「あの日からのマンガ」を読む
 
                    漫画家 しりあがり 寿(ことぶき)
一九五八年、静岡市生まれ。本名は望月寿城(もちづきとしき)。一九七七年、静岡県立静岡高等学校を卒業し、多摩美術大学に入学。一九八一年、麒麟麦酒株式会社に入社。ハートランドビール、一番搾りなどのマーケティングを担当しつつ、漫画を描き始める。一九九四年、同社を退社。二○○○年、『時事おやじ2000』、『ゆるゆるオヤジ』により第四十六回文藝春秋漫画賞を受賞。二○○一年、『弥次喜多 in DEEP』(エンターブレイン)で第五回手塚治虫文化賞「マンガ優秀賞」を受賞。二○○二年、朝日新聞夕刊にて四コマ漫画『地球防衛家のヒトビト』を連載開始。二○○二年、『流星課長』(松尾スズキ、小日向しえ)が庵野秀明によりショートビデオ化。二○○五年、『真夜中の弥次さん喜多さん』(長瀬智也、中村七之助主演)が宮藤官九郎により映画化。横浜美術短期大学で漫画論の講師もしていた。二○○六年、静岡市葵区のPRキャラクター「あおいくん」をデザインする。二○○六年、神戸芸術工科大学メディア表現学科特任教授に就任
                    ききて 斎 藤(さいとう)  環(たまき)
 
ナレーター:  去年十二月七日、三陸沖を震源とするマグニチュード7・3の地震が発生しました。漫画家しりあがり寿さんの事務所がある東京渋谷は震度4を観測しました。
 
しりあがり:  これ三陸沖というから、やばくない? これだけ揺れるんだから。
 
テレビ:  東日本大震災を思い出してください!急いで逃げてください!命を護るため急いで逃げてください!
 
しりあがり: 気持ち悪うなってきた。
 
事務員:  ちょっと思い出してしまう感じがしますね。
 
しりあがり:  うん。ほんとに。
 
ナレーター:  二○一一年三月十一日も、しりあがりさんはこの事務所にいました。その三日後、三月十四日の夕刊です。しりあがりさんの連載マンガ「地球防衛家のヒトビト」が掲載されています。被災の様子を伝えるテレビに身を寄せ合い、見入る家族。大震災の翌日に描いたマンガでした。
 
しりあがり:  そうですね。この時はもうとにかく起こったことを描かないといけないと思ったんですけど、それに対して何か落(おち)を付けるとかね、なんか気の利いたことをいうとか、とてもじゃないけど、そういう状況じゃないんで、もう状況がわからないというかね、その不安な感じをそのまま描くしかないなという、そんな感じでしたね。
 
ナレーター:  右往左往する主人公は、しりあがりさん自身の姿です。
 
しりあがり:  これ、まだ三月十六日になっているということは、三月十五日ぐらいにけっこうくだらないことを考えているなと思って、案外やるな俺、みたいな。
 
ナレーター:  直接の被害は免れても、大震災はそれまで当たり前のように続けてきた日常を大きく揺さぶりました。
 
しりあがり:  夏ぐらいまで、震災という蝉がこう頭の後ろに留まっていて、なんかいつでも鳴いているような感じ。なんか「シンサイ(震災)・シンサイ・シンサイ・・・」「ホウシャノウ(放射能)・ホウシャノウ・ホウシャノウ・・・」と鳴いている蝉が頭の後ろに留まっているような感じで、頭から離れなかったですね。
 
質問者:  地震の時は、現地に入られたんですか?
 
しりあがり:  いや、僕はないです。結局カメラさんとか、音声さんが一番大変なところへ行ったりしますよね。
 
ナレーター:  しりあがりさんは、大地震をテーマにして描いたマンガは、四ヶ月で七十にのぼり、一冊の単行本に纏められました。『あの日からのマンガ3・11』、そしてそれ以降の日々に、漫画家として何を考え、どのように表現してきたのか。しりあがりさんの模索を辿ることができる一冊です。
 

 
斎藤:  失礼します。
 
ナレーター:  岩手県出身で精神科医の斎藤環さん。斎藤さんと共に『あの日からのマンガ』を読み、しりあがりさんの目に映る震災後の世界を聞いていきます。
 
斎藤:  四コマですから一応落(おち)を付けないといけないとか、笑いをとらなければいけないとか、そういう制約は逆にきつくなかったですか。
 
しりあがり:  そこは「地球防衛家」の主人公を笑うとか、主人公がなんか失敗しちゃうとか、そういうふうにすれば地震だとか、そういう対象を笑うというよりは、自分自身のダメさを笑っていれば、なんとかなるかなみたいな。
 
斎藤:  もう直後には、震災をテーマに当分やっていこうという?
 
しりあがり:  当分も何も描かざるを得ない。なかったかのように描けないですよね。
斎藤:  渦中にある形で描かれていますよね。
 
しりあがり:  相手が大きすぎてほんとに象の尻を撫でるのが精一杯みたいな。いろいろなことがわからないんで、その時描いたことが、次の日否定されるかも知れないし、でも毎日変わるから逆に毎日描かないと忘れていってしまうみたいな。
 
ナレーター:  あの日からのマンガには、四コマの「地球防衛家のヒトビト」に加え、大震災後の世界をテーマにした読み切りの物語が収められています。「海辺の村」。舞台は大震災から五十年後、人々は太陽エネルギーに頼って慎ましく暮らしています。石油は枯れ果てようとしていました。大震災の後に生まれた子供の背中には、羽が生えています。子どもたちの遊び場は原発です。廃墟となった原発の周りには、風力発電の風車が無数に立ち並んでいます。この物語を、しりあがりさんは、大震災直後の三月末に描き上げました。
 
斎藤:  子どもに羽根が生えていますよね。これも取りように取りようによっては放射線の障害みたいな読み方をする人もいるでしょうし、一方では被害者の希望の象徴として取る人もいるでしょうし、やっぱりこういう発想はどこから出てくるのかという。
 
しりあがり:  結局のところ、人間は強いんじゃないかみたいなことですよね。貧しくなろうと、放射能が漏れていようと、何が起こってもなんとかなるんじゃみたいな、自分がその環境に適応していくんじゃないかみたいな。恐竜が鳥になったようなもので、それはもしかしたら人間と言えないかも知れないけど、それでも命というのは繋がっていくんじゃないかなというのが、そこが希望ですね。
 
斎藤:  直後の感想でいいんですけど、これをきっかけにこの社会ががらりと変わってしまうと思われました? それとも大して変わらないだろうと感じました?
 
しりあがり:  直後は変わる気がしましたね。何か押さえつけられていたものが取れて、上が青空になっているみたいな、そういう変な言い方かも知れないけど、なんか清々しいというふうな―つまり震災の前まで全然ダメだったじゃないですか。と言っても、何十年も。その一つの原因にいろんなしがらみだったり、既得権だったり、なんかあっちへいくとこっちとぶっつかるし、こっちへ行ったら別のものとぶっつかるみたいな、そういうややこしいことがいろいろあって、その時に言ってみれば、あんな大きな犠牲を払っちゃったわけですよね。それは変わるだろうというか、何だろうね、犠牲の前払いみたいな感じ。犠牲とかリスクを怖がって変わらなかった部分があるとすれば、こんなことが起こっちゃったんだから、それはもう逆にいうと、変わらないと申し訳ないだろうみたいな。
 

 
ナレーター:  しりあがりさんは、美術大学卒業後、大手ビールメーカーに勤めながら、漫画家としてデビューしました。会社に入った年に書き始めたのが『流星課長』。どんな満員電車でも必ず座る席を確保する中間管理職が主役です。デフォルメ(変形すること)とユーモアを交え、サラリーマンを応援します。会社員として消費社会の一端を担っていたしりあがりさんは、やがて現代文明の行く末を、マンガで表現するようになります。ある日、いつものように降り始めた雨。いつまで経っても止む気配がありません。何日も何日も降り続きます。欲望に身を任せ、肝心なことから目を背けてきた人々が街諸共(もろとも)沈んでいきます。大都会の真ん中に芽を出したのは、熱帯の巨木「ジャカランダ (jacaranda)」。ジャカランダは、一晩のうちにビルの高さを越えるほどに成長します。便利さと物が溢れる現代文明。繁栄とは裏腹に、終わりの風景が、しりあがりさんの目には映っていました。
 
斎藤:  『方舟(はこぶね)』にしてもそうですけれども、予言的という言われ方を随分されていると思うんですよね。ある種そういう兆候を察知して警告するという。
しりあがり: 言ってみれば、八十年代から九十年代にかけて、豊かになっても、どうなってもやっぱり幸せになれなかったですよね。要するにこれ以上自分たちの欲望って、もう犯罪とかするなら別ですけどね、社会的に実現できないんじゃないかなと思って。そうなると、上がって下がっていくだろうなという気がしたんですよね。それが僕の中では凄いリアリティー(reality:現実、実在、実在性、真実性)があって、要するにこの先どうなるのかなみたいな、来る危険をいち早く察知しないといけないみたいな、要するに闘って勝つ自信がないわけですよ、はっきり言って。そうすると危険から逃げるよりしかないんですよね。だから目を凝(こ)らして見るというんですかね。
 

 
ナレーター:  三十六歳の時、しりあがりさんは会社を辞め、漫画家として独立します。その頃書き出したのが、『真夜中の弥次(やじ)さん喜多(きた)さん』です。東海道中膝栗毛を題材にとった物語。弥次さんと喜多さんが江戸から伊勢を目指して旅をします。しりあがりさんは、二人を夢とも現実ともつかない出来事に次々と遭遇させます。奇想天外な旅で、世界のリアルを描きたかったと言います。途中離ればなれになった二人。弥次さんは、三途(さんず)の川を遡ります。死者の世界に迷い込んだ弥次さんは、喜多さんとの二人旅を続けるために、なんとか生き返ろうとします。弥次さんの強い思いが、この世とあの世の境目を破壊します。生と死が一繋がりになった物語。しりあがりさんは、「リアル(実際に存在するさま、現実的、実在的)」という言葉を通して、何かと何かを単純には切り分けることができない、人間と世界の複雑さを表現しようとしています。
 
斎藤:  これは一番そういった意味では、リアルに片足を踏みつつある作品と言えるかも知れませんね。
 
しりあがり:  もうちょっと描いていたら狂っていたかな。
 
斎藤:  そんな感じでしたか。この飛躍も凄いですよね。
 
しりあがり:  出鱈目の中で、納得できる出鱈目って一瞬あるんですよね。そこって潜在意識のどっかでリアリティーがあるというか、気持ちの上でまったく関係ないものが実はどっかで繋がっているみたいなのが実はあるんだなという気がして、それを感じていたんですね。
 
斎藤:  日常の意識で考えると、人的な繋がりがないように見えるんですけど、どうなんですか? その辺自己分析的な意味があったりするのか、あるいはもう少しちょっと距離を置いて無茶無茶やりたいという。
 
しりあがり:  そうですね。距離を滅茶苦茶とりたいし、自分というよりは、世界ですよね。世界を詰め込みたいというふうな。この世の中って多様で、いろんな人がいて、いろんなことがあって、とにかくいろんなイメージ、いろんなものがありますよね。それをなんか知らないけど、凄いぐちゃぐちゃで、それぞれが矛盾したり、相反していたり、ごちゃごちゃなのに、外から見ると地球って凄く綺麗じゃないですか。そういうごちゃごちゃの部分、ごちゃごちゃの要素はちょっと離れて見ると凄い美しいみたいな、世の中っていっぱいいろんなことがあって、なんかそういうのはまったく関係ないようでいても、やっぱり宇宙飛行士から見ると、大きな地球の一部みたいな、なんかそういう愛しさみたいな、くだらないものから、大切なものから、綺麗なもの、醜いもの、全部引っくるめて、この世界を形作っている。カオス(混沌、無秩序)の生態系みたいな、そんなのが、要するに僕にとってはこの世界のイメージなんですね。それが僕にとってのリアルなんで、それを描きたかったんですね。
 

質問者:  しりあがりさん、ここはどこですか?
 
しりあがり:  今ここはまだ栃木県、今から福島に入るところですね。一番前を自衛隊の車が走っています。災害派遣、花粉症の兵士が乗っている。
 
ナレーター:  東日本大震災から一ヶ月が経った二○一一年四月半ば、岩手県大槌町(おおつちちょう)を訪れたしりあがりさんは、初めて被災地の風景を目(ま)の当たりにします。
しりあがり:  あ、倒(こ)けています。戦争よりも酷いという意味がわからんでもないですね。何だろう? もうその日天気がいいせいかも知れないんですけど、あっけらかんとした感じですよ、あまりにもね。そこでたくさんの人が暮らしていた筈のところに何もないというか、実際に車から歩いて見て、いろんなものの跡がだんだんこう見えてくる感じですね。例えば、〈あ、ここが駅だったんだ〉とか、〈あそこに線路あるけど、その先が水の中に入っているな〉とか、そういう気づき。一つひとつの気づきが、全部そこにあった。そこにいた人とか、あった暮らしのすべての宝石みたいなものですよね。それで目を凝らせば、どこにもそれがあるわけですよ、言ってみればね。ここにも何かがあった、ここにも誰かがいた。最初にまったくないと思っていたところを、目を凝らして見ると、そういう至る所に痕跡があるわけで、それがちょっと怖いというかね、ちょっとショックだったですけどね。
 

ナレーター:  震災地を訪れた後に描いた「地球防衛家のヒトビト」です。そこには登場人物も台詞もありません。
 
しりあがり:  もう話を創れないという感じ。なんかちょっと細かい話を創ってみて、それをどうかしてみたり、なんかちょっとちくってやってみたり、そういうことを手には負えないなという感じですよね。申し訳ない、そのまま描きますよ、というようなね。
 

ナレーター:  しりあがりさんは、岩手県に住む友人に相談し、被災地でのボランティアに参加しました。それまでボランティアをしたことは一度もありません。何もかもが初めての経験でした。
 
しりあがり:  シュークリームとかマカロとか、少し持って来ましたので!
ナレーター:  漫画家としてできることを、と、避難所ではお絵描き教室を開きました。絵を描いたり、塗り絵をしたり、長い避難生活を送る人たちの気晴らしに少しでもなればと思っていました。子どもから思い掛けないリクエストがありました。
 
しりあがり:  子どもなんかとやっていても、勿論僕のマンガとか読んでいないから、「ワンピース描いてくれ」とかね(笑い)・・描きましたよ。それで「違う!」と言われて。
 
斎藤:  実際に避難所に入られて見て、何か意外な点とか?
 
しりあがり:  そうですね。入る時凄く緊張しましたよ。何していいのかわからない。言動がどう相手に伝わるかわからないみたいな。被災されたおじさんとかおばさんの方がリラックスしていて、逆に笑い話を教えてくれたりね、ちょっと毒があるような笑い話だとかね。やはり印象に残ったのは、みんなが逃げたお寺があったらしいんですけど、なんかそこが「津波が来て、みんな流されちゃった」と言って、そこのお坊さんは嫌われていたらしくて、なんか「罰が当たったんだよね、あれ」とか笑ったりとかするんですよね。こっちっも「そうですよね」と笑うわけにいかないから、「はぁっ」とか言って聞いているんだけど。なんかその頃って悲惨な話であったり、感動的な話だったり、ある意味では美しい話ばっかじゃないですか。だけどやっぱり被災地は被災地の現実があって、良いこともあるし、悪いこともあるし、悲しいばっかじゃなくて、笑っていることもあるし、まあある意味で、早くもある種の日常が戻ってきているというか、それが強さなのか、逆にこう向き合っていられない弱さなのかわからないんですけど、まあ人というのはそうなんだなというかね。
 
斎藤:  最初のボランティアに行かれたことが一つの決定的な経験となって、作品に深く反映されたと思うんですけど、わかるようでわからないのが、我々が普通にテレビで眺めるシーンと現地のシーンというのは、どれだけ違うもんだろうかということですね。それを実際に見ることと、見ないで描くことによって、その違いというのはどんなものなんだろうと。
 
しりあがり:  そうですね。ほんとに代表的なのは、スケール感はやっぱり行かないとわからないということ。おそらくそういうことよりも、〈実際にこの目で見たから、俺は描いていいんだ〉という、そういう気持ちの方が大きいですよね。尚かつテレビとか、ああいうので見ると、もの凄く遠くにあるような、人が足を踏み入れられないような凄いイメージだったものが、地続きであって、自分で車を運転して行けるということですね。そこと自分たちが地続きでそこへ行って見るということができたというのが、やっぱり大きかったですね。
 

 
ナレーター:  被災地への訪問を重ねる中で生まれた作品があります。「そらとみず」。冒頭は、津波で破壊された街の風景が続きます。やがて瓦礫の中から植物が芽吹きます。蓮の花が咲きました。再び起きる大きな地震、新しい命を巨大な津波が襲います。繰り返される自然の営み、蓮が子どもたちを護ります。水に沈んだ瓦礫の中から、嘗ての死者たちが現れます。「海、津波、命、死者」被災地の現実を一つの輪の中で捉えなおそうとしました。
斎藤:  多分こういうものも、先ほどの地続き感のようなものとか、そういったものがないと出てこないものなのかなという気もするんですけど。
 
しりあがり:  確かに瓦礫を見て、そこにいろんなものが埋まっているわけですよ。現地に行くと、自然と人間とか、亡くなった方と生きている方の断絶みたいなのを感じたんですね。このマンガでは、その「和解」みたいなのを描きたかったんですね。
斎藤:  和解? 生者と死者の和解?
 
しりあがり:  あるいは海と自分たちの和解。自然と自分たちというか。行くと海が静かで綺麗なんですよね。それがあんな恐ろしいことが何とか修復したように思いましたね。そのためにこの中では、一度蓮が育った後で、もう一度津波が来ているんですね、ちょっとわかりにくいけど。もう一度水が入ってきているんですよ。でもその時に子どもたちは平気なんですよね。海は怖くなくなり、で、また亡くなった子や犠牲者の方への何かを果たされるみたいな、それでこう和解がなりたつみたいな、
 
斎藤:  「和解」というモチーフね。普通「和解」というと、対立とか敵対があっての和解だと思うんですけど、例えば被災して生き残った方と亡くなった方の間に普通はあまり深刻な対立があるとは考えないですよね。なんとなくわかるんですけど、そこをもう少し補足して頂けると。
 
しりあがり:  被災地に行って、みなさんの話を聞いてみると、「なんであの方亡くなったのに、自分は生きているんだろう」とか、あるいはその差が二、三メートルで、生と死が分かれてしまったと。そういう今まで一緒だったものが突如切り離された。なんかそこに対する心の整理のつかなさみたいなものを、もの凄く感じたんですね。それを「断絶」というのか、「敵対」というのか、ちょっとよくわからないんですけども、なんか切り口の生々しい感じが凄く、そこを何とかならないかな、そこが癒されないとな、みたいな。
 
ナレーター:  死者が子どもと出会います。大震災により唐突に断ち切れた生と死。過去から未来へと続く時間。それらが分かちがたく結び付いていることを感じさせます。
 
斎藤:  死がいつも一緒という、あの死者と生者の世界が地続きみたいな感じで描かれている感じがするんですけど、これは意図的にというか、それが自然体だからそう描いているという感じなんでしょうか。
 
しりあがり:  そうですね。そうあるといいなという願望ですかね。例えば、夢で死んだ人が出てきたりすると、ちょっとホッとするじゃないですか。
 
斎藤:  怖いよりも、ホッとするという。
 
しりあがり:  怖いというよりは、死んでも生きているんだなみたいな(笑い)。自分もそうなるんだなと思えば、むやみに怖がらなくてすむところがありますよね。
 
斎藤:  それは死者の世界とも違うイメージ?
 
しりあがり:  近いと思いますよ。僕はほんと天国とか信じたいですね、信じられないけど。
 
斎藤:  信じたいけど、信じられない。でもあって欲しいという。
 
しりあがり:  あって欲しいというんですかね。
 
斎藤:  その世界まで。この世にはないどっかでもなくて、地続きな感じであってほしいという感じでしょうかね。
 
しりあがり:  そうですね。
 

 
ナレーター:  しりあがりさんは、一九五八年、静岡市で生まれました。子どもの頃は、家から歩いて十分ほどのこの公園で毎日のように遊んでいました。
 
しりあがり:  ちょっと懐かしいね。
 
ナレーター:  当時の遊具が残されていました。
 
しりあがり:  わぁ〜、これ凄いや。今の方が怖いですね、ほんとね。滑ってみよう。わぁ〜なんか身体が動いている、滑った感触を。
 
ナレーター:  もの心付いた時から、しりあがりさんには、怖くてしかたのないものがありました。
 
しりあがり:  この辺に隠れたりしていた気がするよ、隠れん坊やると。そこに穴がありますよね。あの中へ入ったら、四次元へ行っちゃうんじゃないかとか、ああいう遊具の中には四次元の入り口があるんじゃないかとか、四次元へ入っちゃったらもう家には帰れないじゃない。もう誰にも会えないで一生霧みたいなその中を歩き廻るみたいな、そんな怖さがあって、それがなんだろう? 死ぬのに近かったのかな。死ぬことの感覚に。
 

ナレーター:  子どもの頃、しりあがりさんにとって死は、家族や友だちと永遠に離れ離れになる恐ろしくて異体の知れないものでした。死を現実のものとして身近に感じたのは、三十三歳の時でした。家具製造や内装を手掛ける会社を営み、一家を支えてきた父・建城(たてき)さんが癌に倒れます。一ヶ月後、しりあがりさんは病院で建城(たてき)さんを看取りました。
 
しりあがり:  それまでまったくどうなるかわからない、それこそ四次元に行くようなものとか思っていた。思っていたくらいわからなかったし、というのに対して、ある具体的な形というか、死の方法みたいなものを教えて貰った感じがしましたけどね。死を見た、この目で見たというのは、自信というんじゃないけど、ある種の〈あ、俺、描いていいんだな〉みたいな感じはやっぱりしましたけどね。特に何だろうな、人が死んで、だんだん身体が硬くなっていく感じとか、あれは見ないとわからないよね。どっから死んで、どっからが生きているんだかも、よくわからないじゃないですか、見ていると。十分死んでいくから、お医者さんは臨終だというんだろうけど、その前からほぼ死んでいるわけですよね、あれね。ほんとにどこで死んだか、はっきりここというのは、どうなんだろうね。確かに死んでいるんだよな。外見変わっていないのに、ちゃんと死んでいるんですよね。あの不思議な感じ。さっきまで生きていた人が、今死体になっている。人だったのが、物になっている感じ。自分もそうなるんだなというのがわかると、ある種の諦めというかね、できますよね。なかなかあれだけ悲しいことはないね、やっぱりね。俺あんまり悲しくないんだけどね。きっと死んで泣く人って数えるほどしかいないと思うんだけど、あの時は悲しかったですね。
 

 
ナレーター:  しりあがりさんが通った青葉小学校は、六年前に閉校となり、現在はイベントなどを行う静岡市の施設になっています。
 
しりあがり:  わぁ〜、これだ。
 
ナレーター:  かつての教室でしりあがりさんの展覧会が開かれています。
 
しりあがり: さて、どうしよう!
 
ナレーター:  床一面に散らばる紙。子どもの頃から絵が好きだったしりあがりさんが、五十年にわたり描き溜めたものです。
 
しりあがり:  これがけっこう記念なんです。大学の頃に初めてパロディー(parody:文学作品の一形式。有名な文学作品の文体や韻律を模し、全く反する内容を読み込んで滑稽化・風刺化した文学)描いたもの。もともとこれは自分が今まで描いてきたような奴を、こう山とか川とかにしようと思ったんですよ。なんとなくそれっぽいじゃないですか。これ川じゃない。ここも川で、こう見えるように工夫したのにな。なんか「人生山河あり」みたいな(笑い)。
 
ナレーター:  展示のタイトルは、「歴史資料館―人生山あり川あり」。巨大なお品書きも、しりあがりさんが描いたもの。最近では現代美術の作家としても活動しています。
 
しりあがり:  なんというか、こういう時に、シンメトリー(symmetry:左右の釣合がとれていること)になるのが嫌なんだよね。
 
ナレーター:  混沌とした創作の軌跡が、しんがりさんの世界の見方を映し出します。
 
しりあがり:  崩れ落ちるとか、ダメになるとか、そういうの好きなんだろうね、きっとね。ものが劣化してくるのが好きなのかも知れない。リアリティーじゃないですかね。金ぴかのものって嘘くさいじゃない? 無理している感じしない? 普通こう自然に委せているとこうなるじゃん(笑い)。なんか知らないけど、物事って。こっちの方が自然だと思うんだね、やっぱりね。そこを頑張るのが、人間なのかも知れないけど。だけど、そんなちっぽけな努力をあざ笑ってやるんだ(笑い)。最近、この親父が好きだなあ。自分が出た小学校に来て、その黒板にこんな親父の絵を描くなんていうのは、人ってさぁ、例えばわからないけど、僕がこうやってお話している時も、頭の中には、同時に別の意識もあるじゃない。なんかポカポカして気持ちいいなとか、晴れているなとか、今日はこの後どうしようとか、いろんなのが少しずつあるじゃない。みなさんもそれぞれ意識がありますよね。だからおそらく僕らが捉えている現実って一つじゃないですよ。だから現実そのまま描いてもそれはリアルじゃないというか、やっぱり人の意識を通さないと世界じゃないよね、きっとね。それをやろうとすると、やっぱり僕なんか逆にあり得ないようなことを描いた方が、リアリティーがあるというか、リアリティーを創ろうとするんだろうね。
 

 
ナレーター:  『あの日からのマンガ』には、原発事故を取り上げた作品が収められています。その一つに、斎藤さんは驚かされました。
 
斎藤:  「希望」に「X(バッテン)」が付いていますね。これは言ってみれば、原発の中の放射性物質を擬人化と言いますかね。
 
ナレーター:  原子炉の中を舞台にした作品「希望X(バツ)」。登場人物は、出口のない空間に閉じ込められている放射性物質です。そこに大きな地震が起き、亀裂が入ります。飛び出していく放射性物質たち。
 
斎藤:  言ってみれば、究極の視点転換という感じなんですけれども、これはちょっと凄いアイディアだという感じで、非常に意表を突かれたというか。最初―今でもよくわからないけど、どう読んでいいかわからないという感じがあるんですけど、これは凄く驚いたんですが、どっからこういうアイディアが出てきたんでしょうか。
 
しりあがり:  そうですね。とにかくそれを描いたのは四月末だったんですね。もう放射能のことがもの凄く頭の中を占めていて、そのことについて何か描かなきゃ、今描かなきゃというのがあるんですけど、安全と言われても怒られるし、危険と言っても怒られるような、そういう時期だったんですね。そういう時に、じゃ、どうやって描こうか。ほんとに僕らが思っているこのショック(衝撃)の根っ子は何だろうなと考えると、やっぱり「出ちゃった」ということかな、と。もう二度と押し込めることができない。「出ちゃったよ」というところは、安全も危険もないだろうと。そこだけはみんな共通しているんじゃないかなと思って。
 
ナレーター:  この原発事故は一体何なのか。しりあがりさんはあの手この手でマンガにします。川下りをする双子のおじさんが、岸辺で女性に出会います。原発は、満身創痍(まんしんそうい)。自分を弄(もてあそ)んだ人間への怨みを口にします。
しりあがり:  あれは、だから不幸な女ですよね。何だろう? やっぱりちやほやされていた感じ。エネルギーの対策の切り札みたいな、クリーンエネルギーとか言われて、みんな、勿論反対の人もいたけど、体勢としては、「そうだよね」みたいな感じだったよね。だけどいざ事故が起こると、そんなバカなみたいな感じでしょう。良い悪いってほんとにわからないんじゃないですか。だって原発に良いも悪いもない。ただ自然反応に従って、ただやっているだけでしょう。核反応だかして放射能出しているだけでしょう。それが良いも悪いも、それは物理の法則なんだから、どうしようもないというか。そうじゃなくて、何だろうね? みんな良かれと思っているんですよ、きっとなんか知らないけど。原発の人たちだって、それは中には小ずるい人とか、保身の人もいるかも知れないけど、やっぱり日本の未来には必要だとほんとに考えている人もいるかも知れないし、それは逆の立場の人だってそうだし、それまではなんかどっかに悪いのがいるのかみたいな、自分たちの既得権を守る悪い奴がいて、其奴を倒せば世の中良くなるのかなみたいな感じも、ちょっとあったかも知れないんだけど、今なんかダメな人しかいないんじゃないかみたいな、悪い人ってダメな人なんじゃないかみたいな、大丈夫かなみたいな感じですかね。
ナレーター:  原発は、おじさんに流れを変えるよう忠告します。しかし新しい流れには、たくさんの原発が。原発事故をマンガで表現しようと試行錯誤してきたしりあがりさん。福島を訪れたのは、大震災から一年以上経った時でした。きっかけは、福島市で開かれたイベントです。全国から五十を越えるグループが集まり、街のあちこちで個性的なパフォーマンスを披露しました。「福島クダラナ庄助祭り」です。庄助は、福島県会津の民謡で、「朝寝・朝酒・朝湯が大好きで」と歌われる人物です。福島の人たちが、今日一日だけでも笑ってくれれば、そんな思いの込められた企画の実現に、しりあがりさんは尽力しました。それまで福島にほとんど縁のなかったしりあがりさん。イベント開催に力を貸して欲しいと相談にやってきたのが福島在住のミュージシャン長見順(ながみじゅん)さんでした。
 
長見: ほんとに怖くて笑っちゃいけなかったりとかさ、いろんな感情が全部。悲しさとか、どうなってしまうだろう。なんか泣くしかない、叫ぶしかないとか、感情に集約されて音楽もやっちゃいけないんじゃないか、冗談も言っちゃいけないんじゃないか、マンガも描いちゃいけないとか、なんかそんな状況に攻められてしまって、無理矢理自分を縛っちゃったのかも知れないけど、何か感情をストップされたような感じになっていて、でも笑いたいと心底自分が思ったのかな。くだらないことを見付けていたし、探していたし、欲していたんだと思いますよ。
 

 
ナレーター:  これは、しりあがりさんがこれから描こうとしているマンガの下書きです。祭りをきっかけに知り合った南相馬の住民の経験を原作にしています。それは行き先も決まらないまま避難を強いられるというあまりにも理不尽な事態。渦中にいたその人は、笑い話のように聞かせてくれました。当事者だからこそ語れる福島の現実を、しりあがりさんはマンガにして伝えたいと考えています。
 
しりあがり:  やっぱり震災とか見ていると、まあ上手くいかない時にちょっと笑って誤魔化すとかね、そういう笑いも大切だなとか思いましたね。単純に変な顔をして笑わせるとかね、それでもいいじゃないですか。だけどそれもバランスでね、そればっかじゃいけないというかね、やっぱり失敗を笑って誤魔化すばっかじゃいけないし、ちょうど良いのがいいですね。おそらく振り子のように、ちょうど良いの上を、ちょうど良いのを目掛けて振り子がいくんでしょうけど、大体行き過ぎてまた戻る。この繰り返しで、しかもそのちょうど良さは、時代と時とともに動き廻っているわけですよね。ちょうど良さを求めながら行き過ぎては、ちょうど良さをあっちへいったり、こっちへ行ったりするみたいな、だから永遠にそんなものはこないというかね、ちょうどいい状態は一瞬なのかも知れないけど、通り過ぎるだけだなという感じがしますよね。それでも幸せも同じだなというかね。ご飯だって、一瞬でしょう、ちょうどいいのは。大体お腹が空いているか、食い過ぎているか、どっちかで、ちょうどいいのは一瞬で、またすぐ次の瞬間、食い過ぎるわけですよ、なんかね。何でもそうだと思いますよ、ほんとに。
 

 
ナレーター:  二○一二年の暮れ、東京の画廊で、しりあがりさんは個展の準備に追われていました。あの日からの日々をどう表現するのか、探し続けています。個展のタイトルは、「お祈り上手にできるかな」。使うのは、どこの家にもある生活雑貨です。ここにちょっとした仕掛けを施しました。
 
しりあがり:  これは娘の声ですね。なんか家で宿題やるんで、嫌だって言って無理矢理。
ナレーター:  家族や友人に同じ言葉を読み上げてもらっています。
 
しりあがり:  これは母親の声ですね。これは実家に帰った時に採ったんだけど。ぜんぜん違うんですよ、一人ずつ。いろんな、そこら辺にある日常的な鍋とか、いろんなものから声が聞こえてくる。それも同じことを、呪文みたいなものを呟いている。意味になる前の、ただなんというの、「助けてほしい」だったり、「不安だ」でも、「これからどうなんだろう」とか、なんとしてでもいいけど、そういう祈りだと思うんですね、確かああいうのはね。
 
ナレーター:  一人ひとりの声を、できれば揃えて聞かせたいと思っていました。
 
しりあがり:  個々の祈りみたいなバラバラなのが期せずして揃っちゃうみたいな、瞬間的にこういいなと。だけど何々教とか宗教にいく手前の凄い個人的な呟きみたいなものが、つい口に出ちゃうじゃない、人って。そういう「お願いします、神様」。その神様が何なのかもわからないまま、それが揃った時に、何か大きいものが動くような気がしない? それって意味じゃなくって、タイミングとかの問題じゃない? どう変わりたいかなんていうのは、個々全然バラバラなのに、そういうなんとかしたいという気持ちが揃った瞬間動くわけじゃない。良い時は良い方に動き、悪い時は悪い方に動くけど、なんかそういうことが、僕らの間でもそのうちあるじゃないのかなみたいな気がして、ちょっと深いでしょう。やっていることくだらないけど(笑い)。
 
     これは、平成二十五年三月三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである