね。「詳しく検査しましょう」と言って、検査して。「でも大石さんのような場合は、何が起きるかわからないから、ここではなくて、やっぱり大きな病院がいい」と、いろんな人に言われて、福島医大に行ったんです。私は、その時に先生に言ったんですね。「今、私に家族がありません。だから何でも隠さずに私に話してください」と言ったんですね。でもその時は、なんか自分が一人だなんていうことは頭の中でよくわかって、一人で来たのに、なんか癌の告知というのは、やっぱりなんか海の底に沈んでいくような、今まで味わったことのない寂しさというか、孤独感というかね、〈ああ、私は独りなんだ〉って。「私は誰も家族がいませんから」と言っておきながら。それで先生に、「大丈夫だ」と言って手術を受けた。手術は上手くいって、全摘手術をして、四センチ五ミリ、ちょうどピンポン球ぐらいの癌が取れた。
 
金光: 乳ガンですか?
 
大石: ええ。取れたんですね。それはそれでほんとに腕の良い先生で、神業のようだなと思いました。ほんとアッという間に何もなくなって、〈あ、癌の手術もこれぐらいなら〉と思っていたんですよ。でもその後三日目の夜、看護婦さんが、手術上がりの患者なので、何分かおきに看て歩くわけですよ。サッと私の傍から走って行ったの。そうしたら今度、次ぎに宿直の先生が入って来て、私のところ照らして、またサッと走って行ったんですね。そうしたら間もなく、パッと電気が点いて、「大石さん、これから手術室に向かいます」と言うんです。で、私は、「えっ! 先生、手術終わったばっかり!」と、私が言ったんですよ。そうしたら、「いや、緊急を要する。胸の動脈が破裂した」と言うんですよ。そしてストレッチャーに載せられて―なんかほんとに自分のことのように思えなかったんですけど―真っ暗な病棟をサッと真夜中に手術室に行ったら、もう先生が六、七人待っていらっしゃって、「大石さん、麻酔かけられない」というんですよ。「前に大きな手術を全身麻酔でやったので、麻酔はかけられない。麻酔かけないでやるから、頑張ってやるから」って、言ってね。私、〈えっ!〉と思ったんですね。でも経験したことないから麻酔かけないで手術するって、どういうことかわからなかったんですけど、そして持ち上げられて、いやいやいや、もの凄く痛いんですよ。その瞬間、私は一回も目を開かないんですよ。「麻酔しないで手術をする」と言われて、多分意識が帰らなくなる可能性があったんですね、また麻酔をかけるとね。それで麻酔をしないで、〈あ、これが大石さんのような人、何が起きるかわからない、と言われたのは、このことだな〉と思ってね。でも、これは会津だったらダメだったな、と思ったんですね。やっぱりここは大きな病院だから、あの真夜中でも六、七人の先生が集まってくださって。でもそのメスが入って切り開かれる瞬間ね、これは今まで経験したことのない痛み。「ギャッ!」と叫んだんですよ。「ギャッ!」と叫んだ瞬間、嘘みたいなほんとの話なんですけど、あれは多分今考えたら手術室の天井って大きな灯りがあるじゃないですか。あそこだと思うんですけどね、もの凄い綺麗な、なんかこんなこというとオカルト(occult:神秘的なこと・超自然的なもの)みたいで変なんですけど、金の十字架がパッと光りの中に現れて、一瞬時母の顔になったんです。そして意識が飛んだんですよ。
 
金光: そこでいわば気絶?
 
大石: 気絶。そして気が付いた時には、病室に来ていて、でも全然聞こえないんじゃないですよ。なんかどこに自分がいるかわからないんだけども、「大石さん!大石さん!」という声が聞こえる。それで後から聞くと、先生たちは私に聞こえないように手話で手術していたと。その時私の頭をしっかりどなたか先生が動かないように両手できっちり掴んでいらっしゃったんですよ。それが後から聞くと、誰も掴んでいない。先生に聞いたら、「誰もそんなことしていないよ」と。後から意識が帰った時に、私は、今まで自分の身体を〈愛(いと)おしい〉なんて思ったことなかったんですよ、こんな身体ね。こんな身体になって、歩くこともできない。感じもない。それであの時、私が「ギャッ!」と叫んで意識を失った時のことを思うと、この身体はほんとに〈私が耐えられなくなった時には、意識を吹き飛ばしてまでも、私を生かそう生かそうとしてくれていたんだな〉と。この身体が―私の身体なんだけど―同士のような気がしたんですよ。私と同士のね。それからなんか〈この身体を大事にしなくちゃ〉ってね。
 
金光: 身体の自己防御。勝手に動いてくれたわけですね。
 
大石: そうですね。
 
金光: そうなると、大事にしなきゃ、と。
 
大石: 〈大事に〉と思いましたね。それで〈申し訳なかった〉と思ったんですよ、自殺未遂なんかを、自分の過去が。なんかこの身体に対してほんとに申し訳なかったって。ほんとに心の中で泣きながら詫びましたね。それから抗ガン剤治療が一年半あったんですけども、その時に抗ガン剤ですから、もう髪は抜けるし、吐き気がくるし、脱力感があるんですけど、私は凄く元気だったんですね。というのは、みんなが「これほんとに同じ抗ガン剤?」というぐらい、私は耐えられたんですよ。
 
金光: 苦しくなるとかよく聞きますね。
 
大石: 苦しいですよ、私も。同じように苦しいですよ。でも耐えられた。その時に、昔猛烈に反発した同じような人たちが、「この世にムダな苦労なんかないんだから、ムダな苦労ないんだよ」と言った時、私は、〈何言っているの〉と思ったんですよ。こんな苦しいのにムダな苦労なんて、ムダがなくても、私はこんな苦労したくない、と思ったんですけど、その抗ガン剤をやった時に、私は、吐き気も、怠さも、毛髪が抜けるのも、全部経験していたんですよ。前の事故の後の余病併発の中で、もう髪も抜けたし、強い薬も―もの凄い薬使いましたから―血管が潰れ、今みんな私の腕見ると、先生たちもギョッとするくらいの、当時の―今の注射の痕じゃないんですよ―そういう中で、〈ああ、私はこの吐くのも、これが収まればまた楽になるんだ〉と知っているわけですよ。脱力感も時間がくれば元に戻るって。この抗ガン剤というのは、身体に一周巡れば、すぐ排泄した方がいいんですけど、それを教えられたんですけど、これが身体から抜けたら楽になるんだというのも。私たちの不安とか恐怖というのは、私は前にそうだったんですけど、先が見えないから不安なんですよ、先が見えないから恐怖なんですね。でも、〈あ、これはこうなんだ、ああなんだ〉というのを経験しているというのは、ある程度わかりますね。同じでないかも知れないけれども、吐いている現実において同じなんですね。緑色の液体を吐くんですよ。吐くものないから、この胃だか胆嚢だかわかりませんけども、緑色の液体が出てくるんですね。〈昔もそうだった〉と思った時、これは必ず収まるというのがわかるので耐えられた。だから他の人から、「大石さんだけ贔屓されて別な注射打っているんじゃないの」とか言われたけど、見ればみんな同じものを打っているわけですね。抗ガン剤治療室というのがあって、そこにみんなベッド並べて打っているんですけど。そんなことを考えながら、ああ、ムダな経験なんてしない方がいいに決まっているんだけども、その経験したことはいつか力になって、私をこうして守ってくれたかも知れないなって、この頃は。だから、こうならないに越したことはないんだけれども、なった中で、こういうふうにして尚ここまで生かして頂いた、ということは、やっぱり最期までこの命を全うできたらいいなって。それもあんまり悲痛な顔をしないで頑張って、嘘でもいいから笑顔でいけば、それが真実になるかも知れないなとか―自分にですよ―自分にそんなふうに言い聞かせているんですけどね。
 
金光: 大手術も経験されるし、非常な難病を経験された大石さんにとって、ほんとに今もご不自由なところありますけれども、その身体が愛しいものということになるわけですね。
 
大石: そうですね。大事にしたいと思いますし、ほんとにこういう身体が私を生かしてくれたんだなあって、こんな身体がね。健康でもなかなか生き難い時代を、こんな身体がほんとによく私を守って生かしてくれているなって。ほんと私も歩けることにも、この感覚のある身体にも、健康な時に一度も感謝したことがなかった。寝返り打つなんていうのは当たり前だと思っていましたけど、寝返り打つのに何年もかかって、訓練しても訓練してもなかなか寝返り打てないなんて。それがでも寝返り打てた時の喜びが、また生きる喜びになってくるという、そういう一つひとつの繰り返しでしたね。
 
金光: そういうお話を高校生とか、いろんな方にお話をなさると、「私は大石さんのように不自由でないから大石さんのようになれない」という感想を漏らした高校生がいたというのを聞いて、自分の身体が如何に有り難いかということに気が付かないで、大石さんのようになれたらみたいな、そういう受け取り方があるのかなと思って。
 
大石: あの時にほんとに驚きましたね。最近はそうもあまり聞きませんけども、あの時の衝撃は、「私も大石さんのように身体が不自由だったら頑張って生きられたか知れない。でも私には何もない」って。このショックね。親がいて、身体が健全で、自分の好きな高校へ行けて、「でも何もないから、大石さんのように障害でも持てば頑張って生きられるかも知れない」という考え方があるということには、もの凄いショックでしたね。でも今やっぱり高校や専門学校や中学なんかに行く時がありますけど、やはりなるべくそういうものに言葉ではなくて、気付いて貰うような話を具体的に―私は理論的にはわかりませんから、難しいことはね―だから自分の体験を通して、そして如何に命というものが独りで存在するものではなくて、父や母や兄弟や友だちや、そして生んで頂いた身体を、ほんとに愛しいものに感じられるような、というような具体的なことで、大した話じゃないけど、ちらちらちらっと話してくるんですけど。
 
金光: 今のお話を伺いながら、来る前にちょっと大石さんがお書きになった本を拝見していまして、高校生の方なんかにはこういうことで、という、そういう文章があった中で、ちょっと用意してきたのがあるんですが、それをちょっとご紹介しますと、
 
何があっても大丈夫。
生きてさえいれば、
いのちさえあれば、
人は
生きられるように
創られて
いるのだから・・・・。
 
でもなかなか思えないことがあるんですね。
 
大石: 私も四十年以上かかってこういう思いに至ったということですね。ほんとに今はそう思います。何回かダメになりそうになりましたけど、今はほんとに〈こうだな〉って。もう生きられるように創られているんだと。身体が生きてくれる。心がダメになれば、それを吹き飛ばしても生きてくれるという。だから命さえあれば乗り越えられる、必ずという思いですね。
 
金光: そして自分の身体というものを、そのままある状況を受け入れて、どういう身体かというのを自分で実感できると、だんだんそういうふうに近づけるということなんでしょうね。
 
大石: そうですね。
 
金光: それから同じような場所に、書いてあったので、これは続いている言葉ですけれども、
 
乗り越えられない
苦しみなど、
ありはしない。
苦しみが、
みなさんを鍛え、
みなさんを磨き、
みなさんを
大きくする。
 
その後に、
 
逃げないで。
逃げずに、それを
乗り越えてゆくとき、
もうそれは
苦しみでは
なくなってゆく。
力に変わってゆく。
 
その続きが、
 
かけがえのない
自分の人生だもの、
人のせいにしないで、
自分の責任のもとに
引き受けて、
凛と生きて
いってみよう。
失敗したっていい。
 
(つまず)いたっていい。
二度や三度の失敗、
何も
恐れることはない。
躓いたら、
そこから
また立ち上がって
いけばいい。
 
まことに良い言葉が、実感して考えていらっしゃるわけですね。
 
大石: そうですね。やっぱり逃げたくなるんですけどね。逃げると一生逃げなくちゃならなくなるような気がするんですね。そして逃げているうちに、その苦しみというのはもっとどんどん膨らんでいくわけですね。でも逃げないで、今目の前にある小さなうちにそれを乗り越えていくと、それはもう乗り越えたら、それは苦しみではなくなっていくわけで、そういうのが結局生きる力になって自分の中に蓄えられる。だからとにかく逃げっぱなし―逃げてきたと私が言うのも変なんですけどね―逃げたいんですよ、やっぱりこんな苦しみと思うんですけど、やっぱり逃げないで、一回逃げるとどんどん逃げなくちゃならなくなっていくんですよね。だから「逃げないで」と、若い人には。特に若い人が味わう苦しみが、その若いうちに乗り越えて自分の力にしていって貰いたいな、と。もし私に子どもがいたら、そう言いたいなと、いつも子どもを前にすると思います。
 
金光: 非常に大変な経験をなさった大石さんが、そういうふうにおっしゃると、ほんとにそうなんだろうなと思わせられながら聴かせて頂きました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十五年二月三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである