生命(いのち)を書く人・人となる―慈雲―
 
                英文学者     寿 岳(じゅがく)  文 章(ぶんしょう)
                高貴寺住職    前 田(まえだ)  弘 範(こうはん)
                新潟大学名誉教授 三 浦(みうら)  康 廣(やすひろ)
                東大寺長老    清 水(しんみず)  公 照(こうしょう)
 
ナレーター:  「愛山(あいざん)
山を愛す。葛城(かつらぎ)の山(、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境に位置する山)をこよなく愛し、ここを終生(しゅうせい)の地と定めた慈雲(じうん)(江戸時代後期の真言宗の僧侶。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した:1718-1805)の書です。
 
 
 
 
「銀河(ぎんが)
夜空を冴え冴えと渡る天の川のイメージでしょうか。
 
 
 
 
 
 
梵字(ぼんじ)「阿(あ)
宇宙の根源を表すとされるサンスクリットの最初の文字。
(密教では、一切言語の根源であり、衆声の母、衆字の根本であるとする)
 
 
 
 
「このごろは
諸一切種も
わすられて
いたづらに聞く
入相の鐘
(自詠和歌「入相の鐘」)
 
枯淡の筆。超俗の心。慈雲晩年の境涯。
「人」
人は人となるべし。
この人となり得て神ともなり、
仏ともなる。
 
慈雲の思想の核心を示す言葉です。
 
 
慈雲は、江戸時代の中頃、釈迦在りし日の正しい仏教の復興を称え、自らもこれを実践した僧侶です。その高い徳、真摯な修行、深く広い学門は、当時から人々の尊敬を集め、「慈雲尊者」、あるいは「今釈迦(いましゃか)」―つまり現代の釈迦と呼ばれました。大阪中之島のビル街の一角、高松藩蔵屋敷跡、享保(きょうほう)三年(1718年)慈雲はここで生まれました。父は浪人で、高松藩の役人の家に身を寄せていました。慈雲は幼い時から勝れた資質と激しい気性を示したと伝えられます。十三歳で父を亡くし、その遺志により摂津(せっつ)田辺の法楽寺(ほうらくじ)(大阪市東住吉区)で出家得度。ここで師の貞紀和上(ていきわじょう)から悉曇(しったん)(サンスクリットのシッダム(siddham)を音訳した漢語である。狭義には母音字を指す言葉であるが、子音字も含めてサンスクリットを表す文字全般を称する場合もある)、つまり古代インドの言葉サンスクリットの手解きを受けたことは、後に大きな意味を持ちました。長ずるに及んでも各地を行脚、儒学を修め、禅に参ずるなど視野を広めます。こうして宗派を超えた真理、つまり釈尊の教えそのものを目指して、後世の仏教の誤りを廃す「正法律(しょうぼうりつ)」を称え、実践することとなりました。
 
「大道通長安」
大道(だいどう)は長安(ちょうあん)に通ず。仏法はさまざまに説かれるけれど、根本の真理は真っ直ぐ一つである。宗派を超えた大道。これこそ慈雲が一生求め続けた道でした。
【唐の都長安に天下の諸道がことごとく通じている。同様に仏祖の大道たる正法律を護持していくことが偉大な悟りに通じていることをいう。『趙州録(じょうしゅうろく)』巻中に「問う、如何なるか是れ道、と。師云く、墻外底(しょうげてい)、と。云く、者箇(しゃこ)を問わず、と。師云く、什麼(なん)の道をか問う、と。云く、大道、と。師云く、大道は長安に通ず、と」とある】
 
慈雲を生涯の師と仰ぐ英文学者の寿岳文章(じゅがくぶんしょう)(英文学者、随筆家、書誌・和紙研究家。民芸運動家:1900-1992)さんが、この書に出会ったのは遠い以前のことです。
 
寿岳:  私が、そうですね、四つ五つの頃だったと思いますが、自分の生まれた神戸の真言宗の寺ですが、その寺が慈雲尊者と関係があるなどということはまったく知らなかったんですね。ところがある日、持仏像の前の経机を何気なしに開けてみたら、そこへくるくると軸の中のものが、クチャクチャにはなっていなかったけれども、乱暴に入れてあったんですね。何故こんなふうにくしゃくしゃになっているのかと思いながら、開けて見たら、実に子ども心にも立派な字だなということがわかるんですね。それがなんとこのそれから後に我が身離さず持ち回っている「大道長安通ず」というこの中のめくりなんですね。しかしそれがどれほどの値打ちがあるものやら、子ども心にはわからなかったんですが、よく寺なんかへやって来て、絵描や書家が書いていくのとは違っているなということが、子ども心にも、その時から染み付いたわけですよ。それがそもそも慈雲尊者との縁が繋がるという始めで、この歳になりますと、よくインタビューとか、そういうことでやってきた人から聞かれることですけどね、「君は、日本の歴史に名を残している昔から今日至るまでの日本に生まれた人の中で、偉い人として一人だけ出すとしたら、誰を出すか」という質問ですね。これは私は、昔から今日に至るまで、そういう質問があったら、「それは慈雲尊者だ」ということに決まっているんですね。その理由と言いますのは、ちょうど慈雲尊者が生まれたのは、西暦にすると十八世紀(1718年)ですね。そして亡くなったのは十九世紀の初め(1805年)という頃になっていますが、ご存じのように十八世紀には、その十九世紀になって非常に盛んになってくるインド学という、つまり東洋に対する学門というのが、西洋ではまだやっと英国やフランスで手をつける人ができかかった頃ですね。ところが慈雲さんは、十八世紀の初めの頃に生まれておりながら、その十八世紀の中頃になってきてですね、『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』という―今の言葉で言えば「インド学」ですね、その「インド学」というものを、別に外国へ行ったわけでもなければ、またそれの方の先生に会ったわけでもないのに、慈雲自身の、いわば独学ですけれども、一番言葉の上でインド学と関係の深いサンスクリットとかパーリ語とかといったようなもの、しかしそういうものをやるためには後に西洋では関係ができてくるように、ありとあらゆる原語―言葉というものについての勉強を始めていますので、『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』と言えば何も梵学、即ちインド学、サンスクリットといったものだけではなくて、やはり日本語学というものではない、あるいは漢文学というようなものではない西洋風の言葉を、できるだけ広く学んで、自分の学門の基礎にするという、その態度を示したということが、私のように縁あって外国文学をやる、そしてまた英米文学とは特に関係が深いというふうなものにとっては、これは生涯の自分の、今生きてお目にかかることはできないけれども、やはり生涯の師であるというふうに、私が、こういう「大道通長安(だいどうちょうあんにつうず)」を掛けたりしている一番大きな原因になっていて、ちょっとでも日常が慈雲尊者の日常と同じようにありたいなと思うんです。
 

 
ナレーター:  慈雲の悉曇(しったん)、つまり梵語研究は、単なる学問的興味からだけではありません。直々に釈迦その人の心に触れよう。それには漢語や和語による解説に頼るのではなく、釈迦が使っていた言葉そのものに触れねばならない、こう考えてのことです。同じ頃、やはり古代への回帰を通して、時代の行き詰まりを破ろうとした国学など、新しい思想運動が起こりましたが、いずれも言葉への関心を核とした試みであったのは興味深いことです。葛城山の懐深く、慈雲が晩年の三十年を過ごした高貴寺(こうきじ)(大阪府南河内郡河南町平石にある高野山真言宗の仏教寺院)があります。慈雲縁(ゆかり)の品々を数多く伝えるこの寺に、見逃せない資料がありました。四、五世紀のものと言われる貝多羅葉(ばいたらよう)(古代インド、ビルマ(ミャンマー)、タイ、 セイロン(スリランカ)などで、シュロ科の一種の植物の横長の葉を5cm×50cmぐらいに切り、表面に鉄筆で文字を書き何枚もつづったもの)、つまり植物の葉に書き付けられた古いサンスクリットの経文です。高貴寺住職の前田弘範(まえだこうはん)さんは、この貝多羅葉との出会いが、尊者の梵字研究を飛躍的に押し進めただけでなく、尊者独自の書体を生み出したと説くのです。
 

 
前田:  この「道」の?しんにゅう)は、尊者独特のものであり、ここで上にあげて、そのまま一筆で最後は跳ね上げている。これは悉曇と共通性をもっておると考えられる。普通のしんにゅうはこの「足」のように書きますけど、尊者のものには、先ほどの「道」のような?(しんにゅう)の書き方が多いわけです。こういう尊者の大成された悉曇、またそれに付随するいろんな尊者の研究されたもの、甚だ理解し難いものが多いので、不徳の致すところだと思っておりますが、だからなおさらこれらの資料を大事に、また後にそれが芽吹くようにその努力を考えております。こういう古寺ですが、高貴寺は何十年来、師匠から伝えられたそのままの形で置物一切そういうふうにして今日まできております。
 

 
ナレーター:  慈雲から見ると、当時の仏教は真に憂慮に絶えぬものでした。形骸と化した戒律、乱れ切った日常、例えば身に付ける袈裟一つをとっても、釈尊在世の頃の粗末な綴(つず)れだった筈の衣が徒(いたずら)に華美を誇り、本来階級のない出家の間で、紫の衣、緋の衣と差別を設ける有様です。慈雲は、正しい袈裟の復活をはかります。膨大な文献を漁り、インドや中国の染料の歴史、尺度の移り変わりを調べるという徹底ぶりです。こうして日常の生活全般にまでわたって、少しでも仏法の原点に近づこうとする慈雲でした。
 
「所往無?礙」
往(ゆ)く所(ところ)?礙(けげ)無(な)し。戒律を捨てることは、仏法では死に等しい。戒律を我がいのちとして守るなら、往くところ何のさわりもない。仏教の原点に返り、戒律の意味をひたすら逐い求めた慈雲の言葉です。
 
 
 
 
 
 
「諸悪莫作衆善奉行(しょあくまくさしゅぜんぶぎょう)
もろものの悪をなさず、すべての善を行い。仏教徒が等しく守るべき教えを要約した「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」(仏教で釈迦以前に存在したとされる六人の仏と、釈迦を含む七人の仏(過去七仏)が共通して説いた教えを一つにまとめたとされている偈であり、『法句経』などに収録されている)の一節。
 
 
「不能損一毛」
一毛をも損ずることあたわず。窮地に追い詰められた時も、観音の力を念ずれば、一毛も損ずることはない。『法華経』から「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」の一句。
【観世音菩薩普門品第二十五に「或いは悪人に逐われて、金剛山より堕落するも、彼の観音の力を念ずれば、一毛も損すること能わざん」とあるのにもとずく】
 
 
「仏」
仏とは誰がきき
そめてしら糸の
むびもとめぬ
峯の秋風。
慈雲叟
 
「誠」
誠とは天の道なり。家に在てこれを孝と名づく。国に在てこれを忠と云。民に臨みてこれを仁と云。百年三万六千日、行程十万八千里。いたるところに塞がらず。
【初めの句は『中庸』に見え、「誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なり。誠は、勉めずして中(あた)、思わずして得、従容として道に中るは、聖人なり。之を誠にするは、善を択んで固く之を執るなり」とある「十万八千」とは、仏典で極めて数が多いこと、無限なことをいう。いついかなる時も、遙か遠いところにあっても、通ずる道であることをいう。】
 
書家の三浦康廣(みうらやすひろ)さんは、ふとした縁(えにし)で慈雲の書に魅せられ、以来二十年、慈雲研究をライフワークとするに至りました。
 
三浦:  普通の立派な書と思っていたものは、非常に筆使いは立派だし、形も立派だし、全体の纏めもいいし、上手い、達筆というそういうものがほとんどだったわけですけど、尊者の場合は、そういうものよりか先に、グッとこう自分に迫ってくるものがあるんですね。それで良い悪いとか、上手い下手とかということよりも、先にグッとこう惹き付けられてくるんですね。それで後からじっくり良いなと思うんですが、どこがいいんのか、ここがいいんだとかというような、そういう部分的な良さじゃなくて、作品の全体が自分にこう訴えかけてくる凄い迫力がある。普通の迫力ですとこう力感だけなんですが、そこに静けさがあるんですね。静かで、そして心の底の方へグーンとこたえてくるような、そういう良さと言いますか、そういうものを感じるんですよ。それでなんでこれほど感じるんだろうかと書を見てみますと、やはり尊者が尼さんに書いた消息手本の終わりの余白に書き添えた跋文が思い浮かぶんですけど、「書学に拙(つたな)き」というようなことを書いてある。「拙(つたな)い」というのは、拙(つたな)いわけではないし、あれだけ素晴らしい字ですから、だけど書の巧拙を歯牙(しが)にかけないというような、そういうことなんか念頭になく、自分の思う心情をずばっとそこへ書いておられる。その精神エネルギーと言いますか、心の奥深いところから出てきたものが、こっちがドンと受け取るから響いてくるんじゃないかと思うんですね。
 

 
ナレーター:  「文字、禅を離レズ。則チ何ゾ瑕絶(かぜつ)センヤ。不肖(ふしょう)、書学ニ拙(つたな)キモ亦タ其ノ志ハ護法ニ在リ。」私の字は拙いけれど、その志は法を護るにある。上手く書けなかったと言って反古(ほご)にはしない。尊者はこう述べています。尊者にとって書を書くこと、それは目的でなく、手段でした。人々への呼び掛けが主であり、出来不出来は二の次でした。慈雲の呼び掛け、慈雲の説く法、その内容を端的に纏めたものが仮名法語『人となる道』です。慈雲にとって、時代を超え、宗派を超えて通ずる真理の大道とは、人が人となる道、人間が人間らしく生きる道にほかなりませんでした。釈尊以来の教え、不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不妄語(ふもうご)などの戒律も、いたずらに煩わしい形式や難しい教義でなく、これだけを護っていれば、誰もが自分らしく生きられるという智慧であり戒めでした。「人は人となるべし。この人となり得て神ともなり、仏ともなる」。こうした仏法への開かれた理解こそ、現在にも通ずる慈雲の高い精神性の源です。尊者六十四歳の時、世に問うて以後も、その推敲に心血を注いだ跡が心を打ちます。
 
自画賛「鉢(はつ)
鉢は出家者に許された数少ない私有物の一つ。托鉢には常に携え、求道に欠かせない器です。
「一華(いっけ)百億国(ひゃくおくこく)と云り」
『梵網経(ぼんもうぎょう)』に説く蓮華蔵世界です。
【梵網経に、「我今盧舎那、方に蓮華台に坐す。周?(しゅうそう)せる千花の上に、復(ま)た千の釈迦を現ず。一花に百億の国ありて、一国に一釈迦あり。各菩提樹に坐して、一時に仏道を成ず」と。蓮華蔵世界とは、千葉の大蓮華より成り、その蓮華台の中央に盧舎那仏が坐し、千葉を各一世界とする】
 
自画賛達磨「不識(ふしき)
識(しら)ず。インドから中国に渡った達磨(だるま)が、梁(りょう)の武帝(ぶてい)と交わした問答の一文。
【嵩山の少林寺で九年にわたって坐禅をしたといわれる。慈雲の画く達磨の多くは、全身坐像の「面壁達磨」すなわち壁に向かって坐禅する背面からの姿である。『碧巌録(へきがんろく)』第一則に「梁の武帝、達磨大師に問う、何如なるか是聖諦第一義。磨云う、不識。帝、契(かな)わず。達磨、遂に江を渡りて魏に至る」とある】
 
「知足(ちそく)
足(た)るを知る。
【『涅槃経』に、「少欲なる者は求めず取らず。足ることを知る者は少を得て悔恨せず」とある。尊者の短編法語に「涅槃経に云うが如し。未得の財において少欲あり、已得の財に於て知足あり。行住坐臥飲食衣服等、みな準じてこれを守る。この心ざし断絶せずして、三界に独歩し十方に遊歴すべし。少欲のところ山川とこしなへにとむ。古往今来、手にふれ足にまかす。用ひてつくることなし。少欲あるところ、千秋万春。みづからほこらざるとき、到る所、太平無事。」】
 
「閑吟(かんぎん)
詩歌を静かに口ずさむこと、一切の束縛を離れた自在。
 
 
 
 
 
東大寺長老の清水公照(しみずこうしょう)(華厳宗の僧侶:1911-1999)さんは、独自の風格をもつ書や絵をよくすることで有名です。清水さんも慈雲の書と人に深い思いを寄せる一人です。
 
清水:  誰でも五字なら五字、七字なら七字、こう書く時に、一字だけがどうしても書きにくい。調和を破るようなことになって、随分苦労するもんですが、慈雲さんはその書きにくいような字を、上手いことサッと通っていかれるんです。そんな点で大変私は、慈雲さんの字を羨ましく思っている次第ですがね。梵字からきた一つの纏め方というのかな。この軸の「無事是貴人(ぶじこれきにん)」の「人」のパッと離れたとこね、これは随分書かれた方の筆法ですな。それで偽物が出来だしたので、そんなんだったらみんなに罪を犯さしたらいけないというので、どんどんお書きになったという、そんな笑い話も残っておりますがね。グッとこの線なんか特にそういう気持ちが現れておりますね。跳ねたりなんかしないで、グッとこう捨ててしまうというか、そうした勢いと、あっさりとして、どうすれば美しく見えるとか、そんなこと全然考えないで、グッとこうやってしまうところね、なんか慈雲さんの生涯の一部分が出ているような気がして堪らないですが。
 
ナレーター:  「福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)
福聚(ふくじゅ)の海は無量なり。観音の福徳は海の如く限りない。『法華経』から「観音普門品」の一節。
【福徳の集まることを「福聚(ふくじゅ)」といい、観音の福徳の広大無量なことを海に譬え、賛嘆して「福聚海無量」という。『法華経』の普門品に、「一切の功徳を具し、慈眼もて衆生を視たまう。福聚の海は無量なり。是の故に応(まさ)に頂礼すべし」と。】
 
「主人公だまさるな」
中国唐時代のある禅僧は、毎日自らに「主人公」と呼び掛け、「騙(だま)されるなよ」「はい」と自問自答したという故事があります。
【『無門関』第十二則「巌喚主人(がんかんしゅじん)」に、「瑞巌(ずいがん)の彦(げん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾す。乃ち云く、惺惺著(せいせいじゃく)。?(だく)。他時異日(たじいじつ)。人の瞞(まん)を受くること莫(なか)れ。??(だくだく)。」と】
 
「時 桃栗三年柿八年」
 
慈雲の書は、彼の人格、彼の力量がそのまま現れたまったく独自なものである、書道のどの流派とも無縁。他が追随することはできません。しかしその高い境地を慕う後進は少なくありません。
 
尊者自筆の梵字帳の後書きは、近代の文人画家であり、書家である富岡鉄斎(とみおかてっさい)(明治・大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる:1837-1924)のもの。その文面からも鉄斎が慈雲から学ぼうとするところが十分察せられます。
 
 
 
近世日本の代表的哲学者西田幾多郎(にしだきたろう)(1870-1945)の書。「大道は長安に通ず」。西田はそのエッセイの中で、「書とは、自由なる生命のリズムの現れであると説き、音楽である」と述べます。この時西田のイメージにあったのは、慈雲の如く書であったかも知れません。「大道通長安(だいどうちょうあんにつうず)」それはまた奇しくも慈雲が殊に好んだ一句であり、慈雲の絶筆もこの言葉でした。この書を愛蔵する寿岳文章さんの親友柳宗悦(やなぎむねよし)(民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者:1889-1961)は、病に倒れ、床に就いた時、この書の一字ずつの大写しの写真を、特に乞うて枕元に置き、心の支えとしたと言います。形式に立った既成の宗教に飽き足らないものを抱きながら、心の底に生ずる止みがたい衝動にもようされて、仏教、キリスト教を超えた宗教的真理を求めた柳宗悦。その宗教性は、慈雲に通ずるものです。富岡鉄斎、西田幾多郎、柳宗悦、それぞれの書法は、慈雲とはまったく別のものです。しかしその底を貫いて、目に見えぬ繋がりが感じられ、そこに「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」という教えが思い出されます。
 
三浦:  書に限らず、文学でもすべてさうだと思うんですが、立派な作品を見て感ずる場合に、作品だけにとらわれて、作品が良いとか、上手いとか、素晴らしいとかいうので終わったのでは、作品を本当に観たことにならないと思うんですね。その作品がどのようにして書かれたか。どなたが書かれたかという。そして書かれた人と作品との関連と申しますか、その人が如何にして書いたかという。で、出来た作品を観た場合には、その作品の素晴らしさを生み出したその人の生き方と申しますか、そういうものから学び取らないと、本当の良さがわからないんじゃないかと思うんですね。人との関わりにおいて作品を観る。作品を通して人を見る、という意味において、私、作品の素晴らしさをこう観て、その良さを感じ、翌日になると、また別の美しさが感じられるし、そしてそれが尊者のどういうところからきているんだ、と、こう発見することは非常に嬉しいわけですが、そうする姿勢そのものが、やっぱり自分も尊者にあやかりたいと。尊者のような立派な方の少しでもそういうものに近づきたいという。やはり尊者のものを見ていると尊者に惹かれる。惹かれて尊者の言葉に惹かれながら、自分自身が少しずつ真に近づいていくということになるんじゃないかと思うんですがね。
「一黙値千金」
【維摩が病に伏したとき、釈尊は文殊らにその方丈を見舞わせた。そこで菩薩たちは「不二の法門」について問答し、文殊は「無言無説、無示無識が不二の法門である」と述べたのに対し、維摩は不二の法門は不可説のものだとしてただ「一黙」をもって示した。あらゆる言葉を超越した絶対的な「黙」のことをいう。】
 
「莫動著」
【動著(どうじゃく)すること莫(なか)れ。「動著」とは、心がゆらぐ、気持ちがぐらつく、妄想が起こることで、慮知分別をいう。著は助字。尊者の法語に、「心動ずれば山河大地も動ず。心うごきなければ風雪鳥獣もその動揺なし。無心のところ、寿あり福あり。散乱のところ病生じ憂生ず。天地と共に安住して千秋万春。」(全集)巻十四)】
 
 
 
 
ナレーター:  「仁者寿」
仁者は寿(いのちなが)し。『論語』雍也の一節です。「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。」
【仁の徳を具えた人は、常に仁に安んじて心が動かないから、動かない山を愛し、憂うことがないから静かであって、長寿を全うできる、という意である】
 
葛城山高貴寺に隠棲して三十年、清らかな生活を送り、膨大な業績を残して、慈雲尊者は、八十七歳の生涯を閉じました。京都に出て、人々に経を講じていた時のことです。亡骸は遺命により高貴寺に葬られました。
 
 
 
 
「円相(えんそう)
賛「十方仏土中」
まどかなること大空の如く、欠くることなく、余すことなし。
【真如・仏性・実相・法性などの絶対の真理を表す。特に禅僧は悟りの対象として円形を画き、他に禅の第一義を示す手段をする。衆生の心が本性上まろやかで平等なことを象徴したもの。賛の句は、『法華経』普門品に見え、「十方の仏土の中には、唯だ一乗の法のみ有りて、二も無く亦た三も無し」とある。「十方」とは、東西南北・四維(東南・東北・西南・西北)・上下・すべての方角。「一乗」は、一つの乗り物。衆生を乗せて悟りに赴かせる教えのたとえ。十方の仏の世界中ただ一乗の真実の教えがあるだけで、二乗も三乗もない、という意。】
 
「満足」
【「満足」とは、願いを完成し成就することをいう。『重誓偈(じゅうせいげ)』に「我れ超世の願を建つ、必ず無上道に至らん、斯の願、満足せざれば、誓って正覚を成せず」とある。慈雲は「十善」の第八番目に「不貧欲戒(ふとんよっかい)」を挙げ、「不貧欲は、至る処に足る」という。また「少欲知足(しょうよくちそく)」の如く、これに類した語をしばしば揮毫している。この作品は、直筆蔵鋒(ぞうほう)の深々とした立体感のある線質で綴られており、重厚なドッシリと安定した構成がとられている。この作品には、書そのものから、何も言うことはない、というような満足感が漂っている。】
 
     これは、平成二年一月に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである