心で合掌するー母・中村久子を語るー
 
                              出 演 中 村  富 子
                              ききて 金 光  寿 郎
 
金光:  一月の半ば、一面の雪に覆われた岐阜県高山 市。私が訪れた日には雪も止み、道路の雪の 除かれて、渋滞は解消されていました。今日 は市内にお住まいの中村富子さんに、母・中 村久子さんのお話をして頂きます。中村久子 さんは、明治三十年に、高山市に生まれ、三 歳の時、突発性脱疽(だっそ)という病気に罹って、両 手両足を失いました。自立のため厳しい努力 を重ねたのち、十九歳で高山を離れ、見世物芸人として、全国を廻る日が続きま した。中村久子さんは、手足が無くとも、裁縫や編み物、書道などが上手で、後 半生は各地に招かれて、講演や書道の実演をし、昭和四十三年に亡くなりました。 今日は中村久子さんの遺品がある鉄砲町の真蓮(しんれん)寺へ、娘さんの中村富子さんに来 て頂き、お話をお伺いします。
 
 
金光:  富子さんが、お母様の久子さんのことを、一 番お小さい時の記憶で残っているというと、 どういうことでございましょうか。
 
中村:  そうですね。小さい時でしたら、一番思い出 があるというのは、台湾へ行った時ですね。 台湾で二歳、三歳、四歳と育ったものですから。
金光:  そうなんですか。ご一緒に向こうへ行っていらっしゃった。
 
中村:  はい。母と一緒にね。歌をよく聞かせてくれた、ということで すね。
 
金光:  歌というのは?
 
中村:  いわゆる昔の唱歌ですね。私のいま知っている歌は、殆ど母に習った歌です。
 
金光:  文部省唱歌─。
中村:  はい。ああいうのだとか、軍歌だとか、流行歌なんかでまして、 それがとっても印象に残っていますね。
 
金光:  その頃は離ればなれでなくて─。
 
中村:  ずうっと一緒におりました。
 
金光:  一軒屋のお宅で。
 
中村:  一軒借りていましてね。順々に歩きますよね、その時に。
 
金光:  巡業があって、
 
中村:  巡業の時に、それなりに一軒借りることもあれば、小屋で寝泊 まりすることもありました。
 
金光:  三つ四つ位の頃というと、お母様は、もう義足はちゃんと付いていたんですか。
 
中村:  はい。私の生まれた時から、義足は付いていました。歩いておりましたね。別に 不思議でもなんでもない。私たちが靴を脱ぐ感じですね。
 
金光:  あ、そうですか。
中村:  ですから、外から帰って来ると、スポッと抜いじゃうんですよ。
 
金光:  あ、そうですか。
 
中村:  スポッと入る義足でして。それで膝で歩いておりました。
 
金光:  そうですか。義足を付けていらっしゃる時は、履くいう感じで、 こういう感じで立っている。普通の方と変わりませんですね
 
中村:  外ですと、こういうふうに変わりません。ですけど、義足は重かったみたいです よ。全部皮でしたから。
 
金光:  そうですか。お終いの方は、義足が填められなくなったんでしょう。
 
中村:  痛みがだんだん出てきまして、最後、昭和十七年に手術致しまして、日本医大で。 その時に、骨が三センチ位削られたんですよ。そうしますと、骨が三センチ削ら れるということは、肉も落ちるから、相対的に短くなって、義足に入って、持ち 上げる力が無くなってくるんですね。それで他の方だと、手があったりする方は、 義足の補助も出来ますけれど、出来ないものですから。
 
金光:  手で支えることが出来ないので、
 
中村:  そのまんまで。だから、精々、五、六メートルは歩けるんですよ、義足で。だけ ど、それには介添えがないとダメなんです、手を支えてやるとか。そうすれば歩 けますよ。だけど前みたいに独りで日本中飛び歩くということは出来なくなりま したね。
金光:  そうすると、ご主人なり、富子さんが負んぶして、背負って歩 かれたということですね。
 
中村:  はい。
 
金光:  この写真がそうですね。
 
中村:  そうです。母が、「歩けなくなっちゃった」と言った時に、私は、「歩けなくたっ ていいじゃない。私、もうお母さんを負ぶって歩けるよ」と、「負ぶってあげるか らいい」と言ってね。
 
金光:  これはお幾つぐらいの時ですか。
 
中村:  これは、二十五、六ですかね。これ、名古屋駅ですよ。
 
金光:  そうですか。こういう恰好で負んぶして歩かれた。
 
中村:  このおぶいひもは、全部、母が、自分の博多帯をパーッと解きまして、自分で作 ってくれて、それで負ぶったんです。普通のおぶいひもではダメなものですから。
 
金光:  何でも自分でなさっていたんですね。
 
中村:  はい。だから、私は、母が倒れました時に思ったのは、「何でも自分でやった母が、 何にも自分で出来なくなったら、どんな思いだろうなあ」と思いましたね。一切 自分でやっておりました。
 
金光:  そうやってご一緒に暮らしていらっしゃる時に、「ご自分が両手、両足が無くて、 子どもの頃困ったよ」とか、「ここまで出来るようになるのには、私はこういう苦 労したんだよ」というようなお話はされたんですか。
 
中村:  全然ないんです。
 
金光:  何にもないんですか?
 
中村:  はい。ですから、私は生まれた時から、口でするのが母であり、別に不思議でも 何でもなかったんです。手がないから、母は口で何でもするんだ、と。
 
金光:  食事なんかはどうなさるんですか。
 
中村:  食事は、肘までしかないものですから、御膳にこう積んでもらって、お皿の上に おむすびを置いて、自分の口をもっていって食べたんですよ。
 
金光:  子どもの頃はね。両手が使えないと、それはそうですね。
 
中村:  そうしたら、その時に、「口で食べる者は、犬や猫で、畜生の食べ方だ」と言われ たんです。その時、母は勝ち気でしたので頭にカチッときたんですね。「私は、人 間なんだ。犬畜生でない。それならチャンとご飯もお箸を持って食べる」という ので、それで自分でいろいろ考えてやって、私の知っている母は、全部右肘にキ チッと包帯をして、包帯に箸を差しまして、左肘のところにお茶碗を載せて、ご 飯を食べる。
金光:  パネルに載っている写真がそうなんですね。
 
中村:  はい。ああいうふうにしてね。右手にお箸を差して。
 
金光:  お茶碗は左肘へ載っけて。
 
中村:  自分で包帯は巻きました。
 
金光:  巻けるんですか?
 
中村:  はい。私たちが巻いたんではダメなんです。固さが分からない。
 
金光:  口で?
 
中村:  自分で考えて、四角い天竺のいいもので、肘の先にキチッとあてて、それを長い 紐でグッと巻いて、それで紐を締めるのも、結ぶのも全部自分でやりました。私 たちが手を貸したら、「ダメだ」と言うんですね。加減が分からないから。だから、 その包帯の結び目によって、編み物をする時は、糸の調節をはかる。お裁縫する 時もそういうのが全部役に立つわけなんですね。
 
金光:  ここにある写真は、大きな湯飲みで呑んでいらっしゃるわけで すね。
 
中村:  母は肘までしかない。私たちにはちょっと出来ないんです。手 が邪魔してね。両方の肘で挟んで持って、上手に、これを右肘 の上へギュッと載せまして、お茶を頂いていましたね。
 
金光:  それも全部サッと、もう慣れていらっしゃると。
 
中村:  はい。慣れて、全然気にならないです。
金光:  それで、この写真は?
 
中村:  それは、男の方では分からないけど、ヘラをするわけです。
 
金光:  印を付けるわけですね。
 
中村:  印を付ける。その時、口で致しますので、みんなヘラが、口で くわえるところが欠けちゃうんですよ。口で 折れてしまうんです。口でくわえて、ヘラの 先に力を入れて、ギュッギュッとやるもので すから、これが全部折れてしまうんですね。 鋏もその通りなんです。鋏も口でくわえてや ります。日本鋏しか使えませんけれど、大き い鋏も使います。鋏も根元の方が全部折れち ゃう、って言うんです。
 
金光:  歯の力が入るから?
 
中村:  力でなくて、口の中は塩気がありますでしょう。塩気のために。何本も折れたの がありまして、「ナイフ代わりに使えるね」なんて言って、笑 ってたりしたこともあります。
 
金光:  なるほど。編み物なんかもなさるんですね。
 
中村:  はい。
 
金光:  これは編み物の写真ですね。
中村:  そうですね。編み針も、歯でくわえるところから全部折れてし まうんですよね。
 
金光:  ここを口にくわえていらっしゃいますね。これが作品の一つで すね。
 
中村:  これは、母が自分で襟巻きを編んだんです。普通の人のショー ルですと、これが全部同じ幅でくるんです。ところが、母の場 合は、手がないので、こういうふうにした時に、邪魔になるん ですね。母自身の考えで、こういうふうに狭くしてあるんです。
 
金光:  これはご自分で編まれたんですか? ここはどうなっているん ですか。左の手で毛糸を、
 
中村:  はい。左肘の結び目に糸を掛けるわけですね。その糸の結び目 が右くれば弱いとか、左の方にくれば固くなる。そういうのを 加減して編んでいました。
 
金光:  じゃ、左の手は、左手でフルに使って、口も使って。
 
中村:  そうなんです。私より早かったですね。
 
金光:  え!そうなんですか。
 
中村:  はい。アッという間に編みました。私なんか目が揃わないし、母にしょっちゅう 言われていたんです。
 
金光:  これ全部綺麗に出来ていますね。
 
中村:  はい。
金光:  この写真は何をなさっているんですか?
 
中村:  母は手がないので、引き出しを開ける時に、 こういう場合だと口で引っ張りますけど、手 を突っ込まなければ開けれないようなのに困 るんですよ。そのために自分で考えて、こう いう棒をいっぱい作って頂いて、これを口で くわえて引っかけて開ける。指代わりです。 それから、ページを捲る時なんかも、パラパラとこれを口にくわえて、私たちが 指でページを捲るような感じでやっていた。父に作って貰って、初めはこういう ふうに綺麗なんですが、それがだんだん短くなって。
 
金光:  それは使っていると?
 
中村:  切っていくとか、こういうふうに削るとかしてね。これが母の指代わりです。
 
金光:  「手が不自由な私が、こうやっているんだから、あなたたちは」みたいなことは、 別におっしゃらなかった?
 
中村:  はい。言わないです。「手があって、邪魔ね」 と言われるくらいでしたね(笑い)。だから、 母は、字を書く時に、大きい字は口にしっか り筆をくわえて書きます。細かい字の時は、 頬と右肘で挟んで書きますね。
 
金光:  成る程。あの写真がそうですね。右上のとこ ろへね。
 
中村:  「なかなか書けない」なんていうと、「お前はね、手があって、 手が邪魔しているから可哀想」と言われたことあるんですよ。 口でくわえて、太い字とか細い字を書かれることもあるし、そ れからほっぺたと右腕で挟んで書く。もっと細い万年筆なんか は両方の残った腕に挟んで書きましたね。
 
金光:  そうですか。
 
中村:  私よりか細かい字も書きましたね。
 
金光:  ここにあるこのはがきもお書きになったのですか。
 
中村:  そうなんです。私は、叱られましてね。私の友だちが学校へあ がる時に、うちの母は、私の友だちの子も、自分の孫みたいに 可愛がってくれたんですよ。で、母から、お友だちにお祝いや るのに、「お前は何をやったか?」と。
 
金光:  これ読んでもよろしいですか。
 
中村:  はい。どうぞ。
 
金光:  「再信」、二度目ですね。
 
中村:  二度目なんです。叱られたんです。
 
金光:  十一日に速達でたみ子さんえの贈物された
品名をたづねましたが返事ない為に
重ねておたづね致します
あなたと同じ物であってはならぬので
おきき致します お忙しいでせうが
すぐ速達でおきかせ下さいませ
 
中村:  最後のところが凄いでしょう。
 
金光:  但し 私のよめるようにお書きを願ふ
 
と書いてありますね(笑い)。
 
中村:  もう母が三通手紙くれる間に、私は、一通出せばいい方でした。だから、こうい うふうにしょっちゅう怒られるんです。
 
金光:  この時分は離れて住んでいらっしゃったわけですね?
 
中村:  東京におりましたし、沼津におりましたのです。
 
金光:  例えば、他にも、お返事以外にも叱られた記憶ございますか。
 
中村:  ありますね。「忙しい」ということは、一切通用しませんでしたね。
 
金光:  え! 「忙しかったからつい忘れた」というようなことはダメなんですか。
 
中村:  ダメなんです。一回それで叱られました。私は、五十年来になりますが、「忙しい」 という言い訳は一切致しません。母に叱られてから。
 
金光:  その時、「忙しかったから」と言ったらどう言われたんですか。だって現実に忙し かったわけでしょう。
 
中村:  ええ。でも、母が、アパートへ来ました時に、フッと見て、「富子、手を抜いてい るね」と言われたんです。「なぜ?」と言って、その時に、私が、「うん、仕事が 忙しいから」と言ったんですよ。そうしたら、母が、座り直して、「坐りなさい」 と言って、「すぐ、辞表を書け」と言われたんですよ。「何で?」と言ったら、「忙 しいから家のこともしっかり出来ないような子が、仕事がちゃんと出来るわけが ない。だから社長に申し訳ないので、お母さんがあんたの辞表を持って行って、 お暇を貰ってくるから」と、一時間以上説教されました。それから、私は、「どん なことがあっても、忙しいという言い訳はしてはいけない」と思いました。母は、 「忙しいから出来ないのではない。それは、あなた自身がやる気がないから」と 言われました。
 
金光:  お母さんの久子さんは、ちゃんとなさっていたわけですね。
 
中村:  はい。だから、私は、母を見ていると、何も言えなかったです。どんなに忙しく ても、お勝手のことにしても、仕事のことにしても、きちんとやっていました。 手紙をよく書く人でした。
 
金光:  旅で講演なさって廻られますでしょう。そうしたら結構時間がかかって夜遅くお 帰りになることもあるでしょう。
 
中村:  もう十日、二十日続けて行き、帰って来ますと、二十、三十位は書きますよ。そ の時だって、父も私も、「疲れているから明日にしたら」と言っても、「今日の仕 事は今日しなければ、明日のことは分かりません」と言って、徹夜してでも、お 礼状だけ認める人でした。
 
金光:  それは、若い時からでしょうか。
 
中村:  若い時から手紙はきちんと書きましたね。「本が読めない」と言った時も叱られた んです。「朝、五分早く起きて本を読みなさい」と。「忙しいなんていうのは大変 不遜です」と言われました。
 
金光:  「忙しくって、本なんか読む閑はない」というのは言えない。
 
中村:  ダメです。「出来ない」「忙しいから約束守れない」というと、怒られましたね。
 
金光:  そういう言葉がスラッと出てくるというのは、ご自分がそういうことをずーっと なさって、出来ていたからですね。
 
中村:  はい。だから、母の日常を知っているだけに、私はそれを言われた時は、返す言 葉もなかったですね。私は、どっかへ行って講演して、夜帰って来ると、どうし てもお返事書くのが一日二日遅れるんですよ。そうすると、母が、どっかから覗 いて、「富子、ダメ!」と言われているような気がしてね、「すみません。すぐ書 きます」と言って。だから、私は、一日二日遅れのお返事を書いています。
 
金光:  お母さんは三つの時に、突発性脱疽(だっそ)という病気で、喜劇王「エノケン」と呼ばれ た榎本健一さんが、手術したのと同じような病気で、両手両足が無くなられたと いうふうに聞いているんですが、今までお話を伺ったような形で、お母様が、何 でも出来るようになられるまでには、随分ご苦労なっているでしょうね。
 
中村:  多分、そうだと思いますね。でも、母は一切語らなかったし、私は、さっき申し ましたように、生まれた時から、手の無い母、足の無い母に育てられたので、口 でするのが当たり前と思って、別に不思議でも何でもなかったですね。昔はカチ ッとやる蝦蟇口(がまぐち)でした。母は、蝦蟇口を開ける時も、口でカチッと開けたんです。 私も堅いと口に持っていって、キュッなんて開けたんですよ。そうしたら伊藤の おばさまが、「富子はやっぱり親の子ね、久子さんの子だね」と言われたんです よ。「なぜ?」と言ったら、「口で蝦蟇口開ける」と。だからよく言われたんです よ。
 
金光:  なるほど。
 
中村:  知らないうちに、そういうものが身に付いているんですね。他の人のしないこと が。だから、長くずうっと一緒にいると、なんかかんかと知らぬ間に身につけて いる。
 
金光:  それはそうでしょうね。お母様は、この高山にお生まれになって、それから二十 歳前後まで此処にいらっしゃった?
 
中村:  数えの二十歳まで此処で育った。
 
金光:  そして、ご自分で覚悟を決めて、見世物興行の方へ入られたわけですね。その後 は随分苦労なさったんでしょうね。
 
中村:  見世物興行に入りました。でも、自分で生活をしていくために、その道を選んだ のです。でも、母は、「これで興行の世界があって良かった」と言いましたね。「こ の世界あればこそ両手両足無くても生きて来れたし、結婚も出来て、お前たちに も恵まれて、ちゃんと人並みの生活が出来た」と。今、やはり身障者の方たちが、 務めようとか、働こうと思うと、なかなか無いんですね。
 
金光:  難しいみたいですね。
 
中村:  だから、ある意味では蔑(さげす)まれようと何しようと、そういう見世物興行の世界があ ればこそ、その中に入って生きられた。
 
金光:  大正時代の初めの頃ですから、ますます今より遙かにそういう意味では難しかっ たでしょうね。
 
中村:  そうなんです。「恥ずかしい」という思いがありますよ。親戚一統の者にしても ね。それで高いところから見る感じですよ。「下賤(げせん)な者」と言われたこともありま した。それに耐えてきたんだと思う。その方が辛かったような気がしますけど、 そういうことに対して、まったく愚痴を言わない人でした。
 
金光:  その頃ですと、学校にもなかなか行けなかったわけでしょう。
 
中村:  自分が何故行けないのか、それが分からなかった。「学校へ行きたい」と言って、 親にやんちゃをふんだり、祖母にやんちゃをふんだりした。その時に、祖母が近 所を歩かれて、母のために友だちを作って下さったんですね。
 
金光:  子どもたちを呼んで来て─。
 
中村:  はい。「家の久子は行けないので、是非みんな遊びに来て下さい」と言って。それ が母にとっては大きな支えになった。友だちの親がどんなに反対しようと、子ど もは来て下さったんです。で、ずうっと一緒に勉強して、いろいろなことを教わ った。母が教えて差し上げたこともあったようですけどね。私が子どもの時に習 った折り紙とか、綾取(あやと)りは母に習ったんです。私は、幼稚園に行っている時も、 学校へ行っている時も、「綾取り出来るよ」と言って、「ひとり綾取り」というの がありまして、独りでいつもやるんです。それをやって見せると、みんなが、「誰 に習った?」というんですよ。「お母ちゃんに習った」と言って威張っていうと、 「富子のお母さん、手も足も無いのに何故?」って。私が丁寧に説明してやるん ですよ。「糸を掛けて、これをこう持って、こう持って、こうしてこうして」と言 ったら、「富ちゃんのお母さん偉いね。凄いね」って。それがとっても自慢でした ね。
 
金光:  それもなんか綾取りを工夫なさって─。
 
中村:  人のを見ていて、覚えるんですね。
 
金光:  でも、やっぱり手がご不自由でしょう。無いわけでしょう。
 
中村:  だから友だちが綾取りをやりますでしょう。それを見ていて覚えたんでしょうね。
 
金光:  でも、ご自分では?
 
中村:  全然出来ないです。だから私の手に紐を掛けさせて。
 
金光:  あ、ちゃんと覚えておいて。
 
中村:  それで、「こうして、こうして」と。非常に記憶力良かったんですね。折り紙は、 細かいところを折る時は、自分に口に編み針をくわえて折った。鶴なんかも全部 母に教えて貰った。
 
金光:  でも、学校へは行けなかったけれども、友だちと一緒に遊ぶ時に見たり、自分な りに工夫して折り紙をやっていた。小学校の年代の時には、お婆さんが居て、お 友だちを呼んで来て、一緒に勉強したり、ということですが、興行の方に入られ ますと、そういうわけにいかないわけですね。
 
中村:  いかない。でも、興行の世界に入った時に、「何ていいんだろう」と思ったという んですね。「おなご衆が付いてくれて、母の身の周りの世話をして下さる」と。
 
金光:  なるほど。
 
中村:  「こんな綺麗な着物が着られるのか、と思ったりした」というんですね。「雲泥の 相違だった」ということをいいましたね。
 
金光:  一種のスターというか─。
 
中村:  太夫さんですから、スター扱いでしたね。ですから、母は、その中で、いろいろ な方との出会いをさせて頂いた。特に興行に出ていた時に、一週間目にいらっし ゃった方が沖六鵬(おきろっぽう)(1895-1982)先生だったんですよ。
 
金光:  書道の先生ですね。
 
中村:  はい。その方は母より二つ年上でいらっしゃったんです。母をご覧になって、「 精神一到何事不成(せいしんいっとうなにごとかならざらん)≠書いてくれ」とおっしゃったんですよ。
 
金光:  その時、もう口にくわえて文字を書いていらっしゃった。
中村:  書いていましたからね。そうしたら母は、「私はとても」と言 ったんですけど、「下手でも何でもいいからお書きなさい」と 言われて、書いて差し上げた。そして、帰って来たら、親方が、 「お前に字を教えたいという人があるけど、習いたいか」と。 母はほんとに学校へ行って勉強したかった。先生という者に付 きたかった。だから、「是非」と言ったら、その青年でして、 それが六鵬先生でした。
金光:  この写真が後年の六鵬先生ですか。
 
中村:  静岡にいた時なんですよ。もう六十代ですね。
 
金光:  それが二十歳位の時?
 
中村:  二十二の時でした。そして六鵬先生が、毎朝午前中に来て、母 のために、字の手ほどきをずうっとして下さった。母が、その頃興行師で書いた ものが売れるんですよ。下手でも何でも書いたものが、一枚五銭とかで売れる。 その時に、六鵬先生がおっしゃったんですよ。「字には品格がある」と。だから、 「書く用紙によって違うから、絶対色紙・短冊に書け」とおっしゃったんですよ。 母は、それを守りまして、色紙・短冊に書くことにした。今まで半端な画用紙み たいなものだと、三銭か五銭で売れた。ところが色紙、短冊になると、十銭十五 銭で売らなければならない。そうしたらお客さんの中で、「まけろ」とか、いろん なことをおっしゃる方があるんです。でも、母は、絶対節(せつ)を曲げずにまけない。 そういう人には、「もう結構です。買って頂かなくても、結構です」と言って、ず うっと六鵬先生に言われたように、「字には品格があるから、粗末な用紙に書い て、字の品格を落としてはならない」ということを教えて頂いた。それから六鵬 先生が、母に教えて下さったことは、「泥中の蓮」という一言なんです。
 
金光:  泥の中の蓮のようになれ、と。
 
中村:  はい。「いくら見世物興行の汚辱(おじょく)に満ちた世界の中に居ても、君はその中から一生 懸命、滋養分を取り上げて、真っ直ぐ伸びて、真っ白な花を咲かせて欲しい」っ て。それが一生の母の座右の銘でした。
 
金光:  なるほど。二十歳そこそこの時に、そういう非常に印象に残る先生にお会いにな って、ずうっと、それから教えて頂いていたわけですね。
 
中村:  はい。六鵬先生が、東京の大学へお入りになった時も、下宿していらっしゃる時 も、手紙はやり取りして、いろいろなことで相談に行ったんですね。辛い悲しい ことが多かったですからね。結婚の時も、子どもを産む時も、六鵬先生に相談し たら、「結婚しなさい」「子どもも産みなさい」というアドバイス頂いた。六鵬先 生は、禅の方で、山本玄峰(げんぽう)老師の愛弟子でいらっしゃった。その関係で非常に禅 宗の方とのお付き合い出来たのは、六鵬先生のお陰なんです。いろいろな方とお 会い出来た。だから、一番最初の人間の不思議な出会いですね。だから、母は、 「一期一会(いちごいちえ)」を大事にするし、「人との出会いの時には、どんなことがあろうとも、 相手がどうあろうとも、誠心誠意でお会いしなさい」ということを教えてくれま した。
 
金光:  やっぱりご自分の体験から、そういうこともあるんでしょうね。
 
中村:  そうなんですね。
 
金光:  遙か以前ですけど、「人生読本」という番組でお話を伺った時にも、沖六鵬先生の 名前を伺ったことがあるんですけど、その他にも何人か非常に印象の深い方にお 会いになっていらっしゃるようですね。
 
中村:  はい。一番最初に、母が教えられたのは、父は早く亡くなりましたけど、母親は ずうっと居て、非常に厳しかった。いろんなことを、「これもせ、あれもせ」と言 い付けた母親ですよ。母が、一人でご飯が食べれるようになった時に、「この子 は、自分で考えて食べれるようになったんだから、させなければいけない」。そう 言って、その日から母親は鬼になったんですよ。
 
金光:  それまでは、親の方が?
 
中村:  親が食べさせてやっていた。それで、これなら突っぱねた方がいいというので、 「お裁縫もしなさい」「これもしなさい」「あれもしなさい」とドンドン用事を言 い付けたわけですよ。
 
金光:  「自分で考えなさい」と。
 
中村:  はい。なぜ、手のない子に、どうやったら出来るか、なんてことは分かりません でしょう。母が、母親に、「お裁縫はどうしたらいいんですか?」とか、いろんな ことを聞きました。でも、母親は、「自分で考えておやりなさい」と。出来ないと、 「あなたが努力足りないから、もっと真剣にやりなさい」と言って、突っぱねち ゃう。そして、母は一つのことを覚えるのに、どれくらいかかったんでしょうか ね。それで、全部出来るようになったんですよ。だから、母は、母親を「鬼みた いな」と。他人(ひと)も言うんですよ、「鬼みたいな母親だ」って。だけど、母は、「そ の母が居てくれたお陰で、自分は今こうやっていろいろなことが出来るようにな った」と言いました。でも、その時はそうは思えませんよ。
 
金光:  それはそうでしょう。
 
中村:  その時に、座古(ざこ)愛子(1878-1945)先生の記事を読んだんですよ。
 
金光:  座古さんのことは、昔聞いたことがあるんですけど、寝たきりで、動けなかった 方でしょう。
 
中村:  はい。指が三本しか動かなくて、カリエスで、ベッドの上で寝たままですよ。私 も母に連れられて、三、四回お目にかからせて頂いたんです。
 
金光:  なんか神戸女学院の購買部の仕事をなさっていたんでしょう?
 
中村:  購買部の仕事をなさっていた。クリスチャンでいらっしゃったのです。
 
金光:  寝たままで、そういうことをなさっていたんですか?
 
中村:  購買部の真ん中にデンとベッドを置いて、その周りにいろいろな物を置いて、生 徒さんが買いに来る。「座古さん、これを頂きます。ノート十五銭です。二十銭で すから、五銭お釣り頂いて行きます」と言って、生徒さんの方が、篭の中にお金 を入れてくれる。クリスチャンでいらっしゃったので、殿堂にもベッドのままで パーッと出られるんです。で、非常に文筆ができる人だったので、いろいろなも のをお書きになっていた。お書きになったご本を読んで、お会いした時が五十い くつでした。それまでの人生というのは、ほんとに凄いというか、こんな悲惨な ことはないというような人生を送られた方らしいんですね。その時に、母は、自 分が興行の世界に居て、若い衆もいる。その人たちの問題、それから主人の問題、 子どもの問題、いろいろなことで、ワアワアと心がしていたんですよ。その時に、 みんなからは、「鷹のように鋭い目だ」とか、「ふくろうのように恐い目だ」と言 われるぐらい、貧相な顔になっていた。ところが、座古先生は、非常にお優しい、 ほんとに観音様のような、マリア様のような美しい方で、母が、座古先生の写真 見た時に、「私より辛い思いをした人が、こんな素晴らしい顔をしていられるわけ がない。これは嘘だ」と思ったんですよ。だから、私は、「この座古さんは、写真 だけの座古さん。本当の座古さんは、お母さんよりもっと凄い顔の人だ」と思っ た。それが信じられなくて、姫路にいましたので神戸までお会いにでかけたので す。
 
金光:  「この写真は怪しい」と思って、確かめに行かれた?
 
中村:  はい。「そんなわけがない」って。そうしたら、お会いしましたら、もっと優しく て、素晴らしいお顔の人で、胸にいっぱい抱えてもって行ったんですよ。「これも 言おう」「あれも言おう」と思って。何にも言えなかった。泣いて、涙ばっかり流 れていた。そして、母は何にも言わず、座古先生も何にもおっしゃらず。それで、 母は、私たちに、「人間の心と心の繋がる時は、言葉が要らない」と言いましたね。 そういう世界のあることを、私にも教えてくれました。それで、座古先生が、母 に教えて下さったのは、「親の御恩」「愛」。この二つだったんです。座古先生は、 そんな中に居ながらも、毎日虐(しいた)げられた人々のために幸せを祈っておいでだった んですよ。「何故、それが出来るんだろう」と言った時に、座古先生は、「この歳 まで、こうして私が生きているということは、両親があって、人が居て、いのち を賜った。いのちの大切さを教えて頂いた」と。その時に、初めて母は、愕然と したんです。それまで、自分の母親は、「厳しい人で、鬼みたいな人だ」と思って いた。親の元を離れたことがホッとした。安らぎと思ったのに、「私は一度だっ て、親にそんな思いをもったことがあっただろうか」「親の方がどれほど辛かった か」と。それから母は、パッと変わって、NHKで、「御恩」という題でお話をし たんです。それから、「一度に、母がこの世で一番慕わしい人になった」と言いま したね。
 
金光:  その後で、お会いになった方で、三十九歳のヘレン・ケラー(アメリカの女流教 育家。二歳の時盲聾唖となったが、力行して大学を卒業。身体障害者の援助に尽 くす:1880-1968)さんにお会いになったのも、非常に印象深かったようですね。
 
中村:  はい。ヘレン・ケラー女史にお会い致しました時は、大阪のライトハウスをおや りになっていらっしゃいます岩橋武夫(1898-1945)先生という全盲の方がおられ た。岩橋武夫先生とヘレン・ケラー女史は、大学がご一緒だったんですね。
 
金光:  そうなんですか。
 
中村:  その関係で日本へ招聘されることになったんです。その時に、岩橋先生から母に お話がございまして、こういう方がいらっしゃるんだ、と。母は、その時初めて、 ヘレン・ケラー女史を存じ上げたんです。昭和十二年に日比谷公会堂で、岩橋先 生のお陰でお目にかからせて頂いたんです。その時に説明して下さったけど、ケ ラーさんは、目が見えないのですから、母がどの程度の障害か分からない。説明 されてもね。そして、母を連れて行かれて、ケラーさんに、「中村です」というこ とだったんでしょうね。ケラーさんが、トムソンさんに手を引かれて、母の顔か らこう撫でてきて、肩を撫でていって、そして腕のところでガクッと、顔色を変 えられた。肘から先がないですからね。両方見たら、両方ともない。そしてそこ で暫く黙っていらっしゃった。そうしてこう下へ下がってきたら、足のところに 筒みたいな皮の義足を履いた義足だけでしょう。その義足の周囲が当たって、両 方とも。さらに下まで撫でていかれたら、作り物の草履であった、ということだ ったんですよ。それでケラーさんがビックリされて泣いて、母も泣いた。母のは ほんとの「うれし泣き」と言うか、「勿体ない」と言うんですか、こんな素晴らし い方に抱いて頂けた、という思いだったんですね。ケラー女史はビックリなさっ た方が多かったと思うんですよ。そして、その時に、ヘレン・ケラー女史は、「 私より不幸な人。でも、私より偉大な人≠ニおっしゃって下さった」と、母がよ く言いました。「私はヘレン・ケラー女史よりか幸せだった」と。人間としてね。 それは、「結婚も出来たし、子どもも生まれた。ケラーさんは結婚なさらなかった し、子どもさんもだから居ない。でも、私はいろいろな下積みの中にあって、ま た上から引き上げて下さる。そういうほんとに波の谷間に揺られたような感じで も、生きて来られて、いろいろな人生が見られた。だから、それだけ人間として、 幅が大きくなったのは幸せだったんだなあ」と、そうよくいいましたね。その時、 いろいろな方がいらっしゃって、お声をかけて下さった。その中の一人が、福永 鵞邦(がほう)さんという書家の方でしたけど、「あなたは、聞けば真宗の方だから、これ を」ということで、「大須賀秀道(おおすがしゅうどう)先生の『歎異鈔神髄(たんにしょうしんずい)』をお読みなさい」と言って、 母に渡して下さった。そして、真宗ですので、母もある程度知っていても、ずう っと興行に出ていましたから、歎異抄に触れる機会はなかった。たまたまそれを 頂いて、読み始めたら、涙が溢れて溢れて、字が読めなくなった。初めて親鸞聖 人の偉大さというものを、偉大というより、「親鸞聖人と勿体ないけれど、自分が 一体になってしまった」というんですね。
 
金光:  え! しかし、それは大変なことですね。なかなか取り付きにくいのに─。
 
中村:  だから、「こんなにも親鸞聖人が、お苦しみになって、悩んでいらっしゃった。私 と同じ悩みであったんだ。私と同じように考えていらっしゃったんだ、と思った ら、人間的に素晴らしく、身近に感じた」というんですね。「雲の上の人でなくて、 親鸞聖人様が自分と同じ人間であった」ということなんでしょうかね。
 
金光:  じゃ、ご自分が随分ご苦労されてきているから、そういう気持をもっている方が、 歎異抄を読むと、ああ、自分のことが、この方はよく分かっていらっしゃる方だ、 と。或いは、自分と同じようなところがある、と。
 
中村:  母親に対して鬼のような親だと、親鸞様は思わなかったでしょうが、親鸞聖人様 が、親のために念仏を一度申したことはない。あの段になった時は、とっても堪 らなかったそうですね。母は、それから、どなたかに、「あなたの宗教は?」と聞 かれますと、「私は、親鸞さまご一人です」と、はっきり言える人でした。それが 非常に誤解を受けまして、「不遜だ」とか、いろいろ非難もされたんですけど、で も親鸞様が大好きでしたね。だからと言って、私に、「歎異抄を読みなさい」とい うことは、一切言いませんでした。
 
金光:  女学校の時ですか、歎異抄をレポートしょうと思ったら、お母様から、「止めなさ い」と言われたですね。
 
中村:  母に止められたんですよ。
 
金光:  あれはどういうことだったんですか。
 
中村:  私は、非常に気性が激しくて、戦争中でしたし、いろいろなことに反発反発があ りました。警察署長しておりました親戚の叔父が言ったんです。高山署長になっ た時に、「お前みたいなことを言っていると、本当なら、特高へひっぱらなけれ ばならない」と、そんな過激な発言をしていたんですよ。考え方が非常に過激だ ったんです。ですから、夏休み宿題に、歎異抄をとるか、二宮尊徳をやるか、ど ちらかのレポートを、ということになって、母に言ったら、母が、「あなたは歎異 抄を読んではいけません。二宮尊徳をやりなさい」と。
 
金光:  歎異抄にそれだけ感激した久子さんが、娘さんには、「あなたは、今はダメだ」と おっしゃった。
 
中村:  「ダメだ。二十歳過ぎてからお読みなさい」と。そして、「あなたの心に、もの凄 く大きな何かがあった時、どうしても、もう自分でどうしようもない時に、心を して歎異抄を開きなさい。それまで読むことはまかりならん」と言われたんです よ。「今のあなたの考え方だったら、歎異抄を読み違います。一生それが付いて廻 るから、読まない方がいい」と。私は、母に言われた通り二十五過ぎまで、歎異 抄を一度も開きませんでした。家の仏壇の前にもありましたが。 友だちが亡くなって、どうしようもない時に、歎異抄を開いた んです。その時に、ほんとに母と同じように泣けて、「親にた めに」というところから、「有縁(うえん)の」ところを読んだ時は、そ うだったんだ、と思いましたね。良かったと思いました。後で、 いろいろな先生方が、「富子さん、歎異抄の読み方をお母さん がしっかり教えて下さって良かったね」と言われたんですよ。
 
金光:  お母様の久子さんは、歎異抄を自分で写していらっしゃいます ね。
 
中村:  これは、昭和二十年です。日本が戦争に負けるというような前 提がありましたね。その時に、母が、「母さんは、これで死ぬ かも知れない。最後の思い出に、何が一番大事だか、と考えた ら、歎異抄だから、歎異抄を書きます」と言って、昭和二十年 二月から書き始めたんですよ。高山は寒いでしょう。家の火鉢 のところに硯を載せて、そして書いたんです。毎日少しずつ。「自分が死ぬ時は、 歎異抄とともに死にたい」と。それほど母の心を揺さぶったんですね。
 
金光:  『歎異抄』の第五章に、
 
親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一遍(いっぺん)にても念仏もうしたること、いまだ そうらわず
 
と。それで感激されたんですね。
 
中村:  ですから、私、口幅ったいようですが、いろいろな先生方がいらして、いろいろ な歎異抄を書いて訳して下さる。でも、母ほど歎異抄を自分のものにした人はい ないんじゃないかなあ、と思いますね。それだけ幸せだった、と思いますね。
 
金光:  だからと言って、「歎異抄はこうこうなのよ」と、一々その説明はなさらなかった んですね。
 
中村:  はい。「出来るだけ本を読みなさい」ということですね。それで、「原文で読みな さい」と。
 
金光:  それと同時に、それだけ歎異抄に打ち込んでいらっしゃる方の日常の言動とか、 言葉とか動作の影響の方が、むしろ大きいかも知れませんね。頭で本を読んで、 「これはこうだからこうだ」と、自分で思うのよりも、歎異抄のような本は、そ の時その時、自分の心境次第で、また違った味わいも受け取れるものでしょうか ら。
 
中村:  だから、私は暗記はしない。自分でなんかどうしようもない時に、仏壇の前で、 パッと歎異抄を開く。どこでもいいんです。何章でもいい。読むと、心が休める んですよ。私の読み方は、そんな読み方しています。昭和十二年は、母にとって は、三河西端に、蓮如忌がありました。そこの蓮如忌のお祀りは大きいですよ。 その時、興行で行きました時に、伊藤証信(しょうしん)先生ご夫妻にお目にかかった。伊藤先 生ご夫妻が、母のためにいろいろな方を引き合わせて下さった。そして、暁烏(あけがらす)先 生もそうでした。
 
金光:  暁烏敏さんですね。
 
中村:  そうです。それから金子大栄(だいえい)先生、曽我量深(そがりょうじん)先生も、全部伊藤先生の引き合わせ でいらっしゃった。そして、奥様の朝子(あさこ)様は非常に活発な人ですから、奥むめお さんだとか、平塚雷鳥さんという方たちにも母を引き合わせて下さった。だから 非常に人脈が広くなりましたね。その方たちが素晴らしい超一流の人だったもの ですから、いろいろなことを教えて頂いた。そして、私も、母がそういう方とお 知り合いになれたお陰で、超一流の方とお付き合いが出来た。それが普通の方だ と思っていたら、大きな間違いなんですが、自分では一緒に考えちゃう。その時 だって、お返事も書けないで、「忙しいから」と言って母から叱られたことを思っ たんですね。平塚先生も山田無文老師さまも、私のような者がお手紙差し上げた ら、すぐお返事下さったんです。途中半端な人は、絶対にお返事も無いし、何も ない。超一流という人は、忙しいにも関わらず、こんな私までにも、こんな丁寧 なお手紙お返事下さるんだなあ、と知ったら、やっぱり私は書かなければいけな いんだなあ、ということを思いましたね。
 
金光:  昭和十七年に興行の方をお止めになった。その頃ですね、義足が履けなくなった のは。それでその後、講演なんかでお参りになることが多くなって、さっき写真 がありましたように、負んぶして、当然、お母様のお話をお聞きになったわけで しょう。ご自分のご苦労の話というのが多かった?
 
中村:  多かったと思います。でも、私には聞かないで欲しいみたいな思いがあったんで しょうか。講演する間は、私は控え室で殆どおりました。
 
金光:  そうですか。自分の苦労話は、娘には聞かせたくない。聞かなくてもよろしい、 という。
 
中村:  よろしい、ということだったんでしょうかね。ですから、私は、他人(ひと)から言われ て困ることは、「お母さん、こういう時にどうなさいました?」「ああなさいまし た?」と聞かれても、全然説明出来ないんですよ。「あんた、側に居たんでしょう。 見ていたんでしょう」というけど、日常やっていることは、普通の人と同じです から、奇異の目で見ていないですよ。だから、流れ作業みたいなもので、私が、 お勝手へ入る時は、母の後ろから一緒に入る。母が、包丁挟んで、トントントン トン切りますね。その時に、私も一緒になって、トントン切ります。「富子、それ はね、キュウリ揉みにしては、切り方が厚すぎる」とか、「千切りにするには、ち ょっと細くなさ過ぎる」とか、「きんぴら牛蒡にはもう少し」っていうような、 
 
金光:  両手がある娘さんの方が窘(たしな)められる。
 
中村:  教えられましたね。ですから、母の後ろにくっついてさえ歩けばいいくらいな思 いしかなかったんです。特に便所掃除なんかは非常にうるさかったです。膝で歩 きますので、普通の人よりか、便所を綺麗でないと困るでしょう。母は、便所掃 除は、子どもの時分から、私たちにも一緒にしてくれましたのです。私のところ で一番綺麗な雑巾は、便所の雑巾です。
 
金光:  ほー。
 
中村:  真っ白です。何故というと、これは私の考えなんですけど、母が口で絞るんです よ、雑巾を。
 
金光:  なるほど。
 
中村:  口にくわえて、両方の腕の手で、グッと力を入れて絞る。それは、私たちが絞っ たよりか、もっと固く絞れているんです、子どもの時分にね。その雑巾を折りま して、ちゃんとね。そして右肘の先で雑巾を押させ付けて拭くんですよ。そして、 また雑巾をバケツに入れて、拾い上げて、私たちが手で揉むみたいにして、両方 の肘で揉んで絞る。ですから、母が、便所を汚いと言っても、雑巾を口で絞る母 を見ていたら、私は、今でも手袋をはめて掃除は出来ないんです。それは私の思 いなんですね。母が口でやった。誰が、「便所掃除を汚い」とか、「雑巾が汚い」 と言ったんだろうと思いますね。だから、一番新しい真っ白なタオルで、母は、 雑巾でもペラペラしたものではなくて、「きちんと自分の手に 合わせて、縫いなさい」と。「その方がいい」と言いましたね。 家では、全部雑巾が、私の手に合わせて、三つに折ったものも あれば、二つ折り、四つ折りで、こういうふうに雑巾が縫って あるんです。
 
金光:  「掃除し易いような形に縫って置きなさい」と。
 
中村:  だから、「富子、雑巾縫ってあるね」と言われるんです。縫ったのが全部置いてあ るんです。
 
金光:  余所の人が来て。なるほど。
 
中村:  はい。だからこの前も間違えられた方は、家ではちょうど母の顔を洗うのに合わ せて洗面台が低いです。私たちが膝で歩いてちょうどいい位です。それでその下 に便所の雑巾とバケツ入れてあるんです。バケツのところに雑巾を掛けて置きま す。こっちから見ると雑巾が見えるんですよ。この前に来たお客さまがお茶を零 されて、アッと言って、パッとそれを見たら、真っ白なものですから、雑巾もっ てお膳の上を拭いた。「それ便所の─」と言った時は、もう間に合わなかったんで す(笑い)。「便所の雑巾で、綺麗だね」とおっしゃったから、「家中で一番綺麗 なのは、便所の雑巾だ」と笑ったんですけどね。でも、母が大きく変わったのは、 やっぱり歎異抄に出逢い、いろいろな先生に出会い、それまでは興行の世界が嫌 いで嫌いでしかたがなかった。この世界から出たい。それが変わりまして、この 世界があればこそ、私は生きられたんだ。感謝出来るようになった。そうしまし たら、「今まで出たいからと思っていたるつぼ≠ェるつぼ≠ナなくなった」と 言うんですね。それまで、「無い」と言って悲しんでいたんですよ。「手も無い。 足も無い。金も無い。あれもない」と。それがパッと、「有(あ)る」の世界に、「有(ゆう)」 の世界を生み出したんです。そして、「有る」ということによって、手がここから こっち無いんではない。こっちあるではないか。足も膝から下、無いんではない。 下から上あるではないか、と。「有る」の世界に変わった時に、心が豊かになりま したし、大きくなりましたね。
 
金光:  こんな言葉がありますね。先程挙げられたいろんな先生がお出でになったんです けど、
 
ほんとうの善知識は、先生たちではなく、それは私の体、「手足が無いこ とが善知識」だったのです
 
とおっしゃっていますね。こういうことはなかなか言えませんね。
 
中村:  ですから、「先生が居る、居ないでなくて、私をこれだけに持ち上げて、みなさん と一緒の生活をさせて頂いたのは、この体が、手足が無い体なればこそ、みなさ んが大事にして下さる。手足がなかったから、素晴らしい先生のお話を聞かせて 頂いたり、お教えを頂くことが出来た」と。だから、自分でこの体を喜ばなけれ ばならない。今ならリストラにあって、どん底に置かれた人でも、その中に自分 の生きる道を見えだして欲しい。
金光:  こちらにあるこの色紙、
 
わが魂をかきいだきつつけふもまた
          果てなん道をひとりあゆみぬ
 
やっぱり「わが魂」いろんな周りが渦巻いている中で、そうい う思いを抱かれたこともあるわけですね。やっぱり「わが魂を かきいだきつつ」というのは、他にもありますね。
 
中村:  自分の心は、自分しか掴めないですよ。どなたにどう言われても。だから私たち にも、「自分を見捨てたら、何も無くなる。だから、この世の中で一番大切なのは、 一番愛(いと)おしまなければならないのは、自分だ」と言ってくれましたね。「自分を愛 せなくて、自分を愛おしみなくて、誰が他人を愛し、愛おしむことが出来ますか」 と言って、「自分を大事に大事にして欲しい」ということをずうっと言いました ね。母が、辛かったのは、手が無くて、合掌が出来ない、ということだったんで すよ。だから、よく言ったんですよ。「合掌の出来るのは人間だけだ」と。「いく ら猿が利口でも、像が利口でも、手を合わせて拝む、ということは出来ない。拝 む姿は、この世で一番美しく貴い姿だのに、手の無い私がその拝む姿が出来ない。 だから、あなたは自分の手の中に、お母さんの思いを込めて合掌して欲しい」と 言われました。私は、それが出来なかったですよ。「変なこと、お母さん言って」 と思っていた。母が亡くなった時、仏壇の前で、初めて自分の手を見て、しっか りと合わせることが出来たんです。生きている間に、私の真剣な合掌の姿を見せ てあげたかったなあ、と今でも思いますね。「一番美しい姿は、合掌の姿である。 それが出来るのは、人間のみに与えられた」と言った母の言葉が、痛切に思い出 されます。大事だったんだなあ、と思うんですよ。なんでも、親が死んで、初め ていろんなことが分かるんですね。大切なことが。ですから、私は、若い人たち にも、「手を合わせて下さいね」と。合掌は、何も仏教のものだけではないですよ。 どんな場合でも、人間知らず知らずのうちに、手を合わせますね。クリスチャン の人でも、どんな宗教の人でも必ず手を合わせる。無神論者の人でも、何かの時 にパッと手を合わせる。だから、私は、この頃しみじみと、フッと夜仏壇の前で 手を合わせることがあるんですよ。母が居たら、この姿を母さんが見たら、「遅い けど、まあいいか」と言って笑っているんじゃないかなあ、と思うんですけどね。
 
金光:  お話を伺っていますと、滅多にないお母様に滅多にない教育を受けられたお嬢様 のお話を聞かせて頂いたということでございます。ほんとに今日はどうも有り難 うございました。
 
中村:  失礼致しました。
 
 
     これは、平成十四年二月三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである