私にとっての3.11「いのちの声をきく」
 
                  通大寺住職 金 田(かねだ)  諦 應(たいおう)
 
ナレーター:  東日本大震災の仮設住宅で開かれている人気のカフェがあります。名前は「Cafe(カフェ) de(デ) Monk(モンク)」。
 
金田:  たくさんいろいろなものを持ってきましたので、今日四時くらいまでここにいますので、どうぞ今日暖かい陽気ですので、最後までゆっくりいろんなお話も聞きたいですし、いろいろと楽しんでいってください。よろしくお願い致します。
 
ナレーター:  マスターの金田諦應。軽トラックに喫茶道具を積み込み、ボランティアで被災地を巡っています。「Monk」とは英語で「お坊さん」のこと。お店の謳い文句は、「お坊さんもあなたの「文句」を聴きながら一緒に「悶苦(もんく)」します」。BGM(バックグラウンドミュージック: background music)もジャズの「セロニアス・モンク」。金田さんは遊び心が溢れる演出です。仮設での暮らしが長引く中、悩みをしばし忘れ、ホッとしてほしいと、無料の温かいコーヒーやケーキでもてなします。輪がほぐれたところで、金田さんは人々の声に耳を澄ませます。
 
金田:  お孫さん残された?
 
来訪者:  ええ。高校三年と中学二年、一年と。
 
金田:  誰が面倒をみています?
 
来訪者:  嫁さんが、
 
金田:  大変だね。
 
来訪者:  大変です、私らお爺さんと二人で。
 
金田:  仮設にいらっしゃるんですか?
 
来訪者:  今お爺さんと二人で仮設に。
 

 
金田:  喫茶店という空間というのは、やはりリラックスする場所なんですね。そういうふうに空間を作り上げていって、そしてポロッと笑顔にある悲しみがこぼれ落ちるのをジッと待つと、こういうことです。私たちの心の歪みをできるだけ少なくして被災者の方たちの苦しみに向き合わないとダメだというようなことを、自分に言い聞かせつつ始めたのが、「傾聴移動喫茶「Cafe de Monk」」という、「あなたの心を聴かさしてください」というような活動だったんですね。喫茶店というのは、そこに一時間とか、長い人で二時間ぐらい留まるじゃないですか。その分お話を聴けるんですよ。で、その笑顔でね、「うどんご馳走様」と言ったお婆ちゃんの話をよく聴いてみたら、いろんな辛い体験をなさっていて、最後に「和尚さん、もし良かったら家に来て見てくれねぇべか」というふうにポロッと言われたんですね。そこへ言ったんですよ。そうしたら息子さんが亡くなっていたんですね、津波で。それで一階が津波で全部流されていました。二階しか残っていなかったんですね。その二階の片隅に、息子さんのお遺骨とお位牌が置いてあった。遺影は結婚式の時の写真でした。それを拝んで、後ろを振り向いたら、お婆ちゃん、目頭を押さえているんですよ。その時は、〈あ、こういうことなのか〉というふうに強く思いました。
 
ナレーター:  金田さんが暮らしているのは、宮城県栗原市(くりはらし)。東日本大震災では、最大震度七を記録しましたが、内陸にあるため、津波の被害は免れました。市の中心部にある通大寺(つうだいじ)で、金田さんは住職を務めています。五百年の歴史をもつこの寺で、金田さんは、地域と深く結び付いた活動を、これまでも続けてきました。震災の日、金田さんは、この寺にいました。一週間ほど経った頃、火葬のために三陸海岸からたくさんの遺体が運ばれて来るという知らせが入ります。金田さんは、仲間と共に火葬場での読経ボランティアをしたいと役場に申し出ました。一ヶ月あまりの間に供養したのは、二百人にものぼりました。
 
金田:  最初にいらっしゃったご遺体が、小学校五年生の女の子でしたね。それで、〈あ、最初の現実がきた〉と思ってね、みんな構えたんですけども、さらにそれに追い打ちをかけるように、「和尚さん、ちょっと待ってください。もう一人、ご遺体来ます」。待っていたら、同じ小学校の友だち同士だったんです、そのご遺体が。「せめて一緒に荼毘(だび)をしたいから」と言って、お経をあげたんですけども、ほんとに私たちも声が震えましたものね、お経の声が。どのような状況で亡くなられたかもわからないし、ご家族もそれに対してどのような思いをもっているかということは勿論、もう来てすぐお話を聞くようなことなんてできませんでしたので。どんな思いで亡くなったの? どういう状況だったの? というふうなことを、ひたすら問い掛け続けましたよね。きちっと亡くなった方に向き合って、お経を唱えてご供養してあげないとダメだ、というふうなことです。それ以外何も考えていないですよ。
 
ナレーター:  震災から四十九日に当たる日、金田さんは、仲間の僧侶や牧師と鎮魂の行脚に赴きます。津波が襲った場所に、金田さんが足を踏み入れたのは、この日が初めてでした。懸命の捜索活動が続く南三陸町(みなみさんりくちょう)を歩きながら、今宗教者に何ができるのか、自問自答したと言います。
 
金田:  この状況をどのように理解したらいいんだろうか。自分がどういうふうに認識したらいいんだろうか、というふうなことを先ず思いましたよね。とにかく瓦礫の真っ直中でしたから、まだ遺体探しもしているし、そこに私たち宗教者が入ってですね、鎮魂の幟(のぼり)を立てて行ったんですけども、私のベースは仏教ですので、そこからどのように解釈して、自分の心を落ち着けようか、ということを一生懸命考えながら、お経をあげていたような気がします。その仏様の世界は病んでいる世界、苦しんでいる世界、悲しんでいる世界なんですよ。苦しんでいる世界、悲しい世界だから絶対離れられない。そこにこそ仏の真実があるんだ。それで現場に入らなくちゃいけない。悲しみの中にとにかく入って、いろいろな人が訴える悲しみ苦しみ、思い通りにいかないそういうふうな思いを、私の中に取り込んでいかないとダメなんだということを思ったんです。
 
ナレーター:  震災から二ヶ月ほど過ぎた五月中旬。金田さんは、被災者の気持ちを受け止める場所を作ろうと思い立ちます。避難所や仮設住宅で多くの人がストレスを抱えていると聞いたのがきっかけでした。財団や個人からの寄付を募り、移動型の無料喫茶「Cafe de Monk」を開くことになりました。
 
金田:  凄い風でしたね。
 
ナレーター:  この日の会場は、およそ千世帯の仮設住宅が造られた石巻市開成(かいせい)地区。広大な石巻市全体から集まった人々が暮らしています。希望があれば宗教的な対応もしますが、布教はしません。相手の声にただ耳を傾ける傾聴することがここでの活動の基本です。
 
金田:  苦しみというのは、人それぞれですから、それぞれの生きてきた人生もありますし、失った相手方との関係もありますので、それが一概には言えないんですね。それを一般的な苦しみとか、悲しみというふうに押し込めないで、その人の苦しみって、どういう性質をもっていて、その人たちが生きてきた流れの中で、どういう意味をもっているか、というふうなことをやっぱり聞いていかないと、こちらの価値観を押し付けて、こちら側のストーリーを創ってしまったらダメなんで、それを先ず一つひとつ聴いていくというふうなことなんです。そのためには相手に向かう時は透明にならなくちゃいけない。絶対こちらの方で―たとえば喧嘩した後で行くとか、いろんな事件があった後で心が揺らいでいる時に行くとか、そういうことをしたらやっぱり相手の心だって見えませんよ。こちらが鏡のようにしておかないとダメなんです。透明にしておかないとダメなんです。そういうふうなことを意識しています。「傾聴」というのは、「鏡」というふうに、先ほど表現しましたけれども、ほんと言えば境界線がなくなるというふうなことだと思うんですね。自分と他人の境界線をなくしていくというような作業だと思います。これ非常に難しい。そのための第一歩が傾聴―よく聴くというふうなことなんですよ。よく聴かないとダメなんですね。情報―よく聴いて、かなりよく見る。表情を読み取る。ちょっとした肩の震えも―昨日もそうだったんですよ。手を握った瞬間に肩が震えた。〈あぁ、これはきているな〉と思って、「いいよ、泣いてよ」って言ったら、泣き出しちゃったんです。そういうふうな一つひとつのものに、全部の神経を集中させるんですよ。言葉だけではないんですよ。もっている佇まいだとか雰囲気だとか、そういうふうにしていくと、だんだん自分と他人の境界線がなくなっていく感覚というのがあるんですよ。自他を超越してしまう、というんでしょうかね。そういうふうな瞬間というのは、一瞬でもあるんですね。私がいて、あなたがいる、というふうなのは、いつまでもそこに私とあなたの壁があるから。違うんですね、それは。最終的にはそこの壁が取り払われた状態です。生きるということは、どこかで必ず繋がっているんです。繋がっていないと、私とあなたが居ないんですよ。傾聴というのは、そういったものをどんどん削ぎ落として削ぎ落としていって、向き合う。
 
ナレーター:  傾聴移動喫茶「Cafe de Monk」。金田さんの心には、被災した人々の心をどのように受け止めてきたのでしょうか。石巻市に暮らしていた柳田かつこさん。自宅は津波で流されましたが、入院していた夫を病院に見舞っていたために、命は無事でした。震災の年の秋に、この仮設住宅に入居。夫の介護をしながら、夫婦二人で暮らしてきました。ところが夫は、去年の暮れ病気が悪化して亡くなりました。葬儀やお骨もままならず、十分な供養ができていないことを、柳田さんは気に病んでいました。そんな時に、ふと目にした「Cafe de Monk」の知らせ。お坊さんが主催者と聞いて、柳田さんは足を向けました。
 
柳田:  「お坊さんの」となっていたんで、一度すぐ近くでありましたから来た。集会所でお話を聞こうという気持ち―自分が不安だし、どのように考えていいんだかも、もやもやだけしか、不安だけしかなかったんですよ。来ましたらいっぱいほんとにたくさんの人が居て、みんな相談というか、なさっていたんですよね。どのように切り出したらいいか、私も全然わからないから。震災で亡くなった方が大勢いらっしゃるし、私なんかという気持ちでいましたんで、切り出せなかったんですよ。で、ちょうどみなさんのお話なんかずっと聞いていた終わり頃に、ちょうど金田和尚さんが近くにいらっしゃって、ちょっと声かけまして、「あの私はこういう形なんですけども」とお話したら、「いや、ちょっと待ってなさい」と言って、家までいらして頂いて、金田和尚さんが、こちらでお経をあげてくださって、もうほんとに嬉しくて有り難かったです。
 
金田:  あの確か凄く遠慮をされる方なんですね。自分のことを遠慮して、自分の状態というふうなものを、今の心境、心持ちというものを、たどたどと言葉を飲み込みながらお話されるようなことで、それだけいろんなものを背負っているな、ということは感じ取れましたね。勿論いろんなお寺さんとの繋がりがありますので、私たちができることを配慮しながら、それが一番彼女の心の安定に繋がるというふうに思いましたので、行って読経をしたということです。いろんな背景を持った悲しみがあるんです。同じように、いろんな背景を持ったさまざまな苦しみがある。それに一人ひとり向き合っていかなければいけない。そこに私たちいる。
 
ナレーター:  「Cafe de Monk」で人気のコーナーが、お地蔵さん作りです。お地蔵さんの基本の形を守りつつ、それぞれの思いを込めて自由に作ります。この手の平地蔵を作り始めたのは一年ほど前、津波で写真を流され、大切な人を偲ぶよすがを失った人々が多いことを知った金田さんの発案でした。
 
金田:  私たちが持って行ったというんじゃなくて、たまたまそこにあったお地蔵様に、みんなが手を合わせ、涙を流し、語り掛け、それを目撃して、〈あ、こうなんだ〉ということを気付かされたんです。現場に入ってからでないとわからない話なんですよ。観音様でもお釈迦様でもなかったんですよ。お地蔵様にみんな涙を流した。これは発見ですよ。
 
ナレーター:  原型を作ってから、およそ一ヶ月、焼き上がったものを持って、金田さんは再び同じ場所を訪れることにしています。一度話を聞かせてくれた人に、再び会うきっかけにもなります。亡くなった家族、可愛がっていたペット、失われた命への思いが刻まれたお地蔵さんです。
 
来訪者:  あ、可愛い!
 
金田:  やっぱりたくさんの人が亡くなったでしょう。ご家族でなくても、ほんとに親しい友人が目の前で、という方随分いらっしゃいましたので、おそらくその人たちに、その人たちの思いを重ねて作っているのは間違いないですね。一番印象に残ったのは、ご主人を某場所で亡くされて、ほんとにもうちょっとでその方も助かったんですけれども、みなさんのことを先に考えて、そちらの方に避難しながら、ご自分はみんなが見ている前で、流されて行ったという方も来られて、お地蔵さん作りましたけれども、でもそうなるまでやっぱり一年半ぐらいかかった、と言っていました。もう毎日ね―子どもも残されておりましたので、その子どものことを考えると泣くこともできない。でもやっとこの頃歩けるようになった。で、一緒に作っていたんですけども、和気藹々と作っていたんですよ。「こうだね、ああだね」と言いながら。最後に、「和尚さん、私の主人は眼鏡を掛けているから、眼鏡を描いていいのかな、お地蔵さんに」というから、「あ、描いていいよ。描いたらいいんじゃないの」「私、下手くそで描けないから、和尚さん描いて」と言われて、「じゃ、しょうがないな」と言って、眼鏡を描いてあげたんですね。始めてですよ、それ。「いいな」と言って、「ほい!」ポンと目の前に置いた。その途端に今までにこやかになっていたその人が、それを見て、グッと手が震えてきて、最後叫びましたよ。「何で逃げなかった! あんた、何故逃げなかったんだ! もうちょっと逃げれば助かったのに、何で私を置いて行ったの!」。わぁっと泣き崩れて。その時何人かいたんですけども、みんな下を向いてね、一緒に涙を流しました。それくらいやっぱり思いが眼鏡を一つ入れただけで、それが亡くなった最愛の檀那さんになったんですよ。複雑ないろんな思いがあると思います。会いたいだけではなくて、いろんな思い、もういないということをもう知っていますから。ある程度自分の中では整理付いている話ではあるんですけれども、でもやっぱり残った思いというのはいっぱいあって、それがお地蔵様を作って、眼鏡を入れることによって残った何パーセントが「うわぁっ!」とまだ湧き上がってくる。おそらくそういうふうな思いをされている方たくさんいると思いますよ。あきらめているんだけど、わかっている。津波が来て流されたのはわかっている。死ぬのもわかっている。人間はやがて死ぬんだ。でもそんなことわかっているんだけども、わかっても、わかっても、割り切れない思いというのは心ですから。人の心なんですよ。お地蔵様というのは、いろんな人間の人生に、いろんな形で関わっていますよね。生まれる前から、死んだ後まで関わっている。こんな仏様なんてないですよという。仏教的にはいろんな意味付けがあるんですよ。こうだとか、ああだとか。お地蔵様の化身が閻魔大王だよ、とかね。賽(さい)の河原にはお地蔵さんが居て、亡くなった子どもたちが、お地蔵さんに助けを求め、お地蔵さんが助けてくれるんだよとか、そのようないろんな意味付けがあるんですけども、でもそれはそういう意味付けなんであって、でもそれというのは、実際に手にとって涙する人には、それぞれの意味がありますから。要するに「共生」ということをよく言うんですね。共に生きるというふうに。「共に生きましょう」みたいな感じ。でもやっぱり「共死」というか、「共に死を味わいましょう」という、そういうのは今欠けているのかなと思うんですね。「共生」「共死」というんでしょうかね。やっぱり共に生きていた人は、亡くなった時には、その人を支えていた人たちがいる。その命の繋がりというのはあるんですよ。血の繋がりではなくて、命の繋がりですね、大きな。その人たちに、共に死に向き合って、それをそれぞれにまた受け止めて、そして次の自分たちの生に―生きるというふうなことに繋げていかないとダメ。それが「弔う」ということなんですよ。私たちのこの命というのは、宇宙が始まって以来、どっから始まったかわかりませんよ。だから仏教では、「是の如く来る」というふうに言って、「如来様」と言っているんですけども。そうしか言いようのないいのちの始まりなんですよ。その命のずっと繋がりが、みんないろいろなところで合わさって、そして今の命というのがあるんですよ。それを「生也全機現(しょうやぜんきげん)」という。一つも繋がりのない命なんてないんだよ、というのが、命のあり方なんですよ。「死也全機現」―「死」も同じようなことですよ。だから生と死というのは繋がっているんですよ。そういうものを繰り返しながら繰り返しながら私たちの存在というものがあるんです、ということだと思うんですね。その上には、大きい大きいそれを包み込むような大きな、それがなりたつような大きな宇宙場―空間がある、ということなんです。そこら辺に私たちの気持ちを向ける時に、命は長短ではないですし、必ず一つひとつの命に意味があった。意味が光っている、ということを感じとられるんじゃないのかな、と思うんですね。
 
ナレーター:  二十代の頃、金田さんは、僧侶になるかどうか迷っていました。大学で原始仏教について学んだ後、インドを一ヶ月放浪。過酷な環境の中で、仏教が生まれた意味を考え続けました。当時、金田さんの心を捉えた言葉がありました。「仏陀を背負いて街頭へ」。大正から昭和にかけて活動した仏教者妹尾義郎(せのおぎろう)(日蓮主義の実践的仏教者。大正八年大日本日蓮主義青年団を結成。昭和六年仏教界と社会の改革をめざす新興仏教青年同盟を組織。「私有なき共同社会」を提唱、仏教者の立場から資本主義を批判した:1889−1961)の言葉です。教団の腐敗や僧侶の堕落を批判、宗派の枠を超え、仏教の根本に立ち入って社会を変革しようというスローガンでした。この言葉をきっかけに、金田さんは寺の中に留まらず、社会と積極的に関わっていく僧侶になろうと決意します。
 
金田:  「仏陀を背負いて街頭へ」という。今でもパッと出てきますから。そういうものを背負いながら街の中に入って行って、そして自分の立ち位置を決めていくというのかな、自分の行動を見詰めていくというふうな、そういうふうなことを現した言葉だったなというふうに思うんですね。特に仏教者が凄く社会というふうなものを意識したのは明治以降なんですよ。明治以降に、古い政治の仕組みの中から解き離れた教団があって、どのようにしてその近代社会の中―明治以降の社会の中にどういうふうに組み込んでいったらいいのか。どのような立ち位置になったらいいのか、ということを凄く考えたんですね。みんな真剣になって考えたんですよ。ある人は社会運動に走った人もいますし、ある人は社会福祉の事業を立ち上げた人もいますし、たくさんの人がいたんですね。じゃ、自分はどうするんだ、というような問いが突き付けられますよね。
 
ナレーター:  金田さんは、各地での修行を終え、地元に戻ったのは、二十九歳の時でした。地域に開かれた寺に、金田さんは、子どもたちを集め、仏教が説く命の意味を伝える寺子屋を始めました。
 
金田:  子ども二人来たんですよ。「和尚さん、遊びましょう」みたいな感じで。その子たちをあげて、いろいろお経を教えているうちに、ハッと思って、〈あ、子どももこうやって来るんだ〉。じゃ、この子たちを少しずつ集めて、昔から寺子屋という、江戸時代からあったじゃないですか。そうするうちにだんだん人が増えてきて、一ヶ月に五十人とか六十人くらい来る。お経は徹底的に教えましたよ。ほとんどのお経は全部。読み方だとか全部教え、ちゃんと表を貼ってね。「今日、お経を○(まる)のところを六つ覚えたら本尊様にお菓子があるから取って来ていいよ」という感じで(笑い)、そんな感じで遊んでいたの。それって凄く大切なことだと気付くのは、ついこの間だった。私、思うんだけど、和尚さんと一緒に遊んだという、その思いだけでいいんじゃないのかなという感じする。それだけでいいと思う。それから目に見えない世界があったり、そういうふうなものの世界を凄く大切にしなければいけないというふうなことは、ずっと繰り返し繰り返し言っておりましたから。それだけでも十分なのかなと。後いろんなことをやりましたけど、おそらくほとんど忘れているんじゃないかな(笑い)。でもお経を覚えている子いるからね、まだね。
 
ナレーター:  二○○○年、父親の跡を継いで寺の住職となった金田さんは、やがてもう一つの社会的な活動に踏み出していくことになります。その頃自殺した人の葬儀が相次いだことがきっかけでした。金田さんは、福祉や医療の関係者と協力して、「命と心を考える市民の会」を立ち上げます。
 
金田:  自分でやろうと思ってやったんではなくて、やらざるを得ない現実がどんどん起きてきた。年間、ほんとに自死でお亡くなりになる方の葬儀というのは、そんなにないですよ。私の記憶では、三年、四年に一遍くらいだった思う。ところが、それがもう年に二人、三人というふうなのが続いた時には、これはやっぱり異常だと。凄いんですよ、葬儀の状態がね。さっき「共生・共死」と言いましたけれども、共に生きたものが共に死を共有して人を送っていく。物語を紡いでいくというのが弔いであるならば、その弔いが成り立たないんですですよ。そういうのが自死(じし)された方の葬儀なんですね。私の中では繋げられない。
 
ナレーター:  僧侶が中心となっている全国的な「自殺防止ネットワーク」にも参加し、二十四時間、携帯電話で悩みを抱える人の声に耳を傾けました。
 
金田:  最初は、電話というふうなことになるんですけれども、とにかく話に耳をずっと傾けるしかないですから。とにかく訴えますよ、苦しいというふうなことをですね。なかなか自分の―表現できないんですよ、要は。基本的に電話って限界があるんですね。やっぱり私、一番いいのは実際に会って、お話を聴いて、その人の佇まいだとか、目だとか、いろんなものを感じていながら、お話を聴きたいんですけども。震災中もありましたよ。「Cafe de Monk」やっている間も。すぐ仲間に電話して、「おまえ、今どこにいるんだ」「ここ、ここに」。「電話を掛けている人がいるから、どこどこのとこに行ってくれ。こういうふうな感じで立っているから捕まえてくれ」と言って、捕まえて。それで、その場所に行って、話を聴いて、というような。一期一会ですね。でもいっぱい逃しているんですよ、それは。自分で気付かないうちに、それもある。完璧じゃないですよ。〈ああ、あの時な〉というふうなのを、やっぱり思い当たることいっぱいありますね。
 
ナレーター:  活動の中で、金田さんは、一人の医師と出会うことになります。岡部健(おかべたけし)さんです。岡部さんが訪問するのは、自宅で療養する終末期の患者が中心です。病院ではなく、自宅で安心して最期を迎えたい。そう願う人々と家族を支えようと、二十年にわたって、在宅医療の試みを続けてきました。
 
患者:  こんな身体になったけれども、先生が来て、介護士さん来てお話を聞くとね、急にもとに戻るの、
 
岡部:  いやぁ〜、役立っているんだ。
 
患者:  いやぁ〜、感謝ですよ。
 
岡部:  あの家、どうなってんだべな?
 
患者:  どうなってるんだかね。
 
ナレーター:  死の部分を抱いている人々には、病を治す医者だけでなく、死後のことを語れる宗教者が必要だ。看取りの現場で岡部さんはそう考えるようになりました。
 
岡部: 医学の中には、「あの世学」はないんです。「あの世学」は、宗教の中にしかないんでね。だからやっぱりチームを組みたいし、チームを組む場作りは、今だったらやれるだとうと。「臨床宗教家」というふうな位置付けの宗教者が出てくれば、牧師さんでも、坊さんでも、神主さんでも、傾聴したり、言うなればチャプレントレーニングみたいなものを受けた証があれば、「臨終宗教家」という名前で、「私は何々宗です」と言って患者さんのところへ行くんじゃなくて、「臨床宗教家ですけれども、伺っていいんでしょうか」と言ったら、かなり人が「来てくれ」というんだろうと思うの。だからそういうような場を作っていくということが非常に大切なんじゃないかなと思うんです。
 
金田:  どうしても常に死と向き合っている現場というのは、岡部先生の言われるように、合理的なものの判断ではなかなか判断付かないこと、導けない部分てありますので、そういう部分に、私のような少し非合理的なものも受容している宗教者が、そういった現場に向き合いますよと。そのためには最低限のルールというものをきちんと学ばないとダメなんですね。例えば簡単な話ですね、今なかなか医療の現場になんか私たち入ることできないんですね。倫理性というんでしょうか、布教をしないとか、自分の教義を押し付けないとか、先ほど言った相手の立場に立っていろいろお聴きするとか、そういうふうな訓練と言いましょうか、そういう立ち位置の宗教者が必要なんですよ。ところがやっぱり政教分離ですとか、そういった時には、やはりいや、そうじゃないんだ。私たちはそういうふうに訓練をきちんと受けて来ているんだ。だからどうぞ安心して困っている人にお役に立ってくださいと、こういうふうな感じなんですね。
 
ナレーター: 二人の出会いから二ヶ月後に、東日本大震災が発生。岡部さんは、金田さんと共に、「Cafe de Monk」の活動に参加しました。この時岡部さんは、既に癌に冒されていました。一年あまり活動を共にした後、臨床宗教師を育てて欲しいという願いを託して、二○一二年九月に息を引き取りました。
 
金田:  後で知ったことなんですけども、「余命半年」と言われていたんですね。ですからおそらく六月、七月くらいには、通常であればもう命がなかった状態なんですけども、ただそこら辺が不思議なところで、そこから一年ちょっとほど頑張りましたけども、そういうふうな状態で非常に自分の問題として、それがあったんですよ、先生の中には。ご自分もやはり死に向かって一歩一歩近づいているというふうなことを実感していたと思うんですね。「暗闇に落ちて行くようだ」というふうに言っておりましたから。その時にお坊さんたちが、なんとか暗闇の中を―暗闇は暗闇なんですよ―暗闇を歩く術を教えてくれるんじゃないのか、というふうなことを思っていたと思います。死と対峙する、苦しみと対峙する中からやっぱりもう一遍再生させていかないとダメだ。「金田君、俺の後のことは頼むぞ。ちゃんとやってくれ。送ってくれ」「わかりました。できるだけのことさせて頂きます」。冷静に話しました。私自身は、「わかりました。委せてください。ご安心ください。先生とお約束しますので」と。
 
ナレーター:  岡部さんの遺志を継ぎ、二○一二年十月から東北大学の講座として「臨床宗教師研修」が開かれています。家族を失った人々や死期の迫った患者と家族を、中立の立場で支える宗教者の育成を目的としています。これまで仏教、キリスト教、イスラム教など二十四名の宗教者が研修を終えました。この日の研修は、石巻の港で犠牲者をそれぞれの方法で追悼することから始まりました。
 
金田:  ご紹介に預かりました「Cafe de Monk」のマスターの「ガンディ・金田」こと、金田諦應と申します。どうぞよろしくお願い致します。
 
ナレーター:  金田さんは講師の一人として、「Cafe de Monk」での経験を語りました。金田さん宛に送られてきた女性からの手紙を紹介、活動の意義を話しました。
 
金田:  涙を新たにしたという手紙です。
 
「実は昨年私の叔母が私のために、手乗りの地蔵を頂いてまいりました。東日本大震災の津波の犠牲となった私の長女のために。すぐにお礼の一言をと思い、ペンを持つのですが、お地蔵様の笑みが娘の笑みに似て見え、涙が止まらず、書けずに今日に至ってしまいました。まだ涙枯れることはありませんが、それでも日々を送っています。
 
実際行ってお祖師さまの言葉だとか、紋切り型の教義なんでいうのは、一切言いませんでした。そういうふうなことを言えるような状態ではなかったです。でもやっぱり自分の中に問い掛ける時には、どうしてもやっぱり自分の今まで学んできた宗教ですとか、そういったものって必要になってくると思います。私の場合は、曹洞宗ですので、道元の書いた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の「自証三昧(じしょうさんまい)」ですとか、「現成公案(げんじょうこうあん)」ですとか、そのような大書があります。その中の一言一句、やはり思い出しながら、また現場と照らし合わせながら、もう一回組み立て直すというんでしょうか、現場からまた教義が再構築されていくというんでしょうか、そういう感覚がありました。学ぶことがいっぱいありました。
 
ナレーター:  自らの宗教や宗派の教義を超えて、中立的に対応するとは、どういうことなのか。会場からは、質問が相次ぎました。
 
研修者:  私も長い間、布教活動、傾聴活動をやってきました。東北の大震災の中で、こんな質問があるかなと思って、一つお聞きするんですけど、「誰々さんの夢見るんですよ。子どもの夢見る。誰かの夢見る。成仏していないんですかね」という話は出てこないですか?
 
金田:  成仏ね。その子どもさんというのは亡くなっている? そのような話は直接私は聞いたことないんですけど、その夢を見て、恐いか恐くないか。それによって凄く迷っているか、迷っていないか、というふうなことは、十分に気を付けてみてあげればいいと思いますし、またその夢の中に出てくる人とその人の関係がどういうふうになっているのか、というふうなことも注意深く、その背景になるものをやっぱり聴き出していって、自分から最終的に答えが自ずと導き出せるような、そういうような聴き方をするのがいいと思うんですね。成仏しているか、していないか。二者択一でくると、すぐ「している」とか、「していない」とかと答えるんですけども、それ言っちゃったら、会話が先に進んでいきませんので、その時はちょっと待って、その人はどういうふうな関係なのかとか、気になる?とか、そういうふうな感じで言っていって、その周辺を少しずつ掘り下げていって、最終的にその人自身が答えを見付けられるような導き方をしていくのが一番いいのかなと思うんです。ケースバイケースなんですけれども。
 
ナレーター:  次の日、参加者たちは、実際に「Cafe de Monk」で被災者の声に耳を傾けました。
 
金田:  (金田さんが来訪者に、石巻弁で話しかける)石巻弁わかんのべか(わからない)。できるだけしょうじゅんご(標準語)でしゃべってください。しょうじゅんご(標準語)ですよ。石巻弁がわかんない。もしわかんなかったら、私通訳しますので、石巻語かな。こんな感じで一つよろしくお願い致します。
 
ナレーター:  「臨床宗教師」の「臨床」とは、苦しみ悩みを抱える人々に直接出会う現場をさしていると、金田さんは考えています。
 
金田:  本来は、宗教家はみんな臨床でなくちゃダメなんですよ。そこに教団だとか、教義だとか、いろいろな問題があって、それを押し付ける、その枠組みでもって死に向き合っている人に対峙するというふうなことになれば、これはちょっと拙いんですね。その方の価値観ですとか、その方の信じるものをきちっと受容できる宗教者、こういう能力が求められるんですよ。どの宗教もそうですよ。やっぱり死と向き合っていない宗教ってないですから。人間のはからいだとか、人間の思いよりも遙かに超えているものがある、存在する。それを感じ取っているというのが、宗教者だと思います。それがなくなってしまったら、もう私の中では宗教ではないんじゃないのかなという思いがあります。
 
ナレーター:  震災でもっとも多くの死者、行方不明者を出した石巻市。ここに金田さんと共に「Cafe de Monk」や臨床宗教師の養成に関わってきた僧侶がいます。北村暁秀(きたむらぎょうしゅう)さん。北村さんの寺は、津波の被害を免れました。しかし親しい友人知人や檀家の人々を百三十人あまりを津波で失いました。葬儀や供養に明け暮れた一年が過ぎた二○一二年の夏、北村さんは慰霊行脚を始めました。毎月十一日の月命日に、被災の大きかった場所を三時間かけて歩きます。この地で亡くなった人々を弔い、当時の記憶に苦しむ人々を慰めたいと考えています。
 
北村:  ここが病院の跡なんです。津波の水位の跡が残っているんですね。この辺もほんとは家がぎっしりあったんですね、ここ。
 

 
北村: 私が、せめて拝ませて頂く、読経させて頂く、歩かせて頂くことによって、亡くなった方が、まあ安らいでくれるかな、と。少しでも供養されたなとかね、安らいでくれたなと思えることで、今この地域にも家を直して、お住まいの方々がたくさんあるわけですね。ですから今住んでいらっしゃる方々の安心に繋がっていってほしいな。亡くなった方への供養と、そして今生きている方々への安心ですよね。私にとっては、この二つが行脚をさせて頂いている大きな目標であるかなと思いますね。実は私自身も一番の大親友が今回亡くなりましてね。ですからほんとにもの凄く悔しいし、悲しいし、こんなことはなければよかったと思います。何とかして、時間を巻き戻すことってできないんだろうかなと、ずっとその思いでしたね。認めるとか、認めないとか、認めたくないとかというんじゃなくて、あまりにほんとに目を覆いたくなるような様子でもありますしね。「Cafe de Monk」の傾聴活動に、私自身も携わらせて頂いたというのは、まあ震災の年の年末からではあったんですがね。自分のところがやや落ち着いたところで、後は今度はそういった心のケアというんですかね、ただほんとにせめてお話を聴かせて頂くだけなんですよね。私たちがこう解決するという、そういうつもりではなくて、ただただこう聴かせて頂く。ほんとに二年という時間が経つということで、当時は横一線だったということがあります。みんなが生きるか死ぬか、生き残ったけれども、今日どうしていいか、明日どうしていくか、というような状況の中で、みんなが横一線だったわけですけれども、そこからやがて時間が経ったことで、やはり歩み出せている方とそうでない方というのがウンと開きましたよね。勿論とにかくお仕事がままならないという方々もたくさんありますしね。地元の人同士、あるいは地域の人同士がやっぱりその辺を寄り添え合うと言うんでしょうかね、寂しい思いをしていらっしゃる方がないかな、お一人でなんだか家からさっぱり出て来られなくなっているなとか、そういうことというのは、近くの人とか、隣の人とか、そうじゃなければ正直なところ気づけない現実問題として、勿論全戸を万遍なく廻ったりとかということは、ほんとにボランティアさんとか行政の方でもなさって頂いているけれども、やっぱり同じ地域、同じ地元の方同士で、その当たりを気づき合い寄り添え合えるというような、そういうことが凄く大切なことなんじゃないかなと思うんですよ。
 
ナレーター:  震災から二年。仮設住宅での暮らしには、まだ終わりが見えません。金田さんの「Cafe de Monk」の活動は、間もなく百回を迎えます。
 
金田:  おそらく、例えばそれにより苦しみというのは変わらないと思います、これは。でも最初の頃は、それにこう神経が凄く集中していたなというふうな感じがします。で、起こった状況を理解するのに一年かかったと思います。それが今ちょっと過ぎました。ということになると、フッと理解するまで一年かかって、今度受け入れないとダメな時期なんですね。それを受け入れる時に、あまりにも失ったものが大きいのに気付いて、さらに今度二年経ったら三年、もうそろそろ力のある方は、お家を移られて、仮設を出られる。でも前も言いましたように、3・11が同じスタートラインじゃないんですよ。いろいろなものを抱えながら3・11を迎えていますから、力ない方もいらっしゃるんですね。その人たちが取り残されていくこの寂しさ、孤独感、焦り、そういったものが最近凄く目につくようになりました。ですから言葉にならないんですよ、そのような人たちの訴えというのは。地域に住んでいて、みなさんと生活を営んでいて、それが津波によって家が全部流されて、離れざるを得ない。バラバラに仮設に入る。でも仮設に入れば、同じような境遇の方々がまた集まっていますので、お互いに手を取り合って、なんとかその状況を理解して、落ち着きを取り戻して、前に向かって歩こうかなと思いながらも、やはりそこに差が出てくるんですね。そうすると、今度バラバラになるんです。また今度孤独になってしまうんですね、バラバラになりますので。そういう苦しみと焦りというのが、凄く今蠢いているような気がしますね。また出て行く方も辛いんですよ。このお婆ちゃんは、私がちょっと支えていた。でもやがて私もここを離れて行かなくちゃダメだ。どういうふうにして離れて行こうか。どういうふうにして去って行こうか、ということに悩まれている方もいましたよ。またこの仮設のままでいいんだ。もう私、ここで良い。仲間もできたし―歳のこともあります。健康のこともありますし―断ち切られ、また断ち切られ、しかも年齢との闘い。そのような苦しみですね、その街その街にあるお坊さんなり、牧師さんや神父さん、神主さんがそういう状況をきちんと理解して頂いて、自分の視界の中に、自分の現場として、視界の中に入れて頂くのがいいと思います。私たちだけではやっぱり限界がありますので。形も変わると思います。いろいろと変わると思うんですけども、やはりこの出来事、そしてこの出来事が起こった苦しみ悲しみには、一生向き合っていかなくてはいけない。「衆生病むゆえに我病む」と『維摩経(ゆいまきょう)』の中にありますけれども、私たちの立ち位置も、決して苦しみがなくて、悲しみがない世界に私たちがいくんではないんですね。そうではない。この苦しみとか、悲しみだとか、そういったいろんなものが渦巻いているところが仏国土である、仏様の世界なんですよ、というふうなことなんですね。それが病むということなんです。その中にどっぷりと身を浸して、そして一緒に歩んでいく。これ以外にないんだ。その中をこう自由自在にね、「Cafe de Monk」じゃないですけれども、軽快なジャズのリズムのように動き回っていきたいというのが、私の気持ちです。あまり肩肘張らずに、そのようにして今までずっとやってまいりましたので、それが私の今の気持ちです。
 
     これは、平成二十五年三月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである