聴く≠ニいう生き方
 
               京都ノートルダム女子大学特任教授 村 田(むらた)  久 行(ひさゆき)
一九四五年京都府生まれ。一九六九年京都工芸繊維大学工芸学部卒業。一九七九年神戸大学大学院文学研究科修士課程(哲学)修了。一九八五年神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。東海大学健康科学部社会福祉学科教授を経て、二○○四年四月より京都ノートルダム女子大学人間文化学部教授。専攻は、対人援助論、スピリチュアルケア研究、福祉原理、哲学。一九九三年から傾聴ボランティアを実践し、現在、傾聴ボランティア団体「日本傾聴塾」代表を務める。著書に「終末期がん患者のスピリチュアルペインとそのケア」「スピリチュアルケアにおける教育と研修」「スピリチュアルケアを学ばれる方へ」ほか
               き き て            品 田  公 明
 
ナレーター:  京都ノートルダム女子大学の村田久行さん。重い病気や災害などで深い心の痛みを抱える人々の話を聴く傾聴の研究を二十年にわたって続けています。
 
村田:  「相手を、話し手を助けるように反応する」とあるでしょう。このことが、結局は聴くということをもとにして、そもそもあるんだという。
 
ナレーター:  村田さん自身も、ホスピスや特別養護老人ホームに出向いて傾聴を行うことで、よりよいあり方を探ってきました。今回の「こころの時代」は、聴いた後の「ありがとう」が無上の報酬という村田久行さんに傾聴の真髄を聞きます。
 

 
品田:  村田さんは、これまで傾聴の理論付けですとか、そして実践的なプログラムを実施されていらっしゃったということなんですけれども、この傾聴というのはどういうものなんでしょう。
 
村田:  基本的には心を尽くして相手のお話を聴くという、そういうことだと思うんですね。よく言われますのは、「じゃ、聞いて何になるの」とか、「聞いてそれでなんか効き目があるの」とか言われるんですが、実はそういう効き目とか、何があるということじゃなくて、先ず相手の人の悲しみとか、あるいは苦しみを聴かせて貰うというのが基本だと思うんです。そのことで相手の人が少し気持ちが楽になったり、あるいは自分が整理できたり、あるいはまあできれば前向きになられたり、そういうことがあれば嬉しいなとは思っていますけども。
 
品田:  「聴く」ということですけれども、逆に難しいような感じもしますけれども、何か聴き方みたいなものがあるんですか。
 
村田:  よく傾聴とか、そういうコミュニケーション、カウンセリングでも言われますけれど、多くの人が関心をもつには、どうやって聴くのか、というのに随分関心を持たれるんですね。どうやって聴くかというのは、二番目三番目のことで、むしろ「何を聴くのか」ということの方が大事と思っているんです。
 
品田:  「何を聴くのか」が大切なんですか?
 
村田:  そのノウハウ(know-how)って、how to(何らかの作業をする方法や手順に関する非形式的な記述のこと)とか、テクニックじゃなくて、自分は一体何を聴かせてもらうのか、ということがわかっていなければ、それこそ傾聴の一番中心の、あるいは核心の部分がどこかへいってしまうと思うんです。基本的に相手の人の苦しみ、あるいは悲しみ、今の困難、そういうものを聴かせて頂くんだというのを、こちらがちゃんと、そのつもりでお話を聴くわけです。その理由は、「聴くことはそれだけで援助になる」と思っているからです。
 
品田:  援助になる?
 
村田:  援助になるから。じゃ、「援助って何なのか」というのが、その次ぎに不思議に思われると思うんですが、「援助」というのは、私は、「相手の人の苦しみを和らげる、あるいは軽くする、無くすることだ」と思っているんです。例えばお医者さんが、お腹の痛い人を薬とか手術で無くされますよね。そうすると、その患者さんは、「助かった」と言いますね。「ありがとうございました。助かりました」それが援助なんです。「助かりました」というのが。あるいはもの凄く気が滅入って生きる意欲もない人が、いろんなやり取りの中で聞いてもらって、「少し元気になりました」とおっしゃったら、それは「助かりました」に繋がりますね。
 
品田:  今、「何を聞くのか」という話がありましたけれども、この外には何があるんでしょうか。
 
村田:  次は、「何故聞くのか」というのが、大事だと思うんです。それは先ほど言いましたように、援助になるから。「聴く≠アとはそれだけで援助になるから」と考えているんですが、それは具体的には、上手に聞いてもらうと、気持ちが落ち着くんです。そして考えが調う。そして生きる力が湧くんです。不思議に思われる?
 
品田:  ええ。どういうところからそういう生きる力が湧いてくるようになるんでしょう?
 
村田:  そのことがおっしゃったように、どのように聞くかという、how toになってきますよね。
 
品田:  「何を聞くのか」「何故聞くのか」。
 
村田:  そして「どのように」。そのことですね。これについてはさまざまな側面から説明ができると思うんですが、人が絶望的になることの一番大きな要因が、「孤独(こどく)」ということだと思うんです。孤独というのは、人と一緒にいても孤独を感じるんです。
 
品田:  確かにそういう場面がありますね。
 
村田:  それは孤独が深まると、人によっては生きる意味がないという苦しみをいう人もいます。じゃ、「孤独ってどういうことか」というと、基本は「わかって貰えない」ということなんです。人にわかって貰えない。特に苦しみをわかって貰えない。その時に人は孤独を感じるんです。その一番具体的な例が、お年寄りには随分傾聴もさして頂いたんですが、お年寄りがホームにおられる時、それが今度は家に帰れた。家に帰って家族と一緒に暮らすことになって、「良かったね」とみんな思うわけですね。だけど孤独を感じて、どんどん生きる力を失う場合がある。それはわかって貰えない時に、孤独を感じるんです。
 
品田:  家族の元に戻って、で、周りに家族がいて、とても囲まれて良いと思いますけれども、そうではない?
 
村田:  ええ。そうではない。例えば具体的にはお年寄りは家族と一緒にいたら、よく昔の話をされますね。「昔はこうだった。そういう時はこうやってこうだったんだよ」とおっしゃいますね。同じ話を何回もされます。あるいは大切な魂の仕事なんだけど、家族はそれを聞こうとしないんです。つまりまた同じ話、またあのことか、というので、「はい、はい。わかったよ」とこう言いますね。そうすると、お年寄りは聞いて貰えない。わかって貰えない。そして孤独を感じるんです。その時に、それをどうすればよく聞いたことになるのか、ということですね。それは相手の人が言っている苦しみをしっかりと聞こうと思う。そしてそれを相手の人が言ったのを、「こうなんですね」と、同じ言葉を、ある大事な部分を相手に返すことで、相手はわかって貰えたと思うわけです。
 
品田:  聞いた言葉を返すわけですか?
 
村田:  ええ。そうすると、わかって貰えたと思う。わかって貰えたと思うと、自分は生きる意味がないと思っていた人が、「あ、まだまだ生きたいな」と思うようになる。末期の患者さんもそうだし、お年寄りもそうだし、あるいはさまざまなところで孤独で苦しんでいる人に対する傾聴の意味だと思うんです。
 
品田:  傾聴する際には、ではお年寄りならお年寄りの話したことを一回同じ言葉で返す。
 
村田:  はい。同じ言葉で返す。
 
品田:  それによってお年寄りが、「聞いてくれたな」ということを実感されるわけなんですね。
 
村田:  実感するわけです。その通りです。そういうように「わかって貰えた」と実感できた瞬間に、我々は「一人じゃないんだ」と感じるんです。そのことによって、人は、「あ、もう一度生きよう」と思える、その力が湧いてくる。それをさまざまなところで経験したので、今のように先ず基本は、相手の人の苦しみを聴こうと思う。あるいは困っていること、悩んでいること、あるいは矛盾を感じていること、そういうことをその人の言葉で聞いて、その大事なところ、「あ、こういうことだったんだね」と、「こういうことだったんですね」って、そういうことで、相手の人は、わかって貰えたと思うでしょう。そうすると元気になるんですよ。
 
ナレーター:  村田さんは、一九四五年に京都で生まれました。高校卒業して、進学した先は、当時最先端の技術、半導体の研究ができる大学。小さい時から理科が得意だった村田さんにとって当然の進路でした。しかし大学に入った村田さんに、人間は何故生きているのかという疑問が湧き出し、哲学書や文学書を読み漁(あさ)る日々が続くようになります。
 

 
村田:  中学、高校と理科が得意で、何も考えずに自分は理系の人間だと思っていたんですね。ところが実際に理系の工学部に入って―ちょうど十九で大学一年生になったんですが、その頃から不思議と「何故自分は生きているんだろう」という疑問が、どうしても胸から離れない、頭から離れない。それでやっぱり少しずつ、いわゆる文学書とか、まあ解らないなりに哲学書とか、実存主義の本とか、もういっぱい読んだんですね。読んでいくうちに、自分自身は確かに自然科学とか、工学あるいは技術は勿論面白いけれど、もっと自分は、「人間は」とか、「人は何のために生きているのか」というところが、ずっと胸の中で深く深くそれが湧いてきたと言いますか、その疑問を持ったまま高等学校の理科の教師になったわけですが、三年ほどそれをやっているうちに、やはりせっかくこうやって生まれたので、本当に自分の疑問に思うこと、あるいは自分の気になることをしっかりともう一度学ぼうと思って、哲学の方へ編入学で入りました。
 
品田:  しかし一回社会人になられていたわけですから、また学生に戻ると、経済的には不安定な形にもなるかと思うんですけれども、大変ご苦労もあったんでしょうね。
 
村田:  ええ。今から思うと、若いというのは無鉄砲なことだなと思います。ただやはり家庭教師をしたり、あるいはそうやって学費を少しずつ自分で稼いだりしながら、まあ哲学を勉強したわけです。で、勉強したのは、実はそう言いながらも、実存主義とか、そういうのでは無くて、「イギリス経験論」(「全ての知識は経験に由来する」とする哲学論)というのがありまして、それは「人間の知識は経験からしか得られない。それ以外のものではなくて、経験から得られるものこそが、すべての知識の基だ」というそういう考え方ですね。それはそれまでにやっていた自然科学とか、科学技術の考え方とほぼ同じと思うんです。
 
品田:  その経験に基づくものだ、ということを勉強しながら、どういうことを思われていたんですか。
 
村田:  非常に経験に基づいて物事は成り立っているのは、この世界のことはそれで説明できると思った。ですが、その経験の中に、例えば「生きる意味」とか、あるいは「人間を超えたもの」とか、そういうものはどうしても入ってこないんですね。その経験主義というもの自身が、この世界のことを説明する、そのことはできるわけです。でも一番最初に言いました、「何のために生きているのか。人は何故生きているのか」ということは、そこから出てこない、というのに気が付いた。それでこれはこのままでは限界だなということはわかりました。
 
品田:  経験しなければならないということは、当然人として生きてきて、経験できないこともあるわけですよ。
 
村田:  ええ。それは具体的にはよく言われます、死んだ後のこと、死んだ後自分はどうなるか、ということは経験できませんね。あるいは自分がこの世に出てくる前のこと、自分はどこから来たのかということは、そこからは出てこない。勿論父と母からこうやって生まれたんだと言われています。でも自分の実際の経験としてはどっから来たかわからないですね。もう少しシビアに言いますと、いずれみんな死ぬのに、何故いろんなことに努力するのか、というそういう虚しさというか、そういうことがずっと気になっていたんです。それが自然科学のもとの考え方、経験主義というものを勉強することで、逆にそれは限界があるな、と。それはもっと人間が生きる意味とか、あるいは自分の生きている実感とかは、そういう自然経験論とか、あるいは科学的な説明ではできないということに気が付いた。
 
品田:  科学的なことで説明できないと気が付いてからどうされたんですか。
 
村田:  そこから彷徨(さまよ)っていました。実際はさまざまな生活は、大学の教員をやったりとか、あるいは専門学校の教員もやったこともあるんですが、そういう形で生きてきたんですが、その中でやっぱり「本当に生きるとはどういうことか」、あるいは「よく生きるとはどういうことか」ということが、ますます色濃く自分の疑問、あるいはもっと探求したいことだなと思えてきた。今から思うと、それが哲学の主題だったなと思うんですね。
 

 
ナレーター:  人は何のために生きているのか。自分が生きている意味は何なのか。そんな疑問を抱えながらの日々を送っていた村田さんに、あるきっかけが訪れます。それはパストラルケア (pastoral care) というキリスト教に基づいた、病で心の痛みを抱えている人々への援助との出会いでした。
 

 
村田:  ある時、「カトリック新聞」という新聞がありまして、それにある神父さんのリポート(report:報告)があったんですね。それはアメリカの病院でよくされている臨床パストラルケア、クリニカル・パストラルケアというものを受けた、あるいはそれの教育を受けたリポートがあったんです。
 
品田:  「パストラルケア」というのは、どういうものなんですか?
 
村田:  それは難しいんですが、キリスト教をベースにした、あるいは宗教をベースにした魂のケアというように考えたらいいと思うんです。「パストラル」というのは、牧場で羊飼いが羊を養うように、あるいは羊を世話するように、人の魂の世話をする。そういうのを「パストラルケア」と言うんです。どうういうことをするかというと、病気の人の身体のことは医療の人―ドクターとかナースがケアしたり、治したりしますね。でもその病気の人の魂をケアする、そういう専門職だということなんです。魂をケアする専門職を育成する、そういうコースが病院にはあるということなんです。アメリカの病院には、今もあるそうです。それを「Clinical Pastoral Education」と言います。「CPE」というんですね。それをある神父さんがちょうど一年間受けて、そしてこういうことだったよ、という記事を読んで非常に興味をもって、私もやりたいと思って、その神父さんに電話をして、「こういうのは日本でやっているところがありますか? 日本でこのClinical Pastoral Education(CPE)≠受けたいんだけど」と言ったら、非常にあっけらかんと「日本にはないですな。はっはっはっ」と笑われた。「そんなのないですな」と言われた。
 
品田:  アメリカでは、そういう形のケアというものが組み込まれているけれども、日本にはないと。
 
村田:  ない。といって、アメリカへ行くわけにもいかないし、自分はまだそういう大学の短大の教員をやっていましたので、「それではアメリカには行けないですね」と言ったら、その神父さんが、「日本で初めて姫路聖マリア病院というところで、第一回目をするんだ」というので、紹介してくださった。それを受けたんです。毎日午前中は、その講義と演習がある。午後は患者さんを訪問するんです。訪問してパストラルケアを実際やりなさいという、そういうコースなんです。驚きました。先ず医療者でないものが、患者さんを訪問して、そして「魂のケアをしろ」と言われて、どうすればいいのか。ほんとに皆目雲を掴むようなことだったんですが、これは今になってわかるんですが、「訪問することというのは、非常に大事な援助だ」と思うんです。何故なら、誰も訪問されない人って、どんな気持ちだろう。如何ですか?
 
品田:  寂しいですね。
 
村田:  寂しいですね。特に病気になって、自分が治る見込みがないと思っている、あるいはわかっている人に、誰も訪問してくれない。勿論家族が来てくれる人はそれはそれでいいかも知れない。家族も来ない人はたくさんいるんですね。そこへ行って「どうですか?」と言って、「すること自身が大事だ」と言われる。さらに言われたのは、「何もしなくていい。そこにいることが大事だ」とおっしゃるんです。
 
品田:  居ることが大事?
 
村田:  これが一番辛いことでした。
 
品田:  「何もしないこと」って、できないですよね。
 
村田:  できないですね。
 
品田:  では何をしたらいいんでしょうか?
 
村田:  その時、二つのことを練習させられました。先ず何もしないで傍におれる。そういうことは、こちらが心が安定して、しっかりと相手の人に信頼の気持ちをもっていないとできないよ、と。それからもう一つは、「傾聴」を教えて貰いました。つまり何か言うんじゃなくて、聞くことが大事だ。その人のさまざまな思いとか願いとか、あるいは苦しみを聴くことが大事だ。それは援助になるんだ。それが結局は、魂のケアになるんだ、ということを教えて貰ったんです。
 
品田:  実際にお邪魔しますと、患者さんのところへ行って、「お話を聞きにきました」だけでいいんですか。
 
村田:  ええ。それしか言わないんですね。「お話聴かせて頂けますか。お話を聴かして頂きにきました」と言って。相手の人が、「いいよ」と言ったら暫く坐らして貰って、ずっと待っているわけですね。
 
品田:  で、お話頂けるんですか?
 
村田:  不思議なことに、さまざまお話されました。初めての人間に対して。多くの人は何故この病気になったのか。いつ頃から、どういうことをしたのか。どういう苦しみに遭ったか、というのを、いっぱいお話されるんですね。不思議なことに、また話した後で、「あ、なんかちょっと楽になったわ」と言ってくださるんです。で、その時は勿論キリスト教の考えをもとにしたパストラルケアというものですから、講義のところでは―午前中の講義と演習のところでは、キリスト教からみたら、これはこういう意味があるんだとか、そういうような魂の動きはこういうふうになっているんだ、ということを、随分解説をして頂いたんですね。それで一番学んだのは、「聴くことはそれだけでいいんだ。聴くことはそれだけで援助になるんだ」というのを、その時に学んだ。で、それを基にして、今その当時住んでいました山形県庄内(しょうない)地方―酒田(さかた)に住んでいたんですが、戻って早速傾聴ボランティアをやろうと、病院に行ったんですね。「私は、こういう研修を受けたので、パストラルケアを実際させて頂けますか」。当時は、やっぱりキリスト教を基にして、魂のケアをする。そういうのを、「病院の患者さんとか、さまざま苦しい思いをしている人に、今からしたいんです」と言ったら、全部断られたんです。「家(うち)はキリスト教は要りません」と。
 
品田:  「キリスト教」ということで断られた。
 
村田:  断られた。かなりいくつか行ったんですが、全部断られて、あ、これはできない。パストラルケアというのは日本でできないのかな、と、随分その時は落ち込んだわけですが、たまたま知り合いの方に、特別養護老人ホームですね、特養ホームの理事の方がおられて、いろんな話をしている時に、「こういうパストラルケアをやろうと思ったんだが、できないんです」と言っていたら、「じゃ、そんなこと言わないで、家のホームでお年寄りの話を取り敢えず聴いてくれますか」と言われたんです。「年寄りは話しするのが好きだから」とかなんか言われて。じゃ、とにかくそういうパストラルケアとか言わないで、お年寄りの話を聴きに行こうか、というので、始めたのがこの傾聴の始まりなんです。最初は、「聴いてどうするの?」だとか、「聴いて何になるの?」とか、「どっかの調査ですか?」とか、いろいろ言われたんですけどね。でも訪ねて行くと、「自分は、昔はこういうことをしていたんだよ」とか、「昔の生活は良かった」とか、あるいは時には、施設への不満もおっしゃいましたね。職員には言えないようなことも含めて、いっぱいいろんな話をされた。そうやって、「また来てほしい」という、そういうことを何回も言われるようになりました。そのことから、別にキリスト教とか、そんなことを全然出さなくても、先ず聴かせて貰うというか、聴くことだけでいいんだ、というのを、もう実感として持った。それが先ほど言いました、「聴くことはそれだけで援助になる」ということの一番土台(ベース)になることですね。
 

 
ナレーター:  一九九六年、村田さんは、オーストラリアにある世界で二番目に古いホスピスを訪れました。ここで大切なことを教わります。
 

 
村田:  「聽(き)く」ということを、いわゆる音をただ聞くみたいな、そういうのではなくて、まさに「傾聽(けいちょう)」の「聽(ちょう)」という、それを教えてくれたのが、むしろオーストラリアのあるホスピスの教育主任だった人なんです。その時に貰ったのは、「聽というのはこういうのなんだ」と言って、その時に頂いた資料なんです。
 
品田:  これがオーストラリアの方から渡されたわけですか。
 
村田:  その通りです。オーストラリアのシドニーにSacred Heart Hospiceというのがあって、南半球では一番大きなホスピスだということだったと思うんですが、そこで二週間ほど教育研修を受けに行ったことがあるんです。つまりホスピスで、職員がどんなことを学ぶのか、というのを、それを勉強に行ったんですが、そうした時にいろんな教育プログラムを教えてくれたんですが、ホスピスでは、「これだ。聽(き)くことが大事だ。これを全職員に対して、これを使って研修しているんだ」と言ってくれたんです。
 
品田:  欧米の方の中に漢字が使われているわけですね。
村田:  その通りです。「あなたは東洋人だからわかるだろう」と言って、これをくれて、「聽くというのは、ただ単に耳で聞くだけではないよ。ちゃんと目で聽くんだ」。「目」―「EYES」と書いてある。目で聽くんだ。さらには心で聽くんだ。そこに一本棒が入っていますね。これは、「UNDIVIDED ATTENTION」とあるんですが、「それぞれがバラバラでない集中した注意力で聽くんだ。これが聽(ちょう)だよ」とおっしゃってくださった。教えて貰ったのは「Learn to Listen」つまり聽くことを学べ。同時に「Listen to Learn」学ぶために聽け。そういうことを教えてくれたんですね。
 
品田:  不思議ですね。欧米の考え方と東洋の字が、まさに漢字が象徴的なものになっているというのは。
 
村田:  勿論その方たちはまさにListenということは、大事な意味があると、ここには書いてあるんですけれど、それ以後私自身も、もう一度日本に帰って、改めて「聽」というのを調べてみたんですね。白川静(しらかわしずか)(漢文学者、古代漢字学で著名な東洋学者:1910-2006)という方の『字通(じつう)』とかという本があって、そうすると面白いことにこの「聽」という漢字の親戚、つまり王みたいなものがありますね。これがずっと下にきて、ここに口があると「聖(せい)」という字になるんです。「ひじり(聖)」の。そしてここが行人偏(ぎょうにんべん)になると「コ(とく)」になるんです。「人コ」とかと言いますでしょう。そう白川静先生のには書いてある。それはどういうことかというと、「聖なるものの声を聽ける人、その人が徳がある人だ」という意味だそうです。人間を超えたもののメッセージを聴く力がある人、あるいは聴ける人、それが徳のある人。つまり聖職者はそういう者だ、という意味だと思うんですね。あるいは聖職者でなくても、我々が生きているうえで、どういうようにすればよく生きられるか。それは「聴く力によるんじゃないか」と最近思っているんです。聴くことによって、自分の徳―徳というのは、なんか大層な善いことをするんじゃなくて、まさに聴くということと、聖なるものは徳において繋がっているんだ、ということが、この漢字の意味だというように、白川静先生はおっしゃっている。どうですか?
 
品田:  凄く繋がって、なんか一つの流れとして受け止められますね。
 
村田:  そうですね。意味が繋がっているということですね。これはやっぱり漢字ですから、中国古代の人たちはそういうようにして生きていたんだ。人間を超えたもの、聖なるものの声を聴ける人を、徳ある人として尊敬していたんじゃないか、と僕は思うんです。で、そうやって聴く力が強く、あるいは鋭くなると、人の苦しみがまさに見えてくる。それは聴くことの一番最初のサインをメッセージとして受け取ることなんです。あるいは人間を超えたものの姿、あるいは声、メッセージは、我々が聴く力が付けば、それが身に付くということですね。
 
ナレーター:  オーストラリアのホスピスから帰ると、村田さんは、傾聴ボランティアの養成講座を開設します。さらに二○○六年には、NPO法人の研究会を立ち上げ、さまざまな事情によって苦境に立たされた人々を、傾聴によって援助するボランティアを続けています。
 

 
品田:  医療の分野でも、そのような傾聴が患者さんを前向きにさせていく、ということもかなりあるんでしょうね。
 
村田:  ええ。医療の分野は、今特に末期の癌の患者さん、それから認知性のお年寄り、それから鬱(うつ)で落ち込んでいる人、あるいは社会的に孤立と孤独の中で、誰にも気づかって貰っていない人。もう死んだ方が増しだと思っている人。そういう人たちに対して、一番できることは聴くことなんです。これは緩和ケアの病棟、あるいはホスピスで、いつも僕は看護師さんとかドクターに教えるのは、「聴くことは最後で最大の援助だ」ということです。
 
品田:  患者さんは、さまざまな苦しい立場に置かれているわけですよね。
 
村田:  医療の現実は、非常に大きな課題をもっていると思うんです。それはすべての病気が治るわけではない、ということです。あるいは今日本では、例えば先ほどから話題になっています癌の患者さんがたくさんおられて、将来は二人に一人がなるだろうとか言われていますね。さらに癌というと、メッセージとしてはやはり「死」というものがある。癌だってすぐ死ぬわけじゃないけれど、治らない病気の代表として言われていますね。現に年に三十万人の方が癌で亡くなっている。死亡理由の第一位が、ずっと癌だということですね。これは医療にとっては、実は限界なわけです。つまり治らない病気の象徴です。その時に優秀な外科医、あるいは優秀なドクターほど悩むわけです。どういう悩みか。自分がずっと関わって治療してきた患者さんが一旦よくなった。でも再発している。まただんだん悪くなっていく。自分の打つ手は何もなくなってしまう。その時にドクターは、実は自分の無力に悩むんです。自分が学んできた、自分が磨いてきた技術が役に立たないという現実に向き合わざるを得ない。患者さんの方からは、「先生、治るんでしょうか」と言われる。それは患者さんはふっと言ったかも知れない。でもドクターにとっては、自分が責められているように感じるんです。「あんたは治せないんだね、って。役に立たないんだね、と言われているようだ」と、ドクターが実際僕に言ったことがあります。あるいは看護師の人も、やっぱり治すことができない患者さん、治ることのない患者さんは、看護師に、「もう生きていても意味がない」という苦しみを直接訴えるんですね。あるいは「もう安楽死させてくれ」という人がいます。
 
品田:  その時の患者さんは、どういう状態に置かれているんでしょうか。
 
村田:  患者さんは、いろんなさまざまな苦しみの中にいると思うんです。あるいは苦痛ですね。これは医療の現場で、特に緩和医療の現場では、「全人的な苦痛」と言われています。「身体的な痛み」身体の痛み、あるいは「精神的な痛み」心の痛み、これはイライラするとか、不安だとか、あるいは寂しいとか、あるいは気が滅入るという、精神症状として現れる苦しみです。さらには「社会的な痛み」社会的な苦しみがあります。つまり医療費が、治療費がもの凄くかかる。あるいは家族の迷惑になっているかも知れない。私さえいなければ、みんながちゃんと経済的には暮らせるのにこんなに医療費がかかっては本当に申し訳ないとか、そしてもう一つに、「スピリチュアル(spiritual)な痛み」というのがあるんです。「スピリチュアルな痛み」というと、何か宗教的な感じがするかも知れませんが、勿論アメリカとかではそういう捉え方が主にされています。先ほどのパストラルケアの人、あるいはチャプレン(chaplain:教会・寺院に属さずに施設や組織で働く聖職者(牧師、神父、司祭、僧侶など))が、主に宗教的ケアとしてその痛みをケアをしています。でも日本の多くの医療の現場では、宗教者はそもそもあまり病院に入らないし入れない。その中でスピリチュアルな痛み、そういうのを患者さんが訴えた時に、また看護師は特に限界を感じるんです。その痛みはどういうものかと言いますと、生きる意味がない痛みと考えられます。生きることはもう意味がない。もう無意味だ。そして同時に私は生きる価値がない。あるいは家族の迷惑になっている。家族の負担にばっかりなっている。居ない方がいい、という、その苦しみですね。さらにはもう一つ大きな苦しみがあるんです。それはまさに「死ぬ時は一人で死ぬんだ」ということです。患者さんに聞いたことがあるんです。死ぬ時は一人で死ぬんだよ。どんなに親しい人でも、どんなに大切な家族であっても、死ぬ時は、私は一人で死ぬんだ。これが孤独という苦しみですね。これは「スピリチュアルな痛み」というものです。それに対して、じゃ、医療者のみなさん、あるいはそれこそ宗教者のみなさん、あるいは家族は、どういうことができるか。その苦しみ、痛みを和らげることができるか。薬はもうダメですね。手術とかもダメでしょう。あるいは放射線当てても治らない。あるいはお説教もあまり役に立たないかも知れない。有り難い人の昔の有り難いお話を聞いたところで、その苦しみが和らぐとは限らない。「仏さんが向こうで待っていてくれるよ」と言われても、和らぐかどうかわからない、それを信じていない人にはね。「天国があるから」とか言われても、「ほんまか?」と思うかも知れませんね。その時にできるのが傾聴なんです。聴くこと。スピリチュアルペイン(スピリチュアルな苦しみ)に対しては、聴くこと、それがケアになる。そう思うんです。具体的な例で申し上げたら、こういうことがあるんです。ある六十代の女性の患者さんが、ホスピスに入院して、二、三週間になる人がおられた。私は、前の学校が東海大学で、神奈川県のあるホスピスに週一回、四年半ずっと通ったことがあるんです。そこでまさに傾聴したんですね。医療者でない私が、そういう医療行為はできませんので、できるのは傾聴ボランティアとしてお話を聴く、そのことをしたんですね。その時に、最初お会いした時、その女性は、まあ歯が痛いのもあったし、自分は家族の迷惑になっていると思うし、自分なんか居ない方がいいんだ、というような思いをたくさん持っておられた。そしてイライラして、なんか落ち着かない状態だった。その方がおられたんですね。その方に、「傾聴ボランティアです。お話を聞かせて頂けますか」と言ったら、「まあどうぞ」というので、少しお話をしていたら、だんだん昔の話をされるんですね―病気になる前の話。その方は主に言っておられたのは、「私は、母親には嫌われていたんだ」というお話をされるんです。弟がいたんだけれど、弟は大事にされたけど、私は母親からは大事にされなかった。そういうのもあって、北海道の人だったんだけれど、関東に出て来て、そこで結婚して子どもを育てたけど、癌になってしまって、自分は治らないと思っている。そうおっしゃるんですね。だけど、その母親のことが許せないまではいっておらないけれど、嫌われていたんだ、というのはもの凄く気になるし、今もそれがわだかまっているんだみたいなお話をされるんですね。そこでお母さんのこと、あるいは北海道でどんな生活をしたのか、あるいはどういう理由で飛び出して関東に来たのかとか、さまざまなことを全部お話をされた。そのことで少しずつ自分がどうやって生きてきたのかなと振り返られたように思うんです。たびたびお母さんへの怨みとか、あるいは「こうしてくれたらよかったのに」というような言葉を含めて、お母さんの話がいっぱい出てきた。それを私は傾聴して、「あ、こうだったんですね」と聴いていくと、だんだん「そう言えば、でもお母さんはこの時こんなことをしてくれたな」というようなことも思い出されるんですね。つまり例えば自分は結婚して親の元をびゅっと離れて神奈川県に来た。だけど結婚して、子どもが初めて生まれた時は、そう言えば母親は北海道からわざわざ来て、子どもの世話もいろいろしてくれたんだなとか、あるいは外の困った時は結構来てくれたんだ、みたいなことを、だんだん話され出すんですね。思い出されてくるんですね。今まで嫌だとか、私のことを冷たい人だと思っていたのに、でも話すことでだんだん思い出されて、「あ、こういうこともやってくれたんだ」ということを思い出されるという話をされる。結果としては、そのお母さんは、四年ほど前に亡くなったんですけどね。でも「お葬式は、私が出したし、お母さんのことをちゃんと見届けた、見送ったんです」という話をされた。それで二、三回そういう話を聴いていたんですね。次の週行きましたら、なんか雰囲気がちょっと違うんです。「なんか雰囲気が違うようですね」とか言ったら、「不思議と最近母親のことが思い出されるんです」とおっしゃるんですね。母親のことを思い出される。そして、「お母さんはいろんなことを教えてくれたし、お母さんが向こうで待っていてくれるような気がする」とおっしゃるんです。なんかそんな気がすると。「お母さんが向こうで待ってくれるような気がするんですね」とか言って、聴いていたんですね。次の週また行きましたら、「お母さんが向こうで待っていてくれるような気がするし、最近は母親のことを祈っています」とおっしゃるんです。お母さんのことを祈っている。そういう形でもう亡くなっているんですね。「死をも超えた他者」と、僕は言っていますが、昔のことをずっと語ることを通して、もう既に亡くなっている人、その人が私を見守っていてくれていると実感する。そして自分はそのお母さんのことを思って祈るという、そのことができる。そのことで随分落ち着いた、あるいはしっかりとした感じでそのことを話される、というのを経験したことがあるんです。その方は、決して宗教とか、信仰があるわけがないんですよ。でも祈ることができるというのは、はっきりと「死をも超えた他者」―お母さんとの繋がりの中で今を生きているという、そういうことになりますよね。それがその人の今の気持ちの落ち着き、そして生きることを大事にしようという、その態度に現れていると思ったんです。これは死が間近な人の不安とイライラが穏やかになられ、さらには自分が死をも超えた他者と繋がっていると実感できる瞬間、それができたのは「聴く」ということを通してできたと思っているんです。で、僕は決して、「お母さんが向こうで待っていますよ」とか、そのことを一言も言っていないんですよ。向こうからおっしゃった。どうしてそういうことが起こるのか。それは「生(せい)の回顧(かいこ)」という、先ほど申し上げた「昔のことをずっと語る」というのは、「生の回顧」というんですね、この分野では。「ライフレビュー(Life Review:生の回顧)」というんです。それは自分自身が生きてきたことをもう一度語ることを通して、自分の大事なこと、自分の一番―日頃は思っていないけれど―気が付かなかったことに気が付くプロセスだ。そして死をも超えた他者をもう一度見出す、そういう作業をしておられると思うんです。これをスピリチュアルペインを和らげるスピリチュアルケアと、私は思っています。それはつまり死を間近にした人は、そういうライフレビューをするんですね。自然とします。それはまさに魂の仕事と思っています。魂は、死が間近になると仕事を始めるんだ。
 
品田:  確かに自分が思わなかったことを、思ってこなかったことを思い出すというきっかけが傾聴になったわけですね。
 
村田:  傾聴になる。語る、つまり聴いて貰うこと。そしてもう一つ大事なのは、ライフレビューというのは、どういうことをしているのかと言いますと、よく「過去の事実は変えられない」と言いますね。その通りなんです。ですが、過去の事実は織り直すことができるんです。
 
品田:  「過去の事実は織り直すことができる」それはどういうことでしょう?
 
村田:  自分の昔あったことを思い出すままに語りますよね。語る中で、魂は作業をするんですよ。こういうことがあった。こういう意味があった。そうやってその事実をどうやって縦糸と横糸で織り直すかで、新たな模様が生まれ浮かび上がってくるんです。それは「その人の一生だ。生きたということは、こういうことだ」と実感できる。そういう作業をまさに魂はするんじゃないかなと思うんです。ですからその「スピリチュアル」というのは、昔は「霊的」と訳していましたけれど、まさにその人は生きる意味を生み出す力がある。これはスピリチュアルな力だ、と、僕は思っているんですね。それを支える傾聴―聴くことを通して、それがスピリチュアルケアだと、そういうふうに思うんです。その女性の患者さんは、亡くなる前に、ほんとになんか雰囲気も変わったし、落ち着かれた、あるいはまあオーバーにいうと、ちょっと輝くような雰囲気になられて、そして僕に握手を求めて、「またあの世で会いましょう」とおっしゃったんです。
 
品田:  凄く穏やかになられたんですね。
 
村田:  その二日ほど後に亡くなられたそうですけどね。こういうなのは、さっきの宗教的な言葉は一切使っていないし、何か僕がお教えしたわけではない。その人自身が語ること、つまり聴いて貰うことで、自らが新たな将来を生み出し、新たな死をも超えた他者を思い出し、その中で自分がよく生きたというのを、織物を織り直して生きられたなと思うんですね。その手助けができたというのはスピリチュアルケアかなと思っていますよ。
 
 
ナレーター:  村田さんは、よく聴くことによって築かれる信頼関係が、現代社会では重要であると説いています。自分の意見をいうだけではなく、人の言葉に耳を傾ける。よく聴くことで相手を理解できるようになり、立場や考え方が違っていても、信頼関係が築かれ、お互いの意思が通いやすくなるというのです。
 

 
村田:  援助する場合、つまり傾聴する場合は、それを言葉にして、「こうこうですね」と受け取って返すという、することで、相手の人は、「あ、ほんとにわかって貰えた」と思えるわけです。わかって貰えると、先ず安心だし、そして信頼の関係が生まれますね。信頼の関係というのは、そうやってわかって貰えたというのがあって、初めてできるんです。ところが今の、特に戦後、私もずっと生きてきたこの日本の社会は、お互いのことを聴こうとしない社会になっていますね。だから結局はわかって貰えない。どうやって相手を説得するとか、どうやって話すかばかり訓練していますね。それでなくて、聴くことをしてくれる人が増えると、わかって貰えたと思えるそういう関係。つまり信頼関係がもっともっと深まる、あるいは広まると、僕は思うんです。
 
品田:  確かに「一生懸命自分を主張しなさい」ということは、大分言われますけれども、それと同じぐらい「聞きなさい」ということをあまり言われたことはないですね。
 
村田:  ない。今の学校教育では、それは言わないですね。「読む、書く、話す、聴く」ですね。勿論英語とかだったら「リスニング(listening )」と言いますが、あれは技術としてただ言葉尻を聞くだけのことですね。それよりも学校教育で「読む・書く」は訓練ずっとしてきているんです。だけど「話す」は最近やり出していますね。「自分のことを発表しなさい」とか、「自分の意見を言いなさい」と、その訓練はしています。でもこの「傾聴」の「聴」の「聴く」訓練ということはやっている学校ってあるでしょうか?
 
品田:  一般的には、「人の話はよく聞きなさい」とは言いますけれども、ちょっとここまではないですね。
 
村田:  あれは学校の先生が、授業で「教師のことをよく聞け」と言っているに過ぎないので、「こうしなさい」と言った瞬間に、その信頼関係はぶち壊しになるんです。その証拠に、患者さんも、子どもたちも、児童、生徒、学生も、「こうこうしてほしい」、あるいは「こうこうしなさい」と、その指導をほしいんじゃないんです。「ただ聞いてほしい」というのがあるんです。で、わかって欲しいんです。聞いて解釈しないで、「あなたはこうこうこう思っているんだね」と言って、待つことができると、その人自身は自分で整理されて、また言いますよね。「あ、こういうことなんだね」って、反復の技術を使うことで、どんどん自分の発見をしたり、あるいはこういう意味があるんだと気が付いていく。それはその人が育つということですね。
 
品田:  そこまで待てるんだろうかという不安はありますけれども。
 
村田:  おっしゃったように、「待つ」というのが、またできないんですね。「待つ」というのは、相手に信頼を示すことなんです。そういう意味では、傾聴の時の「待つ」というのもそうだし、あるいは場合によっては「三年待つ」というのも「待つ」ですね。この人のことを三年待とう。今はできない。今は考えられない。でも「待とう」というその態度は、相手にできるんだという信頼を相手に示しているんです。
 
品田:  そうですね。
 
村田:  待って貰うと、やはり嬉しいし、やってみようという気になると思うんですよね。ちょっと話が随分逸れましたけど、先ほど言いましたように、「自分の考えを、言おう言おう」としているのが、今の社会だと、僕は思っているんです。その中で一人でも、「聴く」ということを基本にした応対をすれば、どれほど「わかって貰えた」と思える瞬間が増えるかなと思うんです。その意味で、私自身はまあ後残された自分の生き方を「聴くという生き方にしたいな」と思っているんです。それは人を元気にするし、人の苦しみを和らげるし、そして自分自身も、先ほど言いました人間を超えたものも含めて、そういうメッセージを受け取る、そういう生き方になるかなと思って、是非それを目指したいなと思っているんです。
 
     これは、平成二十五年三月三十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである