生命を書く「福を得ること限りなし」―白隠・仙香\
 
               エディトリアル・ディレクター  松 岡(まつおか)  正 剛(せいごう)
一九四四年(昭和一九年)、京都市出まれ。編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、株式会社松岡正剛事務所代表取締役、編集工学研究所所長、ISIS編集学校校長、連志連衆會理事。
               画   家       須 田(すだ)  剋 太(こくた)
一九○六年、埼玉県生まれ。洋画家。当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、一九四九年以降抽象画へと進む。力強い奔放なタッチが特徴。司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく』の挿絵を担当、また取材旅行にも同行した。道元禅の世界を愛した。
               聖福寺住職       山 岸(やまぎし)  善 来(ぜんらい)
 
ナレーター:  江戸に幕府が開かれて百年あまり、太平を謳歌する世に禅を甦らせようと過酷な試練に挑んだ二人の禅僧が現れました。沼津松陰寺(しょういんじ)の白隠(はくいん)(白隠慧鶴(えかく):臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧:1686-1769)と博多聖福寺(しょうふくじ)の仙(せんがい)(仙豪`梵(ぎぼん):江戸時代後期の臨済宗妙心寺派の禅僧:1750-1837)です。彼らは、幕府や中央の権威からの富や地位を一切拒絶し、ただひたすらに庶民を救うことを願い、厳しい修行に打ち込みました。常に庶民の中に暮らし、庶民と苦楽を共にしながら悟りの境地をさらに深めていったのです。白隠と仙香A二人は庶民に禅を広めるために多くの書画を書き残しました。
 
白隠「無」
この一語に集中した白隠の渾身の力。
 
 
 
 
 
 
 
「○△□」
仙高ヘ、ここに何を示そうとしたのか。
意味はわからなくても見る人の心に軽(かろ)やかな清々(すがすが)しい風を送る込んでくれます。
 
 
 
 
 
 
「円相図(えんそうず)
悟りの境地を端的に表現する「円」。
この円はゼロであり、無です。
白隠は無においてさえも豊かに充実しています。
仙高ノは余白が目立ちます。円相でさえ完結していません。しかしその余白によって心と心が自由に通い合える。
 
 
 
 
 
 
 
白隠は、臨済禅(りんざいぜん)中興(ちゅうこう)の祖と仰がれています。
仙高ヘ、日本最初の禅道場を復興させた祖として慕われています。
白隠と仙香B対照的な生き方にも関わらず、二人が根を下ろしたのは同じ庶民の心でした。「駿河(するが)には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」。駿河で古くから歌われている童歌(わらべうた)です。白隠は貞享(じょうきょう)二年(1685年)、駿河の国、原宿―現在の沼津市原に生まれました。生家は東海道に面した脇本陣でした。白隠は幼い頃から仏の教えに親しみ、十五歳でこの松蔭寺で出家しました。自ら彫ったとも伝えられるこの像に伺えるように、白隠は、「虎視牛行(こしぎゅうこう)」つまり虎の如き目つきで牛の歩みのようにゆったり歩いた、と記されています。
 
松岡正剛さんは、東西の思想に通じ、仏教の研究の中で、白隠、仙高ノ出会いました。白隠は、村芝居や説法によって、幼心(おさなごころ)に地獄の恐ろしさと苦しみを焼き付けられました。どうしたら地獄に堕(お)ちずに済むのか、白隠の懸命の修行が始まります。十九歳から諸国行脚(あんぎゃ)の旅に出ました。やがて白隠は、故郷の荒れ果てていた松蔭寺に戻ってきます。以後富士山と向かい合った坐禅修行を、八十四歳で亡くなるまで続けました。白隠の元には、多くの修行者が集まって来ました。しかしあまりの厳しさに、若くして命を失った僧たちの墓が、白隠の墓を取り囲んでいます。白隠は、庶民に易しく仏の道を語り、禅をすれば「福を得ること限りなし」と説きました。そして気安く話をしに出掛け、その場で教えを書いては与えました。松蔭寺にも、白隠の書画が多く残されています。
 
 
白隠「名号(みょうごう)
 
白隠「常念観世音菩薩」
常に観世音菩薩に念ず
     
 
 
 
白隠「南無地獄大菩薩」
【この南無の後に地獄を続けた意味。そこには地獄こそ菩薩、つまり地獄も極楽も表裏一体であったことが説かれている】
白隠は、信心する気持ちの大切さを繰り返し説いています。
白隠は、庶民がそれぞれの職業において信心し、己とは何かを追求する工夫を求めました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
松岡:  元禄(げんろく)からちょうど白隠さんの時代が始まるわけですけれども、元禄というのは、大変消費生活が華々しい時代で、従って非常にインフレーション(inflation:経済学においてモノやサービスの全体の価格レベル、すなわち物価が、ある期間において持続的に上昇する経済現象である)になるわけですね。民情が不安定になって、赤穂浪士の騒ぎなんかあるわけですけれども、農民一揆(いっき)も大変多くて、ある意味では、政情が安定しなくて、民衆たちが非常に不安をもっていた。疫病も流行(はや)りますし、経済的には安定しないというようなことで、ただ一方で元禄の町民文化のようなものが勃興(ぼっこう)するように、不安の中でそれぞれの人々が語り合って、いろんなものを伝え合わないといられなかった時期と言えると思うんですね。そういうような中で禅が果たした役割というのが大変大きい。白隠もそうですが、大変諸国を歩かれて、いろんな人たちとコミュニケーションする、語り合う。それから教化をするというようなことが望まれていた時代だ、というふうにも言えると思うんですね。
 

ナレーター: 
白隠「親」
賛に「孝行するほど子孫も繁盛
親は浮き世の福田じゃ」
 
 
 
 
 
白隠「暫時不在 如同死人」暫時(ざんじ)も在(あ)らざれば、死人に同じ如し
唐の禅僧の一句です。
【たとえわづかな間、一刻、一秒であっても自己が無いならば死んだ人間と同じである、どれだけ長生きしても人間としての確信のある行いが出来ねば駄目である、だから一日でも良い心をすえて尊い一日を生きる事である。厳頭和尚(唐時代の僧)】
 
白隠「一鏃破三関」一鏃(いちぞく)三関(さんかん)を破(は)
一本の矢で三重の関門を打ち抜く。つまり迷いの重なった問題を一言で解いてみろ、という禅問答の一句です。【碧巌録第五十六則欽山の関中の主】
 
 
 
 
 
 
 
 

 
須田:  これは白隠の偈(げ)(万法帰一一帰何処、相対差別即絶対平等)なんです、これね。それは気に入っているんでね、これは「一」という字を書いて、普通漢字の中で、「一」「二」というのは、画数の少ない字ですから、それは書家はあまり書かないんで、私はこれを書いてみたんですね。禅の極地ですよ。私は、白隠にどうして魅力を感じたかというと、白隠にはちょっと他にないものがある。そのないものというのは何かというと、嬰亥性(えいがいせい)ということがある。嬰亥性(えいがいせい)というのは、嬰児(えいじ)という幼心(おさなごころ)ですね。チャイルド(child)と言っていますね。だから線が子どもの線なんですね。その嬰亥性(えいがいせい)というのは、人間が四、五歳頃まで出て、大概それは消失してしまうんですわ、普通の人は。ところがこの白隠とか、良寛というのは、最後までこの嬰亥性(えいがいせい)が消失しなかった人だ、と思うんですね。人間というのは、どんな意味でも我欲(がよく)というものは取れないですね。自分は可愛い、自分を主にする。自分が誉められたら喜ぶという。これが取れる筈がないんですがね。ところがこの我欲というものは、どっちかと言えば、エゴイズム(egoism)ですが、いわゆる自分勝手な、自分に都合さえ良ければいいというものなんですが、ところがこの我欲というものを、絶対的自覚というものに変革してしまわない限りは、なかなか人間が本来のものに還れないですよ。そういう単なるエゴイズムでなく、何か絶対的なものをもっているという。だからそういう嬰亥性(えいがいせい)と、その二つがくっついているんですからね、大変な魅力ですね。
 

 
ナレーター: 
白隠「道中工夫勝静中百千億倍」道中(どうちゅう)の工夫、静中(じょうちゅう)に勝(まさ)ること百千億倍
 
大きな寺の奥で、高邁(こうまい)な法を説いたり、人里離れた山中で孤高(ここう)の坐禅を組むより、庶民の中で生活し、修行を積むことを実践した白隠にして、初めて書ける言葉です。
 
修行を終わった釈迦を描いた白隠の「出山(しゅつざん)釈迦図」。
伸び放題の髪や髭がほつれ巻き込んだ様子を、一本一本克明に描き込んでいます。長く尖った爪は、六年間の歳月を物語っています。浮き上がった肋骨(あばらぼね)、落ち窪んだ鳩尾(みぞおち)、白隠は凄まじい姿をそのままに描き出したのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
白隠「金棒図」
白隠は、この「金棒」に、「此(この)わろを恐るる人は極楽へ」と添え書きをしています。八十三歳になっても、白隠の心には、地獄の恐ろしさが去来していたのでしょうか。
 
 
 
白隠は「秋葉山大権現(あきばさんだいごんげん)の名を多く書き残しています。遠江国(とおとうみのくに)(日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する)秋葉山に火防(ひぶせ)の神として祀られています。白い狐に乗り、神通自在の力を発揮すると信心されてきました。(秋葉山は、静岡県浜松市天竜区春野町領家に位置し赤石山脈の南端を占める標高866mの山である)
 

 
松岡:  白隠が好んで書くものに、「秋葉大権現」や、それから「白衣(びゃくえ)観音」、あるいは「七福神」なんていうのがあるわけですね。その七福神の絵も「寿」という字が、宝船になっていて、その向こうにたくさんの七福神がいるんですけれども、大変一人ひとりが楽しそうな顔をしている。しかも寿老人(じゅろうじん)とか布袋(ほてい)さんとかが、普通これまで重視してきたイコン(広義には聖画像一般を指し、狭義には東方教会における聖画を指す、と整理されることがある)とは違うんですね。むしろ民間に親しまれたイコンというか、仏さんと言いますか、そういうものを描いていったわけですけども、それはかつてそんなにはなかったことですね。それがある意味で、庶民が愛しているものを通じて、禅が説けるんだという、そういう新しい自信を白隠がもったせいだと思うんですね。やはりそういう強い自信がないと、それは奇妙な神仏を描いて、禅を伝えることはできなかったと思うんですけども、極端に言えば石ころ一つ描いても、禅が伝えられるという自信があったせいではないかな、と思います。
 
ナレーター:  白隠は、多くの達磨(だるま)を描いています。人間の心の奥を見通す達磨大師の目は、気迫に充ち、晩年になるほど鋭さを増していくのです。
 
 

 
須田:  芸術の場合に、二つあるじゃないかと思う。それは一つは、典型論ですね。典型論というのは、誰が見ても優等生的な意味の、いわゆる上手であるという、上手いという。そういうふうにすべて進めていく。それで線もアダルト(adult:大人、成人)であって、それで完全だ、というような典型論と、もう一つは、優等生ではなくて、むしろ落第生ですね。下手であると。その下手なのは、実は本質的には、それが根源的なものをもっているんだけど、そういう二つあると思う。下手であるけれども、その下手の中にこそかえって一つの違いが出ている。その違いは均一でない。優等生のは全部均一になっちゃう。みんな同じような感じになるんです。ところがいわゆるチャイルド(child:子供、幼児)の方は,ほんとに一つひとつが興味ある一つの存在であるという。つまり違いなんですね。で、違っているって、それはもうただ肩肘を張っているものじゃダメだけどね。その違いが、我々に魅力を与えないと、その線一つ見ても、命が縮まるように感動しちゃったとかという違いでないとダメでしょう。我々がそれを引くと、それは力んでいるのが見えちゃったら醜い限りです。ところが白隠が引くと、サッと抜けている、どっかで。素朴な、稚拙な。そう思いますね。
 

 
ナレーター:  白隠「本来無一物(ほんらいむいちもつ)
【本来無一物とは読んで字のごとく、本来執すべき一物も無い、何も無い、一切空であり、絶対無であることを意味する。分別相対的な観念を全くはさまない世界なのである。本来の心、仏性にはもとより塵や埃はないではないか。何事にもとらわれない、「空」や「無」と云う悟りさえとらわれないところであるから、煩悩妄想の起きようもないというところの心境をいう。さらに無一物の境地は、万法に広がる世界であり、限りないものがあり、そのままが「無一物中、無尽蔵」の世界なのである】
 
白隠「東山水上行」東山(とうざん)水上(すいじょう)を行く
仏の悟りは、人の分別を超えたところにある、と諭した禅の言葉です。
【雲門文堰(ぶんえん)禅師の言葉:私どもは常に、一般的に抱く常識的、相対的認識の世界にあって、動とか静、善とか悪、生とか死、苦とか楽などの二相に分別しているから、その分別妄想を起こし、執着し、迷いあるいは苦しみ、業を重ねているものである。そういう二元対立、二相分別の観念を打ち砕き、私どもの常の概念とする常識や理屈の殻を突き破らしめる教え。是非、善悪、愛憎、動静の分別を起こさず、山と静とを対比せず、山は山そのもの姿を見、水は水の姿そのものを見れば、動、不動の分別二相の発想は起こらない。あるいは自らが山になりきり、また水そのものになりきっての、純粋認識である。そこに諸仏の無碍自在の境地がある、の意】
 
白隠の名声が、全国から多くの修行者を沼津に集めていた頃、東海道を下る一人の若い修行僧がいました。彼は、白隠の道場を素通りして、横浜へと急ぎました。仙高ナす。彼は白隠より六十五年も後に生まれているにも関わらず、少年期から青年期までのことはほとんどわかりません。仙高ヘ、横浜の東輝庵(とうきあん)にいた月船(げっせん)和尚のもとで、十三年間修行しています。しかし月船が亡くなると、仙高フその後の足取りも、四十歳近くまでわからなくなってしまいます。しかし仙高ェ血を滲むような修行を積んだことは、その後の生き方から推定されます。
 
「馬祖(ばそ)
唐の禅僧馬祖(ばそ)の一喝(いっかつ)。弟子は、三日間耳が聞こえなくなったと伝えられます。
 
仙香u臨済(りんざい)」賛に「打爺拳子」
同じく唐の臨済(りんざい)は、悟りを開くと、師に感謝の一撃を食らわした名僧です。
 
 
 
 
 
 
福岡市博多の聖福寺は、「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)つまり日本で初めての禅道場という額を皇室から賜った由緒ある禅寺です。鎌倉時代栄西(えいさい)禅師が、中国で禅を学び、日本に帰って最初に禅宗を開いたのがこの寺だったからです。仙高ェこの寺に招かれて来たのは、天明(てんめい)八年(1788年)仙克O十九歳の時です。以来八十八歳で世を去るまで、仙高ヘ五十年近くをこの寺で過ごしたのです。仙高ヘ、栄西禅師以来の「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」の復興に心血を注ぎました。山岸老師は、体格風貌とも仙高ノ生き写しだと、地元では評判になっています。
 

松岡:  これが有名な仙腰a尚の「鶴亀」ですね。これはおいくつぐらいの時のでしょうかね。
 
山岸:  顔の形から見て、五十三歳前後ということははっきりするし、今もそうですが、貧乏寺なものですから、これはお布施の紙五十三枚継ぎ足して描いているわけですな。
 
松岡:  この亀も鶴も眼が生き生きしていますね。
 
山岸:  ええ。江戸中期には鶴亀は、お目出度いというんで、たくさん描かれています。みんな抽象化しちゃっていますが、仙腰a尚は、円山派円山応挙(まるやまおうきょ)(江戸時代中期の絵師:1733-1795)を勉強していますから、ほんとに写実的なんですね。特に鶴の眼を見てください。ほんとに鳥の目でしょう。亀の目玉(めんたま)は爬虫類(はちゅうるい)の眼ですわ。同じ筆一本で区別を描きだしている。これはもう大したものですね。ピカソあたりは度肝(どぎも)を抜いたというのもわかりますね。
【賛の一部には、世の中の画は美人のようなもので、人が見て笑うことを憎むが、私の画は戯れ者のようなものなので、人が見て笑ってくれるのを愛するのだ、という意味の文章が書かれている】
 
松岡:  仙高ウんが、ここに迎えられたかというのは、よほど人物というか、人望を聞いている人がいて、名高かったというか、噂が高かったんでしょうかね。
 
山岸:  一つは、私が見るのでは、天明の飢饉の最中に、東北地方であの通り餓死が出ているのに、六年間行脚しています。これは大変なことだ。自殺行為だったと思うんですね。その難行苦行をした仙高、周りの者が、せっかくあれだけの人物が、もうやけパッチになって死なしちゃ勿体ないというので、それで無理にここへ連れて来たんじゃないかと思う。そういう因縁はあったと思いますね。
 

 
ナレーター:  仙高ヘ、寛延(かんえん)三年(1750年)、美濃国(みののくに)(現在の岐阜県)武儀郡(むぎぐん)に生まれました。父は、小作人の雇われをしていたとされますが、かなり貧しかったようです。仙高フ出家も口減らしのためという説もあります。仙高ヘ、横浜での修行の後、故郷へ帰って来ます。しかし美濃の藩は乱れ、藩政が猫の目のように変わるので、農民は苦しんでいました。仙高ヘ、「よかろうと思う家老は悪かろう もとの家老がやはりよかろう」と、諷刺の歌を流し、藩の怒りに触れて追放されてしまいます。しかし仙高ヘ負けていません。「から傘を広げてみれば天(あま)が下、たとえ降るとも蓑(みの)は頼まじ」。仙高ヘ、生涯故郷を捨ててしまいました。仙高ヘ、軽妙洒脱で、機知に富んだユーモアを存分に発揮し、しかもその教えをきちんと庶民の心に植え付けていったのです。博多の一休と慕われ、その名声は江戸にまで及びました。仙高ヘ、宿願の全伽藍の修復を、幕府や中央の権威に力を借りず、庶民の力で成し遂げました。還暦を一年過ぎた仙高ヘ、聖福寺を弟子に譲りました。そして寺の一隅に自らの設計で、この仙酷ーを建て、隠居生活に入りました。この建物は、今でも仙高ェ暮らしていた通り、そのままに保存されています。仙高ヘ、ここで心置きなく書画三昧に入ったのです。仙高ヘ、「自らの書画は無法の法だ」と記しています。禅そのものが無法の法と言いますが、仙高ヘ、絵描きがとらわれている手本や様式をすべて捨て去り、思うがままに自由に描いたと自負しています。仙高ヘ、求められるままに誰にでも書き与えていましたが、あまりの多さに閉口して、ついに八十二歳の時、絶筆宣言とも言えるこの筆捨塚(ふですてづか)を建てました。「墨染めの袖の湊に筆棄(す)てて書きにし愧(はじ)をさらす波風」。ところが仙高ヘ八十八歳で亡くなるまで書き続けています。筆捨塚を写した絵さえ多く残されているんです。やはり求められると断れない仙高ナした。
 

 
松岡:  これは有名な「三福神」ですね。
 
山岸:  この賛は、「三福を一福にして大福茶」という、この「大」という字。よく見て頂くと、先ほどから言っている仙腰a尚の一番大事な目ですね。この眼を見てください。この寿老人(じゅろうじん)の眼などは怒っている眼ですわ。まして鯛は怨みの眼ですよ。何かというと喜怒安楽を表している。人生あらゆる感情すべてを大事にする。お正月だけがお目出度いんじゃないの。お正月だけがお目出度いと言えば、それこそお目出度い人間になっちゃう。だから本当のお目出度い。仙腰a尚に言わせれば、「死にとうない、死にとうない」と言って、堂々と死んでいった。その尊さを出しちゃっているわけですね。
 
松岡:  これはハッピー(happy)の「福」を、お茶の「一服(いっぷく)」とひっかけてあるわけですね。
 
山岸:  この賛は、これは若い時ですから、非常に楷書体(かいしょたい)に近いです。先ほど鶴亀と同じでね。そしてこの指を筆の穂先一本でサッと書き抜いているということ、これは凄いですね。ピカソも驚いたというのは、こういうところじゃないかと思うんです。しかもこの顔から腹までは、今度は筆の腹で一気に書き下ろしています。これは大変な熟練だと思いますね。
 
松岡:  ほんとに指先と眼が遠方を捉えていますね。
 
山岸:  濃淡を出してね。仙高フ虎は、十点以上見ていますが、これが一番愛嬌があるんですね。この目つきなんか虎の目じゃない。子猫の目ですわ。「猫に竹を添えたら虎だ」と自分で言うていますね。
「放屁(ほうひ)」賛に「屁(へ)なりとて、悪なる物と思うなよ、ぶっと言う字は仏なりけり」というね。「ぶっという」これおならしている格好なんですけども―お正月から早々悪いけども、もう今日は三が日目だから、いい加減にお正月気分も捨てて、ブッと吹っ飛ばせと言いたいところじゃないでしょうかな。「ぶっという字は仏と」おならと仏と一つにした。これは笑い事じゃなくてね、どういうことかというと、お釈迦様の十二月八日のお悟り開かれた「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」という、あの難しい漢文を、身をもって表現した、ということだね。日常生活の、おならで仏に通じた、と。これは凄い見識ですね。
 
松岡:  用意されたものではなくて、その場にあわせて身体が動いちゃう。身体の動くということは、思いもそこに乗っていくということですけれども、その場というものも非常に心居ている。だから今三百年経ってですね、一つひとつの書をただ見ていると、もうわからなくて、大変奔放だと、無垢だというふうに見えますけども―実際にそうなんですけども、その当時例えば白隠やら仙高ェその書を書いた時の状況というか、その場というものがあったと思うんですね。それが例えばお百姓さんが、「和尚さん、一枚書いてよ」と言って来ているかも知れないし、貴族が何か求めたかも知れない。それに応じていつも何かやっているわけですね。だから気に入らない貴族には、なんかわりと難しいことを書いて見せたり、なんか凄くあっけらかんとした庶民に対しては、自分もあっけらかんになれるんで、そういうものを書いているとか、それが瞬間的に出る、そういう力―力というとちょっと変なんですが―自由度という、そういうものをもっていたと思うんです。それが普段から何に対しても身体ごと自由に気が流れていないとできないことだと思うんですね。
 

 
ナレーター: 
    
「坐禅蛙」
賛に「坐禅して人が仏になるならば」
【いつも坐っている蛙だって悟りを開けることになるから、形ばかりを真似ても真実は得られないという教訓です】
 
 
 
 
「堪忍柳」
賛に「気に入らぬ風もあろうに柳かな」
 
 
 
 
 
 
「指月布袋(しげつほてい)
賛に「お月さんいくつ十三七つ」
 
 
 
 
 
 

 
松岡:  白隠が、「此処(ここ)」という。「here」という―「此処(ここ)」ということを非常に重視をしていて、「さあここを見ろ」と。「ここにみんなあるぞ」と。それが一個の達磨さんでも石ころでもいいんですけども、しかし「ここを指差している」と、それをみんながみて面白がるというその強さだと思うんですね。それに対して仙高ヘ、「指月布袋」なんかもそうなんですけども、「向こう」というか、「there」という「あっち」というふうに言っているように思うわけです。ですから白隠がこういうふうにやっている面白さと、それから仙高ェ、「あっち、あっち」と言って、ある意味では誑(たぶら)かしているというか、軽くしているという、そういう何か同じ飄逸ということで、なんかディレクション(direction:方向)がなんか違っていると。やっぱり白隠の生涯を見ても、それからいろんな禅語録を見ても、いろんなところへいくけれども、それが結局原初というものに立ち返りたい。それを知りたいという欲望というか、思いからきているような気がするんですね。それに対して仙高ヘ、自分の生まれ育ったところよりも、自分が求められているところへ行きたいというか、私はそういうふうな印象をもつんですね。
 

 
ナレーター: 
「円相図」
賛に「大虚に投げて捨たる影みれば、思いきりたる秋の夜の月」
 
 
 
 
 
 
白隠「円相図」
遠州浜松良い茶の出どこ娘やりたや伊予茶を摘みに
 
 
 
 
 
 
 
「龍」
是何
曰龍
人大笑 吾亦大笑
(これなんぞ、いわく龍、人大いに笑い、吾もまた大いに笑う)
 
「虎図」の画賛
猫乎(猫か)
虎乎(虎か)
将和唐内乎(まさに和唐内か)
【和唐内は、近松門左衛門の芝居で大活躍する人物である。中国に渡って虎狩りの兵士の一行に出会うと、和唐内は、虎を殺すのではなく、手なずけた。それで、しばしば和唐内は虎を連想させる】
 
白隠「百寿図」
百の寿の字を尊ぶべし、これは妙法蓮華の題。一字一字霊験無比の大陀羅尼、一角一角諸仏無上の金色心、もし人これを敬えば、雷(いかずち)火災まぬがれて、七難滅して七福生ず。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
白隠「柏樹子話有賊機」柏樹子(はくじゅし)の話(わ)に賊機(ぞっき)あり
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「無」
白隠と仙香Bあらゆるもの、あらゆるこだわり、仏さえも捨て去った無の心。そこにはあらゆるものが写し出されています。
 
 
 
 
二人は限りなく豊かな無の心で、庶民と苦楽を共にし、庶民の心に必ず福がやってくることを念じてやみませんでした。白隠と仙高フ生涯とその書は、現代において一層輝きを増しています。いのちあるものをすべて等しく尊び、奉仕した無私の心こそが、永遠のいのちを保っているからです。
 
     これは、平成二年一月に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである