禅書「うしかひ草」の教え
 
               永保寺僧堂師家 中 村(なかむら)  文 峰(ぶんぼう)
昭和五年(1930)、山口県生まれ。 昭和十五年、山口市洞春寺にて得度。昭和二七年、京都南禅僧堂入堂。柴山全慶老師のもとで長きに亘り参禅弁道、その法を嗣ぐ。一九七二年、南禅寺塔頭慈氏院住職に就任。翌年、二松学舎大学大学院博士課程修了。一九七八年、虎溪山永保寺住職・虎溪山専門道場師家。一九八一年、大本山南禅寺にて視篆開堂。二○○二年、臨済宗南禅寺派管長・南禅寺住職に就任。著書に「夢中問答:現代語訳」「臨済録物語」「法話 爛々たる瞳、燦々たる仏光」ほか。
               中部大学教授  柳 田(やなぎだ)  聖 山(せいざん)
昭和十一年(一九二二年)、滋賀県彦根市生まれ。臨済学院専門学校(現在の花園大学)、大谷大学、京都大学に学び、久松真一に師事してFAS禅運動に共鳴。中国禅宗史研究に於いて批判的資料研究を進め、資料が史実ではなく、その時代の要請によって製作されたことを見抜いた。また、博覧強記なことで知られ、不勉強な後輩を一言の下に教化し、大正大学教授を務めた天台教学の関口眞大と共に「東の関口、西の柳田」と称された。花園大教授をへて、昭和五一年京大人文科学研究所教授となり、六○年所長。のち中部大教授、花園大国際禅学研究所長をつとめる。中国禅宗史、禅文学が専門。平成一八年、八十三歳で死去。著作に「一休「狂雲集」の世界」「禅思想」「未来からの禅」ほか。
               医   師   杉 浦(すぎうら)  可 准(かじゅん)
               き き て   岩 村  就 司
 
ナレーター:  鎌倉末期禅宗寺院の庭園の姿を今に伝える虎渓山永保寺(こけいざんえいほうじ)。岐阜県多治見市(たじみし)にある永保寺は、臨済宗南禅寺派の専門道場として、今も若い雲水たちが修行しています。この永保寺の老師・中村文峰さんは、江戸時代の初めに書かれた禅の入門書『うしかひ草』を三百年ぶりに復刻されました。そして毎月一回、一般の人々を対象に開かれる坐禅会でも、講話を通して『うしかひ草』の教えを広めています。『うしかひ草』は、江戸時代月坡道印(げっぱどういん)禅師によって書かれました。中国宋代(そうだい)に表された禅書『廓庵十牛図(かくあんじゅうぎゅうず)』の思想をもとに、当時流行した仮名草子の形式を取り入れた入門書です。「ときはむつきのはじめつかた、春とはいへどなほさむけく、おりかけがきの梅の華も、ゆきいとふつもりて」と、どこか『徒然草(つれづれぐさ)』を思わせるような『うしかひ草』の文体が、当時の人々を惹き付けたのかも知れません。夢窓国師(むそうこくし)(鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧:1275-1351)が自然の景観を活かして作った永保寺の庭園です。その正面には鎌倉末期の唐様建築を伝える国宝観音堂があります。今日は、この観音堂の縁に座して『うしかひ草』の説く禅の心を伺おうと思います。
 

 
岩村:  文峰ご老師は、こちらにいらっしゃってどのぐらいになりますか。
 
中村:  そうですね。五十三年の十月からですから、八年未満ですか。
 
岩村:  非常にたくさんの方が今日もお見えになっているようでございますが、ここは立派な夢窓国師のお庭なんですね。ここで修行なさる方々はどうでしょうか、最近昔の修行とはちょっと変わったな、というようなご印象はございますでしょうか。
中村: まあ我々がしておった頃よりも、三十年も経っているわけですけれども、だけど内容は変わらないし、現代っ子でいろいろ批判もあるようですけど、自分がその中にやはり入っていけば、もう心情というものは、昔も今の変わらないように思いますね。
 
岩村:  柳田先生は、東大名誉教授でいらっしゃいまして、ついこの間から中部大学の方にお見えになって、こちらが近くになったんですけども、この永保寺はお見えになったことは?
柳田:  今日、初めてです。
 
岩村:  初めてですか。如何ですか、このお庭は?
 
柳田:  夢窓国師が草庵を結んでいらっしゃった跡なんですけどね。私は、夢窓国師とそのお師匠さまの仏国(ぶっこく)国師の語録の研究を通じて、予て深いご縁がありまして、是非お訪ねしてみたいと思いましたが、十年の念願が今日漸く叶った今です。
 
岩村:  それはよろしゅうございましたですね。さて今日お話を伺いますこの『うしかひ草』でございますが、ここにその原本とご老師が復刻なさいました『うしかひ草』がございますが、開けて見ますと、こうして絵がありまして、非常に親しみ易いものだなあという印象がございます。これを復刻致しましたのがこちらで、中村文峰ご老師が非常に分かり易い解説を付けていらっしゃいます。今日はこのお話をよろしくお願い致します。まずこの『うしかひ草』そのものは、簡単に言いますと、どういう趣旨のものなんでございましょうか。
 
中村: そうですね。『うしかひ草』の原本は、中国の宋代の『十牛図』という本なんですけれども、ご存じのように、禅は唐時代に興って、そして問答しながらその場で即決していくという、こういう記述するものではなかったんですけれども、宋時代になると、だんだんにそういうことを記述し出したわけですね。そして悟りに至る道というものを表現せよという、まあ一般の要求に応えたのが、この『十牛図』なんですね。
 
岩村:  入門書と言ったことですか。
 
中村: そうですね。日本には鎌倉時代から室町時代にかけて入ってきたんですけれども、それを今度徳川時代になりまして、仮名草子というのが流行りまして、半分そこにありますように絵になっておりまして、半分仮名が書いてある、そういう本がたくさん出まして、その形態を借りて江戸時代の初期に―寛文(かんぶん)九年(1669年)ですが、その時に月坡道印(げっぱどういん)禅師という方が書かれた本がこの『うしかひ草』なんですね。
 
岩村:  牛を飼うことに譬えて、禅への入門を書いてあるわけですが、これは柳田先生、庶民にとりましては、『うしかひ草』というのはどういうものだったでしょうか。
 
柳田:  絵があるということが非常な強みだと思いますね。元来そうだった。そこに今度仮名で説明していくということ、それから『十牛図』というのは、十枚のプロセスなんですけれども、この『うしかひ草』の場合は、十二段階ありまして、これを、しかも一年十二ヶ月という四季に分けていくんですね。配しているという点で、非常に一般に親しみやすいものになっている。そういう点が『十牛図』という題名よりも『うしかひ草』という、そのものずばりですね、題が変わった。そこが非常に魅力的なところなんです。ただ時代性というのがあると思いますね。
 
岩村:  その『うしかひ草』そのものを、これからご案内頂きたいと思いますが、まず最初は「心をおこす」というところからですね。これはどういう意味合いでございますか。
 
中村: そうですね。宋時代の『十牛図』の原典にはそういう章がなかったんです。最初「牛を尋ねる」という章からなんですけれども、『うしかひ草』では、特に「こころを起こす」ということと、「いゑ(家)をいづる」という二つの章が設けてありますね。これは、日本の方では「尋牛」牛を尋ねるということから入るのは大変難しいと。その前の過程として二つ置いたということは、月坡禅師の親切ではないかと思いますね。そして先ず最初に「心を起こす」。その中にありましたように、「いゑにつたふるひとかしらのうし、わぬしにさづく(ただ家に伝わっている一頭の牛をお前に与える)」と言って、父が子に牛を授けておる。ということは、お前たちも仏心を持っておるぞと。心牛を持っておるぞ、ということを、その場で教えておりますね。これは大変印象的ですね。
 
柳田:  牛というのは、インドでは聖牛ですわね。これはウバニシャッド以来、我々の祖先は牛であった、という考え方もございますし、中国では牛を殺して死刑になった例もあるくらいで、牛は非常に大事なものなんですね。日本でも、元来はそうだったと思いますが、ただ牛は非常に大事だということは、牛を飼う人間にとっても、それからこれを耕牛(こうぎゅう)として使うお百姓さんにとっても、大事な財産だと思うな。親父が、いわば遺産というかな、家を息子に譲り渡すという意味で、牛を一頭お前に授けるということは、次ぎにこの家を、この財産をお前に託するといったような、その当時の庶民にとっては、非常に重要な意味がそこに既に含まれていると。これは月坡禅師の非常に勝れた文学的、哲学的な手腕だと思いますね。そこから話を始める。ただ現代はもっと難しいですよ。大体牛があまりこの辺に見かけませんものね。牛と言ったら牛肉で、スーパーマーケットで皿の上に載っている、それを牛だと思っていますからね。
 
岩村:  そのことを理解した上で、いよいよこれから「家を出る」と。
 
中村: それで第二章に、「いゑ(家)をいづる」という章があるわけですね。我々すべてそうですけれども、何か決心しても、それを実行に移すということになるとちょっと逡巡(しゅんじゅん)するんですね。その決心する心理的な過程というものを、「家をいづる」という章を設けて、そして「かしこくもいづるものかな、ほいとげて、とうよ(健気にも出発を決定したものだ。志を遂げて早く帰って来い)」という文章が中にありますけども、早く目的を果たして帰って来いよと、父が子どもに言っているわけですね。「ほいとげて、とうよ(志を遂げて早く帰って来い)」と。今から出発します。早く目的を果たして帰って来いよという父親の心がそこに表現されておって大変面白いと思いますね。
 
岩村:  修行の場合でも、いよいよ家を出るという。厳しいでしょうね。
 
中村: そうですね。ここに修行僧がいよいよ僧堂に入るという時も、やはり大変な決心がいることでありまして、身支度をして、入り口で「庭詰(にわづめ)」と言いますけども、二日間ほど「頼みましょう!」と言って、頭を下げて、そして決心をすると。それから五日間ほど一つの部屋で「旦過詰(たんがづめ)」というのをやって入門するわけですけども、それだけのことをする。まず決心が大変でありますね。
 
岩村:  一週間という過程があるわけですね。
 
中村: そうですね。
 
岩村:  なかなか簡単には進めないということですね。
 
中村: そうですね。現在の入学試験とはちょっと違います。まず忍耐と言いますか、耐えるということを教えるということが、現在も先ず耐えるということが大変欠けているんじゃないかと思いますね。そして修行に対する熱意を見せると言いますか、そういうのがこの修行の一番最初の段階ですね、入門の段階ですね。そして入門しますと、一定の人数が集まって「総茶礼(そうされい)」というのをやりまして、「今からやるぞ」と。「しっかりやれ」という儀式をやるわけですね。
 
岩村:  これがいよいよ修行の第三段階になりますと「うし(牛)を尋ぬる」、
 
中村: 「師を尋ねる」という段階になりますね。
 
岩村:  そしてその後が第四段階は、「あと(跡)を見る」とございますが、これは?
 
中村: これは『十牛図』の原典の方では、いろいろな本を読んだり勉強をして、そして足跡を見ると。けれども、足跡であって、これは本物ではない。牛そのものではない。多くの本が―この『うしかひ草』もその一つでありますけども―禅そのものではない。本物ではない。足跡に過ぎない。けれども、それを一応勉強して通るというのが、この「足跡を見る」という段階ですね。
 
柳田:  足跡は牛ではないけれども、牛が付けた跡だからね、それを伝って行けば必ず牛にぶっつかる。入門というのは、そういうものなんですね。先どこへ行くかわからんじゃなくて、ここへ行けば必ず目的が達成できるという決意。やっぱり足跡を見付けたということは大変な喜びだと思いますね。
 
岩村:  振り返って、現代社会の中で、いろいろな方面で跡を見るという精神的な修行と言いましょうか、どうお考えですか?
 
柳田:  今は情報過剰で、足跡が仰山ありまして、どれがどの牛の足跡かわからんようになっている。これは必ず牛に行き着くんだという決意なり、信念というものが、そこで固まるということが大事だというのは、現代ではあまり多すぎる。これをやっぱり目掛けていかないといかんと思いますね。だからどういう学門をするか、どういう修行をするかという。大変失礼だけれども、僧堂でこの老師様に就いていけば間違いないという信念が、師弟の決意というかな、そこでできるんでね。なかなか縁というものは難しいものだと思うな。
 
岩村:  さて、そして第五段階が「うしを見る」。
 
中村: いよいよこういうもんだという、一つの仏心の形を見るわけですね。これを多くの本では、尻尾になっていますが、先生が持って来られた天理本では、頭になっておりますが。
 
柳田:  牛の方から顔を出して見に来るという。これは、お師家さまの大変な、
 
中村: この方が面白いと思いますけどね。
柳田:  弟子の方も足跡を追って行くしね。そうすると、先生の方もやっぱり向こうから迎えに来るわけだな。
 
岩村:  尻尾ではつい見落としがちと言いますか。
 
柳田:  いや、尻尾でもいいんだけれども、顔があるというのは面白いと思いますね。これ漫画だから。
 
中村: そして第六段階が「うしをう(得)る」と。曲がりなりにも自分のものにするという段階になりますね。これは我々の方では、禅堂で坐禅をしておって、その中で一つの形を自分のものにする。「静中(じょうちゅう)の工夫」と言いますけども、静かな中の工夫と言いますけども、これが「牛を得る」というところですね。
 
柳田:  修行というのは生易しいものじゃないからね。学校は比較的制度化されていますけども、ほんとに師と弟子の出会いという、それから呼吸というのは、何年やってみても難しいものだと思いますね。野原に飛び出して行って野生に還(かえ)った牛を捕まえるという、そういう意味もございますし、それから牛の方が弟子を厳しく鍛えるというかね。ですからそこの呼吸が合うというのは大変難しいこと、そこが真っ黒だという。真っ黒な牛というイメージになるんじゃないでしょうか。
 
岩村:  これがお寺ですと、坐禅の段階ですね。
 
中村: それから第七段階が「うしをか(飼)ふ」。今度は「動中の工夫」と言いますか、我々が托鉢しておっても、また作務(さむ)をしておっても、いわゆる日常生活においても、自分の得たものが動かない。信念が動かないという段階が、この「牛を飼う」というところですね。
 
岩村:  そういう動きの中での工夫ということですか。
 
中村: そうですね。
 
柳田:  絵で、これ背景に山があるのかな、なんかそういう背景が見えてくるという気分もあるんじゃないかな。それから牛が半分白くなっているわけだ。呼吸が完全に合って、周りの様子も次第にこうわかってくる。
 
中村: 綱も、さっきは真っ直ぐ張っておったんです。今度はちょっとゆったりなってますね。まだ縄を離すわけにはいかないけれども、縄がたらんと垂れていますね。
岩村:  さて、そして第八段階になると「うしにの(乗)る」。
 
中村: 「牛に乗る」という。そうすると、坐禅でも日常生活もすべて自分のものになるというところが、この「牛に乗る」というところですね。
 
岩村:  そしてそういう段階を過ぎますと、いよいよ今度は第九段階「うしを忘るる」。
 
中村: 「忘るる」という段階になりますね。そうすると、今まで他に求めておった心牛―仏心が、自分の心のうちにあったんだ、ということに気がついて、そして牛というものが画面から消えてしまうわけですね。
 
柳田:  これお月さんがさっきから山の上に出ているんだ。こう景色が次第にはっきりして、そのお月さんの光りに照らされて場面が展開していくという。なんか日本人の情緒に合ったようなもの、やっぱり江戸時代の草子(そうし)としての特色が非常によく出ているし、禅の修行というものの呼吸を上手く表していると思いますね。廓庵の『十牛図』の牛に乗る方の絵は、牛がほんとに喜んでいるんですよ、牛飼いが背中に乗ると。牛の方が喜んでいるんだ。そういう絵になっていますね。これが月坡禅師の『うしかひ草』の方では、周囲のそういう景色の穏やかさといったものによって非常に上手く表されていると思いますね。
 
岩村:  牛そのものは、心の牛とおっしゃいましたですね。第十段階は「うし人ともに忘るる」。
 
中村: それは最後は何かというと、牛と人と倶(とも)に忘れた次の円相の世界になってくるわけですね。これが禅の究極に求めるものであり、真理であり、そして仏心であり、仏性であるわけです。もともと表されるものでないものを、こうして一つの円で表されているわけですね。これが求めるところのものであって、中に含まれているものは、ただの何もない―いわゆるナッシングというんではなしに、その後の十一番目の「家にかへる(還る)」、十二番目に出てくる「いちくらに入る」(〈「いちぐら」とも〉奈良・平安時代、市で取引のために商品を並べた所)というのを含んだ何もない世界なんですね。
 
柳田:  『十牛図』にしても、『うしかひ草』にしても、一番大事なところですし、それから『うしかひ草』の場合は、特に一番始めから円の中にずっと景色がございましたですが、中が完全に消えて、ここで枠が出てきたという。今までは中の景色に気を取られていたんですが、初めて枠というよりは、本当の全体が見えるという。私は、文学的な発想としては、先ほどから空に出てきたお月さんが、ここで完全に姿を現したところだと思いますけれども、面白いのは中国人の月の理解というものは、満月が我々の頭上にまいりますと、完全に姿が消えるんですよ。月だけじゃなくて、その下にすべてが影を失う一瞬って、ほんとに一瞬というものが、満月が真上に上りますから、その真下に立てば前後左右何もないという。そういう瞬間を、この満月という文学的なイメージで、私は表していると思います。先ほどから牛も人も居なくなったと言っておりますが、まず牛と言ったけれども、親父がくれた財産というものは、牛だったんですが、本当は一番大事な財産は「お前自身だ、息子だ」と。その子どもが、ここで満月に照らし出されて、牛が消えただけでなくて、本人が今までの前後ろのあるような影を一切消して、煌々(こうこう)たる満月に照らし出されて突っ立っているというかね。ナッシングなんだけれども、そこにやっぱり具体的な宝物が光っているという気持ちが、『十牛図』には始めからずっとあるんだと思うんですね。『うしかひ草』は、そこをはっきり捉えている面白いところだと思います。それを一般民衆にわからせようとして苦労していると思いますけど。
 
岩村:  その段階でもう終わるかと思いましたら、その後があるんでございますね。
 
中村: そうですね。「家に還る」と。その得たものを、自分のものにして、もう一度働かすと。『うしかひ草』の原本の円相のところでは、「ちどりの、かよふみちすらたふるばかりなり(千鳥の鳴き通う路すら途絶えがちの寒さである)」というのが書いてありますけども、絶対否定のところを表現しながら、また同時にこういう現実世界を含んでおるというのが「家に還る」というところですね。『十牛図』の原典の方では、「水自茫々花自紅(水自ずから茫々(ぼうぼう)、花自ずから紅(くれない))」と書いてありまして、自然、景色だけが描いてありますね。
 
柳田:  名月というのは一瞬のものですわね。必ずまた影が出てくるわけで、その影の面白さというものを、「家に帰ってくる」という、そして「休む」という、そこへ月坡禅師はイメージ化しているんだと思いますね。
 
中村: 最後はその得たものを持って、先ほどは「家に帰る」。自分がそれを受け用いて働いたわけですけども、今度は対社会に働くというので、「いちくら」というのは、街の意味ですかね。
 
柳田:  街ですね。市場とか、街とか、(〈「いちぐら」とも〉奈良・平安時代、市で取引のために商品を並べた所)。
 
 
中村: そういう中に入って行ってですね、円相の世界を積極的に社会に働くというのが、この十二の「いちくらに入る」というところですね。
 
岩村:  ところで、ご老師、この『うしかひ草』との出会いはどういうことでございましたか。
 
中村: そうですね。『十牛図』を昭和十六年に柴山(しばやま)老師が本に出されまして、それから二十八年、三十六年、三十八年と三回の再版を重ねまして、昭和三十六年に一般の人に毎月一回講話をなさっておりまして、その時に『うしかひ草』をこの年はやりたいというので、「お前、テキストを作れ」と言われたものですから、柴山老師が写本された本をお借りしまして―柴山老師が昭和十六年に出された時に、昔の古い本を写しておられたんですね―その本をもとにしまして、現代風のテキストを作ったんです。その時に『うしかひ草』というものにほんとに取り組むようになりまして、月坡禅師とか、その経緯に触れたわけでありますね。
 
柳田:  私も『十牛図』は長いご縁なんですが、『うしかひ草』と柴山老師のご縁も、今度特にこちらの老師がこれをお作りになることにも深く関わってくる。そもそもやっぱり柴山老師からすべてが出ている。
 
岩村:  柴山老師とおっしゃいますと、南禅寺のお師家さんでしたですね。
 
柳田:  宗門の徒弟の教育機関として創設された臨済学院専門学校(昭和二十四年に花園大学に昇格)と言っておりました、その当時小さな宗門学校でございますが、そこで講義をなさっております時に、私、お世話になって、そして最後はとうとうご老師のご自坊の慈氏院(じしいん)という寺に書生のような形で住まわせて頂いて、いろいろ教えを受けたんですけれども、まあ『十牛図』と言えばもう柴山老師ですね。しかも歴史的に辿っていきますと、日本にこの『十牛図』という、つまり『うしかひ草』の原本になっているものを日本に紹介し定着させたのは、夢窓国師だと思いますけども、今回また夢窓国師のご縁でこちらに伺いまして、私には感慨無量です。古くは夢窓国師、それから近代では柴山老師という。そして『十牛図』のご縁というものを、改めて今噛みしめているところなんです。そして夢窓国師と柴山老師という方がなんか重なってくるんですよね、私にとっては。なんか激動の時代を生き抜かれた二人の祖師という。そして常に『十牛図』に一つの哲学というものを掘り下げていかれた。体系付けられたという感じが、私に致しますね。
 
岩村:  ご老師、柴山全慶老師は、どういうような人だったとお考えですか。
 
中村: そうですね。「いつも世界的視野に立ってものを見よ」というような人でして、先ほどの『十牛図』も、昭和六年には早くもエスペラント語(エスペラントは一八八○年代にラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフによって創案された。ザメンホフは世界中のあらゆる人が簡単に学ぶことができ、世界中で既に使われている母語に成り代わるというよりは、むしろすべての人の第二言語としての国際補助語を目指してこの言語をつくった)で発行されたんですね。そしてそれは有名な本でありまして、さっき柳田先生もおっしゃっていますけれども、戦争中に「戦争がいつ終わる」というようなことも、エスペラントの雑誌を取っておられましたからわかっておられたんですね。だから先生が、「兵隊に行く」と言ったら、「犬死にするなよ」と言われたという。
 
柳田:  書生としてお世話になったのは、昭和十九年ですけれども、もう戦争末期、敗戦色濃いんですが、ただ私もまだ若うございまして、ほんとに「お国のために死にたい」と思って、そういうことを申し上げましたら、老師に怒鳴りつけられて、「この戦争は来年で終わりだ。これから世界に叩き付けられた日本が立ち直っていくのに、一体何が残る」とおっしゃってね、「禅以外ないじゃないか。禅の勉強をするんだ。いろんな修行の仕方、勉強の仕方があるけども、お前は大学に行け。鈴木大拙が大谷大学にいる。大拙先生の教えを受けろ」と言われたんですね。国のために死のうと思っていた私を、なんか学校へ引き戻して頂いたのが、柴山老師という。
 
中村: 戦争が済んで、二十三年に南禅寺の僧堂に入られた。常にそういう広い視野で生きておりまして、三十四年に管長になられたんですけども、四十年からは毎年アメリカの方に布教に行っておられて、四十九年に亡くなられたわけですけどね。ずっと四十年から毎年行っておられた。それが六十、七十歳にもなってからですからね。だからもういつも姿を思い出しながら、自分を叱咤激励しているわけなんですけども。
 
柳田:  心を語る集まり―「語心会(ごしんかい)」というのがあって、これが戦争初期から一番激しくなる頃までずっと続いていたと思います。「心を悟るんじゃなくて、心を語るんだぞ」と言ってね。柴山老師の場合には、やっぱり心を語るというのは、本音を語ること。戦争のあの激しい時代に、いわば日本の無謀な軍の独走というものを見通して、その先をどうなるかというような、それこそ少数の憂国の士の集まりが「語心会」だったと思いますね。そういう日本の文明・文化、日本の現実というものと、将来というものを見通す目というものが、エスペラント語による『十牛図』によって世界に禅を語りたいということと関係がありまして。そして『十牛図』について、私、もう一つの興味深いのは、団扇を作ることをやっていた。十枚の団扇を一セットにして、一つずつ絵を描いていた。大変気持ちのいいものができる。ちょっと風流でいい。一方から考えますと、団扇をみなさんに見せるために、カムフラージュというか、語心会というものの正体を特高(とっこう)(特別高等警察の略)から消すためのなんか団扇を作っているんだという会だといったような感じをみなさまに与えつつ、日本の将来というものが、そこでかなり深く掘り下げられていった。それに『十牛図』というものが関わっていると思いますね。『うしかひ草』もほぼこれと平行していると思いますが。
 
中村: そうですね。
 
岩村:  そういう時代だから非常に苦労なさったんでしょうね、そういう関わること自体。
 
中村: 学問的にやりたいということとともに、現実への実践というものが、この『十牛図』というものの基本的な狙(なら)いですのでね。この『うしかひ草』のことで面白い話がありまして、老師がこれを古本屋でもうちょっとで手に入るところを逃しちゃってね。で、売れた先を追っかけて行って、買い戻そうとなさった。相手は売ってくれないので、とうとう貸して頂いて、そして自分の手で一枚ずつお写しになった。それほど『うしかひ草』への執念というものが感じられますね。
 
岩村:  先ほどの『十牛図』へ執着なさったのは、どういうことでございましょうか。
 
中村: 禅は、そのものずばりでいいんですけれども、普及する段階においては、この本が一番いいと。いろいろ初心者向きの本もありますけれども、この本が一番妥当だと判断されたんでしょうね。特にこの絵があるので。
 
柳田:  漫画だからね。必ず禅に関心を持てば『十牛図』から入っていく。そして絵があるという点で、この本が一番共感が持てますし、それから第一外国人に禅が何かということを伝えようとすると、言葉の問題もあるけれども、絵があるでしょう、ずばりと入っていける。そしてお互いが自分で考えることができるんではないでしょうか。
 
岩村:  柴山全慶ご老師は、円相に格別のご関心をお持ちだったとお伺いしましたが。
 
中村: そうです。『十牛図』の研究をしておられますと、当然中にあります円相に興味がいくわけで、そして円相をたくさん集めておられまして、終いにはついに本にされました。これはこの前亡くなられました妙心寺の管長をしておられました古川大航(ふるかわたいこう)(臨済宗の僧。妙心寺派二十二代管長。昭和二七年管長となり世界各地を歴訪して活発な教化活動を続けた。昭和四三年寂、九七才:1871-1968)さんの九十六歳の時の円相で、非常に力強いですね。
 
柳田:  「いろはにほへと」とか、これは誰にもわかる。
 
中村: これは白隠禅師の弟子の東嶺(とうれい)禅師という方でありまして、力強い円相ですね。「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」(釈尊誕生のときの第一声、悟りの人格実現のときの第一声でもある)ですね。これは仙(せんがい)(江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家:1750-1837)禅師の「是(これ)くふて茶呑むさい」ですか、洒脱な円相ですね。饅頭に譬えて、是(これ)というのが饅頭なら、同時に我々が持っておる仏心であって、それを自分のものにしてお茶を呑みなさい、という。
 
柳田:  『十牛図』のエッセンスというものが、要するに一枚の円によって、円相図というものになってくる。これは十牛であると同時に、禅そのものの一枚のシンボルということになってね、まあこれぐらいわかりやすいというか、手っ取り早いものはないじゃないかね。それから円相を紙に書いて喜ぶというのは、中国にはないんです。ありそうなのになくて、日本だけですね。
 
岩村:  そうですか。
 
柳田:  大体室町以前にはほとんどありません。近世ちょうど『うしかひ草』と並ぶ時代に円相は非常に増えていくわけですね。
 
岩村:  円相、これは勿論四角ではいけないわけですね。何故円なんですか?
 
中村: 今古いのには、龍樹(りゅうじゅ)尊者という人が月の中に入って説法したと。説法をこういうふうに声を出すと月だけしか見えないと。そうして説法が終わると形が見えて月は消えるというように、真理を現すのにも、昔からそういう月に関連しますけどね。さきほどおっしゃったそういう一つの円というか、
 
柳田:  その円と真理・悟りというものとの繋がりはどうなんですか?
 
中村: 真理というものは表現できないもので、体得するものだと。体得するものであるけれども、なんらかの形で伝えるというので、一番いい形として円をもってきたわけですね。だから円を描いておって、ナッシングではない。すべてを含みながら、そして「太極の如し、空虚である」ということを表現するのには、円が一番妥当なわけですね。
 
柳田:  「太極」は、つまり天のことなんで、天が丸いという。そしてもう一つは、天を見る我々の目というものが円いんですよね。それで腹を立てたら、悲しいことになると三角の眼になったり、四角の眼になったり、多角形になるわけですけれども、やっぱり円い眼というものに戻ってきて、初めて我々の気持ちというものが落ち着いてくるんじゃないでしょうかね。円という。なんか廓庵の『十牛図』というものは、初めから十枚の円で、しかも周りが真っ黒で、中が白抜きになって、そこにさまざまな景色を現すという発想というものは、版画の手法ということもあるけれども、非常に考えたものだと思いますね。ですから廓庵の場合の八番目「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」というものは、なるほど円があるけれども、円い窓があるだけであって、円はないんですね。円を描いたわけじゃないんだ。やはり目が開くという、こういうところを上手く現していると思いますね。そして九番目「返本還源(へんぽんげんげん)」で、「花が散り水が流れる」というところがありますし、十番目「入?垂手(にってんすいしゅ)」で布袋さんが街に―これは『うしかひ草』では「いちくらに入る」ということなんですが、この円というものを、この変化というのは非常に特色のあるもので、これを一枚にすると円相だし、それから哲学というものを説明しようとすれば、この三枚が、いわば一種の禅の三位一体論というんで、神学というか哲学というのが、すべてここに収まると思いますね。しかもこの廓庵の八、九、十番というものを、そういう禅の発想とは関係なしに、現代の精神医学の立場からこの問題に深い関心をお持ちになって、実際に治療・医療の上で非常に高い成果をおあげになっている杉浦可准(すぎうらかじゅん)さんという方が、今日ここにお出で頂くことができました。
杉浦:  どうもありがとうございます。
 
柳田:  前にお会いしてから何年になりますかね。
 
杉浦:  記憶にないんですが、十五年ぐらいになるんじゃないですか。
 
柳田:  学園紛争では、私がまったく精神的な異常な状況に、自分自身の状況もあって、杉浦さんの治療というものの話を聞いて非常に衝撃でございましたね。
 
岩村:  どういう治療をなさっていらっしゃるんですか。
 
杉浦:  ここにこういう紙がありますが、日の丸が書かれたこの紙を一枚患者さんの前に出しまして、
 
岩村:  どういう患者さんですか?
 
杉浦:  分裂病の方とか、神経症の方とか、鬱病もありますけれども、勿論知恵遅れの方もいますけども、こういうふうに出しまして、ここに自分の名前と生年月日と今日の日付と、そして自分の家族と、学校へ行っていたら学校、職業があったら職業を書く。その人のすべてが出ちゃうんですね。そして初めて、「円の中に何かを―絵でもいいし、字でもいいから書きなさい」という指示をする。それによって病気自体―勿論インタビューもしますが―病気自体がわかる。そしてその病気の変化を、書かれたものによって変化がわかっていくというんで非常に面白いと。
 
岩村:  どういう経過を辿りますか?
 
杉浦:  これは分裂病の例ですけれども、最初は非常に「ここに書きなさい」と言っても、もう無茶苦茶なんですね。その枠から外れてしまい、無茶苦茶になってしまう。それで無茶苦茶でその円が見えないですね。そして少し落ち着いてきますと、そこに文章的なものが出てきて、やや神経症的な症状が出てくるわけですね。それもだんだん良くなってきていろんなものが出てくる。花が出てきたり、また人物も出てきます。その人物の中に私も入っているんだそうですけども。
 
岩村:  たくさん小さく人物が出てきますね。
 
杉浦:  最後に非常に良くなって、いわゆる「寛解(かんかい)」という言葉を使いますけど―「治った」という言葉は使いません。そうなりました時には、こういう姿で自然があり、その中に人が入っている。まったく自然と一体化するという。そしてその時に初めて「寛解した」という、そういう言葉が使えるんですね。そのきっかけというのは、私、何かないかというので、最初気が付いたのは、実は日の丸だったんです。白い紙に円を描いて、そしてそこに何かを書かせようと思ったんです。それでは一体円というものの意味は何だろうか、ということから始めたわけです。そしていろいろな書店へ行ったり、本を読んだり、いろいろして、今ちょうど花園大学の学長になっていらっしゃる立花大亀(たちばなたいき)(臨済宗の僧。大徳寺塔頭徳禅寺長老。大徳寺派宗務総長、花園大学学長を歴任:1899-2005)老師にお会いしまして、「先生、円は何ですか?」とお聞きしたら、「始めなく終わりなく、満ることなく欠けることなし」と言われて、最後に老師は、「黙っておやり」と。それだけ言われたものですから、黙ってやりました。これが分裂病であろうと、神経症であろうと、みんな一緒なんです、最後は。それがやっぱり「黙ってやれ」ということの一つひとつかな、ということで、人間というものはそんなものじゃないかなということがわかったような気がしたんですけどね。ある程度格好がついてきまして、柳田先生にお会いして見て頂こうと見て頂いた。
 
岩村:  こういう方式はどこにもないわけでございますか。
 
杉浦:  聞いたことないですね。
 
岩村:  柳田先生、これはどういうふうにお取りになったんですか。
 
柳田:  十牛とおよそ関わりなしに、お考えになったその方法と、その治療の段階が完全に『十牛図』に、特に廓庵の八番目「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」、九番目「返本還源(へんぽんげんげん)」、十番目「入?垂手(にってんすいしゅ)」というものに合うんですよね。非常な驚き、ショックでしたね。今日、今回は八、九、十番を細かく考えていく時間はもうなくなっておりますけれども、元来この作品を考えた廓庵が、宋代の時代において、深刻な社会情勢の中で―宋代というのは、決して安定した社会ではなくて、北の方から異民族が絶えず脅威の状況にございます。そういう中で、その時代の文明を背負わなければならない知識人たちは、自分自身にこう引っ込んだり、あるいは非常に極端な主戦論、勇ましいことを言ってみたり、すべてが一つの分裂的状況の中にあるものに対して、円によって精神というものを見直そうというような発想が、漢文の説明を読んでみますとあるんですね。それから杉浦さんの実験というものとピタリ合いましてね。『十牛図』というものは、私は柴山老師から教えられたんですけれども、あまりにも現代というものにそれが重なってくるということに改めて驚きまして、少し調べてみたいというのが、私のもう一つの出発でしたね。
 
岩村:  『十牛図』の中で、街へまた入って行くという部分がありますが、それは現代にどういうことを問い掛けているんでしょうか。
 
柳田:  牛が日常お目にかかれない動物になっているのと同じように、自然というものもこんな花が散り、水が流れるというのも、やはりそのつもりで出掛けていないとちょっとこの辺でということはあり得ない現代ですよね。まして街角でいやぁいやぁと出会って話しかけ、自分の思いを語り、と言ったようなこともできない現代ですね。それをどうしても取り戻さなければならないという一種の異常な心理の中から、我々が立ち直っていくためには、やはり『十牛図』の八、九、十番というのは、非常に大きい示唆を与えてくれると思うんです。それをまさに精神的な疾患をもっている病人に、具体的に治療していらっしゃる杉浦さんのお仕事というものは、別に『十牛図』の現代版ということだけではない、もう少しもっと大きい現代というものを問い直して、そしてそこに新しい未来を、人間の可能性というものを、取り戻していく道なり、ヒントを掴むことができるんじゃないかと思いますね。正常だ、健常だと思っている方が、むしろいわばあの円を見て、なんとも思わない方が、むしろ異常でしてね。そういう疾患を持つが故に、そこにむしろ人間が近代見失ったものへの応答というものを試みて、次ぎに自分で克服して、最後にああいう牧歌的な自然と社会というものに復活、復帰していくように、それ円と付き合うということを通じて、現代生きていくということ以外にちょっとなさそうだ。
 
岩村:  さまざまなご紹介頂いた『十牛図』等の中で、日本人が廓庵の『十牛図』を選んだ。それが今日今まで続いている禅に基づくさまざまな文化とやはり関わりがあるでしょうか。
 
柳田:  何か完全なるものから、もう一度不完全な凡夫に戻ってくるという、そういう発想が廓庵の『十牛図』にもありまして、これが日本人、元の凡夫に返って、そこから新しい現実と将来を出直していくといったような意味があるんではないでしょうか。それから美的なものとしては、美意識としてはいわば均整の取れた、いわゆる美しいものよりも、むしろどこか欠けている、歪になっている、それから汚れているといったような日常茶飯の不均整―均整の取れないものの中に、むしろ最高の心の落ち着きが表現されて美しいものになっている。それは均整の取れた美しさとは違った、やっぱり高いというよりは深い落ち着きというものを、中世日本人は見付けだして、石庭ですとか、水墨とか、それから文学というものも、やはりそういう意味を守っていると思います。茶道もそうですね。何かそういう不均整の美しさというものを新しく作りだした。これは現代問われている日本文明の新しい可能性というものを、まだまだ応える力があるんじゃないかと思いますね。
 
岩村:  今日、お邪魔しているこの永保寺の庭園も、今お話の禅文化の一つの結晶したものだと思いますが。
 
柳田:  まさしくこれは、『十牛図』の造形だと思いますね。そして夢窓の庭には必ず坐禅石があるんですよ。ここはどこに?
 
中村: あの上にありますが。
 
柳田:  あの高いところ。あそこから心を見下ろすという形なんですね。禅寺の庭に坐禅石があるのは、修行道場だから当たり前だという発想がございますけれども、夢窓という人は、ああいう政治的な激動の時代を生き抜いた人なんで、坐禅石というものも、やっぱり一種のシンボルになっていて、それを造形化し、視覚化したという禅を、これまさしく『十牛図』あるが故という感じがしますね。要するに歴史は生き抜く場所が坐禅石で、しかもそこが自然であり、そこから見られた現実社会というものが、常に夢窓には問題になっていくんだと思いますね。高いところに坐禅石を作って、庭全体が眺望できるような視覚というものは、如何にも夢窓らしいですね。
 
岩村:  今日は、ずっとご懇切なお話を賜ったんでございますが、最後にこの『十牛図』、あるいは『うしかひ草』が今日に語り掛ける、どんなものが一番大事だと語り掛けているんでしょうか。
 
中村: 夢窓国師にしろ、『十牛図』にしろ、結局は「仏心に目覚めよ」ということが、「円相に目覚めよ」ということですから、夢窓国師がここへ来られた時に、この観音堂を最初に作られたわけですね。これが夢窓国師の円相であり、そしてこの橋を渡って、この橋の向こうは現実社会なんですね。それがいちくらに入るところなんですね。だから夢窓国師は、この円相を観音堂で示し、そしてこの橋を渡っていちくらに入られたわけです。それを現代に当て嵌めれば、宗教の世界にもう一度現代人が眼を向けて、そして広い心をもって現実社会の生活の上に心の触れ合いを持つということが大切なんじゃないでしょうか。これはまた『十牛図』『うしかひ草』を現代に活かすということに繋がるんじゃないでしょうかね。
 
岩村:  どうも今日はほんとにありがとうございました。
 
     これは、昭和六十一年八月三十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。